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編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと

編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)
編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)

■□■小沢自由党の“馬脚事件”のこと■□■第4回■□■ 平成11年(1999)4月3日

東(あずま)祥三。47歳。比例代表東京ブロック当選の自由党衆議院議員。当選3回。創価大学院卒で国連職員だった人物。顔貌(がんぼう)もマトモだし、その年齢からも、将来を嘱望できる議員だと思っていた…。その彼が、先ごろ記者会見をして、「東京15区の柿沢辞職の後の補選出馬はやめた」といった。ところがその記者会見には、中西啓介議員が同席しているではないか。なぜなのだ?

東議員は公明党から出馬して、中選挙区制度最後の前回(平5.7.18)は東京6区で柿沢、不破につぎ第3位で、2回目の当選。小選挙区になれば、柿沢絶対優位なので、不破と同じく比例に回ったのだろう。同席していた中西議員は、自民党時代からスキャンダルまみれの古いタイプの議員。前回中選挙区では、和歌山1区で9万余票のトップ。小選挙区でも同区で6万6千のトップ当選である。しかし、前回当選後、電通社員だった息子の麻薬事件で辞職(平7.5.12)して、1年半後返り咲いた。私の個人的見解では、小沢一郎を評価できないのは、このような側近を登用しているからである。

4月1日の日テレ「ザ・ワイド」は、浅香光代が野村沙知代への“果たし状”宣言をとりあげていた。その時、加藤タキがいった。「あの人が立候補したこと。政治をなんと考えているのか、許せません」と。まさに名言である。東議員の辞職は、野村の繰り上げ当選を意味する。幸いにもそれは消えたが、東議員にはその認識があっての、15区転出だったのだろうか? 繰り上げでも、野村は経歴詐称などで辞職に追い込まれよう。ただ、仮に一時期でも野村が衆議院議員になったら、もう世紀末と笑ってはいられない。議員の私利私欲がムキ出しになり、公明党も、自由党も、ともに信用できないことを示した“事件”であった。 平成11年(1999)4月3日

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線”

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)
編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)

■□■野村夫人と清張を結ぶ“点と線”■□■第9回■□■ 平成11年(1999)4月28日

“役者バカ”という言葉がある。修行一筋の生活から一流の俳優(主として歌舞伎)になるのだが、役者以外のことは無知で客観性に欠けることをいう。と同時に、この言葉から、学者バカ、記者バカ(例のNステの朝日記者の如く)、医者バカ(最近、歯医者が女を殺す事件が二つも起きた)、スポーツバカ(アメリカのオカマと結婚したマラソン選手)などと、各界、各層に広がり、政治バカや野球バカなども現れてきた。

サッチーとか称する牛鬼蛇神(産経紙の「毛沢東秘録」に出てくる妖怪変化)の行状を見ていると、野村阪神監督も“野球バカ”だったのだナ、と思う。離婚前にこの牛鬼蛇神にカラダを張られて妊娠させ、とうとう結婚させられてしまうからだ。これでは野球殿堂入りも危ないだろう。

彼女が社会的責任について一切話さず、油に水を注ぐとか、グッドファーザーだとか、教育の無さを丸出しにしてノシ歩いているのを見ると、つくづく“氏より育ち”の感を深くする。山口敏夫元代議士が、どうしてあのように金に卑しくなり、ついに身を滅ぼしてしまったか。父親の山口六郎次代議士が、ホントの井戸塀(井戸と塀しか財産がなかった)議員で、その死後、一家は生計が立たず山口元議員は若い時から貧乏にあえぎ、明大の学資も姉たちが働いて支払ったほどだ。野村夫人が、どんなに金に汚く、反社会的行状にテンとして恥じないのも、占領下の新橋第一ホテルのウエイトレスからスタートした人生が現在を支配しているからだ。

