赤い広場ー霞ヶ関」カテゴリーアーカイブ

赤い広場-霞ヶ関 目次・前半

赤い広場ー霞ヶ関 Contents/the first half

目次

瞼の父を恋うモスクワの混血児
 赤い恋のウシュカダラ
 削除されたラ氏手記
 謎に微笑むノー・コメント
 果して涙の父子再会か?
北海道に落ちた赤い流れ星
 宗谷岬に漂うソ連兵の死体
 怪外人札幌へ飛ぶ
 失敗した人浚いギャング団
秘められた山本調書の拔き書

赤い広場-霞ヶ関 目次・後半

赤い広場ー霞ヶ関 Contents/the second half

 先手を打つ「アカハタ」
 スパイは殺される!
 怪文書おどる内閣機密室
 志位自供書に残る唯一の疑問
 暗躍するマタハリ群像
シベリヤ・オルグの操り人形たち
 除名された〃上陸党員〃
 オイストラッフの暗いかげ
 「高良資金」とナゾの秘書
 〃猿〃と〃猿廻し〃と
日ソ交渉のかげに蠢くもの
 小坂質間と重光外相のウソ
 怪物久原と立役者メンシコフ
 鳩山邸の奇怪な三人
 日本の〃夜の首相〃と博愛王国
あとがき

装幀  原 徳太郎

赤い広場-霞ヶ関 p001 瞼の父を恋うモスクワの混血児

赤い広場ー霞ヶ関 Mixed race child in Moscow

瞼の父を恋うモスクワの混血兒

 一 赤い恋のウシュカダラ 昭和二十九年十二月のある日。警視庁の四階中廊下に面した公安三課の事務室。

期待に燃えて、身体を乗り出さんばかりにしたAP通信記者を前にして、木幡計第一係長は、真剣な表情で考えこんでいた。

『 イヤ、これはやはり一応、課長に相談してみないことには……』

係長の机の上に視線を落してみよう。そこには英文の書類が数通、アメリカのAP通信本社から、東京支局に流してきたニュースの原稿である。記者はその記事の中に現れた一人の日本人、その名は「オグラ」という仮名で現わされてはいるが、充分実在の人物として推測し得るし、しかもその人の社会的地位が高いだけに、書かれた事実の有無を当局に確かめにきたのであった。

記者が真剣な表情で指さした個所には次のように書かれてあった。

赤い広場-霞ヶ関 p002-003 彼を担当したロシヤ女に恋愛した

赤い広場-霞ヶ関 Honey trap by Soviet intelligence department

しかし、日本の共同通信のモスクワ特派員をひき入れるについては、かなりの困難があつた。この特派員の接触先はきわめて有力な方面だったので、私たちの方では、それだけ彼を大いに高く評価していた。

しかも彼の志操は堅固だったので、その口説き落しにはソ連諜報活動の奥の手を用いざるを得なかった。これがために外国人脅喝用としての、売淫婦の一隊を抱えている特別班をして、この特派員を引き入れる工作をさせることになった。これがために外国人脅喝用としての、売淫婦の一隊を抱えている特別班をして、この特派員を引き入れる工作をさせることになった。

そこでこの特派員(いま、彼を仮りにオグラと呼ぶ)は、たちまち当方の手中に陥った。ところが、気の毒なことには、この通信員が彼を担当したロシヤ女に恋愛した。しかし、女の方ではそんなことには一切お構いなしに、どんどんその仕事を進めた。

やがて、その女は当方の命によって、彼に対して自分が妊娠していることを告げ、なんとかして子供を生まない工夫をする必要があると話し出した。事態がここまで進展してきたとき、はじめて秘密簪察の手が伸びてきて、いわゆる「医師」なるものが登場せしめられた。かくてオグラと「妊婦」とが、その医師の診察室を訪れることとなり、ここに彼のスキャンダルが、明るみに出されようとする破目に押しつけられた。このためオグラは、当方の手先となることを応諾したのだった。

なお、この事件にはまだその続きがあって、そのロシヤ女が、まだ彼女の真の使命が分っていないので自分をしきりに恋慕しているオグラに対して、ついに結婚することを約束した。オグラが日本に帰ることになったとき、被女はなんとか理由をこしらえて同行することを避けた。

そしてまもなく彼女に対しては新しいおとりが与えられた。それはある近東の外交官であったが、皮肉にもこんどは女の方が男に恋をした。彼女は悔恨の情にたえかねて、いままでの脅喝仕事をやめようと決心した。このような間にも、オグラの方ではなおまだ女の無垢と、真実性とを信じていたので、その女が自分の使命を逸脱した行動のカドで逮捕されたというニユースを、私はオグラに知らせることができなかった。

『ウム……』

深くうなずいた係長は、その英文原稿と飜訳原稿とを持って立上った。課長室の扉は固く閉ざされた。何事かが密議された。

公安三課――ラストヴォロフ事件で名前を売り出したこの課は、一言にしていえば「外事特高」である。警視庁の組織には総務、警務、刑事、防犯などの各部と並んで、警備第一部、警備第二部という部がある。この一部の方は警備の名に相応しく、警備、警護の二課に分れて、 予備隊などの正服実力部隊を指揮するのであるが、警備第二部は「公安部」である。

警備第二部は公安第一課の左翼、同第二課の右翼、同第三課の外事と、資料を握る同第四課との四つに分れている。つまりそれぞれに思想的背景があるか、もしくは集団的威力のある犯 罪の摘発をする係である。

