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最後の事件記者 p.146-147 新聞記者の功名心だって?

最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』
最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。玄関のドアにはまったガラス、その上のラン間のガラスに、一条の懐中電燈の光りが走っている。

その光りは、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には、玄関を去ってゆく足音さえ聞えない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻は今でもその時のことを想い出しては、

『あれほど恐かったことは、まずちょっとなかったわね』

という。あの懐中電燈の光の主が保護を頼んだ警官なのか、或いは郵便配達か、また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

『危いから、待伏せされてるかも知れないと考えて、あなたが帰ってこなければいい、と願ったわ。外泊を祈ったのは、後にも先にもこれだけね』

新聞記者の功名心

意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCICが、私と私の記事とを疑ったのである。「どうしてこの事実を知ったか」「なぜ記事にしたのか——危険だと思わないのか」の二点に集中されて、私への疑惑を露骨に出した調べだった。

調べ官はハワイ生れの二世で、田中耕作という中尉だった。「私の父は百姓なので、コーサクとは、耕す作ると書くんです」というほど、日本人らしい二世だったが、調べは厳しかった。

『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

これに対して私の答は簡単だ。

『書いたのは新聞記者の功名心からだ。生命も惜しくない。戦争と捕虜とで、二度も死んだはずの生命だ。新聞記者として仕事のために死ぬのは本望だ。自分の記事のために死ぬなんて、ステキだ』

『新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない』

最後の事件記者 p.148-149 事故を装ったコロシですよ

最後の事件記者 p.148-149 だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。
最後の事件記者 p.148-149 だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。

『新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない』

この中尉にどんなに説明しても、とうとう判ってもらえなかった。この事実を知っていることは記者自身が幻兵団、すなわちスパイ誓約者であるか、どこからか、資料の提供をうけたということ。秘密組織をバクロすることに伴う危険を、おそれず記事にしたということは、危険がないことを保証されている。ひっくり返すと、安全を保証されて、資料の提供をうけて記事にした。その意図は何かということだ。

すると、その答は、ソ連側と了解の上で、反ソ風に装ってアメリカ側に近づく目的で書いたに違いない、とみられたのであった。

だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。

ある当局の親しい係官に、その後ずっとたってから、またたずねてみた。

『最近、当局ではオレのことをどうみているンだネ。依然として、反動を偽装している〝赤の手先〟とみているンかネ』

『それについて、ワシの方には別にデータも出ていないようだが、しかし…』

この〝しかし〟がクセモノである。

『しかし、幻兵団の記事を書いた動機は、いまだにナゾですナ。危害を与えるに値しないと先方が判断したのか、危害を加えられないという保証があったのか、依然としてナゾだとみているンだ』

やはり、この生命の危険を冒した記者の功名心は、どこでも、誰にでも、判ってもらえないらしい。

判ってもらえないばかりではない。危険はツイ眼の前まできていたのだった。当時の法務府特審局(現公安調査庁)の吉橋調査第一部長が私に忠告してくれたのである。

同局がある共産党の細胞か何かを捜索した時に、押収した文書の中に、「読売三田記者を合法的に抹殺せよ」という、極秘指令を発見したというのだ。

『合法的ということは、事故を装ったコロシですよ。第一が交通事故、信号を無視したり、酔って道路を横断したりなさるナ。それから駅のプラットホーム。これは電車が進入してきた時に、突き落されるのです。酔ってたので、足がからんでブツかった、などと事故にされちゃうよ。それと、高い所もダメですよ』

吉橋部長は、一応まじめな顔で、

『ともかく、当分は気をつけた方がいいですよ』と、親切に忠告してくれた。

最後の事件記者 p.150-151 立身出世主義ではない

最後の事件記者 p.150-151 しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で、精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか
最後の事件記者 p.150-151 しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で、精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか

吉橋部長は、一応まじめな顔で、

『ともかく、当分は気をつけた方がいいですよ』と、親切に忠告してくれた。

そんな空気の中で、やがて、長男が生れたのだ。妻は覚悟をきめたのか、格別の心配もせず、従って、やせたり病気になったりもせずに、一貫八十匁という、大きな赤ン坊を生んだ。産後も順調だった。健康第一を願って健太と名付けた。

子供が生れると人間は弱くなるという。社の自動車部員などで、独身の時代にハリ切っていて、事件だなどというと、百キロ近くも出して飛ばした男も、結婚して、子供が生れると、もう完全な〝安全運転〟になってしまうほどだ。

私は子ぼんのうな父親ではあったが、一歩家を外にすると、相変らずのカミカゼ取材だった。ニュースの焦点に体当りで突ッこんでゆく。

妻は、何回か、「子供もいることだから、危険なお仕事をやめて!」と哀願した。私も子供の寝顔を見ながら、そういわれると一言もなく、「ウン、もうこれからはしないよ」と答えた。

しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で、精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか、物慾なのだろうか。

書かれざる特種

功名心と立身出世

新聞記者の功名心という、旺盛な報道精神が、ただ単に報道しさえすればよいんだ、というものでないことは確かである。当然、そこには合法的であり、人権を尊重するといった一定のルールがあるはずである。

そればかりではなく、社会批判としての、厳しい〝記者の眼〟がなければならない。この厳しさのかげには、同時に、温かさも必要である。

記者の功名心が、直ちに立身出世主義と結びつけられるということは、おかしな論理である。つまり、功名心というものが、人間の欲望の一つであるには違いないが、この「欲」が、すなわち、キタナラしい立身出世主義ではない。

最後の事件記者 p.152-153 菊村到氏の記者モノ

最後の事件記者 p.152-153 読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う、私も出勤がおそかったからだ。
最後の事件記者 p.152-153 読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う、私も出勤がおそかったからだ。

現実のこの社会の中で、特に新聞社とは限らずに、あらゆる組織体の中で、果して実力者だけが〝立身出世〟をしているといえるだろうか。現実には、〝危険な英雄〟よりは〝安全なサラリーマン〟が、出世のコツであるのだ。

読売の記者に、ある立身出世主義者がいた。もちろん、バカや無能力者では、出世できないのは当然である。記者としての能力は、もちろん一通りは備えていた。しかし、彼には、「あの事件の時は…」といった、自慢話は、これといってないようである。

彼は、朝の出勤時間に、他人よりは必らず早く出てきた。他人といっても、他の記者もふくめられるが、特に部長である。彼は部長よりは必らずといっていいほど、先に出社したのである。部長が自席につく時には、必ずすでに坐っている彼の姿がある。

