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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 〝朝日の左翼偏向〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。

渡辺誠毅。東大農学部で、農業経済を専攻した昭和十四年入社組。ゾルゲ事件に連坐した田中慎次郎直系ともいうべき経済記者であるが、四十三年暮に、役員になったばかりの、次代の朝日の荷ない手である。

東京編集局長田代喜久雄は、渡辺と同じ十四年卒業だが、他社に一年いたので、入社は昭和十五年。渡辺は、田代が東京の局長になったのよりおくれて、大阪の編集局長となり、役員待遇になったのも、田代よりおくれていたのだが、役員では追越した形となった。そこに、〝広岡体制〟における後継者ともみられる要素がある。

論説委員、調査研究室、総合企画室といったポストを経ており、〝編集一本槍〟ではなく、かつ、原子力をはじめとする科学技術を踏まえた未来学の分野に明るい、といわれているので、大阪編集局長からよびもどされて、役員に列したというあたり、広岡の信任も厚いとみるべきであろう。「視野の広さ、読みの深さ。当代朝日人の中では一流」と、ベタボメする人もいる。

インタビューは二時間半にもおよんだ。渡辺は、滔々と弁じ、諄々と説き、外語を交えては東西に例証を求め、語って倦まなかったのである。ある時には、伝法な新聞記者の姿がのぞき、ある時には学者であり、そして、冷静な〝経営者〟でもあった。非は非としててらうことなく認め、さらに、〝明日の朝日新聞〟のあるべき姿を語るのであった。

朝日はアカくない

朝日新聞は、果して「左翼的偏向」を犯しているのであろうか? 渡辺は、言下に否定した。

「私は朝日の紙面をアカいとは思わない」と。〝朝日はアカい〟という神話はブチこわされねばならないと、私は書いた。その点は意見は一致したのである。

〝朝日がアカい〟という声は、意識的につくられ、流されているというのである。一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。

かつては、マルクス・ボーイであったろう渡辺としては、〝朝日の左翼偏向〟などを肯定し得るものでないことは、理の当然でもあろうが、その偏向非難の声が、「意識的につくられ、意識的に流されている」という見方は、的を射たものというべきである。

「潮」別冊冬季号(四十三年)に、「マスコミに奏でられる〝転向マーチ〟」という、小和田次郎(デスク日記の著者)のレポートがある。

「六八年十月四日、京都で日経連五十嵐事務局長が講演した『安保問題と労働組合』の中で、六

〇年以後、過去九年間のマスコミ工作によって、いまや『朝日、TBS、共同通信』の三社以外は、まったく心配はいらないという、判断が表明されている。残る〝マスコミ偏向トリオ〟に攻撃を集中すればよい、という認識である」

正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田次郎(デスク日記の著者)のレポート

正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」
正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」

「潮」別冊冬季号(四十三年)に、「マスコミに奏でられる〝転向マーチ〟」という、小和田次郎(デスク日記の著者)のレポートがある。
「六八年十月四日、京都で日経連五十嵐事務局長が講演した『安保問題と労働組合』の中で、六

〇年以後、過去九年間のマスコミ工作によって、いまや『朝日、TBS、共同通信』の三社以外は、まったく心配はいらないという、判断が表明されている。残る〝マスコミ偏向トリオ〟に攻撃を集中すればよい、という認識である」

小和田によれば、日経連は〝マスコミ偏向トリオ〟として、その三社の名前をあげているというのであるが、私は改めて〝偏向〟の定義を考えざるを得ない。小和田はいう。

「……このような情勢の中で、日本の新聞、放送は深い〝反省期〟にはいった。

一九六一年六月号の朝日社内報〝朝日人〟のなかで、当時の笠信太郎論説主幹は、『政府と新聞』と題する論文をまとめ、安保報道に対する総括をしている。

……真実を書き、それを国民のまえに明らかにすると、いまの日本の国民はすぐ起ちあがり、大衆運動が盛り上がって、政府・自民党や財界を窮地に追い込んでしまうような危険な情勢であるから、じゅうぶん気をつけなければならないという、『ものの見方考え方』を表明したこの笠論文は、六〇年安保後のマスコミのあり方を理論化したものであった。日本マスコミ界の代表的イデオローグとしての、笠信太郎が指し示したこの道こそ、その後の新聞、放送のたどってきた道であるといえよう。

