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読売梁山泊の記者たち p.178-179 今村の読売記事への登場

読売梁山泊の記者たち p.178-179 私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と質問がつづく。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。
読売梁山泊の記者たち p.178-179 私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と質問がつづく。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。

正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイ、のことである。複スパイとは、ス

パイを監察するスパイだ。逆スパイと、スパイの逆用との違いは、その取扱法の上で、ハッキリと現われてくる。

普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば、正常スパイ、複スパイ、逆スパイなどは、この取扱法を受ける。二重スパイというのは、二次的な情況だから、もちろん例外である。

奇道である敵スパイ逆用の場合は、次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれで見ても分かる通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは、教育も投入も必要なく、操縦することのみで、最後は、撤収するのではなく、処置(殺す)することである。

正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確固たる精神的根拠、もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのだから、そこには、同志的結合も生じてくる。

逆用工作では、要員の発見は、我が陣営に協力し得る、各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイを見つけ出し、それを懐柔、または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは、まったくないし、操縦者は常に一線を画して、警戒を怠らない。

これが、アメリカの秘密機関の、常道になっているのだから、彼らは、常に猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところが、ラストボロフと、志位正二元少佐との関係をみてみると、そこには、人間的な交情さえ見出されるのである。

正常スパイでは、任務が終われば、味方であり同志であるから、最後に、これを撤収しなければな

らない。逆用スパイの場合は、撤収とはいわずに処置、という。つまり、殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなり、なんらかの処置をしなければならない。鹿地事件の発端は、この処置に失敗したことである。

今村の、読売記事への登場は、なかなかキビシイものであった。紹介には、「元関東軍特務機関員だったが、昭和二十三年暮引き揚げた。特機員なのに、早く引き揚げられたのはオカシイ、として、『彼はスパイだ』という風説もある人だ」とある。

「私は、黒河で終戦になり、直ちにソ軍の取調べを受けたが、人事書類はハルビンにあり黒河にはなにもなかった。それに、通訳の白系露人が好意的だったため、釈放されて、一般の将校の部に編入された。私は、スパイ誓約書は書いていないが、良く知っている」

つまり、私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と思いこんでの質問がつづくのである。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。

こうして、私は、昭和二十五年、原四郎が社会部長になってくる前あたりから、早くもアメリカの秘密機関であったキャノン機関や、ソ連代表部のだれそれが、政治部将校といった、国際的ウラ街道に通じはじめていた。

米占領軍の、日本政府に対するコントロールには、背広を着た二世やら、ニセの二世やらが登場してくる実態。さらには、日本政府に対する、GHQの〝朝令暮改〟が、実は、ウィロビー少将のGⅡ

(幕僚第二部=情報)と、マーカットのGS(民政局)との、根本的な対立にあることなどを、一番、敏感な司法記者クラブ、さらに、国会記者クラブなどで、肌に感じていた。

と同時に、〝消耗品〟の下級将校ではあったが、軍隊体験があったこと。シベリア捕虜に、知ソ派の陸大出の、佐官級将校がいたりした。また当時は、GHQのカゲの勢力であった、旧職業軍人たちの動向にも通じていた。つまり、当時の〈ニュースの中心〉に、私は位置していたのである。

読売梁山泊の記者たち p.180-181 第四章トビラ

読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち
読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

米占領軍の、日本政府に対するコントロールには、背広を着た二世やら、ニセの二世やらが登場してくる実態。さらには、日本政府に対する、GHQの〝朝令暮改〟が、実は、ウィロビー少将のGⅡ

(幕僚第二部=情報)と、マーカットのGS(民政局)との、根本的な対立にあることなどを、一番、敏感な司法記者クラブ、さらに、国会記者クラブなどで、肌に感じていた。

と同時に、〝消耗品〟の下級将校ではあったが、軍隊体験があったこと。シベリア捕虜に、知ソ派の陸大出の、佐官級将校がいたりした。また当時は、GHQのカゲの勢力であった、旧職業軍人たちの動向にも通じていた。つまり、当時の〈ニュースの中心〉に、私は位置していたのである。

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

読売梁山泊の記者たち p.182-183 まさに無法状態の中で資産を形成

読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。
読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」

日本の、朝鮮半島や台湾の併合は、それこそ、武力を背景にした強引なものだった。そうした植民地化は、当然の結果として、民族差別を生む。

だから、いまの中年以上の日本人、少なくとも、敗戦までに小学校教育を受けていた人たちには、抜き難いほどの、朝鮮民族や中国人に対しての蔑視感が残っている。

それは、戦時中の教育だけではなく、日本の敗戦によって独立を得た、朝鮮、台湾民族らの、それこそ〝一斉蜂起〟ともいうべき、強圧からの解放感の、然らしめるところもあった。

東京でも、新橋や新宿では、〝暴動〟に近い騒ぎが頻発していた。当時「第三国人」と呼ばれた彼らは、三無原則(無統制、無税金、無取締)によって、経済的優位を確保して、日本中を闊歩していた。

「第三国人」はさらに、「占領国人」や「占領軍」とも組んで、まさに無法状態の中で資産を形成していった。

当時の財テクは、彼らと組むのが一番の近道であった。例えば、国際興業・小佐野賢治は、経済違反で警視庁に逮捕され、送検された時、係の検事が、独学で中年過ぎに司法試験に合格した男と、知った。

検事では、絶対に出世しない立場である。小佐野は、彼を口説いて、「処分保留」の形で釈放させた。占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が、迫っていたのである。そして、検事を退官して弁護士にな

ったその男は同社の顧問弁護士に就任する。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。

さらに、箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。

同じように、占領軍の将校たち——金力の代わりに権力を持った男たちも、旧華族の女性たちに憧れた。だが、権力だけでは女は養えない。金の必要を感じた連中が、第三国人や、被占領国の日本人と組んで、〝悪事〟を働く。

それが、七年間もつづいた。

その結果、日本は、バクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となり果てていた。昭和二十七年四月二十八日、日本は独立国となり、占領は終わった。だが、第三国人や占領国人の「経済特権」には、さらに六カ月間の猶予期間が与えられ、半占領の状態が続いた。

