月別アーカイブ: 2019年10月

最後の事件記者 p.020-021 石村主任は無関心を装って言った。

最後の事件記者 p.020-021 文春が九月号に、横井英樹と三鬼陽之助の対談をのせ、「苦しかった〝元〟記者」と、私の事件を取り上げていることは、知っていた。

断線した電話は、即座に復旧した。このように自由を拘束された留置場の生活では、案外に相互扶助の義務感が強いようである。電話が開通すると、はじめの中継者の十房は、すぐ離れてゴロリと横になったようだ。外側の壁に向って、九房の位置を考える。入射角と反射角は同じなのだから、ワン・クッションで、声が通る。九と十一なら、顔が見えないだけで、ヒソヒソ話が十分に通ずる。

『それで、〆切は何時だって?』

『二十日までに書いてくれッて。どうせ弁護士への口述になるんだけどネ』

『フーン。紙と鉛筆位、調ぺ室でくれないのかい?』

『ウン。……それでね。何を書いたらいいか。少し教えて下さいよ』

『担当!』

また断線である。私は金網をはなれると、ウスベリの上に寝ころがった。

我が事敗れたり

静かに考えてみる。文春が安藤に手記を依頼してきた。〆切は二十日だという。これこそ、私にとってはビッグ・ニュースだった。

文春が八月はじめに出した九月号に、横井英樹と三鬼陽之助の対談をのせ、「大不平小不平」という、新聞批判の欄では、「苦しかった〝元〟記者」と、私の事件を取り上げていることは、読ませてこそくれなかったが、調べ官の木村警部が、得意そうに鼻をウゴメかして、私にパラパラと見せてくれたので、すでに知っていた。

私が逮捕された数日後に、調べ主任に各社の記事の様子、つまり取リ扱い方を聞いたことがある。すると、石村主任はしいて無関心をよそおっていった。

『ナーニ、毎日か何かが書いていたッけよ。それもあまり大きくなくサ。そのほかは、何か小さな新聞が、二、三取り上げていたらしいよ』

石村さん、ありがとう。私は心の中で感謝しながら、「何だい、そんなこと、かくさなくたっていいじゃないか」と、いった。彼の態度から、私の逮捕の各社の記事は、決して私に好意的ではなく、しかも、全部の社が、割に大きく書いているのだナ、と感じた。それを、この主任は、私に打撃を与えると思ったのか、私が可哀想だったのか、心優しいウソをついてくれたのだと、判断したのだ。

最後の事件記者 p.022-023 「我が事敗れたり」と覚った。

最後の事件記者 p.022-023 読売旭川市局発の原稿がきている。外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。
最後の事件記者 p.022-023 読売旭川市局発の原稿がきている。外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

私は新しい入房者があると、その人に根掘り葉掘り、私の逮捕の記事と、その論調とについて質問した。やはり、判断通りに、決して香んばしい扱いではないと判った。

 横井事件に関連して、私が「犯人隠避」容疑で、逮捕されるにいたった当時の様子を、少しく説明しておかねばなるまい。

 日曜日は私の公休日だった。七月二十日の日曜日も、だから休みで、一日自宅にいた。ひるねをしたり、子供たちと遊んだりして、夜の八時ごろになった時、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が明朝、通産省を手入れするが、予告原稿を書こうか」というのである。

 彼一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから、待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、読売旭川市局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

「我が事敗れたり」と、私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも、当局より先に、事の敗れたのを知ることができた幸運を、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

当局の先手を打って、小笠原に会ったのだが、ここで逆転、当局に先手をとられて、その居所を割り出された。それをまた私が、今夜、先手を取りかえしたのだ。

この原稿を読んだ瞬間には、私の表情はサッと変っていたかも知れない。しかし、読み終えた時には、全く冷静だった。そして、静かに読み通してみた。

小笠原は十八日朝、「札幌へ行く」といって、外川方を立去り、外川方では二十日の午後、警察へ屈出たとある。すると、旭川署が外川さんを参考人として調べて、同氏の戦友の塚原さんの紹介であずかった男だ、といったに違いないから、警視庁では、明二十一日朝、塚原さんを呼ぶに違いない。

その口から、私の名前が出てくるのは、月躍日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。

辞職を決める

すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。

最後の事件記者 p.024-025 部下の記者に後事をたのんだ。

最後の事件記者 p.024-025 警視庁キャップの萩原記者と、社会部の先輩の一人をたずね、事情を説明すると同時に、辞職する決心を打明けた。
最後の事件記者 p.024-025 警視庁キャップの萩原記者と、社会部の先輩の一人をたずね、事情を説明すると同時に、辞職する決心を打明けた。

すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。

私は、塚原さんに事件の経過を知らせて、迷惑をかけたことを謝った。それからすぐ、読売の警視庁キャップの萩原記者と、社会部の先輩の一人をたずね、事情を説明すると同時に、辞職する決心を打明けた。小笠原を旭川へ落してやる時から、失敗した時の覚悟は決っていたのである。

深更帰宅したのち、妻にすべてを話し、明日、警視庁へ出頭する準備をした。家宅捜索を受けても不都合なものはないし、あとは静かに辞表を書くだけだった。

二十一日の月曜日早朝、その辞表を持って金久保社会部長の自宅へ行き、取材に失敗した経過を話して、辞表を出したのである。社会部長は、「刑事部長と相談してみよう」といって、一緒に警視庁へ行った。部長は萩原記者と二人で刑事部長に会ったが、私は自分の担当の司法記者クラブヘ行った。

その後、二十一日の正午ごろ、刑事部長と捜査二課長とに会った。しかし、私としては社を退職し、逮捕されるつもりなのだから、一応の事情を説明しただけだ。

その時、私はいった。

『この事件は取材以外の何ものでもありません。しかし、私の行為は犯人隠避に相当するのだから、逮捕されるのなら、何時でも出頭します。逮捕される時には、社を退職して逮捕されたいので、事前に教えて頂けないでしょうか』と。

こう話して、警視庁の記者クラブヘもどってきた時、何人かの顔見知りの記者と挨拶をしながら、私はフト感じた。

——そうだ。クラブ各社の記者と会見して、私の事情を説明しておこう。

——イヤイヤ、私は司法記者クラプのキャップだ。その経験を積んだヴェテラン記者が、犯人隠避の疑いで逮捕されるのだ。今までは書く身が、書かれる身になるのだ。一体各社がどんな扱いをするか、どんな記事をかくか、黙って経験してみよう。

