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雑誌『キング』p.116上・中段/p.117下段 幻兵団の全貌

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.116 上段・中段 写真・日の丸引揚
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.116 上・中段 写真・日の丸引揚
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.117 下段 写真・赤旗引揚
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.117 下段 写真・赤旗引揚

写真p.116上・中段、p.117下段

[写真キャプション 引揚二態——(上)日の丸に迎えられた引揚者、(左)赤旗一色の引揚風景(いずれも上野にて)]

編集長ひとり語り第15回 日の丸と君が代の法制化

編集長ひとり語り第15回 日の丸と君が代の法制化 平成11年(1999)6月12日 画像は三田和夫63歳(前列右側 府立五中・級会1984.06.15)
編集長ひとり語り第15回 日の丸と君が代の法制化 平成11年(1999)6月12日 画像は三田和夫63歳(前列右側 府立五中・級会1984.06.15)

■□■日の丸と君が代の法制化■□■第15回■□■ 平成11年(1999)6月12日

広島の校長の、無残な自殺から、俄かに国旗・国歌の問題がクローズアップされ、政府自民党は、「法制化したい」と、“意外なほど”物分かりの良い態度を見せた。しんぶん・赤旗を見ていると、共産党も“意外にも”「法制化がのぞましい」と反応した。
戦争が終わって50年あまり、歴代自民党政権が“票にならない・金にもならない”国旗と国歌の問題に、ようやく腰をあげた、と私は驚いたものだったし、共産党の法制化賛成も、同時に驚きであった。元来、新憲法の発布につづいて、国旗・国歌問題も、決着をつけるべき問題だった、ハズであった。

その間、国旗と国歌は、時流にもてあそばれ、辛酸をなめてきた。大相撲の千秋楽、君が代の斉唱で、カメラが、優勝力士の口許から、観衆をなめるように映し出す。一体どれほどの人たちが、声を出して唱っているだろうか。ほとんどいないのである。そしてまた、館内アナウンスも、「国歌・君が代」という時もあったし、「国歌」といわない時もあった。最近では、いわないほうが多い感じである。そしてまた、NHKのカメラも、君が代斉唱の顔をパンしなくなった感じである——唱われてもいない現実を、報道しない規制のようなものを感ずるのだ。

政治が堕落し、政治不信が国民の多くを支配しはじめて久しい。そこに自自公の連携で、戦争法のガイドライン、盗聴法の電話傍受と、論戦もなく、審議も尽くされずに、重要な法律が次々と成立してゆく。そこに、国旗国歌法案が、いきなり出てきて、国民の意見を圧殺して、通過しようとしている。自自公という“野合”はいったいナンなんだ!

数さえあれば、民主主義なのか? そこには、私利私欲、党利党略しかない。これが政治だというのか? 自民党の言う国旗国歌の法制化とは、第一条・国旗は日章旗、第二条・国歌は君が代、ということに、おそまきながら、ハカられたかと気付いたのであった。戦争法、盗聴法と同じく、論議不要なのである。前の二つはアメリカの外圧もあろうが、国旗・国歌は、純粋に日本人だけの問題だから、国民投票などで、全国民の総意によって法制化されるもの、と信じて疑っていなかったのである。共産党の法制化賛成も、十分な論議を経てのちに…ということであった。それが、なんの論議もなしの、抜き打ち提出、通過ということだ。

大体からして、自自公とはなんだ。自民・自由・公明の略だろうが、自民党は、脱党、離党していった連中にコビを売り、取りこんだつもり。その自由党とは、小沢一郎の野村沙知代口説きの、野村家訪問のビデオがしきりに流されているが、恥ずかしくないのか。その側近中の側近、中西啓介長男がまた逮捕されたが、今回は辞職しない。今度辞めたら再選の可能性がないからで、まさに私利私欲そのまま。首尾一貫しないことに、平気の平左だ。

「国民精神作興」の必要に迫られているときは、いまほど切なる時はあるまい。国旗・国歌の制定こそ、国民の総意を結集し、全国民がそれなりに納得し、改めて敬意を抱くということが、国民精神作興のキッカケになる。私は信じて、法制化に大きな期待を感じていたのだったが、自自公に裏切られてしまった。

もうこうなると、衆院の解散、総選挙で自自公のアヤシ気な議員どもを、一掃、とまではいかなくとも、せめて、半分に減らしたいものだ。それにしても、野党・民主党があのていたらくでは、どうしようもないなあ…。 平成11年(1999)6月12日

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか?

