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雑誌『キング』p.122下段 幻兵団の全貌 インテリの弱さを利用

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 下段

装工、厩など)勤務者、さらに、前職者など、各個人の履歴を知っている者、知りやすい状態にある者を選んでいる。

ところが、Ⓑ要員になると、目的が目的なだけに、学歴、職歴を参考として、極めて慎重な態度である。第一は、高商、商大等の英語熟練者をあげている。ついで一般の大学、高専以上の学歴をもつ者で、これは〝死の恐怖〟に当然盲従すると思える、インテリの弱さを利用した感じがあり、従って、幹候出身で軍国主義に固まり切れなかった、中尉以下の下級将校に多い。

次は職歴によるもので、原職が米軍の情報を少しでもつかめる立場にあるもの、すなわち官吏、鉄道、新聞通信などのジャーナリスト、外国商社と関係ある大会社員などである。これは前項の学歴によるものと一致する場合が多い。

その三は、名門、金持ちなど、主として社会的地位のある者。これらの者は、やはり米軍に接触する機会が多いし、また日本の支配階級とも連絡があるので、これをしっかりと握ろうとした。したがって、元華族、元将官級の子弟などは、ほとんど含まれている。

その四は、参謀系統の高級将校と、情報系統の将校で、これはその経歴と体験とを生かそうと狙ったらしい。そのため、一万名の将校を収容していたエラブカ収容所などが問題となって

編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則

編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則 平成11年(1999)8月19日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.02.26)
編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則 平成11年(1999)8月19日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.02.26)

■□■適者生存の原則■□■第25回■□■ 平成11年(1999)8月19日

この8月15日の終戦記念日を中心としたお盆休みの間中、私は新聞6紙に釘付けにされていた。戦争をテーマにした連載記事から、長銀、日債銀の摘発記事、そして、圧巻は丹沢湖にそそぐ玄倉川(くろくらがわ)のキャンプ事故である。

この事故ほど、現在の日本の危機的情況を端的に示したものはあるまい。行政のあり方とマスコミの対応である。同時に、子供に対する大人の社会的責任の問われ方である。

少女売春の女の子たちが、「私が私の身体で金を稼いで何が悪い。だれにも迷惑をかけていない」と、放言していたのは、ツイこの間のことであった。そして同様に、会社仲間のキャンプグループも、度重なる関係者の注意にも、耳を傾けないで、子供たちを巻き添えにした。50歳代のひとりと他の2人の3人が中州を離れて、これまた注意をしていた。多分、少女売春の口グセと同じく「オレたちのことはオレたちでやっているンだ。余計な口出しをするな。迷惑をかけちゃいないンだ」と、いうところだったのだろう。

結果は、自衛隊から消防、警察と連日300人規模の大動員で、彼らのお盆休みを奪い、かつ人件費、資材費などの莫大な出費を強いる“大迷惑”を現出したのである。余談だが、壮年の3人の社長が、ホテルの三部屋を使っての自殺騒ぎ——ところが、新聞の報道は、3人がどんなに親しく、事業協力をしていたとか、美談調なのである。毎日1件以上はあると思える、鉄道の飛びこみ自殺——何万人の足止まる、と恒例の報道ぶりなのである。どうして、自殺者が死後に及ぼす社会的損害の糾弾の紙面を作れないのか。鉄道は、その損害の金銭的損失をすぐ計算し、自殺者の財産に仮処分をかける、という反応ができないのか。先日のハイジャックの西沢容疑者の自宅(親の家か?)は、一戸建てである。全日空は仮処分をかけたのか。新聞は、特別欄を設けて、追跡報道しろ。それが、迷惑をかけられる社会の防衛手段なのである。

自己所有の家のない奴は、社会に迷惑をかけない場所で、首吊りでも服毒でも、好きな手段で自殺しろといいたい。私の友人の東大法卒の不動産屋は、遺書を残して青木ヶ原で自殺した。私の尊敬する江藤淳の自殺に、すぐ新聞紙面には「自死」などという“新語”が出てくる。それをいいだす文化人も、それを取り上げる新聞も、ともに怪しからんと思う。自殺は自殺だ。

