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読売梁山泊の記者たち p.256-257 〝河井のリーク〟を確認できるといった程度のもの

読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。
読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。

それにしても、立松が、河井よりも八年後輩の伊藤などの、ペエペエ検事と親しかったとは思えない。つまり、伊藤たちが、立松の戦線復帰を知り、それならば、河井にガセネタを流せば、必ず立松がひっかかる、とまでヨンでいたということも、信じられない。

当時、地検特捜部では、〝怪文書〟扱いをされていた、マルスミメモを、法務省刑事局に報告したことを、伊藤が、ガセネタ流しと称しているのではあるまいか。

それを、河井が恣意で立松にリークし、それを読売がまた、一大スクープ扱いで書き、二人の代議士が告訴し、名前の抜けていた高検の岸本検事長が捜査して、立松を逮捕するという〝筋書き〟を、一体、だれが予測し得たであろうか。

せいぜい、伊藤らが予測し得たことは、河井に流しておけば、どこかの社が動き出すだろうから、〝河井のリーク〟を確認できる、といった程度のものであった、と思う。

決して、〈権力闘争の恐ろしさ〉では、ないのである。

だが、この「立松事件」で、私もまた、被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、とうとう、河井の名前は出さなかった。しかし、「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と、主張したが、容れられなかった。

十月二十四日夕刻に、立松は逮捕状を執行されて、丸の内署の留置場に入った。ところが、読売新

聞は、翌二十五日の朝夕刊とも、この件については、一行も記事を書いていないし、他社も同様である。

というのは、社会部長を古い仲間の景山与志雄にゆずり、編集総務になっていた原四郎が、この「現職記者の名誉毀損逮捕」という未曾有の事件を、どう扱うべきかについて、時間を稼いでいたのであった。

前にも述べたが、本田靖春は読売記者時代に、司法クラブの経験がない。だから、一知半解の部分があるのである。宇都宮代議士は私に対して、「弁護士一任だった」と、のちに語ったのだから、弁護士は、地検の「検事某」を告訴するのに、検事正、検事長、検事総長の三人をも含めたら、一体、誰が、何処が捜査するのか、という着意をもつのが、当然だろう。

従って、監督責任の追及は、直接の検事正、最高の総長に絞るのが、妥当というものである。そしてまた、岸本検事長の指揮のもとで立松の逮捕にいたったのも、決して、本田のいうように、故意でも偶然でもない。

その年の初夏、司法クラブのキャップを命ぜられて、前任者の萩原記者と二人で、挨拶まわりをしていた時の、強烈な印象を、私はまだ忘れられない。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。

「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」

読売梁山泊の記者たち p.258-259 当時の「検察の派閥対立」

読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。
読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。
「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」

長身で美男のせいか、若く見えるその検事は、新任の読売キャップの手を握って、しばらくは離そうともしなかった。

私には、彼のアピールの趣旨が、よくのみこめず、困惑していた。廊下に出ると、萩原は、ニヤニヤしながらいった。

「オレにもそういってたから、お前にも、伝わっていると思ったんだろ。岸本サ…」

岸本検事長が、検事総長たらんとしていることを、〝阻止に協力〟せよ、ということであった——この一事をもってしても、当時の「検察の派閥対立」の、感情的な一面を、垣間見ることができよう。

「あれは立松君だろう」と、滝沢の顔を見るなり、こうぶっつけてきた天野特捜部長。そして、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、当時の東京高検の主な検事たちは、ほとんどが岸本検事長の〝親分肌〟の人柄に魅せられて、いうなれば岸本派と呼ばれる人たちであった。そして、昭電事件以来、読売の立松のネタモトは河井検事だということは、もはや公知の事実だったのである。

そして、河井は、馬場派のコロシ屋、いまようにいえば、〝ヒットマン〟であった。

井本台吉総長、福田赳夫幹事長、池田正之輔代議士の三者が、新橋の「花蝶」で会談した、いわゆる「総長会食事件」(昭和四十三年)で、私が、「東京地検、検事某」を、国家公務員法百条違反で告発した時も、東京高検に告発状を出したのである。

この時のネタモトは、井本総長の失脚を狙った、河井検事であったと、判断されたが、告発状では、「検事某」とした。だから、宇都宮、福田両代議士の「検事某」も、東京高検が捜査を担当するのは、当然である。

天野特捜部長が、滝沢に一パツかませて、立松—河井ラインは、すでに明らかであったから、岸本派の天野が、のちに、二人揃って最高裁入りをした、岡原次席に連絡したぐらいは、容易に考えられよう。

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。

「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」

「もちろん、その検事を取り調べます」

「パクるんですか」

「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」

「その検事が、相当な地位にあるとしたら」

「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」

「フーン…」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 「立松君のネタモト知っているんでしょう」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる
読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。
「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」
「もちろん、その検事を取り調べます」
「パクるんですか」
「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」
「その検事が、相当な地位にあるとしたら」
「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」
「フーン…」

「立松君のネタモト、知っているんでしょう」

「知ってますよ。でも、ニュースソースは秘匿せよという社命だから、いえません」

「話してくれないと、困るんだよなあ…」

そんなヤリトリのあと、私が質問したのは前述したように、高検が、その検事の名前をつかんだあとの、対応であった。「犯罪容疑の有無であって、地位や身分は関係なし」という、川口の表情は、私の眼を直視して、毅然としていた。

私は、「フーン」といいながら、河井検事だと供述したあとに、どんなにか、ドラマティックな〝事件の展開〟があることかと、考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。

土井たか子発言ではないが、それこそ〝山が動く〟のである。河井検事は高検に調べられ、辞職を迫られるであろう。当時の馬場義続・法務事務次官も、辞任に追いこまれるかも知れない。岸本は総長になり、〈歴史〉が私の一言で変わるのである——この〝誘惑〟は、まさに、私の人生をも、一変させるようなものであった。

「その検事が、馬場派の検事だったら、川口さんにパクられて、もう、総崩れだネ。高検のメンバーが、このまま、最高検だ。ハハハおもしろいねぇ」

私は、川口の追求を、こんな与太を飛ばして、辛くも、振り切った。

やはり、竹内四郎、原四郎と、二人の対照的な性格の社会部長に、教えられ、育てられた、〈新聞記者・魂〉が、しっかりと根付いていたのだった。

世論形成のため、時間稼ぎをしていた原四郎が、各社と連帯して、高検の不当逮捕を非難する、ゴウゴウたるキャンペーンを捲き起こし、立松は、拘留がつかずに、二十七日午後、釈放された。

