月別アーカイブ: 2019年5月
新宿慕情6-7 はしがき(つづき)
新宿慕情8-9 はしがき(つづき)/新宿慕情目次 扉
新宿慕情10-11 新宿慕情 目次/事件記者と犯罪の間 目次
新宿慕情12-13 事件記者と犯罪の間 目次/最後の事件記者 目次
新宿慕情14-15 新宿慕情 中扉
新宿慕情16-17 洋食屋の美人 旧制中学二年から
新宿慕情18-19 二幸の〝自動〟食堂
新宿慕情20-21 小さかった伊勢丹
新宿慕情22-23 〝新宿女給〟の発生源 シベリア帰りで
新宿慕情24-25 文人、墨客、悪童連
19891108 務台光雄読売名誉会長とともに
平成元年(1989)11月8日 読売ジャイアンツ日本一祝勝会にて
三田和夫著『新宿慕情』あとがきには、
……務台総務局長のところに伺った。開口一番「ウン、事件のことは聞いたよ。ナニ、新聞記者としての向こう疵だよ。早く全部済ませて、また、社に戻ってこいよ」——温情があふれていた。私の〝常識〟でも、復社できるとは思えないのだが、(中略)爾来、私は〝務台教の信者〟社外第一号を自任している。
とある。
読売退社後、曲折を経て約10年後、池袋の小さな木造アパートの一室で『正論新聞』を創刊する。務台さんのひと言が三田和夫のその後の人生を支えたのだろう。
赤い広場ー霞ヶ関 p012-013 ソ連船だ捕――ソ連スパイ関三次郎事件
オグラ氏の場合として紹介した。オグラ氏にとっては、抑留生活中の憂さ晴らしの浮気だっ たに過ぎないだろうに、ラ氏は、彼はその「売淫婦」に恋をしたという。これはラ氏の主観である。しかし、オグラ氏が、一人のロシヤ女と深い関係にあり、それで脅かされたという客観的事実は存在するのである。
それは、オグラ氏なる人物が係官の前で認めたことであり、また、ここに紹介したライフのアメリカ版が日本国内で容易に入手できなかった (一説にはオグラ氏の社で買占めたともいわれる) ことであり、飜訳権をとった文芸春秋社もまたこの一番面白い部分を削除したことであり、オグラ氏なる人物が本社から地方へ転出したことでもある。
だが、それはさておき、二十七年五月一日付毎日新聞には、次のような短かいモスクワ発の記事が掲載されている。
モスクワ三十日=UP特約 共同通信社の欧州特派員坂田二郎氏は、戦後はじめての日本人記者として、三十日ヘルシンキからモスクワに到着した。坂田氏は高良女史、帆足、宮腰氏らと同じく日本政府の入ソ禁止の方針に反して、ソ連と直接交渉の上モスクワに到着したものである。なお坂田氏のほかにも目下ロンドンにいる二名の日本人記者も、すでにソ連の査証を取ったらしく、近くモスクワに来るものと思われている。
北海道に落ちた赤い流れ星
一 宗谷岬に漂うソ連兵の死体 『御らんなさい。このシラノ・ド・ベルジュラックのような死体を……』
丸山警視はこういいながら、数枚の現場客真を取出した。三十才をすぎたばかりの若さのうちに、国家地方警察本部警備二課付きという、いかめしい肩書にふさわしい銳さを秘めた 外事警察のホープである。
短かかった二十八年の夏のうち、夏らしい日がしばらく続いていた八月の上旬のこと。北海道の北端、稚内市で発覚したソ連スパイ関三次郎事件は、ソ連船のだ捕まであって、その生々しさは国民の耳目をしよう動した。
二十七年暮、鹿地事件についで起った三橋正雄の二重スパイ事件が、首都東京を舞台に、ある意味で華やかな彩りさえみせていたのに対し、北の国境線のサーチライ卜照射や、漁船捕獲などという、緊迫した現地を背景に、息づまるような感じの関スパイ事件だった
赤い広場ー霞ヶ関 p014-015 稚内の漁船がソ連兵の腐乱死体を揚げる