——それに、大特ダネをものにしようとして失敗したのだ。今さら、逮捕をカンベンしてくれと哀願したり、各社に記事をよろしくなどというのは、いかにも卑怯だ。

私はそう考え直した。だから、あえて黙っていた。そうして自分のクラブヘ行き、部下の二人の記者にだけ、事情を話し、後事をたのんだ。

最後の事件記者 p.026-027 文春に私の立場を書こう

最後の事件記者 p.026-027 逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。
最後の事件記者 p.026-027 逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。

社へ行って後始末をしていると、辞表は受理されることになり、明朝の重役会を経て発令されるという。警視庁も、それを待って、二十二日正午に出頭しろといってきた。これですべては決ったのだった。私は当然の別れになる、銀座の街を歩いて帰宅した。

文春記事のいきさつ

その結果の、私の逮捕記事であった。どのように真実を伝えたか、どうかは別項にゆずって、私は厳しい批判を受けていることを、留置場の中で知ったのである。

私が編集者ならば、やはり同じように安藤の手記をとろうとするに違いない。文春は発行部数、数十万という大雑誌だ。ケチな新聞よりは読まれている。その雑誌が、九月号に引続き、九月上旬発売の十月号でも、安藤組を取りあげようとしている。

逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それに着眼して弁護士を通じて、手記を取ろうとする編集者に感服すると同時に、それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。

——そうだ。文春に私の立場を書こう。

私はそう考えると、差入れに通ってくる妻への伝言を頼んだ。接見禁止処分だから、会うことは許されない。

文春の編集部には、何人かの知人がいる。私が手記を害きたいという意志を伝えておいて、それが採用されるならば、あとは〆切日ギリギリまでに、保釈で出ればよいのだ。私は調べ官に、妻に〆切日を聞かせてほしい、と頼んだ。

〆切日は、安藤の手記が二十日だというから、二十五日ごろと考えた。妻の返事によるとやはりそうだった。私は房内ですでに想を練りはじめた。新聞ジャーナリズムが、私に機会を与えないならば、雑誌ジャーナリズムによるのが一番だ。

新聞は長い間、マスコミの王座に君臨し、いわば永久政権として安逸をむさぼってきたのである。これに対し、雑誌をはじめ、ラジオ・テレビと、他のマスコミが、その王座をおぴやかしはじめている。いろいろの雑誌に新聞批判の頁が設けられていることが、それを物語っているではないか。

私は安藤の相談に対して、「ただ申訳ないと、謝らなければいけないよ。そして、横井が悪い奴ならば、その悪党ぶりをバラしてやれよ」と、答えておいた。

最後の事件記者 p.028-029 『三田君、覚えているかい?』

最後の事件記者 p.028-029 『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』『そうです。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』『我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』
最後の事件記者 p.028-029 『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』『そうです。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』『我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』

十五日に保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。

『私は、横井事件を一挙に解決しようと思って、小笠原を一時約に北海道という、〝冷蔵庫〟へ納めておいたのです。それは、安藤以下、五人の犯人を全部生け捕りにするためです』

『ナニ? 五人の犯人の生け捕り?』

『そうです。そして、五日間、読売の連続スクープにして、しかも、事件を一挙に解決しようという計画だったのです』

『しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ』

『そうです。私は各社の記事をみて、そう思いました。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか』

『………』

『なるほど。私が一番に感じたことは、少くとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で、何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした。』

『ウン。我が名は悪徳記者ッていう題はどうです』

『誰が、どうして、私を悪徳記者にしたんです。新聞ジャーナリズムがそうしたんだと思います』

『ヨシ、それで行きしょう。あなたの弁解もウンと入れて下さい。自己反省という、新聞批判も忘れないで下さい。』

田川編集長は、「五十枚、イヤ、もっと書ければもっとふえてもいいです」と、仕事の話を終ると、柔らかな態度になった。

『三田君、覚えているかい? 小学校で六年生の時、一緒によく遊んだッけね。』

『エ? じゃ、あの、田川君か!』

私はこの奇遇に驚いた。彼がまだ別冊文春の編集長のころ、会った時には、そんな話も出なかったし、また記憶もよみ返ってこなかったのである。

田川君の態度には、編集長としての、「悪徳記者」を取上げる気持と、それにより添うように、この落ち目の旧友に、十分な弁明の場を与えてやりたい、といったような、惻隠の情がにおっているようだった。

最後の事件記者 p.030-031 私を「グレン隊の一味」に仕立てた記事

最後の事件記者 p.030-031 私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実ではないなぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。
最後の事件記者 p.030-031 私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実ではないなぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。

新聞というマンモス

『この記事は違っている。訂正してもらいたい』

『何処が違っているのです』

『当局ではこうみている、という形で記者の主観が入っている。当局とは何か、誰か、それを明らかにしてもらいたい』

『貴君が何時、何処で、いかなる理由で逮捕された、という事実を否定するのですか』

何というおろかなことだろう。私を「グレン隊の一味」に仕立てたかの如き、新聞記事に、抗議をしに各社を訪れたところで、その問答の中味は、このように判りすぎるほど判っていたのである。

担当の取材記者は、その社の応接室で、かって私がしたように、私の抗議を突っぱねるに決っている。もちろん、決してウソは書いていないからである。

しかし、新聞記事というものは、好意をもって書くのと、ことさらに悪意をもたなくとも、好意を持たずに書くのとでは、読者へ与える印象には、全く雲泥の差がある。たった一行、たった

一つの単語で、ガラリと変ってしまうのである。ことに、限られたスペースの新聞記事では、微妙な事件のニュアンスなどは全く消えさり、事実というガイコツだけが不気味に現れるのだ。

私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実ではない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。

文春の記事を読んだ、福岡県の田舎の方から手紙をもらった。『……かかる目に見えない暴力と斗って下さい。しかし、あなたには記事にして発表する場と力があります。まだまだ弱い立場の人が沢山いるのです……』

最後の事件記者 p.032-033 自由法曹団・石島泰とのめぐりあい

最後の事件記者 p.032-033 二十七年秋の選挙、共産党が血のメーデー以来の火焔ビン斗争の批判を受けて、全滅してしまった。当時、私は、〝反動読売の反動記者〟と目されて、共産党関係のデマ・メーカーといわれていた。
最後の事件記者 p.032-033 二十七年秋の選挙、共産党が血のメーデー以来の火焔ビン斗争の批判を受けて、全滅してしまった。当時、私は、〝反動読売の反動記者〟と目されて、共産党関係のデマ・メーカーといわれていた。

