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赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 赤軍の線はまだ潜在化している

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ

ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。すると、何といっても中心になるのはこの二つの線であるが、ここに注目されなければならないのは、ラ事件をはじめとして幻兵団などでも、現在までに顕在化されたのはいずれも内務省系統の事件ばかりであるということである。

ラ事件捜査当局の某幹部は『われわれが問題とするのはもはや内務省系スパイではない。いまや赤軍第四課系スパイ線の実態究明にある』と、洩らしたといわれているが、まったくその通りであろう。

私がここに収録した幻兵団の実例の幾つかが、いずれも内務省系ばかりである。日本人収容所のうち、赤軍直轄の収容所があったことはすでに述べたが、これらの赤軍労働大隊でスパイ誓約をした引揚者で、当局にチェックされた人名はまだそう多くない。

NYKビルがフェーズⅡで最終的にチェックした人名は一万名といわれている。この中には私のように誓約はしたが、連絡のない半端人足は含まれているかいないかは知り得ないが、連絡のあった者だけとすれば大変な数である。

またラ氏はワシントンに於て米当局に対して、『ソ連代表部が使用していたソ連引揚者のスパイは約二百五十名である』と述べたといわれる。幻兵団や元駐ソ大使館グループ、または高

毛礼氏のように、さらにまた、東京外語大の石山正三氏のように在ソ経歴を持たなくとも、ラ氏にコネクションをつけられたものもいる。

そしてまた、コテリニコフ・ポポフ――高毛礼ラインの手先とみられる、銀座某ビヤホール経営者の白系露人のように、〝地下代表部員〟の間接的スパイもいる。

従ってソ連スパイ網に躍る人物は、本人が意識するとしないとに拘らず(例えば前記石山教授などは、志位元少佐がソ連兵学の研究のため、赤軍参謀本部関係の第二次大戦資料などを、ラ氏を通じて得ていたように、ソ連文献入手のため知らずにラ氏に利用されていたにすぎないといわれている)相当な数と種類とに上っていることは事実である。

だが、赤軍の線は捜査の手がそこまで伸びているのにまだ潜在化している。前記ビヤホールの白系露人などは、数年前から要注意人物としてマークされていながら、どの系統なのか全く分らず捜査が一頓坐していたもので、今度の高毛礼ケースから明らかになったものであった。

当局ではいまさらのように巧妙なその組織に驚いており、過去九年間における延数百名にも及ぶ在日ソ連代表部員の都内行動記録を再検討している。これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 女は細川直知に五千円を差し出した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. "If you refuse the job request..." the woman said, and showed a small Colt pistol.
赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. “If you refuse the job request…” the woman said, and showed a small Colt pistol.

これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

一例をあげよう。第三軍中佐参謀だった細川直知元侯爵は二十五年一月エラブカ、ハバロフスク経由で引揚げてきた人である。氏はスパイ誓約書に署名をしなかったので、いわゆる幻兵団には入らないが、エラブカではクロイツェル女中尉にしばしば呼ばれ、また〝モスクワから来た中佐〟にも呼ばれていた。

帰国後のある日、同氏は、NYKビルに呼ばれて取調をうけた帰途、ブラブラ歩きで日比谷の三信ビルの角までやってきた。そこへ二十五才位、小柄で色白、可愛いい型の黒ずくめの服装の女が寄ってきた。彼女は歯切れのよい日本語で話しかけたので、日本人らしかったが、ともかく東洋人であることは間違いなかった。

『あなたはエラブカの細川中佐ですネ』

『そうです』

『一寸お話したいことがあるのですが、そこらまで付合って頂けませんでしようか』

『宜しいでしよう』

誓約をしなかった同氏は、もちろん合言葉も与えられなかったし、相手が割に美人でもあったので、何の懸念もなく気軽に応じた。二人は三信ビルの裏を廻って、日比谷映画劇場と有楽座の前にあった日東紅茶のサービスセンター(のちにCIE図書館となった)に入って一休みしながら話し合った。

彼女は品もあり、話し方も淑やかだった。

『私はあなたに仕事をお願いしたいのですが、如何でしようか』

といいながら、小型の女名刺を差し出した。それには「山田葦子」(特に仮名)とあった。細川氏は不審気に反問した。

『ヤブから棒に一体どんな仕事なのです』

『それはやって頂いているうちに分りますわ。もし、お願いできるんでしたら……』

彼女はそういいながら百円札を五十枚、五千円をソッと差出した。細川氏は意外な彼女の態度に驚きながら返事もできずにいると、彼女はキッと形を正して、低く鋭い声でいった。