丸山警視は関事件発生直後、空路現地に飛んで、中央と現地の連絡や、現地の各関係当局間の調整に努めてきたばかりだ。
『……こうしてここしばらくの現地での動きを捕えてみると、意外にもいろいろなことがあるのです。関事件の奥行きの深さ。我々当局者としては、それを捕えたかったのです』
警視はこういって口をつぐんだ。八月六日関を逮捕した時、現地の意見は二つに分れてしまった。国警側は、関を泳がせて (監視付で釈放すること)関の次に来るべきレポ・スパイを捕え、一味の日本国内における組織の全ぼうを暴こうとしたのに対し、検察側は反対した。ソ連船を捕獲しなければ、関は事件として固まらない (起訴して公判を維持することができないということ)から、関のサインでソ連船をおびきよせようというのである。結果は検察側の主張通りとなって、クリコフ船長ら四ソ連人を捕えたが、スパイ団は関だけの損害で、その組織を守り通すことができたのだった。
『だが、まだ我々には、正直にいってこれからのナゾを解き切れないのです。もちろんこのような幾つものナゾを解明すべく、当局は懸命に捜査中だとしか、申上げることはありません』
これらのナゾ! 幾つものナゾ! 丸山警視の額に刻まれたシワのかげにひそむナゾとは、一体何であろうか?
もはや、口をかんして語らない警視の言葉をかりずに、今や国警が関事件の全ぼうをつかむ緒口として、必死の捜査を続けているナゾのかずかずを探ってみよう。
話は関事件の発生した八月六日より二ヶ月も前、六月七日にさかのぼる。
稚内市南浜通二丁目、瀬戸漁業部所属の第一二八東丸 (五〇トン)は、船長小西勝太郎さん以下十四名の乗組員で、いつもの通り宗谷岬沖で底曳網をひいていた。七日の午前十一時ごろ、何回目かの網を引きあげたところ、かかってきた魚のなかに何やら死体のようなものが入っていた。
顔、頭はすっかり腐敗して骨さえ露出していたが、着衣は明らかにソ連兵である。大変なものが揚ってきたというので、第一二八東丸は早目に漁を終へて、午後二時ごろ、小樽海上保安部稚内警備救難署に無電連絡した。
『第一二八東丸は、宗谷岬方位八五度一九浬の洋上にて、ソ連兵らしき死体を拾得。推定二十二才位の男。十七時入港の予定』と。 連絡をうけた同署では、直ちに稚内区検に連絡、検屍医師の手配など整えて、第一二八東丸の入港を待ち構えた。
赤い広場ー霞ヶ関 p016-017 矛盾だらけの屍体検案書
検屍調書を覗いてみよう。死体拾得の状況その他のほか、『死後約十五日を経過、死亡日時
は推定五月二十五日ごろ。拾得状況及び死体による損傷部なく、他に何ら異状なし、溺死と認めらる』となっている。
また、稚内市の医師、福井谷牧太郎、牧野主孝両氏の屍体検案書は次の通りである。
検案書
氏名、住居不詳、年令二十二才位
性別 男
特徴 1 下右奥第一臼歯欠損
2 左手甲に刺青(径八分)
3 左手前膊外側部刺青(四寸)
4 下顎部脱落
5 左眼球僅かに碧色なるを示す
6 身体一面塩虫に喰われたる小穴あり
7 死因となるべき外傷なし
8 水をのんだもようなし
9 身長一六八糎、肩巾四〇糎、胸囲九二糎、体重六〇瓧(推定)
10 頭髮は黒味がかった茶色で、上部で長さ一寸五分位、他は普通刈込み
11 皮膚色桃白色にして欧人の色
12 陰毛、脛毛、薄茶疎毛
13 体格中肉にして、栄養甲にして、鼻高く眼碧く、皮膚、頭髪、所持品よりしてソ連人と認める
所持品、紙幣一六枚、硬貨二枚、手紙三枚、身分証明書二通
着衣、軍外衣、上衣、下衣、各一、いずれも国防色、コバルト色シャツ、アイ色猿又一、革べルト二、革長靴一、足卷(註、靴下代用の布でグルグルと足に巻く、ソ連人の殆どが靴下ははかない)四、襟章、肩章一組
