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最後の事件記者 p.238-239 なぜ妻子を残して死なねばならぬ

最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。
最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ、一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。

終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側では、スパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。

これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。

三十五名の日本人を、さらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官

吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日暮、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。八月十四日の公安三課のラ事件のその後の経過発表も、私の公休日という悲運だった。しかも、その時には、すでに日暮、庄司両氏を逮捕していたのである。私は休日出勤してきて、かねて準備していた、志位元少佐の記事を書いた。これはスクープではなかったが、読売が一番詳細、正確な記事だった。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが、全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

『お忙しそうにどちらへ?』

『イヤ、ちょっと、なに……』

『アア、目黒ですか』

彼は一人で納得してうなずいた。

最後の事件記者 p.240-241 私は特ダネ記者といわれた

最後の事件記者 p.240-241 私は泣いた。これほどの醜態はなかった。新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。
最後の事件記者 p.240-241 私は泣いた。これほどの醜態はなかった。新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが、全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

『お忙しそうにどちらへ?』

『イヤ、ちょっと、なに……』

『アア、目黒ですか』

彼は一人で納得してうなずいた。いつもの私なら、ここで「エ? 目黒?」と、ピンとくるはずだったが、それを聞き流してしまったのである。

翌十五日の日曜日朝、私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に落ちてニジんだ。朝日のスクープは、一面で日暮、庄司の現役公務員の逮捕を報じているではないか。

しかも、読売はどうであろうか。「政府高官逮捕説を、警視庁が否定」と、なくもがなの断り書を、小さな記事ではあるが、出しているのである。昨夜、電話で、「警視庁は誰も逮捕していないと、否定していますよ」とデスクに断ったのが、記事になっている。確かに、平事務官なのだから、〝政府高官〟ではないかもしれない。しかし、朝日が逮捕をスクープして、読売が否定しているのでは、あまりの醜態であった。デスクが、「じゃ断り書を記事にしておこう」といった時、私は「そんなのは、デスクの責任逃れだ」と思っただけで、あえて反対しなかったのも、痛恨の限りであった。

調べてみると、この両名の逮捕は、警視庁が極秘にしていたのを、この事件を防諜法制定の道

具に使おうと思っていた緒方副総理が、朝日の政治部記者へ洩らしたのだ、といわれている。その上、「目黒へ」といった係官から聞けば、彼は私が急いでいたので、ちょうどまだガサ(家宅捜索)をやっていた、目黒の庄司宅へ行くのだと思ったという。つまり、私がすでに庄司、日暮の逮捕を知っているものだと極めこんでいたのであった。

私は泣いた。これほどの醜態はなかった。取材源が警視庁だろうが、内閣だろうが、新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。取材源や取材の経過などは、それほど問題ではないということだ。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

私は特ダネ記者といわれた。それがこのていたらくであった。もちろん、私の記録の中にも、輝かしいものばかりではない。失敗のみじめな歴史も多い、だが、この時ほどに、ニガい思い出はない。

横井事件の犯人隠避も、惨敗の記録ではある。しかし、これは爽快な敗け戦である。思いかえしてみて、いささかも恥じない。快よい記憶である。「紙面で来い!」と、タンカをきりそこねたのである。しかも、私の先手を警察に奪われて、警察の先手を、また奪い返したからである。

スパイ事件は私のお家芸であったのだ。それで、あの三橋事件の勝利も、自信をもって戦えた

からである。それなのに、最後の「目黒へ?」という言葉も、聞き流してしまうとは!

朝日をみつめながら、私のホオはまだ涙でぬれていた。

最後の事件記者 p.242-243 いま、お医者さんが来るから

最後の事件記者 p.242-243 妻は、もう顔面が蒼白、力ない表情で私をみる。暁の町を走って、医者を叩き起した。ドン、ドンと叩いても、返事のないいらだたしさ。——死ぬのかな! 不吉な予感が走る。
最後の事件記者 p.242-243 妻は、もう顔面が蒼白、力ない表情で私をみる。暁の町を走って、医者を叩き起した。ドン、ドンと叩いても、返事のないいらだたしさ。——死ぬのかな! 不吉な予感が走る。

記者は悲し

八月二十八日、日暮事務官が飛び降り自殺をした。この日も私は公休日であった。前夜から、雑誌原稿を徹夜で書き続けていたが、ラジオは入れっぱなしだ。やがて正午のニュースが、自殺事件を伝えた。