赤い広場ー霞ヶ関 p004-005 『LIFE』誌のラストヴォロフ手記を文春が転載

赤い広場ー霞ヶ関 4-5ページ 文芸春秋に掲載されたラストヴォロフ手記は一部が削除されていた
赤い広場ー霞ヶ関 About the note of Jurij Aljeksandrovich Rastvorov from the LIFE

つまりそれぞれに思想的背景があるか、もしくは集団的威力のある犯

罪の摘発をする係である。公安三課の中は、さらに欧米人、朝鮮人、中国人と三つの係に分れて、二百数十名の私服警官が、情報、捜査、翻訳などの仕事を分担している。

だが、いくら外人が関係していても単純な殺人、強盗、サギなどの刑法犯は刑事部捜査第三課にまかせており、出入国管理令、外国人登録法、刑事特別法の三法令に拠って、これら思想的犯罪を追っているのである。

もちろん捜査技術として、一般刑法や外国為替、外国貿易管理法などの事件も扱うことはいうまでもない。

戦後、「外事警察」という言葉がなくなったが、二十七年四月二十八日の独立以来、再びこの言葉が用いられはじめてきた。『外事警察なくして何の独立国ぞや』というところである。だから、ここの課員たちは誇りにみちて働らいている。

二 削除されたラ氏手記 ここまで書けばすでにお分りになったことだろう。この原稿というのは、文芸春秋誌三十年二月号に発表された「日本をスパイした四年半」という、元在日ソ連代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ氏の手記である。これは実はアメリカのグラフ雑誌「ライフ」の転載である。それは二十九年十一月二十九日号に第一回「赤色両巨頭の権力争奪戦顚末記――スターリンの死後表面化したマレンコフ、ベリヤ武装対立の大詰」、同十二月六日号に第二回、「極東における赤の偽瞞と陰謀――ロシヤ人が共産主義の武器として、いかに脅かし手段を用いたかを、元のスパイが暴露する」、同十二月十三日号に第三回、「赤色テロよ、さようなら」と題して揭載されている。

ところが、これはライフ誌のアメリカ国内版であって、外国へ出している国際版では若干変ってきている。従って、日本で市販されている国際版では、三十年の一月十日、十七日、二十四日の三号にわたって連載されているが、内容はある部分がまったく削除されてしまっているのだ。

このライフ誌のアメリカ版に手記が発表された当時、外電はそのつど内容を報じている。これを日本の新聞でみてみると、昨年十一月二十五日付読売には「ニューヨーク特電(AFP) 二十四日発」で第一回目の分を、十二月二日付產経には「 ニューヨーク一日AP=共同」で第二回分、十二月九日付産経には「ニューヨーク八日=UP」で第三回分の内容要旨が報じられている。

ラ氏はこの第二回で、その日本に対する工作の内容を明らかにしたのだ。この部分を文芸春秋誌でみると、「日本人をスパイに買収」(二月号一九八頁)という見出しがついている。これは原文では脅喝で動かされた新聞記者」となっている点が違う。参考までに文春の記事を引用 すると、

赤い広場ー霞ヶ関 p006-007 人間の弱点につけこむ手口で外国人をソ連諜報機関の手先に

赤い広場ー霞ヶ関 6-7ページ ラストヴォロフは、性、酒、賭博、麻薬、人間の弱みにつけ入りスパイの手先に使う日本人を落としていった
赤い広場ー霞ヶ関 Sex, alcohol, gambling, drugs and all other human weaknesses

すると、

私は秘密諜報部員としての訓練を一九四五年に終えた。そして日本語の語学将校として東京に赴任する準備を進めていた。

われわれはその年の夏に、ソ連の対日宣戦布告以後、モスクワに抑留されていた日本の外交官のなかから、スバイの手先に使う人間を物色しはじめた。その外交官のなかに、日本における自由主義的な政治思想を促進するという見地から、「新日本会」というのを組織した五人の大使館員がいた。

われわれはこの五人を一人づつ、他の者にはわからないように買収しにかかった。彼らに「西方の帝国主義」とくにアメリカの帝国主義を吹きこむことによって、われわれの側につけることは比較的容易な仕事だった。

本国政府は崩壊したと同様の状態にあり、彼らが果して将来職にありつけるか、どうかもわからない有様で、とくにその経済的な見通しは絶望状態におかれていたので、彼らに金のことをにおわせれば、比較的簡単にこちらの話にくっついてきた。おまけにその金もあまり大きな額でなくてすんだ。

文春の記事はここからあと、三節を削除して、「このように外国人を脅迫してソ連のスパイに動員する私の訓練は、東京への赴任によって中断されることになる」と、つづいている。

この三節の削除された部分というのが、冒頭に紹介した共同通信記者オグラ氏に対するソ連秘密機関の獲得工作の件りである。つまり終戦時にモスクワ駐在の特派員だったオグラ氏に対して、このような手段での獲得工作が行われていたのである。その結果〝志操の堅固〟だったオグラ氏も、ついに濃厚なロシヤ女の恋のとりこになったとは、まさに昨今流行のウシュカダラのようなお話である。

文春誌の記事はつづく。(同二〇二頁)

私はこの期間に、ソ連の諜報機関が用いる脅喝と強請の手口――外国人をソ連諜報部の手先にするために用いる手口の、いわば大学院的訓練をうけたのである。 (すなわち、私たちが以前に日本の新聞記者のオグラに対して用いたような外人獲得法について、より高度の教育をうけたのである) イデオロギーの立場から、そうした連中をわれわれの仲間に引きずりこむことのできたのは滅多になかった。だから、性、酒、賭博、麻薬、その他あらゆる人間の弱点につけこむ手口が用いられるのであり、これはまったく一つの科学にさえなっていた。 (そして、前記のオグラに関する事件は、その好適例である)

