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迎えにきたジープ p.044-045 日本新聞社への応募書類

迎えにきたジープ p.044-045 "Why do you want to work for the Nihon Shimbun?" "First of all, I want to research the Soviet Union. Secondly, I want to study Russian. "
迎えにきたジープ p.044-045 ”Why do you want to work for the Nihon Shimbun?” “First of all, I want to research the Soviet Union. Secondly, I want to study Russian.”

——来たな! やはり今夜もか?

今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、

直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

『ダ、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜だった。この日はペトロフ少佐の思想係着任によって、具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉がカンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの中佐が待っていた。

私はうながされてその中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記人していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。

私はスラスラと正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト気がついてみるとそれはこの春に提出した。ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集のさいの応募書類だ。

『何故日本新聞で働きたいのですか』

中佐の日本語は叮寧な言葉遣ひで、アクセントも正しい気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロシヤ語の勉強がしたいのです』

『宜しい、よく分りました』中佐は満足気にうなずいて、帰ってもよいといった。私が立上って扉のところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。

『パダジジー!(待て!)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭抗の作業について質問されたのだ。いいか、分ったな!』

見知らぬ中佐が説明するように語をつぎ、『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。

こんなふうに言含められたことは、はじめてであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞという予感がした。見知らぬ中佐のことを、歩哨は〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思った。

迎えにきたジープ p.046-047 そして三回目が今夜である

迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. "Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element." In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.
迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. “Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element.” In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.

それから一ヶ月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から「民主グループ」という積極的な動きに変りつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを、少佐自身の意見は全くはさまずに質問した。

結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。

これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、或る時には反動分子にもなれということ、即ち〝地下潜入〟であり〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ連側政治部の見方でもあったのだろう。

この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。

そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。

——何だろう、日本新聞行きかな?

忙しい身支度は私を興奮させた。

——まさか! 内地帰還ではあるまい!

フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮べていたのだった。ニセの呼び出し、地下潜行!

——何かがはじまるんだ!

吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走りぬけ、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。廊下を右に折れて突き当りの、一番奧まった部屋の前に立った歩哨は一瞬緊張した顔つきで服装を正してからコツコツとノックした。

『モージノ』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほどよくあたためられた部屋に入った私は、何か鋭い空気を感じて、サッと曇ってしまった眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されていた関係もあって、左手は真直ぐのびてズボンの縫目にふれていたし、勢よく引きつけられた靴の踵が、カッと鳴ったほど厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに は、みたことのない若いやせた少尉が一人。

迎えにきたジープ p.048-049 何か大変なことがはじまる!

迎えにきたジープ p.048-049 I heard the dull sound of "Clunk" and looked down at Petrov's desk. ——Gun! The muzzle of a Browning type pistol point at me.
迎えにきたジープ p.048-049 I heard the dull sound of “Clunk” and looked down at Petrov’s desk. ——Gun! The muzzle of a Browning type pistol point at me.

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに

は、みたことのない若いやせた少尉が一人。その前には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ピンと天井の張った厳めしいこの正帽は、NKだけがかぶれるものである。

密閉された部屋の空気はピーンと緊張していて、わざわざ机の上においてある帽子の、眼にしみるような鮮かな色までが、すでに生殺与奪の権を握られた一人の捕虜を威圧するには、充分すぎるほどの効果をあげていた。

『サジース』(坐れ)

少佐はかん骨の張った大きな顔を、わずかに動かして向い側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当っていた。私は扉の処に立ったまま落ちつこうとして、ゆっくりと室内を見廻した。八坪ほどの部屋である。

正面にはスターリンの大きな肖像が飾られ、少佐の背後には本箱、右隅には黒いテーブルがあり、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれた文字が印象的だった。

歩哨が敬礼をして出ていった。窓には深々とカーテンがたれている。

私が静かに席につくと少佐は立上って扉の方へ進んだ。扉をあけて外に人のいないのを確か

めてから、ふり向いた少佐は後手に扉をとじた。

『カチリッ』

という鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルッと震えた。

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞えない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの密室で、私は二人の秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ろうとしているのだ?

呼び出されるごとに立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人人だけで、他の者は一部しか知り得ない組織になっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は静かに大股で歩いて再び自席についた。それからおもむろに机の引出しをあけて何かを取りだした。ジッと少佐の眼に視線を合せていた私は、『ゴトリ』という鈍い音をきいて、机の上に眼をうつした。

——拳銃!

ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。

迎えにきたジープ p.050-051 私のいう通りのことを紙に

迎えにきたジープ p.050-051 Major Petrov said, "Do you wish to serve the Union of Soviet Socialist Republics?"
迎えにきたジープ p.050-051 Major Petrov said, “Do you wish to serve the Union of Soviet Socialist Republics?”

ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう

と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。

少佐は半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシヤ語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳した。

『貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと、願いますか』

歯切れのよい日本語だが、私をにらむようにみつめている二人の表情と声とは、『ハイ』という以外の返事はは要求していなかった。短かく区切って、ゆっくり発音すると、非常に厳粛感のこもるロシヤ語で、平常ならば国名もエス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと正式に呼んだ。その言葉の意味することを、本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

『ハ、ハイ』

『本当ですか』

『ハイ』

『約束できますか』

タッ、タッと息もつかせずにたたみ込んでくるのだ。もはや『ハイ』以外の答はない。

『ハイ』

私は興奮のあまり、続けざまに三回ばかりも首を振って答えた。

『誓えますか』

『ハイ』

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙もあたえずに、少佐は一牧の白紙をとりだした。

『宜しい。ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい』

——とうとう来る処まで来たんだ!