共産党はお断り

メーデー事件のK被告

故旧いかで忘れ得べき——めぐりあいというものは、なかなかにドラマチックで、懐古趣味のある私などには、たまらないよろこびを与えてくれるものである。

田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。昭和二十七年秋の選挙といえば、共産党が血のメーデー以来の火焔ビン斗争の批判を受けて、全滅してしまったことで有名な選挙だったが、そのころのことである。

当時、遊軍記者として本社勤務だった私は、〝反動読売の反動記者〟と目されて、共産党関係のデマ・メーカーといわれていた。そんなある日、私は村木千里弁護士の事務所にフト立寄っ

た。

村木弁護士は、明大を出てから、東京裁判の間、ウォーレン弁護士の助手を勤め、独立してからはほとんど外事専門の弁護士をしていたのだが、彼女のもとに共産党の事件の依頼があったという。聞くとメーデー事件の被告だというので、私は面白いと感じた。

彼女の扱っているのは、アメリカ人を中心にほとんど出入国管理令、外国為替管理法、関税法とかの、いわば資本主義的外事事件ばかりなのに、そこへ共産党だというから、ソ連人がアメリカに逃げこんできたような感じだった。

何しろ、公判へ廻ってからのメーデー事件というのは、アカハタとインターナショナルの歌の渦で、怒号、拍手など、とても審理どころではなく、その法廷斗争には裁判所も手を焼いていた。そんな狂騒の中で、いわば興奮から事件にまきこまれた、可哀想な被告たちのうちには、静かに考え出す者が出はじめて、分離公判を希望するものがあったのだが、今までは表面化していなかったのである。

村木弁護士への依頼者というのは、メーデー事件で、卒先助勢と公務執行妨害の二つで起訴された、Kという東大工学部大学院の学生であった。彼は、メーデーに参加して、あの騒ぎが始ま

り、落したメガネを拾おうとしたところを、警官に殴られたので殴りかえしたという、検挙第一号の男だった。

最後の事件記者 p.034-035 分離希望の第一号はニュースだと感じた

最後の事件記者 p.034-035 会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、『もう、共産党はゴメン』ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定していた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。
最後の事件記者 p.034-035 会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、『もう、共産党はゴメン』ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定していた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。

Kという東大工学部大学院の学生であった。彼は、メーデーに参加して、あの騒ぎが始ま

り、落したメガネを拾おうとしたところを、警官に殴られたので殴りかえしたという、検挙第一号の男だった。

私選弁護人を頼んできた理由というのが、統一公判を受けていたら、一体何時になったら終るのか判らないし、公判の度に休まねばならない。メーデー事件の被告というだけで職にもつけない、という悩みからだという。

そのころ、メーデー公判は、「統一なら無罪、分離なら有罪」と、しきりに宣伝されていて、被告団の結束を固め、法廷斗争を行っていた時期だった。村木弁護士に聞けば、さらに二人の被告が、分離を希望して相談にきているという。

私は、このようなメーデー公判の客観状勢を知っていたので、この分離希望の第一号はニュースだと感じた。しかも、K被告だけではなく後にも続いているという。

共産党はもうゴメン

車を飛ばして、練馬の奥の方のK氏の家を探した。会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、『もう、共産党はゴメン』ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定し

ていた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。だから、共産党でないということを、客観的事実で示したい――というのである。

私は心中ニヤリとした。いわば、彼の立場は〝裏切者〟第一号である。

『宜しい。あなたが共産党でないことは、記事の中にハッキリ書いてあげましょう。共産党とされて、喰って行けなくなったのだから、それを明らかにすれば、道は通ずるでしょう。そのことを手記にして、弁護士に訴えなさい。それがニュースのキッカケになるのですから……』

こうして、その記事は「自由法曹団をやめないと、真実はいつまで経っても判らない」という、共産党の指令のもとに、法廷斗争という戦術の場に、メーデー公判を利用している自由法曹団を、被告という内部から批判したものとしてまとめられた。

十月一日の投票日の数日前に、私はその原稿を提稿したのだったが、選挙前で紙面がなく、しばらくあずかりになっていた。

ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑っていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっただけに、凄く刺激的で、効果的だった。

最後の事件記者 p.036-037 この記事はモメるゾ!

最後の事件記者 p.036-037 ――この記事はモメるゾ! ――来たナ! しかも、石島か! 共産党関係の公判廷で、「…自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った…」旨の記事をよく読んでいたのだ。
最後の事件記者 p.036-037 私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。――来たナ! しかも、石島か! 共産党関係の公判廷で、「…自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った…」旨の記事をよく読んでいたのだ。

——ウーン。ウマク使いやがるなア!

私はその夕刊を開いて、社会部と整理部のデスク(編集者)の腕の良さに、しばらくの間は、感嘆のあまりウナったほどだった。

——この記事はモメるゾ!

同時に直感した。私の記者生活の経験から、記事の反響は本能的にカギわけられる。案の定、翌四日になると、K氏から抗議がきたし、村木弁護士からも、「K氏が大学で吊しあげられたので、慌てだしている」と伝えてきた。

その数日後、社の受付から、私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。

——来たナ! しかも、石島か!

私は緊張した。三階に通すように答えると、もう一度、取材の経過をそらんじてみたのである。「大丈夫!」、自分自身にいい聞かせる言葉だった。「オレは自信のない取材をしたことはないンだ!」

昭和二十三年から四年にかけての、約一年間というものを、私は司法記者クラブですごした。そのため、裁判記事には関心があり、共産党関係の公判廷で、「…自由法曹団の石島弁護人が鋭

く検察側に食い下った…」旨の記事をよく読んでいたのだ。石島弁護人というのは、戦斗的な気鋭の弁護士だと承知していた。

第二の裏切り

K被告の記事は、すでにアカハタ紙が、「読売新聞またもウソ、全く記者の作文」と大きく反ばくし、東大学生新聞もまた、「商業紙の正体暴露、驚くべき虚偽の報道」と、全面を費していたのだった。

だから、私としても、弁護士付添の正式の抗議ともなれば、相当の覚悟がいる。しかも石島という名前も、負担だった。社会部長に報告して、私は編集局入口の応接間のドアを開いた。

