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読売梁山泊の記者たち p.116-117 花電車はまさにゲイジュツ

読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。
読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。

五日は、御用始めである。警視庁へ電話して、「公安三課長の別室」という。警視庁の課長はエライもので、巡査部長の運転手と、女子職員がついている。

「若松クン? 今朝、課長、迎えに行った? ソウ、なにか、預かりもの、なかった?」

「クツでしょう。まあまあ、フトンを庭に投げ出して、雪も降らなかったから、いいようなもンですが、で、どこにいるんです」

「シ、ン、ジュ、ク…」

「新宿? で、どこに届ければ…」

「ユ、ー、カ、クのナントカ樓…。新宿通りから、右へ入って…」

当時、官庁の公用車は、ナンバー・プレートが三万代で、公用車をそう呼んだ。三万何千という、五ケタの車は、極めて目立つ。

小一時間ほどで、ナントカ樓の表に、その三万代の車が、ピタリと止まった。妓たちは明け方に現れたハダシの客に、公用車の迎えがきたので、ビックリしていたものだった。

よく働き、よく遊ぶ——これが、読売社会部の伝統であった。果たして、いまは、どう変わっただろうか…。

やはり、警視庁クラブ時代のエピソードをもうひとつ。社会部で、キャップのいる出先きクラブというのは、警視庁、裁判所(司法クラブ、検察庁も担当する)、都庁、労働班だろうか。

新任の社会部長は、これらの、出先きクラブを〝ご巡幸〟する、ならわしがある。一堂に会して、酒を呑み、懇親を図るとともに、百人からいる部員たちと、話し合う機会にするのだ。

原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと、一パイやることになった。多分、保安課を担当していた、二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」と、いうことになった。

いまは、東京都内では、花電車など、見られないのかも知れない。花電車というのは、まさに、ゲイジュツである。女性特有の括約筋を利用して、さまざまな〝芸〟を見せるショーのことを、そう称

する。

私も、さきごろ、地方の温泉の兵隊仲間の会で、三十有余年ぶりに〝拝観〟して、この原四郎のことを、書く気になったのである。やがて、数カ月後に、府立五中のクラス会に私が幹事で、再び、その〝芸〟者を招いて、鑑賞したものであった。

というのは、三十年前に比べて、技術が大変に進歩していたので、これはもはや、〝伝統芸能〟である、と確信した。もちろん、ワイセツ感など、まったくない。

その五中のクラス会には、東北の有名クリスチャン校の校長先生とか、三和銀行、三菱銀行の常務から、有名上場会社の社長になっている連中まで、〝芸術〟に縁遠い級友たちが出席し、絶賛したものであった。

二里木は、本庁の保安から、浅草署の保安に電話させて、会場の設営をした。ギョーカイに通じれば、シロシロ、シロクロ、ワンシロといった、純粋のショーも見られる。いうなれば、シロは女性、クロは男性、ワンとは犬である。これらは、芸術とは、縁遠い。

路地裏の、とあるシモタヤの一室。二階に上がる階段まできたら、アヤシ気な声が聞こえてきた。原部長を案内してきた私は、フト見てビックリした。ハラチンが、指にツバをつけて、障子穴から覗いているではないか?

無言で促して、われわれの部屋に入る。薄暗い電燈の六帖間。〝女優〟サンが現われて、演技を始め た。

読売梁山泊の記者たち p.118-119 伊達男そのもののハラチン

読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。
読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。

無言で促して、われわれの部屋に入る。薄暗い電燈の六帖間。〝女優〟サンが現われて、演技を始め

た。型通りに、まずは、皮をムいたバナナの輪切り。つづいて、ユデ玉子のカラをとって、玉子飛ばしである。

事件は、この瞬間に起こった! といっても、「御用だ!」と、刑事たちが、乱入してきたのではない。なにしろ、本庁保安課の、〝官許〟だからである。

彼女が、ヤッとばかりに、二メートルほども、気合とともに、ユデ玉子を飛ばした時、内部に残っていたバナナのスジが、玉子の肌に付着して飛び出し、ハラチンのホッペタにピタンと、ひっついたのである。

