正力松太郎の死の後にくるもの」カテゴリーアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「正力コーナー」は〝死に欲〟の現れ

正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。

さて、こうしてみてくると、正力コンツェルンの有力メンバーである、日本テレビも報知新聞

も、どうやら、〝正力のモノ〟ではなくなりつつあるようである。ことに、日テレは公開会社だから、なおのことである。

これらは、いずれも〝跡目争い〟などといった、低い次元の人事葛藤の揚げ句というのではなくて、報道機関であって、公共性企業だから、電波や紙面の〝私物化〟には、限度があるということである。

と同時に、大正力という偉人は、偉人であるだけに、ワンマンであり、自己を過信するあまり、他人を信頼しなさすぎた。その結果として、「組織」を無視しすぎたのである。組織のないところには、人材も後継者も育たない。実子の亨でさえ、父親を畏敬すること他人以上であった、ということでも、それがうなずけよう。

「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。

私は、四十年にそれを批判して書いた。

「昭和十八年の私の入社当時、編集局の中央に立ったまま、叱咤激励する正力の姿は五十九歳、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。

国会議員に打って出、原子力大臣となり、勲一等を飾った正力は、読売の発展にすべてを使い果したヌケガラで、〝死に欲〟のミイラ同然になってしまったのである」と。

「正力コーナー」は、こうした、〝死に欲〟の現れとしか考えられない。この傾向は、衆院選出馬のころから現れだし、〝新聞とテレビと野球の先駆者、正力松太郎〟を賛美する、新聞四頁の社報号外となって、全国の読売への折りこみ配布からはじめられた。

当時、選挙違反担当の検事が、苦笑していったものだ。「これは、明らかに違反文書だけれども、読売の全国版に折りこまれているのでは、公判での立証が困難だ。違反もこれだけ大きなスケールでやられると、手が出ないね」と。

やがて、北陸の小都市高岡に、正力の出身地ということで、読売会館が建設され、北陸支社が設けられた。支社はすべて、正力の選挙事務所であり、読売記者とは名のみにして、北陸の寒村で、〝読売ランド〟の宣伝をして歩かねばならないのであった。

北陸支社から、大物支社長自らが電話器を握りしめ、一字一句の間違いがあってはならじと、送稿してくる〝ニュース〟とは、幾度か、当時の読売紙面を飾っているので、読者は御承知であろう。その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。

「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 武道館の竣功こそ最後の仕事

正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。
「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」

カンダカジチョウカドノカンブツヤノカチグリの新版である。これなんと、正力の銅像碑文の全文掲載であった。

あまりのことに、抵抗は本社社会部から起った。本社詰めの遊軍記者が十一時をすぎても出勤してこないのである。早く出てくると、ランド取材を命じられるからである。職制のデスク一人が幾つもの電話のベルに追い廻される破目になった。前記の〝大づくし〟記事を、省略して簡単な原稿にまとめ、それを整理部に廻した、記者とデスクは叱られた。たまりかねた社会部の組合執行委員の長済功記者が、「正力コーナー」を、正式に組合の議題としてとりあげた。

この経過は、さきに述べた通りであるが、こうして、異状な執着をみせた「衆議院議員」として、果して、正力は何をしたのであろうか。

原子力大臣として、初期の原子力行政に、その〝創意の人〟として、才能を振るったこととされているが、〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、私をはじめ大方にもピンとこないであろう。

それよりも、代議士としての正力の功績を探るならば、議員武道連盟を母胎として、超党派で日本武道館を建設したことであろう。

そして、そこが、おのれの葬儀の場所になるであろうとは、正力も、そこまでは考えなかったであろうが、かつて、新宿西大久保に〝屋根つき球場〟建設を考え、その敷地を転用して、正力

タワーを発想しながら、ついに果さずして天寿を完うしたことを想えば、武道館の竣功こそ、最後の仕事だったのではあるまいか。議員として、もって瞑すべしである。

そして、武道館はまた、かつて読売東亜部におり、その後、長く浪人していた三浦英夫を常務として、経営的にも安定しているようである。巨人軍といい、武道館といい、大正力の死の影は、スポーツ関係では、何もないというのは、日本テレビ、報知と対比して、何と皮肉なことであろうか。