『アッ! 何だ! 石島というのは…』

『やっぱり、三田ッて、お前か!』

同時に二人の口をついて出てきた叫びだった。めぐりあい、だったのである。いうなれば、 敵、味方に分れ、対立した立場で、たがいに男の仕事の場での、めぐりあいだった。

昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べ た別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。

最後の事件記者 p.038-039 あれは読売が勝手にやったこと

最後の事件記者 p.038-039 このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも問題はあった。
最後の事件記者 p.038-039 このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも問題はあった。

昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べ

た別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。しかも、石島と私とは、小学校、西巣鴨第五尋常小学校(のちの池袋第五小)でも同級で、一、二番を争った仲だったのだ。何という奇遇だったろうか。

二人は思わず握手をしていた。

『石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかった』

『オレもそうなんだ。三田という、あまりない姓だから、モシヤとも思ったンだ』

この意外な展開に、一番呆ッ気にとられていたのは、K氏だったろう。だが、しばらくのちに、石島弁護士は形をあらためて、私の記事への抗議に入った。私も、我に返って身構えた。

彼の抗議は鋭い。微細な点まで根拠を突ッこんでくる。私は突ッぱねるべきは突ッぱね、説明すべきは説明した。約一時間のち、会見は物別れとなった。

このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも、たった一つだけ問題はあった。

この抗議のある前に、私が調べてみた事情はこうだった。K氏はこの記事の出た翌日、学校へ行った時に、裏切者として相当吊しあげられた形跡があるのである。

自分が毎日生活する周囲から、こんなに強い反撥を受けたのでは、全くやり切れるものではない。K氏の態度は、また、変ったのであった。あれは読売が勝手にやったことであって、私は知らない、私だって迷惑しているのだ、と。

一人の女を捨てることのできる男は、二人の女をも捨てられる。こんな言葉がある。最初に、仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。それと同時に、彼の感じたものは、新聞への無知、ということであろう。

つまり、読売という大新聞のトップ記事の影響力の強さを、彼は私と話している間には、それほど感じていなかったのであろう。しかも、彼のひややかな裏切行為が、かくも派手に、かくも効果的に使われるとは! というのが、彼の実感だったに違いないと、私は今でも信じている。

彼は信念のない人である。こういう種類の人物は、いかようにも使えるのである。私はこの「共産党はお断り」というスクープを、与論形成者として、意識的に造ったのであった。K氏は、その素材である。

最後の事件記者 p.040-041 インテリに本音を吐かせる

最後の事件記者 p.040-041 インテリは追いつめられなければ、本当のことをいわない。ここまで、本当のことをいわせるのが、 記者の取材力である。インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいない。
最後の事件記者 p.040-041 インテリは追いつめられなければ、本音を吐かない。ここまで、本当のことをいわせるのが、 記者の取材力である。インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。

インテリはお体裁屋

スクープは造られるものだ、と私は信じて疑わない。新聞記者が好んで使う、「これはイケる!」「イタダケる」という言葉自体にそのことが現れている。ニュース・バリューの判断ということは、何を基準としていうのだろうか。

K氏はメーデーに参加して、たまたま検挙された。そして、〝悪質(暴力的な)な共産党員〟という、レッテルをはられた。その結果、彼は生活に窮してきた。彼はその言葉によると、共産党でもないし、悪質でもない。だから、このレッテルの下に生活に窮するということは、何としても不合理である、と考えた。そのレッテルから逃れるため、分離公判を受けたいと願って、村木弁護士のもとを訪れたのである。

そのことを、たまたま知って、彼のもとを訪れた私は、彼に何を訴えたいか、何を期待したいのか、とたずねた。彼は、共産党でないということを明らかにしたい、(それは、それを明らかにすることによって、取消された就職口や、家庭教師の口を回復し得ると期待したのであろう。)もちろん、そのために公判を分離しようと思った、というのであった。

このような本音は、ことにインテリといわれる種類の人たちにとっては、それこそ本当に追いつめられてこなければ、吐けない言葉である。ここまで、本当のことをいわせるのが、 記者の取

材力である。インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。

私が兵隊の時に負傷したことがある。その傷口と出血をみて、私は脳貧血を起しかけた。頭がジーンとなって、気が遠くなってゆくのを感じた時、「アア、俺は将校なんだ。こんなことで卒倒したら、笑いものになる!」という、お体裁の意識がヒラめいて、辛くも気を取り直したことがあった。

もっとも、これは、もし倒れれば、明日から将校として兵隊を使うことができなくなる、という実利的な問題もあったのだが。

ロッキードとグラマンが、決算委で問題になっている当時、ある防衛庁高官が、赤坂のアンマさんに暴行を働らいた、という事件が明るみへ出ようとした。この事件は、いろいろと止め男が出てきて、とうとうモミつぶされてしまったが、私が調べてみた限りでは事実である。

しかし、暴行の内容であるが、いわゆる強姦したのかどうかまでは、明らかではない。襲われた本人や、同僚の話によってみると、この防衛庁高官が、二十一歳のアンマさん(もちろん、正眼の娘さん)に、いわゆる襲いかかってきたことだけは確かである。

議員だからインテリではない、といったような逆説はやめて、国防大臣ともいうべき人だか ら、いわゆる知識人の範ちゅうには入る人物である。

最後の事件記者 p.042-043 ミーハーの心を知る記者

最後の事件記者 p.042-043 新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。
最後の事件記者 p.042-043 新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。

この防衛庁高官が、二十一歳のアンマさん(もちろん、正眼の娘さん)に、いわゆる襲いかかってきたことだけは確かである。

議員だからインテリではない、といったような逆説はやめて、国防大臣ともいうべき人だか

ら、いわゆる知識人の範ちゅうには入る人物である。このような人でさえ、本音を吐けば、寝床に傍近く侍して、身体のマッサージをする娘さんに、何かを強要したくなるのである。私には、この老人の心理がよく判るから、ここで非難しようとするのではない。

つまり、東大の大学院学生であるK氏も、本音をはけば、食うのに困ってきて不安を感ずる一人の亭主にすぎないのである。しかも、インテリだから、歯を食いしばって、それに耐えて行こうとする、根性もないのである。

新聞記者の適性

新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。ネタを取れるということと、記事が書けるということとは、車の両輪のようなものである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。インテリの記者は、企画記事か発表記事、つまり取材競争のない記事しか書けないのだ。