すでに紹介したが、長身にダブルの背広を着こなし、ややアミダに冠ったソフトの両びんには、ロマンスグレーの髪がのぞけて見える。まさに、ダンディー、伊達男そのもののハラチンである。

一度も、原のワイ談を聞いたことはない。そのハラチンに、花電車を見せて、どんな反応を示すか、が、われわれ警視庁クラブ員の最大の関心事だったのである。従って、見馴れた花電車よりは、多くの記者たちは、原の表情に、注意を向けていたのである。

大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。ピタンの瞬間だけ、原の表情には、この際、どんな態度を取るべきか、といった、困惑が走った、と、私は見てとった…。

だが、次の瞬間には、原の表情は、真実のみを見つめようとする、新聞記者の眼に戻っていた。も

っとも、さり気なく、片手で、バナナのスジを、拭き取ってはいたが。

爆笑というのは、〝吹く〟というように、まず、大きく息を吸いこんでから、吹き出すのである。みんなの爆笑は、吸いこんだままで、止まってしまったのである。

ある意味で、座は白けてしまった。もう、花電車のコースは、なんの感興も呼ばなかった。原にとっての、花電車ショーは、多分、この時、一回だけであったろう。しかし、彼は、座興として、これを見なかった。

あるいは、ルポルタージュを書く、記者の眼で、展開される現実を、シッカと、見ていたのかも知れない。

竹内四郎が、遊びにきた部下たちとのマージャンで、賭け金を捲き上げ(もっとも、それ以上に、御馳走を並べていたが)、新聞休刊日の全舷上陸(旅行)に、愛人の芸妓を伴うなど、人間まる出しであったのに比べると、原四郎は、まったくの〈新聞記者〉であったというべきだろう。

しかし、その原四郎が、読売新聞の興隆期を、紙面で指揮していたことは、事実なのである。そしてまた私も、原という〝伯楽〟のもとで、大きく成長したのであった。

古き良き時代の記者像をもう一つ紹介しよう。

かつて、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

読売梁山泊の記者たち p.120-121 〝腕〟が立派に拾われている

読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。
読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。

かつて、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

この言葉には、解説が必要である。Fという有能な整理記者が、東京読売にいた。ところが、これがまた、大変な競馬狂で、仕事以外は、競馬のことしか念頭にないのである。そのキャリアは、累積赤字四百万円に達したというのであるから、想像を絶しよう。

もちろん、負けに負けつづけた、というものではない。勝つ時もあるのだが、その時は景気良く、派手に使ってしまうのだから、負けた時の借金が、累積してゆくのだ。

ありとあらゆる所から借りつくして、さすがに、身動きができなくなってしまった。かくして、Fは読売を退社して、その退職金四百万円を投げ出し、一度、借金を整理することとなる。借金と退職金がツーペイである。

これでは家族も困ろうと、友人たちが、高利貸しを口説いて、利子をまけさせ、四十万円を捻出した。その退社の日たるや、けだし壮観であった、という。

Fの敏腕を惜しんだ、上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められた。積み上げた退職金から、順次に〝支払い〟が行なわれ、残った四十万円が自宅へ届けられた。だが、Fは悠然として、この四十万円で競馬に出かけ、倍の八十万円にして帰ってきた、という次第だ。しかも、身辺整理の終わったFは、大阪読売に迎えられて、華麗な見出しで、紙面を飾っている。

Fの才能に、感嘆した栗山が、「とても、普通の状態では、東京が大阪へと、手放してくれる記者ではない。大阪の陣容強化のため優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は競馬狂ではなくても、〝パチンコ狂はいないか〟と、原にたずねた、というものである。

自分で掘った〝墓穴〟、と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本に、絶大な自信がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