このカッコ内が、前をうけて削除された部分である。

三 謎に微笑むノー・コメント 終戦後からのソ連の対日工作を眺めてみると、そこには全くつねに一貫した政策の流れていることが分る。これは、ここでは詳述する限りではないが、現在のソヴエト体制が崩壊しない限りは、たとえ時の権力者が誰であろうと、全くいささかもの影響も受けないことだ。この政策の一貫性というものは、その諜報謀略工作に一番よく現れ ている。

赤い広場ー霞ヶ関 p008-009 ソ連と共同通信の関係に治安当局が首をかしげた

赤い広場ー霞ヶ関 8-9ページ ソ連代表部は、朝日、毎日、読売の三大新聞を差し置いて共同通信だけを特別扱いした
赤い広場ー霞ヶ関 deputy editorial director of Kyodo News, Jiro Sakata

例えば、従来まったくノー・コメントの態度をとっていた代表部が、二十六年六月三十日、 日本の新聞記者の代表として、左翼勢力が〝ブル新〟ときめつけていたうちの一つである共同通信社をえらび、藤田記者単独で正式に会見をしたのである。

どうして代表部が、この画期的な〝正式会見〟に記者団会見を行わず、共同通信だけをえらんだか? ということはいろいろな理由が考えられた。

当時は、日本の三大紙といわれる、朝日、毎日、読売三社も、共同通信社に加盟していたので、共同のニュースは全日本の新聞に流れるということも、その理由の一つでもあった。しかし、アカハタをはじめとする左翼系機関紙には、共同のニュースは流れないのである。通信社としては、他に時事通信社もある。いわばこの大特ダネを、どうして共同だけが独占できたかという疑問は、他の新聞社の記者たちのハギシリを尻目に、ふたたび現れたのであった。

すなわち、講和発効後、同社元モスクワ特派員、編集局次長坂田二郎氏が、はじめての日本人記者としてモスクワ入りをして、いまや共同通信社を脱退していた三大紙を口惜しがらせたのである。

藤田記者の単独会見、坂田記者の初のモスクワ入りと、相次ぐ〝事件〟の前に「外事特高」

と呼ばれて、対ソ関係に敏感な治安当局では、ようやく首をかしげはじめた。

一方、さる二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件で、はじめてソ連引揚者の重要な役割に気付いた当局では、今更のごとくあわてて、ソ連引揚者について真剣な研究をはじめ、個人カードの作製をはじめていた。これぞと思う引揚者の在ソ経歴、帰国後の履歴を詳細に調べて個人カードを作り、その一連の動きを観察して、方向をつかもうというのである。

こうして当局が地味な捜査をつづけているうちに、ある一人の引揚者によって、意外な〝偽装結婚〟の告白を得たのである。その引揚者(特に名を秘す)は次のようにその体験を語っている。

……結婚の翌日、私は病弱者として日本へ帰される事になりました。何が何だか分らない突然の命令だったのです。私は彼女とのあわただしい別れを借しみました。彼女はいいました。

『また、東京で! 九段の大村益次郞の銅像前で!』

もはや、私は彼女のいうがままでした。そして私が大村銅像前で逢ったのは、もちろん彼女ではありませんでした。そのソ連人は、いいました。

『彼女はその後、お前の子供を産んだ。彼女は子供と一緒に、お前が再び訪ねてくる日をたのしみにモスクワで働いている』


赤い広場ー霞ヶ関 p010-011 ソ連のスパイ網の魔手がいかに日本にはびこっているか

赤い広場ー霞ヶ関 10-11ページ 偽装結婚で生まれた子供が日本人の父親に会いたがっていると、ソ連諜報網に引き入れられる
赤い広場ー霞ヶ関 Is Ogura’s child waiting for his father in Moscow?

何という誘惑の言葉でしょうか。私はそのソ連人のために、スパイの手先として働らきました。私の働らきの如何によって、彼女と、子供とに逢わしてやるという、ソ連人の言葉をあてにしていたのです。ソ連人は私を激励していいました。

『髪の黒い可愛いい子供だよ。遠い東京の空をみて、その子は險の父を慕っているんだよ』 その後、私が連絡するソ連人たちの言葉から判断したところでは、彼女はどうやら政治の女中尉だったらしいのです。

四 果して涙の父子再会か 当局ではソ連引揚者調査から、このような偽装結婚――姙娠――墮胎(或いは分娩)というソ連側のスパイ工作の資料を持っていたので、オグラ氏に関するラ氏自供を聞いたときにはハハンとうなずいた。   

終戦時にモスクワの特派員だったオグラ氏もそれから十年、もはやその社では相当の地位にある。そのオグラ氏に対して、あの引揚者に対すると同じように、

『お前の子供に逢いたくはないか。逢わしてやるぞ。ふたたびモスクワへ新聞記者として行ったらどうか』

と、誘惑の言葉がささやかれたとしたら?