事件の後始末、スター記者時代の終わり

それ以後、舞台は、国会の法務委員会に移った。と同時に、読売にとっては、ニュースソースは検察筋と答えた小島編集局長の、法務委への証人喚問という、新しい展開を見せてきた。

国会の証人喚問となれば、証言拒否ができなくなる。被疑者には黙秘権があるが、証人には、黙秘権はない。しかも、そんなヤリトリに慣れていない、小島編集局長が喚問されたら、どんなことになるか。

実際のところ、マルスミメモによって、九名もの代議士に、〝容疑あり〟の記事を書いたのだから、これらの議員が、入れ換えで法務委員に登録してくると、局長の喚問が実現する可能性は、十分にある。

その報告をした時の、小島局長の周章狼狽ぶりは、見ていて、情ない思いであった。これが、読売新聞の編集局長か、と、呆れざるを得ない、ほどであった。

——そこに、正力松太郎代議士が登場する。

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.262-263 読売の〝劣勢〟は覆うべくもなかった

読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった
読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

だが、それは、問題の根本的な解決には、なにものをも、もたらすものではなかったのである。司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。

立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでも、なかったから、読売の〝劣勢〟は、覆うべくもなかった。

舞台は、すでに、衆院法務委員会に移っており、検事総長は、「両氏には、容疑はないし、検察庁からは、絶対に洩れていない」と委員会で言明した。

そこで、「検察筋」と、両代議士に答えた小島文夫・読売編集局長の、証人喚問へと動き出していた。

本田著「不当逮捕」はこう描いている。

《…。だが、そうはいっても、立松が、司法記者クラブ詰めのキャップである三田に、仕事上のことであるにせよ、迷惑をかけている事実は動かせない。前日来、東京高検と社のあいだを、何度も往復している彼の立場を立松は考えた。

それにもうひとつ、この日の午後二時から後輩である滝沢が、東京高検の事情聴取を受けている、と聞かされたことも、立松には気に掛かるところであった。

ここは、自分が出て行かないことには、収まらないだろう。出頭要請には、いぜんとして、引っ掛かるものがあるが、立松は、そう肝を決めた。

「よし、久し振りに顔見せと行くか」

三田の膝を叩いて立ち上がったときは、かつての、司法記者としての自信が、蘇っていた。 「ともかく出頭して、まず滝沢君を帰してもらいます」

部長席に近づいて、三田との話し合いの結論を告げると、景山はいった。

「滝沢君のことだけど、君こそ病み上がりなんだから、早く帰ってこいよ」

次いで、原編集総務に挨拶すると、ねぎらいを口にした景山とは、打って変わったきびしい表情で、いきなり問いを発した。

「新聞記者の最後のモラルは、何だか知っているか」

その権高(けんだか)な物言いに、立松の胸の中で、むらむらとこみ上げるものがあった。竹内四郎の後を受けた原四郎は、「両四郎」と並び称されて、前任者を上回る名社会部長ぶりを謳われ、整理部長兼編集局総務に昇進したが、現役時代の彼は、文章派に属していた。

同じ四郎でも、司法記者の先輩である竹内のほうに、心を残す立松は、事件も知らずに何が社会部長か、と内心では、原を多少軽んじていた。そうした感情が、頭ごなしの原の問いかけに触発されて、あたまをもたげたのである。

これがふだんなら、持前のヤユで軽くかわすところだが、時と場合をわきまえて、神妙に受け答えした。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

読売梁山泊の記者たち p.264-265 立松は我がままで甘えん坊

読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。
読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

原は、立松の胸中も知らず、端正な顔に似合わない、時代がかった台詞を口にした。

「そうだ。要するに、お前の意地と根性の問題だな」

午後四時、立松は、東京高検の正面で、三田と一緒に乗ってきた車を降り、三階の公安検事室に川口主任検事を訪ねた。

「こんにちわ」

かつての調子で、気軽に扉を押して入ると、川口と差し向かいで坐っていた滝沢が、にわかに取り乱した態度を見せた。

「立松さん、ひどいんですよ。川口さんはこの僕から調書をとるんだから。いま、この記事の説明を、しつこく求められているところなんです」

滝沢は、机の上の新聞を指しながら、表情ばかりか、声までもひきつらせている。

何といっても、まだ場数が足らない。それに神経質な面のある滝沢である。予期しない事態に、動てんしているのだろう。立松は、その程度にしか、受け止めなかった。

しかし、滝沢は川口の容赦ない取り調べぶりから、東京高検の上層部が、自分をオトリに立松を釣り出して、強硬な態度でのぞもうとしているらしい気配を察知し、それを何とか彼に伝えて、入口で引き返させよう、としたのである。》

本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。滝

沢もまた、個人的に親しかったが、社歴では、本田より古かったから、立松を批判できる距離にあった。

そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

立松は、いうなれば〝金持ちのお坊ッちゃん〟であったから、我がままで、甘えん坊でもあった。だが、頭はいいので、自分を大切にしてくれる人に対しては、自分もへりくだり、決して粗末にしなかった。

一方で、自分を粗末に扱う人には、激しい敵意を抱いた。それは、本田も指摘しているように、「クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩」(「不当逮捕」39ページ)で、〝大スター記者〟になってしまったが、記者としての基礎訓練はまったくなく、かつ、原稿も決してウマクない、という、コンプレックスで裏打ちされたものであったろう。

立松は、月給のすべてを小遣いにして、さらに、「取材費伝票」で、経費を取っては、これまた、小遣いにしていた。だが、取材費は清算せねばならない。当時、社会部記者のほとんどが、そうであったように、銀座の松屋に出かけては、落ちているレシートを拾ってきて、その額面金額に合わせて、もっともらしい「項目」を書いていた。

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

読売梁山泊の記者たち p.266-267 「小島局長に証言拒否ができるか」どうかのご高説を

読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」
読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

その大雑把さに、経理部が、レシート番号から、売り場を調べてみたら、婦人下着売り場など、伝票面とツジツマが合わない。そこで、社会部の伝票の〝一大検証作戦〟が行なわれて、原社会部長は、総務局長に文句をいわれたらしい。

社会部長席に戻ってきた原は、部員席を見渡して、たまたま、目についた立松を呼びつけた。私も、そこに居合わせたので、原の怒声を、ハッキリと聞いている。

「立松! このドロボーの、パチンコ屋の手伝い野郎メ!」

それから、立松の提出していた、取材費清算伝票を、彼に叩きつけた——この事件が、立松を深く傷つけたことは、事実である。前任の竹内四郎が、立松を可愛がっていたことはすでに述べた。多分、この伝票事件以来、立松は原に対して、敵意を抱いていたに違いない。

