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編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は?

編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)
編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)

■□■野村夫妻の次の舞台は?■□■第29回■□■ 平成11年(1999)10月2日

野村沙知代が不起訴になった。10月1日金曜日に、東京地検が同人に対する計7件の告発に対して、不起訴処分を決定した——新聞報道によれば、浅香光代の「留学という虚偽事実の公表」に対して、嫌疑不充分という理由だったという。他の6件の告発に対しても、同じ理由であろう。

私の代理人である塩谷(しおのや)弁護士から電話があったのは、1日の午後。「地検から連絡があって、午後5時に特捜部に行くことにした。同行できるか?」という。私にはすでにアポがあったので、「来週ではどうか」ときいたが、塩谷弁護士は「地検に来いという電話から判断すると、不起訴処分が決まった、ということでしょう。では、私ひとりで行ってきましょう」となった。その後の電話で、塩谷弁護士は、その不起訴処分の理由について、「72年に結婚したという、本人の認識が、公報の記載となった。その“認識”を崩せなかった」と、検事が見ているようだったと。

72年当時、野村夫妻はそれぞれ、戸籍上に妻と夫とがおり、いうなれば「不倫関係」であった。民法七五二条は、夫婦の「同居・扶助の義務」を明示し、かつ、七七〇条では、離婚提起の第一要件に「配偶者の不貞行為」をあげ、貞操を求めているのが「協力と扶助」である。つまり、夫婦には「住居と性生活の共同」を義務としており、野村克也、沙知代両人は“事実婚”の状態にあったということであろう。

これを換言すれば、浅香告発の「留学」、三田告発の「結婚」は、戦後数十年を経てその本来の語義が変わってきて、検察の「嫌疑不充分」に至ったのであろう。当初、私が危機感を抱いたのは、以前本稿でも指摘したように、自由党の東議員が、比例議員をやめて、東京15区の小選挙区議員に転進しようとした時からである。東議員が比例議員を退職すれば、第6位で繰り上げ当選待ちの野村が、議員になるからである。幸い東議員は3月末に転進を諦めたので、それは沙汰止みになったが、当選した5人の議員の誰かに事故があれば、繰り上げ当選である。これは放っておけないという危機感である。

それ以来、公報の「72年結婚」で告発し、処分決定までは被疑者、起訴になれば刑事被告人という「事実」を作らねば、繰り上げ当選の可能性が残存する、と考えていた。そもそも「留学」は、法定外文書である名刺や、記者会見でのコメントである。私は、立証困難で不起訴の可能性が高いとみていた。しかし、「72年結婚」は公報記載であり、戸籍があるのだから、証拠十分と考えていたのである。

しかし、検察は、「事実婚」を採って不起訴とした。一般人ならそれもよい。だが、国会議員候補者である。法律だけで判断すべきことだろうか。不倫の事実婚を、検察は容認したのである。不倫とは倫理にもとる、ということだ。「起訴便宜主義」という言葉があり、刑訴法二四八条は、検事が起訴、不起訴を決める(つまり胸先三寸次第)とある。不起訴ではなく「起訴猶予」にすべきであった、と私は思う。つまり「不倫の事実婚」に対して、国会議員候補者として倫理性を加味すべきだったのではあるまいか。

検察審査会に対し、私は申し立てしない。浅香申し立てがあるからである。そして検審の実情は、子供の交通事故死の運転者不起訴など、有権者の無作為くじ引きの委員たちに理解できる案件でなければ不起訴不当の結論は出ない。委員たちに理解できないケースでは、すべて「お上が正しい」のである。日本の現状は、まだまだ民度が低いのである。かつて、松本清張の盗作を告訴して不起訴になった経験がある。その時、検審に申し立てて、それを実感している。

だが、検審継続中に時効がきて、繰上げのメがなくなるし、テレビに彼女の顔が出ないだけで、私の告発も意義があったといえよう。ただ、検察には“則定現象”に見られるよう、倫理性を軽視する風潮があるのを、私は憂える。 平成11年(1999)10月2日

編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ

編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ 平成11年(1999)10月9日 画像は三田和夫47歳ごろ(手前 舞台芸術振興財団催事か1978年ごろ?)
編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ 平成11年(1999)10月9日 画像は三田和夫47歳ごろ(手前 舞台芸術振興財団催事か1978年ごろ?)