大正力の中の〝父親〟

最後に残ったものは、問題の「よみうりランド」である。生前の正力が、その建設を目して、〝私の悲願〟とまで叫ばせ、日テレに粉飾決算を強い、巨人軍の金田の契約金を分割にし、果ては、読売本社の経営を危うくするほどにまで、コンツェルン内部の現金という現金をかき集めて注ぎこみながら育てたのが、この「よみうりランド」であった。

しかも、「正力コーナー」として、その新聞人としての姿勢を糾弾されたのも、老いの一徹の〝ランド可愛いさ〟からであった。だが、この親の心は、子の誰にもわかってもらえなかった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 ランドはもともとは関東レース倶楽部

正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」
正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

ランドの御堂にインドから仏舎利を贈られれば、その記事を書かされた記者が、自嘲していった。

「ものの本で調べてみるとですね。世界中にバラまかれた仏舎利の、重さの合計は二トンになるそうです。すると、お釈迦さまというのは、大変な巨人だったのですね」と。

そのランドには、武が常務として送りこまれたが、もともとは、関東レース倶楽部という、競馬やオートレース屋の集まりである。読売の停年退職者も、何人かは入っているが、いずれも遊戯場の支配人程度の地位で、何の実権もないから、若い武にとっては、日テレの亨同様にハダカ同然の身の上である。

武に対する風当りは、特につよい。ことに正力の実の娘たちである、小林、関根両夫人などは、女性の本能的嫌悪感から、武のことを、正式には認めようとしないらしい。

しかし、武はその屈辱に堪えて、正力のセガレという立場をすてて、一人の実業人として生きようとしているらしく、第三者の評判も一番よいようだ。しかも、頭脳も気性も、大正力によく似ていて、武ならば、という支持者が多い。

だが、大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。

「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」

こんなイヤ味が、聞こえよがしに語られるという。しかし、とにもかくにも、代取副社長に、

正力の女婿関根長三郎という、興銀出身の、まともな人物がおり、監査役には亨夫人の父親、その他、読売系人物が取締役に名を連ねているので、ここばかりは、全く他人のモノになってしまう恐れはすくない。「タケシを……」という遺言に、私は、はじめて大正力の中に〝父親〟を感じたのである。最後に付言するならば、読売新聞という本拠は、今まで詳述してきたように、安泰であって、務台、小林両代取副社長制で、正力が生きていた当時と、全く同じような毎日が、明け暮れてゆくに違いない。

それよりも問題は、新社屋完成後の、ポスト・ムタイである。そのころまでに、小林が編集と業務を握り切れるかどうか。それが、読売新聞をどう変らせるか、にかかってきていよう。

〝マスコミとしての新聞〟とは

大正力の死につづく、正力コンツェルンの〝家庭の事情〟から、本論の明日の新聞界へと眼を転じてみよう。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 送り手の主導者は販売・広告担当者

正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

さきごろ、某小日刊紙の座談会で、「新聞の内幕」というテーマが与えられた。「新聞は真実を伝えるか」にはじまり、「編集権と編集局長の権限」、「七〇年安保の論調予想」など、今日の新

聞の問題点について、〝新聞の現場の人〟三人が集まって、語りあったのである。

新聞は果して真実を伝えているか——大きなテーマでありすぎるのだが、ここで、私は反論を出した。「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている、ということである。

マス・コミュニケーションという、和訳しにくいカタカナが、日本に入ってきてからというものは、新聞が変質してしまったことはすでに述べた。「大衆伝達」とでもしか、訳しようがないのであるが、このバタ臭い日本語の語感からしても、「真実の伝達」とは、ほど遠い感じがする。そして、事実、必ずしも「新聞」は「真実の伝達」を行なっていないのである。

そもそも、「編集権」というのは、「真実の伝達」に伴う、妨害や圧迫に対して、その意志の貫徹のために、「経営権」に対置されたものである。しかし、「真実の伝達」が必ずしも絶対条件ではなくなってきた、〝マスコミとしての新聞〟にとっては、それは床の間の置物と化してきているのである。