溺死と推定されるも不明。
現場ではとりあえず以上のような処置をとり、さて今後如何にすべきかと迷った。
読者もこの検屍調書、および屍体検案書を読んでみて、実に幾多の疑問や矛盾を感ずるに違いない。その疑問や矛盾は国警側のそれに通ずるのであるが、 それは後にして話の筋を急ごう。
これらの書類は直ちに海上保安庁に送られ、保安庁からすぐ外務省に連絡がとられた。ソ連と日本との間には外交関係がない、ということが外務省にとっては頭痛のタネである。 外務省では直ちに会議を開いて、欧米五課の高橋事務官を現地に派遣した。事件への根本方針は『元ソ連代表部への通報は、代表部が外交機関ではないから差控える。
赤い広場―霞ヶ関 p018-019 ソ連代表部が動きはじめた
死体の取扱いは行路病死者に準ずる』ということになった。高橋事務官は稚内市役所、札帆の道庁などに、政府としては知らん頭をしているつもりだから、そのつもりで……と、念を押して歩いた。
死体は市役所の手でダビに付され、遺品は身許不明者のものとして、遣骨とともに保管された。こうして、事件は一まず落着し、死体にまつわる疑問と矛盾も煙となって立昇ってしまった。
ところが、死体発見から約一ヶ月半もたった、七月中句になって、ソ連代表部が動きはじめた。『かくかくしかじかの者が行方不明となっているが、その死体が漂着していないか』という間合せが外務省へ行なわれた。
もちろん外務省では、最初の方針通り知らぬ存ぜぬと突っぱねた。それではと、代表部からは領事部長のアナトリー・フヨードロヴィッチ・コテリニコフ二等書記官、セルゲイ・イワノヴィッチ・ジュージャ三等書記官の両氏が、七月二十二日東京発列車で札幌へと出発した。
二人は札幌で道庁を訪れ、稚内市と知ってさらに稚内に向った。稚内市役所を訪れた両氏は住所姓名不詳の行路病死者として片付けられたソ連兵の遺骨、遣品を受取ったのち、稚内市で漁民たちとパーティを開いたりした。漁船捕獲事件などで、神経過敏になっていた漁民たちの一部には歓迎の意を表するものもあり、宿舍への日共党員その他訪問客も多数あった。
こうして二人は七月末には東京へ帰ってきたのであるが、ともかく東京―函館―小樽―札幌―旭川―稚内と北海道を縦断する旅行を行ってきたのだった。
続いて、八月はじめ密入国した関が六日に稚内市で捕われ、九日にはソ連船ラズエズノイ号がだ捕されるなど、事件が最高潮となった八月十二日、コ、ジュ両人は午後三時半横浜出帆のオランダ船ジザダン号で、突如として本国へ帰ってしまったのである。
両人の帰国の状況は全く異例だった。ベリヤ旋風による粛正のための本国召喚だという説もあるが、真相は両人しか知らないであろう。従来元代表部員の帰国は、必らず十名前後以上の人数で行われており、それぞれ帰国すべき妥当な理由―在留資格が与えられず在日猶予期限がきて、退去処分がとられるべき者とか、担当の仕事が閉鎖されて不用となった要員とかーがあった者ばかりであった。また、その出発に当っては盛大な見送りをうけており、いわば正正堂堂たる帰国だったが、コテリニコフ、ジュージャ両氏の場合は、稚内旅行から帰って十日余り、関事件の真只中で、しかも二人限り、見送りとて数えるほどしかいなかった。
両人は三時半の出帆なのに、三時前から船室に姿をかくし、帰国の報が日本の新聞紙上に現れたのは、九月一日だったというほど、隠密裡の帰国だった。当局では初めて首をひねって考えはじめたのである。
赤い広場―霞ヶ関 p020-021 死因不明。謎の刺青。
話の順序で、前後したが、あの死体事件をもう一度考えてみよう。
関係書類や写真に眼を通した、東大法医学教室主任教授上野正吉博士はこういう。