私がいいたいことは、この記者の、行動についてではない。それぞれの家族もあり、家庭内の事情もあったろうから、退職金を投げ出すことについての、若干の感慨もあったであろう。個人的な事情とはいえ、退職金までもゼロにして、社をやめるという〝壮絶〟な出処進退をとりあげたいのだ。そして、その〝骨〟ならぬ〝腕〟が、立派に、拾われている、ということだ。

「畜生メ、辞めてやる!」これが、かつての読売の伝統であった、といわれる。原稿を書こうが、書くまいが、クラブで終日、麻雀を打っていようが、週給のように、会社は、記者手当だ、なんとかだ、と、金を呉れるから、サラリーマン記者は、気楽なモンだ、ときたもんだ。なかなか、辞められない。

私が、安藤組事件に連座して、退社した時には、立松事件の後遺症で、紙面への制約がうるさかった。その反動のクーデターで、社会部は事件だ、を立証しようとして敗れた。

いま、テレビ朝日のキャスター・内田忠男も、ロス特派員の時に、「辞めてやる!」と叫んだ。私の場合、三十八歳だったから、辞表が出せた。四十歳過ぎなら、考えただろう。

古き良き時代の、ある新聞記者像——として、エピソードを紹介したのは、いまや、読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや、理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟という感覚を、取りあげてみたかったのである。

読売梁山泊の記者たち p.122-123 「記事でとっている読者が5%」発言

読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」
読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」

名文家として知られた、高木健夫(故人)が、昭和三十年に書いている、「読売新聞風雲録(原四郎・編)」中の、「社長と社員」の稿にも、「畜生! 辞めてやる!」と口走るのが、事実、読売の伝統であったと、正力松太郎陣頭指揮時代の社風が、そのようにうかがわれるのである。

あまりにも人情家だった景山部長

その原が、七年の長きにわたって、社会部長であった時、十三年七カ月にわたって、編集局長であったのが、小島文夫(故人)である。通称ハリさん。小島編集局長時代に、これらの、「畜生! 辞めてやる!」の伝統が次第に薄れていったようである。

《正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て、社内を一巡する。この時だだ広い編集局に、ただひとり、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。

『あれは誰だ?』

『小島文夫という男です』

『学校は、どこかね?』

『社長の後輩、東大です』

『あいつを部長にしたまえ』

(遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より)》

小島は、昭和四十年十一月十五日、専務・編集主幹と昇格した直後に、社の玄関で倒れて逝ったが、その通夜の席で、記者たちはささやいた。

「ハリ公は、なにがたのしみで、新聞記者になったのだろうか…」と。

彼は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。その端的な実例がある。「いわゆる務臺事件」(注=務臺光雄名誉会長が、読売を辞めるべく、姿を隠した事件)後の、昭和四十年六月、夏期手当をめぐる交渉委員会での、発言記録だ。

・会社—会社の調査では、読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%ぐらいだ。

・組合—記事でとっているのが5%だ、というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これでは、みんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

・会社—社主の魅力が大きい以上、そうした記事(注=いわゆる、正力コーナーと呼ばれて、当時、紙面にひんぱんに登場した、正力動静記事のこと)は扱わなければならない。批判的な読者の声も、ほとんど聞いていない。(組合ニュース第11号、六月十六日付)

この、「記事でとっている読者が5%」発言は、当時、全社的憤激をまき起こし、小島は引責辞職に追いこまれそうになったが、組合ニュース第14号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビ

がつながった。これをもってして、小島の人柄が判断されるだろう。

読売梁山泊の記者たち p.124-125 あのな、お前は、経済を勉強しろ

読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。
読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。

この、「記事でとっている読者が5%」発言は、当時、全社的憤激をまき起こし、小島は引責辞職に追いこまれそうになったが、組合ニュース第14号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビ

がつながった。これをもってして、小島の人柄が判断されるだろう。

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部の立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士、 召喚必至」という大誤報を放った時である。

原が、社会部長から、編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原は、僚友の景山与志雄を社会部長に据えた。古い社会部記者のタイプで、温情家であった景山は、部長になるや人事異動を行なった。