読売社会部出身の作家、菊村到氏の記者モノをみると、その記者は必らず部長より遅く出てきて、部長と視線が合わないようにして、ソッと席に坐る場面がある。彼の記者時代がそうだった。読売で出世をしようとは考えていなかったのだから、彼はいつもゆっくりと出勤してきて、私をみるとニヤリと笑う、私も出勤がおそかったからだ。

ところが、この〝出世〟記者は、早く出てくるのだ。このことは、確かにエライことだと思

う。努力なしではできないことだからである。私も敬服はしていたのだが、あとが何とも、私には我慢できないことだった。

夕方になる。昼勤の遊軍記者は、特に忙しくさえなければ、適当に消えてしまうのが慣例である。つまり夜勤記者が出てくれば、帰ってしまって、構わない。

ところが、この記者は、部長が着席している限り、絶対に消えないのである。しかも、横目や上目で、チラと部長の席をみる。部長が席を立たない限り、彼も立たない。このような記者が出世をする。部長となり、局長となるのである。

才能を殺す新聞機構

その限りでは、実力者であった菊村氏などは、新聞社における限り、不遇であった。彼の芥川賞受賞の光栄は、本当の意味では社会部員全部によろこんではもらえなかった。彼が社を去る時は、送別会すらなく、いつの間にか出勤しなくなり、辞令が出てはじめて、その退社を知ったほどであった。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井

事件の〝五人の犯人生け捕り〟計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

最後の事件記者 p.154-155 記者ではなくて事務屋である

最後の事件記者 p.154-155 私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。
最後の事件記者 p.154-155 私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。

だから、私の功名心を、このような立身出世主義に置きかえてみるのは、誤りだ。今度の横井

事件の〝五人の犯人生け捕り〟計画も、「彼は社会の多数がこうむる迷惑よりも、自分の抜け駈けの功名や、社会部長の椅子の方が大事であったに違いない」とみるのは、全くの誤りである。

第一、現在の新聞社の機構では、社会部長も次長も、記者ではなくて事務屋である。ことに次長というのは、行政官、悪くいえば請負仕事の職人である。アメリカの記者のように、例えばNBC放送のブラウン記者が、五十歳ほどの立派な紳士でありながら、デンスケを担ぐのとは違うのだ。

私のように根ッからの記者は、取材、自分で走り廻ることをやめて、伝票にハンコを押すことなどに、執着や興味はさらにない。万年取材記者でありたいと願っていた。第一、部長、次長という役職者は、自分で原稿を書くチャンスが与えられていない。空前ではないかも知れないが、絶後であるのは、読売の高木健夫編集局次長のような立場だ。

高木局次長は、今でも新聞記者である。自分自身で原稿を書いているからだ。編集局の一隅に自分のデスクがあって、電話の取次ぎをする給仕一人いない。不思議に、このような大記者制度というものが、日本の新聞にはないのである。古くなれば、誰でもが、オートメで役職につけて、その才能を殺してしまうのが、日本の新聞である。

私が、どんなに功名心にかられていても、書かなかった記事、つまり事件は、いくつもある。つまり、相手がどうあろうと、何でも彼でも書きまくって、自分だけが出世をしようなどとは、いささかも考えはしなかった。

徳球要請事件

二十五年三月、参院引揚委員会では、いわゆる徳田要請問題の審議を行った。日本共産党書記長徳田球一が、ソ連側に「日本人の引揚をおくらせてほしい」と要請したという問題が、引揚者によって伝えられたのである。

同委員会では、これを引揚阻害として重視した。そして、ついに徳田書記長を証人として喚問し、吊しあげるという一幕が演ぜられたのだが、徳田書記長はベランメエ口調で荒れまわって、〝モスクワへ行ってきいて来い〟という、名ゼリフをはいたのである。

委員会の審議は、吊しあげるはずの徳球一人に引ずり廻されて、何の真相もわからず、何の結論も出ないまま、その日は散会となってしまった。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外な ことを聞いたのであった。

最後の事件記者 p.156-157 津村追放の表面上の理由

最後の事件記者 p.156-157 日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているという。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟津村謙二だという。
最後の事件記者 p.156-157 日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているという。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟津村謙二だという。

その数日後のことである。私は日共関係のニュース・ソースである一人の男から、実に意外なことを聞いたのであった。

それは、日共内部が、「徳田要請」は事実であるという一派と、そんなことはデマだという一派とに分れて、モメているというのである。しかも、事実だと主張するのが、〝ナホトカ天皇〟とまで呼ばれて、在ソ抑留同胞がその一挙手一投足で左右されたと伝えられる、上陸党員の大幹部津村謙二だという。

これこそビッグ・ニュースであった。ことに、徳田書記長にやられてしまって、国会の権威がどうのこうのと、騒いでいる時であったから、その書記長の下にある党員が、事実だと主張しているとあれば、もちろんトップ記事である。

私は張り切って、すぐ調べはじめた。もともと、津村はソ連帰還者生活擁護同盟委員長であったのだが、この一月にその地位を追われたばかりであるし、ソ帰同は改組されて、日帰同となっていた。徳田要請問題は、その前年の暮に、日の丸梯団の帰還者から持ち出された問題である。私は、ソ帰同の改組の当時から調べはじめたのであった。

ソ帰同というのは、二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村らの、ナホトカ・グループの帰国と同時に組織されたもので、その名の通り、ソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、

二十四年十月二十八日に、第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて、帰還者戦線の統一が叫ばれ、「日本帰還者生活擁護同盟」と改称されて、日共市民対策部の下部組織となった。

この第二回大会で組織の改正が行われた。つまり、最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任各十名で平常活動を行い、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして、文化工作隊として、シベリア十六地区楽団と、沿海州楽劇団を合流させて、楽団カチューシャとし、高山秀夫をその責任者とした。これは津村一派でしめていた、委員長、書記長制の廃止であった。

そして、明けて一月になると、役員の改選が行われた。津村委員長は、①楽団カチューシャの資金は、地方帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに、本部人件費として十二万円を流用した。②下部組織に対して発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題を起した。などの理由で、はげしく非難され、ついに三月に入ると、委員長の地位を追われてしまった。

このような経過はすぐ判ったのだが、それをさらに調べてみると、津村追放の表面上の理由は、前記の四つの点であったが、事実は恐るべきものだった。

最後の事件記者 p.158-159 ナホトカ天皇との対面

最後の事件記者 p.158-159 デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特ダネですよ」と、予約をした。
最後の事件記者 p.158-159 デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特ダネですよ」と、予約をした。

