正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイ、のことである。複スパイとは、ス
パイを監察するスパイだ。逆スパイと、スパイの逆用との違いは、その取扱法の上で、ハッキリと現われてくる。
普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば、正常スパイ、複スパイ、逆スパイなどは、この取扱法を受ける。二重スパイというのは、二次的な情況だから、もちろん例外である。
奇道である敵スパイ逆用の場合は、次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれで見ても分かる通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは、教育も投入も必要なく、操縦することのみで、最後は、撤収するのではなく、処置(殺す)することである。
正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確固たる精神的根拠、もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのだから、そこには、同志的結合も生じてくる。
逆用工作では、要員の発見は、我が陣営に協力し得る、各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイを見つけ出し、それを懐柔、または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは、まったくないし、操縦者は常に一線を画して、警戒を怠らない。
これが、アメリカの秘密機関の、常道になっているのだから、彼らは、常に猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところが、ラストボロフと、志位正二元少佐との関係をみてみると、そこには、人間的な交情さえ見出されるのである。
正常スパイでは、任務が終われば、味方であり同志であるから、最後に、これを撤収しなければな
らない。逆用スパイの場合は、撤収とはいわずに処置、という。つまり、殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなり、なんらかの処置をしなければならない。鹿地事件の発端は、この処置に失敗したことである。
今村の、読売記事への登場は、なかなかキビシイものであった。紹介には、「元関東軍特務機関員だったが、昭和二十三年暮引き揚げた。特機員なのに、早く引き揚げられたのはオカシイ、として、『彼はスパイだ』という風説もある人だ」とある。
「私は、黒河で終戦になり、直ちにソ軍の取調べを受けたが、人事書類はハルビンにあり黒河にはなにもなかった。それに、通訳の白系露人が好意的だったため、釈放されて、一般の将校の部に編入された。私は、スパイ誓約書は書いていないが、良く知っている」
つまり、私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と思いこんでの質問がつづくのである。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。
こうして、私は、昭和二十五年、原四郎が社会部長になってくる前あたりから、早くもアメリカの秘密機関であったキャノン機関や、ソ連代表部のだれそれが、政治部将校といった、国際的ウラ街道に通じはじめていた。
米占領軍の、日本政府に対するコントロールには、背広を着た二世やら、ニセの二世やらが登場してくる実態。さらには、日本政府に対する、GHQの〝朝令暮改〟が、実は、ウィロビー少将のGⅡ
(幕僚第二部=情報)と、マーカットのGS(民政局)との、根本的な対立にあることなどを、一番、敏感な司法記者クラブ、さらに、国会記者クラブなどで、肌に感じていた。
と同時に、〝消耗品〟の下級将校ではあったが、軍隊体験があったこと。シベリア捕虜に、知ソ派の陸大出の、佐官級将校がいたりした。また当時は、GHQのカゲの勢力であった、旧職業軍人たちの動向にも通じていた。つまり、当時の〈ニュースの中心〉に、私は位置していたのである。