新聞経営の健全なあり方として、購読料収入と広告料収入の比率が、六対四であることがのぞましい、といわれるのは、すなわち、「編集権」の独立のための、裏付けなのであって、現在の四対六という比率は、すでに、「編集権」が「経営権」に隷属していることを示している。つまり、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。

では、〝マスコミとしての新聞〟とは、一体、何であろうか。

マス(多数)にコミュニケート(伝える)する新聞である。新聞の一枚、一枚が、テレビの受像機と同じ意味でしかなくなり、朝日とか読売、毎日といった題号は、テレビのチャンネルと同じ意味しかない。ただ、電波を媒体とするか、活字を媒体とするかの違いだけである。

電波を媒体にすることによって、時間と空間とがゼロになるのに対し、活字媒体であるということは、新聞の一枚、一枚が印刷されるという工程のためと、その新聞紙が輸送されるために、時間と空間とは、相当程度に圧縮はされ得るが(各家庭、各職場にファクシミリが設置されることは、まだまだ、将来のことである)、決してゼロにはならない、という、本質的な差違であるだけである。

この物理的差違が、電波媒体の速報性とか臨場感に対し、活字媒体の随時性や記録性とかいった、機能的な差違をもたらす。しかし〝マス・コミとしての新聞〟は、これらの差違以外の〝マス・コミュニケーション〟としては、もはや、ラジオやテレビと全く同じものなのである。

すなわち、送り手の主導者は、テレビ受像機に相当する〝新聞紙〟の部数を確保し、拡張する、販売・広告担当者であって、記者と編集者ではない。部数が巨大でなければ、大衆伝達の効果が小さいから、もちろん、広告主もつきにくいし、広告料も高くはとれなくなる。発行部数が巨大化すればするほど、広告収入が増大し、広告は売り手市場になる。

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。

従って、記事紙面は広告紙面の〝刺し身のツマ〟なのであるから(刺し身のツマは、決して主役ではないが、旨いものもあって、やはり、なくてはならないものである)、ラジオ、テレビ番組における、番組自体とCMの関係とは、逆の立場になる。

するとやはり、「送り手」としては記者、編集者は、電波の編成局員よりも、小さな領域しか占めることはできない。何しろ、各種の調査でも「受け手」である大衆の、テレビに与える時間と、新聞に与える時間とは、大きく開いていることは、疑う余地がない。

そこで、新聞は、「受け手」である読者を、一定期間にわたって〝確保〟する、必要に迫られてくるのである。確保しておかねば、発行部数の巨大化が維持できないからだ。そのためには、「宅配制度」がどうしても必要なのである。

電波の受け手である大衆は、番組によって自由にチャンネルをまわす。瞬間、瞬間によって、番組の選択権を「受け手」が持っているのである。

ところが、新聞については、受け手の読者には、その選択権がないのである。あったとしても、極めて緩慢な、月単位のそれであって、それも決して自由ではない。なぜかならば、従来とっていた新聞をやめて、他の新聞に切りかえるためには、販売拡張員や配達員との間の、うるさい〝人間的関係〟が発生するからである。この心理的束縛感は、テレビのチューナーを廻すほど、自由ではない。

受け手に選択権が握られているか、いないか、ということは、同時に、送り手には、それぞれに緊張と怠惰とをもたらす。電波の送り手は、毎時毎分に、批判にさらされているのだが、新聞の送り手は、緩慢な批判にしかあわない。そこに、記者、編集者が、送り手としては、販売、広告などの営業担当者より、低い地位にあることの理由がある。

かつて、読売の小島文夫編集局長(故人)が、組合との団交の席上、「会社の調査では、読売の読者のうち、『社主の魅力』でとっているのが四〇%、『巨人軍』でとっているのが二〇%で、『記事がよいからとっている』というのは、わずか五%ぐらいだ」と、迷言を吐いて問題となったことを前に述べた。

当時(昭和四十年六月)は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたものだったが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であったわけである。

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。

ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 三社のうちでは最下位の毎日

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。
ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

