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赤い広場―霞ヶ関 p030-031 兵士の死体事件は謀略ではないか?

赤い広場―霞ヶ関 30-31ページ 兵士の死体事件は謀略ではないか?
赤い広場ー霞ヶ関 p.030-031 Is not a soldier’s corpse case a stratagem?

二人の代表部員が、そのため東京—稚内間を旅行し、帰京するや帰国準備をはじめた。帰国すべきものならば、ベリヤ粛正のための帰国ならば、すでに地位を追われたも同然のものが 特に選ばれて日本国内を旅行し、漁民とパーティを開くなどの、政治的行動をするのは、まずないことだろう。従って、遺骨受取りに藉口した計画的北海道旅行ではないか。

 両人の旅行と極めて近接した時期に、関が密入国し、逮捕されている。続いてソ連船もだ捕されたその騷ぎの中で、コテリニコフ、ジュージャ両氏が異例な状況下に帰国した。

一週間後、代表部は船員釈放要求を出し、同時に怪外人が急拠北海道に赴いた。

怪外人はあわただしく帰京し、入れ替りに代表部員二名が正式に現地に向った。

このような状況下で、当局では、これらのナゾを解こうと努力して、次のようにみているもようである。

1 死体事件は一種の謀略ではないか。つまり次に打つべき謀略(この場合は関事件)の第一の手ではないか?

2 コテリニコフ、ジュージャの両氏の、在日間における仕事の傾向、行動に関する情報などから判断して、両氏の活動は注目に値する。即ち秘密警察畑出身ではないか?

3 両氏の旅行は計画的であり、各地の訪客などから、これが重要なるレポではなかったか?

4 日本側から何らの通報もしないのに、死体漂着を探知していたのは、第一二八東丸の死体発見の無電傍受、または地元新聞に掲載された(中央紙では報道されておらず地元紙にも簡単なベタ記事しか出てない)のをみたか、またはこれを報告した機関があったのではないか?

5 関の自供内容は概ね真実だが、連絡スパイに老人でしかも知能程度の低い関を起用し、しかも簡単に捕まり、素直に苜供した点から、三橋事件の如く裏面に何らかの第二次目的がかくされた謀略ではないか?

6 ソ連船もまた、往路と同一船が使用されている点から、投入スパイの輸送としては不自然ではないか?

丸山警視のいう、これらのナゾは、ここにあげた六つのナゾ以外に、まだまだあるのかも知れない。何しろ、国警全管下にはりめぐらされた情報網、即ち十五万の警察官の眼や耳は、もっと多くの目立たない出来事を報告してきているに違いないからだ。

現地での対立した意見のため、関一味の追及は絶たれて、ポツンと現れた関一人のスパイ事件となり、もはやその反響の破紋も消えようとしている。

三 失敗した人浚いギャング団 この事件の後始末も一応述べておかねばならない。八月三十日、クリコフ船長は船舶法第三条(不開港寄港)入管令第三条(旅券不所持)で起訴され、三 名の船員は起訴猶予で強制退去となった。

赤い広場―霞ヶ関 p050-051 ソ連代表部の指示で書かれたアカハタ記事。

赤い広場―霞ヶ関 p.50-51 ソ連代表部の指示で書かれたアカハタ記事。
赤い広場ー霞ヶ関 p.050-051 Akahata’s article is written under the direction of the Soviet delegation.

自殺した日暮信則は、この課の課長補佐で、しかも当時内閣調査室の情報部海外

第一班(対ソ情報)の班長を兼任していたのである。高橋は日暮の死によって一位上位にのぼって ソ同盟関係の諜報活動をやっている。

大隅道春は旧海軍の特務機関にあたる海上幕僚監部調査課勤務の三等海佐(海軍少佐)。

その他SP(ソヴエト・プレス)通信社の倉橋敏夫社長、キャノン機関の韓道峰(韓国人)、台湾引揚者の中島辰次郎、白系無国籍人のチェレムシャンスキーなどの各氏の名を、もつたいらしく並ベている。二人の民間人、四人の公務員、最後につけたりのような民間人や外国人。そしてこの記事の結びには、

この張本人はアメリカ諜報機関と警視庁であり、警視庁では警備第二部公安第三課長渡部正郎警視と、公安第一課長山本鎮彥警視正(前公安第三課長)である。

とある。

多くの紙数を費して「アカハタ」の記事を転載したが、このそれぞれラストヴォロフ事件の一月半後、その二ヶ月後、さらに三ヶ月後と間をおかれて掲載されたこの三つの記事は、並べて読んでみると、ラストヴォロフ事件についての、一貫した意図と目的とをもって書かれた記事であることが明らかである。

これは「アカハタ」や「真相」が幻兵団事件を徹底的にデマだと主張し、「アメリカの秘密

機関」の著者山田泰二郎氏が、一方的に米諜報機関だけを曝露したのと同じように、ラストヴォロフ事件で明らかにされたソ連スパイ組織の恐怖を、真向から否定して宣伝し、その憎悪を警察当局、ラ事件の捜査当局幹部に集中させようと意図しているのである。