…〝偏向ご三家〟の最大のマスメディアとよばれる朝日はどうか? 広岡社長は六八年十月十

五日付の朝日に『朝日新聞の姿勢』と題する大論文をのせ、そのなかで『ときおり政府、与党あるいは財界などの一部に、朝日新聞は〈反米〉〈反政府〉だとする声が、底流としてあるように聞く。だが、朝日新聞が、意識的にそうした立場から作られている事実はまったくないし、誤解もはなはだしいという以外にはない』と釈明している、同じ日の朝日社説も『新聞人の責任』と題して偏向問題を重大視し、政財界からの偏向攻撃に対する反論を試みている。朝日が六八年の新聞週間にあたって、社説と社長論文まで掲げてわざわざ『偏向間題』を取り上げて釈明し、反論につとめなければならなかったことは、朝日への偏向攻撃の激しさを示すものである。と同時に、朝日が外部からの偏向攻撃を、それだけ強く意識していることの表明とも受けとれる。

…六〇年安保を機に、目にみえて右傾化していった朝日が、六三年末からのお家騒動を経て、しだいに振り子を、ふたたび元にもどしはじめ〝朝日右翼時代〟とよばれた時代にようやく別れをつげ、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。オーナー村山家との抗争で、広岡現社長らは社員大衆の支持にのって勝利を得たという事情も、その一つの要因と考えられる。

しかし、滔々たるマスコミ反動化シーズンの中で、朝日の振り子が戻るのもみずから限界がある。六八年三月一日付けで、伊藤牧夫社会部長が、西部本社の編集局長(筆者注。局次長の誤まり)に〝栄転〟した背景にも、社会面の安保報道に対する自己規制のあらわれという一面がうかがわ

れた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社会部記者不破哲三

正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。

しかし、滔々たるマスコミ反動化シーズンの中で、朝日の振り子が戻るのもみずから限界がある。六八年三月一日付けで、伊藤牧夫社会部長が、西部本社の編集局長(筆者注。局次長の誤まり)に〝栄転〟した背景にも、社会面の安保報道に対する自己規制のあらわれという一面がうかがわ

れた。反日共系全学連ゲバルトに対しては、徹底的に非難キャンペーンをすることで、〝身のあかし〟をたてようとの配慮も感じられる。いままでは〝進歩的朝日のショーウインドー〟として黙認され、コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた『朝日ジャーナル』の編集方針についても、六九年中には方向転換が行なわれるのではないかと、とりざたされている。

しかし、いずれにしても朝日は六八年秋で朝刊部数五百八十万部を誇り、六九年中には『六百万部の朝日』を実現すべく、隆々たる社業発展のコースを歩んでいる。このため広告界との力関係でも、金融資本や政府権力との力関係でも、相対的ながらもっとも独自性を保持しやすい条件におかれているということができる。それ故にこそ、朝日への偏向攻撃がもっとも激烈をきわめているわけであり、TBS、共同の〝転向〟が進展するなかで、朝日の孤立化は深められ、その相対的主体性が、商業マスコミ本来の体制的本質の陰に喪失してゆく方向は必至であろう」

長い引用ではあったが、渡辺さえも〝左翼偏向とは、意識的デマだ〟と断定する根拠が、〝小和田次郎〟という格好の人物の文章の中にみられたので、とりあげてみた。

一体、偏向とはなにか? 現在の大新聞の中に、その綱領という〝女郎の起請文〟に謳ったような、「中立公正」な立場が、可能なのか、どうか。考えねばならない問題は多いのである。