■□■政党助成金のデタラメ■□■第30回■□■ 平成11年(1999)10月9日

ノストラダムスの予言は外れた。だが、この世紀末に、世界の終焉を暗示するかのように、トルコに台湾にと大地震が起き、中央アジアや東ティモールで殺戮が続き、日本でも常識を覆す事件が続いている。則定東京高検検事長の女遊び、神奈川県警の不祥事続発と深山本部長の小手先処理。さらに、東海村の被爆事件。そのどれを見ても、マトモな人間のするハズのないことが、実に平然と、しかも淡々と行われている。野村沙知代の一括不起訴もまた、まともな人間には信じられないことになるだろう。

同じように、自自公連立内閣のスタートもまた、小渕首相の権力願望の具現で、なぜ総選挙で国民の気持ちの向かうところを確かめないのかと、白けてくる。赤字国債で金をバラまき、明日の見通しはない。東海村の補償で、また税金がキリなく投げこまれる。選挙に金がかかるからと、政党助成法で政党(議員個人と同じ意味)に税金を出し、企業献金(98年度153億円)の禁止にはシカトする。銀行には莫大な公的資金を注ぎ込む——これでは、まさにノストラダムスの予言そのものではないか。

この政党助成法という、政党に“公的資金”を注ぎ込む法律を見ていて、面白いことを発見した。自治省への届出(平成10年7月26日現在)を見ると、議員数は、自民党369、民主党141、自由党52、新党平和(衆のみ)38、社民党28、公明(参のみ)22、改革クラブ12、新党さきがけ5、と八党のあとに、第二院クラブ2、自由連合1、(いずれも参のみ)というミニ政党が二つ並んでいるのだ。

助成法第二条には、助成金を請求できる要件として、①国会議員を有し、②得票率2%以上、と制限が設けられている。だから、このハードルを越えられないミニ政党の新社会党、女性党、スポーツ平和党、青年自由党などは、比例区で数十万票を集めていてもどうしようもない。第二院クラブは、佐藤道夫代表が平成7年7月23日選挙で、比例区で128万3千票を集めて当選、西川きよし議員が平成10年7月12日選挙で、大阪選挙区のトップ106万弱で当選し、ともに実力派。それに、同年選挙の沖縄県区のトップ島袋宗康議員の24万強が加わり参院議員3名を擁している。だが、今までは助成金の請求をしていなかったのに、それでは次の選挙のポスター代も無い、と助成金を受けることに転換したという。

奇怪なのは、自由連合である。徳田虎雄代表は前回衆院選に出馬、鹿児島二区で自民党の新人(県議)に惜敗している。ということは、自由連合には国会議員がゼロになった、ということである。そこで徳田代表は、参院兵庫選挙区で当選3回の新進党・石井一二議員を引き抜いて、自由連合幹事長とする。幹事長などというが、元議員の代表と2人きりに過ぎない。そしてそれだけで、助成金五千四百三十九万円を手中にするのだ。

もともと、徳田代表は徳洲会病院の理事長である。全国各地に徳洲会病院を開設し、日本医師会には加盟せず、トラブル・メーカーになっている。そして、この政党助成金に見られるような、サギまがいの錬金術で、この病院群の資金としているが、最近は詰まってきて、助成金に目をつけたようだ。

昭和58年に奄美群島区で初出馬、当選4回を重ねていた保岡興治議員に負ける。昭和61年も三千票あまりで再敗。この選挙では創価学会票を保岡側と争奪した。平成2年にようやく、保岡票を二千票上回って初当選。つづいて平成5年に、4人枠の鹿児島一区で保岡トップの3位に甘んじて再当選。そして、小選挙区制になった平成8年では、保岡は一区、徳田二区と分かれて安心だったのだが、自民党にやられた。

徳洲会の病院群展開には、徳田が議員であることが要件だったようで、目前に迫っている次の総選挙には、連立の余波で学会票は自民候補へまわるだろうから、また落選で“徳田錬金術”もついに終幕を迎えるだろう。 平成11年(1999)10月9日

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)
編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)

■□■ガングロたちへの提言■□■第31 回■□■ 平成11年(1999)10月16日

さる10月3日付の「しんぶん赤旗」紙は、女子美短大の池田孝江講師(服飾史)の「歴史はくり返す? 厚底サンダル」という一文を掲載していた。今週封切り予定の米映画「娼婦ベロニカ」の予告編に、木靴カルカニーニが出てきた、という書き出しである。

16世紀ベネチアでは、高級娼婦から一般女性まで、14センチから40センチもの、カルカニーニを履いていた。それは、ベネチアでは、運河が洪水を起こすので、女性の自衛のためのものだった。当時の画家ヴェチェッリオの描いたものがあり、スカートの下に男性用の半ズボンを着け、カルカニーニを履いている姿が見られる。