話がそれたが、親は子供を自己所有物として扱うから、学級崩壊へと進んでゆく。オレの子供に口を出すな、が、今回の悲劇を招いた。悲劇は悲劇だが、自業自得である。新聞は大きく取り上げるな。死体発見のたびに、ベタ記事で十分だ。しかも19日現在で、バタバタと死体発見が続いたのは、地元の人の話で、河口付近に漂着する場所がある、というではないか。10何人かの人が流されるのを記者たちは見ていたハズだ。流されてから2日ぐらいで捜索は打ち切るべきだ。自己責任の原則を、行政も確立すべきである。

おりしも、17日付東京新聞夕刊は、厚底サンダル問題の投書特集をしていた。危険だから止めろというのは、60代のジジイばかりだ。だが、街頭でこのポックリみたいなサンダルの女の子に、「危ないから止めろ」と声をかけたら、どのような場面になるか、想像に難くない。電車の床にペッタリ座る連中、電車の中で化粧する女たち——すべて、このキャンプの家族連れと同じ反応である。

例えば、この女の子が転ぶ、自転車が避けようとしてバイクとぶつかる。そこに車が突っ込んでくる。死傷者が出ることは十分予測されるが、女の子にサンダルを止めろ、とはいえない時代なのである。社会も、それなりの自己防衛を考えねばならない。適者生存の原則は、厳しいものなのである。 平成11年(1999)8月19日

迎えにきたジープ p.194-195 スパイ要員として特殊教育

迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. "Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication."
迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. “Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication.”

国内警備隊が、コルホーズ、工場、鉄道、都市各警備隊をもっているのでも、ソ連が並々ならぬ軍事国家であり、圧政を敷いているということが分るだろう。

赤軍には軍諜報部があり、その参謀部第四課が対外諜報の担当で、第二課が四課の収集した情報を整理分析する。この他、外務省、貿易省、党機関がそれぞれに対外諜報機関を持っており、或る場合にはそれがダブって動いている。

スパイ要員として特殊教育をうけた人たち、これがいわゆる「幻兵団」である。その適例として三橋正雄氏の場合はどうだろうか。山本昇編「鹿地・三橋事件」第四部「三橋の告白」の項に、彼のスパースクでの教育内容が具体的に書かれているから摘記しよう。

(二十二年二月ごろ、マルシャンスク収容所で〝モスクワの調査団〟にスパイ誓約書を書かされたのち)二十二年の四月でした。誰、誰と、名前を呼び出されました。その中に私が入っておったわけです。やっぱり前に希望した各地の日本人技術者なんです。

当時大体モスクワへ行くという噂が飛んでいました。そこから、客車に乗って一行八人でモスクワまで二晩ぐらいかかった。そうして四月の七日頃でしたか夕方モスクワの駅に着いたんです。それからモスクワの収容所に入れられたわけです。

モスクワの収容所は、部隊番号がわかりませんね。そこは日本人が千五百名位いた。主に兵隊で、

将校はいくらもいなかった。皆工場の作業に行っておりました。工場を建設しているんですね。ジーメンス、それからツアイスなんかの設備を、どんどん運んでいるようでした。ドイツのいわゆる技師も家族をそっくりつれて来ているんです。なかなか優遇されているようでした。

そこの収容所に、六月二十四、五日頃、隊長格の男がやって来たんです。我々八名の人間を、順番にやっぱり調べたんです。最初はそういう身上調査、二日目にはいろいろ貿易などについての雑談をやった。隊長は、あなた日本へ帰ってから、私のほうと取引をやりませんかと言いましたが、私は又、貿易でもやらしてくれるのかと思ったんです。

その次の三回目に、いよいよあの話が始まったんですよ。『どんな仕事ですか』『いろいろソ連の代表部と、ソ連本国との通信をやってくれ。設備は非常に小型な機械ができておるし、それから絶対発見される心配はない。通信プログラムはうまくできておるから、やるたびに波長が変るし、呼出符号も変るし、時間も変る』と、そのときの経緯は大体公判廷ですっかり述べましたがね。誓約書を書いてくれと言うので、向うに言われる通りに書いて署名したんです。

それから、いわゆる七月の三日か四日、松林の家に移されました。ちょっとモスクワ駅から四十分ぐらいのところの小さな田舎町で、そこの松林の中の建物というのは、部屋が十幾つあった立派な建物ですが、木造で中がなかなか豪華なものでした。岩崎邸みたいな感じでした。松林の中にあるから、特殊な秘密目的の要員勤務のものを教育するところだったかも知れません。