同じように、反社会的行動と金の汚さをテンとして恥じずに、一切無視し通した男に、松本清張がいる。

松本清張が私の処女出版の「赤い広場—霞ヶ関」から盗作していることを知って、私は手紙を出して善処を求めた。当時の私は読売を退社し、講談社の仕事で生活していたのだが、清張に連載を依頼しに行った編集局長に、「三田を黙らせたら引き受ける」といった。局長からの話に、私は激怒して仕事を蹴って、著作権法違反で告発した。その記事が各紙に報じられるや、「オレも盗作された」という人物が数人も現れてきた。私の場合は「深層海流」に盗作され、名乗り出たのは「昭和史発掘」で盗作された数人で、清張の盗作が報じられたのと、今の野村夫人のトラブルが報じられたのとまったく同じだ。

そのころ、清張は週刊朝日にいた森本哲郎に電話で相談した。彼は「三田の土俵に上がるな、全く無視しろ」と答えた。この問答を聞いていた朝日記者の話だ。東京地検次席河井信太郎は、清張の「検察官僚論」のネタ元である。私の告発は時効不起訴の処分だった。そして、文春がのちに刊行した清張全集では私からの盗作部分はすべて削除され、その担当者だった女性は、清張記念館館長である。もはや、一流新聞社にも一流出版社にも、道義も社会正義のカケラもない時代なのである。 平成11年(1999)4月28日

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か…

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)
編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)

■□■社会的責任とは何か…■□■第10回■□■ 平成11年(1999)5月6日

連休明けのニュースは、小渕首相の訪米が本人の自画自賛にもかかわらず、あまり相手にされず重要視されなかった、という各紙の現地記事である。その次は、菅民主党代表が江沢民国家主席と会談できた。小沢自由党党首が会えなかったというのに…。私の感想では、日本の政治家はどうして日本国内での政策で勝負せず、外国の権威でハク付けしようとするのか、悲しい現実である。

小渕や菅が、相手に迎合したとか、国辱的行動であったとか、批判するのは日本国民として当然のことであって、「事実」(と認められる有力新聞の報道も含めて)を、どう認識するかは、各人の自由である。そして、これは「中傷」とはいわない。それは、2人とも公人であるからだ。

先週号の『編集長ひとり語り』に、「個人に対する中傷で不愉快だ」という反応があった。私の文中で取り上げた個人名は、野村夫妻、山口元議員、松本清張の4人で、誰に対する中傷なのかは、投書は言及していないが、やはり反論しておかねばならない。

私は新聞記者である。ミニコミ紙と言われながらも、30余年『正論新聞』を発行しつづけ、紙上で主張を展開している。誰でもが、いつでも読むことができる、公(おおやけ)の文章である。つまり、社会に公開されているということは、印刷紙面であれ、このインターネット上であれ、筆者の私には、当然「社会的責任」が負わされているのである。その意味では、準・公人である。

「中傷」とは、無実のことをいい、他人の名誉を傷つけることをいう。私が個人名を明記した前記の4氏について、投書者本人にとっては、「信じられない」ことが書かれていたので、中傷という言葉を使ってしまったのであろう。だが、私が書いたことは、残念ながら「事実」なのである。その「事実」の証拠を私はきちんと保存している。

そして、この4氏は、私と同様に社会に対し発言し、行動しているのだから、準・公人なのである。社会的批判に堪えられるだけの言動が求められ、かつ、その批判に対して社会的責任を明らかにする義務がある。その義務を怠るならば、バカだ、チョンだといわれても、やむを得ないだろう。

松本清張について付言しておこう。私が彼に対してとった、著作権法違反の告発は、東京地検で不起訴処分となった。検察は、犯罪(容疑)に対して、国の代理人として起訴(裁判を請求)か不起訴を決める。不起訴には、嫌疑なしか、政策的判断(微罪、容疑者更生など)などがある。しかし、私の告発は「時効不起訴」だったのである。解説すれば、盗作の事実はあるが、時効だ、ということである。だから、彼は文化勲章も受けられなかったのである。この一事で全て、彼の人となりが理解できよう。 平成11年(1999)5月6日

