月別アーカイブ: 2019年7月
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新宿慕情124-125 オカマには、形態学的に三種類
新宿慕情126-127 客を取るオカマは和服姿
新宿慕情128-129 ソ連国籍の強制労働者が同じ炭鉱にいた。
新宿慕情130-131 分娩の苦痛も男女同権に
新宿慕情132-133 現在は、男性でも女性でもない…
新宿慕情134-135 半陰陽についてのウンチク
新宿慕情136-137 某月某夜。ふたりはラブ・ホテルの
新宿慕情138-139 性転換手術の途上にあった
新宿慕情140-141 渋谷の百軒店のカフェーのこと
新宿慕情142-143 渋谷・丸山町の「粋園」という待合
新宿慕情144-145 三善英史の唄『丸山花街』が好き
新宿慕情146-147 ダリヤ姐さんの消息は…
赤い広場―霞ヶ関 p064-065 稚拙な怪文書をだれがバラまいたのか?
「ラストヴォロフは日本に居る! 日ソ会談の背後に配下が跳る」と二段見出しを付けた本文は次の通りである。
日ソ会談の成行きが世界の注目を浴びているが、本年一月二十六日元在日ソ連代表部ドムニッキー氏から鳩山首相に手渡された、日ソ会談のノートによる申入れの背後には、昨年一月帰還を前に突如亡命したラストヴォロフ中佐と、密接な関係にあったソ連諜報部員が秘かに活動して、日ソ接近を計画した事実が次第に明るみに出て、鳩山内閣を狼狽させている。
伝えられる所によれば、政府の機密情報組織といわれている内閣調査室長木村行蔵氏が、突如四月十日、根本官房長官、前調査室経済班長同席の席上、木村室長は辞意を申出たため、田中官房次長、根本官房長官は狼狽してその前後策に苦心している。
その原因として伝えられる所は、ラストヴォロフ中佐が失踪後、それまで、ラストヴォロフ中佐の配下として、対日情報工作に暗躍していた志位元陸軍少佐と秘かに連絡していた元陸軍将校某氏、現運輸省外郭官庁在勤の某氏らが、密接な連絡の下に内閣調査室に喰い込み、巧みに暗躍していた事実が明るみに出される気運が激化したので、これが明らかにされれば、調査室幹部の職務上の大失態が暴露されることになるので、田中官房次長、根本官房長官は相当狼狽の色を深くし、旣に根本官房長官も辞意を固めたといわれ、関係者は内容の外部に洩れるのを必死に警戒している。(原文のまま)
ラストヴォロフ、日ソ交渉、志位元少佐などと、一応の小道具は揃えてみたものの、所詮は〝怪〟文書であることは、その稚拙極わまりない悪文と、徒らに誇大な表現が、事実と何の関係もなく、飛び出してきていることでも明らかであろう。
もちろん、この日付の四月二十日から一月余りを経過した今日でも、木村氏は室長を辞任もしていないし、事件そのものが進行せず、各新聞紙がこれを全く黙殺したことでも、これが単なるイヤガラセの怪文書にすぎないことが立証されると同時に、この怪文書当事者の頭の悪さ加減をも証明している。
前にあげた大事件のさいの怪文書は、ハッキリした政治的、思想的立場をとっており、文章ももっとマシで、しかも鹿地事件や松川事件のさいなどは、ジャーナリズムも取上げざるを得ないような、意外な具体的内容をもつた怪文書であった。これに比べると、この怪文書などは〝怪文書〟の名を辱しめるもので、〝醜文書〟とでもいうべきであろう。
私がここにこの文書をあえて紹介したのは、これが内調の実情を説明するのにもっとも良い例だと思ったからである。
この怪文書がバラまかれるや、当の内閣調査室はもちろん、警察庁、警視庁、公安調査庁などのいわゆる治安当局でも、その実情の調査を行った。その結果、治安当局筋の見解を綜合す
ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。
赤い広場―霞ヶ関 p066-067 サウジ政府顧問に付き添う肝付兼一。
その結果、治安当局筋の見解を綜合す
ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。