頭部が腐らんしているので、死体をみなければ死因は分らない。屍体検案書にある「水を飲んだもようなし」と結論の「溺死と認められる」というのは矛盾も甚だしいことだ。法医学の知識さえあれば、たとえ解剖しなくとも、もっとハッキリした死因が判るはずだ。水をのむというのは、肺に水が入ることで肺に水が入った状態が溺死というものだ。注射針で心臓の血をとって調べれば、その濃度で、肺に水が入っているかどうか、つまり溺死かどうか 分るだろう。検屍医は、溺死ではなく死因不明とすべきだろう。頭部の骨に傷が見えなかったから、外傷なしと片付けたのだろうが、傷がないといっても、あの程度に腐っていては、外傷なしとはいえないだろう。
上野教授の言葉は、法医学者らしく、自分が死体をみてない限り、データがないのだから断定的なことはいえないという、慎重なものだった。
だが、まだまだ疑問がある。
死体はソ連沿岸警備兵の服装で、所持品は二百八十五ルーブルという大金、軍隊手帖とソ連共産党青年同盟党員証のほか、手紙三通を持っている。
この男の氏名、経歴等は身分証明書に記入されているが、インクが海水でにじんで読めないため、住所氏名不詳とされている。しかし当局では氏名その他が分っている。すると、この三通の手紙の内容が問題となるざるを得ない。
第二次大戦のさい、米軍のシシリー島上陸に当って死体謀略という奇手が打たれた。つまり米兵の死体を漂着させる。この死体が持っている書類によって、米軍の上陸攻撃開始の時期判断を、敵側に誤らせようというのだ。これは成功して、損害をはるかに減少し得たということだ。この死体謀略の戦訓から考えても、このソ連兵死体事件は、その後に起った関事件をはじめとする、一連の怪事件との関連性を信ぜざるを得ないだろう。
第一に死因である。死因がその死体の意味する唯一無二のカギであることは、一般犯罪におけるものと、いささかも違わない。だがすでに死因究明の手がかりはなくなっているの だ。この検屍調書や死体検案書のヅサンさは、上野教授の談でつきていようが、死後約十五日としながら、推定死亡日を五月二十五日としている。(二十五日なら死後十三日)点でも明らかである。いわばこれらの現地当局の書類には信ぴょう性がなく、死因は全く不明だということである。
第二に刺青だ。左手甲のハート印に斜の棒は矢であろうか。これはまあ良いとして、左腕の四寸にわたるSPMWAというアルファベット文字である。果してロシヤ語(文字)であるか、英語であるか、何を意味するのかナゾが深い。
赤い広場―霞ヶ関 p022-023 札幌へ飛び立った怪外人、A・ヤンコフスキー
第三は手紙および身分証明書の内容である。これこそ丸山警視が語らない限り、果して判読 できたのかどうか分らない。
二 怪外人札幌へ飛ぶ 関事件がおきクリコフ船長ら四人のソ連人が逮捕されるや、麻布狸穴の元ソ連代表部がどんな反応を示すかが、関係当局の関心の的だった。八月九日ソ連船だ捕以来、不安な期待の十日間が無気味にすぎた十九日、ついに代表部から外務省に対して、四ソ連人船員の釈放方の要請が行われた。
この日の朝七時半。日航の下り五〇一号便機が、札幌めざして羽田を飛び立っていった。一隅に坐った一人の外人。四角い幅広な顔、ユダヤかスラヴの血を引いたような男だ。乗客名簿には、ミスターA・ヤンコフスキーとのみ記されている。西銀座の日航本社で座席の予約のみして、自家用車で直接かけつけ、往復切符を羽田で買っている。駐留軍の軍人でない事は明らかである。何故なら乗客名簿にミスターと書かれているからだ。軍人ならば階級を記入するのだ。