ナホトカ天皇との対面

津村委員長は、党内において、①徳田要請問題の否定的資料を集めることを拒否し、肯定資料はあるけれども、否定資料はないという発言を、数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ(註、二十九年来日のソ連スケート団の監督、ラストボロフ帰国命令の護送者)を通じて、ソ連側へ呈出していたが、それが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見を数々の偏向ありと指摘し、その弟睦夫をボスとして批判した、という三点から肅正された事実が明らかになってきた。

しかも、その吊しあげは、袴田の命令をうけた市民対策部の久留義蔵が、津村らナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝ら)を、三月九日から十三日までの五日間、産別会館に軟禁して、徹底的に吊しあげを行い、そのあげくに、党活動停止の処分にしたのであった。

私は、そこまで調べ終ってから、翌日の朝刊のトップに書こうと考えた。社を出る時、デスクに、「明日はボクが書きますよ。トップはグンと広くあけておいて下さい。エ? もちろん、特

ダネですよ」と、予約をした。取材のしめくくりは、当の本人にインタヴューすることだ。私は、津村を世田谷のはずれの千歳烏山引揚者寮におとずれた。

薄汚い四帖半たらずの部屋の中には、ロープを張りめぐらして、破れかかった色とりどりのオシメが、生乾きのままでブラ下っていた。部屋の中央には、センべイ布団が一枚敷かれて、半年ぐらいの良く肥った可愛いい男の子が、スヤスヤと寝入っている。

妻はもう小一時間もの間、黙ったままで主人と私との会話を聞いていた。妻というのが追放の一つの理由になっている、「婦人問題」の人物、元陸軍看護婦でソ連に抑留され、ナホトカの民主グループで働らいていた須藤ケイ子であった。

私は躍りあがりそうな胸を静めながら、先程、口をつぐんでしまった津村の顔をみつめて、その喉元まできている次の言葉を待っていた。

しばらくの間、沈黙がつづいている。彼はやがて、キッと顔をあげて私を見た。そして、ただ一言を呟やくと、また下を向いた。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』と。

彼は、さきほどから、私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く 意外であった。

最後の事件記者 p.160-161 「書かないでくれ」といわない

最後の事件記者 p.160-161 取材に現われた新聞記者に対して、話をするということは、常識として記事にして掲載してもよいということである。
最後の事件記者 p.160-161 取材に現われた新聞記者に対して、話をするということは、常識として記事にして掲載してもよいということである。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』と。

彼は、さきほどから、私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く

意外であった。というのは、彼は私の質問を黙ってうなずきながら、終りまで聞いていた。その表情は、刻々と変化して、驚きから、ついには感嘆となった。

『一体、どうして、それだけの話を、どこから調べてきたのです!』

彼はこういって、私の質問のすべてを肯定した。事実その通りだというのであった。そして最後に、自嘲にも似た「ヒューマニストだったんです」という、言葉が洩れたのだ。

私は時計をみた。烏山から銀座までの自動車の時間を計算した。〆切時間が迫ってくるのだ。しかし、この日の取材は、いつもと少し調子が違うのである。

あの時期の共産党は、一切の反動新聞をオミットした。党本部へ談話をとりに行っても、責任者は会わなかった。受付子と押し問答するだけである。この共産党員は私を、反動読売の反動記者として承知して、拒むことなく会い、そして、私の調査したことを、すべて事実だと答えるのであった。

うらぶれた寮の部屋

私がニュース・ソースとして、連絡を持っていた共産党員は何人もいた。彼らから、私は情報

は取るのだが、何時も「書かないでくれよ」と念を押された。だから、情報としての情勢判断の根拠、現象批判の材料にはなるのだが、ニュースにはならなかった。情報の確度調査のための質問にも、親切に答えてはくれるのだが、「書くなよ」といわれる。

調子が違うというのは、彼は、今だに「書かないでくれ」といわないのである。私の調査の正確さに感嘆しているのだろうか。自分を処分した党に恨みをもって、一撃を与えるために話したのだろうか。イヤ、そのいずれでもない。だが、事実には間違いない。

これだけの、驚くべき事実に、最後的に裏付けをしてくれた人。もし私が、ただ功名心にだけはやる記者ならば、もうそこまで聞けば充分であった。その家を、サヨナラをいわずに飛び出しても、聞いてしまえばこちらのもの、ということもできる段階であった。

だけれども、私はそうしなかった。これだけのことを、洩らしてくれた人である。彼の意志を知りたかった。取材に現われた新聞記者に対して、話をするということは、常識として記事にして掲載してもよいということである。

『今の話が、そのまま新聞に出たら、一体どういうことになるのでしょう』

『私に対する党活動停止の処分が、除名という最後的な処分に変るでしょう』

最後の事件記者 p.162-163 数日後、津村の姿をみかけた

最後の事件記者 p.162-163 まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。
最後の事件記者 p.162-163 まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。

『今の話が、そのまま新聞に出たら、一体どういうことになるのでしょう』

『私に対する党活動停止の処分が、除名という最後的な処分に変るでしょう』

彼は書くな、書かないでくれ、といわずに、そう答えた。そういわない彼がいらだたしくて、私はおうむ返しにまた訊ねた。

『除名になったら……』

彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って、再び下へ落ちていった。私は彼の視線を追ってみた。

子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてない、この貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った、健康そうな我が子の安らかな寝顔をみつめていた。

『……そしたら、喰えなくなるでしょうナ』彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が、日共の敵〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。

あの、死に連らなる恐怖の人民裁判の、アジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢も、もはやそこにはなかった。政治や思想をはなれて、純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが、このうらぶれた寮の部屋いっばいに漂っていた。

私は無言で立上った。ちょうど同じ位の男の子が、私にもいたのだった。小さな声で「サヨナ

ラ」とだけいって、私は室外へ出た。

まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。

数日後の参院引揚委員会で、私は傍聽席の隅っこに、津村の姿をみかけた。これが最後だった。やはり、彼は日共党員として脱落していったらしい。あの男の子も、もう二、三年生になっているだろう。

或る乙女の自殺

一人の乙女の自殺があった時にも、私はウソを書いたことがある。真実を伝えなかったのである。バカな父親が、社会的にも人間的にも殺されてしまうのを防ぐためだった。

二十六年九月十八日、板橋のある病院で廿歳の娘さんが息を引きとった。前日に猫イラズをのんで自殺を図ったのだが、発見がおくれたため、手当もとうとう間に合わなかったのである。