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)
編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)

■□■日の丸はスポーツグッズか?■□■第27回■□■ 平成11年(1999)8月31日

昭和20年秋、というよりは、ここシベリアのバイカル湖にほど近い、炭坑町のチェレムホーボでは、10月だというのに冬だった。

旧満州の国境の町、満州里からソ連に入り、左へと進路を取った時、私たちは捕虜にされたことを実感した。そして、シベリア本線の駅で停車するたびに、日本兵を満載した貨車を取り巻く“戦勝国ソ連”の人びとが、どんなに貧しい生活をしていたかが、目に見えたのだった。子供たちは、多くが裸足で、食べ物や衣類をねだっていた。

私たちが収容所に入り、炭坑作業に追い立てられて、意外な風景が現れた。頭に赤い布を巻く女たち、“日の丸バアさん”があふれてきたのである。文革当時の中国と同じように、ソ連にも“色”がなかったのである。兵隊たちの誰もが持っていた、日の丸の旗が流出して、女たちのプラトーク(頭巾)になって、それが大流行したのだった。

「祈武運長久」と墨書きされた日の丸は、その赤丸ゆえに大モテで、暗い冬の黒い炭坑で、女たちの色気を飾っていた。私も、昭和18年9月卒業、10月読売入社、11月入営というあわただしさの中で、正力松太郎社長に署名を頂いた日の丸を、大切にしまっておいたのだが、盗まれてしまったので、ソ連女の頭巾にされていただろう。

最近のワールドカップやオリンピックの時に武運長久に変わって、「頑張れ!」「金メダルを!」と、日の丸の旗の白地が、墨で汚されて、打ち振られるのを見て、私は戦争中の日の丸の旗を思い出し、シベリアの女たちを思い出した。

戦争中の日本軍人たちの大きな過ちのひとつに、国旗・日の丸に落書きを認めたことがあげられる。一銭五厘のハガキ代だけで、徴兵するうしろめたさからか、日の丸を署名帖代わりにすることを、はやらせたのだ。だから戦後、日の丸はその尊厳を失って、ソ連女の頭巾となり、スポーツグッズに成り果ててしまったのである。国旗には、その尊厳への敬意と、侮辱の罪が必要だ。

そこに、自民党政府の法制化という、戦時中の落書き容認以上に、愚かな過ちである。野中という男は、小沢一郎を悪魔と罵っておきながら、それと手を握るという、節操のない男である。それが、法案成立直後から、官房長官会見場に、日の丸を立てた。ナゼ、いままで立てなかったのか。

それを真似たか、通達でも出したのか、各大臣たちが記者クラブとの会見場に、日の丸を持ち込んできて、農林省や自治省の記者クラブとモメ出している。自治組織の記者クラブの部屋で、記者会見をやるのだから、クラブ側の了解なしに、日の丸を立てたがるのは、オカシイというべきだし、第一、どのような効用価値があるというのだ。法制化に当たって、十分に国民との合意を得なかったのだから、記者たちから異議がでるのも、当然というべきだろう。十分な国民的合意を得ないままの、法制化の強行という事実。それにつづいての、政府側の記者会見での日の丸掲揚。この経過を見ると、戦争中さながらの問答無用。「知らしむべからず、依らしむべし」という、権力のらん用が始まり出している。数だけの政治がいまや、押しつけられつつある。

戦争法、盗聴法と、独立国家としての落ち目を食いとめるどころか、いよいよ、アメリカの属国化への道を走り出している。国民の大多数が、アメリカの属国になりたい、というのであれば、それはそれでいいではないか。

90パーセント以上の投票率で、進路を決めるのは、東ティモールではなくて、日本ではないのか。 平成11年(1999)8月31日