その、立松の「原四郎・観」を、本田は、無批判に、文章にしている。私とて、例外ではない。原に怒鳴られたことは、数多くあるが、救いは、それがその場限りで、アトをひかないことである。

本田のように、「原の権威主義的な統率」というのは、誤りである。彼が、私生活を社に持ちこまず、かつ、部下にも見せなかったように、「原は仕事第一の統率」であった。いい仕事をやる記者は、どんどん、重用していって、励みを与えてくれたのだった。

小島編集局長の、衆院法務委への、証人喚問という動きに対して、読売は、対策を講ぜざるを得ない。

というのは、立松のネタ元が、河井検事、当時は、法務省刑事課長であったことは、すでに、編集幹部はみな知っていた。その、河井検事がタイコ判を押した、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士の収賄容疑が、検事総長の花井忠によって、否定されてしまったから、である。

小島局長、原総務、景山部長、長谷川次長に、前任者の萩原記者、キャップの私を加えての、対策会議がしばしば開かれた。立松逮捕当時には、立松家に木内曽益(注=馬場法務事務次官の兄貴分)、立松記者に中村信敏、柏木博の三弁護士を、萩原、三田の相談でつけたが、立松が釈放になって、局長の喚問という、事態になったのだから、この三人では、適任ではない。

また、二人で相談して、当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。

そうして、小野清一郎と、同じ事務所の名川保男、竹内誠の三弁護士を招いて、同じ顔触れの会議が持たれた。といっても、萩原と私とが、交代で、三弁護士に、経過説明をしたのだ。そして、「小島局長に証言拒否ができるか」どうかの、ご高説を拝聴しよう、というものであった。

ウン、ウンとうなずきながら、話を聞いていた、小野弁護士は、締めくくるように、いった。

「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

この一言を引き出すまでに、すでに二時間ほどが経っていた。そして、このあとはもう、小野発言が出てこない。その日の結論と判断した長谷川次長が、「食事のご案内を…」と、私にいう。

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

読売梁山泊の記者たち p.268-269 小野弁護士への謝礼をいくらにするか

読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた
読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

この、小野弁護士に関して、後日譚があるのである——正力社主の登場で、一件落着して、証人喚問対策会議は、あとにも先にも、この一回だけであった。だが、それからというものは、小野弁護士への謝礼を、いくらにするかということで、私と萩原は、東奔西走の日々を送ることになった。

なにしろ、読売側から、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったものだ。だが、発言は、「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。

二人で手分けして、「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみたが一向にラチがあかない。私が、遠縁に当たることを奇貨として、法務省特別顧問室に二人で訪ねて、直か当たりすることになった。

ところが、これまた一言だ。

「私が、日本で一流の刑事弁護士だ、ということを、お忘れなければ、いかほどでも、結構です」

とうとう、困り果てた二人が、出した結論は、五十万円。奉書に包み、水引きをかけて届けに行ったら、小野弁護士は、ウラを返して数字をみて、「結構です」と、受け取ってくれたので、ホッとしたことを覚えている。

ところが、五十万円の伝票を持って、小島編集局長のハンコをもらうべく、机上に置いた時、局長は、あの〝周章狼狽〟を忘れたように、「エッ? あの一言だけで、五十万円もするのか?」と、卑しい発言をした。それを納得させるのに、またまた一苦労であった。

どうして、正力松太郎社主・衆議院議員が登場してきたのか、その経緯については、私には、まったく情報がない。

当時、正力社主に、対等に口を利ける政治家としては、賀屋興宣と岸信介ぐらいしかいない。このふたりの、どちらかが、読売にも宇都宮、福田両代議士にも、キズをつけないような、調停案を出したものであろう。

【図版キャプション】昭和32年12月18日(左)と同年10月18日(右)の朝刊紙面

読売の社会面トップ。昭和三十二年十月十八日付の、「収賄の容疑濃くなる」という、五段抜きの見出しと同じ号数で、「事件には全く無関係」という、同じ行数の打ち消し記事を掲載する、ということで、和解する。名誉毀損の告訴は取り下げる、という、調停案の内容が、私と萩原に伝えられた。

こうして、丸二カ月後の十二月十八日の朝刊に掲載された。和解ののち、あとは社内の処分が発表されただけだ。

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

読売梁山泊の記者たち p.270-271 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者
読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

司法記者クラブでのキャップではあったけれども、立松が、社会部長直轄だったので、私は責任を問われることはなかった。

だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。

第六章 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.272-273 かねて顔見知りの元山富雄から電話があった

読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…
読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…だが当時は、「東洋郵船社長」という実業家として通っていた

ころがり込んできた指名手配犯人

「危険な記者は、社会部の現場からトバす」というのが、新任の金久保社会部長の方針のようであった。

部長のこの方針は、とりも直さず、国会の法務委員会に、証人喚問されそうになって、震え上がってしまった、小島編集局長の方針でもあったのだろう。

この時期、原四郎は、編集総務から出版局長になって、新聞制作からは、遠ざけられていた。〝遠ざけられ〟たといっては、語弊があろう。立松事件の後遺症に苦しむ、社会部記者たちとは、隔離されていたのだった。

金久保部長に対する、私の反抗的な言動が、部長に伝わったのだろう。大阪の次長、週刊読売の次長といった、配置転換の話が、私にきたのは、昭和三十三年春ごろのことだったろう。

この二つの人事異動を拒否したのだから、この次には、もっと悪いポストの話がくるだろう、と思っていた。例えば、厚生部の次長とか、編集以外の部門に出されるナ、と感じていた。

——編集局以外へ左遷されたら、サッサと辞めてやる!

