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正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次6~7 1章トビラ

正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)
正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)

6 朝日・毎日の神話喪失

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟/朝日の紙面は信じられない/司法記者の聖域〝特捜 部〟/新聞代の小刻み値上/宅配は必らず崩れる/朝日はアカくない/振り子はもどる朝 日ジャーナル/銀行借入金、ついに百億突破/東京拮抗の毎日人事閥/〝外報の毎日〟はどこへ/はたまた〝外報〟の朝日か

7 ポスト・ショーリキ

「武を……」という遺言/報知、日本テレ、タワーが駄目……/大正力の中の〝父親〟/〝マスコミとしての新聞〟とは

あとがき

1章トビラ 正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の〝商魂士才〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟

すでに、〝地を払ってしまった〟読売精神について、例証を重ねてきたのであるが、これはなにも、読売だけの問題ではない。朝日新聞とて同様である。〝見失なわれた〟大朝日意識について述べよう。

「大朝日意識」なるものは、練習生制度という、特権階級を設けることによって、誇りと自信とをもたしめ、かつ、さらにそれを高給で裏打ちして、半世紀もの長い年月をかけてブレンドしてきた、「士魂商才」の人、村山竜平の芸術品であった。

その意味で、先代の村山竜平という人物は、全く具眼の士であった。貿易商というその職業も、大阪商人としては、明治十二年の当時としてはカッコイイものであったと思われる。「大阪商人が仕事はうまいが教養に欠け、金銭にはさといが品位が落ちるのを感じたからだという。村山自身は伊勢田丸藩の出身で、多少とも学問の素養があったことから、新聞の啓蒙的機能に着眼した」(草柳大蔵)のが、朝日創刊の動機だという。

もとより、新聞はその発生からして、野党精神——反権力の立場をとるのが当然であるが、本質的に「反体制」ではあり得ないのである。五百五十万の部数と四本社一万社員を擁するマスコミである朝日新聞は、体制の内側にあればこそ存在できるからである。

村山竜平の〝商魂士才〟は、三顧の礼をもって津田貞を迎えたのにはじまり、池辺三山、鳥居素川から、知名度の高いのでは、二葉亭四迷、長谷川如是閑、夏目漱石、下村海南、杉村楚人冠といった、そうそうたるメンバーを招いて、論壇を固めた。

近年では、柳田国男、前田多門、笠信太郎、佐々弘雄、嘉治隆一らを、論説委員として迎え、朝日のクオリティペーパーとしての伝統を築きあげたのである。このように、博く知識を求める一方、大正十二年から、大学卒業生を試験採用して、「練習生」という特権階級をつくり、「大朝日意識」の涵養につとめたのである。このような朝日育ちの論説人には、緒方竹虎、鈴木文史朗、杉村楚人冠、門田勲、荒垣秀雄、森恭三らがおり、先人の衣鉢を継いだのであった。

このように人材を集め、育て得た村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。新聞史をひもとけば、日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。朝日とて例外ではない。

昭和三十年代が、新聞変質の過渡期であったことは、前にも述べたが、新聞の巨大化が進むと 同時に、〝スター記者〟は次第に消えていった。笠信太郎が去り、森恭三が退くとともに、村山竜平の、〝商魂士才〟も、ついに士才を失って、商魂のみが残ることとなった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 村山夫人の命令に動かなかった朝日

正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。

昭和三十年代が、新聞変質の過渡期であったことは、前にも述べたが、新聞の巨大化が進むと

同時に、〝スター記者〟は次第に消えていった。笠信太郎が去り、森恭三が退くとともに、村山竜平の、〝商魂士才〟も、ついに士才を失って、商魂のみが残ることとなった。いうなれば「カッコよさ」だけの新聞になり果てるのである。反権力に加えて、反体制の紙面をつくりはじめる。桶谷の指摘する通り、だから売れるのである。部数が伸びるのである。

だが、これで「大朝日新聞」は安泰であろうか。否。私は否という。

士才——新聞の義務と責任とを忘れて、商魂のみたくましい「カッコよさ」は、僅かに「宅配」制度に支えられているからだ。宅配はやがて変形し、崩壊するからである。カッコイイから朝日を購読している読者は、宅配なればこそ、つなぎとめられる読者である。宅配制度が崩れた時、〝商魂〟の朝日は大きく傾くに違いない。

昭和三十八年十二月二十四日の、第八十九回定時株主総会において、永井大三常務罷免が決った時から、いわゆる〝朝日騒動〟がはじまるのであるが、村山家対会社の紛争は、実はその春、三月二十二日に原因はさかのぼる。

朝日主催のエジプト美術展に、両陛下が鑑賞に見えられるというので、これをお迎えすべく、村山社主夫妻も参列していた。そして陛下のあとに従って館内を進んでいるとき、進みすぎた村山夫人が、後にさがれという指示のつもりの、宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。