そして翌々日、二十一日午前十一時二十分、千歳飛行場をとびたった日航上り五〇二号便に 再びA・ヤンコフスキー氏の顔がみられた。ヤンコフスキーが帰京したのと入れ違いのように二十二日ルーノフ、サベリヨワ両元代表部員が旭川に向けて出発した。十九日の釈放要求を外務省に蹴られたので、四ソ連人の拘留されている旭川の現地で交渉しようというのであろう。
何の変哲もない一外国人の空の旅だ。だが当局の眼は鋭かった。直ちにA・ヤンコフスキーなる男の身元調査が行われた。
外国人登録法による登録原票には該当者がなかった。ということは、米軍軍人か軍属、でなければ元ソ連代表部員、または蜜入国者か偽名ということである。
A・ヤンコフスキーという名前は、純然たるロシヤ系である。これでは米国人かソ連人か全く分らない。直ちに指令は彼のあとを追って札幌へ飛んだ。だが、残念なことには八月十九日から同二十一日までの、A・ヤンコフスキーなる怪外人の足取りは全くつかめなかった。
関事件の渦中にある現地へ、怪外人が急ぎ旅とは……、そして入れ違いに出発した元代表部員、当局ではいよいよ疑惑を深めてきたのである。
では、ルーノフ一行の行動をみてみよう。
1 八月十九日サベリヨフ、チャソフニコフの両名が、外務省欧米第五課を訪れ『今回逮捕された四名は行方不明のソ連船を捜索中、悪天候のためまぎれて日本領海に入ったもので、悪意があったのではないから釈放してほしい』との要旨の、ルーノフ署名の欧米局長宛書面を置き、その際ルーノフ、サベリヨフの両名が旭川に行きたいと付言して立去った。
赤い広場―霞ヶ関 p024-025 ソ連代表部の2人はクリコフ船長たちの釈放を要求
2 八月二十一日欧米第五課に、一両日中に前記二名が旭川に行くからと連絡があった。
3 八月二十三日午後七時東京駅発列車にて、参事官兼政治顧問代理ルーノフ、領事部書記サベリヨフの両名が北海道へ出発した。
4 八月二十五日午前十時四十分旭川駅へ到着した。両名は直ちに北海ホテルに入り、午後一時四十分まで休憩した後、旭川方面隊を訪れ、隊長に面会、午後二時十分頃まで会談し次の申入れを行った。
a 樺太と北海道は近接しているので、色々の問題が起ると思うがお互に円満に解決して行きたい。
b 拘留中のソ連船員四名に面会させてほしい。
c 四名を出来るだけ早く釈放してほしい。
これに対し隊長から『旣に事件は検察庁に送致してあるので、詳細は検察庁で聞いて貰いたい』と回答した。
5 そこで両名は引続き、旭川地方検察庁を訪れ、午後二時二十分より同五時三十分の間検事正と面会。国警とほぼ同様の申入れを行ったが、交渉に先だち『ソ連代表部員として公式の立場で交渉したい』と申出た。これに対し検事正は、『公式の立場の交渉は検察庁の管轄外であるから、外務省へ行ってもらいたい』と拒否したので、結局個人の立場で交渉した。
ソ連側の申入事項は
a 四人のソ連人に面会させてほしい。
b 果物等の差入れをしたい。
c ソ連船に弾痕があるというニュース映画を見たが、賠償を要求したい。
d 小樽へ行ってだ捕された船を見たい。
これに対し検事正は
a 逮捕は国内法に基き合法的に行われたものである。
b 拘留は三十日迄あるので釈放の時期は分らない。
c 四人に対する面接は、裁判所から禁止命令が出ているので応じられない。
d 差入については便宜を図る。
e 弾痕の問題については、海上保安庁の管轄であるから回答できない。
f 船は外から見る分は羡支えないだろうが、大事な証拠品だから中に入ることは出来ない。
と回答した。
これに対してルーノフ氏から『ニュース映画にも内部まで出してあるのに何故見せられないか。ニュースで見ると、弾のあたった痕が出ているが、小樽へ回航したのは弾痕の修理をするためじゃないか』との追求があったが、これに対し検事正は『自分達は法規を守るのが任務だから、法規を曲げることは出来ない』と回答した。