一方ソ連では昭和三十年二月十一日「姙娠中の婦人の堕胎行為に対する刑罰」を廃止した。 つまりそれまでは墮胎は禁止されていたので、この引揚者へ対する〝險の父子再会〟という誘惑と同様に、オグラ氏の子供も墮胎されずに生れ、モスクワでまだ見ぬ日本人の父オグラを險に描いて、恋い慕っているのではないかとも考えられる。

そして、治安当局の一部では、戦後モスクワ入りした新聞記者の誰れ彼れをオグラ氏になぞらえ、その入ソ許可は成長したわが児に逢うという目的であたえられ、実はソ連諜報網への協力者としての論功行賞であった、とまでうがった見方をしている。

治安当局というところは、きわめて意地が悪いし、われわれの常識でまさかというようなことまで、一つ一つの事実をつみ重ねて推論する。これが情報係官としての能力の差の出てくる点である。

一つ一つの情報を集めてこれはおかしいなとチェックするのが、インタルゲーション(収集) であり、このチェックされた情報を集めて、分析判断するのがアナリシス(分析)である。したがってアナリィスト(分析者)は幹部である。治安当局のアナリィストは、オグラ氏についても、前述したような事情があるに違いないと判断し、戦後、初のモスクワ入りする新聞記者に注目していたところであった。

ソ連のスパイ網の魔手が如何にして日本にはびこっているか。その一つの事例を、新聞記者 オグラ氏の場合として紹介した。

赤い広場ー霞ヶ関 p012-013 ソ連船だ捕――ソ連スパイ関三次郎事件

赤い広場ー霞ヶ関 12-13ページ 共同通信・坂田二郎は日本政府の入ソ禁止方針に反しモスクワ入り。/北海道に落ちた赤い流れ星 一 宗谷岬に漂うソ連兵の死体
赤い広場ー霞ヶ関 Soviet spy Seki Sanjiro incident

オグラ氏の場合として紹介した。オグラ氏にとっては、抑留生活中の憂さ晴らしの浮気だっ たに過ぎないだろうに、ラ氏は、彼はその「売淫婦」に恋をしたという。これはラ氏の主観である。しかし、オグラ氏が、一人のロシヤ女と深い関係にあり、それで脅かされたという客観的事実は存在するのである。

それは、オグラ氏なる人物が係官の前で認めたことであり、また、ここに紹介したライフのアメリカ版が日本国内で容易に入手できなかった (一説にはオグラ氏の社で買占めたともいわれる) ことであり、飜訳権をとった文芸春秋社もまたこの一番面白い部分を削除したことであり、オグラ氏なる人物が本社から地方へ転出したことでもある。

だが、それはさておき、二十七年五月一日付毎日新聞には、次のような短かいモスクワ発の記事が掲載されている。

 モスクワ三十日=UP特約 共同通信社の欧州特派員坂田二郎氏は、戦後はじめての日本人記者として、三十日ヘルシンキからモスクワに到着した。坂田氏は高良女史、帆足、宮腰氏らと同じく日本政府の入ソ禁止の方針に反して、ソ連と直接交渉の上モスクワに到着したものである。なお坂田氏のほかにも目下ロンドンにいる二名の日本人記者も、すでにソ連の査証を取ったらしく、近くモスクワに来るものと思われている。

北海道に落ちた赤い流れ星

一 宗谷岬に漂うソ連兵の死体 『御らんなさい。このシラノ・ド・ベルジュラックのような死体を……』

丸山警視はこういいながら、数枚の現場客真を取出した。三十才をすぎたばかりの若さのうちに、国家地方警察本部警備二課付きという、いかめしい肩書にふさわしい銳さを秘めた 外事警察のホープである。

短かかった二十八年の夏のうち、夏らしい日がしばらく続いていた八月の上旬のこと。北海道の北端、稚内市で発覚したソ連スパイ関三次郎事件は、ソ連船のだ捕まであって、その生々しさは国民の耳目をしよう動した。

二十七年暮、鹿地事件についで起った三橋正雄の二重スパイ事件が、首都東京を舞台に、ある意味で華やかな彩りさえみせていたのに対し、北の国境線のサーチライ卜照射や、漁船捕獲などという、緊迫した現地を背景に、息づまるような感じの関スパイ事件だった

赤い広場ー霞ヶ関 p014-015 稚内の漁船がソ連兵の腐乱死体を揚げる

赤い広場ー霞ヶ関 14-15ページ 鹿地事件、三橋事件、そして関スパイ事件、丸山警視は口を閉ざす。関事件の2カ月前、底引き網にソ連兵の腐乱死体が掛かった。
赤い広場ー霞ヶ関 Water corpse of Soviet soldier

丸山警視は関事件発生直後、空路現地に飛んで、中央と現地の連絡や、現地の各関係当局間の調整に努めてきたばかりだ。

『……こうしてここしばらくの現地での動きを捕えてみると、意外にもいろいろなことがあるのです。関事件の奥行きの深さ。我々当局者としては、それを捕えたかったのです』

警視はこういって口をつぐんだ。八月六日関を逮捕した時、現地の意見は二つに分れてしまった。国警側は、関を泳がせて (監視付で釈放すること)関の次に来るべきレポ・スパイを捕え、一味の日本国内における組織の全ぼうを暴こうとしたのに対し、検察側は反対した。ソ連船を捕獲しなければ、関は事件として固まらない (起訴して公判を維持することができないということ)から、関のサインでソ連船をおびきよせようというのである。結果は検察側の主張通りとなって、クリコフ船長ら四ソ連人を捕えたが、スパイ団は関だけの損害で、その組織を守り通すことができたのだった。

『だが、まだ我々には、正直にいってこれからのナゾを解き切れないのです。もちろんこのような幾つものナゾを解明すべく、当局は懸命に捜査中だとしか、申上げることはありません』

これらのナゾ! 幾つものナゾ! 丸山警視の額に刻まれたシワのかげにひそむナゾとは、一体何であろうか?