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

『日本語ですか、ロシヤ語ですか?』

『パ・ヤポンスキイ!』(日本語!)

ハネかえすようにいう少佐についで、能面のように表情一つ動かさない少尉がいった。

『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。

『チ、カ、イ』(誓)

『………』

『次に住所を書いて、名前を入れなさい』

『………』

迎えにきたジープ p.052-053 私には終身暗い影がつきまとう

迎えにきたジープ p.052-053 "I pledge to do whatever is ordered for the Soviet Socialist Republic. I understand that if I break my vow, I will be punished by the law of the Soviet Socialist Republic."
迎えにきたジープ p.052-053 ”I pledge to do whatever is ordered for the Soviet Socialist Republic. I understand that if I break my vow, I will be punished by the law of the Soviet Socialist Republic.”

『今日の日付、一九四七年二月八日…』

『私ハソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス(ここにもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス。

モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス』

不思議にペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮が退いてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要がないことに気付いて、誓約書の文句も分らぬうちに、サインをさせられてしまったナ、などと考えたりした。

この誓約書を今まで数回にわたって作成した書類と一緒にピンで止め、大きな封筒に納めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

『プリカーズ!』(命令)

私は反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

『ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)一ヶ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿を作れ!』

ペールウイ(第一の)というロシヤ語が耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

『ダー』(ハイ)

はじめてニヤリとした少佐が立上って手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立った。少尉がいった。

『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬよう』

ペールウイ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループがパンをバラまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフのもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と

私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。

迎えにきたジープ p.054-055 寝もやらず思い悩み続けた

迎えにきたジープ p.054-055 "Is it right that I wrote the pledge? Was it too weak to say yes?" After returning to my barrack, I rolled over on the bed and continued to worry about it without sleeping.
迎えにきたジープ p.054-055 ”Is it right that I wrote the pledge? Was it too weak to say yes?” After returning to my barrack, I rolled over on the bed and continued to worry about it without sleeping.

そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と

私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩をガッシとつかんでいる赤い手のことを思い悩むに違いない。そして『……モシ誓ヲ破ッタラ……』その時は当然〝死〟を意味するのだ。そして、『日本内地ニ帰ッテカラモ……』と明示されている。

ソ連人はNKの何者であるかをよく知っている。私にも、NKの、そしてソ連の恐しさは、充分すぎるほど分っているのだ。

——だが待て、それはそれで良い。しかし……一ヶ月の期限の名簿はすでに命令されている。これは同胞を売ることだ。私が報告で認められれば早く内地に帰れるかも知れない。

——次の課題を背負ってダモイ(帰国)か? 私の名は間違いなく復員名簿にのるだろうが、私のために、永久に名前ののらない人が出てくるのだ。

——誓約書を書いたことは正しいことだろうか? ハイと答えたことは、あまりにも弱すぎただろうか?

あのような場合、ハイと答えることの結果は、分りすぎるほど分っていたのである。それは『ソ連のために役立つ』という一語につきてしまう。

私が、吹雪の夜に、ニセの呼び出しで、司令部の奥まった一室に、扉に鍵をかけられ、二人

の憲兵と向き合っている。大きなスターリン像や、机上に威儀を正している二つの正帽、黙って置かれた拳銃——こんな書割りや小道具まで揃った、ドラマティックな演出効果は、それが意識的であろうとなかろうと、そんなことには関係はない。ただ、現実にその舞台に立った私の、〝生きて帰る〟という役柄から、『ハイ』という台詞は当然出てくるのだ。私は当然のことをしただけだ。

私はバラック(兵舍)に帰ってきてから、寝台の上でてんてんと寝返りを打っては、寝もやらず思い悩み続けた。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は止んだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

四 読売の幻兵団キャンペイン

しかし私に舞い込んできた幸運は、この政治部将校ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は次回のレポである三月八日を前にして、突然収容所から消えてしまったのである。ソ連将校の誰彼に訊ねてみたが、返事は異口同音の『ヤ・ニズナイユ』(知らない)であった。そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年 十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。

迎えにきたジープ p.056-057 〝暗さ〟におびえている人たち

迎えにきたジープ p.056-057 This organization was formed around 1947, with personnel selected at each camp in Siberia, each of which was forced to write down a pledge.
迎えにきたジープ p.056-057 This organization was formed around 1947, with personnel selected at each camp in Siberia, each of which was forced to write down a pledge.

そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年

十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。

翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の集団入党のための代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた。

だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキに佇んで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は船中から海に投じ、或者は復員列車から転落し、また或者は自宅で縊死をとげているのだ。

私はこの謎こそ例の誓約書だと信じて、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮び上ってきたのだった。現に内地に帰っているシベリヤ引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。

そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。

彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即ちソ連のもつ暗さである——と斗う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。

このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると

一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。

二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。

三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。

四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。

五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。

などの状況が判断されるにいたった。

迎えにきたジープ p.058-059 「幻兵団」七万人をチェック

迎えにきたジープ p.058-059 The Colonel of MVD asked me (Major Masatsugu Shii). "What do you think of the postwar world situation? What do you think of the causes of the war?"
迎えにきたジープ p.058-059 The Colonel of MVD asked me (Major Masatsugu Shii). “What do you think of the postwar world situation? What do you think of the causes of the war?”

このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると

一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。

二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。

三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。

四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。

五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。

などの状況が判断されるにいたった。

私はこれらのデータに基いて、二十五年一月十一日第一回分を発表、それから二月十四日までに八回にわたってこのソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から曝いていった。この一連の記事のため、このスパイ群に〝幻兵団〟という呼び名がつけられた。

反響は大きかった。読者をはじめ警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも半信半疑であった。CICは確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴援護局の一部の人しか知らなかった。引揚者調査を担当した、NYKビルが、その業務を終ったときチェックされた「幻兵団」は七万人にも上っていたのである。

アカハタ紙は躍起になってこれをデマだといった。読売の八回に対して十回も否定記事を掲載し、左翼系のバクロ雑誌「真相」も『幻兵団製造物語』という全くのデマ記事をのせて反ばくした。その狼狽振りがオカシかった。だが、それから丸三年、二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件でこの幻兵団は立証されたのだった。

五 ソ連的〝間拔け〟

ラ事件の立役者の一人、志位元少佐はスパイ誓約の事実をこう述べている。

最後に四月の二十日過ぎてから私たちの分所に出入りしはじめたのが、モスクワのMVD(エムベデ)から来た大佐とその専属通訳の中尉であった。この大佐が大きな権力を持っていることは私たちにすぐわかった。

四月二十八日朝、大佐の呼び出しを受けて作業を休んだ私は、九時頃分所のオーペルのシュイシキン中尉の案内で本部に大佐を訪れた。大きな手を差し延べて挨拶をかわした後、大佐は上等な口付煙草(パピロース)「カズベック」を私にすすめながら、がっちりした体躯にも似合わない静かな声で口を開いた。

『ガスポジンS(Sさん)、今日はひとつゆっくりした気分で私とつき合ってください。私は、日本人のあなた方がどんな意見を持ち、どんな希望を抱いているかを知りたいのです。どうぞ率直に話してください……。そこでまずどうですか、ラーゲリの暮しは、なにか不満な点はありませんか?』

私は、ハハンかれは検閲官だな、それでこんなことをたずね、所長もかれを特別扱いにしたのだなと軽く考えた。

大佐は私の率直な返事に苦笑してしきりに紅茶を飲めと私にすすめながら、今度は話を飛躍させて世界情勢に移していった。

『あなたは戦後の世界情勢をどう考えられますか? また、それがどうなると思われますか?』

大佐はさらに 『それではあなたは戦争の原因をどう考えますか?』と、たずねた

最後の事件記者 p.152-153 菊村到氏の記者モノ

最後の事件記者 p.152-153 読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う、私も出勤がおそかったからだ。
最後の事件記者 p.152-153 読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う、私も出勤がおそかったからだ。

現実のこの社会の中で、特に新聞社とは限らずに、あらゆる組織体の中で、果して実力者だけが〝立身出世〟をしているといえるだろうか。現実には、〝危険な英雄〟よりは〝安全なサラリーマン〟が、出世のコツであるのだ。

読売の記者に、ある立身出世主義者がいた。もちろん、バカや無能力者では、出世できないのは当然である。記者としての能力は、もちろん一通りは備えていた。しかし、彼には、「あの事件の時は…」といった、自慢話は、これといってないようである。

彼は、朝の出勤時間に、他人よりは必らず早く出てきた。他人といっても、他の記者もふくめられるが、特に部長である。彼は部長よりは必らずといっていいほど、先に出社したのである。部長が自席につく時には、必ずすでに坐っている彼の姿がある。

読売社会部出身の作家、菊村到氏の記者モノをみると、その記者は必らず部長より遅く出てきて、部長と視線が合わないようにして、ソッと席に坐る場面がある。彼の記者時代がそうだった。読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う、私も出勤がおそかったからだ。

ところが、この〝出世〟記者は、早く出てくるのだ。このことは、確かにエライことだと思

う。努力なしではできないことだからである。私も敬服はしていたのだが、あとが何とも、私には我慢できないことだった。

夕方になる。昼勤の遊軍記者は、特に忙しくさえなければ、適当に消えてしまうのが慣例である。つまり夜勤記者が出てくれば、帰ってしまって、構わない。

ところが、この記者は、部長が着席している限り、絶対に消えないのである。しかも、横目や上目で、チラと部長の席をみる。部長が席を立たない限り、彼も立たない。このような記者が出世をする。部長となり、局長となるのである。

才能を殺す新聞機構

その限りでは、実力者であった菊村氏などは、新聞社における限り、不遇であった。彼の芥川賞受賞の光栄は、本当の意味では社会部員全部によろこんではもらえなかった。彼が社を去る時は、送別会すらなく、いつの間にか出勤しなくなり、辞令が出てはじめて、その退社を知ったほどであった。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井

事件の〝五人の犯人生け捕り〟計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

最後の事件記者 p.154-155 記者ではなくて事務屋である

最後の事件記者 p.154-155 私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。
最後の事件記者 p.154-155 私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井

事件の〝五人の犯人生け捕り〟計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

第一、現在の新聞社の機構では、社会部長も次長も、記者ではなくて事務屋である。ことに次長というのは、行政官、悪くいえば請負仕事の職人である。アメリカの記者のように、例えばNBC放送のブラウン記者が、五十歳ほどの立派な紳士でありながら、デンスケを担ぐのとは違うのだ。