編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する

編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する 平成11年(1999)7月10日 画像は三田和夫75歳ごろ(右側 1996ごろ)
編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する 平成11年(1999)7月10日 画像は三田和夫75歳ごろ(右側 1996ごろ)

■□■野村沙知代を告発する■□■第19回■□■ 平成11年(1999)7月10日

野村沙知代をめぐる、いわゆる“サッチー騒動”、テレビのワイドショーを中心に、もう3カ月以上も、ああでもない、こうでもないと、つづいているが、週刊誌から日刊紙へと、テレビへの批判を含めて、舞台がひろがりつつある。

だが、マスコミの、ことに日刊紙の在り方は、ジャーナリズムの本質的な在り方を忘れている。私が、第4回の本稿「小沢自由党の“馬脚事件”のこと」で、さる4月上旬に指摘したように、野村は新進党比例区(東京ブロック)第6位に位置し、第5位までが衆院議員に当選しているので、繰り上げ当選の可能性をもっているということが、重大な問題なのである。

3月当時には、都知事選のあおりで、東祥三・自由党衆院議員が、東京15区の柿沢辞職のあとに、小選挙区で立候補するということで、野村繰り上げが、にわかに脚光を浴びたのであった。もしも、東議員が、自分のことだけを考えて、小選挙区へまわるようなら、野村どころか、東糾弾をやらねば、と考えていた。野村には、「虚偽事実の公表」罪があるから、“野村どころか”と表現したのだ。

この問題は、突きつめれば、小沢一郎の政治責任にまで及ぶのである。“怪しげな女”(怪傑熟女の意訳)を、ウルトラCと称して自宅まで訪ねて、出馬を要請したからだ。

さて、9日の日テレ・ザワイドで、塩月弥栄子さんの取材に対する文書回答を見た。塩月さんは、「テレビはもっと有意義な番組を作るように…」と結んでいた。もうそろそろこの騒ぎも、終局を迎えたようである。

私は幕引きを考えた。この10月20日まで、繰り上げのチャンスはある。上位5人の議員がひとりでも、不慮の事故で死ぬことがあれば野村は議員になる。まったく、自動的にである。私は、公選法第235条(虚偽事実の公表罪)で、選挙公報記載の「1972年野村克也氏と結婚」とある部分が、それに当たると、刑事告発の準備を進めてきた。弁護士を選任し、その協力で、野村克也、野村沙知代、伊東芳枝の原戸籍を入手し、これを証拠とする。

伊東芳枝は、昭和32年(1957年)4月5日、米国籍人と結婚、昭和51年(1976年)5月17日に離婚した。野村克也もまた妻がおり、両名が結婚したのは、昭和53年(1978年)4月である。つまり、1972年当時は、克也、沙知代ともに結婚しており、「野村克也氏と結婚」という公報記載は、虚偽なのである。

私が告発を決めたのは、自動的に繰り上げ当選になるということは、一度は衆院議員になり、それから辞職する形を取らざるを得ないこと。これは、日本の議会史に大きな汚点を残すことになるからである。

告発によって、検察庁が起訴すれば、野村沙知代は刑事被告人になる。すると、公共の電波であるテレビは、刑事被告人に番組出演を認めることはできない。講演会もまた然りである。つまり“サッチー騒動”は終わりを迎えるのである。

悪い冗談だが、テレビを初めとしてマスコミにこの騒ぎをエンエンと続けさせ、国民の耳目をそちらに引きつけている間に、新ガイドラインの戦争法、この戦争法に反対する反戦派をしょっぴくための盗聴法を通過させた、とさえいわれている。

塩月さんの「取材終了宣言」にある通り、テレビが愚民化に拍車を入れるのはオカシイと思う。なにもかにもが、世紀末的でオカシイことだらけの日本を、少しはマトモにしたいものだ。 平成11年(1999)7月10日

編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す!