もはや、口をかんして語らない警視の言葉をかりずに、今や国警が関事件の全ぼうをつかむ緒口として、必死の捜査を続けているナゾのかずかずを探ってみよう。

話は関事件の発生した八月六日より二ヶ月も前、六月七日にさかのぼる。

稚内市南浜通二丁目、瀬戸漁業部所属の第一二八東丸 (五〇トン)は、船長小西勝太郎さん以下十四名の乗組員で、いつもの通り宗谷岬沖で底曳網をひいていた。七日の午前十一時ごろ、何回目かの網を引きあげたところ、かかってきた魚のなかに何やら死体のようなものが入っていた。

顔、頭はすっかり腐敗して骨さえ露出していたが、着衣は明らかにソ連兵である。大変なものが揚ってきたというので、第一二八東丸は早目に漁を終へて、午後二時ごろ、小樽海上保安部稚内警備救難署に無電連絡した。

『第一二八東丸は、宗谷岬方位八五度一九浬の洋上にて、ソ連兵らしき死体を拾得。推定二十二才位の男。十七時入港の予定』と。 連絡をうけた同署では、直ちに稚内区検に連絡、検屍医師の手配など整えて、第一二八東丸の入港を待ち構えた。

赤い広場ー霞ヶ関 p016-017 矛盾だらけの屍体検案書

赤い広場ー霞ヶ関 16-17ページ 屍体検案書 身体一面塩虫に喰われたる小穴あり、死因となるべき外傷なし、水をのんだもようなし。溺死と推定されるも不明
赤い広場ー霞ヶ関 Postmortem report

検屍調書を覗いてみよう。死体拾得の状況その他のほか、『死後約十五日を経過、死亡日時

は推定五月二十五日ごろ。拾得状況及び死体による損傷部なく、他に何ら異状なし、溺死と認めらる』となっている。

また、稚内市の医師、福井谷牧太郎、牧野主孝両氏の屍体検案書は次の通りである。

検案書

氏名、住居不詳、年令二十二才位

性別 男

特徴 1 下右奥第一臼歯欠損

2 左手甲に刺青(径八分)

3 左手前膊外側部刺青(四寸)

4 下顎部脱落

5 左眼球僅かに碧色なるを示す

6 身体一面塩虫に喰われたる小穴あり

7 死因となるべき外傷なし

8 水をのんだもようなし

9 身長一六八糎、肩巾四〇糎、胸囲九二糎、体重六〇瓧(推定)

10 頭髮は黒味がかった茶色で、上部で長さ一寸五分位、他は普通刈込み

11 皮膚色桃白色にして欧人の色

12 陰毛、脛毛、薄茶疎毛

13 体格中肉にして、栄養甲にして、鼻高く眼碧く、皮膚、頭髪、所持品よりしてソ連人と認める

所持品、紙幣一六枚、硬貨二枚、手紙三枚、身分証明書二通

着衣、軍外衣、上衣、下衣、各一、いずれも国防色、コバルト色シャツ、アイ色猿又一、革べルト二、革長靴一、足卷(註、靴下代用の布でグルグルと足に巻く、ソ連人の殆どが靴下ははかない)四、襟章、肩章一組

溺死と推定されるも不明。

現場ではとりあえず以上のような処置をとり、さて今後如何にすべきかと迷った。

読者もこの検屍調書、および屍体検案書を読んでみて、実に幾多の疑問や矛盾を感ずるに違いない。その疑問や矛盾は国警側のそれに通ずるのであるが、 それは後にして話の筋を急ごう。

これらの書類は直ちに海上保安庁に送られ、保安庁からすぐ外務省に連絡がとられた。ソ連と日本との間には外交関係がない、ということが外務省にとっては頭痛のタネである。 外務省では直ちに会議を開いて、欧米五課の高橋事務官を現地に派遣した。事件への根本方針は『元ソ連代表部への通報は、代表部が外交機関ではないから差控える。

赤い広場―霞ヶ関 p018-019 ソ連代表部が動きはじめた

赤い広場ー霞ヶ関 18-19ページ 死体発見から1カ月半もたってからソ連代表部が動き始めた。
赤い広場ー霞ヶ関 p.018-019 The Soviet delegation began to move.

死体の取扱いは行路病死者に準ずる』ということになった。高橋事務官は稚内市役所、札帆の道庁などに、政府としては知らん頭をしているつもりだから、そのつもりで……と、念を押して歩いた。

死体は市役所の手でダビに付され、遺品は身許不明者のものとして、遣骨とともに保管された。こうして、事件は一まず落着し、死体にまつわる疑問と矛盾も煙となって立昇ってしまった。

ところが、死体発見から約一ヶ月半もたった、七月中句になって、ソ連代表部が動きはじめた。『かくかくしかじかの者が行方不明となっているが、その死体が漂着していないか』という間合せが外務省へ行なわれた。

もちろん外務省では、最初の方針通り知らぬ存ぜぬと突っぱねた。それではと、代表部からは領事部長のアナトリー・フヨードロヴィッチ・コテリニコフ二等書記官、セルゲイ・イワノヴィッチ・ジュージャ三等書記官の両氏が、七月二十二日東京発列車で札幌へと出発した。

二人は札幌で道庁を訪れ、稚内市と知ってさらに稚内に向った。稚内市役所を訪れた両氏は住所姓名不詳の行路病死者として片付けられたソ連兵の遺骨、遣品を受取ったのち、稚内市で漁民たちとパーティを開いたりした。漁船捕獲事件などで、神経過敏になっていた漁民たちの一部には歓迎の意を表するものもあり、宿舍への日共党員その他訪問客も多数あった。

こうして二人は七月末には東京へ帰ってきたのであるが、ともかく東京―函館―小樽―札幌―旭川―稚内と北海道を縦断する旅行を行ってきたのだった。

続いて、八月はじめ密入国した関が六日に稚内市で捕われ、九日にはソ連船ラズエズノイ号がだ捕されるなど、事件が最高潮となった八月十二日、コ、ジュ両人は午後三時半横浜出帆のオランダ船ジザダン号で、突如として本国へ帰ってしまったのである。

