米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.162-163 元ハルピン陸軍病院長・I少将

読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。
読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

煙草をすすめて、自分もつけた。

「少しも恐いことはないよ。何もかも話してごらんなさい」

男はオドオドしながらも、彼の恐しい体験を語りだした。大尉は、黙ったまま深くうなずいた。

こうして舞鶴CICは、はじめて引揚者の中にソ連製のスパイがいることを知った。

「ソ連スパイが、引揚者にまぎれて、投入されつつある」——こんな重大な事実を発見した、舞鶴CIC、およびCISからは、報告書を携え、ピストルで武装した将校が、伝書使となって東京の本部へ飛んだ。

それからは、ソ連情報の収集ばかりではなく、ソ連スパイの摘発が、郵船ビルの重要な仕事となった。復員局から「復員業務について占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします」というハガキが、日本全国の引揚者のもとに届けられた。

往復の旅費、日当、食費も日本政府から支給され、北は北海道から南は鹿児島まで、容疑者と、容疑者の情報保持者が郵船ビルに集合させられたのである。

数日で終わる者もあったが、数週間、数カ月間もかかる者がいた。試みに、郵船ビルの表口に立って見ていると、夕刻には、嬉々として現われる者と、足取りも重くうなだれて来る者とがいた。

米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」

そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

その中の一人に、元ハルピン陸軍病院長をしていたI少将がいた。仔細に見れば、I少将のどこかに、緊張に引きしめられた、あるカゲが見られたであろうが、さすがのCICも、元将官には敬意を払って、多くを追及しなかった。

その元少将が引揚後のある日、何となく後ろめたさを覚えながらも、もう小一時間も、靖国神社の境内を、そぞろ歩いていた。

困惑と期待との入りまじった、不思議な感情だった。半分はウソだと思ったし、半分は行かずにいられない、脅迫感を覚えていた。

やがて、彼がちょうど境内を一回りして、また大村益次郎の銅像にもどってきた時、一人の男が彼に声をかけてきた。

——ああ、やっぱり!

そう思った瞬間、I元少将は、思わず声とも叫びともつかない音をあげてしまった。

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

読売梁山泊の記者たち p.164-165 理解を絶するようなことが起こっていた

読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——
読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

I元少将が命ぜられた任務は、在日米軍のバクテリア研究所の実体調査である。当時、日本の細菌研究は、世界的に優れており、その指導者である石井中将を、満州において取り逃がしたことは、ソ連にとって痛恨事であった。その石井中将直接の指導の下に、在日米軍が、ソ連ウクライナの穀倉地帯の、食物に対する細菌戦を準備しているから、その情況を調査せよ、というのが、I元少将の任務であった。

こうしたレポのために、ソ連代表部の〝市民雇員〟は、夜な夜な、東京都内を徘徊するのであった。

ちなみに、夜の七時から九時までの間、三十分おきに、ソ連代表部から出る自動車の行先をみてみよう。歌舞伎座、日比谷公会堂、アーニーパイル劇場(東宝劇場)、帝国劇場、明治座、日劇、そんな賑やかな所を、グルグル廻ってから、目的地へ辿りつくのだ。

昼間なら、赤坂の虎屋、靖国神社、地下鉄赤坂見付駅、日本橋の高島屋、渋谷郵便局、上野公園、皇居前の楠公像、大宮公園、井の頭公園などに行く。

レポには、決して特定の店は使わない。必ず直接である。報酬は月額三—五万円のクラスと、六—十万円のクラスとがある。

こうして、ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日

本人が、甘受する運命は何であろうか。

佐々木克己・元大佐という軍人が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘という作家もまた、なにやら、〝人さらい〟にさらわれる——実に、米軍の占領下では、いまの、平和な日本に生まれ、育った人たちには、とうてい、理解を絶するようなことが、相次いで起こっていたのである。