心中秘かに、そう決心をしていたものであった。まだ、三十歳代なのだから、転進するぐらいはヘッチャラさ、と、思っていた。

そして、六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷

の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。

久しぶりの、事件らしい事件に、警視庁クラブは沸き立っていた。司法クラブ前任キャップの萩原が、警視庁のキャップになっていたので、私も、道路一本を隔てた警視庁に出かけて、記者会見のやりとりを聞いていたりしたのだった。

ところが、安藤組の親分、安藤昇は逃亡していて、所在がつかめない。組事務所には、花田という副親分ひとりが残っていて、主な組員は、みな、地下に潜伏してしまった。

いまでこそ、毎日のように、殺人事件が起きていて、コロシが社会面のトップになるようなことはない。だが、そのころには、まだ殺人事件というのは、月に一件か二件だったから、コロシは、やはり社会面の花だった。

考えてみれば、きょうこのごろは、何でもないことで、すぐ、人を殺す。少なくとも、三十年前ごろには、殺人の件数が非常に少なかったのだから、イヤな世相に変わった、ともいえるだろう。

安藤親分は、依然として捕まらない。「これは社会不安である」として、当時の岸首相は、田中栄一警視総監を呼びつけて、叱りつけた。異例中の異例であった。

いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。

と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業

事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。

読売梁山泊の記者たち p.274-275 「殺すんじゃない。左肩でもブチ抜いてやれ!」

読売梁山泊の記者たち p.274-275 横井は、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。その時動員したなかに、安藤がいた。いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にした。
読売梁山泊の記者たち p.274-275 横井は、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。その時動員したなかに、安藤がいた。いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にした。

いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。
と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業

事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。

「安藤組事件のこと、知ってるかい?」というのだから、私は、欣喜雀躍して会いに出かけていった。

簡単に、事件のことを述べよう。横井が、蜂須賀侯爵家から、当時の金で二、三千万だかを借りて、返そうとしない。蜂須賀家では裁判を起こし、勝訴して差し押さえをかけたら、豪邸から家財道具までのほとんどが、他人名義のため、三万五千円の応接セットしか差し押さえできなかった。

その話を聞きこんだのが、元山である。元山は、安藤に話し、「法律で解決できないワルなら、オレたちが裁く」ということで、横井に掛け合いに行った。

横井は、それ以前に、東洋製糖の秋山社長問題から、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。白木屋というのは、いまの東急デパート日本橋店のことで、名門デパートだった。その時に、横井側で動員した不良少年のなかに、安藤がいたものだった。

いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にしたものである。

怒った安藤は、蜂須賀問題どころではなくて、渋谷の事務所に取って返すと、子分の千葉に命じた。

「横井をコラシめてこい。殺すんじゃない。左肩でも、ブチ抜いてやれ!」

千葉は、射撃の名手といわれ、銀座の東洋郵船社長室にのりこんで、命令通りに左肩を射ってきた、ものである。

一方、病床の横井に、警視庁の係官が、安藤組の顔写真を見せると、「コレだ!」と、犯人の顔を見つけた。これは、横井の見誤りで、事件に関係のない小笠原だったが、警視庁は、小笠原を全国に指名手配した。

そしてそのころ、これまた、旧知の王長徳という、怪中国人がいた。「東京租界」のころ、取材で知り合った男だ。この王から電話があって、彼の許に出かけていった。

この王が経営している、碑文谷あたりのマーケットの事務所にいるというので、そちらへまわって見ると、大声で怒鳴っている。

「なんだ、ホンの二、三日だというから、かくまってやったのに、もう一週間にもなる。一体、どうする気だ」

「ハ、ハイ。でも、まだ、組のほうから、何もいってこないので…」

安藤組の若い衆らしい男が、困り切った様子で、頭を下げている。

「ナニが、どうしたんだい?」

「イヤね、安藤組の男を預かったんだけど、指名手配だというから、出ていってくれ、といってるところだ」

「面白そうだネ。その男に会わしてくれよ」

「ヨシ、アンタにやるよ」

「わかった、オレがもらった!」

読売梁山泊の記者たち p.276-277 安藤組というのは背広をキチンと着こみ

読売梁山泊の記者たち p.276-277 やがて、彼が小笠原であること。射ったのは千葉という男、安藤より先に捕まるワケにはいかない、まだ自首はできない、ことなどを聞かされた。彼に電話させて、花田を奈良旅館に呼ばせた。
読売梁山泊の記者たち p.276-277 やがて、彼が小笠原であること。射ったのは千葉という男、安藤より先に捕まるワケにはいかない、まだ自首はできない、ことなどを聞かされた。彼に、花田に電話させて、花田を奈良旅館に呼ばせた。

男の受け渡し場所を決めて、私の、読売の社旗を立てた車が、その場所に近づいてゆくと、対向車線に停まった車から、ひとりの男が、こちらをめざして走ってくる。

その男を、社の車に拾って、赤坂見付の社用旅館の「奈良」に向かった。もちろん、運転手は、なにも知らないし、車内では一言も話をしなかった。もう夜になっていた。

奈良旅館に着いて、女中さんに部屋をとらせて、はじめて、明るい部屋で対座した。男は、「山口です」と名乗った。だが私には、王との話で、指名手配の小笠原らしい、と判断できたが、もとより、確認はしない。

「一体、どういうことです?」

それから、長い時間、私と彼とは、話をつづけていた。社会部の誰にも、何も連絡していない。ただ、司法クラブの二人には、電話して、「仕事で奈良旅館にいる」とだけ、連絡しておいた。

やがて、彼が、小笠原であること。射ったのは、千葉という男で、写真で見ると、自分に似ているので、横井が間違えたのだろう。私は、バクチの係で、「顧客名簿」を持っているので、これをサツには渡せないこと。

安藤がまだ捕っていないので、安藤より先に捕まるワケにはいかないから、まだ、自首はできないこと。自分が犯人でないということは、花田が知っていること。花田に聞いてもらいたい、といったことなどを聞かされた。

彼に、花田に電話させて、花田を奈良旅館に呼ばせた。

安藤組というのは、博徒でもないし、テキ屋でもない。不良少年グループだ、という。安藤の方針は、いわゆるヤクザ風な服装や髪形を禁じていた。「オレたちはギャングだ」というので、背広をキチンと着こみ、サラシの腹巻や、モンモン(刺青)など、許されなかった。

博徒ではないから、縄張りなど関係なし、ということで、渋谷で花札賭博をやる。博徒としては、渋谷は武田組のショバだ。武田組が安藤に文句をつけてきた時、安藤はこう答えた、という。

「オレが博徒なら、縄張り荒らしになる。しかし、オレたちはギャングだ。筋違いだ」

こうして、武田組と紛争になった。安藤組事務所に、武田組が殴り込みをかけてきた。三階建てビルの三階、せまい階段があるだけで、多数がワッとなだれこめない。一列縦隊で、階段を上がってくるのを、上から、消火器を噴射する。その圧力に、先頭の男が転がり落ち、後につづいた全員が、将棋倒しになって、殴りこみは失敗した、というエピソードさえある。

そして、花田という副親分は、当時、なんの事件も抱えておらず、合法面に出ていられる立場だった。

やがて、花田が現われた。礼儀正しい紳士であった。犯人は千葉であり、小笠原の指名手配は間違いだ。まだ、安藤とも、千葉とも連絡はついていないが、そのうち、安藤が捕まれば、千葉たちも自首するだろう。