『どうしても協力して頂けないのなら……』

彼女は終りまではいわずに、あとは黙って膝の上のハンドバッグを開けると細川氏にその中身を示した。

黒い小型のコルト拳銃が一丁、その持主の美しさにも似ず鈍く輝いていた。細川氏はうなずいた。彼女は納得して『では、次の連絡は私の方からとります』と告げて、その日の二人の出

会いは終った。

赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 高良とみにまつわる「高良資金」とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 The security authorities were working hard to back up the information about member of the House of councilors, Madame Tomi Kora, called “Kora fund”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 The security authorities were working hard to back up the information about member of the House of councilors, Madame Tomi Kora, called “Kora fund”.

細川氏の手許には五千円の現金と一枚の名刺が残されていた。そして、これが〝ナゾの女〟の唯一の手がかりであった。他にも池上(特に仮名)という女性から手紙がきて、未帰還の息子のことで、ソ連代表部のロザノフ氏をたずねなさいといわれた留守家族もある。そして当局筋では、このような不思議なケースが、赤軍第四課の線を解明する一つのカギではないかともみている。

いずれにせよ、赤軍系の日本国内におけるスパイ網は、まだその全貌を秘めたままでいる。次に東京で起きるスパイ事件は果して内務省系であるか、また赤軍系がその片鱗をのぞかせるような事件であろうか。

三 「高良資金」とナゾの秘書

ソ連の対日政策は常に一貫して流れているということで、これを三つの段階に分けてみたのは第一集の通りである。即ち、第一期は終戦後のソ連代表部設置から二十六年六月三十日、共同記者の単独会見までで基礎工作の段階、第二期は二十七年四月二十八日講和発効まで工作具体化の段階、第三期が三十年一月二十五日鳩山・ドムニッキー会談まで仕上げの段階であった。そして現在は第四期で収獲の時期である。

この段階によってみてみると、第一期にあげられるのはソ連引揚である。一見大まかに見え

ながらも、緻密な計画と周到な準備と、さらに徹底した教育とによって、百万日本人の引揚が継続的に行われたことである。

第二期といえば対日講和必至とみて、これら第一期工作の根拠地であった麻布のソ連代表部の退去を予想した、秘密地下拠点設置を急いだ具体化の時期である。この間にスパイ線の整理として、再確認と新採用とが行われて、政治経済情報と日米間の基礎資料とが主として集められた。そうして仕上げの第三期に入ってゆく。

そんな時期のころ、治安当局では「高良資金」という、参院議員高良とみ女史に関する情報の裏付捜査を懸命に行っていた。これは日共をはじめとする左翼系各団体の国外資金流入の捜査にまつわって出てきたもので、その中心人物が二十七年春のモスクワ経済会議の際における入ソ第一号、二十八年春の中共引揚使節団代表の旅券問題などで、「外事特高」関係当局に疑惑の眼でみられていた高良とみ女史だけに当局は緊張した。

調べによると「高良資金」とは、二十八年六月五日からデンマークのコペンハーゲンで開かれた第一回世界婦人会議に、随員として出席した高良とみ女史令嬢真木さん(二五)と、女史の秘書柏木敦子さん(二七)両女が、同会議終了後代表団を解散してから、個人の資格でソ連中共に入り、さきごろパリに帰ってきたさい、真木さんが携行してきたもので、〝莫大な小切 手〟といわれている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 「高良資金」はSCIを通じて現金化?

赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 Did money from the Soviet Union or the Chinese Communist Party flow to the FUDANREN(Japan Federation of Women's Organizations) as “Kora fund”?
赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 Did money from the Soviet Union or the Chinese Communist Party flow to the FUDANREN(Japan Federation of Women’s Organizations) as “Kora fund”?