太平洋戦争後の、米ソの冷戦。これもまたいまのゴルバチョフ・ペレストロイカのもとでは、さながら、フィクションそのもの、といえるだろう。

こんなこともあった。私たちは、シベリア捕虜として、炭坑などの重労働を強いられたが、そこで見た、ボーリング機械も、パワー・ショベル・カーも、ほとんどの機械は、米国製であり、食糧援助の粉末鶏卵など、戦争中のソ連の窮状ぶりが良く分かった。それこそ、丸抱えのように、米国製品が、ソ連に満ちあふれていた。そして、米国製機械のイミテーションのソ連製はすぐ故障して、使えなかった。

満ソ国境で、戦闘してきたソ連軍は、さすがに、大都市には入れなかった。ソ軍の幹部も、その殺気立った部隊を都市に入れたら、どんな混乱を生ずるか、良く分かっていたのだろう。

降伏した日本軍は、武装解除されたが、将校だけは、勲章をつけ、軍刀を帯びていることが許された。兵舎内に起居し、塀の外に、ソ軍の歩哨が立つ生活が、一カ月もつづいただろうか。

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

読売梁山泊の記者たち p.166-167 ソ連女性たちが物見高く集まって

読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」
読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

そして、シベリアに列車が入ってゆくと、ハダシの子供たち、新品の軍服をほしがる男たち、布地を求めて集る母親——どちらが、戦勝国なのか、錯覚に陥るほどであった。

日本が敗戦国で、自分たちは軍事俘虜である、ということを痛感させられたシーンが、いまでも、思い起こされる。

長い貨物列車の旅が終わり、バイカル湖の西岸のチェレムホーボ収容所に着いた時のこと。将校だけ集められて、門外に長く待たされていた。まわりには、ソ連女性たちが、物見高く集まってきていた。

何の指示も命令もなく、何時間も待たされていた時、応召の内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。

「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

「エッ?」

敗戦の日から、もう二カ月ほどが経ち、それこそ、落着いて物事を考えるゆとりなど、まったくなかったが、公主嶺の貨物廠から持ってきた、旧日本軍の備蓄糧秣のおかげで、三食白米の日本食だか

ら、健康そのもの、体調も良く、〝女〟などは考えも及ばなかった。が、〝去勢〟となると、人生の〝重大問題〟である。捕虜に対して、そんなことがあっていいものか、と、軍医の言葉だっただけに、ガク然としたものだった。

ずっとあとで分かったことだが、あの時の女たちが、私たちの誰、彼を指差していたのは、それぞれの好みで、「私はあの男が…」「イヤ、私ならアッチの男がいいわ」と、性的対象として、品定めをしていたのだった。

さて、「幻兵団」の裏付けとして、国警長官が国会で明らかにした、一連のソ連製スパイ事件を「鹿地(かじ)・三橋事件」と呼ぶ。つまり、鹿地亘に米ソの二重スパイを強要していた、米軍情報機関は、昭和二十七年九月二十四日付の「国際新聞」などに、英文の怪文書が掲載されたので、鹿地を釈放せざるを得なくなり、同年十二月七日、鹿地は新宿・上落合の自宅に帰ってきた。

外国の官憲が、日本国民を恣意に逮捕したり、監禁したりというのだから、人権問題はいまほどではなくとも、「反米感情」は高まる。そこで、米軍機関は、鹿地問題の〝火消し役〟に、かねてから〝二重スパイ〟として利用していた三橋を、国警(国家地方警察。自治体がもっている自治体警察の、所轄以外の部分をカバーする警察。現在は、この分類が廃止され、警視庁以外はすべて警察庁の所管)本部に自首させたのである。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

読売梁山泊の記者たち p.168-169 ソ連のスパイである一人の男を逮捕

読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。
読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。

七日、鹿地が帰宅するや、すぐさま、社会党の猪俣浩三代議士らが動き、衆院法務委員会が、調査を開始した。その第一回が、十二月八日(帰宅の翌日)、第二回が同十日、第三回が同十一日、第四回が同二十三日と、第七回までつづく。これらの、法務委での、鹿地証人の証言から、その人物像を浮かび上がらせてみよう。