安藤組としては、まだ、小笠原を自首させるわけにはいかない。ご迷惑をかけましたが今夜はもう

遅いので、明日、出発させます、という。

読売梁山泊の記者たち p.278-279 「事件とはこういうもんだ」と教えてやろう

読売梁山泊の記者たち p.278-279 車中、ひとりになって考えてみた——花田に頼んだら、安藤と連絡がつくかも…自首の前夜に、〈単独会見〉というのも、悪くないな。〝安藤逮捕〟というビッグ・ニュースを読売のスクープにできる。毎日ひとりずつを自首させて…
読売梁山泊の記者たち p.278-279 車中、ひとりになって考えてみた——花田に頼んだら、安藤と連絡がつくかも…自首の前夜に、〈単独会見〉というのも、悪くないな。〝安藤逮捕〟というビッグ・ニュースを読売のスクープにできる。毎日ひとりずつを自首させて…

やがて、花田が現われた。礼儀正しい紳士であった。犯人は千葉であり、小笠原の指名手配は間違いだ。まだ、安藤とも、千葉とも連絡はついていないが、そのうち、安藤が捕まれば、千葉たちも自首するだろう。
安藤組としては、まだ、小笠原を自首させるわけにはいかない。ご迷惑をかけましたが今夜はもう

遅いので、明日、出発させます、という。

「分かりました。しかし、指名手配は解除されていないのだから、私は、これで帰りますが、夜があけたら、ここから立ち去って下さい」と、私は結論を出した。

トイレに立って、部屋に二人だけの時間を作ってやった。帳場に行って、「お客さんはひとり泊まる。朝食を出してやってくれ」と頼んで、部屋に戻った。

花田は、小笠原に金を渡したようだった。

「それでは、私はお先に失礼します」と、挨拶をして、花田は帰った。私も、車を呼んで帰宅した。

車中、ひとりになって、考えてみた——花田は、安藤と連絡が取れていない、といっていたが、小笠原の連絡が、すぐ花田に通じたことをみると、もちろん、組事務所ではなく電話連絡のルートがあるのだろう。

花田のカミさんは、渋谷でクラブを経営しているというし、渋谷一帯には、安藤組の影響下にある店や事務所は多い。

小笠原は、横井の写真面通しで、指名手配犯人にされているが、事実は、千葉の犯行だということだ。小笠原には、これ以外に、現在のところ、なんのヤマ(犯罪事実)もないということだった。

——ウン? 花田に頼んだら、安藤と連絡がつくかも知れないナ…。安藤だって、逃げ切れるものではないのだから、やがて、自首するだろう。

——それなら、自首の前夜に、花田に頼んで安藤に会わせてもらって、〈単独会見〉というのも、悪

くないな…。

——首相が総監を叱りつけた事件だ。その安藤にあって、オレが自首をすすめる。説得できれば、警視庁と連絡をとって、逮捕という形の自首をさせる。すると、〝安藤逮捕〟というビッグ・ニュースを読売のスクープにできるな!

——いま、地下に潜っているのは、安藤以下五人だ。小笠原は、「兄キより先に自首はできない」といったから、安藤でスクープしたあと、小笠原以下、毎日ひとりずつを自首させて、五日間の連続スクープか…。——だいたいからして、いまの社会面はなんだ? 企画モノでなければ、トップを張れないなンて、事件の読売はどうなったンだ?

——巨人戦の招待券を、クラブでバラまいているような社会部長なんて、あるもんか。畜生! 〝社会部は事件〟なんだゾ!

——黙っていたら、あの部長には、社会部なんて、分かりやしないさ…。ひとつクーデターを起こして、目を覚まさせてやるか!

世田谷は、梅ヶ丘の自宅まで、車の中で、私の気持ちは、だんだん、高揚してくるのだった。

——そうだ、これはクーデターだ!

〝五人の犯人の生け捕り計画〟は、五日間の連続スクープ、ということになる。〝事件〟に逃げを打つ編集局長と、社会部長とに、事件で育ってきた社会部記者が、「事件とはこういうもんだ」と、教えてやろう…。

読売梁山泊の記者たち p.280-281 小笠原ではダメだ。花田にゲタを預けなければ

読売梁山泊の記者たち p.280-281 「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!
読売梁山泊の記者たち p.280-281 「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!

金久保社会部長と、小島編集局長に対してクーデターを起こそう、という決心は、社の車で送られて、世田谷の家に帰りつくまでにもう、九分九厘まで決めていた。

翌日、やや早目に起きると、社の自動車部に電話して、家から五分ぐらいの距離にある北沢署に車を呼んだ。

たしかに、〝いい時代だった〟と思う。三十歳代の後半とはいえ、出勤には、いつも社用車が使えたのだから…。

ひる前ごろ、赤坂の奈良旅館に着いてみると、小笠原は、昨夜、「指名手配なのだから夜が明けたら、ここを立ち去って下さい」といっていたのに、まだ、旅館に居たし、私の来るのを、待っていたような感じだった。

「どうしたんです。まだ、居たんですか」と私はワザと、詰問調にいった。

「…あのう、お願いがあるんですが…」

——きたな! と、私は思った。

「ゆうべと今朝、花田とも、連絡を取ったのですが、やはり、兄キよりも先に、捕まるわけにいかないんです。それに、私の指名手配はマチガイですし…」

「……」

「…で、兄キが自首するまで、もうしばらくの間、どこかに、かくまって頂けないものでしょうか…」

「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」

今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。

——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!

——しかし、小笠原との〝取引〟ではダメだぞ。花田に、ゲタを預けなければ…。

ダンマリのなかで、私の心の中では、着々と、クーデター計画が煮つまっていった。

「この場では、私には返事ができない。仕事もあるので、私はでかけるけど、夕方、暗くなったら、花田さんを呼んでおきなさい。

メシは運ばせるけど、部屋から出てはダメだよ。今朝、ここを立ち去らなかったので、私は、再度、今夜には出ていくように、厳重に注意したんだよ」

事務的な口調でそういうと、司法記者クラブに出かけていった。

犯人を旭川へ、サイは投げられた

夕刊の締め切りがすぎたころ、私は、警視庁クラブに出かけていって、キャップの萩原や、捜査二課担当の子安雄一記者に、安藤への追及状況を聞いた。まだ、足取りは、まったくつかめていないようだった。

それから、シベリアで一緒に苦労した、大隊長の塚原元大尉に電話を入れ、「至急、会って相談した

いことがある」といった。

読売梁山泊の記者たち p.282-283 小笠原をオトしてやるメドがついた

読売梁山泊の記者たち p.282-283 「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。
読売梁山泊の記者たち p.282-283 「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。