この回答に対し、『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場 合、あなたの責任に影響するだろう』
赤い広場―霞ヶ関 p026-027 ソ連側は多くを要求。日本側はほとんどを拒否。
『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場
合、あなたの責任に影響するだろう』と脅迫がましい言動をなし、更に『三十日迄の間に釈放される場合は、北海ホテルに通知してほしい』と言い残して立去った。
6 ついで午後五時四十五分頃旭川刑務所を訪れ、所長に面会を求め午後六時十五分頃より会見し、aソ連人四名の健康状態 b房内の生活状態を聞き、差入れの打合せをして北海ホテルに引上げた。
7 八月二十六日午前中旭川刑務所を訪れ、果物の差入をして引上げた。
8 八月二十七日午前七時四十分旭川発の列車で小樽へ、午前十一時四十分頃到着、北海ホテルで午後一時頃まで休憩し、海上保安本部を訪れ『ソ連船を見たい』と申入れた。これに対し海上保安本部では『事件がまだ確定していないので見せられない』と拒否したところ、付近のハシケを雇ってソ連船の周囲三百米位を一周して、午後四時頃ホテルに引上げた。
9 八月二十八日午前九時四十分頃、岩田町漁業協同組合幹事木森幸雄氏がホテルを訪問、ルーノフ氏等に面接し、自己所有漁船がソ連に拿捕された模様なので、その早急送還方を要請した。
10 同日午後小樽郵便局より東京USSR代表部宛英文にて『船を視察した、三十日にもう一度事件解決のため調査をやってみる、今日旭川へかえる』旨打電し、午後五時小樽駅発にて旭川へ午後九時帰着した。尙同日代表部パブリチエフ氏よりルーノフ氏宛、『取調べが終りましたか、船長との会見を要求しなさい』との内容の電報を受取っている。
11 八月二十九日午前十時頃旭川地検へ赴き、検事正に面会を求めたが、忙しいからと面会を拒否したところ、約二十分位待っていたがそのまま引揚げた。
12 八月三十一日午前十時、旭川地検に検事正を訪ね『拘留中の船長に面会させて貫いたい』と申入れたが、検事正は『起訴後であるから裁判所に行ってもらいたい』と拒否したが、執拗に要求、約一時間ねばって結局目的を達せず引揚げた。引続き午前十一時十五分頃地方裁判所に所長を訪ね、同様の交渉を行ったが、担当の山田判事が不在であるからと拒否したら、ここでも約二十分ねばって立ち去った。
13 八月三十一日午後三時十五分、旭川発列車で札幌に午後七時到着、グランドホテルに宿泊。
14 八月三十一日午前十一時頃、チヤソフニコフ氏外一名が欧米局長室に来て、同別室の女給仕に書面と名刺を渡して立去った。書面はパブリチエフ氏より欧米局長宛のもので、内容は『前回、逮捕ソ連人四名の釈放要請をしたが、何故この回答が与えられないか』との文面である。
15 九月一日午前九時四十五分、ルーノフ氏等二名は札幌入管事務所に至り、収容中のソ連人三名に面会させてほしい旨申入れたが、拒否されて約三十分位で立去り、午前十一時五十分一旦ホテルに帰り、午後四時四十五分豊平駅より定山溪ホテルに宿泊した。
16 九月四日午前九時三十分頃、札幌入管事務所を訪れ所長に面会し、aソ連代表部員として来た b三人のソ連船員に会わしてもらいたい c仮放免はどうなっているか d送還については如何なる方法をとるか等の申入れを行ったが、これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はない