この肝付氏に関しては過去において、極めて不可解な事件の関係者として、登場してきたという事実がある。どうやら問題はその当時にさかのぼらざるを得ないので、旧聞ではあるが一応説明しておこう。
二十八年七月十七日、サウジ・アラビヤ国大蔵省顧問という肩書をもつ、一人の外国人が羽田に降り立った。アブドル・アジース・アザーム博士という。同氏は仏伊で経済学を専攻し、元トルコ、イラン、イラク各国駐在のエジプト大使であり、元エジプト士官学校教授であり、アラブ連盟事務総長の実弟で、パキスタン駐在エジプト大使の伯父という、彼の国の一流の大人物である。
同氏の来日目的は、経済交流、通商協定、工業力や商社の調査であったといわれ、数億ポンドの工業計画やら、スーダンのダム、貯水池建設計画、不毛地開墾の技術援助などのプランを持っていたようであった。
ここまではマットウな話であり、それでよいのである。同氏の来日は日ア親善として極めて結構なことである。ところが同氏の来日と同時に不思議なことが起った。
氏はホテル・トーキョー五一九号室に投宿するや、同時に病気と称して一切の面会が拒絶され、一人の日本人が影の形に沿うが如く、常に氏につきまとっていたのである。
氏は七月十七日来日以来、八月二十八日上野精養軒で開かれた、石川一郎氏らによる経団連主催の歓迎会に姿を現わすまでの四十日間というものは、殆ど全く公的な活動を行わず面会謝絶となっていた。
しかし、事実は外出もしたし、客にも会っていたが、常に前記日本人の立会なしではいささかもの動きも見せなかった。部屋つきのメイドの話によると、氏は元気であり、面会を謝絶するような病人でなかったことは明らかであった。彼女はまた氏が自由行動を許されていなかったかどうかは別として、件の日本人のいないときは全く部屋に籠っており、単独行動をとったことはないと証言した。
これでは、まさに軟禁である。そしてこの日本人は通訳としてのみ、博士を歓迎しようとする日本アラビヤ協会や、近東アフリカ貿易会の人たちにその名前を知られていた。
この男が、元陸軍中将肝付雄造氏(陸士第十九期)を父に持つ、前記肝付兼一氏であったのである。そして、肝付氏は当時内閣調査室員であった。 〝日本の機密室〟員が通訳として、外国の経済特使につきまとっており、その特使の行動が極めて不可解なものであった。
赤い広場―霞ヶ関 p068-069 村井室長はヤミドル事件をデマだと否定。
〝日本の機密室〟員が通訳として、外国の経済特使につきまとっており、その特使の行動が極めて不可解なものであった、という事実しか筆者は知らない。しかし、この事実は当時内調の謀略として、一部で問題視された事件であった。果して内調が何を意図し、何を行い、何を得たかは全く分らない。しかし、このような奇怪な事件があったことは事実である。
アザーム博士に肝付内調室員がつきまとっていたのと同じ時期に、西独のボンでは村井室長が二人の英国諜報員につきまとわれていたという、皮肉な廻り合せの事件が起きていたことは面白い。
つまり、肝付氏にアザーム博士工作を命令(?)した村井室長は、その後外遊して有名な「腹巻のヤミドル事件」の主役として、いろいろな意味で問題となっていたのである。
この事件というのは、村井氏が三千ドルのヤミドルを腹巻の中にしまいこんでいたのを、英国官憲に摘発され、上衣まで切開かれて取調べをうけたというデマが流され、同氏が新情報機関の立案者だけに大いに間題となったことだ。
新情報機関というのは、二十七年十一月に当時の緒方官房長官が構想を練り、特殊国策通信社を設立し、各国の放送、無電の傍受をしようというものである。ところがその構想の下請けは村井氏が企画したもので、内閣調査室を母体にしようというのであった。
そういう時期が時期であり、村井氏の欧米出張がMRA大会出席という名目であり、外交官旅券が出されたのだから出張命令は出ているのに、旅費は出ていないということなども疑惑を生んで、三千ドルはヤミ工作資金ではないかという騒ぎになった。