調べによると「高良資金」とは、二十八年六月五日からデンマークのコペンハーゲンで開かれた第一回世界婦人会議に、随員として出席した高良とみ女史令嬢真木さん(二五)と、女史の秘書柏木敦子さん(二七)両女が、同会議終了後代表団を解散してから、個人の資格でソ連中共に入り、さきごろパリに帰ってきたさい、真木さんが携行してきたもので、〝莫大な小切

手〟といわれている。

その後柏木さんは真木さんと別れてロンドンに行き、真木さんは依然パリに滞在してこの小切手の日本送金、もしくは現金化に苦慮していたという。

一方、①当局が入手した日共秘密文書「組織者」(二十八年十一月十八日付)号外に十二月五、六、七の三日間東京芝公会堂で開かれる、日本婦人大会についての極秘指令が出されており、

②また同大会の主唱者である婦団連(婦人団体連合会)の活動が、十二月以降活溌化しているが、その資金は十一月はじめには殆どなかった事実、

③高良女史が旅券問題でもめながらも強引に代表団に加って中共入りしたさい、このコペンハーゲンの世界婦人会議の招待状を受取って帰り、自分の代理として、息女と秘書を随員に加えて入ソさせた点、

④女史自身が日本婦人大会に関係していることなどから、或いはすでに同資金は日本へ送られ、婦団連に流れているのではないかともみられている。

この資金の出所については、大山郁夫氏の第二回国際平和スターリン賞(十万ルーブル、邦価換算九百万円)ではないかとの説もあったが、当局では高良女史の流暢な英会話という技術と、

クエーカー教徒という看板とで、数次の共産圏旅行に話をつけて獲得した別口の「高良資金」であり、女史の国際的利用価値からこの金が出されたものとみている。

当局がこの資金を注目するにいたった端緒は、ユネスコ内にあるSCI(国際建設奉仕団)派遣員某氏から同日本支部へあてた報告からであったという。SCIというのは、高良女史にまつわってしばしば登場するので一言説明しておこう。これは国際建設奉仕団の略称で、第一次大戦後フランスで戦災をうけた村落復興のため、スイスの哲学者ピエール・セレゾールの提唱で、国境を越えた労力奉仕が行われてから組織化され、治山、治水、道路、住宅建設などを行っている。〝ツルハシとシャベルで人の心に平和を植える〟をスローガンに、日本では、緑十字運動、学生キャンプ、学校植林運動などを行う平和団体である。

さてその連絡の内容は、「(前略)SCIに関しても高良さんは良く理解しておられぬことと存じます。現在まで如何に皆々様はじめ私は苦しめられたか、現在も真木さんに関する小切手を現金にするためラルフ氏(註、SCI本部職員)に頼み、SCIの名をもってするといった方法です。この小切手(大きな金額)に関し、ラルフ氏は何処より出たものか実に不明のものと申し、個人ではとても銀行では注意して金を出さないようです。故に、はっきり取扱わないと申しております。(後略)」とあったもので、高良女史の海外旅行はすべてこのSCIを利 用したものだったらしい。

赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 「高良資金」はわずか三十七万円。娘の生活費?

赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 Tomi Kora explained that she had just sent the balance of her overseas trip as a traveler's check to her daughter Maki in Paris.
赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 Tomi Kora explained that she had just sent the balance of her overseas trip as a traveler’s check to her daughter Maki in Paris.

高良女史の海外旅行はすべてこのSCIを利

用したものだったらしい。真木さんもSCIを利用しており、手紙は高良母娘の度重なるSCIの政治的利用に対し、同本部の激しい不信の意を伝えているという。

このような経緯で、当局ではこの高良資金が、すでに日本に持込まれているかどうかに深い関心を持っていた。日本へ海外からの送金は容易であり、しかも外国銀行はこれを日銀に報告すべき義務を課せられておりながら、多くの場合その義務を守らないため、その実態をつかみにくいというのが実状であり、もちろんこれが〝東京租界〟のガンの一つでもあるのだ。

 そこで当局では現金か宝石、貴金属にして携行すれば、現在の税関検査ではなかなか発見しにくいので、真木さんの帰国のさいは令状をとって身体捜検でも行うという強い意向で、外国為替管理法、政治資金規整法違反として捜査するという方針までが樹てられた。

 ところが高良女史は少しもあわてず「高良資金」と称される〝大きな金額の小切手〟について、こう釈明した。

『それは私が海外旅行に使った費用の残り三百七十ポンド(邦価約三十七万円)で、香港の銀行に私名儀であずけておいたものなのです。小切手というのはトラベラーズ・チェックで発行人は私名儀です。真木が身体を悪くして生活費にも困っているというので、送ってやりました。しかしスターリング・ポンドなので、パリで現金化することはむづかしいのでアチコチ頼んで

歩いたのでしよう』

この答には一点非の打ち処がなかった。しかし、私の主観であるが、この答弁には何か〝準備された答弁〟という、後味の悪い印象が残るのを感じさせられたのだった。女史の答弁の裏付けをとるためには、香港とパリとで調べなければならない。