だがそれよりも重大なのは、「アカハタ」の読者である、シンパや末端党員たちに〝心の準備〟をさせようとしていることである。

〝心の準備〟とは何か。ラストヴォロフ事件の捜査の進展と同時に、ソ連スパイ網が如何に国民各層の間に、巧妙に浸透していたかということが、いわゆる〝ブル新〟によって記事になったとき、それは〝ブル新のデマ〟と主張するための伏線である。

この三回の記事には、捜査当局が極秘にしている「山本調書」の内容の一部が明らかにされている。しかも、この三回の記事の時間的間隔は、同時に捜査の時間的経過におおむね付合して、しかも一手早いのである。「山本調書」の内容が、部内からアカハタに洩れるはずがない とすれば、この三回の記事はラストヴォロフ・スパイ網の内容を知っている、元ソ連代表部からの指示によって書かれたものだと判断されるのである。

 二 スパイは殺される! 二十九年八月二十八日午後、取調中の日暮氏が東京地検の窓から飛びおりて死んだ。三橋事件の佐々木元大佐といい、今度といい、ソ連のスメルシ(スパイに

死を!)機関の名の通りであり、「スパイは殺される」という不文律の厳しさを想って暗然とせざるを得なかった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 ラストヴォロフは亡命ではなく拉致か

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?
赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?

ここで私は、ラ氏の評価が現実の志位対吉野、日暮対庄司の関係と、さらに前記の当局一幹部の言とを思い合せて、ラ氏の〝自発的離脱〟ということに深い疑問を覚えるのである。つまり亡命ではなくして、拉致であるというのである。

妻子をもすてた真の亡命であるならば、彼は完全な世捨人である。一切の真相を語り終って静かに余生を送るであろう。

彼が真相を語っていない、祖国ソ連に反逆していない、ということは、彼の告白は相当な鑑定を必要とする。例えば逆のことを語っているのではないか。信頼していなかった志位氏を信頼しているといい、高く評価している吉野氏を情報プローカーと極めつけるといったように。

すると、ラストヴォロフの失踪は、亡命でなくて拉致である。アメリカ得意の〝人浚い〟〝引ったくり〟である。すると、彼の妻子の安全は事実である。

ラ氏が拉致され、彼がウソをついてたとなるとこれは事件である。三十年五月二十五日付朝日新聞が報じた、外交暗号がソ連に解読されているのではないかという心配(元ハルビン特務機関長小野打寛少将から、公安調査庁を通じて外務省へ提出された意見)は、より大きくなって、暗号以前のものが筒抜けになるのではないか、という心配にならねばならない。

志位、吉野という二人のラ事件関係者のとった対照的な立場は、私には人間の自己保存の本能がそれぞれの形をとったものだと思われる。即ち一人は顕在化されることによって、死の恐怖から逃れ得ると信じ、一人は顕在化されることが、死の恐怖へ連なるものと信じているのであろう。

そして私は、幻兵団キャンペイン以来の信念で、志位氏の立場こそ、米ソ秘密戦の間にまきこまれた日本の犠牲を、最小限に喰い止め得るものだと思っている。

五 暗躍するマタハリ群像

強盗、殺人の一課モノ、詐欺、汚職の二課モノと、風紀衛生の保安、それに思想関係の公安。警視庁詰記者の担当は、ザッとこんな風に分れている。

どの分野にしろ、調べ室や事務室をのぞいてみて〝敵情〟を偵察し、係官たちとの雑談から片言隻句の〝情報〟を得て、そこで作戦参謀として最後の〝決心〟を下し、原稿を書くことに変りはない。これが「取材」であり、「発表」と根本的に違う点である。

だがこれらのうちで、絶対にふだんの努力がなければ情勢分析ができないのが公安関係だ。左翼も、日共の理論面の動きや、人と人とのつながりがわからなければ、パッとでてきた「伊藤律除名」の情報も、確度がわからない。スパイ事件も同じで、思想的背景があり、政治的謀略さえ考慮しなければならない。 三橋事件がそうだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 赤いマニキュアの派手で豪華な身なりのご婦人が

赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 There is a woman behind the crime. Similarly in the case of spy cases ...
赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 There is a woman behind the crime. Similarly in the case of spy cases …

はじめてスパイ事件を手がけた、当時の国警都本部では、まず小説や映画でしか知らなかった「スパイ」なるものを、現実の公安警察の対象として係官たちに教育しなければならなかった。

だが、ラ事件は二度目だ。三橋事件の〝戦訓〟もある。当局と米国側とのラ氏の身柄などについての特別な関係、政府の政治的利用などから、厳重な対新聞記者防諜命令が出て、新聞記者はまったくしてやられてしまった。ラ氏が失踪してから半年、この間に彼の自供は時々変り、しかもポツンポツンと事実を語った。そのたびに米側から警視庁に連絡がくる。公安調査庁の調査官も一緒に、その関係日本人のウラ付捜査のため、六、七月はテンテコ舞いをさせられた。レポ場所を望違鏡で見張ったり、毎日映画館に通って待合室にばかり坐ったり、しかも秘密は厳守を命ぜられた。