「私たちは男のうしろからついてゆくのではなく、同等に、時には男の腕をとってリードしてゆくのです」と、女子学生が語っているそうだ。「体位の上でも仕事の上でも、男性と同等の目線でものを見、活躍する時代は、もう手の届くところまで来ています」が「しかし厚底サンダルは、男女機会均等に寄与する積極性より、行動を束縛されかねません」と、男性と同じ高さの目線でものを見るという前段部分を引っ込め、行動の束縛という実相を認めている。

16世紀のベネチアで、厚底木靴が流行していたということは、さすがの私も知らなかったが、水溜りを歩くのに便利という実用性だけだったのだろうか。池田講師の文中、「娼婦ベロニカ」「高級娼婦」という言葉が出てくる。そこで私が思い出したのが、いまでは全く見られなくなった纏足(てんそく)だ。79年に私が戦後初めて中国に旅行した時には、北京の胡同(フートン・うら町の意)で、ヨチヨチ歩きする纏足の老婆がいたものである。辞典によれば「昔中国で子供の時から女の足に布を堅く巻きつけ、大きくしないようにした風習」とある。

もちろん、中国の女の子のすべてが、纏足したのではない。売買婚の形が強く残っており、一夫多妻だったころ、いうなれば娼婦に近い女性たちの(妻も含めて)、逃亡を防ぐ狙いもあったようだ。農婦をはじめ、労働者階級ではやらない。その亜流が、祇園舞妓のポックリ(高下駄)だったのだろう。

今の風俗で、ガングロ・キンパツという画一的な流行にとらわれる女の子たちが、厚底サンダルの常習者である。決して、男と同じ高さの目線を持ちたいという、希求があるのではない、と私は断じたい。

中国の纏足は、女性の足、くるぶしより先の部分の発達を防ぐのが目的である。つまり、身長、体重に比例させないので、О脚風にヨチヨチ歩きを強いられる。その狙いはなんなのだろうか。ベネチアでも、娼婦たちから流行したヨチヨチ歩き。日本のポックリも、水商売の女たちの風俗である。これらに共通する効果は、女性器の訓練である。

日本の俗言に、「ビッコの女はいい」というのがある。足の不自由さのゆえに、日常の歩行の中で、腰の安定のために、下腹部の筋肉が鍛えられて、性器の緊縛度が強くなるといわれる。同じく俗語のキンチャク(巾着袋のこと)になると信じられている。

私が警視庁記者クラブ時代、新任の社会部長歓迎会の行事で、幹事の私は、浅草で“花電車観賞会”と洒落こんだ。バナナ切りのあとのゆで卵飛ばしとなった時、膣内に残っていたバナナのスジが飛び出し、新社会部長のほっぺたにくっついて、大笑いだった。

もう浅草あたりでも、花電車の芸人はいないようだ。府立五中の同窓会で、私は北関東の温泉に、その芸人がいると聞き、余興に呼んだ。クリスチャンの学校長が真剣に見つめていたのが印象的だった。年増の芸者の演技は、まさに芸術的で、ワイセツ感はなし。

ガングロ・キンパツたちも、こういう“芸術家”を目指すべきだ。 平成11年(1999)10月16日

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)
編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)

■□■検察一体の原則■□■第32回■□■ 平成11年(1999)10月23日

野村沙知代の不起訴が確定した。嫌疑なし不起訴ではなく、嫌疑不十分不起訴だ。一度東京地検が不起訴処分にしたのに対し、告発人・浅香光代が検察審査会に「処分不当」の申し立てをし、検審が信じられないほどのスピード審査で、「不起訴不当」の結論を出したのだが、検察は、時効ギリギリの18日に、再度不起訴の処分を決定した。さる10月1日の不起訴処分から18日目であった。

私の「結婚の虚偽事実公表罪」容疑の告発は、10月1日に不起訴になり、私は検審に申し立てはしなかった。検審があのスピードで審査するとは、信じられなかったからだ。したがって、学歴詐称の浅香告発が検審で「不起訴不当」の結論を得たのだった。

私の「検察との付き合い」は長い歴史がある。昭和24年から25年にかけての1年間、警察まわりを卒業して、法務庁(当時はまだ庁だった)司法記者クラブへ。文系で法律も知らないのだから、六法全書との戦いだ。まだ刑政長官などという役職があった。そして、“検察の派閥対立”の芽をみつめる。