若いサツ廻りの記者は、この事件をゴミ原稿として電話で送ってきた。私は遊軍だったので、たまたまその電話をとった。内容は「働らきつかれた娘さん自殺」というものだった。母親に先 立たれた長女が、父と弟妹の面倒をみて、主婦代りになって家事をやっていたのだが、それにくたびれて自殺してしまったという。

最後の事件記者 p.164-165 「洋裁のノオトならあるわ」

最後の事件記者 p.164-165 その「人生案内」は、「イヤらしい父」という見出しで、「お酒に酔った父が、フトンをまくったり、いやらしいことばかりするので、心配で夜もオチオチ寝られない」という訴えだった。
最後の事件記者 p.164-165 その「人生案内」は、「イヤらしい父」という見出しで、「お酒に酔った父が、フトンをまくったり、いやらしいことばかりするので、心配で夜もオチオチ寝られない」という訴えだった。

若いサツ廻りの記者は、この事件をゴミ原稿として電話で送ってきた。私は遊軍だったので、たまたまその電話をとった。内容は「働らきつかれた娘さん自殺」というものだった。母親に先

立たれた長女が、父と弟妹の面倒をみて、主婦代りになって家事をやっていたのだが、それにくたびれて自殺してしまったという。それこそ七、八行の短かい記事だった。

その原稿をとり終って、私はフト、「何だか読んだことのあるような記事だナ」と思った。

『オイ、どこかの新聞が、朝刊で書いてるのじゃないか。オレは何だか読んだことがあるようだゾ』

私はサツ廻りにいった。記者は、「とんでもない」と、自分がサボっていたようにいわれたのかと思って、目に見えそうな様子で抗議した。

『アハハハ、そう怒るなよ。出ていなければいいんだよ』

そういって、電話を切って、その原稿をデスクの辻本次長に渡した。すると、彼も読んだような気がするという。それから、二人で考え出してみると、一昨日の朝刊の「人生案内」欄の話が、これと全く同じようなケースだった、ということに気がついたのだった。

取り出して読み返してみると、いよいよ全く同じである。その「人生案内」は、「イヤらしい父」という見出しで、「お酒に酔った父が、フトンをまくったり、いやらしいことばかりするので、心配で夜もオチオチ寝られない」という訴えだった。

『ウン、これだ! 同一人物かどうか、すぐ調べてくれ。ただの自殺じゃないゾ』

私は、婦人部へ行って、人生案内の担当者から、その手紙をもらおうとすると、解答者の真杉静枝女史のもとだという。車を飛ばして、真杉女史宅へ行き、事情を話してその手紙を探してもらった。

そして、娘の家へ行ってみた。お通夜で近所の人たちが集っているが、もう、父親の酔どれ声がする。

『何しにきたンでえ。おめえたち、新聞やなんざあ、来てほしくねえんだ。帰ってくれ。とんでもねえ奴だ』

門前払いを喰わされたのだが、ハイそうですかと帰れない。板橋のいわば細民街、彼女の家もその例にもれない、古い傾いた貧しそうな家だった。私は妹を呼び出した。

「ネ、姉さんの書いたもの、手紙かノオトでもない?』

「洋裁のノオトならあるわ』

『そう、ちょっとみせてよ』

そのノオトを借りると、街灯の明りでみながら、文字の一番多いページを、そっと気付かれな

いように破り取った。

最後の事件記者 p.166-167 『もう、遅かったわ』

最後の事件記者 p.166-167 父がお酒をのんだ時の、あの眼をみると恐しくて、このままでいけば、自殺するより仕方のない私に、希望のもてる生き方を教えて下さい
最後の事件記者 p.166-167 父がお酒をのんだ時の、あの眼をみると恐しくて、このままでいけば、自殺するより仕方のない私に、希望のもてる生き方を教えて下さい

そのノオトを借りると、街灯の明りでみながら、文字の一番多いページを、そっと気付かれな

いように破り取った。

明るいところに出て、手紙と比べてみると、文字のクセはまぎれもなく、同一人物ではないか。私は躍りあがってよろこんだが、さて、もっと具体的な事実が必要だ。父親があんな有様では、傍証を固めなくてはならないのだった。

自殺した娘の日記

私がふたたび真杉女史のもとを訪れると、意外な人物がきていた。自殺した娘の叔父である。彼は、娘の日記と、人生案内の記事とを持ってきていたのである。

「八人兄妹の次女で二十歳の娘。二年前に母と死別、兄と姉は家出して行方不明。私は勤めもやめて、五人の弟妹の面倒をみてきたのですが、食べてゆくのがやっとです。父は給料の半分以上もお酒に使い、私がいくらお金がないといっても、きいてくれません。最近では、父は酔うと、私にイヤらしいことをいったり、夜中にフトンをめくったりします。あまりのことに夜もねむられず、父がお酒をのんだ時の、あの眼をみると恐しくて、このままでいけば、自殺するより仕方のない私に、希望のもてる生き方を教えて下さい」

「お手紙を読んで、私も泣きました。廿歳の娘さんであるあなたは、そんなお父さんの変質の犠牲になるわけにはゆきません。紙上解答が原則ですが、特にあなたには相談にのってあげますから、お手紙を下さい」

そんなような問答だった。だが、この投書は下積みになっていて、女史が見たのはつい最近のことで、あわてて解答を掲載したのだったが、すでに遅かった。彼女は、その新聞を持って、叔父のもとにやってきた。

『もう、遅かったわ』

彼女はそういって、その新聞を叔父にみせた。その時、手の中でオモチャにしているものがあるので、見るとネコイラズだった。あわてる叔父に、「大丈夫よ」と笑うので、「明日は工場を早退して、相談に乗ってやるから」といわれたので、彼女は帰っていった。

翌日の夕方、叔父が彼女の家にいってみると、昨夜服毒したらしく、苦しがってのたうち廻っている彼女の姿があったのだ。

『そんなことを書かれたら、父親は自殺してしまいます。酒をのむと人が変ってしまうのですが、シラフの時は気の小さい男なのですから、死ぬことは間違いありません。どうか、書かない

でやって下さい』

父親の弟というその男は懸命になって頼むのだったが、私は黙っていた。真杉女史も答えない。

最後の事件記者 p.168-169 今度生れてくる時は、もっと

最後の事件記者 p.168-169 調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。
最後の事件記者 p.168-169 調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。