両人の帰国の状況は全く異例だった。ベリヤ旋風による粛正のための本国召喚だという説もあるが、真相は両人しか知らないであろう。従来元代表部員の帰国は、必らず十名前後以上の人数で行われており、それぞれ帰国すべき妥当な理由―在留資格が与えられず在日猶予期限がきて、退去処分がとられるべき者とか、担当の仕事が閉鎖されて不用となった要員とかーがあった者ばかりであった。また、その出発に当っては盛大な見送りをうけており、いわば正正堂堂たる帰国だったが、コテリニコフ、ジュージャ両氏の場合は、稚内旅行から帰って十日余り、関事件の真只中で、しかも二人限り、見送りとて数えるほどしかいなかった。

両人は三時半の出帆なのに、三時前から船室に姿をかくし、帰国の報が日本の新聞紙上に現れたのは、九月一日だったというほど、隠密裡の帰国だった。当局では初めて首をひねって考えはじめたのである。

赤い広場―霞ヶ関 p020-021 死因不明。謎の刺青。

赤い広場ー霞ヶ関 20-21ページ 東大法医学・上野正吉博士は、死因の矛盾を指摘。死因不明、ナゾの刺青。死体謀略か…。
赤い広場ー霞ヶ関 p.020-021 The cause of death is unknown. Mystery tattoo.

話の順序で、前後したが、あの死体事件をもう一度考えてみよう。

関係書類や写真に眼を通した、東大法医学教室主任教授上野正吉博士はこういう。

頭部が腐らんしているので、死体をみなければ死因は分らない。屍体検案書にある「水を飲んだもようなし」と結論の「溺死と認められる」というのは矛盾も甚だしいことだ。法医学の知識さえあれば、たとえ解剖しなくとも、もっとハッキリした死因が判るはずだ。水をのむというのは、肺に水が入ることで肺に水が入った状態が溺死というものだ。注射針で心臓の血をとって調べれば、その濃度で、肺に水が入っているかどうか、つまり溺死かどうか 分るだろう。検屍医は、溺死ではなく死因不明とすべきだろう。頭部の骨に傷が見えなかったから、外傷なしと片付けたのだろうが、傷がないといっても、あの程度に腐っていては、外傷なしとはいえないだろう。

上野教授の言葉は、法医学者らしく、自分が死体をみてない限り、データがないのだから断定的なことはいえないという、慎重なものだった。

だが、まだまだ疑問がある。

死体はソ連沿岸警備兵の服装で、所持品は二百八十五ルーブルという大金、軍隊手帖とソ連共産党青年同盟党員証のほか、手紙三通を持っている。

この男の氏名、経歴等は身分証明書に記入されているが、インクが海水でにじんで読めないため、住所氏名不詳とされている。しかし当局では氏名その他が分っている。すると、この三通の手紙の内容が問題となるざるを得ない。

第二次大戦のさい、米軍のシシリー島上陸に当って死体謀略という奇手が打たれた。つまり米兵の死体を漂着させる。この死体が持っている書類によって、米軍の上陸攻撃開始の時期判断を、敵側に誤らせようというのだ。これは成功して、損害をはるかに減少し得たということだ。この死体謀略の戦訓から考えても、このソ連兵死体事件は、その後に起った関事件をはじめとする、一連の怪事件との関連性を信ぜざるを得ないだろう。

第一に死因である。死因がその死体の意味する唯一無二のカギであることは、一般犯罪におけるものと、いささかも違わない。だがすでに死因究明の手がかりはなくなっているの だ。この検屍調書や死体検案書のヅサンさは、上野教授の談でつきていようが、死後約十五日としながら、推定死亡日を五月二十五日としている。(二十五日なら死後十三日)点でも明らかである。いわばこれらの現地当局の書類には信ぴょう性がなく、死因は全く不明だということである。

第二に刺青だ。左手甲のハート印に斜の棒は矢であろうか。これはまあ良いとして、左腕の四寸にわたるSPMWAというアルファベット文字である。果してロシヤ語(文字)であるか、英語であるか、何を意味するのかナゾが深い。

赤い広場―霞ヶ関 p022-023 札幌へ飛び立った怪外人、A・ヤンコフスキー

赤い広場ー霞ヶ関 22-23ページ 怪外人A・ヤンコフスキーが札幌へ行くが足取りがつかめず。当局が身許を調べる。
赤い広場ー霞ヶ関 p.022-023 Mystery man, A. Yankovsky leaves for Sapporo.

第三は手紙および身分証明書の内容である。これこそ丸山警視が語らない限り、果して判読 できたのかどうか分らない。

二 怪外人札幌へ飛ぶ 関事件がおきクリコフ船長ら四人のソ連人が逮捕されるや、麻布狸穴の元ソ連代表部がどんな反応を示すかが、関係当局の関心の的だった。八月九日ソ連船だ捕以来、不安な期待の十日間が無気味にすぎた十九日、ついに代表部から外務省に対して、四ソ連人船員の釈放方の要請が行われた。

この日の朝七時半。日航の下り五〇一号便機が、札幌めざして羽田を飛び立っていった。一隅に坐った一人の外人。四角い幅広な顔、ユダヤかスラヴの血を引いたような男だ。乗客名簿には、ミスターA・ヤンコフスキーとのみ記されている。西銀座の日航本社で座席の予約のみして、自家用車で直接かけつけ、往復切符を羽田で買っている。駐留軍の軍人でない事は明らかである。何故なら乗客名簿にミスターと書かれているからだ。軍人ならば階級を記入するのだ。