村井氏は内務官僚で、第一次吉田内閣の首相秘書官から、特高一斎罷免のあとをうけて警備警察制度の創設に当り、二十二年国警本部に警備課を新設してその課長になり、さらに二十七年春内閣調査室長に転じた人である。
私にとっては、例の幻兵団記事が治安当局でもオトギ話としか受取られなかった頃、村井課長が早くもこれに注目して、その資料の収集に当ったという因縁があるのだ。
九月二十二日帰朝した村井室長は、ヤミドル事件をデマだと否定したし、外務省へも在外公館からの公電で事実に反するといってきたから、デマであることは事実だ。ではこのデマは何故出てきたのだろうか。
この事件こそ、今日の怪文書事件の原因ともいえる、内調発足時からの内務官僚と外務官僚との、主導権争いのセクショナリズム的対立であり、また日米英ソ四ヶ国の秘密機関にまつわる〝説〟もあるほどの、激しい国際諜報謀略戦のヒナ型である。しかもまたラストヴォロフ事件とも関係している。
まずこの内調の基礎的な条件からみてみよう。これは村井氏が企画立案したもので、綜合的 な情報機関として、その設立を各方面に進言し、自らその責任者となって発足した。
赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 内閣調査室設立と村井・日暮・曾野の三角関係
まずこの内調の基礎的な条件からみてみよう。これは村井氏が企画立案したもので、綜合的
な情報機関として、その設立を各方面に進言し、自らその責任者となって発足した。そして治安情報の一元化を図るというので、治安関係各省から専門家を供出させて、これらの出向者で出来上った寄合世帯であった。
この時、責任者となったのは〝内務官僚のソ連通〟村井氏であったが、〝外務官僚のソ連通〟曾野明氏もまた、次長格で出向する予定だった。しかしオーソリティを以て任ずる曾野氏は、村井氏の下風につくのを嫌って、その部下の日暮信則氏(ラ事件で二十九年八月十四日逮捕され、同月二十八日自殺した)を出向させたといわれる。
日暮氏はソ連畑の生え抜きで、欧米五課(ソ連関係)の前身である調査局第三課時代から当時の曾野課長の部下として、ソ連経済関係の情報収集に当っていた。曾野氏は二十二年四月調査二課長から同三課長に転任、いらい二十六年暮情報文化局第一課長になるまで、日暮氏の直接の上官であったばかりでなく、情報局に移ってからも日暮氏を引立てて、自分の関係雑誌や講演会に出させていた。
日暮氏もまた反共理論家として、曾野氏と共鳴するところが多く、郷里茨城県選出の自由党代議士塚原俊郎氏はじめ、官房長官だった増田甲子七氏ら政府有力者と、曾野氏との橋渡しをしていた。そして曾野氏は内閣調査室を蹴飛ばす一方、いわば商売仇の村井氏が何をするかを探らせるため、腹心の日暮氏を出向させたのだともいわれている。
一方村井氏はまた大いに日暮氏を信頼しており、ソ連月報の編集はもとよりその外遊記録である著書の草稿まで書かせたといわれ、ここに村井氏の腹心(度々腹心という言葉を使うが、日暮氏のソ連通としての能力は第一人者で、ことソ連に関して仕事をしようという役人は、誰でも日暮氏を腹心の部下として、その能力に頼らざるを得なかったのである)としての日暮氏、村井氏と敵対関係のような立場にある曾野氏の腹心としての日暮氏といった、村井―日暮―曾野の奇妙な三角関係が生れたのである。
さて、ヤミドル事件である。村井氏は二十八年八月十日「各国治安および情報機関の現況実情調査のため」という目的で、総理府事務官兼外務事務官という資格で、ラングーン経由、スイス、西独、フランス、イギリス、アメリカ、イタリヤ、スエーデンに行くとして、外交官旅券の申請をしている。
しかし、外部に対しては「MRA大会出席のため」という目的を発表した。その費用については二十八年九月二十三日付時事新報が
内閣調査室の語るところによると「村井氏は私費旅行であり、その旅費は中学同窓の某氏(この人もMRAに参加)の篤志によったものだと聞いている、調査室の公費は全然用いていない」というこ とである。
赤い広場ー霞ヶ関 p.072-073 村井氏の真の外遊目的とは?
