二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の
好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。
有末氏は復員庁次官上月良夫元中将(21期)同総務局長吉積正雄元中将(26期)同総務部長荒尾興功元大佐(36期)らと相談して、関東軍関係はソ連に抑留されているので、旧五課関係将校で将官を長とする三グループを編成した。
この三組の顧問団を佐世保、函館、舞鶴の三引揚港にそれぞれ配置して、『誰に、何を?』訊くべきかという、訊問の援助をする陰武者にしようというのである。舞鶴に配置されたのは陸軍省高級副官菅井斌麿元少将(33期)を長として、五課員福居元大尉、情報参謀堀江元少佐、同松原元少佐、堀場元満鉄調査部員の四名だった。これらの要員はG—2に所属して、給与は終戦処理費の秘密費から出たが、身分は復員庁の復員官という奇妙な存在だった。
一方GHQでは、従来各府県軍政部に所属していたこの三港を直轄として、ポート・コマンダーを任命、さらに舞鶴には大津連隊のナイト少佐を長とし、G—2高木(タカギ)准尉ら十五名の二世下士官からなる調査班を設けた。
二十一年十二月八日、いよいよ引揚第一船大久、恵山両船が入港した。ところがこのG—2特派の調査班は日本語ができるというだけのお粗末な連中で、情報センスや調査技術は全くゼロという始末に、菅井元少将以下のアドバイザー・グループはあわてだした。大きな期待を持っているウイロビー少将へ報告書を出さなければならないからである。
たまらなくなった元将校たちは〝蔭の声〟だというのも忘れて、第一線にのりだして作業を始めてしまい、やっと報告書らしいものを作りあげた。彼らにしてみれば〝報告書らしいもの〟だったのであるが、GHQでは兵要地誌として高く評価した。つまり日本陸軍では〝対ソ常識〟程度のものが、無知な米軍にとっては貴重な知識として受取られたのだった。
明けて二十二年一月四日、第三船明優丸、同七日第四船遠州丸が入港した。第一船大久丸は阪東梯団で、在ソ日本人の宣伝機関紙「日本新聞」関係の、阪東、北村、益田氏らがおり、第二船恵山丸には、のちに参院でのソ連製スパイ「幻兵団」証言で問題となった、同新聞編集長、小針延二郎氏がいた。また明優丸は大和梯団、遠州丸は草田梯団であったが、この草田梯団が問題となって、米ソのスパイ戦の幕が切って落されたのである。
三 天皇島に上陸した「幻兵団」
第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。