私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。第一、部長、次長という役職者は、自分で原稿を書くチャンスが与えられていない。空前ではないかも知れないが、絶後であるのは、読売の高木健夫編集局次長のような立場だ。

高木局次長は、今でも新聞記者である。自分自身で原稿を書いているからだ。編集局の一隅に自分のデスクがあって、電話の取次ぎをする給仕一人いない。不思議に、このような大記者制度というものが、日本の新聞にはないのである。古くなれば、誰でもが、オートメで役職につけて、その才能を殺してしまうのが、日本の新聞である。

私が、どんなに功名心にかられていても、書かなかった記事、つまり事件は、いくつもある。つまり、相手がどうあろうと、何でも彼でも書きまくって、自分だけが出世をしようなどとは、いささかも考えはしなかった。

徳球要請事件

二十五年三月、参院引揚委員会では、いわゆる徳田要請問題の審議を行った。日本共産党書記長徳田球一が、ソ連側に「日本人の引揚をおくらせてほしい」と要請したという問題が、引揚者によって伝えられたのである。

同委員会では、これを引揚阻害として重視した。そして、ついに徳田書記長を証人として喚問し、吊しあげるという一幕が演ぜられたのだが、徳田書記長はベランメエ口調で荒れまわって、〝モスクワへ行ってきいて来い〟という、名ゼリフをはいたのである。

委員会の審議は、吊しあげるはずの徳球一人に引ずり廻されて、何の真相もわからず、何の結論も出ないまま、その日は散会となってしまった。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外な ことを聞いたのであった。

最後の事件記者 p.156-157 津村追放の表面上の理由

最後の事件記者 p.156-157 日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているという。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟津村謙二だという。
最後の事件記者 p.156-157 日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているという。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟津村謙二だという。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外なことを聞いたのであった。

それは、日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているというのである。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟とまで呼ばれて、在ソ抑留同胞がその一挙手一投足で左右されたと伝えられる、上陸党員の大幹部津村謙二だという。

これこそビッグ・ニュースであった。ことに、徳田書記長にやられてしまって、国会の権威がどうのこうのと、騒いでいる時であったから、その書記長の下にある党員が、事実だと主張しているとあれば、もちろんトップ記事である。

私は張り切って、すぐ調べはじめた。もともと、津村はソ連帰還者生活擁護同盟委員長であったのだが、この一月にその地位を追われたばかりであるし、ソ帰同は改組されて、日帰同となっていた。徳田要請問題は、その前年の暮に、日の丸梯団の帰還者から持ち出された問題である。私は、ソ帰同の改組の当時から調べはじめたのであった。

ソ帰同というのは、二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村らの、ナホトカ・グループの帰国と同時に組織されたもので、その名の通り、ソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、

二十四年十月二十八日に、第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて、帰還者戦線の統一が叫ばれ、「日本帰還者生活擁護同盟」と改称されて、日共市民対策部の下部組織となった。

この第二回大会で組織の改正が行われた。つまり、最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任各十名で平常活動を行い、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして、文化工作隊として、シベリア十六地区楽団と、沿海州楽劇団を合流させて、楽団カチューシャとし、高山秀夫をその責任者とした。これは津村一派でしめていた、委員長、書記長制の廃止であった。

そして、明けて一月になると、役員の改選が行われた。津村委員長は、①楽団カチューシャの資金は、地方帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに、本部人件費として十二万円を流用した。②下部組織に対して発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題を起した。などの理由で、はげしく非難され、ついに三月に入ると、委員長の地位を追われてしまった。

このような経過はすぐ判ったのだが、それをさらに調べてみると、津村追放の表面上の理由は、前記の四つの点であったが、事実は恐るべきものだった。

最後の事件記者 p.158-159 ナホトカ天皇との対面

最後の事件記者 p.158-159 デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特ダネですよ」と、予約をした。
最後の事件記者 p.158-159 デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特ダネですよ」と、予約をした。

ナホトカ天皇との対面

津村委員長は、党内において、①徳田要請問題の否定的資料を集めることを拒否し、肯定資料はあるけれども、否定資料はないという発言を、数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ(註、二十九年来日のソ連スケート団の監督、ラストボロフ帰国命令の護送者)を通じて、ソ連側へ呈出していたが、それが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見を数々の偏向ありと指摘し、その弟睦夫をボスとして批判した、という三点から肅正された事実が明らかになってきた。

しかも、その吊しあげは、袴田の命令をうけた市民対策部の久留義蔵が、津村らナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝ら)を、三月九日から十三日までの五日間、産別会館に軟禁して、徹底的に吊しあげを行い、そのあげくに、党活動停止の処分にしたのであった。

私は、そこまで調べ終ってから、翌日の朝刊のトップに書こうと考えた。社を出る時、デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特

ダネですよ」と、予約をした。取材のしめくくりは、当の本人にインタヴューすることだ。私は、津村を世田谷のはずれの千歳烏山引揚者寮におとずれた。

薄汚い四帖半たらずの部屋の中には、ロープを張りめぐらして、破れかかった色とりどりのオシメが、生乾きのままでブラ下っていた。部屋の中央には、センべイ布団が一枚敷かれて、半年ぐらいの良く肥った可愛いい男の子が、スヤスヤと寝入っている。

妻はもう小一時間もの間、黙ったままで主人と私との会話を聞いていた。妻というのが追放の一つの理由になっている、「婦人問題」の人物、元陸軍看護婦でソ連に抑留され、ナホトカの民主グループで働らいていた須藤ケイ子であった。