——迎えが来るナ。

もう数枚で原稿は終るところだ。そう感じていると、ちょうど書きあげた時、迎えの自動車がきた。

妻は二度目のお産で、もう予定日だった。二度目だから自宅で生むという。そのため、この八月へ入ってから、何かと雑用の多い毎日だったのである。日暮事務官の自殺とあれば、事件はいよいよ深刻化しよう。もしかすると、今夜は帰れないかもしれない。私は、妻の手を握って、その旨を話し、無事にお産を済ませるようにと、激励した。一睡もしないまま、社へ出た。

それから丸一日、取材のため駈けずり廻って、社会面の全面を埋める、「ラストボロフ事件の真相」という原稿を、数人の記者たちとまとめた。三部作である。

第一部が、志位自供書、第二部、捜査経過、第三部の解説——最終版の校正刷りを見終って、帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、約一時間ほどで母に叩き起された。

『アト産が出ないので、出血が止らないのよ。すぐお医者さんを呼んできて……』

隣りの部屋に入ってみると、血まみれの胎児は、まだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。妻は、もう顔面が蒼白、力ない表情で私をみる。

暁の町を走って、医者を叩き起した。ドン、ドンと叩いても、返事のないいらだたしさ。事情を話して往診をたのみ、自宅へかけもどってきた。

『オイ、確りしろよ、いま、お医者さんが来るから』

励ましの言葉をかけても、もう妻には答える気力もない。剥離しない胎盤のため、刻一刻、血が流出しているのだ。

——死ぬのかな!

不吉な予感が走る。もし、今夜の仕事が、張り込みにでもなっていたら、どうだったろうか。

私は妻の死に目にもあえない!

最後の事件記者 p.244-245 新聞記者という奴は何者なのか

最後の事件記者 p.244-245 私は二日間の完全な徹夜で、疲れ切っていた。流血死に近づいてゆく妻のまくらもとで、そんな自問自答を続けていたが、フト、疑問が湧き起ってきた。
最後の事件記者 p.244-245 私は二日間の完全な徹夜で、疲れ切っていた。流血死に近づいてゆく妻のまくらもとで、そんな自問自答を続けていたが、フト、疑問が湧き起ってきた。

——死ぬのかな!

不吉な予感が走る。もし、今夜の仕事が、張り込みにでもなっていたら、どうだったろうか。

私は妻の死に目にもあえない!

私は考えた。妻の死に目と、仕事のどちらをとるであろうか、と。

——私は仕事をとるだろう。新聞記者という仕事だから……。

——フン、その場に直面しない、仮説だからそんなことがいえるのだろう。

——バカな、オレは仕事をとるさ。現に今夜だって、もし取材が終らなければ、帰宅しなかっただろう。そうすれば、妻の死に目に会えないのじゃないか。仮説じゃないさ。

——そうか。それもよかろう。〝仕事の鬼〟ッてところだな。そんなに、仕事が大切なものなら、世の常の夫のように、妻のみとりもできないのなら、何故、結婚なンかしたんだ? 妻子が可哀想じゃないか。

——そりや、オレだって、家庭がほしいさ。第一、オレは子供を幸福にしてやりたかったんだ。

——フン。御都合主義だナ。それで、仕事と妻の死とでは、仕事をとるというのか。

——新聞記者だもの、仕方がないよ。

——記者、記者ッていうけど、新聞記者の仕事ッて、そんな大切なものなのかい。一体、何なのだね。

——エ?

私は二日間の完全な徹夜で、疲れ切っていた。流血死に近づいてゆく妻のまくらもとで、そんな自問自答を続けていたが、フト、新聞記者という職業についての、疑問が湧き起ってきた。

抜いた、スクープだ、といって、一体それがなんであろう。抜かれたといって、何であろう。新聞記者という奴は、何者なのだろうか。

医者がきた。血は止った。妻はコンコンと眠りに落ちた。死の影は遠のいた。新生児は生ぶ声をあげ、血を洗い流してもらって、安らかに眠っている。もう正午すぎである。

KRからの、ニュース解説の依頼がきて、録音に出かけた。六千円ばかりの謝礼をもらって社へ帰ると、「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」と、同僚たちがよってきた。ハシゴで飲み歩いて泥酔した。「新聞記者ッて何だろ」と考え続けていたようだ。その翌朝、玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。