「偏向報道」というのは、虚報、誤報、歪報のことではない。ところが、現実には「誤報」(虚

報、歪報をも含めて)のことが「偏向報道」とよばれている。〝偏向ご三家〟の元祖である共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。

しかし、小和田は「……真実を書き、それを国民のまえに明らかにすると」という。真実を伝えることと、誤報との関係を明らかにしないで、〝偏向〟という言葉を〝流行にのって〟使っている無神経さである。

私の長い記者生活の体験からいっても、ある現象、ある対象を報道する時、その現象やら対象やらに、好意をもつのと、もたないのとによって、記事からうける印象は、全く別のものになってしまうのである。報道文章の基本型である五つのWと一つのH、これを〝真実〟で充足しながらも、レポーターの主観が、その中に入りこんで、言葉をえらばせるのである。ボキャブラリイが豊富であればあるほど、〝真実〟を書いてなお、〝主観〟をニジませることが可能なのである。

ところが、言葉の貧しい記者では、ウソを書く以外に、〝主観〟を表現できないのである。だから、誤報になるのである。「偏向報道」というのは、「真実を伝え」かつ「客観を装って主観を交え」ることである。なぜ、そのようなことが可能であろうか。盾には両面があるからである。

朝日に関して、〝偏向〟といわれているものの多くが、事実は「誤報」である。小和田が支持 する「伊藤社会部長の西部編集局長への〝栄転〟の背景」というクダリも、局次長とを間違える(前後から判断して校正のミスではないと思う)ほどのズサンさであるから、もっともらしい〝背景〟がありそうに書かれてはいるが、今まで批判してきたように、その代表例「板橋署六人の刑事」にみるように、誤報である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 キャンペーン記事の〝現実〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」「キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、エスカレート」
正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」「キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、エスカレート」

朝日に関して、〝偏向〟といわれているものの多くが、事実は「誤報」である。小和田が支持

する「伊藤社会部長の西部編集局長への〝栄転〟の背景」というクダリも、局次長とを間違える(前後から判断して校正のミスではないと思う)ほどのズサンさであるから、もっともらしい〝背景〟がありそうに書かれてはいるが、今まで批判してきたように、その代表例「板橋署六人の刑事」にみるように、誤報である。

渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」

当時、朝日の紙面は沈滞気味であったので、少し、ハッパをかけようではないか、という声が編集幹部の間に起きてきた。その上意が下達されるや、伊藤社会部長は、得たりや応とばかり、華々しいキャンペーン記事を展開しだしたというのである。部長を補佐するデスク連も、〝沈滞打破〟を金科玉条と心得て、取材記者を叱咤激励するという状況になってきた。

「あなたも経験があると思うが、キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、『そうだろ?そうだろ?』と、エスカレートしてしまい勝ちなものです」

渡辺は、一般論として、キャンペーン記事の〝現実〟をこう説明する。これでみると、やはり、朝日幹部の良識は、偏向と誤報との差違を認識していたということである。

「だから、キャンペーン記事への批判がでてきて、最近ではあまりやっていないでしょう」——とすると、元朝日記者佐藤信の指摘した通り、伊藤の一連のキャンペーンは、〝社内向け〟キャ

ンであるというのも、うなずけるようであった。私の得た印象では、幹部の意のあるところを取り違えた下の者が、とんでもない間違いをしてくれた、しかし、本人は一生懸命なのが認められるから、叱りおく程度ですませた、といった感じであった。人物でなかったというべきか、人を得なかったというべきなのか……。