それから、シベリアで一緒に苦労した、大隊長の塚原元大尉に電話を入れ、「至急、会って相談した

いことがある」といった。

塚原大隊長は、もともと、私の上官ではなかった。八月十三日、満州国の首都・新京で私の所属する二〇五大隊の主力は、すでに満ソ国境の白城子付近に展開していた、旅団主力に合流できず、新京防衛隊に編入されていた。そして敗戦。

やがて、南の公主嶺に撤退し、一千五百人の部隊編成が命令された。そこで、二〇五大隊を基幹として、二〇三大隊の一部を加えてジャスト一千五百名が編成された。

だが、シベリアに入ったその冬、二〇五大隊長だった星野六蔵少佐が死亡して、二〇三大隊の長だった、塚原勝太郎大尉が、後任の大隊長になった。

バイカル湖の西側、イルクーツクから、シベリア本線で二つ目の駅、チェレムホーボの炭鉱で、私たちは働かせられた。はじめは、建制(旧軍の編成)のままの作業隊だったが、のちに、将校だけの作業隊になったので、私は、塚原大尉とも、親しくなっていた。

「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」

「ウン、話せない事情があるのなら、聞かないことにしよう。そうだナ。旧部下で、思い当たるのは、旭川で材木屋をやっている、外川曹長ぐらいだナ」

「あァ、外川さん。私も知っていますが、そんなことを頼めるほど、親しくないので…」

「いや、いいよ。オレが頼んでやるよ。住みこみの店員もいるし、ひとりぐらい…」

「でも、あんまり、肉体労働のできる男ではないので、寝るところとメシだけ、お願いできれば…」

「よし、分かった。頼んでやる。オレと同じ二〇三大隊育ちだから、引き受けるよ」

「スミマセン。…どんなに長くても、一カ月ぐらいですので…。ア、山口二郎という男ですが、上野を発ったら、旭川着の時間をお知らせします」

私が、王長徳から、小笠原を〝もらった〟時に彼は、山口二郎といっていたのを、思い出して、そうつけ加えた。

塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。迷惑がかからないよう、留意したのであった。それでも、塚原大尉には、二泊三日ぐらいの、留置場体験をさせてしまった。二人の供述が、ピタリと一致したので釈放されたのだった、けれども……。

シベリア会という、戦友会が、年一回開かれている。その席で、塚原大尉とはじめて同席した時、私は発言を求めて、改めて、謝罪したものだった。

さて、話の本筋へ戻ろう——小笠原をオトしてやるメドがついたので、夜になって、奈良旅館へ出かけていった。もう、ハラは決まっていた。

花田が来て、小笠原からではなく、花田から頼ませる形をとった。

「あくまで、安藤親分の自首までの間、ですからね。そして、安藤が自首する前、私にはインタビューさせて下さい。警視総監が首相に叱られた事件だから、多分、実情は自首であったとしても、逮捕

という形を取ることになるでしょう。

読売梁山泊の記者たち p.284-285 サイは投げられたのだった

読売梁山泊の記者たち p.284-285 駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。待たせておいた車に戻り、深々と座席に身を沈めた。
読売梁山泊の記者たち p.284-285 駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。待たせておいた車に戻り、深々と座席に身を沈めた。

「あくまで、安藤親分の自首までの間、ですからね。そして、安藤が自首する前、私にはインタビューさせて下さい。警視総監が首相に叱られた事件だから、多分、実情は自首であったとしても、逮捕

という形を取ることになるでしょう。

それから、上野駅までは、私が送ります。落ち着き先へ到着したら、連絡を入れますから、食費その他の経費は、そちらで賄って下さい。切符代もね。もちろん、先方では、なにも事情は、一切知らないのですから。軍隊と捕虜の〈友情〉なのです。

途中、職質で逮捕されたりしたら、私は、まったく、関知しませんから、旅館のマッチやメモ類など、持たないこと。花田さんの電話番号は、頭の中に入れて下さい」

私は、あらゆる場合を想定して、安藤の自首までの、時間稼ぎを考えていた。警視庁は安藤の足取りを、まだ、つかんでいないことは確かだった。

安藤と千葉の身柄を、捜査二課が押さえた段階で、小笠原は、自首してもらえばいいという、プログラムだった。

そして、それらの連絡は、合法面に残っている花田である。私が想定した情況は、十分に知識のある、日本共産党の九幹部潜行の実例であった。その時も、合法面には、椎野議長ひとりが残って、連絡係をしていたのだ。当時、日共担当だった私は、同じ捜査二課の捜査手法には、通じているつもりだった。

のちに、捜査四課が設けられて、暴力団担当となり、公安一、二、三課ができて、左翼、右翼、外事を、分掌したが、当時はまだ、捜査二課の一、二、三係であった。

奈良旅館に、車を呼んだ。社の自家用ではなく、雇い上げのハイヤーを指定した。

旅館の門のところで、花田は、「では、なにとぞ、宜しくお願いします」と、頭を下げて、去っていった。

少し離れて、待っていた車に、私と小笠原は乗りこんだ。私の人生で、〝夜のヤミ〟を気にしたことは、この時が最初だったろう。

赤い横線の入った、読売の社旗が、ヘッドライトの横でハタめく。

——まず、検問を受けることはない…。

それでも、車窓に流れる制服警官の姿には緊張する。上野駅に着いて、正面玄関から、一階の広場を抜けて、右手の大改札口に至る数十メートルの歩きには、あとでクタクタになるほどに、精神が張りつめていた。

むかし、サツまわりで、上野署を担当したので、駅警備の詰め所や、巡回コースなどの知識はあったが、駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。

小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。

——済んだ…。あとは連絡船の乗降だけが賭けだ!

待たせておいた車に戻り、「ウチまで送ってよ」と、運転手にいって、深々と、座席に身を沈めた。頭の中が、空ッぽのような感じだった。サイは投げられたのだった。

夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし

ていた。

読売梁山泊の記者たち p.286-287 一枚の紙切れが入っていた

読売梁山泊の記者たち p.286-287 刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。
読売梁山泊の記者たち p.286-287 刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。

夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし

ていた。

自分の部屋に入り、改めて、六法全書を取り出し、机上にひろげた。

第一〇三条(犯人蔵匿) 罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者、又ハ拘禁中逃走シタル者ヲ蔵匿シ、又ハ隠避セシメタル者ハ、二年以下ノ懲役、又ハ二百円以下ノ罰金ニ処ス

カタカナ書きの、刑法の条文が、それなりの重みをもって、私の視野に、飛びこんできた。

——オレはいま、間違いなく、刑法の罪を犯した…。

——しかし、これは私利私欲ではない。公器たる新聞の、取材のためであり、報道のためなのだ!

