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迎えにきたジープ p.088-089 呉周白元鮮共委員がルーブル買

迎えにきたジープ p.088-089 AP reporter wrote, "The Soviet representative has a deposit account close to $ 500,000." However, even if the Japanese police do their best to investigate, the reality of the "Mamiana" money cannot be grasped.
迎えにきたジープ p.088-089 AP reporter wrote, “The Soviet representative has a deposit account close to $ 500,000.” However, even if the Japanese police do their best to investigate, the reality of the “Mamiana” money cannot be grasped.

日ソ貿易に熱心な一流商社でも懸命に買漁ったそうで、用途は思惑買のほか、天津、大連な

どに送って、中共治下では安い貴金属、宝飾品を買集めるとか、樺太炭やパルプの取引で某社などは現地へ社員を密航させたりしているので、そのさいの工作用であるとか言われている。

この話について代表部に極めて近い安宅産業の担当幹部社員は、『その話については他の会社については聞いている。しかしウチのような一流会社ではそんなことをする必要がない』と語って、噂を肯定しており、また戦時中に謀略用の外国ガン幣(ニセ札)製造をやった参謀本部の某元将校は、『あらゆる国のガン幣を作ったが、ルーブルだけはできなかった。ヤミルーブルが流れているというなら、それは本物に違いない』という。

当局ではこの情報によって第三国人関係を調べてゆくうち、新宿区角筈に住む呉周白、元鮮共中央委員が、ルーブル買をやっていることを掴んだ。直ちに、同人の身辺を内偵しはじめると、早くもこれを察知したのか呉は逃走してしまった。糸が切れてしまった訳で林氏がその中心人物であるとも確認できずに終った。当局で確認しきっていないというのはこのことだが、事実として相当確実視しており、このヤミルーブルの大口取引は関西が舞台になっていることは、やはり関西財界の日ソ貿易への異状な関心を物語る一つの材料である。

余談ではあるが、通貨の搜査は搜査技術の面からいっても極めてむずかしいのである。ルーブルは外国為替管理法の指定通貨ではないから、(ドルとポンドだけ指定されている)不正所持、

無申告などの犯罪にならないから尚更のことである。

例えば二十八年夏、北海道でおきた関三次郎スパイ事件というのがあった。彼の持っていた真新しい百円札は百番台ごとに続き番号だったので、直ちにこの搜査が行われた。その結果、これらの紙幣は二十五年ごろ東京で印刷され、日銀から三つの市中銀行に出たものと推定された。そのうちの一つに銀座に東京支店をもつ東海銀行があったので、係官たちはこおどりしてよろこんだ。さきのヤミルーブルで同銀行をクサイとにらんでいたところだったので、その裏付けの一つとなったというのだ。

また二十九年十月二十四日号の週刊朝日に寄稿された、AP記者のラストヴォロフ事件の記事中に『ソ連代表部は五十万ドル近い口座を持っている』とあるが、やはり当局が懸命に捜査をしてもこの狸穴の金の実態はつかめない。このドル預金はアメリカ・バンクにあるのだが、円に交換するときは正規の手続きで行われており、ドルで使用した場合もそうであるが、その支出額が極めて少ない。

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。

最後の事件記者 p.222-223 典型的な幻兵団のケース

最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。
最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

満州部隊から入ソ、マルシャンスク収容所で選抜されて、モスクワのスパイ学校入り。高尾という暗号名を与えられて誓約。個人教育、帰国して合言葉の連絡——すべてが典型的な幻兵団であった。

姿を現わしたスパイ網

三橋を操縦していたのは、軍情報部系統の極東軍情報部で、ラ中佐などの内務省系ではなかった。従ってレポに現れたのは、代表部記録係のクリスタレフ。二十四年四月に、十二日間にわたって、麻布の代表部で通信教育を行った時には、海軍武官室通訳のリヤザノフ(工作責任者)、経済顧問室技師のダビドフ、政治顧問室医師(二十九年九月にエカフェ会議代表で来日)のパベルの三人が立合っている。

二十三年四月十七日に、クリスタレフとのレポに成功してからは、大体月一回の割で会い、翌年八月二十日ごろまで続いていた。二十四年四月には無電機を渡され、ソ連本国との交信八十二回。同五月からは、元大本営報道部高級部員の佐々木克己大佐がレポとなり、二十五年十一月に自殺するまでのレポは五十七回、その後にレポが鹿地に交代して、二十六年六月から十一月までに、十五回にわたり電文を受取った。

この間の経過は、すべて米軍側の尾行、監視にあったので、米側は全く有力な資料を得ていたことになる。電文は七十語から百二十語の五ケタ乱数だったが、米軍では解読していたのだろう。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

最後の事件記者 p.224-225 私の「幻兵団」を大人の紙芝居と

最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。
最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕り、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任して報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件

で、ようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警祭がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような著意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連絡スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。

赤い広場ー霞ヶ関 p028-029 時系列を追えば謎はさらに深まる。

赤い広場ー霞ヶ関 28-29ページ 時系列を追えば謎はさらに深まる。
赤い広場ー霞ヶ関 p.028-029 Pursuing events in chronological order deepens the mystery further.

これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はな

い b審査の過程であるので会わせる訳にはいかない c仮放免には一定の条件があり、ソ連等の国籍如何を問わず許可した前例がない d送還については中央の決定によるが、現地でも期待に添うよう努力する、と回答、約二時間会談の上午前十一時三十分頃引揚げ、途中果物等を差入れ、ホテルに帰った。

⒘同日午後六時五分札幌発列車で旭川に向い、午後八時五十分到着、ニュー北海ホテルに投宿した。尙、出発に当り、『抑留者三名には入管係員が面会させなかった。これら三名の抑留者は九月中旬頃強制送還されるらしい』との内容の電報を代表部宛打電したが、九月五日旭川に『帰京を延期するように』との内容(不明確)の返電があった模様である。

⒙九月五日午前十時旭川地裁を訪問、所長に面会を求めたが拒否され、そのまま引揚げた。

⒚九月八日午前零時五十五分旭川発下り列車で、自称、札幌市北九条西三丁目事務員本間裕枝(当 30 才)がニュー北海ホテル十六号室に宿泊し、午前八時四十五分頃ソ連元代表部員の部屋を訪問し、紙片を手交後、ロシヤ語にて約十五分位会話して引揚げた。尙同日午後一時四十五分旭川発列車で札幌へ向ったが、前記本間裕枝も同列車に乗革した。午後五時札幌駅に下車してからルーノフ氏等と自動車に乗車したが、途中で尾行を感付いて本間は下車し、北大教授杉之原舜一方を訪問した。

発生順に事件を追ってみると、次の通りになる。

五月二十五日 ソ連兵の死亡? 行方不明?

六月七日 ソ連兵の死体発見さる。

七月中旬 代表部死体捜索を始める。

七月二十日 コテリニコフ、ジュージャ両氏稚内に現る。

七月下旬 両氏帰国準備を始める。

八月二日 関三次郎密入国して、捕わる。

八月九日 ソ連船拿捕さる。

八 月十二日 コテリニコフ、ジュージャ両氏帰国す。

八月十九日 代表部四船員の釈放要求。

八月十九日 ヤンコフスキー氏札幌へ行く。

八月二十一日 ヤンコフスキー氏帰京。

八月二十二日 ルーノフ、サベリヨフ両氏旭川へ向う。

八月二十五日 両氏旭川へ現る。

以上の通りであるが、これでも分る通り、ソ連の一沿岸警備兵が死んだか、逃げたか、ともかく姿を消してから、代表部がその捜索を始めるまでに、約二ヶ月も経過しているのだ。云い直せば、二ヶ月も放置しておいたのちに、突然騷ぎ出したということだ。

赤い広場―霞ヶ関 p032-033 執行猶予のクリコフの再収容を要請。

赤い広場―霞ヶ関 p.32-33 執行猶予のクリコフの再収容を要請。
赤い広場ー霞ヶ関 p.032-033 Requests a re-imprisonment of Krikov on probation.

三名の船員は起訴猶予で強制退去となった。

九月八日関の初公判、同二十二日クリコフの初公判と、いずれも旭川地裁でスピード裁判が開かれた。一方強制送還の三名は十月二日小樽出港の石炭積取船で、北樺太西柵円に送還、同五日ソ連側官憲に無事引渡された。

また十月十四、十五の両日にわたり、裁判権の有無についての公判準備手続が東京地裁で開かれ、四対一で裁判権が支持された。

関、クリコフの裁判は第二回から並行審理されていたが、二十八年二月十九日、両名とも懲役一年(執行猶予二年)、クリコフには船を返すとの判決があった。

ところが、判決から四日目の二十三日、クリコフ船長の杉之原弁護人が、札幌入管事務所を訪れ『船長を再収容してほしい、送還は広島、山口両県で修理中のソ連船でしてほしい』という申入れを行った。

再収容とはどうしてだろうか。この問に答えて元ソ連代表部では、三月四日次のような声明を発表した。

ソヴエト船のクリコフ船長は、二月二十三日代表部をおとずれ、アメリカ諜報部員と思われる二名のアメリカ人に数日間つきまとわれ、故国に帰るのを拒否して、アメリカへ行くようおどかされたと

のべた。クリコフ船長はアメリカ諜報部員の追求から守ってほしいと依頼した。彼はつぎのような声明を発表した。

本年二月十七日午後十一時、私が旭川市の「ニュー北海」ホテルの自室にいると、見知らぬ男が入ってきた。この男はあとでわかったのだが、アルバート・バーミンという名でホテルに投宿していたものだった。アルバート・バーミンの言によると、彼の両親はカリフオルニアに住んでおり、母は女教師で、彼は米軍の通訳をしているとのことだった。彼はうちとけた振舞をして、なるベく私を酔わせようとした。二月十八日の昼間は、このアメリカ人がつきっきりで私につきまとい、御馳走をして私の気嫌をとろうとした。この日の夕方、彼は「ニュー北海」ホテルの自室に私を招待したが、そこにはもう一人のアメリカ人がいた。宿帳にのっている彼の名前は、エドワード・マーチンであった。彼らはアメリカ当局に亡命を願いでて、直ちに飛行機でカリフォルニアへ行こうともちかけて来た。そのとき彼らはこういった。『日本人などくそくらえですよ。奴らはアジア人ですからね……中請書を書きさえすれば、私たちの手から五万ドル貰ってアメリカへ飛んで行けますよ』

二月十九日、バーミンはまたアメリカへ行こうと私にすすめた。彼は私を自室につれこんで、直ぐに鍵をかけ、予め用意した、ロシヤ語の不帰国申請書に署名させようとした。私はそれを断って、彼の強要をきっばりはねつけたあと、バーミンは図々しくなり、私の部屋に無断でちん入し、中請書に署名させようとして私につきまとうようになった……