外国を、ことにヨーロッパからアジヤにかけて歩き廻るような旅行者にとって、たとえそれが四等貧乏国の日本人で、しかもうら若い女性であっても、三十七万円という金額は〝大きな額〟だろうか。しかも、『個人ではとても銀行で注意』するような高額なのであろうか。

在パリのSCI本部の日本派遣員の手紙は、しかもSCI本部職員の言として、その小切手が高額であることを伝えている。しかし高良女史は『僅か三十七万円』という。

果していずれが真実であろうか。私は当局を出し抜いて高良女史に当ってみて、黙って引退って諦めたように、その後の当局は全くこの問題に関して動いていない。当局も女史の三十七万説の前に、私同様黙って引退ってしまったのだろうか。

私の取材が香港、パリへ伸ばさざるを得ないのと同様に、当局の手も香港、パリへ伸びざるを得ない、ということは捜査の打ち切りを意味する。ここに四等国日本の悲哀があるのだ。

戦後の国際犯罪は思想的、政治的背景をおびて、その規模もいよいよ大きくなり、密航、密 貿、脱税、ヤミドル、賭博、麻薬、売春という〝七つの大罪〟が〝東京租界〟を形造った。

赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 高良とみのナゾの秘書、松山繁

赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 When Tomi Kora attended the Moscow Economic Conference, a mysterious secretary Shigeru Matsuyama (real name: Michitaro Murakami) accompanied her. Who is he?
赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 When Tomi Kora attended the Moscow Economic Conference, a mysterious secretary Shigeru Matsuyama (real name: Michitaro Murakami) accompanied her. Who is he?

戦後の国際犯罪は思想的、政治的背景をおびて、その規模もいよいよ大きくなり、密航、密

貿、脱税、ヤミドル、賭博、麻薬、売春という〝七つの大罪〟が〝東京租界〟を形造った。国際犯罪はいくら日本国内だけで捜査し検挙しても、決してその根を抜き源をふさぐことはできない。

こうして「高良資金」にはじめは異状な緊張をみせた当局も、香港、パリと舞台が移るに及んで、ついに投げださざるを得なかったようである。

だが、高良女史に関する〝資金〟の情報はまだある。二十七年春、モスクワ経済会議へ出席したときの旅行の費用についてである。時間的経過からいえば、この時の方が先なのであるが、「高良資金」の話の方が、高良女史―SCI—海外(共産圏)旅行―金―高良女史という環状の関係が明らかになるので、話を前後させたのである。

この〝環〟はグルグルと廻っている。廻っているからには中心がなければならない。では、中心とは誰であるか?

村上道太郎という青年である。第一集で述べた通り『高良とみというクエーカー教徒の、人間の善意しか理解できぬような〝善人〟がモスクワ経済会議へ乗込んできた。これはまさにソ連にとってカモネギであった』と、世の〝善人〟たちは思い込んだに違いない。だが、ソ連の時間表は正確である。

村上道太郎という青年の名を記憶している人はあまり多くない。しかし、高良とみ女史のナゾの秘書松山繁氏を覚えている人はいるだろう。松山繁は村上氏のペンネームなのである。

二十七年四月五日、ヘルシンキからモスクワ入りして、戦後訪ソ第一号となった高良女史は経済会議ののちにシベリヤ、北京などを訪問した。その間、日本人墓地の参拝、戦犯への文通送金の自由の報道、日中貿易協定の調印、婦人の反戦の放送など、数々の話題をまき起して七月十五日単身帰国、熱狂的歓迎をうけるとともにジャーナリズムの花形となった。まさに得意の絶頂であった。

ところが、その得意の絶頂の歓喜の中で、時たま女史を襲う不安、寂寥、懐疑、恐怖などといった「不愉快な感情」があり、女史はそれに悩まされなければならなかったはずである。これは私が女史に会って、その秘書村上氏のことに触れたとき、端的に表現された感情と言葉とから、私が判断したことである。それほど、村上氏について訊ねられることを嫌っていたのだが、得意の絶頂を与えたソ連旅行と村上氏とは、切っても切れない関係だから、ソ連旅行の想い出は同時に村上氏への想い出だからである。だが、その〝傷口〟にさわられる時はついに来た。意地悪な治安当局の情報分析者(アナリスト)がフト抱いた単純な疑問が端緒であった。彼は女史関係の資料の整理をしているうちに、外電の伝えた「同行の秘書松山繁」なる人物が、いつの間にか 消えてしまったことに気付いたのである。