——新聞は事件なのだ。事件を扱わなくなった読売新聞の、編集幹部に覚醒を促すための手段なのだ。

新聞の編集局長や各部の部長などは、そのクビを、大勢いる部下の記者たちに、預けているのも、同然である。

古くは、朝日新聞の「伊藤律架空会見記」が、そうであり、近くは、「サンゴ礁事件」がそうである。部長、局長、社長のクビを飛ばすことができる。

読売の立松事件では、記事はデマだったが、ネタモトに法務省刑事課長・河井信太郎という、レッキとした人物がいたので、部長が左遷されただけで、局長はお構いなしだ。

なんと、美辞麗句を並べようと、私の今夜の行動は、まぎれなくも、「犯人隠避」である。

——これが、「事件」になるかどうかは、私の手で、安藤以下の指名手配犯人を警視庁に自首させられるか、捜査の手が早く逮捕されてしまうか、どうか、そのスピード如何にかかっている。もし、当局

の手が早ければ、私は犯人隠避罪の、刑事被告人になることは、間違いのないところである。

そう考えると、私は、急に脱力感に襲われて、虚しくなってきた。

——いったい、新聞記者、新聞記者って、ひとりでリキみ返っているが、新聞記者って、なんなのだ?

いつも私の寝ている間に、学校へ行ってしまって、顔を合わせるチャンスの少ない、子供たちの顔が、急に見たくなってきた。

子供部屋に行って、二人の男の子の寝顔を見ていると、虚しさが、一層つのってきた。

発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…

そして、しばらくののちに、私のクーデターは失敗する。私は負けるのだった。それもまったくの偶然からだった。

安藤の足取りは、まったくつかめない。上からは、ヤイヤイいわれる。刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。

もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。と、一枚の紙切れが入っていた。

「北海道、旭川市……。山口二郎」

手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。

読売梁山泊の記者たち p.288-289 偶然にも旭川署の動きを見ることになった

読売梁山泊の記者たち p.288-289 その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。——小笠原のことだ! むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。
読売梁山泊の記者たち p.288-289 その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。——小笠原のことだ! むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。

手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。

「安藤組で、旭川市に土地カンのある奴はいない。山口二郎なんてのも、知らんな」

花田のカミさんが、刑事の質問に、どう答えたかは、私は知らない。もとより、カミさんの供述を、そのまま、ウ呑みにするハズはありはしない。私の推理では、小笠原が、花田に金でも送ってくれ、と手紙を書き、花田はカミさんにいいつけた。それで、送金のため、住所を残していた…?

北海道警察本部に手配が行き、この「山口二郎」なる人物が、何者であるかの捜査が始められた。

その日は日曜日で、私は、久し振りにくつろいで、自宅にいた。と、司法クラブの寿里記者から、電話があった。

「月曜日の朝、通産省の役人のサンズイ(汚職、汚の字がサンズイだから、こういう)で地検がガサをかけるんです。それほど、大きなヤマ(事件)ではないんですが、原稿、どうしましょう?」

「小さなサンズイなんか、どうせ、ベタ(一段の小さい記事)だろうけど、オレも晩飯を喰ったら、社へ出るから、その時に打ち合わせしよう」

久しぶりに、家族四人揃っての夕食ののち私は、車を呼んで出社した。日曜日の夜の編集局は、いつものような活気がない。ニュースが少ないからである。

寿里も、お茶を飲みに出たというので、私は、空いてるデスク(次長席)に坐ってなに気なく、机上の原稿に、目を落とした。少し前に、地方連絡が置いていった、北海道発の記事である。

その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。

「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。

——小笠原のことだ!

むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。

偶然にも、日曜日の夜、翌朝の、地検のガサ入れの打ち合わせに出社して、私は旭川署の動きを報じてきた、旭川支局発の原稿を見ることになってしまった。

手短かに、寿里記者との打ち合わせを済ましたのち、婦人部長の長谷川実雄(のち巨人軍代表)を訪ねて、経過を報告し、「警視庁は逮捕すると思うので、即刻、辞職したいと考えている」と、打ちあけた。

もちろん、前夜のうちに、塚原大尉にも電話して、事情を説明し、「警視庁から呼び出しがくるでしょうから、なにもかも、洗いざらい、ホントのことを話して下さい。下手すると、一泊か二泊、させられるかもしれませんけども、それ以上のことはないでしょう」と、話しておいた。

昭和三十三年七月二十一日の月曜日、私は朝早く、金久保通雄・社会部長の自宅を訪ね事情を説明して、前夜に用意した辞表を出した。部長は、警視庁の話も聞いてみよう、と一緒に刑事部長を訪ねた。当時の警視庁刑事部長は昭和十二年採用の新井裕であった。

その時、この修羅場をくぐったこともないエリート官僚は、塚原大尉に対する、私の説明を聞いて、こういい放った。

「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった

りするもンか!」

読売梁山泊の記者たち p.290-291 務臺さんの「また社に戻ってきたまえ」

読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」

「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった

りするもンか!」

警察取材が長く、親しい警察官も、警察官僚にも友人が多くいるのだが、この言葉には激怒を覚えたものだった。

新井裕もまた、「幻兵団」の調べ官、二世のタナカ中尉と同じように、「記者の功名心? …信じられない…」と、いった。その心は、安藤組との深いつながりや、金の関係などを、疑っているようだった。

同席していた、捜査二課長は平瀬敏夫。若い彼は、一言も発せずに、私と新井裕とのヤリトリを聞いていた。

この新井は、のちに、警察庁長官にまで進む。が、私は彼を糾弾する。昭和五十年六月四日付の「正論新聞」一面のトップ記事である。

「大林組〝夜の社長〟と元警察庁長官」という大見出しである。大林組に寄生して、女の世話までしながら、同社の全資材からマージンを取っていた、福島県出身の代議士の息子がいた。菅家(かんけ)というこの男は、福島民報の記者だったが、当時の県警本部長の新井と親しかった。

多分、新井は、そのころ、日本航空顧問だったと思う。大林組が青山に落成させたばかりのマンションに、この菅家と新井とが、隣りあわせで入居していたのだった。つまり、菅家と新井のゆ着である。全国に作業所を持つ大手土建は、それぞれ、各地で事故を起こしたりするので、モミ消しには警察庁長官を利用していたのだろう。