「畜生メ、これじゃ、まるで租界だ!」

原四郎は、デスク会議で呟いた。

「租界」という言葉を、「新潮国語辞典」でひいてみると、こうある。

《居留地。特に中国で、第二次大戦前、条約により、外国人が土地を借り、永久的居住をなし得た地域。現在は消滅》

香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。

日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支

局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。

読売梁山泊の記者たち p.184-185 名誉毀損の告訴状が何十本と

読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。
読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。

香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。
日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支

局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。

そして、十月二十八日の特権消滅の日に「東京租界」キャンペーンを打とう、というプランが生まれたのであった。

東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた、六カ月の猶予期間が終了する昭和二十七年十月二十八日以降の、三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。

通訳である牧野は、雰囲気を理解するために、オブザーバーとして出ていた。

私のレクチュアは、その時までに、私に蓄えられていた、占領国人たちの、アンダーグラウンドの実情についてであった。バクチ、麻薬、ヤミ、密輸、売春から、それらを資金源とする、諜報の世界について、部長やデスクからの質問が、矢継早に浴びせられた。

こうした会議が数回もたれて、さらに、部長とデスクとの打ち合わせもつづいた。大体の構成がまとまってきて、取材のGOサインが出された。

「イイカ、三田! 奴らから、名誉毀損の告訴状が、何十本と舞いこんできても、ビクともしない、堂々たる取材をやれ!」

原四郎は、それだけいうと、会議の席を立った。

新聞記事の場合、取材が正確で真実の証明ができれば、刑事は免責されるから、原四郎は、それを

「堂々たる取材」といったのだった。

取材記者にとって、こんな嬉しい言葉はない。ウダウダと細かい注意などせずに、一言だけ、「お前を信頼しているゾ」と、そういわれたのである。

九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館(現・日比谷パークビル)という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。取材費伝票を切って、小遣銭はタップリある。私は、そのビルのグリルやバー、レストランやパーラーで、のんびりと構えていた。

長身の私は、一見中国人風なので、取材を終えて富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、靴磨きの少年(いまの豊かな日本では、ホントに信じられないことだが、戦災孤児たちが進駐軍の靴を磨いていた)が、声をかけた。

毎日、米人や中国人の商社まわりをしているうちに、私も、バタ臭くなったのだろうか。ニヤリと笑って、私は、少年に十円札(米国とデザインされている、といわれた十円札があった)を、チップでやった。

〝外事特高のヤマチン〟こと山本鎮彦・公安三課長に、意見具申をしたことがある。

「ネ、課長。三課のデカたちの靴、なんとかしてやんなさいョ。背広もそうだけど、自警会の売店の月賦にでもして、新調させねば…尾行や張りこみで、ホテルのロビーにいたらデカのカンバン出しているようなモンだよ」

読売梁山泊の記者たち p.186-187 夜のパイコワンは素敵だった

読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。
読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。

木幡計・一係長が、然るべく手配したのか、やがて外事警察のデカたちは、相当にスマートになってきた。外で逢ったら、三課のデカとは思えぬほどの若手がふえてきた。——こんなふうにして、〈東京租界〉の取材は進み出していた。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(のちのクラウン)事件は、あとで触れるが、のちのように洋風で、華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイトクラブだった。戦時中、「東洋平和の道」などの、日華合作映画の、主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、食器は小皿の一つにいたるまで、すべて香港から取りよせられる、という凝り様だった。

赤い中国繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の中国じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは、静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って、立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振る舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上がった中国顔で、早口の中国語で、怒鳴っているのかと、思えるほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことに、このマンダリンでみる彼女は素敵だった。私は、北京ダックと長

ネギと、甘酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた薄皮に包む料理を、彼女が手際よく、まとめてくれるのを見ていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドウィッチを、作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと二の腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ボーッと、二匹の魚のように、鈍く光っていた。

「美味しいでしょ?」

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ、十年ほど前ごろのように美しい。彼女も、映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が、彼女の映画をみたのも、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、下腹部にも脂肪がたまり、何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中高年以上の人には、昔懐かしい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい〝伝説〟がある。

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

読売梁山泊の記者たち p.188-189 「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?
読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。
ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

狂気のように、中尉を求めたパイコワンがたずねたずねて、上海の機関本部へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸(売国奴の意)として、中国を追われた彼女は、日本へ入国するために、米人と結婚し、中尉を求めてきたのだ、と。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた、日本へ移り住んだ、ともいう。

私に、その物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終わるのを待っていた。

「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

そう呟いたきり、否定も肯定も、しなかった。だが、何か隠し切れない感情が、動いているのを、私は見逃さなかった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心

のカゲがのぞいたのか?

中国に、中国人として生まれて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり日本の恋人の、面影を求めて、新しい植民都市・東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと、疑っている官憲が、その挙動を見つめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は、新聞記者という立場も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人を、見つめていたのだった。

このマンダリンの主役のもう一人は、ウエズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼は、その富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると、小心らしくあわてた。彼は保全経済会のヤミドルで捕まったり、そのあげくに、国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンジのヤミで、逮捕状が待っている。

「オウ、そんなことありません。それよりもワタクシ、まだ、ゲイシャ・ガールみたことないです。アナタたち、案内して下さい」

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に、堂々と事務所を構えている。

〝租界を彩る人たち〟は、無国籍の白人ばかりではない。それに協力する日本人たちもいるのである。

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ った。

読売梁山泊の記者たち p.190-191 人品いやしからぬ日本人の老紳士

読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念ながら御期待にそえませんナ」
読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念念ながら御期待にそえませんナ」

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ

った。

彼女の〝客〟のほとんどが、〝東京租界〟人であった。そして、私の有力な情報源であった。もちろん、彼女は、自分の担当事件の話を洩らすのではない。

すでに、司法記者クラブ一年の経験を持っていた私の質問は、弁護士法スレスレの角度から、彼女に向かって放たれていた。やはり租界の実情に通じているだけに、被占領国人としての義憤を感じていた彼女は、私に、多くのサゼッションを与えてくれた。もはや、女性弁護士と新聞記者の関係から、親しい友人であった。

…その彼女は、サヨナラも告げずに、私の前から姿を消した。弁護士会を退会して、彼女の依頼人だった、近く米国籍を取れる無国籍人と結婚し、海外へ旅立っていった。長身で美貌なだけに、打ちひしがれた日本人には、伴侶を見出せなかった、のかも知れない。