そして翌々日、二十一日午前十一時二十分、千歳飛行場をとびたった日航上り五〇二号便に 再びA・ヤンコフスキー氏の顔がみられた。ヤンコフスキーが帰京したのと入れ違いのように二十二日ルーノフ、サベリヨワ両元代表部員が旭川に向けて出発した。十九日の釈放要求を外務省に蹴られたので、四ソ連人の拘留されている旭川の現地で交渉しようというのであろう。

何の変哲もない一外国人の空の旅だ。だが当局の眼は鋭かった。直ちにA・ヤンコフスキーなる男の身元調査が行われた。

外国人登録法による登録原票には該当者がなかった。ということは、米軍軍人か軍属、でなければ元ソ連代表部員、または蜜入国者か偽名ということである。

A・ヤンコフスキーという名前は、純然たるロシヤ系である。これでは米国人かソ連人か全く分らない。直ちに指令は彼のあとを追って札幌へ飛んだ。だが、残念なことには八月十九日から同二十一日までの、A・ヤンコフスキーなる怪外人の足取りは全くつかめなかった。

 関事件の渦中にある現地へ、怪外人が急ぎ旅とは……、そして入れ違いに出発した元代表部員、当局ではいよいよ疑惑を深めてきたのである。

では、ルーノフ一行の行動をみてみよう。

1 八月十九日サベリヨフ、チャソフニコフの両名が、外務省欧米第五課を訪れ『今回逮捕された四名は行方不明のソ連船を捜索中、悪天候のためまぎれて日本領海に入ったもので、悪意があったのではないから釈放してほしい』との要旨の、ルーノフ署名の欧米局長宛書面を置き、その際ルーノフ、サベリヨフの両名が旭川に行きたいと付言して立去った。

赤い広場―霞ヶ関 p024-025 ソ連代表部の2人はクリコフ船長たちの釈放を要求

赤い広場ー霞ヶ関 24-25ページ ルーノフとサベリヨフ、2人の元ソ連代表部員は北海道各地を駆け巡りクリコフ船長ほか3名の船員の釈放を要求。
赤い広場ー霞ヶ関 p.024-025 Rounov, Saveljov, Soviet representatives demand release of Krikov captain and three sailors.

2 八月二十一日欧米第五課に、一両日中に前記二名が旭川に行くからと連絡があった。

3 八月二十三日午後七時東京駅発列車にて、参事官兼政治顧問代理ルーノフ、領事部書記サベリヨフの両名が北海道へ出発した。

4 八月二十五日午前十時四十分旭川駅へ到着した。両名は直ちに北海ホテルに入り、午後一時四十分まで休憩した後、旭川方面隊を訪れ、隊長に面会、午後二時十分頃まで会談し次の申入れを行った。

a 樺太と北海道は近接しているので、色々の問題が起ると思うがお互に円満に解決して行きたい。

b 拘留中のソ連船員四名に面会させてほしい。

c 四名を出来るだけ早く釈放してほしい。

これに対し隊長から『旣に事件は検察庁に送致してあるので、詳細は検察庁で聞いて貰いたい』と回答した。

5 そこで両名は引続き、旭川地方検察庁を訪れ、午後二時二十分より同五時三十分の間検事正と面会。国警とほぼ同様の申入れを行ったが、交渉に先だち『ソ連代表部員として公式の立場で交渉したい』と申出た。これに対し検事正は、『公式の立場の交渉は検察庁の管轄外であるから、外務省へ行ってもらいたい』と拒否したので、結局個人の立場で交渉した。

ソ連側の申入事項は

a 四人のソ連人に面会させてほしい。

b 果物等の差入れをしたい。

c ソ連船に弾痕があるというニュース映画を見たが、賠償を要求したい。

d 小樽へ行ってだ捕された船を見たい。

これに対し検事正は

a 逮捕は国内法に基き合法的に行われたものである。

b 拘留は三十日迄あるので釈放の時期は分らない。

c 四人に対する面接は、裁判所から禁止命令が出ているので応じられない。

d 差入については便宜を図る。

e 弾痕の問題については、海上保安庁の管轄であるから回答できない。

f 船は外から見る分は羡支えないだろうが、大事な証拠品だから中に入ることは出来ない。

と回答した。

これに対してルーノフ氏から『ニュース映画にも内部まで出してあるのに何故見せられないか。ニュースで見ると、弾のあたった痕が出ているが、小樽へ回航したのは弾痕の修理をするためじゃないか』との追求があったが、これに対し検事正は『自分達は法規を守るのが任務だから、法規を曲げることは出来ない』と回答した。

この回答に対し、『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場 合、あなたの責任に影響するだろう』

赤い広場―霞ヶ関 p026-027 ソ連側は多くを要求。日本側はほとんどを拒否。

赤い広場ー霞ヶ関 26-27ページ ソ連側は執拗に多くの要求を出したが、日本側はほとんどすべてを拒否。
赤い広場ー霞ヶ関 p.026-027 The Soviet side persistently demands a lot of things. Japan refuses almost.