一例をあげると、事件記者の取材の一番大きな対象は、お巡りさんである。お巡りさんはイン

テリではなく、ミーちゃんハーちゃんと同じ庶民、大衆の一部で、ただ国家権力を行使し得る、職業的専門家である。

ミーハーの心を知らなくては、ミーハーから取材はできない。お巡りさんの気持と、通じあい、交りあうものがなければ、彼らが公務員法でしばられている、職務上の秘密を洩らすであろうか。発表を聞いて文字にすることは取材とはいわない。

その端的なケースが、捜査一課、つまり、コロシ、タタキを担当している記者たちである。テレビの事件記者の中で、スターとして登場してくる彼らは、新聞記者の花形の如くに扱われている。

しかし、現実にはどうだろうか。一課記者は、新聞記者仲間では、内心「フフン、デカか」と軽蔑されている。あるいは、気に喰わない一課記者を飛ばす時の文句は、「お前はデカか?新聞記者なんだぜ、デカになってしまってはダメじゃないか」という。

だが、殺人事件が起ると、実際に各社を抜いてスクープするのは、そのデカみたいな記者である。あまり知性の感じられない、いわばデカになり切ったような記者である。本物のデカたちと、共通の広場があるから、スクープできるのである。

最後の事件記者 p.044-045 「バカヤロー奴」と舌打ち

最後の事件記者 p.044-045 〝事件を知らない〟記者が早くエラクなる。何故かといえば、事件をやると、失敗して傷つく確率がふえるからである。危険率が多いのである。
最後の事件記者 p.044-045 〝事件を知らない〟記者が早くエラクなる。何故かといえば、事件をやると、失敗して傷つく確率がふえるからである。危険率が多いのである。

この傾向は、本職のデカたちの間にもあるのだから面白い。強力犯を扱う捜査一課の刑事たちを横目にみて、会社から押収してきた帳簿類を調べながら、智能犯を扱う捜査二課の刑事たちは、フフンと笑う。

『強力犯か、オレたちは智能犯だからナ』

そんな捜査一課、二課の刑事部の刑事たちをみる、公安部の刑事たちは、また腹の中で嘲う。

『フフン。ドロボーか。オレたちは思想犯だからナ』と。

ところが、さらに、同じように私服を着ているのだが、半張りを打ったドタ靴で、テコテコ歩き廻っている、これらの現場を持つ刑事たちに、ハナモ引ッかけない一群がいる。それは、警務系統のお巡りさんである。

警務というのは、会社でいえば総務だ。この連中は、ドロボー一人を捕えることもできなければ、捕えても調書一つ満足にとれず、送検の手続きさえも十分ではない。つまり、同じ警察官でありながら、捜査という、警察官にとって、一番大切な、基本的な実務をせずに、事務屋でいて、どんどん階級が上り、エラクなってゆく連中である。

新聞記者の世界も、もちろん、そうだ。事件記者というのは、フンダンに自動車が使えるだけ

で、実際には、軽蔑されているのだ。そうして、そのように一番大切な現場を踏んでいる記者よりも、警務畑といった、〝事件を知らない〟記者が早くエラクなる。何故かといえば、事件をやると、失敗して傷つく確率がふえるからである。危険率が多いのである。

記事訂正と記者

話がすっかりそれてしまったが、K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いたのであった。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。

そこで私はいった。「よろしい、貴方の御希望通りにお手伝いしましょう。そのためには、ニュースのキッカケというのがあります。その方が、記事を書きやすいから、あなたが、分離公判を受けたいという気持を、手記として、弁護士に寄せたという形式をとりましょう。今の気持を書いて下さい」

彼が書いてきた文章をみて、私は「バカヤロー奴」と舌打ちせざるを得なかった。彼の手記なるものは、彼の気持と全くウラハラな、例のむづかしい漢語の多い、公式的共産党的声明文であ

る。「…し得る権利を保有したい。」といった調子である。

最後の事件記者 p.046-047 新聞記者は全くのウソは書かない

最後の事件記者 p.046-047 私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。
最後の事件記者 p.046-047 私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。

彼の手記なるものは、彼の気持と全くウラハラな、例のむづかしい漢語の多い、公式的共産党的声明文であ

る。「…し得る権利を保有したい。」といった調子である。

学芸欄の論文じゃあるまいし、こんなものが全文社会面に載ると思って書いたのだろうかと、私はK氏頭脳を疑った。インテリだから、文字にするとなると、自分の願っていることと、全くウラハラな漢語をつづり合せてしまうのである。

私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、手記の量が減ったので、弁護士のもとに申し出ている、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。

私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。K氏は抗議していうことには、「中学校の生徒に文章を要約させたとしても、もし私の手記をこのように要約したとしたら、教師は多分落第点をつけるであろう」という。

今、素直にいって、この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。しかし、手記以前の問題「赤いといわれて食えない」という、根本的な問題において、 彼の主張を私はいささかも、まげてはいないと信じている。彼が、読売新聞の記事によって、〝赤くない〟という客観的立証を期待した限りにおいては、この記事はそれを立派に果しているのである。

そして、その当時においては、共産党と自由法曹団にとっては、強烈な打撃であったことは確かであろう。

その後のK氏が、果して食えるようになったかどうか、記事のその意味での効果については、私は調べてみなかったので判らない。私は、K氏の抗議を結論として、全面的に突っぱねたのである。記者として、取消から訂正などを出すということは、大変に不名誉なことである。

それは、彼の取材が不正確であったし、原稿の書き方が下手だ、ということだからだ。新聞内部の組織からいって、このような間違いの責任は、取材記者本人と、その原稿を採用して紙面に載せた当番次長、さらに社会部長ということになる。

一人の記者が、相手の抗議を入れて、しばしば訂正をし、取消しをしていたならば、それは記者としての失格を意味する。だから、新聞記者は訂正や取消しを頷じえないのである。新聞社が、訂正や取消しを簡単にしないのではなくて、その担当記者がしないのである。

長い年月と、費用とをかけて、これを裁判で争うだけの覚悟がなければ、新聞に抗議を申しこむのは、ドンキホーテである。新聞記者は、一、二の例外をのぞいて、全くのウソは書かないか

らである。もし、全くのウソを書いたとすれば、それは、ニュース・ソースがウソをついたか、全く善意の過失かの、どちらかである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.144-145 村上道太郎はSCIで高良とみに結びついた

赤い広場ー霞ヶ関 p.144-145 Michitaro Murakami proactively promoted and educated communism while in Siberia like as a Soviet political officer.
赤い広場ー霞ヶ関 p.144-145 Michitaro Murakami proactively promoted and educated communism while in Siberia like as a Soviet political officer.

