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新宿慕情 p.010-011 新宿慕情・目次 事件記者と犯罪の間・目次

新宿慕情 p.010-011 新宿慕情 目次 事件記者と犯罪の間 目次
新宿慕情 p.010-011 新宿慕情 目次 事件記者と犯罪の間 目次

新宿慕情目次

はしがき
新宿慕情
洋食屋の美人
〝新宿女給〟の発生源
ロマンの原点二丁目
〝遊冶郎〟のエチケット
トップレス・ショー
要町通りかいわい
ブロイラー対〝箱娘〟
〝のれん〟の味
ふりの客相手に
誇り高きコック
味噌汁とお新香
新聞記者とコーヒー
お洒落と女と
おかまずしの盛況
大音楽家の〝交〟響曲
〝禁色〟のうた
えらばれた女が……
オカマにも三種類
狂い咲く〈性春〉
青春の日のダリア

事件記者と犯罪の間

その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者

新宿慕情 p.022-023 ととやホテルがありととやというバーがあった

新宿慕情022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。
新宿慕情 p.022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。

〝新宿女給〟の発生源

〝シベリア帰り〟で

そして、戦後の、新宿の街との〝かかわり合い〟が始まる……シベリアの捕虜から、生きて東京に帰ってきたのが、昭和二十二年十一月三日だった。

東京駅から、国電に乗り換えて、有楽町駅前の旧報知新聞の社屋にいた、読売に顔を出して新宿駅から、小田急線で、世田谷中原に着いた。

代田八幡神社も焼けずに残っていたし、母親のいる家も無事だった。オフクロは、兄貴夫婦と暮らしていた。そして、私は、その家の二階に、厄介になることになった。

〈適応性〉があるというのか、私は、その日から、原稿を書き出していた。

社に、挨拶に顔を出したら、デスクに、「なにか書くか?」と、いわれて、「ハイ、シベリア印象記でも……」と、答えてきたからだ。

確か、二晩か三晩、徹夜をして書いたようだ。その、これまた長篇になった〝大原稿〟を持って、社に行く時に、初めて、戦後の新宿の街に出た。

いまの中央口の前あたり一帯が、バラック建てのマーケットになっていて、薄汚れた、風情のない街に変わっていた。

大ガードから、西口にかけても、ヤミ市やバラックの飲み屋街ができていた。

安田組、尾津組、関根組だとかのマーケットということで、それぞれの名が冠せられていたが、私は、まったくの異邦人だった。

なにしろ、軍隊と捕虜とで、まるまる四年間も、新宿を留守にしていたし、その間に、街は空襲やら、疎開などを経験していたのだから、当然だろう。

そして、焼跡派だとか、カストリ派だとか、太宰だ、坂口だとか、熱っぽく語られていても、私には、無縁だった。

帰り新参の〝駈け出し〟記者は、続発する事件に追いまくられるばかりで、飲み屋街を渡り歩く、時間も金もなかった。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。

その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。