『そんなことを書かれたら、父親は自殺してしまいます。酒をのむと人が変ってしまうのですが、シラフの時は気の小さい男なのですから、死ぬことは間違いありません。どうか、書かない

でやって下さい』

父親の弟というその男は懸命になって頼むのだったが、私は黙っていた。真杉女史も答えない。

日記をみると、如何にも文学少女らしい日記で、一日もかかさずにつけている。だが、その年の三月ごろから、父への呪いの言葉が書かれはじめている。

三月×日、父はお酒をのむと、いやらしい様なしぐさをする。それがほんとにいやだ。

四月×日、叔父は相談に来いという。なぜ行けないのだろう。叔父もやはり男性として考えているからかもしれない。私は父のある半面を非常に憎み、そしておそれている。私にとっては、あらゆる男性がおそろしい。けがらわしいもののように思えてしまう。

六月×日、父はお酒をのんでは、いやなことばかりしようとする。人の身体をさわりたがったり……

六月×日、父はなぜああなのだろう。お酒をのんではいやなことをしようとする。

八月×日、三日ほど前に書いておいた、身の上相談を今朝やっと出した。

九月×日、お母ちゃん、なぜ死んでしまったの、お母ちゃんが死んでから丸三年間、私はずい

ぶん苦労しました。父のこと、弟のこと、お金のこと、学校のこと、そして、近所のことでも、私は精一ぱいやったつもりです。兄ちゃんだって、姉ちゃんだって、みんな家をすてて逃げていってしまった。お母ちゃんは何もかもみているから、知っているでしょう。

私は新聞に投書しました。そして、やっと今夜答が出ていました。もう出ないと思っていたのに、死ぬ前の晩に出るなんて! これも何かのさだめかと思って、考えた末やっと叔父さんのところへ行きました。でもやはりだめでした。私の一度冷たくなった心は、容易にとけそうもない。結局私が意気地なしでだめな人間なのだ。今度生れてくる時は、もっと明るい、ほがらかな娘に生れますように。  おぼろ月夜や、今宵かぎりの虫の声。

拭いきれぬ悪夢

調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。この日がカギだった。私は大塚の監察医務院へとかけつけた。

自殺をはじめ、変死一切、つまりタタミの上で死ななければ、その死体は、ここで行政解剖、犯罪であれば司法解剖にふされる。私は彼女の死体の執刀医をさがした。

最後の事件記者 p.170-171 破瓜したのは一週間ほど前

最後の事件記者 p.170-171 『何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!』
最後の事件記者 p.170-171 『何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!』

調べてみると、この最後の日記の、ちょうど一週間前、それまでは空白の日が一日もないのに、二日も空白の日がある。この日がカギだった。私は大塚の監察医務院へとかけつけた。

自殺をはじめ、変死一切、つまりタタミの上で死ななければ、その死体は、ここで行政解剖、犯罪であれば司法解剖にふされる。私は彼女の死体の執刀医をさがした。

医師は、事情を聞いて、カルテをみながら言った。

『そうですね。破瓜したのは、ちょうど一週間ほど前でしょう。傷口から判断して…』

道具は全部そろった。娘は父親に殺されたのである。人生案内の解答者が、わざわざ相談にいらっしやい、とまでいっている。親切な解答をしているのに、娘はそれを読みながら、ネコを飲んでしまった。

それは、解答の出る数日前、その忌むべき事件が起ってしまったのだ。それは日記と解剖所見とから立証される。まして、日記からも、弟妹の口からも、近所の噂話からも、男友達のないのが明らかな彼女だった。

『ナ、なにしに来やがった。あの娘が一生懸命やってた時にやァ、ハナもひっかけねえで……。大切なあの子は、お前さんたち世間をうらみながら、死んでいったんだよォ。死にゃ死んだで、物見高く覗きこみやがって、まだ苦しめたりないのかよォ』

その日も、父親は朝からの酒びたりだ。訪れた私に向って、グチッぽく、酒臭い息で、こうワメキ散らすのである。黙って、父親の悪態を聞き流していた私は、しばらく間をおいてから、低い声で憎々しげに怒鳴りつけたのである。

『何いってるンだ、ケダモノ奴! あの子は、お前が殺したんじゃないか! 人でなし奴! 実の父親のクセに、実の娘を犯すなんて、お前が殺したも同然だ!』

この、一番残酷で、最も侮辱的な一ことに、父親の表情が変った。青くなってふるえ出した。しばらくしてから、やっと気を取り直して、ふるえを食いしばって、笑おうとしたのだが、それは笑いにならず、奇妙な叫び声になって、わずかに口から洩れただけだ。

私は社へ帰るや、原稿を書きまくりはじめた。ほとんど全くの真相を書いたのだが、彼女が、処女ではなくなっていたことと、日記が二日もぬけていたことはふれなかった。

最後に、父親の話を書いた。

「私がI子にいやらしいことをしたなんて……、とんでもない。フトンをかけたり、めくったりしたのは、寝冷えしやしないかという、本当の親子の愛情から出たことです。かんじんのフトンさえ少いので、一しょに寝たりするのが、内気で感受性の強い娘の心を刺激したのかもしれません」

ここまで書いてきて、私は少し考えてから、もう少しつけ足した。

「全くの誤解です。しかしいずれにしろ、これを機会にぷっつりと酒をやめ、娘の冥福を祈る

つもりです」

これが、私のはなむけの言葉だった。

最後の事件記者 p.172-173 ニュース・ソースとセンス

最後の事件記者 p.172-173 私は特ダネ記者だといわれた。二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの、署名入りが多い。
最後の事件記者 p.172-173 私は特ダネ記者だといわれた。二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの、署名入りが多い。

彼女が、処女ではなくなっていたことと、日記が二日もぬけていたことはふれなかった。

最後に、父親の話を書いた。

「私がI子にいやらしいことをしたなんて……、とんでもない。フトンをかけたり、めくったりしたのは、寝冷えしやしないかという、本当の親子の愛情から出たことです。かんじんのフトンさえ少いので、一しょに寝たりするのが、内気で感受性の強い娘の心を刺激したのかもしれません」