彼は女史関係の資料の整理をしているうちに、外電の伝えた「同行の秘書松山繁」なる人物が、いつの間にか

消えてしまったことに気付いたのである。出入国者の名簿を繰ったが該当者はない。彼が赤鉛筆でチェックした「松山繁」の外電記事は再び情報収集者(インタルゲーション)の許にもどされ、収集者は部下の捜査官(インベスチゲーション)に任務を与えた。適用法令は出入国管理令違反の不正出国である。

捜査官の活動は直ちに開始され、「松山繁」なる人物は村上道太郎氏であり、同氏は六月上旬北京で女史と別れ、帆足、宮腰氏らについて香港経由七月一日に帰国していることが判明した。アナリストは部下の報告書を前にして考え込んだ。その報告書にはこう述べられている。

村上氏は愛媛県越智郡桜井町の出身で昭和十八年九月中央大学卒、昭和十五年九月から同十九年五月まで住宅営団に勤務中応召、甲種幹部候補生となり、軍曹で終戦となった。

二十四年十二月復員後、二十六年四月から学徒援護会に勤務し、学生キャンプの事務主任となっていた。その間SCIのグリーン・クロス運動に関係、日本支部が本年二月十八日設立されると、書記長となって会長の高良女史に結びついた。

そして三月十九日「国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)内、国際建設奉仕団連絡調整委員会からの招待により、会議出席および委員会事業視察のため」と称してフランス、インド、パキスタンへの旅券申請を行い、高良女史の秘書として同二十一日空路出発した。

その後女史と同行入ソし、ジャーナリズムに注目されてから後は、外国通信記者をはじめ飯

塚読売、坂田共同両特派員らに対して、自ら村上なることを隠し常に「松山繁」と名乗り、通訳兼案内役として岡田嘉子との会見や、イルクーツク(村上氏の抑留地)ハバロフスク、北京と同行、六月上旬北京で女史と別れ帆足、宮腰両氏らについて香港経由七月一日帰国した。

帰国後も自宅付近では「村上道太郎」が高良女史の秘書としてソ連中共旅行をしてきたということを隠し、また宮腰氏秘書中尾和夫氏などが、堂々公開の席に現われているにも拘わらず全然表面に立たず、ほとぼりの冷めたころになって、ようやく二、三の集会に「松山繁」として姿を現わしたが、七月下旬ごろから再び姿をかくし自宅でも旅行中というだけで行先がわからなかった。

引揚関係当局の談によれば、シベリヤ抑留間の村上氏は、イルクーツク収容所からライチハ地区に移り積極的な思想宣伝を行って、同地区政治学校講師兼文化部長となり、ロシヤ語にも長じていた。引揚げは二十四年後半の〝赤い復員〟華やかなころ、十二月二日舞鶴入港の信洋丸で中隊副長として上陸した。この引揚梯団は、ソ連に忠誠を誓った第一号として有名な大平元海軍少佐が梯団長で、副長というのはソ連の政治部将校にも比すべき、筋金入りの職名であったという。

また同じ収容所にいた元憲兵少尉大塚六三氏の談によれば、『村上道太郎氏とは昭和二十二年冬 シベリヤのライチハ地区収容所以来、引揚るまで一諸でしたが、彼は収容所の民主グループのアクチブとして活躍、われわれ捕虜の強制的共産化に急先鋒となっていた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.146-147 孔祥熙の直系、冀朝鼎から出た金か…

赤い広場ー霞ヶ関 p.146-147 Michitaro Murakami was a complete red who had been forced to communize prisoners in Siberian camps. Tomi Kora and Michitaro Murakami's travel expenses came from a funds of the Chinese Communist Party...
赤い広場ー霞ヶ関 p.146-147 Michitaro Murakami was a complete red who had been forced to communize prisoners in Siberian camps. Tomi Kora and Michitaro Murakami’s travel expenses came from a funds of the Chinese Communist Party…

また同じ収容所にいた元憲兵少尉大塚六三氏の談によれば、『村上道太郎氏とは昭和二十二年冬

シベリヤのライチハ地区収容所以来、引揚るまで一諸でしたが、彼は収容所の民主グループのアクチブとして活躍、われわれ捕虜の強制的共産化に急先鋒となっていた。私や猿渡少佐(福岡出身)田代中尉(栃木出身)増崎中尉(福岡出身)ら将校グループは、アンチデモクラート、反動分子として彼のために何回も吊し上げにかかり「反動には再び日本の土を踏ませるな」とまでいわれ、引揚船の中でも彼が「生活資金五百円よこせ運動」や「職よこせ運動」などで、ストを指導しており、彼は完全に赤い思想の持主です』という。

当局のアナリストは別のファイルを取出して、ある情報と並べてまた考えた。その情報はこう述べている。

中国財界の巨星として有名な孔祥熙系の商社に揚子公司(在米)というのがあり、同社は中共への戦略物資輸出のため現在閉鎖されているが、同社からアルバート・リーと称する中国系米人が日本へ派遣され、同人がモスクワ経済会議の日本代表出席工作をやり旅費その他一切の資金を中国研究所所長平野義太郎氏に提供した。

平野氏は周知の通りモスクワ会議のためのコペンハーゲン準備会で日本側委員に選ばれ、中日貿易促進会を舞台に同会議出席を熱心に運動した人である。この金が平野氏から帆足、宮腰両氏に渡され、両氏らは香港まで自費で行き香港からはその資金によって旅行した。

ところがその金は孔祥熙氏の直系で、同氏が中共への寝返り工作に起用したといわれる中共系の中国銀行総裁冀朝鼎氏から出たもので、高良女史は冀氏とアメリカのコロンビア大学で同窓であり、北京で同氏と親しく会見していることなどから、村上氏らの旅費もここから出ているものと推測されている。

