そこに四ヶ月いたわけですが、大体教育は三ヶ月で終ったんです。まあ通信機の隠し場所はどういうところがいいとか、例えば漬物の桶を二重底にして下に無線機を入れろ、炭俵の底に機械を入れて、上に炭を入れておけ、小さいものは壁をえぐって中に入れ、元通り蓋しておけ、天井裏なんかすぐ狙われるからまずい、などと言っておりました。
また庭の敷石を持上げて、その下に入れるようにとか、電文など書類は箱かなんかに入れて石垣なんかあったら、石を一つ抜けば入れられるように細工をしてかくせなど言われた。永久的に一年なり二年なり使わない場合は罐に湿気が入らないように密封して、エナメルでも塗って地下に埋めておけとも言われた。
それから尾行を発見する方法については、ときどき振返ってみずに、曲り角で来た方向をちょっと見るとか、電車の乗降のとき自分と一緒に乗った人間を覚えておいて、降りるときにその中の人間が一緒に降りたら注意しろ。次に尾行されたら、約束の場所には来ないのが鉄則だと教わった。
十月三十日の午後三時頃急行列車でモスクワ駅を、雪の降る中を出発しました。バイカル湖をちょっと通り過ぎたあたりでゲーペーウーみたいなものが入ってきました。付添の将校が証明書を出したけれどもやっぱりさすがに私には目をつけましたね。日本人というとおかしいとみられると思ったのでしょうか。私の名は朝鮮人の何とかいう名前になっていたらしいんです。
やっばりこうなったら、向うは同じソ連人の内部でも知らせないという態度をとっているんですね。
出発するときにリヤザノフが、朝鮮人ということになっているんだが、ということを言っておりました。それでハバロフスクへ着いたわけです。
ハバロフスクの隊長の家に、すぐ行ったんです。そこで、今まで着てきた私服を全部ぬいで、またそこの日本人の捕虜の服を着て、そっくり新京からシベリヤへ出発した当時の元に還って、十六地区の十八分所というのに入ったわけです。他の兵隊には病気で入院しておって、こっちへ送られたんだと言うことにして、体が悪いからとの口実で作業はしませんでした。
十一月の二十二日頃、ナホトカを出て十二月の三日に舞鶴へ着いたというわけです。
この一緒にスパースクに送られた八人というのは、高田少佐、土田、小林、近藤、野崎、平島各少尉、伊藤曹長、三橋一等兵の八名であるが、いずれも、特殊工作家屋の中で、スパイ技術の個人教授を受け、三橋氏のように偽装して帰国したのである。
そしてこれらの多くの人が、ラストヴォロフ事件で警視庁の取調べをうけ、参考人として供述調書をとられたのである。
その調べから、帰国後の最初のレポ状況をみよう。
▽三橋氏の場合
十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中
旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。