山本課長のラ氏取調べのアメリカ出張も、ある社の記者などはほんとに京都出張だと信じこんでいた。課長が出発したあと、木幡第一係長は全係官を集めて『課長のアメリカ行の真相がバレたら、一同マクラを並べて辞表だ』と訓示するほどの、防諜ぶりだった。

課長が八月一日に帰国して二週間、ラ氏の最後的供述による関係日本人の最後の捜査が行われて、十四日朝の家宅捜索、検挙、発表となった。

こんな騷ぎも一わたりすんだある午後のこと。公安三課の事務室に赤いマニキュアの、派手で豪華な身なりの三十前後のご婦人がいた。彼女が庶務係にでもいれば、戦争花嫁の一人が米国へ行くための、証明書をとりにきただけの話にすぎない。

だが、彼女は高毛礼氏のドル関係捜査に当っていた係で、しきりに何か説明していた。

犯罪のかげに女あり。スパイ事件も、金と酒と女が出てこなくては面白くない。ピンときた私は気長にネバって、彼女の帰りを待った。自動車を呼んで玄関に待たせた。折よく雨が降ってきた。

夜八時、待ったかいがあって、彼女は幾分とまどいしながら、おびえたように玄関の階段を降りてきた。

『雨が降ってます。お送りするようにとのことです。どうぞ……』

私は名前や身分を名乗らなかったが、またウソもいわなかった。彼女は、夜のヤミと、雨と冷たい階段と、取調べの不安と、疲労との中で、つとさしのべられた暖い手に、崩れるように何の疑いも持たずに取りすがってきた。

警視庁の正面玄関。横づけされた車――。私は彼女より一歩遅れて、立番する二人の制服警官にソッとお辞儀をした。休めの姿勢だった警官はサッと足をひきつけて挙手の答礼だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 情報と謀略なく国は存立できず

赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 "There is no diplomacy without information," said a Foreign Ministry bureaucracy. However, the times have already come to a point where "a nation cannot exist without information and plot".
赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 ”There is no diplomacy without information,” said a Foreign Ministry bureaucracy. However, the times have already come to a point where “a nation cannot exist without information and plot”.

謀略もまた、鉄橋をダイナマイトで破壊したりすることばかりではない。また、そんなのは

下の下たるものであるが、やはり、謀略というと、大時代的な感覚しかなくて、軽べつ感が先に立つ。

しかし、ラ氏の亡命とか、シベリヤ・オルグの活躍とか、久原翁の引出しとか、すべてこのように、ある目的をもって、所期の事実を、自然に作り出すのが「謀略」である。

『情報なき外交はあり得ず』と、外務官僚は大見得を切るが、時代はすでに『情報と謀略なくしては、一国の存立はあり得ない』ところにきているのである。

今まで述べた米、英、ソ三国の情報機関の仕事をみてみれば、それは充分うなずけよう。

七月八日付の各紙によれば、政府は、内閣調査室に〝特高的〟調査は行わしめないようにしたという。当局者はいたずらに〝特高〟という言葉の、ニュアンスのみにとらわれて、迎合的であってはならない。

また、七月十日付読売夕刊の、マーク・ゲインのワシントン日記、「原子力時代のスパイ戦」にも、主役は科学者になると述べられている。事実〝静かなヴォルガの流れ〟とでもいう、一枚の観光写真さえあれば、この写真を立体化して、はるかの対岸にうつる工場の屋根だけからその工場の規模、内容、能力までが計算され得る時代である。

為政者は諜報と謀略という、古い言葉のみてくれだけにかかずらわって、今、なすべきこと

を見失ってはならないと信ずる。

ラ氏と志位氏の最初のレポは、東京は目黒の碑文谷警察署の裏手の住宅街の路上であった。少し早目にきて、佇んでいた志位氏は、パトロールの警官に職務質問を受けた。

ハッとして狼狽しかけたところへ、運良くラ氏が近づいてきた。早くも情勢を察知したラ氏は早口の英語でパトロールの警官を叱りつけたのである。英語を話すのはアメリカ人で、アメリカ人は味方である、という単純な考え方をした警官は、志位氏に『失礼しました』と謝って去っていってしまった。

同様に三橋事件のさい、ソ連スパイなら共産党員と思った国警都本部が、別人の三橋氏を追っていたこともある。

もし、碑文谷署のパトロール警官が、もっと自己の職務に忠実であり、自信を持っていたらラ氏と志位氏は、眼と鼻の同署に同行され、ラ事件は別の形で発展したかも知れなかったのである。

あらゆる国際犯罪の根が、暗黒都市「香港」にあることから、以前の国警では、香港に駐在官をおいて、情報入手の便宜を図り、国内の犯罪検挙の能率をあげようとした。ところが、何回申請しても、香港政庁はヴィザを出さない。