私は躍りあがりそうな胸を静めながら、先程、口をつぐんでしまった津村の顔をみつめて、その喉元まできている次の言葉を待っていた。

しばらくの間、沈黙がつづいている。彼はやがて、キッと顔をあげて私を見た。そして、ただ一言を呟やくと、また下を向いた。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』と。

彼は、さきほどから、私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く 意外であった。

最後の事件記者 p.160-161 「書かないでくれ」といわない

最後の事件記者 p.160-161 取材に現われた新聞記者に対して、話をするということは、常識として記事にして掲載してもよいということである。
最後の事件記者 p.160-161 取材に現われた新聞記者に対して、話をするということは、常識として記事にして掲載してもよいということである。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』と。

彼は、さきほどから、私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く

意外であった。というのは、彼は私の質問を黙ってうなずきながら、終りまで聞いていた。その表情は、刻々と変化して、驚きから、ついには感嘆となった。

『一体、どうして、それだけの話を、どこから調べてきたのです!』

彼はこういって、私の質問のすべてを肯定した。事実その通りだというのであった。そして最後に、自嘲にも似た「ヒューマニストだったんです」という、言葉が洩れたのだ。

私は時計をみた。烏山から銀座までの自動車の時間を計算した。〆切時間が迫ってくるのだ。しかし、この日の取材は、いつもと少し調子が違うのである。

あの時期の共産党は、一切の反動新聞をオミットした。党本部へ談話をとりに行っても、責任者は会わなかった。受付子と押し問答するだけである。この共産党員は私を、反動読売の反動記者として承知して、拒むことなく会い、そして、私の調査したことを、すべて事実だと答えるのであった。

うらぶれた寮の部屋

私がニュース・ソースとして、連絡を持っていた共産党員は何人もいた。彼らから、私は情報

は取るのだが、何時も「書かないでくれよ」と念を押された。だから、情報としての情勢判断の根拠、現象批判の材料にはなるのだが、ニュースにはならなかった。情報の確度調査のための質問にも、親切に答えてはくれるのだが、「書くなよ」といわれる。

調子が違うというのは、彼は、今だに「書かないでくれ」といわないのである。私の調査の正確さに感嘆しているのだろうか。自分を処分した党に恨みをもって、一撃を与えるために話したのだろうか。イヤ、そのいずれでもない。だが、事実には間違いない。

これだけの、驚くべき事実に、最後的に裏付けをしてくれた人。もし私が、ただ功名心にだけはやる記者ならば、もうそこまで聞けば充分であった。その家を、サヨナラをいわずに飛び出しても、聞いてしまえばこちらのもの、ということもできる段階であった。

だけれども、私はそうしなかった。これだけのことを、洩らしてくれた人である。彼の意志を知りたかった。取材に現われた新聞記者に対して、話をするということは、常識として記事にして掲載してもよいということである。

『今の話が、そのまま新聞に出たら、一体どういうことになるのでしょう』

『私に対する党活動停止の処分が、除名という最後的な処分に変るでしょう』

最後の事件記者 p.162-163 数日後、津村の姿をみかけた

最後の事件記者 p.162-163 まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。
最後の事件記者 p.162-163 まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。

『今の話が、そのまま新聞に出たら、一体どういうことになるのでしょう』

『私に対する党活動停止の処分が、除名という最後的な処分に変るでしょう』

彼は書くな、書かないでくれ、といわずに、そう答えた。そういわない彼がいらだたしくて、私はおうむ返しにまた訊ねた。

『除名になったら……』

彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って、再び下へ落ちていった。私は彼の視線を追ってみた。

子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてない、この貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った、健康そうな我が子の安らかな寝顔をみつめていた。

『……そしたら、喰えなくなるでしょうナ』彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が、日共の敵〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。

あの、死に連らなる恐怖の人民裁判の、アジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢も、もはやそこにはなかった。政治や思想をはなれて、純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが、このうらぶれた寮の部屋いっばいに漂っていた。

私は無言で立上った。ちょうど同じ位の男の子が、私にもいたのだった。小さな声で「サヨナ

ラ」とだけいって、私は室外へ出た。

まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。

数日後の参院引揚委員会で、私は傍聽席の隅っこに、津村の姿をみかけた。これが最後だった。やはり、彼は日共党員として脱落していったらしい。あの男の子も、もう二、三年生になっているだろう。

或る乙女の自殺

一人の乙女の自殺があった時にも、私はウソを書いたことがある。真実を伝えなかったのである。バカな父親が、社会的にも人間的にも殺されてしまうのを防ぐためだった。

二十六年九月十八日、板橋のある病院で廿歳の娘さんが息を引きとった。前日に猫イラズをのんで自殺を図ったのだが、発見がおくれたため、手当もとうとう間に合わなかったのである。

若いサツ廻りの記者は、この事件をゴミ原稿として電話で送ってきた。私は遊軍だったので、たまたまその電話をとった。内容は「働らきつかれた娘さん自殺」というものだった。母親に先 立たれた長女が、父と弟妹の面倒をみて、主婦代りになって家事をやっていたのだが、それにくたびれて自殺してしまったという。