アナリストは結論を下した。『松山繁こと村上道太郎に関して不正出国の犯罪容疑はない。しかし、これは外事警察としての重要な視察対象である』と。

私はこの動きを察知して村上氏と高良女史とを訪ねてみた。二十七年八月九日付読売の記事によってそれをみてみよう。

記者は幾多の疑問を投げたまま姿をくらました村上氏を追って約十日間、ようやく箱根芦の湖に近い小田原営林署の姥子建設事業所内に妻よし子さんとともにいた同氏を発見、六日午後訪れた。取次から来訪者ときいて驚いた声で『名刺をもらったか?』というのを聞き、居留守を使われてはと強引に居室の戸を叩いて面会を求めた。『何しに来たんです。どうしてわかりました』と詰問調に問いかけながら『新聞記者に会うのははじめてです』とつぶやく。和服の着流し、油気のない長髪、指先がかすかに震えながらも、話す口調などはやはりある種のタイプだ。妻女は原稿の清書をしている。以下一問一答。

赤い広場ー霞ヶ関 p.148-149 「あなたはこの記事を書く気か」

赤い広場ー霞ヶ関 p.148-149 A question and answer with Michitaro Murakami. “You were Communist active in Siberia. Why did you enter the Soviet Union as a secretary of Tomi Kora and used pseudonym?”
赤い広場ー霞ヶ関 p.148-149 A question and answer with Michitaro Murakami. “You were Communist active in Siberia. Why did you enter the Soviet Union as a secretary of Tomi Kora and used pseudonym?”

以下一問一答。

問——あなたは村上道太郎さんか。

答——そうだ。

問——高良女史のソ連旅行中同行した秘書松山繁なる人物はあなたか。

答——そうだ。学生時代から文学をやっていた私のペンネームが松山で、最初UPの記者が秘書松山と報道したので旅行中そのまま通した。旅券その他公文書は村上だから問題ではない。

問——松山というペンネームは作品で発表したことがあるか。

答——ない。

問——発表、使用したことのないペンネームをなぜUPの記者が知っていたか、あなたが名乗らぬかぎり解らないではないか。

答——(しばらく沈黙ののち声を高めて)一体あなたは記事を取りにきたのか。今まで秘書松山で一般に通用し、一般もそう思って何事もなくすんでいるから、問題はないはずだ。なぜ松山が村上であることをホジくろうとするのか。

問——なぜ所在を明らかにせずここにきたのか。

答——原稿を書くためだ。

問——意識的に村上を伏せ、松山と名乗ったのは何故か。

答——高良女史の立場やそのほかいろいろと影響するところが多かったからだ。いまや世界各地で起りつつある事件はすべて国際的つながりがあり、その視野で判断せねばならない。フランスのデュクロ、リッジウエイ両事件など、今度の旅行でみてきた評論的な旅行記五百枚を書くのもそのためだ。これも松山の名で発表する。そんな事を顧慮したからペンネームを使った。

問——シベリヤ時代アクチブだったあなたが、高良女史の秘書として入ソし、しかも偽名していた事は、いろいろな問題を考えさせるし、高良女史の言動の是非論ともからんで国民の一番知りたいことだ。

答——あなたはこの記事を書く気か。(声がやや大きくなる)私は高良氏の正式な秘書でないから高良氏のことはいえない。

問——なぜハバロフスクで遠い墓地に行ったか。市内にも無数にあるということだ。

答——市内や周辺の墓地は三—五人の小さなものなので、雪解けであるということで遠い処へ行った。

問——ソ連の一少将が戦犯への文通、送金自由といったからとて、具体化の見通しもなく

発表したのは?

赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 「彼と私は全く相容れない立場」

赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 In Siberia, Activist Michitaro Murakami ruled the Raichikhinsk camp after the exile of "the Emperor Raichikhinsk" Shizuo Nakanishi, and was called "the Emperor Murakami".
赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 In Siberia, Activist Michitaro Murakami ruled the Raichikhinsk camp after the exile of “the Emperor Raichikhinsk” Shizuo Nakanishi, and was called “the Emperor Murakami”.

問——ソ連の一少将が戦犯への文通、送金自由といったからとて、具体化の見通しもなく

発表したのは?

答——研究中だということだ。私なら発表はしない。高良氏のことにはもう答えない。

問——あなたは共産党員もしくは共産主義者か。

答——党籍は持っていない。(冷笑して)党員に向って党員かときいた時、党員ですと答えるバカはいない。

問——ロシヤ語を話し、アクチヴだったあなたが計画的に女史を入ソさせ、いいように女史を操っていたのではないか。

答——高良氏のことにはもう答えない。

問——抑留地イルクーツクでだれかに会ったか。シベリヤで日本人に会ったか。

答——(沈黙)

問——さっきその他いろいろな影響があるといった、いろいろな影響とは?

答——第一に学徒援護会に迷惑がかかる、私だって生活して行かなきゃならない……(再び声を荒らげて)記事にする気なのか。私はオフレコのつもりで話したのだ。もう話したくない。

約四十分、村上氏は外出の時間があると打切った。最後に声をひそめて、『今さらなにを調

べるんです。もしもこんなことをスッパ抜くと、貴方は、大衆の怒りを買いますよ、国際的にも……』と真剣な表情で、明らかに脅迫の言葉を記者に投げつけた。

高良とみ女史談『村上氏のことは学徒援護会で聞いて下さい。あの人は私の秘書ではありません。前身やらいろいろ隠していたことがあったので、グリーン・クロスの書記長はパリの会議が終るとすぐやめてもらいました。もう何の関係もない人です。入ソおよび在ソ間の私は私自身の意思で行動しました。村上氏に引回されたということはありません。ともかく彼と私は全く相容れない立場にあるのです』

私はここで非常に数多くの疑問を感じたのである。この疑問を当局のアナリストにただしてみた結果、当局でもまた、私と同じような判断を下しているのだった。

疑問の第一は、高良、村上両氏の結びつきである。シベリヤ、ライチハ収容所における村上氏は、〝ライチハ天皇〟こと中西静雄氏がボスとして追放されたのち、その実権を握り地区講師兼文化部長で〝村上天皇〟(シベリヤには何と〝天皇〟の多かったことか)と称されるにいたった。これは政治学校で教育され「人間変革」を完成したアクチィヴィストである。

その彼が復員後SCIの縁十字運動書記長として会長の高良女史と結んだのは、果して故意か偶然かということだ。ここに同氏の父君がやはり緑化運動関係者である、という条件を考えると偶然であるともいえるが、出てきた結果からみると、シベリヤ・オルグの予定されたコー

スでもあるようである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.152-153 疑問の第二は両氏の仲違いである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.152-153 What did Tomi Kora and Michitaro Murakami do in the Soviet Union? What happened?
赤い広場ー霞ヶ関 p.152-153 What did Tomi Kora and Michitaro Murakami do in the Soviet Union? What happened?

