そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年
十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。
翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の集団入党のための代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた。
だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキに佇んで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は船中から海に投じ、或者は復員列車から転落し、また或者は自宅で縊死をとげているのだ。
私はこの謎こそ例の誓約書だと信じて、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮び上ってきたのだった。現に内地に帰っているシベリヤ引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。
そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。
彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。
こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即ちソ連のもつ暗さである——と斗う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。
このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると
一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。
二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。
三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。
四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。
五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。
などの状況が判断されるにいたった。