約1年ののち、国会遊軍を経て警視庁記者クラブへ。そしてさらに、昭和32年司法記者クラブのキャップになってまた1年勤務する。昭和33年夏に、横井英樹殺害未遂事件(安藤組事件)に関係して退社した。昭和42年、独力で正論新聞を創刊。「検察体質改善キャンペーン」を開始したのである。

私が、読売のクラブ・キャップの時、部下の記者の一人が酒に酔った。新年の御用始めの午後、検察との懇親の席である。突如、怒声が上がったので彼の許に駆けつけた。彼は一人の検事に向かって、怒鳴りまくる。「ナンダ、お前たち検事は! この世の中で、検事だけが最高のインテリだって、ツラしやがって! そのオゴリ高ぶったツラが気に食わねえ!」と。場内が静まり、検事や他社の記者の非難の視線の中を、なお怒鳴りつづける彼を抱いて、私は彼を連れ出した。当時の記者クラブには、彼の言葉に拍手を贈るものと、検事のオヒゲのチリを払う手合いと、ふたつの流れがあった。そして彼の酔余の怒鳴り声の対象が、「検察の一般像」であった。

このS記者の“暴言”は、多くの検事の持っていた「オゴリ」に反省を求めたものだったのだが、効果はなかった。しかし、検事にとっても、このように面罵されたのは、空前絶後のことであったろう。

正論新聞の検察キャンペーンの結果、二代の検事総長が努力して、派閥対立の解消のため、足留めを食っていた“負け派閥”の幹部2人を検事長とし、その1人である大阪検事長の岡原昌男は、定年後に最高裁判事に転出し、のちに最高裁長官にまで進んだ。

だが、派閥対立がこうして解消し、「検察一体の原則(検事は上から下まで一体だ)」が確立され、緊張感がなくなったからだろうか、ヤメ検の悪徳弁護士(金儲け専門)が出るばかりか、則定東京検事長の女遊び、偽名でのホテル同伴などの不祥事が起きた。これもまた、検察一体の原則なのか、浅香告発の当初の“門前払い”などは、いささか理解に苦しむところである。事後の検察の対応をみると、告発受理、不起訴の報道、否定の記者会見、不起訴処分の発表、検審申し立てへのコメント発表、不起訴処分——この流れには納得できない部分が多すぎる。検察は、いったい、どうなってしまったのか。

また、その強権ぶりを物語るのは、オウム麻原の主任弁護人だった、安田好弘弁護士が顧問会社をめぐる強制執行妨害罪に問われて昨年12月に逮捕された件だ。3度の保釈許可が検察の抗告で却下され、4回目のさる9月27日ようやく許可になった。懲役2年の刑の容疑ですでに10カ月も拘置されているのである。

この強権ぶりと、野村沙知代不起訴決定との間に、あまりにも検察官の権力の不公平を感ずるのである。日本の各界、各層の世紀末現象の中で、私たちは、いったいナニを信用できるのか。 平成11年(1999)10月23日

編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想

編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想 平成11年(1999)10月30日 画像は三田和夫63歳(右から二人目 紫友ペン1985.03.06)
編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想 平成11年(1999)10月30日 画像は三田和夫63歳(右から二人目 紫友ペン1985.03.06)

■□■男女同一労働同一賃金の理想■□■第33回■□■ 平成11年(1999)10月30日

前々週の「ガングロたちへの提言」に対して、東京都の女性から、掲示板へ「やっぱり編集長も女性の性をお金で扱うのをよしとしている男性の一人と感じてしまい」「削除されるかもしれませんが、このような感想を持ったことをあえて書かせて」とご意見が寄せられた。反論を今週のテーマとしたい。

1917年のロシア革命は、封建制の打倒だけではなかった。同時に女性の解放、つまり“性”をも束縛から解き放った。その結果としての、男女同一労働同一賃金制である。私は敗戦の秋、バイカル湖の西方の炭坑で過重労働を強いられていた。そこには、ソ連的共産主義体制が、色濃く満ち満ちていた。

収容所のバリケードの入り口で、ソ連将校たちが捕虜の荷物を調べ、時計、カメラから爪切りまで掠奪していた。その様子を眺めながら、女たちの人垣が出来ていた。口々に騒ぎ笑いながら、私たちを指差したりする。私たち将校団の中に、召集された開業医の軍医がいた。「軍医殿、女たちは指差してナニを決めているんでしょうか」「ウーン、キンヌキ(去勢手術)の順番かな」と。年配の軍医の返事だけに、若い私たちには不安のタネとなって緊張が流れた。