三年にわたった、私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。警視庁で、公安と外事を担当していた私は、当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。

「あのな、お前は、経済を勉強しろ。〝虎を野に放つ〟ようなものだという、デスクの意見もあったが、通産、農林両省のクラブだ」

「…でも、先輩の長田さん(与四郎)が、古巣の通産に行きたがってましたから、私は防衛庁にやって下さい」

「イヤ、防衛庁は、堂場(肇)に決めた。ヒマなクラブだと思わず、経済の勉強をしろ。お前の将来のためだ」

「……ハイ」

私は、シブシブ承諾した。人生、なにがどうなるものか。景山に命令されて、通産、農林担当となった。ここは、経済部が主力で、社会部、政治部はヒマ。ほかには、地方部が忙しいクラブだったが、東電の正親見一常務と仲良くなり、「正論新聞」創刊の激励を受ける、という巡り合わせになる。

だが、この両省かけ持ちとはいえ、前に書いたように、「停電つづきの東電」と「値上げつづきの東ガス」だけしか、取材対象がないのだから、毎日、麻雀暮らしのクラブ勤務に、ドップリ浸っていた。

そして、一年後、特オチという失態を演じて、遊軍勤務という本社詰めに、配置転換される。私は、この時に、景山の〝温情家ぶり〟に感激したものであった。が、愛称カゲさんの温情が、社会部長という一等部長から、少年新聞部長という三等部長に降格される、「立松事件」を誘発する。

多久島事件というのが起きた——その名の農林省事務官が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されたのである。その日の夕方五時ごろ、上司の安田農林局長が、農政クラブに現れて、記者会見して、「只今、告発して参りました」と、発表する。

地方部の小野寺記者が、クラブに在室していたので、その発表を聞き、私を探したが見当たらないまま、直接、社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡を入れてくれた。

私は、その日、ずっと通産省の虎ノ門クラブに在室していた。私は、他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。負けがこんでいて、午後からずっと、マージャン台にかじりついていた。

そして、農林省で重大発表があったとも知らず、夜の九時ごろまで、各社の記者を放さなかった。

読売梁山泊の記者たち p.126-127 私は通産クラブでマージャン

読売梁山泊の記者たち p.126-127 大負けした私は、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。翌朝、農林省の重大事件に、ギョッとした。読売をひろげてみた。無い! 読売には無い。スッと、背筋に冷たさが走った。
読売梁山泊の記者たち p.126-127 大負けした私は、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。翌朝、農林省の重大事件に、ギョッとした。読売をひろげてみた。無い! 読売には無い。スッと、背筋に冷たさが走った。

私は、その日、ずっと通産省の虎ノ門クラブに在室していた。私は、他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。負けがこんでいて、午後からずっと、マージャン台にかじりついていた。

そして、農林省で重大発表があったとも知らず、夜の九時ごろまで、各社の記者を放さなかった。

彼らも、国税庁や文部省のカケ持ちはいたが、農林省は、私ひとりだった。

大負けした私は、そのまま、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。そして、翌朝、自宅で、朝日、毎日を広げてみて、農林省の重大事件に、ギョッとしたが、見出しから、発表モノと分かって、安心した。最後に、読売をひろげてみた。

無い! 読売には、多久島の「多」の文字さえ無いのである。スッと、背筋に冷たさが走った。

「そんなバカな! 発表モノじゃないか!」

重い、苦しい気持ちで、農政クラブに電話を入れると、地方部の小野寺記者が出た。

「どうしたんでしょうネ。私は、発表を聞いて、すぐに、社会部のデスクに入れておいたんですが…」

不安は、さらに募った。ニュースが入っているのに、掲載されていない、とは…。かつて、立松、萩原両記者とともに、法務庁クラブ時代、朝連解散の発表モノを、号外落ちして、竹内社会部長に、「バカヤローッ!」と怒鳴られた時よりも、もっと重い足取りで、社へ向かった。