調査室の公費は全然用いていない」というこ
とである。このことは事実のようだ。しかし九月十五日の渡航審議会で問題になったのは、村井氏が私費旅行として、審議会の民間ドル割当六百二ドル五十セントを受けながら、公用の「外交旅券」を何故携行しなければならないかということである。これには外務当局にも強く反対するものもあったが、結局村井氏の政治工作によって止むなく発行したという経緯もあるという。
と述べているが、この外遊は、麻生和子夫人―福永官房長官の線が徹底的に反対したのを、緒方副総理の了解でやっと出発できたといわれている。
問題の発端は、当時のボン大使館二等書記官上川洋氏の、曾野氏に宛てた私信である。同氏は二十九年春帰朝して、現在は欧米四課勤務であるが、曾野氏の直系といわれている。その私信については、誰もみた者がいないので分らないが、受取人の曾野氏がニュース・ソースだから、或る程度まで本当だろうと、省内では取沙汰されていた。
この私信の内容について、前記時事新報は次の通り報じている。
この私信は村井氏の行動について記述されたものであり、三千ドル事件については一切触れていない。すなわちその内容を要約すると、
一、ストックホルムからの電話連絡で、村井氏は英語がよく話せないからよろしく頼むといってきたので、右の某氏(著者註、上川洋氏)が八月二十六日ボン郊外ワーン飛行場に出迎えたところ、英国諜報関係官(CICのデヴィット・ランカスヒレ、フローイン・ジャンカーの両氏)に付添われて到着した。
一、ボンにおける村井氏の行動には、この二人の英国人が世話役及び通訳(著者註、肝付氏と同じ手である)と称し終始付添っていた。
一、大使館主催で村井氏を招待したが、英人二人も出席した。
一、入独後、米国諜報部の最高責任者(著者註、アレン・ダレス氏?)と面会することを妨害され、却って共産党転向者某氏との面会を示唆された。
一、村井氏は二名の英国人を述惑視し、かつ警戒しつつも終始行動をともにした。
一、村井氏は広範な調査要求を置手紙としてボンを発った。
一、村井氏持参のトランクがホテル宿泊中に捜索を受け、上衣の内側は刃物で裂いて調査された。
ところが問題はこれからにある。すなわち村井氏の真の外遊目的であるが、私は〝信ずべき筋〟の情報で次のように承知した。しかし村井氏にただしてみたところ、同氏は真向から否定したので、あくまで〝情報〟の範疇を出ないのである、とお断りしておく。
つまり日本の情報機関(これはウラを返せば秘密機関である)については、当時四通りの案があった。警備警察制度の生みの親の村井案、緒方案、吉田(首相)案、それに元同盟通信社長古野伊之助氏の古野案の四つである。
これについて、村井氏はこの四案を携行して、米CIA長官アレン・ダレス氏か、もしくは その最高スタッフに会って、その意見をきくための外遊だったという。
赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 デマの出所は曾野氏なのか?
これについて、村井氏はこの四案を携行して、米CIA長官アレン・ダレス氏か、もしくは
その最高スタッフに会って、その意見をきくための外遊だったという。そしてそのために吉田首相の直筆の書簡をも、持って出かけたというのである。
もともと村井―日暮―曾野という三角関係では、村井、曾野両氏とも、日暮氏の〝特殊な事情〟を充分承知していた。ただ村井氏は積極的に日暮氏にソ連人との接触を認めて、その対ソ情報の確度を高めさせようとしていた、といわれるのに対し、曾野氏の方がズルクて、日暮氏とソ連人との接触を知っておりながら、知らぬ振りをしてその対ソ情報だけを吸上げていた、といわれているのである。
いずれにせよ日暮氏は村井氏の腹心であったから、村井氏の外遊目的を知っていた。そしてその目的がラ氏を通じて流れた。
ここで余談になるが、英国の諜報機関について一言ふれておこう。ソ連の機関員は党員で、しかも訓練と教育をうけた経歴のあるものでなければならない。英国のシークレット・サービスは、親子、孫という深い家系によらなければならぬという鉄則がある。これがソ連と英国の秘密機関の伝統であり、その世界に冠たる所以でもあるのだ。
この英国の機関は、対米という点ではソ連機関の線とダブッている場合が多い。そこで日暮―ラストヴォロフと流れた村井外遊の真相は、英国秘密機関の同時にキャッチするところとなり、上川私信の通りワーン飛行場に英国諜報官が出迎えることになったのであろう。
さて村井氏が、この〝情報〟の伝える真の使命を、書類を奪われることなく果し得たのか、或は上衣まで切開かれて、君命を辱しめたのか、そこは分らない。そしてまたこのような国家的秘密、ましてや吉田秘密外交のそのまた秘密などは、一新聞記者の身として、第三者に提示し得るような確証を得ることは、不可能に近いのである。
もちろん、村井氏は否定した、肯定するはずはあるまい。ただ筆者としては、そのニュース・ソースである〝信ずべき筋〟への信頼の度合と、その前後に現れた具体的徴候とによってのみ、僅かに判断し得るのである。
「三千ドルのヤミドルで腹巻まで切り開かれた」というデマの根拠は、上川氏が曾野氏へあてた前記の私信である。しかも、その私信には「上衣まで切り開かれた」とはあるが、三千ドルのヤミドルなどとは全く書かれていない。根拠となった私信が、曾野氏宛のものであるからには、デマの出所も曾野氏と判断されても致し方がなかろう。
村井―日暮―曾野という線で、村井氏の外遊目的を知っていた曾野氏も、その国家的影響を考えて、一切をバクロすることを慎んだのではあろうが、村井氏の旅費が国庫から出ていないという、不明朗さを同時に衝くためにも、このような三千ドルのヤミドルというつけたり で、デマをまくようにしたとも判断されるのである。