最後の事件記者 p.164-165 「洋裁のノオトならあるわ」

最後の事件記者 p.164-165 その「人生案内」は、「イヤらしい父」という見出しで、「お酒に酔った父が、フトンをまくったり、いやらしいことばかりするので、心配で夜もオチオチ寝られない」という訴えだった。
最後の事件記者 p.164-165 その「人生案内」は、「イヤらしい父」という見出しで、「お酒に酔った父が、フトンをまくったり、いやらしいことばかりするので、心配で夜もオチオチ寝られない」という訴えだった。

若いサツ廻りの記者は、この事件をゴミ原稿として電話で送ってきた。私は遊軍だったので、たまたまその電話をとった。内容は「働らきつかれた娘さん自殺」というものだった。母親に先

立たれた長女が、父と弟妹の面倒をみて、主婦代りになって家事をやっていたのだが、それにくたびれて自殺してしまったという。それこそ七、八行の短かい記事だった。

その原稿をとり終って、私はフト、「何だか読んだことのあるような記事だナ」と思った。

『オイ、どこかの新聞が、朝刊で書いてるのじゃないか。オレは何だか読んだことがあるようだゾ』

私はサツ廻りにいった。記者は、「とんでもない」と、自分がサボっていたようにいわれたのかと思って、目に見えそうな様子で抗議した。

『アハハハ、そう怒るなよ。出ていなければいいんだよ』

そういって、電話を切って、その原稿をデスクの辻本次長に渡した。すると、彼も読んだような気がするという。それから、二人で考え出してみると、一昨日の朝刊の「人生案内」欄の話が、これと全く同じようなケースだった、ということに気がついたのだった。

取り出して読み返してみると、いよいよ全く同じである。その「人生案内」は、「イヤらしい父」という見出しで、「お酒に酔った父が、フトンをまくったり、いやらしいことばかりするので、心配で夜もオチオチ寝られない」という訴えだった。

『ウン、これだ! 同一人物かどうか、すぐ調べてくれ。ただの自殺じゃないゾ』

私は、婦人部へ行って、人生案内の担当者から、その手紙をもらおうとすると、解答者の真杉静枝女史のもとだという。車を飛ばして、真杉女史宅へ行き、事情を話してその手紙を探してもらった。

そして、娘の家へ行ってみた。お通夜で近所の人たちが集っているが、もう、父親の酔どれ声がする。

『何しにきたンでえ。おめえたち、新聞やなんざあ、来てほしくねえんだ。帰ってくれ。とんでもねえ奴だ』

門前払いを喰わされたのだが、ハイそうですかと帰れない。板橋のいわば細民街、彼女の家もその例にもれない、古い傾いた貧しそうな家だった。私は妹を呼び出した。

「ネ、姉さんの書いたもの、手紙かノオトでもない?』

「洋裁のノオトならあるわ』

『そう、ちょっとみせてよ』

そのノオトを借りると、街灯の明りでみながら、文字の一番多いページを、そっと気付かれな

いように破り取った。

最後の事件記者 p.166-167 『もう、遅かったわ』

最後の事件記者 p.166-167 父がお酒をのんだ時の、あの眼をみると恐しくて、このままでいけば、自殺するより仕方のない私に、希望のもてる生き方を教えて下さい
最後の事件記者 p.166-167 父がお酒をのんだ時の、あの眼をみると恐しくて、このままでいけば、自殺するより仕方のない私に、希望のもてる生き方を教えて下さい

そのノオトを借りると、街灯の明りでみながら、文字の一番多いページを、そっと気付かれな

いように破り取った。

明るいところに出て、手紙と比べてみると、文字のクセはまぎれもなく、同一人物ではないか。私は躍りあがってよろこんだが、さて、もっと具体的な事実が必要だ。父親があんな有様では、傍証を固めなくてはならないのだった。

自殺した娘の日記

私がふたたび真杉女史のもとを訪れると、意外な人物がきていた。自殺した娘の叔父である。彼は、娘の日記と、人生案内の記事とを持ってきていたのである。

「八人兄妹の次女で二十歳の娘。二年前に母と死別、兄と姉は家出して行方不明。私は勤めもやめて、五人の弟妹の面倒をみてきたのですが、食べてゆくのがやっとです。父は給料の半分以上もお酒に使い、私がいくらお金がないといっても、きいてくれません。最近では、父は酔うと、私にイヤらしいことをいったり、夜中にフトンをめくったりします。あまりのことに夜もねむられず、父がお酒をのんだ時の、あの眼をみると恐しくて、このままでいけば、自殺するより仕方のない私に、希望のもてる生き方を教えて下さい」

「お手紙を読んで、私も泣きました。廿歳の娘さんであるあなたは、そんなお父さんの変質の犠牲になるわけにはゆきません。紙上解答が原則ですが、特にあなたには相談にのってあげますから、お手紙を下さい」

そんなような問答だった。だが、この投書は下積みになっていて、女史が見たのはつい最近のことで、あわてて解答を掲載したのだったが、すでに遅かった。彼女は、その新聞を持って、叔父のもとにやってきた。

『もう、遅かったわ』

彼女はそういって、その新聞を叔父にみせた。その時、手の中でオモチャにしているものがあるので、見るとネコイラズだった。あわてる叔父に、「大丈夫よ」と笑うので、「明日は工場を早退して、相談に乗ってやるから」といわれたので、彼女は帰っていった。

翌日の夕方、叔父が彼女の家にいってみると、昨夜服毒したらしく、苦しがってのたうち廻っている彼女の姿があったのだ。

『そんなことを書かれたら、父親は自殺してしまいます。酒をのむと人が変ってしまうのですが、シラフの時は気の小さい男なのですから、死ぬことは間違いありません。どうか、書かない