激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求したと伝えられている。だが、編集は動かなかった。朝日ばかりではない。他の一般紙もいずれも書かなかった。このとき夫人は、はじめて社主のいうことをきき入れない朝日新聞の存在に気付いたようである。

私も、この事件のウラ側の詳しい話は知らない。しかし、村山夫人の命令に動かなかった朝日の編集幹部は、もし、この事件を報道すれば、誰よりも一番困られ、苦しまれるのは、天皇陛下だということを、よく知っていたからであろう。

天皇陛下をお悩まし申しあげたら朝日は一体どうなるであろうか。二百五十人もの共産党員がいて、日本を共産主義に売り渡そうとして、懸命に世論をリードしようとしている朝日新聞、であったなら、反体制、天皇制批判の絶好のチャンスではなかったか?

天皇を悲しませた朝日——このレッテルが貼られた時、大朝日新聞は、河野一郎亡きあとの〝河野王朝〟よりも急速に、その一世紀の栄光を失うであろう。〝商魂〟の会社側幹部は、それを見通していた。

私物視していた朝日新聞が、自分のいうことをきかなくなっていた、というので、その年の暮から騒動がはじまるのだが、それが、〝私物〟と〝金儲け〟の衝突であってみれば、クオリティ・ペーパーどころか、クオンティ・ペーパーであって、少しも不思議ではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 朝日の自社紙面に対する無責任

正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。

朝日の紙面が、士魂どころか、〝士才〟まで失ってゆく傾向は、四十年一月を例にとっても明らかである。

この一月中に、朝日新聞は十二日間で十六本の記事訂正を行っている。つまり、「訂正」という見出しで、既報の誤まちを訂正する小さな記事が、十六回出たということだ。五日の運動欄を皮切りに、七日付朝刊の三本をトップとして、一日二本が十四日夕刊、十九日朝夕刊の二回。その他、八日、十二日、十五日、二十一日、二十四日、二十六日、二十八日、三十日が各一回宛だ。

このような、連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。だが、この責任をとった編集局長の更迭というニュースは、ついに聞かれなかった。

そればかりではない。朝日の投書欄「声」における、体制批判のニセ投書事件についても、同様に責任は追及されなかった。さる一月二十日、自民党中野区議が、肩書、年齢まで記入して、実名で、内部の腐敗をバクロしたのである。そして、ナントこれがニセ投書であることが明らかになる。当の御本人が、「誰だ、私の名をカタるのは——」と、投書したからである。

同様の例が、七月に入って再び、日大助教授である女性の名をカタって、ウソの内情バクロを行うというケースで発生した。そしてまた、そればかりではない。朝日ジャーナル誌の「読者から」欄でも、大東文化大生と称する匿名の投書(「軍事研究」誌十月号)がウソッパチの限りを書い

たまま活字になったという。

新聞協会の「新聞研究」誌十月号は、これら投書欄の問題を特集しているが、「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、ベストを尽して調査するが、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。同誌の中で、山本明が「徹底的に新聞の責任」とキメつけているのをみても、この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。

自民党区議が党内の腐敗を、日大助教授が学内の非道を、それぞれ実名でバクロするということは、すごく〝カッコイイ〟ことである。だから、軽卒にも高松は飛びついたのであろう。この投書の採否を、高松のような部長経歴のある〝大記者〟はしない、というのであれば、その部下がおもねてやったことに違いない。その記者は社全般の空気と傾向をみてとって、カッコイイ「声」欄を作ろうと迎合したに違いなかろう。

考えてもみたまえ。朝日はカッコよくてすむだろうが、区議としては退職しなくともすむが、自民党は除名され、次回は落選の可能性が強くなる。助教授は退職へと追いこまれるのが当然である。この時に、新聞記者は疑うことが第一だという、イロハすら思い浮ばなかったのであろうか。

可能な限りの調査をした、と高松はいうが、何故、本人に会って確認しないのか。第一、この

二つの投書は、「声」欄どころか、社会面のニュースである。「声」欄に人手がなければ、どうして社会部記者を使わないのか。本人に確認できなければ、何故、掲載日を遅らせないのか。すべてにおいて、何の弁解すら許されない、全くの初歩的なミスを犯して、かつクビになることもなく、平然と新聞協会の座談会に出席する神経? 社内問題である特オチ(大ニュースを自社だけが落すこと)とは、本質的に違う、二人の公人の名誉に関する問題である。この紙面に対する編集局長以下の無責任さ加減は、何を示しているのだろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 新聞の紙面であるという自覚と責任