人品いやしからぬ、日本人の老紳士の訪問も受けた。アメリカのヤミ会社の顧問だ、というのだ。調査をやめてくれという。

「何分ともよろしく。これは、アノ……」

さし出したその封筒には、現金が入っている。相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。

「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残

念ながら御期待にそえませんナ」

皮肉な言葉と表情で、相手のろうばい振りを見つめてやるのだ。

日本の弁護士から電話がくる。何時にアメリカン・クラブで会いたいという。出かけてゆくと……。

「フーン。若いナ。君は去年あたりの卒業生かね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ」

社の幹部を、親し気にクン付けで呼ぶ種類の人たち。このような人には、こちらもインギンブレイで答える。誘惑と恫喝と取材の困難。

「お断わりしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を、獲得するということに御注意を願いたい」

彼は、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生まれ、妻はハルビン生まれ、息子は上海生まれという、家族の系譜が、彼を物語る。

「御参考までに、申し上げますが、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく」

彼は時計の密輸屋である。そして、彼もハルビン生まれで、妻は天津ときている。

私と牧野拓司とのコンビで、取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や

不法行為のメモが、つづられていた。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

読売梁山泊の記者たち p.192-193 独立間もない日本の首都に魔手を

読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。
読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。

私と牧野拓司とのコンビで、取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や

不法行為のメモが、つづられていた。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れていた。

国際ギャングによる日本のナワ張り争い

昭和二十七年六月十九日付読売朝刊は、匿名の外人記者のレポートを、トップで掲載した。おもしろいものなので、再録してみよう。

《銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ外人を主体としたクラブ組織というだけで、複雑な治外法権然とした実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。

この事件は、外人記者間でも注視を浴び、事件前早くも取材が続けられていたものだが、その一人(特に名を秘す)は、十八日、本社に、次のような、驚くべきリポートを寄せた。

これによると、同賭博場は、フィリピンから流れてきた、世界的博徒によって作られたことが、明らかになったが、このほか東京には、かつてのアメリカの有名なギャング、アル・カポネの残党と、上海から乗りこんだ中国きっての博徒が三巴の縄張り争いを続け、国際的なスケールで、独立間もない日本の首都に、魔手をのばしている、といわれる。

膨大な金力を背景とする、これら企業家たちは、「犯罪の植民地」化のために、いかに東京を狙って

いるか、以下はその秘密情報…

こんどのマンダリンの秘密賭博クラブに対する、警視庁保安課の早急な解答がなければ東京はやがて、本拠を戦前の上海、戦後アメリカ治下のマニラ、アメリカの賭博連盟本部シカゴの三都市におく、国際賭博団の凶手におちてしまうだろう。

国際商社にとって、対日投資が有利だ、というニュースが伝わると、彼らはすぐやってきた。投資に有利なところは、賭博に好都合に違いないからだが、着くとさっそく、賭博場の設立許可をうるために、東京の官憲諸方面に、わたりをつけにかかった。

ある博徒が記者にいった。「どいつにも握らせてあるから、大丈夫さ。外務省に至るまでね」

これはあとになって、本当でないとわかったが、これら国際博徒たちが、いかにえげつない方法をとるかがわかる。読売新聞の記事で、クラブ・マンダリンが閉鎖された当夜、親分モーリス・リプトンは、閉鎖の理由を聞かれて、「なに、明日の晩には開いてみせるよ」と、答えた。これは彼個人の単なる誤解だが、日本の警察としても、「私有クラブ」を、妨害するわけにはいかない。

リプトンは、日本における拳闘、その他娯楽の世話役だが、テッド・ルーインと協同して、クラブ・マンダリンを賭博場として開設した。ルーインはフィリピン賭博界の重要人物で、六月はじめ、東京「私有クラブ」の特殊賭博機械を仕入れるため、サンフランシスコに赴いたところを、逮捕された。

リプトン、ルーインの博徒に対抗する勢力に、ジェィソン・リー(李)という、ニューヨーク生れ

の朝鮮人二世がいる。リーは「ワシントン秘密情報」で有名な、レイト、モーティマー共著の、「シカゴ秘密情報」にも登場している、シカゴの東洋人地区の賭博の総元締で、カポネ一味に一定の貢物を納め、賭博場開設の指令を仰いでは、各地に出張する男である。

読売梁山泊の記者たち p.194-195 ホテルの一室を借りて賭博場とする

読売梁山泊の記者たち p.194-195 中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。
読売梁山泊の記者たち p.194-195 中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。

リプトン、ルーインの博徒に対抗する勢力に、ジェィソン・リー(李)という、ニューヨーク生れ

の朝鮮人二世がいる。リーは「ワシントン秘密情報」で有名な、レイト、モーティマー共著の、「シカゴ秘密情報」にも登場している、シカゴの東洋人地区の賭博の総元締で、カポネ一味に一定の貢物を納め、賭博場開設の指令を仰いでは、各地に出張する男である。

東京では、外務省と目と鼻の先にある、某生命ビルを根拠とし、シカゴ連盟から、五、六千万ドルも貰っているといわれ、東京でも一番金回りのよい博徒だ。そして、現在はマンダリン・クラブと、公然と対抗すべく「中央クラブ」の二階を借りうけ、新しい秘密クラブの設立を目論んでいる。

ところが、東京の事情はちょっと面白く、ルーイン、リプトンとリーの二組に対して、もう一つ、中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。東京都内の大抵のクラブに顔を出しているが、築地のクラブ・リオ、並木通りのVFWクラブ、料理店ケーシー、著名中華料理店などが、ワンの非公式本部だ。

彼の東京における資本金は、二百万—六百万ドルというから、在京国際博徒の中では、一番の貧乏人だが、その組織は、マンダリン・クラブとは少しちがい、ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。客引き女たちは、金回りの良さそうな実業家などをつかまえては、ワンの「個人クラブ」に誘う。この組織は、同類中でも最も〝私的〟で、二カ月ねばってはみたが、記者にも、正体が摑めなかったほどだ。