でやって下さい』

父親の弟というその男は懸命になって頼むのだったが、私は黙っていた。真杉女史も答えない。

最後の事件記者 p.168-169 今度生れてくる時は、もっと

最後の事件記者 p.168-169 調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。
最後の事件記者 p.168-169 調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。

『そんなことを書かれたら、父親は自殺してしまいます。酒をのむと人が変ってしまうのですが、シラフの時は気の小さい男なのですから、死ぬことは間違いありません。どうか、書かない

でやって下さい』

父親の弟というその男は懸命になって頼むのだったが、私は黙っていた。真杉女史も答えない。

日記をみると、如何にも文学少女らしい日記で、一日もかかさずにつけている。だが、その年の三月ごろから、父への呪いの言葉が書かれはじめている。

三月×日、父はお酒をのむと、いやらしい様なしぐさをする。それがほんとにいやだ。

四月×日、叔父は相談に来いという。なぜ行けないのだろう。叔父もやはり男性として考えているからかもしれない。私は父のある半面を非常に憎み、そしておそれている。私にとっては、あらゆる男性がおそろしい。けがらわしいもののように思えてしまう。

六月×日、父はお酒をのんでは、いやなことばかりしようとする。人の身体をさわりたがったり……

六月×日、父はなぜああなのだろう。お酒をのんではいやなことをしようとする。

八月×日、三日ほど前に書いておいた、身の上相談を今朝やっと出した。

九月×日、お母ちゃん、なぜ死んでしまったの、お母ちゃんが死んでから丸三年間、私はずい

ぶん苦労しました。父のこと、弟のこと、お金のこと、学校のこと、そして、近所のことでも、私は精一ぱいやったつもりです。兄ちゃんだって、姉ちゃんだって、みんな家をすてて逃げていってしまった。お母ちゃんは何もかもみているから、知っているでしょう。

私は新聞に投書しました。そして、やっと今夜答が出ていました。もう出ないと思っていたのに、死ぬ前の晩に出るなんて! これも何かのさだめかと思って、考えた末やっと叔父さんのところへ行きました。でもやはりだめでした。私の一度冷たくなった心は、容易にとけそうもない。結局私が意気地なしでだめな人間なのだ。今度生れてくる時は、もっと明るい、ほがらかな娘に生れますように。  おぼろ月夜や、今宵かぎりの虫の声。

拭いきれぬ悪夢

調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。この日がカギだった。私は大塚の監察医務院へとかけつけた。

自殺をはじめ、変死一切、つまりタタミの上で死ななければ、その死体は、ここで行政解剖、犯罪であれば司法解剖にふされる。私は彼女の死体の執刀医をさがした。

最後の事件記者 p.170-171 破瓜したのは一週間ほど前

最後の事件記者 p.170-171 『何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!』
最後の事件記者 p.170-171 『何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!』

調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。この日がカギだった。私は大塚の監察医務院へとかけつけた。

自殺をはじめ、変死一切、つまりタタミの上で死ななければ、その死体は、ここで行政解剖、犯罪であれば司法解剖にふされる。私は彼女の死体の執刀医をさがした。

医師は、事情を聞いて、カルテをみながら言った。

『そうですね。破瓜したのは、ちょうど一週間ほど前でしょう。傷口から判断して…』

道具は全部そろった。娘は父親に殺されたのである。人生案内の解答者が、わざわざ相談にいらっしやい、とまでいっている。親切な解答をしているのに、娘はそれを読みながら、ネコを飲んでしまった。

それは、解答の出る数日前、その忌むべき事件が起ってしまったのだ。それは日記と解剖所見とから立証される。まして、日記からも、弟妹の口からも、近所の噂話からも、男友達のないのが明らかな彼女だった。

『ナ、なにしに来やがった。あの娘が一生懸命やってた時にやァ、ハナもひっかけねえで……。大切なあの子は、お前さんたち世間をうらみながら、死んでいったんだよォ。死にゃ死んだで、物見高く覗きこみやがって、まだ苦しめたりないのかよォ』

その日も、父親は朝からの酒びたりだ。訪れた私に向って、グチッぽく、酒臭い息で、こうワメキ散らすのである。黙って、父親の悪態を聞き流していた私は、しばらく間をおいてから、低い声で憎々しげに怒鳴りつけたのである。

『何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!』

この、一番残酷で、最も侮辱的な一ことに、父親の表情が変った。青くなってふるえ出した。しばらくしてから、やっと気を取り直して、ふるえを食いしばって、笑おうとしたのだが、それは笑いにならず、奇妙な叫び声になって、わずかに口から洩れただけだ。

私は社へ帰るや、原稿を書きまくりはじめた。ほとんど全くの真相を書いたのだが、彼女が、処女ではなくなっていたことと、日記が二日もぬけていたことはふれなかった。

最後に、父親の話を書いた。

「私がI子にいやらしいことをしたなんて……、とんでもない。フトンをかけたり、めくったりしたのは、寝冷えしやしないかという、本当の親子の愛情から出たことです。かんじんのフトンさえ少いので、一しょに寝たりするのが、内気で感受性の強い娘の心を刺激したのかもしれません」