編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す! 平成11年(1999)7月17日 画像は三田和夫51歳(中央二人の右側 1972)
編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す! 平成11年(1999)7月17日 画像は三田和夫51歳(中央二人の右側 1972)

■□■野村沙知代に引導を渡す!■□■第20回■□■ 平成11年(1999)7月17日

私は、7月16日午後、塩谷安男弁護士をわずらわして、東京地検に、野村沙知代を公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で告発した。その告発状を紹介しよう。

「一、告発事実 被告発人は、平成8年10月20日施行の衆議院議員選挙において、東京都第5区から立候補したものであるが、自己の当選を得る目的をもって、右選挙の告示後である同年10月初旬ごろ、同選挙に際して東京都選挙管理委員会が、衆議院(小選挙区選出)議員選挙公報(東京都第5区)を作成するにあたり、情を知らない同委員会事務局担当者らをして、真実は、昭和51年5月17日に、米国人アルビイン・ジョージ・エングルと離婚し、同53年4月19日に野村克也と婚姻しているのにかかわらず、『1972年野村克也氏(現ヤクルト監督)と結婚』との虚偽の経歴を、右公報に掲載させて、東京都第5区である東京都目黒区及び世田谷区において頒布させ、もって自己の経歴に関し、虚偽の事実を公にしたものである」

このあと、「二、告発理由等」「三、証拠」「四、添付書類」とつづく。これらの文章は、法曹人特有の、寸分のスキもない、理詰めの文章なので、馴れない人には読みにくいし、ピンとこないかも知れない。一言でいうならば、「72年野村と結婚」とあるが、その時には米国人と結婚していて、ウソだ、ということである。このウソは、不倫と不倫の子の出産をゴマ化して、「当選を得る目的」だったのではないか、ということである。

第三項の「証拠」の項は、「第一号証 衆議院議員選挙公報(東京都第5区)」「第二号証 戸籍謄本」「第三号証 除籍謄本(荒川区長発行)」「第四号証 除籍謄本(目黒区長発行)」「第五号証 除籍謄本(京都市西京区長発行)」と、伊東芳枝の出生から、野村沙知代に“変身”するまでのすべてが明らかにされている。日本は法治国家なのだ。

それにしても、今どきのレポーターだとか取材記者だとかは、調査取材の能力が欠落しているとしか、私には思えない。ナゼ、学歴詐称にばかりこだわるのか。結婚のウソは、早くから、コメントなどでは取り上げているが、公選法違反をいうならば、学歴は公報に出ていないのだから、それをいうのは、私をしていわしめれば、テレビのスタッフも、芸能人なみの頭の程度、いうなればテイノー人のたぐいだと思う。

住民票(本籍地が記載されている)をとり戸籍謄本をとるのは、弁護士にしか許されていないから、弁護士に任せざるを得ない。そんなことは判り切っていること。タレントが持ち出してきた、ビラの名刺は法定外の印刷物だから、コロンビア大学が記載されていようがいまいが、関係はない。外国人記者クラブ会見の発言も、法定外である。それで「公選法違反」とは、ナニを考えているのか。浅香女史の行動にだって、テレビ局の関係者がアドバイスぐらいしたらどうか。

ナゼ、結婚問題に、誰も触れようとしないのか。だから、ワイドショー関係者は、ただただ、視聴率稼ぎだ、といわれるのだ。もうこれで“騒動”はおわりである。地検が、不受理などというワケはないからだ。 平成11年(1999)7月17日

編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問

編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問 平成11年(1999)7月24日 画像は三田和夫69歳(右端 池五の会1990.06.15)※池五=池袋第五小=西巣鴨第五尋常小学校
編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問 平成11年(1999)7月24日 画像は三田和夫69歳(右端 池五の会1990.06.15)※池五=池袋第五小=西巣鴨第五尋常小学校