ここまで書いてきて、私は少し考えてから、もう少しつけ足した。

「全くの誤解です。しかしいずれにしろ、これを機会にぷっつりと酒をやめ、娘の冥福を祈る

つもりです」

これが、私のはなむけの言葉だった。何しろ、彼女の遺書には「私は清い心と身体のまま死んでゆきます」とあったからだ。

しかし、整理部のデスクが、うまい見出しをつけてくれた。〝拭いきれない悪夢〟と。私は今でも、あの父親の表情を想い起す。この長い人生で、あのような表情は、二度とみることはあるまい。

特ダネ記者と取材

特ダネと心理作戦

特ダネというものは、タネを割れば簡単なものである。広く深く、情報ともいうべきニュース・ソースの交際を持っていれば良い。それと、あとは記者自身の、情報を記事という具体的なものに進められる能力である。

私は特ダネ記者だといわれた。今、この十五年間のスクラップ・ブックをひろげてみると、実によく原稿を書いているし、一番働らき盛りであった、二十四年から二十九年の六年間などは、全くトップ記事の連続であり、M記者とか、三田記者とかの、署名入りが多い。

これも、「これはイケる」という、ニュース・センスと、そんな話を聞きこめるニュース・ソースとが、両々相俟っていれば、極めて簡単なことである。私は、役人に事件の書類をすべて見 せてもらった、という記憶がない。

最後の事件記者 p.174-175 人の名前と顔を記憶する能力

最後の事件記者 p.174-175 私はそこで一計を策した。兵隊の身上調査書を熟読したのだ。家庭の事情がどうで、性格はどうだ、ということを、三晩かかってほとんど覚えてしまったのである。
最後の事件記者 p.174-175 私はそこで一計を策した。兵隊の身上調査書を熟読したのだ。家庭の事情がどうで、性格はどうだ、ということを、三晩かかってほとんど覚えてしまったのである。

これも、「これはイケる」という、ニュース・センスと、そんな話を聞きこめるニュース・ソースとが、両々相俟っていれば、極めて簡単なことである。私は、役人に事件の書類をすべて見

せてもらった、という記憶がない。やはり、それほど役人は、秘密を守る義務に対して忠実である。

従って、役所の机の中をガサったり、書類を盗み出したりといった、非合法取材の経験はない。ただ、私は友人に多く恵まれて、いろんな噂話を聞ける立場にあった。特ダネのヒントは、すべて、このように民間人から得るのであった。

あとは、心理作戦である。第一、私は人の名前と顔を記憶する能力に恵まれていた。恵まれていたというよりは、努力して後天的に築きあげた才能である。

私が保定の予備士官学校を卒業して、晴れて見習士官となり、原隊に帰ってきた時のことである。つい一年ばかり前、初年兵として風呂で背中まで流してやった連中が、今度は部下である。

軍隊はメンコの数といわれる。六年兵までがいる北支の野戦部隊だから、二年兵の見習士官などが、大きな顔のできるハズがないのが当然である。私はそこで一計を策した。

中隊の事務室へ行って、兵隊の身上調査書を熟読したのだ。家庭の事情がどうで、性格はどうだ、ということを、三晩かかってほとんど覚えてしまったのである。もちろん、二百名余りの全員が覚え切れるものではない。各年次の代表的人物をまず覚えたのである。

その効果は適メンであった。学科をやっている時、名前を覚えている兵隊が、居ねむりするのを待つ。或は他所見でもよい。すると私は、注意を与えるのだが、その時に「オイ、〇〇上等兵、眠ってはいけない」と、名指しでやるのだ。

あるいは、手紙の検閲で、母親が病気だということを知った兵隊は、営庭でスレ違う時や、歩哨勤務についているのを、巡察で廻った時に、呼び止めて、「〇〇一等兵、お母さんの病気はその後どうだ」とやったのだ。或は「××兵長、今日は誕生日だナ」と。

この心理作戦の効果は絶大であった。「今度の見習の奴は、どうして俺のことを知ってるのだろう」といった話がでて、尊敬の念を集め得たのであった。それも、着任して数日のことである。私は、それこそ夜もねないで、写真と身上調査書とを見くらべては、覚えこんでいたのである。

この時以来、私は人の名前と顔を覚える力がついたようである。それに、演劇青年時代のオカゲで、芝居がうまいのである。演伎がうまいということは、その役柄の心理状態になりきることである。それには、平常からの人間心理への勉強が怠られない。

特ダネ記者ということは、心理作戦の遂行者ということだ。役人という人種は、理詰めの仕事

をしているので、警察での取調べに一番弱いといわれる。理クツもハチの頭もないような人種ほど、口が堅いという。義理人情の世界に生きる人たちである。

最後の事件記者 p.176-177 役人の秘密を守る義務

最後の事件記者 p.176-177 役人はつねに背反した心理にある。自分のやっている仕事が、ニュース・ヴァリューがあって、新聞記者に追い廻されている、ということに、やはり仕事の誇りを感ずる。
最後の事件記者 p.176-177 役人はつねに背反した心理にある。自分のやっている仕事が、ニュース・ヴァリューがあって、新聞記者に追い廻されている、ということに、やはり仕事の誇りを感ずる。

特ダネ記者ということは、心理作戦の遂行者ということだ。役人という人種は、理詰めの仕事

をしているので、警察での取調べに一番弱いといわれる。理クツもハチの頭もないような人種ほど、口が堅いという。義理人情の世界に生きる人たちである。

つまり、役人の秘密を守る義務に違反させられるのは、彼らのこの心理をつかまなければならない。筋道を立てて、理詰めで押してゆく正攻法もある。それと、この男は仁義に固いから、話しても大丈夫、裏切られない、という実績をもって、信頼を得ることも必要である。

また、同時に役人というのは、オーソリティ、つまり、権力や権威に対して弱い。

「すべて知っているのだゾ」というポーズも必要である。彼らは、このポーズに対して、「知っているなら、かくしたって無駄だから話そう」という、心理状態にまきこむ。

役人はつねに背反した心理にある。自分のやっている仕事が、ニュース・ヴァリューがあって、新聞記者が聞きにきた——新聞記者に追い廻されている、ということに、やはり仕事の誇りを感ずる。秘密というものは、発表されたがることによって、秘密としての値打ちがある。だから、常に、発表されたくてウズウズしており、それがデカデカと扱われることによって、彼の仕事への誇りは満足させられるのである。

その気持を食い止めているのが、その仕事が途中でもれたために失敗することであり、法的な

秘密を守る義務である。その辺のところを研究すれば、ヒントさえあれば、聞き出せる手は、いくらでもあるのである。

新聞記者と警察官

先日、警察官が新聞記者に対し、記者と承知のうえで暴行した事件があった。各新聞は筆を揃えて、ことに朝日などは、〝記者が暴行されたからといって、取上げるのではないが〟と、なくてもがなの断り書きまでを前文に入れて、いずれも特筆大書したのだった。