だがその不安は、数日後には大笑いになった。8時間3交代で石炭掘りに出る私たちをあの女たちが襲ってくるのだった。まだ厳冬も経験せず、体力が十分だった捕虜たちは、女たちと性行為をした。その結果判明したことは、初日に指差したのは、「私はあの男がいい」「イヤ私はあっちの男」と、品定めをしていたのだった。大笑いも当然である。

そして兵隊たちは、習い性となった“行為後の支払い”に、軍手や軍足(靴下)などを渡す。戦勝国などとはいえないほど、物資が欠乏していた彼女らは、大喜びだった。やがて彼女らは、このプレゼントが“対価”なのだと気付く。そうなったらすごいインフレである。下着から毛の防寒下着、羊毛軍服まで高騰し、身ぐるみ剥がれてしまった。だが“売春”の習慣がないのだから、兵隊たちの財産がなくなったら、初めのように“性のエンジョイ”に戻った。現実に、働かざる者は食うべからず・男女同一労働同一賃金の原則が確立されていなければ、女の性は金銭で扱われるのである。それは、資本主義では、男のほうが高収入だからである。今のロシアは、すっかり変わったようだが、ソ連時代には“日本の女権論者”たちが随喜の涙を流しそうな事実があったのである。

アメパン、花電車など、死語となった言葉を、私はよみがえらせている。今の一過性流行語よりも、はるかに含蓄があり、戦後の世相を寸言で描破しているから、伝承の価値ありと判断するからだ。花電車というだけで不愉快だと感情移入するのは、私は賛成しかねる。スポーツマンの鍛錬と同じく練習に次ぐ練習で、一人前の芸人になる。タタミの目に立てた札をはさみ取り、徳利の口に乗せた硬貨を吸い取り、あまつさえ、客の注文に応じて、100円玉、10円玉と正確に吐き出す——観客は息をのんで静まり返り、“芸術的演技”に打たれるのだ。客が出した札も硬貨も彼女の収入だ。努力が報いられる高収入である。

水商売に入る女性は、自分の意志で入るのである。「心も身体もつらい状態」などというのは、知的を気取る女性が、おのれの優越感を誇示する言葉にすぎないと、私は思う。女性の弁護士や議員たちこそ、程度の低い女性の啓発のための運動をすべきで、人権発言は無用だと思う。

ガングロ・厚底たちが、単なる模倣に流れて、向上心の片鱗も見られないことへの、皮肉を書いたのだが、お気に召さなかったみたいだ。 平成11年(1999)10月30日

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)
編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)

■□■民主化を阻む元凶は勲章だ■□■第34回■□■ 平成11年(1999)11月6日

恥ずかしながら…と、横井さん流にいえば私は、正八位勳七等で宮中席次第何階だかに属する身分だった。といっても、それは戦争中に陸軍少尉に任官したから、それについてきたものである。当時の定番だったのだ。だが残念ながら、“証文”はないのだ。同期生には、その勲記という天皇のサインのついた証文を持っている者もいる。私たちは、野戦軍からシベリア捕虜と、日本を留守にしていた。一方、運のよい仲間は、日本国内で終戦を迎えた。そしたら宮内省から通知がきて、「正八位」の書類を受け取りに来いという。だから同期の少尉たちは、その証文をもらったというのだ。

ところが、その証文の発行には期限があり、私が復員してきた時には、もう期限切れでもらえなかった。のちにシベリア捕虜の“御苦労賃”として、一律に10万円の国債が支給された。菊の紋章の入った銀杯も、記念品として送られてきた。同期生会の席上、正八位組が、アンナ紙切れよりも10万円のほうが良かった、と大笑いしたものだった。

この正八位勳七等の位記勲記の支給に期限が設けられたのは、進駐軍の占領政策の目玉のひとつ「栄典の廃止」と関係があったのだろう。華族制度や勲章の廃止が命令されたのである。そして、昭和27年春の講和条約調印から、六カ月の切替期間があり、日本はその秋に晴れて独立国になった。

その一年後の28年9月18日付の閣議決定で、「緊急の叙勲取扱いに関する件」があり、さらに10年後の38年7月12日付で、「生存者の叙勲開始について」と閣議決定された。池田内閣の時である。こうして、叙勲制度というか、勲章が復活したのだった。しかも、生きている人に対して、等級を付けた勲章を政府が授与するということだ。

戦前は、成金で金ができると、まず女買い、それに飽きて、旅行。そのあとが名誉(勲章)を期待しての政治家買い、と相場が決まっていた。そのため、売勳事件などが起き、生存者叙勲は特別なケースで、死後、追贈されるのが主流であった。