刑事部長への経過説明のうちに、二課担当の子安記者が入ってきて、「二課ではビラを請求しました」と、耳打ちしてくれた。逮捕状のことである。

「新井さん。当然、強制捜査をされるんでしょうが、私としては、今朝、社会部長に辞表を出しました。これが、今日、受理されて、〝元読売記者〟になってから、逮捕されたいのです。いくらなんでも、現役記者のままでの逮捕では、社に迷惑をかけすぎます。…立松の場合とは、違うんですから、それぐらいの時間を下さい。こうして、自分から出頭してきているんですから」

交渉の末、社会部長が預かる形で、明日の火曜日正午に出頭する、ということで、決着がついた。

——明日の正午まで、丸二十四時間しか、自由の時間がないのだ。

社にもどる。辞表は持ちまわり役員会にかけられ、夕方には受理、発令された。仲間の萩原キャップが、「オイ、中村信敏弁護士を社でつけてやるからナ」と、気を配ってくれたのに、感謝した。

しかし、人間、落ち目の時にこそ、まわりの人の〈人間〉が目に見えてくる。

さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。

「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」

ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局

長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.292-293 私の腕時計はフロムムタイと刻まれたオメガ

読売梁山泊の記者たち p.292-293 こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。
読売梁山泊の記者たち p.292-293 こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。

さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局

長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。

そして、それから一年ほども経っただろうか。読売本社へ顔を出したところ、バッタリと、深見和夫・広告局長に出会った。

「オイ、三田。この間、務臺さんと同じ車に乗った時、『三田は、どうしているンだ』と心配されていたぞ。社に来た時は、挨拶に顔ぐらい出してこいよ」

こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。正論新聞の十周年では、多忙のなかを割いて、帝国ホテルのパーティで、鏡割りをしていただいたほどである。

そして、私の腕時計は、45・7・21ツー・ミタ・フロム・ムタイと、裏に刻みこまれたオメガ。もうすでに、二十年を越えているが、ほとんど狂わない。務臺さんの読売社長就任の時、記念に下さったものである。

中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。

こうして、私は、中村弁護士と萩原とにつきそわれて、警視庁に出頭した。捜査二課の石村勘三郎警部補係で、調べ室に入った。

夕方になったころ、石村主任はニヤニヤしながら、「ブン屋をしていたって、見たことのないものを見せてやるよ」と、一枚の紙片をさし出した。

「フーン。逮捕状か。アレ? オレの名前が書いてあるよ!」

「ドレ、ドレ。アーホントだ。じゃ、オメェさんを逮捕しなくッちゃ!」

調べ室の中の千代部長刑事も、二人の若い刑事も、みんな、大笑いした。その日は形式的な調べだけ。十名近い雑居房で、監房長官は、暴力団右翼のボス。私は〝安藤のために、読売記者を棒に振った英雄〟として、その客分扱い。

雑居房の上席は、入り口に近い所から、奥の便器の側へと、下がってゆく。私は、ボスの次の場所で、日曜、月曜と二日つづきの寝不足に、グッスリと眠った。

石村主任は、おもしろい男だ。藤井丙午・八幡製鉄副社長を逮捕しようとして、令状請求書を持って、朝、課長室に入る。所轄署なら、令状警部と呼ばれる警部で、裁判所に逮捕状を請求できる。しかし、警視庁では、課長の決裁が必要である。業務上横領の容疑であった。

「……」

課長は、ジロリと石村を見て、黙ったまま横を向いてしまう。デスクの正面には、石村も黙ったまま、直立している。手には、令状請求書を持っている。

課長は、横を向いて、サイドテーブルで仕事をすることになる。上のほうから、待てという指令がでているからだ。…こうした日が何日もつづいた、ということだ。

そして、ある日。彼は、推せん枠で警部に昇進させられ、制服を着て、方面本部の刑事官として、捜査の現場から外されてしまう。のちに、警視で退官し、平和相互銀行に入り常務にまで栄進した。

読売梁山泊の記者たち p.294-295 「ハハン。すると安藤もパクられたのか」

読売梁山泊の記者たち p.294-295 「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」 「ハハン。すると、安藤もパクられたのか」
読売梁山泊の記者たち p.294-295 「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」

逮捕の翌日朝、運動に出る時、「読売!」と、声をかけてきた男がいた。まだ、メガネの使用許可がとれず、遠いので、誰であるか分からない。

「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」

「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」

「ハハン。すると、安藤もパクられたのか。小笠原も、旭川から護送されたんだろう。それにしちゃ、顔を見ないネ」

「オメエ、ほんとに声をかけた男、知らねえ男かい?」

「そういってるダロ、元山と王の関係で、小笠原を紹介されただけで、安藤組なンか、だれも知らないよ」

「フーン…」

この時から、石村主任の態度が変わった。いままでは、まだ、疑っていたのだった。私がほんとうのことを供述していない、と。

萩原の配慮で、中食には、大増の弁当がさし入れられた。子安が、石村の部屋まで届けてくれる。もう、調べは終わってしまい、私は、朝から石村部屋で、ダベりながら、時間をツブしていた。

「しかし、なあ。捕まえたオレが、牛乳とパンを喰っているのに、捕まったオメエサンが、豪華な弁当を喰っているッてのは、少し、オカシイんじゃないか」

部屋持ち主任の石村以下、デカ長一、デカ二の合計四名と、私とが、みんなで揃って中食を取る。そんな冗談も出てくるフンイキだった。いわゆる〝石村学校〟と呼ばれ、石村式捜査が、若い刑事たちに叩きこまれていくという、〝捜査の職人〟だった。

やがて、満期日がきて、私は起訴された。その翌日、高検次席だった中村弁護士は、自分で書類を持ち歩いて、保釈の手続きを素早く済ませてしまった。やはり、ベテランの刑事弁護士であった。

だが、ベテランの刑事弁護士では、あまり収入にはならない。人柄もまた、商売向きではないので、友人たちが仕事をまわしてくれる。やがて、彼は、児玉誉士夫の顧問弁護士になった。やはり、友人の好意からだ。

当時、すでに児玉批判を強めて、そんな雑誌原稿を書いていた私のことを、彼は、よく知っていた。ある日、銀座の中村事務所に、ヒョイと立ち寄ってみた。

「オイ、三田クン。いままでは、読売以来の仲で、親しくしていたけれど、これからは、そうはイカンぞ。…なにしろ、オレは、児玉の弁護士になったんだから、キミとの付き合いにも、一線を画するからな」

ニコニコとして、そういっていた中村弁護士だったが、早逝されてしまった。 裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。