ここまで書いてきて、私は少し考えてから、もう少しつけ足した。

「全くの誤解です。しかしいずれにしろ、これを機会にぷっつりと酒をやめ、娘の冥福を祈る

つもりです」

これが、私のはなむけの言葉だった。

最後の事件記者 p.172-173 ニュース・ソースとセンス

最後の事件記者 p.172-173 私は特ダネ記者だといわれた。二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの、署名入りが多い。
最後の事件記者 p.172-173 私は特ダネ記者だといわれた。二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの、署名入りが多い。

彼女が、処女ではなくなっていたことと、日記が二日もぬけていたことはふれなかった。

最後に、父親の話を書いた。

「私がI子にいやらしいことをしたなんて……、とんでもない。フトンをかけたり、めくったりしたのは、寝冷えしやしないかという、本当の親子の愛情から出たことです。かんじんのフトンさえ少いので、一しょに寝たりするのが、内気で感受性の強い娘の心を刺激したのかもしれません」

ここまで書いてきて、私は少し考えてから、もう少しつけ足した。

「全くの誤解です。しかしいずれにしろ、これを機会にぷっつりと酒をやめ、娘の冥福を祈る

つもりです」

これが、私のはなむけの言葉だった。何しろ、彼女の遺書には「私は清い心と身体のまま死んでゆきます」とあったからだ。

しかし、整理部のデスクが、うまい見出しをつけてくれた。〝拭いきれない悪夢〟と。私は今でも、あの父親の表情を想い起す。この長い人生で、あのような表情は、二度とみることはあるまい。

特ダネ記者と取材

特ダネと心理作戦

特ダネというものは、タネを割れば簡単なものである。広く深く、情報ともいうべきニュース・ソースの交際を持っていれば良い。それと、あとは記者自身の、情報を記事という具体的なものに進められる能力である。

私は特ダネ記者だといわれた。今、この十五年間のスクラップ・ブックをひろげてみると、実によく原稿を書いているし、一番働らき盛りであった、二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの、署名入りが多い。

これも、「これはイケる」という、ニュース・センスと、そんな話を聞きこめるニュース・ソースとが、両々相俟っていれば、極めて簡単なことである。私は、役人に事件の書類をすべて見 せてもらった、という記憶がない。

最後の事件記者 p.174-175 人の名前と顔を記憶する能力

最後の事件記者 p.174-175 私はそこで一計を策した。兵隊の身上調査書を熟読したのだ。家庭の事情がどうで、性格はどうだ、ということを、三晩かかってほとんど覚えてしまったのである。
最後の事件記者 p.174-175 私はそこで一計を策した。兵隊の身上調査書を熟読したのだ。家庭の事情がどうで、性格はどうだ、ということを、三晩かかってほとんど覚えてしまったのである。

これも、「これはイケる」という、ニュース・センスと、そんな話を聞きこめるニュース・ソースとが、両々相俟っていれば、極めて簡単なことである。私は、役人に事件の書類をすべて見

せてもらった、という記憶がない。やはり、それほど役人は、秘密を守る義務に対して忠実である。

従って、役所の机の中をガサったり、書類を盗み出したりといった、非合法取材の経験はない。ただ、私は友人に多く恵まれて、いろんな噂話を聞ける立場にあった。特ダネのヒントは、すべて、このように民間人から得るのであった。

あとは、心理作戦である。第一、私は人の名前と顔を記憶する能力に恵まれていた。恵まれていたというよりは、努力して後天的に築きあげた才能である。

私が保定の予備士官学校を卒業して、晴れて見習士官となり、原隊に帰ってきた時のことである。つい一年ばかり前、初年兵として風呂で背中まで流してやった連中が、今度は部下である。

軍隊はメンコの数といわれる。六年兵までがいる北支の野戦部隊だから、二年兵の見習士官などが、大きな顔のできるハズがないのが当然である。私はそこで一計を策した。

中隊の事務室へ行って、兵隊の身上調査書を熟読したのだ。家庭の事情がどうで、性格はどうだ、ということを、三晩かかってほとんど覚えてしまったのである。もちろん、二百名余りの全員が覚え切れるものではない。各年次の代表的人物をまず覚えたのである。

その効果は適メンであった。学科をやっている時、名前を覚えている兵隊が、居ねむりするのを待つ。或は他所見でもよい。すると私は、注意を与えるのだが、その時に「オイ、〇〇上等兵、眠ってはいけない」と、名指しでやるのだ。

あるいは、手紙の検閲で、母親が病気だということを知った兵隊は、営庭でスレ違う時や、歩哨勤務についているのを、巡察で廻った時に、呼び止めて、「〇〇一等兵、お母さんの病気はその後どうだ」とやったのだ。或は「××兵長、今日は誕生日だナ」と。

この心理作戦の効果は絶大であった。「今度の見習の奴は、どうして俺のことを知ってるのだろう」といった話がでて、尊敬の念を集め得たのであった。それも、着任して数日のことである。私は、それこそ夜もねないで、写真と身上調査書とを見くらべては、覚えこんでいたのである。

この時以来、私は人の名前と顔を覚える力がついたようである。それに、演劇青年時代のオカゲで、芝居がうまいのである。演伎がうまいということは、その役柄の心理状態になりきることである。それには、平常からの人間心理への勉強が怠られない。

特ダネ記者ということは、心理作戦の遂行者ということだ。役人という人種は、理詰めの仕事

をしているので、警察での取調べに一番弱いといわれる。理クツもハチの頭もないような人種ほど、口が堅いという。義理人情の世界に生きる人たちである。