ワンは、ホテルの一室を一週間借りて、ここを賭博場とすると、すぐまた他の場所に移り、一カ月

間は、元の場所にもどらない。つまり、〝移動式〟なのだ。

記者の調べたところだと、これら三つのグループは、東京という〝賭場〟の縄張りを争っているから、いずれは、流血ざたを呼ぶにちがいない。この場合、流される血は、バクチ打ちだけとは限らない。シカゴの例にみられるように、多くの無辜の人々が、まき添えをくうこともあり得る。

マンダリン・クラブが、はじめて蓋明けした時は、使用人の未経験のため、一夜にして二百五十万円を損したという。だが、最初の晩に儲けたお客たちも、続いてここに出入りするうち、たちまち、儲けた分を失ってしまった。

リーは、東洋人という理由で、シカゴ連盟の東京出張所長に選ばれた。太平洋戦争が終ると、マニラは、アジアにおける連盟の、活動の根拠地に選ばれた。戦争の不幸から逃れようとのぞんでいた無気力な、フィリピン人たちには、パチンコなどなかったので、賭博がすぐに、はやるようになった。今日マニラは、マニラ市民の投げやりな態度に乗じてやすやすと成功をおさめた、賭博師たちによって支配されているが、明日は、これが東京の運命ともなろう》

この寄稿をしてくれた外人記者が、だれであったか、記憶も記録も残っていないので、いまとなっては、分からない。

だが、私の取材は、この外人記者のレポートに刺激されて、三人の〝賭博王〟にインタビューすることであった。そして、三人それぞれに、印象深いのである。

読売梁山泊の記者たち p.196-197 テッド・ルーインと倭島英二

読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。
読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

だが、私の取材は、この外人記者のレポートに刺激されて、三人の〝賭博王〟にインタビューすることであった。そして、三人それぞれに、印象深いのである。

まず、テッド・ルーイン——日本が独立したことによって、出入国管理も、日本側に引き継がれた。連合軍総司令官(GHQ)が、入国拒否者(エクスクルージョン)とした人物のリストは、日本政府によって、同じように指定された。

テッド・ルーインの情報を求めているうちに、ある情報通が教えてくれた。マニラから入国してきた、ザビア・クガート楽団の写真のなかに、ルーインが写っている、というのだった。身分を調べてみると、楽団のマネージャー。

私は、入国管理庁に行って、K事務官(現弁護士)に会った。然るべき紹介は得ていたので、K事務官は気軽に立ち上がって、ファイルのアルファベットを探してくれた。

「オカシイなあ、名前まちがっていない?」

と、彼は、テッド・ルーインのカードを取り出して、呟いた。そのカードには、赤スタンプの、EX CLUSIONが、押されていた。

「ドレドレ…」と、私も、のぞきこむ。しかし、日本入国の年月日が記入されていた。クガート楽団の入国日と一致した。

「ナゼ、入国できたのだろう…?」と、K事務官。「ありがとう、調べて見ますネ」と、挨拶もそこそこに、私は走っていた。

ルーインの代貸しのモー・リプトンが、マンダリン・クラブの段取りをつけ、その実況検分のため、ルーインは、どうしても、日本に入国する必要があった。

フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

私は、社会党の猪俣浩三代議士に、この件を話して、法務委員会で追及してもらった。その質問通告があった法務委に、本省に戻ってアジア局長になっていた倭島は、政府委員として出席してきた。

記者席にいた私の姿が、その前を通りすぎようとした、彼の視野に入ったのだろう。アジア局長は、一瞬、歩を止めて、私に鋭い一べつをくれた。数日前、局長室で渡り合った若僧の記者が、社会党にタレこんだナ、と、腹立たしい思いだったのだろう。

猪俣委員の質問が始まった。要点を衝いた良い質問だ。ナゼ、エクスクルージョンとGHQでさえ指定した、バクチ打ちのボスが日本に入国できたのだ、と。答弁に立ったアジア局長は、委員長に秘密会を要求して、記者席の私たちは、室外に追い出されてしまい、真相はヤミの中に消えた。

用事を終えたルーインは、日本からサンフランシスコに向かい、そこで逮捕された。

マニラ系のルーインとリプトン、シカゴ系のリーと、取材は進んだけれども、外人記者のいう「上海の王」は、その影すら、アンテナにかかってこない。サイコロ模様のある、金の腕輪をした女の子たちの〝情報〟も、サッパリだった。

国際都市・上海の賭博王というのだから、それは、当然、古くからの秘密組織「青幇」(チンパン)の首領である、杜月笙(と・げつ・せい)の流れを汲む人物であろう、と推測していた。

読売梁山泊の記者たち p.198-199 ルーインの代貸のモーリス・リプトン

読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。
読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。

最近出版された、「中国諜報機関」(光文社)という本を見ても、愛人の江青を毛沢東に捧げた男・康生は、中国共産党の特務のボスであった。そして、杜月笙の友人の虞洽卿(ぐ・こう・けい)という、上海の最大財閥の当主が、康生の主人であった、と、書かれている。

辻本デスクは、「どうした、もうすぐ締め切りだぞ。上海の王をつかまえないと、三題噺にならんじゃないか。早くしろよ」と、矢の催促である。

「南船北馬」という言葉がある。新潮国語辞典によれば、「シナでは、旅行に南方は船、北方は馬を用いることが、多かったことによる」として、方々をたえず続けて旅行すること、とある。

このことは、南方では船、北方では馬を掌握すれば、〝利権〟になる、ということで、それを支配する組織ができることは、洋の東西を問わない。南船を握ったのが、上海の秘密組織「青幇」(チンパン)である。それは、海賊にも通じる。

これに対し、北馬を握ったのが、北京の秘密組織「紅幇」(ホンパン)であり、同様に馬賊にも通じる、というものだ。

戦後のトーキョーの暗黒街を、シカゴ系のアル・カポネ直系のジェイソン・リー、マニラ系のテッド・ルーイン、そして、〝上海のワン〟の三大勢力が、支配権を争奪しようとしている、というのだから、穏やかでない。

そして、リーとルーインの足取りはつかめたのだが、ワンだけは、手がかりがまるでないのである。

上海の賭博王、というのだから、これは、青幇系であるに違いない、と判断したのだが〝青幇東京

事務所〟などと、カンバンを掲げているところなど、ありはしないのだ。

マニラ系のテッド・ルーインには、とうとう、インタビューができなかった。モンテンルパの戦犯収容所の件で、外務省は、ルーインとヤミ取引した。ルーインの密入国(イヤ秘密入国というべきか)を、私の調査で暴かれて、衆院外務委で追及された外務当局は、ザビア・クガート楽団のマネージャーとして入国させていたルーインの、出国を促したらしい。