ところが、生存者叙勲が主流で、政治家と官僚は、勲章をチラつかせて権力をほしいままにするのである。北朝鮮の将軍たちは、左胸だけでは足りず右胸にまで数多く飾り立てて、宮沢賢治の「バナナン将軍」を思わせる漫画スタイルである。日本で、スポーツ選手が金メダルを背広の胸につけて街を歩いたら、笑い者になってしまうだろう。

第一、どうして等級をつけるのか。これほど、人間に対する侮辱はあるまい。しかもその等級差別の根拠がアイマイだからだ。慣例として、役職や経歴が根拠になっているようだが、日本新聞協会という業界団体のボスが勲一等で、日本雑誌協会長という同じ業界団体の長が勳二等としたら、新聞と雑誌で、それほどの違いがあるものなのか。

中曽根元首相が大勳位で、他の首相経験者がどうなるのか。村山社民党首相はどうなるのだ。4日の午後、参院の代表質問のテレビをつけっ放しでいたら、小渕サマサマで、歯の浮くようなオベンチャラをいう奴がいる。何奴かと思って画面を見たら、参院自民党幹事長で小渕派の元郵政省人事局長で、労相経験者。72歳にもなって61歳におもねるのは、もう一度大臣になりたいか、勲章欲しさとしか思えないではないか。

文化勲章、文化功労者、人間国宝などは、それぞれの経歴と技能とが、万人とはいえなくとも、それぞれの世界で認められる人物だから、それほど異論は出ない。ただ、早いか遅かったかの違いだけである。

生存者叙勲、勲章等級制度は、二十一世紀に向けてやめにすべきである。名誉欲という人間の弱点につけこむ制度は、商工ローンの手口と同じである。蛇足ながら、「大臣」という封建制の名称も「長官」に統一すべし。 平成11年(1999)11月6日

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会
編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会

■□■警察腐敗は後藤田亀井が根源■□■第35回■□■ 平成11年(1999)11月13日

最近の警察の紊乱腐敗(びんらんふはい)ぶりには、もう言葉がない。しかし3年の警視庁記者、2年の司法記者として、警察官に多くの知己を持つ記者として、どうしてこの20年ほどにかくも乱れ切ってしまったのか考えてみて、1つの結論を見出した。それが、このコラムの見出しそのものなのである。

後藤田は警察庁長官であった。つまり全警察官のトップだったのである。それが、おのれの政治志向のため、田中内閣で官房「副」長官になる。仰ぎ見た長官が「副」になったのである。行政官としては、警察庁長官も、官房副長官も、ともに次官級職だから、本人も周辺も、格別「副」にはこだわらなかっただろう。

しかし、階級制で維持されている警察組織の、多くの人々にとっては、ナゼ、「副」なんだと、奇異に感じ、後藤田の転身を、自己利益追求のための、ナリフリかまわぬ転身に見えたのだった。ここでまず、警察官全員の精神的支柱をブチ壊したのだった。

政治家としての後藤田は、順調に権力を上りつめ、副総理にまで進んだ。資産公開では、20億以上の財産があった。彼の後を追って、亀井静香も政治家に転身した。キャリアだった彼は、警察のカオを利かせて、パチンコのプリペイドカードを企画した。ノンキャリア幹部達の天下り先と世間をゴマ化したが、頭のいい中国人達に偽造されて失敗した。だが、亀井個人は、これで政治資金ルートを確立し、自民党でもトップクラスの集金力だといわれている。

後藤田と亀井。この2人の先輩後輩のタッグチームに、キャリアたちは、その権力、金力にあやかろうとモミ手をし、部下や現場のことは忘れてしまった。一般の警察官たちは、敏感に様子をみてとって「バカらしくてやってられない」という気分に追い込まれ、それぞれの立場で、金を手に入れようとした…。

なによりも、精神的な切磋琢磨を必要とする警察組織は、上官に対する尊敬と信頼によって、その本来の組織を保持できるのである。それを打ち砕いたのが、キャリアと呼ばれる連中であり、根源は後藤田正晴、亀井静香の両名に集約される。小手先の改革など笑止である。 平成11年(1999)11月13日

編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する!

