米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した
のであろう。その頃には、米国側では〝処置〟として鹿地氏を殺すべく計画していたかも知れない。そして鹿地氏は、その米国側の企図を察知したのか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。
折よく肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれるマーフィ大使が着任、さらに利用価値があるかも知れないというので、たらい回しのまま時が経ってしまった。
またソ連側では、鹿地氏が消息を絶ったので、調べてみると(三橋のソ側への報告から?)米側に逮捕されたと分った。そこで、日本の世論を沸せて、鹿地氏を釈放させ、さらにこれを反米感情をたかめるのに利用したのではあるまいか。
それを証拠だてる有力な資料が前掲した怪文書である。この英文怪文書の正体は、いまだにつかめないのであるが、戦後、帝銀、三鷹、松川の怪事件にも登場しており、つねにその事件が米国の謀略であるという内容をもっている。
これらの文書が米側から流されたという判断は、その内容や起きることが予想される反響とから考えられないことである。すると左翼系から出たことになる。なぜか「アカハタ」にはこの好個のニュースが一言半句も掲載されなかったが。鹿地氏逮捕を知ったソ連側が、鹿地氏に
行われた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して怪文書なるものを作成させ、バラまかせたことは容易に推測できる。
これは『敵の手で敵を斃す』という、諜報謀略の原則からも肯ける推測であろう。しかし、日本の治安当局は、これら四通の怪文書を入手して、その英文、用紙、タイプの癖などからその正体を突きとめることは出来なかった。
三 せせり出てきた敵役
鹿地事件における日本世論の硬化に驚いた米側では、ついに鹿地氏を釈放せざるを得ない破目に追いつめられた。
自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当って鹿地氏から、『私はソ連のスパイだった。この事件で米国に対しては賠償要求などしない』と、一札をとってもいたけれど、すでに鹿地氏を反米斗争の英雄として、祭り上げるお膳立ができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。
すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。
何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力
で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。