■□■マスコミへの4つの疑問■□■第21回■□■ 平成11年(1999)7月24日

これで連続3回目の「野村沙知代問題」だが、いまのマスコミには、私に理解できない部分があるようだ。前回書いたように、私はさる7月16日(金)に、塩谷(しおのや)安男弁護士を代理人として、東京地検に公選法違反の告発を行った。選挙公報に記載されている、「1972年野村克也氏(現ヤクルト監督)と結婚」とある部分が、虚偽事実の公表罪にあたる、というものである。

私に理解できないマスコミ、というのは、第一に、公報に記載されていない学歴詐称問題ばかりに熱中していること。名古屋の新間正次とかいうタレントの場合は、公報にその詐称学歴を掲載している。同じ学歴詐称でもまったくケースが違うのである。

第二に、結婚の年が違うという話題は、関係者のコメントなどで、何回も触れられているのに、どこの局も、誰もが、その事実を確認しようとしていなかったし、確認もしなかった、ということである。すべて、コメントの垂れ流しだけだった、ということ。調べさえすれば、すぐ判明(確認)することを、やろうとしないことである。

第三に、塩谷弁護士が告発状を提出したあと、19日の月曜日に、私は司法記者クラブの幹事社である、テレビ東京のファックスにあてて、告発したことと、告発状のコピーを送信し、「加盟各社によろしくご伝達ください」と書いたのだが、どこの社からも、弁護士の許にも私にも、問い合わせがなかったことである。記者クラブには、新聞社と電波各社が加入しているのに、である。

ところが、22日の木曜日になって、この問題を取り上げたフライデー誌の記事を、各社が見て、午後からにわかに、私や弁護士のところに、取材の申しこみがきたのだ。フライデー誌は、塩谷弁護士の関係者からの情報で、17日頃から動いていたようだ。つまり、司法記者クラブに入った情報(私のファックス)は、まったく黙殺されて、フライデーの記事で、動き出したということだ。

私は、私への取材は一切固辞している。つまり、テイノー人たちの弥次馬と同一視されるのを避けるためで、その点も、塩谷弁護士と事前に話し合い、すべてを弁護士に委任したのである。野村が起訴されれば、刑事被告人である。テレビ番組は彼女を起用するのをやめるだろうし、講演依頼も終わるだろう。そうなってからなら、私は、告発の真意を語ることも意味がある。地検の出方が明らかになるまでは慎重でなければならない。

彼女が次点の地位にある限り、当選した5人の公明党系の議員のだれかが、交通事故などで死亡でもしたら、彼女は当選し、多分、解散総選挙の時まで、衆議院議員でありつづけるだろう。9兆円という巨額の税金が、銀行救済のために投入された。その上、野村沙知代のような人物に、議員歳費が何千万円も注ぎこまれることは、堪えられないことであり、かつ、日本憲政史に、衆議院議員として彼女の名前が残ることは(新間の名は削除)、日本国民に対する最大の侮辱である。

もしも、私の告発で彼女が起訴になれば、これはひきつづき、選挙公報にウソを書いたことを黙認した(黙殺しつづけた)、夫の野村克也監督の社会人としての責任、小沢一郎党首の政治責任へと発展してゆくだろう。

マスコミへの第四の疑問は、この結婚のウソを暴くことが、阪神の野村監督への波及を恐れているのではないか、ということだ。 平成11年(1999)7月24日

編集長ひとり語り第23回 自自公連立のウソだらけ!

編集長ひとり語り第23回 自自公連立のウソだらけ! 平成11年(1999)8月7日 画像は三田和夫63歳(右端 紫友ペンクラブ創立総会1984.09.13)紫友ペンクラブ:五中出身の著述家団体か?
編集長ひとり語り第23回 自自公連立のウソだらけ! 平成11年(1999)8月7日 画像は三田和夫63歳(右端 紫友ペンクラブ創立総会1984.09.13)紫友ペンクラブ:五中出身の著述家団体か?