明治三十六年五月一日生まれ。昭和二年三月、東京帝大文学部国文学科を卒業。プロレタリア作家として活動。昭和九年の春、治安維持法によって逮捕され、翌十年末、懲役二年執行猶予五年の判決を受けた。

昭和十一年一月、中国文学研究のため、上海の中国文学者として著名な、魯迅のもとに行く。日本軍部の戦争政策に反対して、中国人とともに、反戦運動に入り、国民党政府の軍事委員会顧問として、漢口市で、日本兵捕虜の洗脳教育を担当していた。戦後の二十二年五月、中国から帰国。帰国後は、結核に冒されて、療養生活に入っていた。

怪文書事件に衝撃をうけた、池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に、夫君の捜索願を藤沢市署に提出し、市署では、家出人としての捜索をはじめ、ここではじめて、日刊紙の報道するところとなった。それから一カ月近く経った十二月七日、鹿地が、突然自宅に姿を現わして、大騒ぎとなったわけである。

では、鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、

彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。

第一の時期は、日本軍閥に反抗して中国に渡り、当時の国共合作時代の重慶(国府)、延安(中共)と、これを後援していた米国の三者側についた。

それがのちに二つに割れ、中共をソ連が応援しだすと、まず延安側についた。左翼作家だった鹿地としては、当然のことである。

ところが、次の時期には、重慶側についたのである。日本の敗戦時には重慶におり、マ元帥顧問だ、と自称して、得意満面のうちに帰国してきたのだ。

この米・国府側対ソ・中共側との間の往復回数は、さらに多かったかもしれない。しかし、戦後帰国したさいには、重慶で米国のOSS(戦略本部)や、OWI(戦時情報局)に、働いていたほどだったから、当然、米国側について、重慶時代と同じように、諜報や謀略の仕事を、していたに違いない。

一方、米国側では、前に述べたように、〝幻兵団〟の存在を探知して、これの摘発に懸命に努力していたのである。そして、その一味である「三橋正雄」なる人物を摘発、これを逆スパイとして、利用していた。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、 判ったから大変だ。

読売梁山泊の記者たち p.170-171 NKの政治部将校が同行

読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。
読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

その結果、米国側では、三橋の密告によりそのレポとして、ソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると、意外なことには、この男は、米側のスパイであるはずの、鹿地だということが、

判ったから大変だ。

米国側が怒ったのも無理はない。飼犬に手をかまれていたのだ。それから、鹿地証言にあるような拷問が行なわれた?

ソ連のスパイをやっていたが、逆スパイになれというだけなら、こんな拷問をせずもっと賢明な方法がある位のことは、いくらなんでも、米国諜報員が知っているはずである。米国側には、鹿地が米国スパイとして、働いた記録があるそうだから、やはり裏切者への怒りが、爆発したのであろう。

その頃には、米国側では、鹿地を殺すべく計画していた、かも知れない。そして鹿地はその米国側の企図を察知したか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく、肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打ち合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれる、マーフィー大使が着任、さらに利用価値があるかも知れない、というので、たらい廻しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地が消息を絶ったので、調べてみると、米側に逮捕されたと分かった。そこで日本の世論をわかして、鹿地を釈放させ、さらにこれを、反米感情をたかめるのに、利用したのではあるまいか。それを証拠だてる有力な資料が、怪文書である。この文書なるものが、左翼系から流されたであろうことは、明らかであるが、なぜか、「アカハタ」(現・赤旗)には、この好個のニュースが一言半句も掲載されなかった。とすれば、鹿地逮捕を知ったソ連側が鹿地に行なわれた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して、怪文書なるものを作成させ、バラまかせ