景山部長は、蒼い顔をしたまま、ジロリと一瞥をくれただけで、黙っていた。編集総務になっていた原四郎も、社会部長席の横に立ったまま、私には、眼もくれなかった。

こんな大事件で、しかも、発表モノの特オチとは、まさに、醜態の限りであった。当面の責任者である私には、口を開くべき言葉はなにもなかった。

夕刊では、後追い記事を書いたあと、原因調査が進められた。小野寺記者が、社会部へ連絡を入れたあとの、経過である。地方部記者からの連絡を受けた、その夜の当番デスクの山崎次長は、これを、

読売の特ダネと感違いしてしまった。

そこで、「特ダネだから、隠密に」という注意をつけて、警視庁クラブに、調査を下命した。捜査二課担当の記者は、その夜、〝隠密に〟当たってみたが、反応がない。検察庁に告発した、その夜のことだから、捜査二課では、まだ、なにも反応のないのは、当然のことである。で、山崎デスクは、「明日まわしにしよう」と、結論してしまった。こういう事情が判明したあとのこと、景山は、私にこういった。

「お前、どこに行ってたんだ。デスクは、農林、通産のクラブに社電(注=各クラブとも自社の電話、もしくは加入電話を持っているので、デスクは、出先き記者に用事がある時は、交換手に命じて電話させる)したが、居なかったそうじゃないか」

大特オチの自責の念で、なにも弁解していなかった私は、これを聞いて反論した。

「社電したって? とんでもない。いまだからいいますが、私は、通産のクラブで、夜の九時まで、マージャンしていたんです。その間、社電は一度もなかった。他社の三人という証人もいるんですよ! 社電したというなら、その交換手の名前をハッキリして下さいよ。とーんでもない」

私のばく論に、景山部長は、黙って腕組みをしたまま、なにかを考えているようだったが、しばらくして、口を開いた。

「よし、事情は分かった。マ、いい。オレに考えがあるから、黙って、オレにまかせろ」

数日後、私は部長に呼ばれた。

「特オチの後始末だが、オレが進退伺いを出すんだが、お前も、黙って始末書を出せ」

読売梁山泊の記者たち p.128-129 人情に篤く、温厚な人柄

読売梁山泊の記者たち p.128-129 数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。
読売梁山泊の記者たち p.128-129 数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。

「特オチの後始末だが、オレが進退伺いを出すんだが、お前も、黙って始末書を出せ」

「ハイ、部長がそういうのなら、私も黙っていわれた通りにします」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに、部長を理解できる部下からは、良く慕われていたが、ある意味では古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあっても、もうひとつ、原のような鋭さや〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。

原四郎が七年間も社会部長、ということの意味の重要さは、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」というクビのかかった生活のなかで、名部長といわれるほどに、ほとんどまったくミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

そしてそれは、原が、統率の才にめぐまれていたことと同時に、さらに「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と、同一だったことである。

だが、景山は、あまりにも人情家でありすぎた。「ホトケのカゲさん」だったのである。「立松事件」という、日本新聞史に記録される、大誤報事件は、遠因として、山崎次長のミスを秘かに救ってやった景山温情部長の、部長としての在り方、姿勢に、すでに胚胎していたと私は思う。同じように、長期病欠から復帰してきた立松記者への思いやり、温情が、かえって裏目に出たのであった。

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

読売梁山泊の記者たち p.130-131 青木照夫もその一人である

読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。
読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ

満二年のシベリア抑留中に、私は、イルクーツクのそばの、バイカル湖沿いの炭鉱町、チェレムホーボの収容所で、KGBの少佐によって、「スパイ誓約書」に署名させられたという経験を持つ。

「…日本に帰ってからも…」という条項の入ったその誓約書は、シベリア抑留者の多くに暗い、重い心の負担であったに違いない。

現に、私の読売同期生で、私より一年遅れて帰国した青木照夫も、その一人である。彼は、報知新聞編集局長の現職で、早逝してしまったが、この心の重みが、彼の死を早めたのかも知れない。