■□■自自公連立のウソだらけ!■□■第23回■□■ 平成11年(1999)8月7日

なみはや銀行がまたツブれた。去年だかに再統合したのに、不良債権額でウソをついていたようだ。長銀、日債銀の旧経営者たちが功労金(退職金)を返還しろ、といわれ、返すといいながら返さない。これもウソだ。柳沢金融再生委員長に、「功労があったればこその功労金だ。功労があったのか」といわれながら、私利私欲ばかりで、仕事はウソだらけ、個人的にもウソだらけだから、やりきれない思いで、いっぱいである。

どうして、こうもウソだらけの世紀末になったのか、考えてみたら、やはり、政治家のウソだらけが、国民すべてに“ウソはつかねばソンする”という風潮を、おしひろげていったのである。野村沙知代のケースが良い例である。

自自公連立が、いま注目されている。小渕がウソをつくか、小沢一郎がウソをつくか、はたまた、神崎・浜四津がそうなるか。いずれにせよ、来週には明らかになるだろう。これは、21世紀に持ち越す重大なことだから、国民は注目しつづけておらねばならない。

いまの、衆議院選挙は、小選挙区300人、比例代表200人の、500人定員制である。そのうち比例代表を50人減らして150人にする、という政策で合意して、自民・自由の連立政権がスタートした。小沢が、その約束の履行を小渕に迫っている。それを済ませてから、公明を加えて自自公連立にしろ、というのだ。

公明というのは、ご承知の通り、創価学会・池田大作の“私兵”である。かつて、国立戒壇を作るという狙いで、公明政治連盟が発足した。その後、政教分離とかナントカ、世論の批判を浴びて右往左往して、衆院議員が小沢・新進党に加入し、参院議員と地方議員とが公明として残るとか、理解しにくい離合集散のあげく、現在は、自由党への落ちこぼれを出しながらも、公明党にもどった。

衆院事務局にたずねたら「公明党・改革クラブで、小選挙区20名、比例区32名です」という。国会便覧によれば、小沢辰夫・改革クラブの衆院議員は9名。前記の53名から引くと44名になるが、便覧では公明党42名(2月1日現在)とある。

公明党は、小選挙区で当選できるのは、東京、大阪で各1名ぐらい。あとは、小選挙区の投票総数で比例区議員が当選する。調べてみると、北海道ブロック(2名中)1、東北(6名中)1、北関東(6名中)3、南関東(7名中)4、東京(5名中)3、北陸(4名中)1、東海(8名中)5、近畿(10名中)7、中国(3名中)2、四国(2名中)1、九州(7名中)2、計30名となる。このうち、近畿ブロックの旭道山が無所属に移っている。つまり、公明党の衆院議員の75%は、比例区議員だから定数50減は、公明党がツブれるか小数党に転落することを意味している。

だいたいからして、創価学会の指導者が、レイプで民事裁判を起こされるとは、何事かといいたい。池田の著書の1ページ広告が毎月1回、日刊六大紙に掲載される。数千万円の料金だろう。だから、レイプ裁判が時効で終わったことなど、ほとんど報じられない。これも、新聞の不作為的ウソである。

定数50減をめぐる、自自公連立の行方は、審議入りもせずに公明連立を認めたら、小沢一郎は大ウソつき野郎だ。さて、小渕は自由党を切って、自公連立となったら、これまた超・大ウソつき野郎だ。公明党は、「うちがツブれるから、50減反対だ」といわないのは新聞の不作為的ウソと同じだ。連立なんてことより、池田大作を追放してから、日本の政治に関わってもらいたい。宗教団体の指導者として、適格者だと思っているなら、もう、神埼・浜四津は、人間的大ウソつきだ。 平成11年(1999)8月7日

編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は?