従って、ルーインには会えなかったが、ルーインの代貸のモーリス・リプトンには、インタビューできたのである。

私の助手は、社会部の牧野拓司記者(のち社会部長)。アメリカ留学から帰国したばかりで、事件モノの経験がないのだから、通訳の仕事が主だった。

芝のマソニック・ビルに宿泊していた彼に、電話でアポ(アポイントメント)を取り、約束の時間に、ビルのロビーで待っていた。

この、マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。陸軍の将校クラブであった、九段の「偕行社」に対するものだった。

そして、戦後、フリーメーソンの本拠地となっていたもの。「幻兵団」事件で、ソ連の情報機関を調べるうち、米国のそれにも興味を持ち、キャノン機関などを知った。この、キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。

読売梁山泊の記者たち p.200-201 〝暗黒街のボス〟などに会うのは生まれてはじめて

読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった
読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった

ところが、牧野君は〝暗黒街のボス〟などに会うのは、生まれてはじめてのこと。緊張そのものである。

と、そこに、まさに、音もなく、ヒラリという感じで、ひとりの男が現われた。いかにも悪役顔をした、モー・リプトンである。

それが、アメリカ・ギャングの所作(しょさ)なのだろうか。やや目深に冠ったソフトを、左手の拇指で、グイとアミダ冠りに持ち上げるのだ。牧野君は、すっかり威圧されてあわてて、挨拶をし、私を紹介した。

だが、この男も、通訳付きの会話には、馴れていないのである。私には、ほとんど目もくれずに、私の質問を通訳する牧野君に、喰ってかからんばかりに、しゃべりまくる。

モー・リプトンの、ヤクザ英語の通訳に苦労しながら、私の質問の返事をすると、矢継早に反問する私の質問、それをリプトンに通訳すると、早口の彼の反論——。

それはもう、見ていて、気の毒なくらいの牧野君の周章狼狽ぶりであった。もっとも、私は余裕夕ップリ。リプトンが反論のために差し出す証明書の日付けが、話と違っていることを確認したり、彼が、手に握って振りまわす書類の表題が、話と違うことを、彼の手を押さえてのぞきこむなど、インタビューは成功であった。

だからこそ、これらの連中から、告訴状の一本だって、出てこなかったのである。「東京租界」キャンペーンが、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったれ

ばこそ、である。

そして、可愛い子に旅、の古諺の示す通り、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して、身についたのであった、と、私はいいたい。マソニック・ビルを後にした彼は汗ビッショリの姿であった。

それに比べると、ジェイソン・リーのインタビューは、はるかに落ち着いたもの、であった。第一、日本のヤクザの親分クラスにも、リプトン風のガサツな武闘派は少ない。

リーは、物腰の穏やかな、初老の紳士であった。たしか、日比谷の富国生命ビルの喫茶店だかで、コーヒーをすすりながらの、インタビューであった。

私の質問は、さきの外人記者の記事がネタである。しかし、リーは、「私は実業家で、だから、カポネ関係の人たちを知っているし、友人もいる。だからといって、私が賭博師だ、とはいえない」と、言いぬける。

「じゃ、あなたは、日本になにしにきた?」

と、タタミこむと、彼はサラリといった。

「日本という、新しいマーケットで、新しい事業の、なにに可能性があるか、の調査だ」

「で、結果は?」

「私が事業家だ、ということを証明する、現在、進行している事業がある」

読売梁山泊の記者たち p.202-203 〝上海の王〟が安キャバレーをやるだろうか

読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。
読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

リーは、東京の郊外に、「モーテル」を建設中だ、と説明した。いまでこそ、モーテルなどというものは、国道沿いに乱立しているが、この時、日本の活字媒体に、はじめてモーテルが紹介された。

「…モーテルとはモーターホテルをしゃれた意味で、郊外にドライブしたまま、車もろともに泊まる旅館で、一階がガレージ、二階が寝室といった構造のもので、いわば、アメリカの温泉マークである…」

リーの話から、とうとう、シカゴ系の賭博王という記事は、書けなかった。リーが、東京に賭博場を開くのに、適当な場所はないかと、相談を持ちかけられた、といわれる日本人も、その証言を拒んだからである。

つまり、モー・リプトンより、リーのほうがはるかに、〝大物〟であったのである。そして記事には、リーが建設中のモーテルの写真を入れて、「伝聞」でしか書けなかった、オトナシイ記事になった。もちろん、建設現場の写真を入れたのだから、現場を調べたのだが、とうてい、賭博場に転用できる設計ではなかったのだ。

戦後史の闇に生きつづけた上海の王

さて、こうなると、いよいよ〝上海の王〟のインタビューである。辻本デスクには、ハッパをかけられるし、連載開始日は迫ってくるし、私もいささかあせり気味であった。

そのような時、頼りになるのは、サツまわりと呼ばれる、入社三~四年目。地方支局で一通りの〝記

者修行〟をさせられ、本社勤務に戻ってきた、若い諸君である。

新橋、銀座の一帯を担当する、愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、銀座を担当する築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

すると、愛宕署まわりがいう。

「新橋の土橋のところに、黄色会館という、三階建てのビルがあり、一、二階が、ビッグパイプという、キャバレーなんです」

「ああ、大きなパイプのネオンをつけ、開店日に、三階の屋上から、十円札をバラまいたという、アレかい?」

「エェ、そうです。その、十円札のバラまきは『いずみ』(注=社会面左下隅のミニ・ニュース)に書きました」

「ウン、読んだよ。それで知ってるンだ」

「あすこの社長は、中国人で、確か、ワンといったと思います」

「へエ、じゃ、調べてみるか」

と、局面打開の途が、開けたようだった。しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。

——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!

読売梁山泊の記者たち p.204-205 「ウーン、オカシナ奴だな」

読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」
読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」

しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。
——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!

私は、この〝情報〟に、最後の期待を托したようだった。

——ウン、そのキャバレーの女の中に、サイコロ模様の金の腕輪の女が、まぎれこんでいるかも知れない!