これが、「マスコミとしての新聞」の姿であって、「既成概念の新聞」と、全く区別されなければならないのである。と同時に、現在はまだ、その両方が入りまじった過渡期の時代でもある。

過渡期ではあるが、〝マスコミとしての新聞化〟現象は、この昭和四十年代の中盤期に入って、いよいよ進行していることは、各紙発行部数表(表1)にみる通りである。

五社発行部数表(表1)

少し古い数字で恐縮だが、昭和四十三年十月現在の数字で、その直後の十一月からの値上げ後の影響は、まだわからない。しかし、昭和四十年十月の前回値上げ後も、各紙は部数増加を続けていることが、表にみる通りで唯一の例外として、サンケイ大阪が二万八千余部の減紙となっている。

表中の従業員数は、新聞年鑑によったもので、参考までに、「一人当り部数」を算出してみた。新聞経営の健全な形の常識として一人当り千部といわれているのだから、読売の七三三部が一番ラクで、三社のうちでは、最下位の毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。

そして、たとえ〝四大紙〟と誇号していても、サンケイの百八十三万部、従業員一人当り四三三部という数字は、大新聞としての戦列から落伍し、命運すでにつきた感がするのを否めない。しかも、この表からは、大阪版の二・九%の減紙しかわからないが、昭和三十九年十月の数字でみれば、相当な減紙であって、急坂を転がりおちている実情である。

ついでなので、日経の数字も掲げたが、この一人当り四七〇部というのは、数字は低いけれども、読者が固定していて流動せず、販売経費がかからないのと、広告の増収という〝含み資産〟があるので、一般紙の数字と同じモノサシでは計れないことを、お断わりしておこう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 朝日と読売との一大激突

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366

ここ数年で読売が一位に……

さて、問題は、朝日と読売との一大激突である。ともに、五百万台という大台にのり、その差はわずか四十万部(正確には、四〇一、九〇七部)である。(表2)をみていただきたい。発行所別にまとめてみた。

朝・読 発行所別部数(表2)

第四項の「比較部数」というのは、朝・読のどちらが、どれだけ多いかというのは、該当社の欄にプラス記号+で示した。これでみると、朝日は大阪、名古屋、西部の三発行所で読売をリードしているが、東京、北海道は負けており、関東以北に強いという読売の伝統はくずれていない。もっとも、読売は名古屋がなくて北陸なのでこのところは比べられないし、朝日の三十六万に対し、読売九万という、勝負にならない数字である。

特に面白いのは、東京、大阪の二大決戦場である。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。

ところが、東京、大阪での両社の伸び率をみると、東京では、朝日十七%に対し、読売十三%。大阪では、朝日十二%に対し、読売十七%と、それぞれ逆になっている。ということは、大阪では読売が、東京では朝日が、それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開しているということである。つまり、攻撃側の方が懸命の戦いをしかけているので、伸び率が高いということを物語る。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。

ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 エイムズ(AYMS)という新しい言葉

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。
ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

西部と名古屋(読売は北陸)では、朝日の優位は読売をよせつけないほどであるが、少くとも、大阪の形勢をみると、もう数年で逆転の可能性が認められる。現在の差(総部数)の四十万部ほどは、大阪で読売が首位を奪取すれば、ラクにつめられるほどの小差なのだから、この成り行きは興味深いものがある。

こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。そして、もし毎日が現在の四百万台を割るようであれば、サンケイのように、急速な転落の道をたどることになろう。

世帯数増加の正確な数字がないので、断言するのをはばかるが、新聞購読人口はほぼ頭打ちの状態にあり、世帯数の伸び率以外には他紙をさん食しなければ、伸びないといわれている。従って、朝・読の巨大化の第一の犠牲がサンケイということになる。

エイムズ(AYMS)という、新しい言葉が使われはじめている。新聞界の序列を示すものなのだが、朝(A)読(Y)毎(M)はわかるとしても、最後のSは、残念ながらサンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