そうして、この事件は、警察官の教養の問題として取上げられ、警職法にもひっかけられて、〝暴行する警察官〟として、大いに批判を受けたのである。

だが、私は暴行する警視庁予備隊ばかりが、表面的な暴行の事実だけを取りあげられ、非難されていることに疑問を持った。どうして、彼らが記者と承知のうえで、暴行を働らいたか、ことに、警部という地位や、年令からいっても、その暴行を阻止すべき人物までが、先頭に立って乱暴したかという、その内面にまで立入って考える必要があるのではあるまいか。

警察官は、直接自分が手がけた事件を通して、一番、新聞および新聞記者を軽べつし、同時に、 一番、新聞および新聞記者を恐れている職種の人物だと思う。

最後の事件記者 p.178-179 映画物語のように脚色する

最後の事件記者 p.178-179 新聞は真実を伝えていない——このことを痛切に感じているのは、警察官とその事件の直接の関係者である。
最後の事件記者 p.178-179 新聞は真実を伝えていない——このことを痛切に感じているのは、警察官とその事件の直接の関係者である。

警察官は、直接自分が手がけた事件を通して、一番、新聞および新聞記者を軽べつし、同時に、

一番、新聞および新聞記者を恐れている職種の人物だと思う。つまり、どんな小さなこと、それは事件発生の時間や、場所の番地、関係者の姓名、年令などという、いうなれば、事件の本質とは関係のない、末梢的な問題での、記者と新聞とのウソを、一番良くしっているからだ。

新聞は真実を伝えていない——このことを痛切に感じているのは、警察官とその事件の直接の関係者である。「ブンヤさんが大事件に仕立てちゃうのだからナ」「あんなマズイ女も、ブンヤさんにかかると〝美人殺さる〟だからナ」「よせよせ、そんな大事件じゃないし、背後関係もないし、つまらない、ただの事件だよ」と、こんな言葉は、デカ部屋や署長、次席の口から、しばしばきかれる言葉だ。

ニュース・センスの違いもあろう。その事件の社会的判断の違いもあろう。だけど、新聞記者は、事件をある時には美化し、ある時には必要以上に罪悪視し、ナイロン風船のようにふくらませ、映画物語のように脚色するのである。それを知っているのが警察官だ。

同時に、彼らは、その新聞記事によって起きてくる、社会的反響の大きさも、自分自身で良く知っている。だから恐れるのだ。署長の運転手が事故を起したが、新聞に出たために処分されたり、新聞に賞められたために、総監賞をもらったりと、いずれの面でも、その力の強さを知って

いる。そのため、彼らは必要以上に卑くつになり、記者の御機嫌をとるようになる。

試みに一例をあげるならば、新聞や新聞記者を軽べつも恐れもしないのは、警察学校を出てきて、はじめて外勤勤務になったばかりの、若いお巡りさんである。

彼らの前には、新聞記者も一般都民も、すべて一視同仁である。だから、彼らは臆面もなく、社旗をひるがえして、サッソウとスピードを出す自動車を停める。「スピードが出すぎている」「一時停止をしなかった」「信号無視だ」と。

同乗している記者の抗議も聞かばこそ、彼らは平気で運転手に免許証の提示を求める。交通違反通告書を渡す。その通告書が、やがて数時間後には、交通主任や交通課長のもとで、クズカゴに放りこまれるのも知らずに、正々堂々と職務を執行するのである。

そうして、何年かの経験を積むうちに、彼らはやがて、新聞と新聞記者を軽べつしたり、憎んだりするか、恐れるようになるのである。彼の経験の中に、「新聞は真実を伝えない」という、不信感が刻みこまれた時に。

私は、そのような心理的経過が、あの暴行警官たちにあったのではあるまいか、と考えている。話がそれてしまったが、特ダネ取材というのは、純枠に心理作戦なのであって、それは不断

の努力が必要なのである。必ずしも、他人より早く出勤したり、役所の中を熱心に歩き廻ることではない。

最後の事件記者 p.180-181 御用聞きをもっとも軽べつする

最後の事件記者 p.180-181 これでなければ、特ダネは絶対に書けないのである。憐れまれて、頂けるのは、雑魚しかない。どうして、呑舟の大魚はその辺にころがっているだろうか。
最後の事件記者 p.180-181 これでなければ、特ダネは絶対に書けないのである。憐れまれて、頂けるのは、雑魚しかない。どうして、呑舟の大魚はその辺にころがっているだろうか。

話がそれてしまったが、特ダネ取材というのは、純枠に心理作戦なのであって、それは不断

の努力が必要なのである。必ずしも、他人より早く出勤したり、役所の中を熱心に歩き廻ることではない。

御用聞き記者

もちろん偶然が幸いした特ダネというのも多い。帝銀事件での、毎日のあのスクープ写真は、たまたま現場付近の自宅に、非番で在宅していた電話交換手の第一報が、警察の現場出張より早かったからであった。

私は三年間の警視庁記者クラブ在勤中、一週間に一度ある泊りに、いわゆる庁内廻りを一度もしなかった。夜から翌朝にかけて、翌日の日勤記者たちが出勤してくるまでの全責任は、この泊りの記者一名に負わされる。それなのに、私は御用聞き然と、庁内を「何かありませんか」と、廻ることに屈辱を感ずるので、要領良くこの庁内廻りを一度もしなかった。

私の取材理念は、「何か事件はございませんでしょうか」「何か教えて頂けませんでしょうか」「何か書かせて下さいよ」といったような、御用聞を、もっとも軽べつするのである。これほどおろかな取材方法があるだろうか。私は「今これをやってるだろう」「あれはどうなったんだ」「手伝うから、こういうのをやったらどうだ」「あのことでは、これだけ教えてやるから、ギヴ・アンド・テイクでいこう」といった調子である。

これでなければ、特ダネは絶対に書けないのである。憐れまれて、頂けるのは、雑魚しかない。どうして、呑舟の大魚はその辺にころがっているだろうか。

心理作戦は不断の努力だといった。私は警視庁へ通うのに、新宿の西口から都バスに乗って桜田門で降りる。西口から、バスに乗りこむと同時に、車内を見廻す。次の停留所二幸前で降りる人物を探し出すのだ。男女別、服装、手荷物、表情、態度、すべてのデータから、二幸前で降りそうな人をえらんで、その前に立つ。的中して降りれば、そのあとに坐る。二幸前がなければ、次の伊勢丹前だ。その次は四ツ谷駅前。