サツまわりから、「社長は、黄色合同株式会社の王長徳」と、電話がきた。

「…どうも、左翼系らしいですよ。自由法曹団の布施達治弁護士と親しく、宮腰喜助、帆足計両議員の中共訪問に、資金を出した男、といわれてますよ。…ア、そうそう、あの黄色会館は、違法建築だ、といわれています」

私は当惑してしまった。

中共に追われて、日本へやってきた〝上海の王〟と呼ばれる博徒が、〝左翼系らしい〟といわれるような、派手な動きをするのだろうか。その上、当局に注目されるような、違反建築をやらかす、とは!

いまの土橋あたりは、もう埋め立てられて川はない。数寄屋橋と同じように、土橋も、地名だけで、橋はなくなっている。新橋から銀座、東京駅前には、ドブ川があって、これが埋め立てられ、高速道路と、銀座はコリドー街。もとの、読売本社前、いまのプランタンと、有楽町駅の間の、高速道路下の食堂街も、みな、ドブ川の埋め立て地だ。

その河川敷を、都に貸してほしい、材料置場にする、という陳情に、王長徳が現れたのは、昭和二十五年の三月、当時、改進党代議士だった、宮腰喜助が同道してきた。

だが、電話でアポを取り、黄色会館三階の社長室で、会った。恰幅の良い、中国顔の男だった。私は単刀直入に切りこんだ。

「私たちは、〝上海の王〟と呼ばれる、バクチ打ちの親分を探している。あなたも、ワンだが、〝上海の王〟というのは、あなたか」

「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」

「……」

さすがの私も、唖然として、次の質問が出なかった。リプトンは、ニセの書類を、次々に出しては、「貿易商」を装うことに失敗したし、リーは、これまた「事業家」としてはチャチなモーテルの建設で、シカゴのボスを否定した。

つまり、〝上海の王〟も、同じように、日本では法律で禁止されている、賭博場の経営を、当然、否定するであろう、とばかり、思いこんでいたからである。

それなのに、真ッ正面から、〝上海の王〟を名乗り、ある意味では、〝上海の王〟であることを、気取ってさえいるのである。このようなタイプの男は、「東京租界」の取材をはじめてから、はじめて出会ったからだ。

「ウーン、オカシナ奴だな。自分から名乗りをあげるなんて…。ホントに、認めたんだろうナ」

「まさか、私がウソの報告をしますか。牧野君も同席していたし…」

読売梁山泊の記者たち p.206-207 「東京租界」の第一回は王長徳

読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」
読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」

「で、金のサイコロ模様の腕輪は?」

「ウチで、外人記者のレポートで、その秘密を書いたので、止めてしまったと」

辻本デスクは、ふたたび、ウーンと唸って考えこんだ。

「どんな男だ? 日本における、過去の警察沙汰は、あるのか」

原四郎部長も、部長席から立ち上がって、私たちの話に加わった。

「ですが、私は、〝上海の王〟ではない、と思うのです。その最大の根拠は、都庁の外事課で調べた、彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国となっています。

つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をしていますし、中共に追われて日本にきたワケではないし、十一歳で、上海でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」

辻本デスクは、まだ、考えこんでいる。

「しかし、終戦時の混乱で、多数の外国人が密入国してますし、パスポートではなく、進駐軍の認めた証明書で、旅券代用になっているケースもあるんです。この、外国人登録証だけを、全面的には、信用できないのです」

「ウンウン。で、政治家との関わりは、事実あるんだな」

「どういう〝金〟なのか、ともかく、政治家や、自由法曹団の弁護士にも、献金しているようです」

「ヨシ、〝上海の王〟ではなくとも、話題性で取り上げよう。十一歳でビッグパイプという、アダ名を持つバクチ打ち、ということは世にもロマンチックな話…と、アホラシい記事にすれば、部長。案外、

オモロイかも…」

こんな経緯で、「東京租界」の第一回は、王長徳をオチョクッた記事でありながらも、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい縄張り争い銀座を舞台の第三国人」と、独立日本の現状報告として、シビアな記事にまとめられた。この王長徳なる人物、それ以来、それこそ山あり谷ありの、波瀾万丈の業績を積み重ねて、現在も、東京にいるのである。

のちに判明したことであるが、この読売記事を持ち歩いて、企業をオドシたりして、事件になり、服役したこともある。

私には、土橋のあたりを歩く時、あのドブ川とともに、黄色会館(のち、強制撤去)のあったあたりを、懐しく眺めたりする、想い出の取材であった。

さて、こうして、「東京租界」キャンペーンは、国際バクチと、シカゴ、マニラ、上海の三都市の代貸したちの暗闘、という、ドラマチックな展開でスタートした。

と同時に、その反響も大きかった。国内的な反響ばかりではなく、それは、独立国日本の、最初の〈占領政策批判〉であり、かつ、打ちひしがれていた、警察への〈叱咤激励〉であった。同時に、国民に対して、独立国の誇りと自信とを抱かせるものとなった。

読売梁山泊の記者たち p.208-209 警視庁当局の国際バクチの摘発

読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。
読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。

警視庁タイアップの華麗なスクープ

その、裏付けともいうべき、警視庁当局の自信に満ちた、国際バクチの摘発があったのは、翌昭和二十八年三月十七日の、クラブ・マンダリン事件であった。

その一階こそは、秦の始皇帝の後宮とは、かくやとも思わせる、豪華なレストランではあったが、二階は、モーリス・リプトンら、マニラグループの支配する、国際バチク場であったのである。

この摘発には、私は、警視庁防犯部の〝最大の協力者〟であった。私というよりは、読売新聞というべきであろう。私をキャップに社会部記者、警視庁クラブと本社遊軍との合作で、大摘発が成功した。スクープとは、当局から、特ダネのネタを頂くことではない。

「ア、三田さん? オタクでは、ジャパン・タイムズ、とっている? 社会部にはなくとも、外信部にあるでしょう?」

電話の主は、いきなり、こう切り出した。まだ、現職にあるといけないので、名前は伏せるが、英語に強いジャーナリスト。「東京租界」キャンペーンで知り合った日本人。彼は、その朝、ジャパン・タイムズをひろげていて、〝気になる〟広告を見つけた、というのである。