出てきた結果からみると、シベリヤ・オルグの予定されたコー

スでもあるようである。

疑問の第二は高良、村上両氏の帰国後の仲違いである。前記の記事でみる通り、高良女史にとっては村上氏は不愉快極まりない存在で『秘書でもないし、委員長はパリで止めてもらい、相容れない立場』と、正面からケンカを売っているが、村上氏は『高良女史のことは語りたくない』と、ケンカが消極的だ。ところが、村上氏の母堂の言によれば、女史への悪感情は相当なもので、『息子を利用するだけ利用したくせに……同じ婦人の立場であんな人が国会議員だなんて恥しいことです。利用できるものは徹底的に利用してあとは顧みない。息子の前途をメチャメチャにしたのはあの人です』と、手厳しい。

しかし、いずれもそのケンカの内情を語らず、ことに在ソ間のこと、ソ連で何をしてきたかということは、二人の間だけの秘密であるので、第三者にうかがい知れない事件があったことは確かである。またこのケンカが両者の表現そのままの通りの事実かどうか、つまり八百長のケンカではないかとも考えられる。

疑問の第三はモスクワ入りの決意の時期と動機である。日本出発時に村上氏はすでに予定していたかどうか、女史がどんな形でこの〝壮挙〟を考え決行したかである。女史の談にあるように『パリで止めてもらった』ならば、不愉快な感情の二人の外国旅行は不自然なことであ

る。

疑問の第四は旅費である。アルバート・リー氏供与説を女史にただしたところ、烈火の如く怒られて、『とんでもない。私の貯金を全部下ろし、それでも足りなくて婦人雑誌社などに寄稿の約朿をして稿料を前借し、村上さんの分まで出してあげたのです。全部私持ちです』という。しかし、この話は後に「高良資金」のことをただした時の、『旅費の残り三十七万円』というのと若干矛盾するようである。三十七万円も余るようならばハシタ銭の前借りの必要もなかろうし、息女の招待以外の外遊滞在費だけでも大変な額であろう。

疑問の第五は村上氏の対高良女史の消極的態度である。母堂があれほど口を極めて女史を攻撃するのに、本人はあまりにも消極的である。母堂の言葉は老婦人の感情的グチと片付けられないものを持っているのである。しかし本人は攻撃せずに語るのを避けている。

疑問の第六は、訪ソ後の女史の意気軒昂振りである。殊に中共引揚使節団のさいの態度などは確信にみちみちていた。

疑問の第七は、第八はと列挙してゆくならばまさに紙数は尽きない。ここでこれらの疑問に応える綜合的判断を下してみよう。

村上氏の緑十字運動参加は、父君の関係もあって自然に行われた。村上氏のシベリヤ・オル グとしての使命は、ソ連側の人選が高良女史を適任と認められてから与えられた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.154-155 中国系米人アルバート・リーとは

赤い広場ー霞ヶ関 p.154-155 Tomi Kora who entered the Soviet Union was given a mission by the Soviet authorities. And she noticed for the first time that she was being manipulated by secretary Michitaro Murakami.
赤い広場ー霞ヶ関 p.154-155 Tomi Kora who entered the Soviet Union was given a mission by the Soviet authorities. And she noticed for the first time that she was being manipulated by secretary Michitaro Murakami.

村上氏の緑十字運動参加は、父君の関係もあって自然に行われた。村上氏のシベリヤ・オル

グとしての使命は、ソ連側の人選が高良女史を適任と認められてから与えられた。女史は村上氏の演出する環境下に欣然として入ソした。

女史は入ソ後にある使命を与えられた。その与えられ方は幻兵団のスパイ誓約署名と同じく拒み得なかったであろう。そして比喩的な表現をすれば、女史は初めて自分は〝猿〟で、秘書という名の〝猿廻し〟がいることに気付いたであろう。女史はその環境下でこれを自分の政治的立場に転用することを図って成功した。しかし村上氏への憎悪は消えない、と同時に自己の秘密を握る同氏を恐れた。

村上氏は「人間変革」を完成した人物である。彼には強い圧力で口止めが行われた。母堂の母親としての吾が子への愛情は深く、若干部分の秘密が母堂へだけは洩れた——?

話は前へ戻ってアルバート・リー氏にもう一度御登場を願わねばならない。「高良女史とナゾの秘書」を書いて数ヶ月後。「東京租界」キャンペーン記事の第十回分「諜報機関」にこう書いてある。

上海の租界にはかって各国の諜報部員が姿を変えて忍び込んでいたことは、日本の陸海軍の例を見ても明らかである。東京が租界的様相を呈しているとすれば、同じことが当然あると思われる。

国警、旧特審局、警視庁がお互いに得た情報を交換して、東京を中心にした在日中共組織の実態を組立てた極秘文書がある。

その中に中共の在日組織は人民革命軍事委に直属するものと、華南軍政委に直属する二つの非公然組織があるとされ、後者の対日責任者は頼洸(在広東)で日本には林美定という人物が特派され、林は部下に姚美戈(京大卒)を持ち、姚はさらに閻西虹(法大卒)という男を使っており、この姚と閻とに資金を提供しているのが目黒区上目黒八の五七六に住む廖伯飛ともう一人中国系米人アルバート・リーだといわれる。以上は極秘の公文書だがこれを一応信頼出来るものとして調べあげ、東京の租界的様相の一典型として読者の判断の資料とした。

警備当局の連中がいま最大の関心を持って知りたがっていることはモスクワ経済会議に呼ばれた高良とみ、帆足計、宮腰喜助氏らに費用の一部を提供したのが、アルバート・リーではなかったかという漠然たる疑いである。

警備当局の言い分によると、話は少し大ゲサだが蒋介石と対立した浙江財閥の孔祥煕が中共ヘ寝返るため大番頭の冀朝鼎を中共政府に派し、自らはアメリカに逃げた。冀朝鼎は現在中共政府に用いられて北京中国銀行総裁となり、中共代表団が国連総会に呼ばれたときも随員の一人になった。一方孔祥熙はアメリカで揚子公司を創設したが、これは中共へ送り込む戦略物資 の買漁りをやったためアメリカ政府によって閉鎖させられた。