編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)
編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)

■□■野村夫妻の次の舞台は?■□■第29回■□■ 平成11年(1999)10月2日

野村沙知代が不起訴になった。10月1日金曜日に、東京地検が同人に対する計7件の告発に対して、不起訴処分を決定した——新聞報道によれば、浅香光代の「留学という虚偽事実の公表」に対して、嫌疑不充分という理由だったという。他の6件の告発に対しても、同じ理由であろう。

私の代理人である塩谷(しおのや)弁護士から電話があったのは、1日の午後。「地検から連絡があって、午後5時に特捜部に行くことにした。同行できるか?」という。私にはすでにアポがあったので、「来週ではどうか」ときいたが、塩谷弁護士は「地検に来いという電話から判断すると、不起訴処分が決まった、ということでしょう。では、私ひとりで行ってきましょう」となった。その後の電話で、塩谷弁護士は、その不起訴処分の理由について、「72年に結婚したという、本人の認識が、公報の記載となった。その“認識”を崩せなかった」と、検事が見ているようだったと。

72年当時、野村夫妻はそれぞれ、戸籍上に妻と夫とがおり、いうなれば「不倫関係」であった。民法七五二条は、夫婦の「同居・扶助の義務」を明示し、かつ、七七〇条では、離婚提起の第一要件に「配偶者の不貞行為」をあげ、貞操を求めているのが「協力と扶助」である。つまり、夫婦には「住居と性生活の共同」を義務としており、野村克也、沙知代両人は“事実婚”の状態にあったということであろう。

これを換言すれば、浅香告発の「留学」、三田告発の「結婚」は、戦後数十年を経てその本来の語義が変わってきて、検察の「嫌疑不充分」に至ったのであろう。当初、私が危機感を抱いたのは、以前本稿でも指摘したように、自由党の東議員が、比例議員をやめて、東京15区の小選挙区議員に転進しようとした時からである。東議員が比例議員を退職すれば、第6位で繰り上げ当選待ちの野村が、議員になるからである。幸い東議員は3月末に転進を諦めたので、それは沙汰止みになったが、当選した5人の議員の誰かに事故があれば、繰り上げ当選である。これは放っておけないという危機感である。

それ以来、公報の「72年結婚」で告発し、処分決定までは被疑者、起訴になれば刑事被告人という「事実」を作らねば、繰り上げ当選の可能性が残存する、と考えていた。そもそも「留学」は、法定外文書である名刺や、記者会見でのコメントである。私は、立証困難で不起訴の可能性が高いとみていた。しかし、「72年結婚」は公報記載であり、戸籍があるのだから、証拠十分と考えていたのである。

しかし、検察は、「事実婚」を採って不起訴とした。一般人ならそれもよい。だが、国会議員候補者である。法律だけで判断すべきことだろうか。不倫の事実婚を、検察は容認したのである。不倫とは倫理にもとる、ということだ。「起訴便宜主義」という言葉があり、刑訴法二四八条は、検事が起訴、不起訴を決める(つまり胸先三寸次第)とある。不起訴ではなく「起訴猶予」にすべきであった、と私は思う。つまり「不倫の事実婚」に対して、国会議員候補者として倫理性を加味すべきだったのではあるまいか。

検察審査会に対し、私は申し立てしない。浅香申し立てがあるからである。そして検審の実情は、子供の交通事故死の運転者不起訴など、有権者の無作為くじ引きの委員たちに理解できる案件でなければ不起訴不当の結論は出ない。委員たちに理解できないケースでは、すべて「お上が正しい」のである。日本の現状は、まだまだ民度が低いのである。かつて、松本清張の盗作を告訴して不起訴になった経験がある。その時、検審に申し立てて、それを実感している。

だが、検審継続中に時効がきて、繰上げのメがなくなるし、テレビに彼女の顔が出ないだけで、私の告発も意義があったといえよう。ただ、検察には“則定現象”に見られるよう、倫理性を軽視する風潮があるのを、私は憂える。 平成11年(1999)10月2日

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)
編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)