編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)

■□■小渕世襲後継に反対する!■□■第36回■□■ 平成11年(1999)11月20日

小渕前首相が亡くなって、日刊紙はしきりとその遺徳をたたえる紙面を展開している。通夜、密葬とも、青山葬儀所で盛大だったと参加者の人数を出して、アピールしているのだが、私は反論を唱えたい。

祭壇には遺影と勲章だけ。その遺言に「葬式は簡略に…」とあったとかで、献花の看板ズラリもなく、無宗教で、白花を献ずるだけというので、カッポー着のオバさんや高校生までが並んだという。

「首相臨時代理」の任命があったか、なかったかで、モメているくらいだから、この遺言は事前に用意されていたものだろう。それならばナゼ、「二世の後継は無用」も、同時に用意しなかったのか。「小渕の名を消すな」という、地元の熱意は、26歳の次女を担ごうとしているが、これほど、国民をバカにした話はない。国会議員のバッジは小淵家の私有財産な のか?

やっぱり、私は小渕恵三は首相の器ではなかったのだと思う。一国の総理という重責を担いながら、ブッチホンだ、ナンだと、パフォーマンスのみ心を砕き、十分な休養を取らなかったから、血管がブッチ切れてしまったので、いうなれば“自業自得”であり、本人はもちろん周辺の人々の補佐責任も大きいということだ。

現職で死んだもう一人の首相、大平正芳の最後も哀れなものだった。周辺の医者から聞いた話だが、心臓外科の医師たちは、バイパス手術をすすめ、そうすれば半年後には再び政治活動もできる、手術をしなければ生命の保証はできないと直言したようだ。だが、秘書や官房長官など、側近の人たちは「やりかけの仕事(利権か?)があるから」と、手術を受ければ首相を辞めざるを得ないので、手術に反対し、本人もそれを認めたというものである。そして、数日後に死んだ。これも“自業自得”である。

横綱・若乃花の引退も、能力がないのに、周辺に押されて横綱にさせられた。だから引退に追い込まれた。これも、小淵首相と同じケースだが、横綱には引退があり、年寄株で威張れるところが、首相とは違う点だ。

だが、新聞は「惜しまれて去る」と、大げさな紙面を作った。能力のない人間は能力以上の器にはなれないのである。

日本には、古来、死者に鞭打たずを美徳とする風習がある。だが、首相という最大の公人は、冷静に批判されるべきである。ましてや「小渕の名を消すな」などと、人物、識見ともわからぬ“小娘”を後継ぎになどは、言語道断である。 平成11年(1999)11月20日

編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい!

編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい! 平成12年(2000)5月20日 画像は三田和夫70歳(右側 上海鉄路分局・文明車站1992.02.04)
編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい! 平成12年(2000)5月20日 画像は三田和夫70歳(右側 上海鉄路分局・文明車站1992.02.04)

■□■バスジャックの父親! 出てこい!■□■第37回■□■ 平成12年5月20日

テレビには映らなかったから、両親が揃って出てきたのか、母親だけだったのか、シカとは分からぬが、新聞紙上には「説得の自信がない」と称して、バスにも近寄らなかったようである。この事件の報道、ことにテレビでは、午前5時の突入まで、徹夜して見つめながら、イライラの連続であった。

まず警察——ナゼ、十何時間も走らせ放題にしたのか。タイヤを撃ってパンクさせることも出来たではないか。ことに、二度目の停車で、瀕死の女性を運び出したときに、どうして、狙撃しなかったのか理解に苦しむ。窓から説得している隊長は、十分に狙撃のチャンスがあったはずである。

広島のシージャックの時に、狙撃したため、殺人罪で告発された過去が、彼らにタメライを与えたようであるが、瀕死と重傷2人と、3人の女性を搬出したときが狙撃の機会だったと思う。狭いバス車内での、少年の狂気にさらされた乗客たちの恐怖は、射殺しても余りある罪状である。

警察がダメなら、両親である。父親がバスに乗り込み、身を挺して刃物を奪うべきであった。そうでなければ、こちらも刃物を持って、少年を刺すべきであった。母親とて同罪である。自分が生み、育てた息子に、「刺してみろ」という勇気がないのか。そして死んだら本望であろう。少なくとも、バスに乗り合わせただけの他人を殺したり、刺したりすることに比べれば、親がヤラレるほうが、ベターである。

リュックに刃物を荷造りしているのなら、それを取り上げるのが本当だろう。コワイのであれば、家族で逃げればいいだろう。息子のことを警察に訴えた上で…。でなかったら、今までに数多くの実例があるように、親の子殺しである。寝ている時になら、やれるハズである。他人さまを襲うことに比べて当然の結論である。夫婦で生んで育てた責任を社会に対して取るべきである。

ナゼ、このような“極論”をいうかといえば、母親の「精神病院も警察も取り合ってくれなかった」と、責任逃れ、他人のセイにする言動が出てきたからである。

むかし、29歳の無職男が、エロ本を売っていて警察に捕まった。その父親が東大教授だったので、父親の育て方を非難する声があがったことがある。父親は毅然としていった。「29歳にもなった息子への、父親としての責任はない」と。