そして、毎日はどうか。朝、読との闘いを諦らめた毎日は、編集出身の田中会長の統卒下にあ

るらしく、「広報伝達紙」たることを避け、本来の意味での「新聞」に立ちもどりつつある。

最近の毎日新聞の紙面は、権力に抵抗し、ヤミ取引を排除して、清新、爽快なものに変りつつあることは事実だ。四百万の大台を割り、二百万、百万と下っていっても、私は、この毎日新聞の進む道を壮としたい。このような新聞こそ、明日の日本という、民族と国家とのために、必要欠くべからざるものなのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき
正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

あとがき

この稿は、月刊「現代の眼」誌と、月刊「軍事研究」誌とに、「現代新聞論」と銘打って連載したものを、想を新たにして書き改めたものである。

読売を退社してから、はじめて「新聞」を客観的にみることを知り、現場からの〝新聞論〟を書きたいと、考えていた。新聞は、依然として、マスコミの王座にあって、放送その他をリードしているからである。

そんな時、「現代の眼」の榊原編集長と語りあって、四十年九月号から同誌に連載のつもりで、まず「読売の内幕」(八十枚)を書いた。その反響は、同社の社長を驚かせたらしい。一発で中止になった。翌年四月号に、編集長の独断で「毎日の内幕」(八十枚)が掲載されたが、以後は全く絶望的であった。

こんなふうに、「真実を伝える」ということには、勇気が要り、困難が伴うものだ。

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき)

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付
正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。同誌九月号から、本年三月号まで七回で「朝日の内幕」(二百八十枚)を、つづいて、本年六月号から「読売の内幕」をと、書きつづけている。

そこに、正力さんが亡くなった。これを機会にと、創魂出版にすすめられて、改めて一本にまとめたという次第である。

その間に、私は、四十二年元旦付から、大判二貢の「正論新聞」という、小さな旬刊の一般紙を、独力で出しはじめた。正統派の小新聞を、業界紙や恐かつ紙しかないこの日本の国で、育ててみたいと思ったからだ。幸い、この〝未熟児〟は、読売の諸先輩はじめ同僚たちの声援で、ともかく、この三年間で七十号を重ね、第三種郵便物の認可も得、日本新聞年鑑にも登載されて、順調に育ちつつある。この実践活動の中から生れたものなので、〝現場からの新聞論〟という所以だ。

それにしても、正力さんという人は、偉い人であった。彼を批判することとは別に、その偉大さにはうたれるものが多い。

この書を、私を新聞記者として育てて下さった正力さんの霊前に、感謝と追慕の念をもって、捧げることのできる私は、また何と幸運な男か、と感じている。

昭和四十四年十二月一日                  三 田 和 夫

著者紹介
1929年/盛岡市に生まれる。
1943年/日大芸術科卒業、読売新聞入社。
1958年/読売新聞を退社。
現在/評論、報道のフリーのジャーナリストとして執筆活動を続けるかたわら、一般旬刊紙として「正論新聞」を三年前に創刊。ひきつづき主宰している。
著書/東京コンフィデンシャル・シリーズ「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」 (1956年刊) 「最後の事件記者」(1958年刊)「事件記者と犯罪の間」(現代教養全集第5巻収録)=文春読者賞=(1960年刊)「黒幕・政商たち」(1968年刊)
現住所/東京都新宿区西大久保1の361 金光コーポ505号

正力松太郎の死の後にくるもの
定価 480円
1969年12月15日 第1版発行
著者 © 三 田 和 夫
発行者 峰 村 暢 一
印刷所 株式会社 鳳 翔
発行所 株式会社 創 魂 出 版
東京都新宿区左門町2 四谷産業ビル403号
電話 東京(359)8646
郵便番号 160
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正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙 見返し 裏表紙 そで 背 腰巻

正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙
正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し
正力松太郎の死の後にくるもの 裏表紙 腰巻
正力松太郎の死の後にくるもの 裏表紙 腰巻
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで
正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで
正力松太郎の死の後にくるもの 背 腰巻背
正力松太郎の死の後にくるもの 背 腰巻背
正力松太郎の死の後にくるもの カバー 腰巻
正力松太郎の死の後にくるもの カバー 腰巻