■□■検察一体の原則■□■第32回■□■ 平成11年(1999)10月23日

野村沙知代の不起訴が確定した。嫌疑なし不起訴ではなく、嫌疑不十分不起訴だ。一度東京地検が不起訴処分にしたのに対し、告発人・浅香光代が検察審査会に「処分不当」の申し立てをし、検審が信じられないほどのスピード審査で、「不起訴不当」の結論を出したのだが、検察は、時効ギリギリの18日に、再度不起訴の処分を決定した。さる10月1日の不起訴処分から18日目であった。

私の「結婚の虚偽事実公表罪」容疑の告発は、10月1日に不起訴になり、私は検審に申し立てはしなかった。検審があのスピードで審査するとは、信じられなかったからだ。したがって、学歴詐称の浅香告発が検審で「不起訴不当」の結論を得たのだった。

私の「検察との付き合い」は長い歴史がある。昭和24年から25年にかけての1年間、警察まわりを卒業して、法務庁(当時はまだ庁だった)司法記者クラブへ。文系で法律も知らないのだから、六法全書との戦いだ。まだ刑政長官などという役職があった。そして、“検察の派閥対立”の芽をみつめる。

約1年ののち、国会遊軍を経て警視庁記者クラブへ。そしてさらに、昭和32年司法記者クラブのキャップになってまた1年勤務する。昭和33年夏に、横井英樹殺害未遂事件(安藤組事件)に関係して退社した。昭和42年、独力で正論新聞を創刊。「検察体質改善キャンペーン」を開始したのである。

私が、読売のクラブ・キャップの時、部下の記者の一人が酒に酔った。新年の御用始めの午後、検察との懇親の席である。突如、怒声が上がったので彼の許に駆けつけた。彼は一人の検事に向かって、怒鳴りまくる。「ナンダ、お前たち検事は! この世の中で、検事だけが最高のインテリだって、ツラしやがって! そのオゴリ高ぶったツラが気に食わねえ!」と。場内が静まり、検事や他社の記者の非難の視線の中を、なお怒鳴りつづける彼を抱いて、私は彼を連れ出した。当時の記者クラブには、彼の言葉に拍手を贈るものと、検事のオヒゲのチリを払う手合いと、ふたつの流れがあった。そして彼の酔余の怒鳴り声の対象が、「検察の一般像」であった。

このS記者の“暴言”は、多くの検事の持っていた「オゴリ」に反省を求めたものだったのだが、効果はなかった。しかし、検事にとっても、このように面罵されたのは、空前絶後のことであったろう。

正論新聞の検察キャンペーンの結果、二代の検事総長が努力して、派閥対立の解消のため、足留めを食っていた“負け派閥”の幹部2人を検事長とし、その1人である大阪検事長の岡原昌男は、定年後に最高裁判事に転出し、のちに最高裁長官にまで進んだ。

だが、派閥対立がこうして解消し、「検察一体の原則(検事は上から下まで一体だ)」が確立され、緊張感がなくなったからだろうか、ヤメ検の悪徳弁護士(金儲け専門)が出るばかりか、則定東京検事長の女遊び、偽名でのホテル同伴などの不祥事が起きた。これもまた、検察一体の原則なのか、浅香告発の当初の“門前払い”などは、いささか理解に苦しむところである。事後の検察の対応をみると、告発受理、不起訴の報道、否定の記者会見、不起訴処分の発表、検審申し立てへのコメント発表、不起訴処分——この流れには納得できない部分が多すぎる。検察は、いったい、どうなってしまったのか。

また、その強権ぶりを物語るのは、オウム麻原の主任弁護人だった、安田好弘弁護士が顧問会社をめぐる強制執行妨害罪に問われて昨年12月に逮捕された件だ。3度の保釈許可が検察の抗告で却下され、4回目のさる9月27日ようやく許可になった。懲役2年の刑の容疑ですでに10カ月も拘置されているのである。

この強権ぶりと、野村沙知代不起訴決定との間に、あまりにも検察官の権力の不公平を感ずるのである。日本の各界、各層の世紀末現象の中で、私たちは、いったいナニを信用できるのか。 平成11年(1999)10月23日