17歳だから、親の責任を私は問うのだ。事件が起きたのを、内閣危機管理室の報道で知った森首相は「射殺しろ!」と命令すべきであった。そうすれば、この両親と同じように、責任を取るのがコワイらしい、県警本部長なるキャリアは安心して射殺を命ずるだろう。そして、少年の射殺体の写真を、ひそかに週刊誌に流してやるのだ。

小渕前首相の病床写真よりも、少年の射殺体の写真は、全国の17歳の「虞犯(犯罪を起こすおそれのある)少年」たちに感銘を与えるであろう。もちろん、今回のように模倣犯も出ないことは、請け合いである。

森首相も“神の国”騒動が吹っ飛び、総選挙も、ひょっとすると大勝利かもしれない。いずれにせよ、今度の選挙で自民党が大敗すれば、森首相と野中幹事長の責任である。バスジャックも解決して、万万歳だったといえる。

それにしても、この少年の父親! 卑劣な男だ。自ら名乗り出て、社会に詫びよ!

射殺されれば、少年は極楽往生。両親ら家族は、これからの長い人生を、どう生きていこうとしているのか? 平成12年5月20日

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?!

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)
編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)

■□■新聞がそこまでやるかね?!■□■第38回■□■ 平成12年6月4日

自民党には、四月会と呼ばれるグループがある。そのリーダーのひとりが、新潟比例区(正確には北陸信越ブロック)の白川勝彦(当6)で、新潟県警の腐敗摘発のキッカケになった、交通違反モミ消しの標的にされた。というのも、四月会は反創価学会(同時に公明党批判)の集まりだから、白川が狙われたのだ。チックリ(密告)したのは創価学会だという“噂”が流れたほどだった。

白川と同様に、四月会で頭角をあらわしてきたのが平沢勝栄(当1)である。10チャンネルの「朝生」の常連にもなって、政教分離を唱えて注目されていた。警察官僚出身で、先輩の亀井静香の子分、亀井のパチンコのプリペイドカードの立案者ともいわれ、大先輩の後藤田正晴⇒先輩の亀井⇒平沢と、パチンコ業界献金の上納ルートだ、といわれていた。

サテ、毎日新聞は子会社で聖教新聞の印刷を請け負い、池田大作著作の特別広告をもらう、という関係だから、この四月会の記事は一行も書かないほど創価学会に気をつかっていた。

ところが、その既得権益に読売新聞が割り込んできたのである。学会にしてみれば、300万部新聞の毎日より、自称1000万部の読売のほうが、影響力があると考えた。読売に対抗できる朝日新聞には、学会がスリ寄るスキがない。そこで、読売に公明新聞だかの印刷を発注し、特別広告も出してきた。だが読売は、四月会の記事など、大きく書いたりする“作戦”で学会にブラフをかけたりしていたのだった。

お話は変わって、平沢と亀井の仲が、最近は良くなくなってきている…という話が、永田町で取り沙汰されていた。そんなことあるものか、と私はハナ先で笑っていたのだが、衆議院の解散、総選挙となった2日、なんと平沢が自民党の公認が取れず、無所属で出馬か、というニュースが流れてきた。亀井政調会長というバックを失った平沢は、野中という“公明党利用”の幹事長のもとでは公認が取れないのも当然と、不仲説にうなずけたのである。

6月3日付の読売朝刊。社会面のトップは、野中幹事長の前で平身低頭する平沢と、それを傍らで眺める森首相の写真だった。野中は「関係者にご迷惑をかけたことを、深くお詫び申し上げる、という詫び状が出されたので公認した」と、記者発表した。当選6回、73歳で幹事長なのだから、当選1回、53歳、無役の平沢が野中に礼を尽くすのは当然だ。しかし、この“平身低頭”の写真は、平沢にとって終生忘れ得ない屈辱の場面であろう。涙なくして正視でき得ない…。

いうなれば、自民党内の反学会派ツブシである。その片棒を読売新聞が担いでいるのである。創価学会に文句をいう奴は、こうなるのだゾ! と、池田大作が嘲っている——。

蛇足だが、同日付の産経と毎日にだけ、「読売社長が自宅で転んで骨折入院した」という小さな記事が出ていた。警察官僚の大々先輩の故正力松太郎(読売社主だった人)が、平沢をあわれんで、ナベツネに「ゴマスリはやめろ」と注意を与えたのかもしれない。 平成12年6月4日