昭和二十四年の暮れ、私は梅ヶ丘の都営住宅に入り、青木も、空家抽せんで、同じ平屋一戸建の都営住宅に入居していた。

寒さが、しんしんと夜気を静まらせていた深夜、米占領軍のジープの音が響き、声高な罵り声が聞こえて、目が覚めた。何事かと起き出して行ってみると、ジープが止まっているのは、青木の家だったのである。

二日か、三日、青木は帰ってこなかった。もちろん、出社していなかった。数日後に青木の家をのぞいてみると、元気のない様子で、彼が現われた。

その夜、二人は話し合った。彼が、「スパイ誓約書」に署名し、合言葉の男が訪ねてきたことを、私に打ち明けたのである。

それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。事実を竹内部長だけに打ち明けていた私は、青木の告白で、最終的な取材を終えた。

シベリア捕虜たちが、誓約書の文言に縛られて、心の重荷を背負って生きていることへの、〝気晴らしのレポート〟として、このスパイ実話を、翌二十五年一月十一日付朝刊の全面を埋めて、第一回分を発表した。

整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。この「幻兵団」の記事には、前段がある。シベリア復員者の「代々木詣り」という記事である。

私が日大で三浦逸雄先生(三浦朱門氏の父君)に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、欠かさずにやっていた。

そこで、婦人団体よりもテキパキと援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ、献身的な姿が見られた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

読売梁山泊の記者たち p.132-133 〝代々木詣り〟の引揚者

読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」
読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料ができ上がった。私は、これを竹内社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。

「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引き起こすと思います」

いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。

竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。

「それで?」

「予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いたほうがいいと思います」

こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴社に、先月既に八百名という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行なっているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、丁寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。

この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私はその記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。

「…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行なわれており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているのかを、時間をかけて、調べてみたいのです」

「何? スパイだって?」

「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているのに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は、同胞相剋の悲劇を強いられているのに違いない、と思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終わってまだ数年だというのに、もう次の戦争の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」

読売梁山泊の記者たち p.134-135 私自身が書いた〝スパイ誓約書〟

読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。
読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

「それで、調べ終わったら、どうするつもりだね」

「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが」

「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」

「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」

部長は許可してくれた。それから、私とソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私の許には、相当程度のデータは集まっていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集まってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一カ月のデータの中から、めぼしいものが浮かんでいたのである。そのなかには海部内閣の閣僚さえいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません」と、私自身の手で書き、署名さえした、〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類に残されているのだ。「…もしこの誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処罰をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

「ミータ、ミータ」兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭鉱作業に、疲れきった私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回も、ひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べをうけていた私は、直観的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が、着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

読売梁山泊の記者たち p.136-137 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ

読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。
読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良いものだった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。

「第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「宜しい。よく判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼しドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パダジュディー!(待て) 今夜お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭鉱の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」

と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、今までの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは、〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いない、と思っていた。

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに呼び出された。当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。

ペトロフ少佐と、もう一人、通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれ、ということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクー、ハヤクー」と、歩哨がせき立てる。

読売梁山泊の記者たち p.138-139 何か大変なことがはじまる!

読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。
読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクー、ハヤクー」と、歩哨がせき立てる。

「ウン今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージュナ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。

ソ連側から、やかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私は、そんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられたカカトが、カッと鳴った程の、厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、

見たことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳めしいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の、眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

「サージス」(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向かい側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当たっていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の「ワストーチナヤ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立上がってドアの方へ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルッブルッと震えた。

読売梁山泊の記者たち p.140-141 もはやハイ以外の答えはない

読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」
読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まりかえったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできない、この密室で秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ころうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会の男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人びとだけで、他の者は一部だけしか知り得ない仕組みになっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

スパイ誓約書に署名させられた実体験

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引き出しをあけた。ジッと、少佐の眼に視線を合わせていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いた。机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

——拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。

少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」

歯切れのよい日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくりと区切って発音すると、非常に厳格感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはソユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにして見つめている、二人の表情と声は、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ。もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白い紙

を取り出した。