たことが、容易に推測できる。これは、「敵の手で敵をたおす」という、諜報謀略の原則からも、うなずける推理であろう。

三橋は、アメリカ側の逆スパイとして、働くようになった。その三橋が、はしなくも、ここに無電スパイとして、けんらんたるお目見得をすることになった。それは、鹿地事件における、日本世論の硬化に驚いて、鹿地を釈放せざるを得なかった米国側の鹿地問題処理策でもある。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当たって、鹿地から、「私はソ連スパイだった、この事件で米国に対しては賠償要求などしない」と、一札をとってはおいたけれど、すでに、鹿地を反米闘争の英雄として祭り上げるお膳立てができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日して、品川のホテルに宿泊した。

ソ連の海外派遣団というのは、スポーツであれ、文化であれ、必ず、NKの政治部将校が、マネージャーとか、随員とか、つまらぬ肩書で同行してくる。もちろん、亡命の阻止と同時に、アメリカのスパイに接触されぬよう、防諜上の任務を持つ。

それはまた、米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

―カーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

読売梁山泊の記者たち p.172-173 常に戦争の残滓を背負い

読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。
読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

コンクリート壁をも通す、その性能にビックリした課長は、重大な決心をした。その機器を電機メ

ーカーに渡し、分解して、同じ性能のコピーを造るよう、依頼したのである。

数日間の日程を終えて、その代表団が離日した後、村井課長は、「担当員が操作を誤って失敗した」と、米側に頭を下げ、ナニ食わぬ顔で、コピー済みの盗聴器を返した。それ以後、日本警察の盗聴術は、格段の進歩をしたのだった。

近代諜報戦が変えたスパイの概念

時代の流れは、公安・外事が主流になるべく、動き出していた。それは人事面でも、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦といった人材たちを、登用してゆく方向からも、裏付けられている。いずれも、公安・外事に眼を見開いていた連中である。

警視庁七社会(読、朝、毎、東、日経、共同、時事新報の七社の、記者クラブ)での、私の相棒は、北海道新聞から移ってきた、深江靖であった。彼は、東京外語のロシア語科の出身だった。

さる平成元年十二月八日、私のデスクの上に置かれた郵便物のなかに、一通の黒枠のハガキがあった。「今村由紀子」という差出人の名前に、ハテナ、と首を傾げた。それから、視線を本文に走らせて、アッと声をのんだ。

「平成元年十一月二十一日(七十二歳)の誕生日に、夫一郎が心のう血腫で急逝致しました。兼ねてからの遺志により、通夜及び葬儀は、近親者のみにて相済ませました。

常に戦争の残滓を背負い、厳しく自己を律して、その信念のままに、最後の日まで仕事に励み、潔

い生涯であったと思います。

故人に生前賜わりました御芳情に対し、厚く御礼申し上げここに御通知申し上げます」と、あった。想えば、その日は、〝常に戦争の残滓を背負い、とある、太平洋戦争勃発の日であった。

今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。

そして、彼と私との出会いは、昭和二十五年一月十三日付の「幻兵団第二報」に、今村が、〝鈴木〟という仮名ながら、横顔の写真入りで登場しているので、多分、前年の十二月ごろのことであろう。

晩年の今村は、端正な顔立ちに、やや白髪を交えこそしたが、背筋を伸ばし、胸を張った姿勢で、待ち合わせの喫茶店に現われた。気取った挙手の敬礼をして、「ズドラースチェ(今日は)」といった。

それこそ、将校服と正帽の似合いそうな男だったが、彼は、陸軍中尉の軍服を着用したことはなかった、だろう。

それなのに、ナゼ、「常に戦争の残滓を背負い…」と、夫人をして、書かしめたのだろうか。どうしても、今村一郎について、語らねばならない。戦後の四十年、東欧貿易の商社員という名刺こそ持ってはいたが、公然たる定職もなく逝ってしまった男の、これは墓碑銘である。

哈爾浜(ハルビン)、小上海と呼ばれる、エキゾチックな街である。ロシア革命以後、亡命した白系

露人が多く住んでいた。そして、黒竜江をはさんで、中国側が愛輝、ソ連領がブラゴベシチェンスク、とある。愛輝とは、黒河という町で、地図にも、カッコつきで、示されている。