正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。

可能な限りの調査をした、と高松はいうが、何故、本人に会って確認しないのか。第一、この

二つの投書は、「声」欄どころか、社会面のニュースである。「声」欄に人手がなければ、どうして社会部記者を使わないのか。本人に確認できなければ、何故、掲載日を遅らせないのか。すべてにおいて、何の弁解すら許されない、全くの初歩的なミスを犯して、かつクビになることもなく、平然と新聞協会の座談会に出席する神経? 社内問題である特オチ(大ニュースを自社だけが落すこと)とは、本質的に違う、二人の公人の名誉に関する問題である。この紙面に対する編集局長以下の無責任さ加減は、何を示しているのだろうか。

朝日ジャーナルのケースもまた、同大学学生課長の痛烈なる反ばく文(前出「軍事研究」誌43・10月号)を読めば、匿名希望だというのに、その内容の調査すらしていない。出版局長岡田任雄もまた、進退を考えるべきであった。

朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある(個人的な感慨ではなくて、社会的に影響のある)投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。

「係から——私たちは投書される方を信頼しています。『声』欄が健在であるためには、信頼と責任が必要です。——(一月の事件の時に)係はこう訴えました。——事柄により確認を要する場合は、電話あるいは電報で照会することにしておりました。しかし、また悪質な一人のいたず

ら者のために、——投書の生命である責任と信頼を傷つけたものとして、残念でなりません。

——名誉棄損に該当するばかりでなく、広く基本的人権のじゅうりんであり、『声』欄の読者を侮辱したものと、いわざるを得ません」(43・7・21「声」欄)

署名こそないが、高松のものと思われる、この「係から」の一文をよく読んでみると、「声」欄は朝日と関係のない、独立した印刷物で、何かの同好会の機関紙と同じである。朝日家庭欄の「ひととき」欄の〝発言する主婦グループ〟「草の実会」のニュースと同じ発想である。

大朝日新聞の投書欄という、政治、経済、社会面と質的に匹敵する〝紙面〟が、かくもお遊び精神で作られているとは知らなかった。第一、読まれる程度からいって、社説とどの位違うか、感覚的にも判断され得よう。

「ひととき」欄は、井戸端会議の猥雑さに堪えられなくなった、〝発言趣味〟の女性たちの、身辺雑感のストレス解消の場である。例えてみれば、主婦相手のモーニング・ショーでは成功したかもしれないが、ハプニング・ショーという、悽愴苛烈な現実の社会では、惨めな実力のほどを思い知らされた「木島則夫」ショーのごときものである。それほどの差のある、「ひととき」と「声」なのだ。

ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件

以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 朝日の紙面は信じられない

正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る
正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る

ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件

以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。

「投書の生命」とは、「責任と信頼」、ではない。「声なき民の声」を、マスコミ構成にのせることである。表現媒体をもたぬ個人に場を与えることである。その声の内容が、真実であることである。冒頭の「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。国会の決算委、法務委などの発言すら、恐喝の片棒担ぎに利用される時代に、新聞が謀略や私利私欲に利用されないため、まず疑わねばならないのである。女個人のグチやタメイキとは違うテーマが論じられている欄なのである。

結びの「いずれにせよ、他人の名をかたった卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得るのを、他人事みたいに思っているようである。ニセ投書として知っていて掲載したのだという、〝積極的犯意〟はなくとも「未必の故意」(自分の行為から一定の結果が生ずるであろうことを知り、かつ、これを容認する心理状態)は、新聞という立場から、十分認められるのだ。もちろん、一月の事件の時でも、「この欄の純粋性と使命感をはなはだしく汚損する」という、〝お詫び〟ではなくて〝お叱り〟があっただけである。

朝日ジャーナル誌の投書も同様である。匿名希望で(投書文中に、「氏名、住所を書くこ とだ

けは控えさせて下さい」とある)あればなおのこと、少くとも学校当局に、「皮肉なことに『朝日ジャーナル』すら、白昼公然と読むこともはばからねばならぬほどです」かどうか、確かめるべきである。学生課長は呆れ果てながら、「学内書店でも売ってるし、学生相談室にも備付けているし、図書館には『前衛』まである」と反ばくしている。

朝日の紙面は信じられない

さて、これらの事実から、朝日新聞についてのさまざまな論拠が得られたように私は思う。さきに述べた、一カ月で十六回という訂正記事の件だが、さらに断わり書きをつけ加えるならば、この「訂正」を出した掲載面は、政治、社会、文化、運動、外電、特集と、編集局の各部にわたっているということである。つまり、ここでは「声」欄について相当な紙数を費したのだが、これは「声」だけの問題ではなく、編集局全般についていえることだ、ということである。

社会面についていおう。

例の「板橋署六人の刑事」事件である。さらにまた、「糸川口ケット」「科学研究費」など、伊

藤牧夫社会部長(西部編集局次長)時代の、一連のキャンペーン記事が、読者には眼をみはらされたものである。