それは、銀座のチャリティ・パーティー。会場がマンダリン・クラブとあるのに、〝ひっかかった〟と、話す。

社会部記者の花形は、むかしは、警視庁クラブであった。各社とも、サツ廻りを卒業した、若手の俊秀を注ぎこむ。

コロシの一課(刑事部捜査第一課)担当は〝コロシの○×さん〟と呼ばれて、新人記者から、崇敬の視線を注がれるが、その日常生活は、一課刑事と親しくなるための、あまり、知的なものではない。

それを、横眼に見ながら、〝二課記者〟は呟く。「フン、コロシか。オレたちは、知能犯担当だもンな」

さらに、それを、鼻でセセラ笑うのが、公安記者である。「知能犯? どうせ、サギ師ダロ? 公安は、思想犯と外事なのさ。国際犯罪ッてのは、インターナショナルなンだ」

まさに、メクソ、ハナクソを嘲うの類だが、外事・公安担当だった私は、この電話を受けて、緊張した。広告の現物を見ると、もう、数日後に、そのチャリティ・パーティーは迫っていた。

女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。

街角で、「難民救済にカンパを」と、募金箱を突き出す連中。アレと同じように、目的不明のチャリティなのである。一日、二日と情報を集めてみて、名前の出ている、聖母病院も、関知していないことが、明らかになった。

「部長、東京租界の続きで、オモシロイのが手に入りました」

原部長も、あの、眼尻の下がった、可愛い笑顔で、ウン、ウンと私の報告を聞く。

読売梁山泊の記者たち p.210-211 秘密を厳守させるという〝部長命令〟

読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」
読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」

「…で、どうするつもりだ?」

「キャップ(警視庁詰め主任)には、もちろん、報告を入れましたが、警視庁クラブ中心で動くと、他社に気付かれる恐れが、あると思います。デスクを決めて頂いて、本社の遊軍記者中心でやりたい、と思います。…これが、英文紙に載った広告です」

私は、東京イブニング・ニュース紙と、ジャパン・タイムズ紙の広告を出した。

「モンテカルロの夜! 楽しいゲーム、期待にみちた、ゲームの数々! 楽しく遊んで、しかも、意義ある目的につくせよ!」

この広告の元(もと)原稿を、両紙の内部で調べてみると、「外人のみ」とあったのだが、両紙とも、広告部がハラを立てていた。

「独立国ニッポンに対して、〝外人のみ〟とはナンだ! 失敬な原稿だ。訂正させろ!」

そのクレームで、「外人歓迎」と、訂正したことを知って、私は、当時の綱井防犯部長の部屋に行っ た。

人柄のいい綱井防犯部長だったので、私はヒマな時など、遊びに訪ねては、ダベったりしていたものだ。

「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」

「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」

部長は、ニヤニヤと笑って、私の次の言葉を待っている。

「警視庁防犯部長として、まさに、〝大〟防犯部長として、歴史に残る仕事サ。それを、三田〝大〟記者が、まとめてきた。…だから絶対に、読売に独占させる、他社に洩れないよう、デカ(刑事)たちにも、秘密を厳守させるという〝部長命令〟を出してもらいたい」

「フーン。たいそうな前触れだナ」と、いいながらも、さすが、警察官である。柔和な眼の底が、キラリと光る。

「大部長と大記者の約束だよ。…イヤなら、オレ、帰るヨ」

「ヨシ、分かった。秘密の保持だナ。約束するよ」

現場の指揮を執る、隣室の上村保安課長が呼ばれた。廊下に出なくとも、部長室に入れるよう、内扉があった。

私は、いままで集めた資料と情報とを、部長と課長に示して、判断を求めた。バクチは保安課の所管であり、上村課長というのは、その道にかけては、大ベテラン。〝さすが〟という、情報を持っていた。

「宝石商を自称している、モーリス・リプトンが、さる十日に、再来日しているんです。そして、白光たちが、リプトンに投資を返してもらって、手を引いたあと、当局の監視が厳しく、この十七日限り、サロン・マンダリンは、閉鎖されることになっていたのです」

「ナルホド。その、最後の夜の十六日に、このパーティーをやる…」

読売梁山泊の記者たち p.212-213 協力して国際バクチを挙げようや

読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。
読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。

私は、英字新聞の広告の、パーティーの日取りのところを、指で示した。

「…リプトンの来日のことは知らなかった。やはり、サツはサツで、見るべきところを押さえているネ。しかし、英字新聞の広告、なンてのは、ブンヤでなきゃ、ネ。サツカンにはムリだよ」

「いやァ、さすがだ、と思いましたよ」

「ヨシ、それじゃ、これで、五分、五分。協力して、国際バクチを挙げようや。部長の前で、上村サン、秘密保持。現場には、読売の記者とカメラの立ち入りを認めてよ。でなければ、読売の独占スクープは崩れるよ…」

「分かった、分かった。じゃ、大記者サン、段取りは、保安課長と打ち合わせて、や」

「ウン。だけど、部長も課長も、夕方になったら、自室を使わないこと。遅くまで、灯がついていたら、スグ、各社にバレる…」

昭和二十八年三月十六日、午後一時ごろのことだった。パーティーは、その夜と、広告には、書かれてあった。

そこで、クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担した次第。しかし、クラブの入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、入り口の、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりして、内部への連絡を絶つなど、綿密な作戦計画を立てた。

私は、電通通りをブラブラしながら、目だけは、マンダリンの入り口に注いで、公衆電話で、上村

課長の直通に、人数を知らせる。

「課長。もう四、五十名は入ったよ。何時ごろの討ち入りだネ」

「そう、はやりなさんな。まだ九時じゃないか。水商売の営業時間の、十一時すぎでないと、やれないよ」

「そうか、じゃ、引きつづき、見張るよ」

「ウン、頼むよ」

そんなヤリトリがあって、私たちはイライラしたのだが、警視庁が手入れをした、と、いうことで、ニュースになるのだから、もう、ここまできたら、保安課長に、主導権を渡さざるを得ない。

ところが、のちに、大問題が起きる——それは、後述するとして、三月十七日付の朝刊の最終版の記事を紹介しよう。

(読売朝刊の記事)