「朝日ジャーナルは、私も創刊の企画に参画していたので、よく事情は知っているのですが、創刊の趣旨はあんなものではなかった」

渡辺は、質問に応えてさらにつづける。

新聞社の全般的な傾向として、出版局は本流ではないとされ、出版局勤務の社員は編集局へ行きたがる。朝日とて例外ではない。だから、出版局の部長クラス(編集長、デスク)はもちろん、記者とても、ことに、かつて編集局(注。新聞部門はすべて包含されて、こう呼ばれる)に勤務していた者は、なおのこと、〝成績をあげて〟編集へもどりたがるか、ヤル気をなくして出版局に埋もれるかの傾向がある。このような点について、渡辺にただしてみたところ「そうでしょうね」と朝日においても、その傾向がみられることに同意していた。

〝創刊の趣旨はあんなものではなかった〟という趣旨の発言は、渡辺も現在のジャーナルの編集のあり方に、肯定的ではないということである。「もともとは、たとえ儲からなくても、ヒドイ赤字にさえならなければ、新聞社の出す週刊誌らしい、程度の高い理論誌をというネライだっ

たのだが、当事者にしてみれば、返本率だの、採算点だのが示されている以上、〝売れる雑誌〟にしたいと意気込むのは当然でしょう」
小和田は「コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた朝日ジャーナル」と、コマーシャリズムを〝からも〟と二次的な評価をしているのだが、事実は〝売れること〟が、社内的な実情から第一義とされていることが明らかである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 コマーシャリズム第一主義を容認

正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか
正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか

〝創刊の趣旨はあんなものではなかった〟という趣旨の発言は、渡辺も現在のジャーナルの編集のあり方に、肯定的ではないということである。「もともとは、たとえ儲からなくても、ヒドイ赤字にさえならなければ、新聞社の出す週刊誌らしい、程度の高い理論誌をというネライだっ

たのだが、当事者にしてみれば、返本率だの、採算点だのが示されている以上、〝売れる雑誌〟にしたいと意気込むのは当然でしょう」

小和田は「コマーシャリズム上からも商売にプラスしてきた朝日ジャーナル」と、コマーシャリズムを〝からも〟と二次的な評価をしているのだが、事実は〝売れること〟が、社内的な実情から第一義とされていることが明らかである。

振り子はもどる朝日ジャーナル

「……そのため、読者層をハッキリ学生という若い年齢層に限定してしまって、現在のジャーナルの形ができあがってしまった。そのため、売れていることは確かです」

この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか、その言葉にはあえてこだわらず、肯定的であった。

「……しかし、四十三年の後半あたりから、ジャーナルの編集のあり方について、社内からの批

判もあって、だんだん変ってきているハズです」

小和田の見通しは我田引水であった。「いままでは、〝進歩的朝日のショーウインドー〟として黙認され」ていたわけではない。赤字でなければよいというのに、読者にコビて売りまくっていたのであって、〝ショーウインドー〟でもなければ〝黙認〟されていたわけでもない。しかも、編集方針は〝六九年中には方向転換〟どころか、昨年中に〝偏向是正〟へと動きだしていたのである。

「週刊朝日もツライ立場ですな。扇谷時代とまでいわれた、百万部もの独走ぶりからくらべると、雑誌社系の週刊誌などのハサミ打ちにあって、昔日のおもかげはないですよ。だから、何とか窮境を打開しようという当事者のあせりが、御指摘のようなことになるのでしょうな」

私は、週刊朝日が松本清張をハノイに〝本誌特派〟という肩書きを銘打って送りこみながら、その原稿を他紙誌と同時掲載するという醜態を演じたことを、芸能誌や女性誌の〝独占スクープ〟という名の共通ダネになぞらえて笑ったのである。つまり〝本誌特派〟という肩書きの〝売り方〟を問題にしたのであるが、渡辺は、「新聞と違って、出版局の雑誌には、過去のデータからくる〝返本率〟という目安がつきまとう。だからどうしても、担当者は〝売る〟〝部数を伸ばす〟ことが、第一になってしまう」と、その、コマーシャリズム第一主義を容認せざるを得ない、といった口吻であった。