この三カ所で降りる人物を探し出さねば、桜田門まで立っていなければならない。そのためには、そこで降車する必然性を、外見的特徴から探り出し、判断するのである。その時、クツをみて警察官をえらび出し、その男が桜田門でおりるかどうかを、心の中でカケる。私服警官の前に立っていたならば、最後まで坐ることはできない。刑事のクツはすぐ判る。

次は車掌の観察である。警視庁の記者クラブ員には、都の交通局から都電用の優待パスが支給

される特典がある。パスには赤い二本線が入っている。都バス用は三本線で、二本線では都バスに乗れない。

最後の事件記者 p.182-183 いわゆる記者のカンを養う

最後の事件記者 p.182-183 私は細かに車掌を観察する。彼女が在職何年位か、何才位か、親切か、神経質か、明るいか、今朝は機嫌がいいか悪いか、男好きか、などと。
最後の事件記者 p.182-183 私は細かに車掌を観察する。彼女が在職何年位か、何才位か、親切か、神経質か、明るいか、今朝は機嫌がいいか悪いか、男好きか、などと。

次は車掌の観察である。警視庁の記者クラブ員には、都の交通局から都電用の優待パスが支給

される特典がある。パスには赤い二本線が入っている。都バス用は三本線で、二本線では都バスに乗れない。

だが私はこの二本線のパスで、都バスを利用するのである。そのためには、車掌の人柄如何が問題なのである。「これは都電用でバスには乗れません」と断るのもいれば、「どうぞ」と認めるのもいる。

私が準備している言葉は三種類だ。「お願いします」「これでもいいんでしょ」「御苦労さん」。私は細かに車掌を観察する。髪型、化粧、服装、他の乗客への態度、金の扱い方、切符の切り方、停留所名の呼称、その声音と声質。

そして、彼女が在職何年位か、何才位か、親切か、神経質か、明るいか、今朝は機嫌がいいか悪いか、男好きか、などと。そして、二本線のパスを示して、前の三種類の言葉のうちのどれかを使用するのだ。「どうぞ」という場合もあれば、「ダメなんですけど、この次からは切符を買って下さい」というのもあり、「ダメです」もあった。ダメの時に備えて、二十五円はポケットにすぐ出せる準備をして、恥をかかないようにしている。

このような訓練が、いわゆる記者のカンを養うのに、どのようにプラスしたかは、もちろんい

うまでもない、と信じている。当時、熱心に庁内を廻っていて、二度も大きな事件を落して、左遷された記者もいた。彼などは真面目で熱心だったが、いわば運が悪かったのであろう。その点では、私は運が良かったのかも知れない。

かつがれた婦人記者

私がサツ廻りのころである。上野署の少年係で、主任と名札のある机に坐ってボンヤリと考えこんでいると、ノックの音がして一人の婦人が、少しオズオズと入ってきた。私を認めると、一礼して近づいてきた。

隣りの防犯係の部屋とは、あけ放したドア一枚で通じていて、そちらでは数人の刑事が坐っていたが、少年係には誰もいなかった。私の前にきたその女性は、二十七、八才。彼女は、一枚の名刺を出して、「あのゥ、何か面白いことはございませんでしょうか」という。名刺をみると、某婦人新聞記者とある。『エ?』と、反問しながら、彼女の話し方を聞いて、「ア、この女はオレをデカと間違えているナ」と感じた。私はその時、この婦人記者を、一つダマせるところまでダマしてみよう、というイタズラ心が起った。芝居はお手のものである。

最後の事件記者 p.184-185 ぜひ連れてって下さい

最後の事件記者 p.184-185 『あのね。(もっと声をひそめて)ある有名なデパートの女店員ばかりで組織した、売春グループを挙げるんです。それで、部長刑事のくるのを待っているんですよ』
最後の事件記者 p.184-185 『あのね。(もっと声をひそめて)ある有名なデパートの女店員ばかりで組織した、売春グループを挙げるんです。それで、部長刑事のくるのを待っているんですよ』

私はその時、この婦人記者を、一つダマせるところまでダマしてみよう、というイタズラ心が起った。芝居はお手のものである。

『ダメですよ。近ごろは、面白いことなんぜありませんネ』

『でも、上野は少年関係では、地下道もあるし、何かあるンでしょう』

『イヤーね』

私は何だ彼だと雑談しながら、婦人新聞のことや、婦人記者のことを質問していた。こちらが取材していたのである。やがて、五時すぎたころ、隣室の婦警さんが、帰り仕度をして、私に「お先します」と挨拶をして通っていった。私は一言も、私は警察官で少年主任だなどとはいわない。ただ、読売の記者であることもいわなかった。私は心理作戦をたのしんでいたのであった。

やがて、フト腕時計をみて、「部長の奴、おそいナ」と呟いてから、声をひそめて、彼女に話しかけた。

『実はネ、あることはあるんですが……。あんたも、折角きたのだから、連れてってあげるかな?』

『エエ、ぜひお願いします。一体、何なんですか』

彼女はのり出してきた。

懸命な表情だ。

『あのね。(もっと声をひそめて)ある有名なデパートの女店員ばかりで組織した、売春グループを挙げるんです。それで、部長刑事のくるのを待っているんですよ』

『まあ、やっぱり本当なんですね、ぜひ、ぜひ連れてって下さい。恩に被ます』

『…ウーン…。仕方がない。じゃ、(時計をみて)六時半に、もう一度ここにきて下さい。時間を正確にネ、でないと、置いてきぼりですよ』

『すみません。決して邪魔はしませんから、あの、写真は撮ってもいいですか』

『マ、いいでしょう』

『じゃ、私、すぐ社に連絡してきます』

彼女は、この意外な大特ダネに、よろこび勇んで部屋を飛び出した。社へ連絡して、カメラマンを呼んでから、これがウソだと判ったら、それこそ自殺されるか、硫酸をかけられるかである。女はコワイものだから。私はもう階段の下までいってしまった彼女を、大声で呼び止めた。

『まだ、名前を申しあげてませんでしたが、私はこういう者です』

彼女は好意にみちたまなざしで、私の名刺に手を出した。が、次の瞬間、彼女はガバと机にう つぶしてしまった。