この日、警視庁では、午後六時ごろ、クラブ・マンダリンで「慈善パーティー」を表看板に、賭博を開いていることを察知したが、慎重を期して、午後十一時以降の営業禁止時間に入るのを待ち、これを名目に踏みこむ作戦をとった。

午前零時、上村保安課長指揮の制私服警官三十五名が、「慈善パーティ」とはり紙をしたドアを排して、一せいに飛びこみ、ドア・ボーイが呆然としている間に二階へ。

読売梁山泊の記者たち p.214-215 バクチ場の手入れで場馴れ

読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」
読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」

(読売朝刊の記事)
この日、警視庁では、午後六時ごろ、クラブ・マンダリンで「慈善パーティー」を表看板に、賭博を開いていることを察知したが、慎重を期して、午後十一時以降の営業禁止時間に入るのを待ち、これを名目に踏みこむ作戦をとった。
午前零時、上村保安課長指揮の制私服警官三十五名が、「慈善パーティ」とはり紙をしたドアを排して、一せいに飛びこみ、ドア・ボーイが呆然としている間に二階へ。

とっつきの部屋にある、大きなダイス台を囲んでいた外人客が、あわてて台から飛び離れる。ビールを呑みながら、ふざけていた男女客の顔が、一瞬、蒼白となる間を縫って、警官は手ぎわよく、各グループのそばにつき現場の位置を保つよう、通訳を通じて、命令する。

ダイスの台の上には、いままで続けていたままに現金代わりのチップが散らばり、それを掻き集める熊手のような棒が投げ出されたまま。

厚いカーテンで囲まれた、奥の部屋には、係官も名前を知らない、二種類の賭博台が並び、その前に、動くに動けない客が、一瞬、しおれる。

証拠保全のためのカメラが、活躍をはじめ、パッ、パッとフラッシュがたかれるたびに、客は照れくさそうに顔をしかめ、係官の眼をかすめては、そっと、位置をかえようとするあわてかた。

外人客には、日本語のうまいものが多く、照れかくしに、係官相手に冗談をとばすものや、なかには、「学校へいくのだから、帰してくれ」と、ごねる若い客。

銀座の某キャバレーの名前をあげて、そこの女給と待ち合わせしているから、電話をかけさせてくれと、拝み倒すものなど、色とりどり。しかし、その間にやはり、一人が裏の窓から、屋根伝いに逃げたのが判り、係官をくやしがらせる。

現場写真をとり終わると、こんどは一人一人の、身分証明書の提示を求めて、名前を書きとり、簡単な調べののち、約一時間かかった手入れを終了。

警視庁から、応援にくり出した予備隊(当時は、機動隊をこう呼んだ)の警戒のうちに制服軍人を

MPに引き渡し、他の検挙者には一人に一人の警官をつけて、雪の中を大型トラックにのせて、警視庁へ——。

銀座から、有楽町の本社へもどって、締め切り時間に追われながら書いた私の原稿である。決して、名文ではないが、現場のフンイキは出ていよう。

電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は、課長から「午前0時突入」を知らされていた。

ホンの数分前、課長が、車を降り立つのを合図に、作戦通り、一人の私服が、ドア・ボーイに体当たりした。飛ばされ、尻餅をついたボーイは、ドアから、二、三メートルも離れて、ベルを押せなかった。倒れたボーイを別の私服が押える。

課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が、場内を見まわしながら、叫んだ。

「そのまま、そのまま!」

バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。

「そのまま、そのまま! 動くな!」

さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

読売梁山泊の記者たち p.216-217 上村保安課長は私の抗議を一蹴

読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」
読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「そのまま、そのまま!」
バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。
「そのまま、そのまま! 動くな!」
さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

俠客モノの映画などでは、手入れに敏速に反応して、灯を消したり、抵抗したりするのだが、それは、プロだからだろうか。

私の記者人生で、タッタ一度だけの、国際トバクの、現場の手入れは、従来のイメージとは、違っていた。

前出記事を、読み返すと、証拠保全のカメラは、なんか、ずっと遅いようだが、「そのまま」の声と同時に、フラッシュは、パッパッ光り出していたのだ。そして、客たちがほんとうに、我に返ったのは、私服につづいて、制服警官が入ってきて、その姿を見てからだった。その間、わずか、数分の出来事であった。

前出の記事の終わりの部分に、「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。本社で、原稿を書いている私は、警視庁クラブから、直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。

「なんだって、予備隊を動員したんだ。サイレンを鳴らして、本庁から出動したから、各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「エエ、現場で、上村とやり合ったのですが、庁内の第一予備隊を呼びやがった」

一足遅れて、マンダリンの二階に上がってきた課長は、四十人近い検挙者に、「これじゃ、手が足りない。予備隊を呼べ」と、係長に命令した。

そばにいた私が、抗議した。「予備隊を呼んだら、各社にバレる。約束が違う!」と。「この人数を見なさい。警官が足りない」と課長。「じゃ、庁内の第一は呼ぶな」「ほかでは、遠くて、時間がかかる。これだけの人数が騒ぎ出したら、一大事だ。ことに、外国軍人がいる!」

上村保安課長は、私の抗議を一蹴した。桜田門から銀座まで、サイレンを鳴らして、第一予備隊が、駈けつけてきた。

「でもキャップ。場内に入ったのは、ウチだけ。写真もウチだけ。仕方なかったンです。各社は、輪転機を止めても、見出し程度しか入れられませんよ」

「そうだナ。マ、よしとするか…」

原稿を出し終えてから、原四郎部長の家に電話で報告した。起きて待っていた部長は、

「十分だ、十分だ。朝刊見れば、ウチのスクープは歴然さ。ご苦労だった。いや、ご苦労」

いつも感ずることだったが、原四郎という部長は、実に、働き易い部長だった。「いいか、新聞記者というのは、結果論だ。書かなきゃダメだし、書いていれば、勝ちさ…」といっていた。

完璧な〝独占スクープ〟の狙いは、外れたけれども、この朝刊の紙面は、努力しただけのことはあった、のだった。

昭和二十七年秋の、「東京租界」の成功が、改めて、〝社会部の読売〟をアピールして、同年度を第一回とする、財団法人・日本文学振興会による、「菊池寛賞」の新聞部門を、原四郎が獲得したのであ

った。