『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場

合、あなたの責任に影響するだろう』と脅迫がましい言動をなし、更に『三十日迄の間に釈放される場合は、北海ホテルに通知してほしい』と言い残して立去った。

 6 ついで午後五時四十五分頃旭川刑務所を訪れ、所長に面会を求め午後六時十五分頃より会見し、aソ連人四名の健康状態 b房内の生活状態を聞き、差入れの打合せをして北海ホテルに引上げた。

 7 八月二十六日午前中旭川刑務所を訪れ、果物の差入をして引上げた。

 8 八月二十七日午前七時四十分旭川発の列車で小樽へ、午前十一時四十分頃到着、北海ホテルで午後一時頃まで休憩し、海上保安本部を訪れ『ソ連船を見たい』と申入れた。これに対し海上保安本部では『事件がまだ確定していないので見せられない』と拒否したところ、付近のハシケを雇ってソ連船の周囲三百米位を一周して、午後四時頃ホテルに引上げた。

 9 八月二十八日午前九時四十分頃、岩田町漁業協同組合幹事木森幸雄氏がホテルを訪問、ルーノフ氏等に面接し、自己所有漁船がソ連に拿捕された模様なので、その早急送還方を要請した。

 10 同日午後小樽郵便局より東京USSR代表部宛英文にて『船を視察した、三十日にもう一度事件解決のため調査をやってみる、今日旭川へかえる』旨打電し、午後五時小樽駅発にて旭川へ午後九時帰着した。尙同日代表部パブリチエフ氏よりルーノフ氏宛、『取調べが終りましたか、船長との会見を要求しなさい』との内容の電報を受取っている。

 11 八月二十九日午前十時頃旭川地検へ赴き、検事正に面会を求めたが、忙しいからと面会を拒否したところ、約二十分位待っていたがそのまま引揚げた。

12 八月三十一日午前十時、旭川地検に検事正を訪ね『拘留中の船長に面会させて貫いたい』と申入れたが、検事正は『起訴後であるから裁判所に行ってもらいたい』と拒否したが、執拗に要求、約一時間ねばって結局目的を達せず引揚げた。引続き午前十一時十五分頃地方裁判所に所長を訪ね、同様の交渉を行ったが、担当の山田判事が不在であるからと拒否したら、ここでも約二十分ねばって立ち去った。

13 八月三十一日午後三時十五分、旭川発列車で札幌に午後七時到着、グランドホテルに宿泊。

14 八月三十一日午前十一時頃、チヤソフニコフ氏外一名が欧米局長室に来て、同別室の女給仕に書面と名刺を渡して立去った。書面はパブリチエフ氏より欧米局長宛のもので、内容は『前回、逮捕ソ連人四名の釈放要請をしたが、何故この回答が与えられないか』との文面である。

15 九月一日午前九時四十五分、ルーノフ氏等二名は札幌入管事務所に至り、収容中のソ連人三名に面会させてほしい旨申入れたが、拒否されて約三十分位で立去り、午前十一時五十分一旦ホテルに帰り、午後四時四十五分豊平駅より定山溪ホテルに宿泊した。

16 九月四日午前九時三十分頃、札幌入管事務所を訪れ所長に面会し、aソ連代表部員として来た b三人のソ連船員に会わしてもらいたい c仮放免はどうなっているか d送還については如何なる方法をとるか等の申入れを行ったが、これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はない

赤い広場ー霞ヶ関 p028-029 時系列を追えば謎はさらに深まる。

赤い広場ー霞ヶ関 28-29ページ 時系列を追えば謎はさらに深まる。
赤い広場ー霞ヶ関 p.028-029 Pursuing events in chronological order deepens the mystery further.

これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はな

い b審査の過程であるので会わせる訳にはいかない c仮放免には一定の条件があり、ソ連等の国籍如何を問わず許可した前例がない d送還については中央の決定によるが、現地でも期待に添うよう努力する、と回答、約二時間会談の上午前十一時三十分頃引揚げ、途中果物等を差入れ、ホテルに帰った。

⒘同日午後六時五分札幌発列車で旭川に向い、午後八時五十分到着、ニュー北海ホテルに投宿した。尙、出発に当り、『抑留者三名には入管係員が面会させなかった。これら三名の抑留者は九月中旬頃強制送還されるらしい』との内容の電報を代表部宛打電したが、九月五日旭川に『帰京を延期するように』との内容(不明確)の返電があった模様である。

⒙九月五日午前十時旭川地裁を訪問、所長に面会を求めたが拒否され、そのまま引揚げた。

⒚九月八日午前零時五十五分旭川発下り列車で、自称、札幌市北九条西三丁目事務員本間裕枝(当 30 才)がニュー北海ホテル十六号室に宿泊し、午前八時四十五分頃ソ連元代表部員の部屋を訪問し、紙片を手交後、ロシヤ語にて約十五分位会話して引揚げた。尙同日午後一時四十五分旭川発列車で札幌へ向ったが、前記本間裕枝も同列車に乗革した。午後五時札幌駅に下車してからルーノフ氏等と自動車に乗車したが、途中で尾行を感付いて本間は下車し、北大教授杉之原舜一方を訪問した。

発生順に事件を追ってみると、次の通りになる。

五月二十五日 ソ連兵の死亡? 行方不明?

六月七日 ソ連兵の死体発見さる。

七月中旬 代表部死体捜索を始める。

七月二十日 コテリニコフ、ジュージャ両氏稚内に現る。

七月下旬 両氏帰国準備を始める。

八月二日 関三次郎密入国して、捕わる。

八月九日 ソ連船拿捕さる。

八 月十二日 コテリニコフ、ジュージャ両氏帰国す。

八月十九日 代表部四船員の釈放要求。

八月十九日 ヤンコフスキー氏札幌へ行く。

八月二十一日 ヤンコフスキー氏帰京。

八月二十二日 ルーノフ、サベリヨフ両氏旭川へ向う。

八月二十五日 両氏旭川へ現る。

以上の通りであるが、これでも分る通り、ソ連の一沿岸警備兵が死んだか、逃げたか、ともかく姿を消してから、代表部がその捜索を始めるまでに、約二ヶ月も経過しているのだ。云い直せば、二ヶ月も放置しておいたのちに、突然騷ぎ出したということだ。