最後の事件記者 p.246-247 ニセ信者になって交成会に潜入

最後の事件記者 p.246-247 『何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ』と、全く話が変になってしまった。
最後の事件記者 p.246-247 『何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ』と、全く話が変になってしまった。

立正交成会潜入記

立正交成会へスパイ

警察の主任になったり、旅館の番頭などと、芝居心をたのしませながら仕事をしているうちに、三十一年になるとまもなく、警視庁クラブを中心とした、立正交成会とのキャンペーンがはじまってきた。

その前年の夏に、警視庁に丸三年にもなったので、そろそろ卒業させてもらって、防衛庁へ行きたいなと考えていた。「生きかえる参謀本部」と、「朝目が覚めたらこうなっていた—武装地帯」という、二つの再軍備をテーマにした続きものを、警視庁クラブにいながらやったので、どうもこれからは防衛庁へ行って、軍事評論でもやったら面白そうだと思いはじめたのであった。

そのころ、名社会部長の名をほしいままにした原部長が、編集総務になって、景山部長が新任

された。それに伴って人事異動があるというので、チャンスと思っていると、一日部長に呼ばれた。アキの口は防衛庁と通産省しかない。病気上りででてきていた先輩のO記者が、通産省へ行きたがっていたので、これはウマイと考えた。

『防衛庁と通産省があいてるのだが、警視庁は卒業させてやるから、どちらがいい』

という部長の話だった。えらばせてくれるなどとは、何と民主的な部長だと、感激しながら答えた。

『通産省は希望者もいることですから、ボクは防衛庁に……』

といいかけたら、とたんに、

『何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ』

と、全く話が変になってしまった。そればかりではない。

『お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。従来の奴が書けないクラブで、お前に書かせようというのだから』

とオマケまでついてしまった。こうして三十年の夏から、通産、農林両省のカケ持ちをやって

いたところに、キャンペーンに召集がかかってきた。ヒマで困っていたので、よろこび勇んで、はせ参ずると、ニセ信者になって、交成会に潜入して来いというのだ。

最後の事件記者 p.248-249 台本はすでに考えてある

最後の事件記者 p.248-249 『誰か知っている人に、交成会の信者はいないかネ』部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいない
最後の事件記者 p.248-249 『誰か知っている人に、交成会の信者はいないかネ』部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいない

こうして三十年の夏から、通産、農林両省のカケ持ちをやって

いたところに、キャンペーンに召集がかかってきた。ヒマで困っていたので、よろこび勇んで、はせ参ずると、ニセ信者になって、交成会に潜入して来いというのだ。

立正交成会のアクドイ金取り主義をつかむのには、その内部の事情を知らねばならない。当然、事前に潜入して調べておいてから、キャンペーンをはじめるべきなのに、戦いがはじまってしまってから、スパイに行けというのだから、チョット重荷だった。だが、面白そうである。

共産党だって、フリーの党員というのはないのだから、交成会も、入会を紹介してくれる導き親がなければならない。ことに、読売側から潜入してくるだろうという声もあって、警戒厳重だというから、よほどウマイ状況をつけないと、入会できない。そこで、導き親を探しはじめた。

『誰か知っている人に、交成会の信者はいないかネ』

部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいないとみえて、どうにも手がかりがないままに数日すぎた。

手がかりをつかむ

と、ある日、Tというサツ廻りの記者が、「どうもそれらしい心当りをみつけた」と知らせて

くれた。日蓮宗には違いないが、交成会かどうか、確めてみるというのだった。

都内のあるターミナルの盛り場、その駅付近には例によって、マーケットの呑み屋が集っている。そのうちの一軒、五十幾つになる人の良さそうなオバさんが、交成会の、あまり熱心でなさそうな信者だった。そんな信心ぶりだから、記者に狙われるような、〝業〟を背負っていたのだろう。でも、オバさん自身は、信者だということで、心の安らぎを得ているに違いない。

私は車をとばして家に帰った。ボロ類をつめた行李を引出すと、中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、上衣も古ぼけたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。

サテ、そこで困ったのは、ボロオーバーがないのである。タンスの中を探すと、戦争中に叔母が編んでくれた、〝準純毛〟のセーターがでてきた。ダラリとして、重くて、とても今時は、人の前で着れた代物ではない。コレコレとよろこんで着こんだ。

メガネも、当今流行のフォックス型では困る。子供のオモチャ箱から、昔風の細いツルのフチのをみつけた。クツは、クラブのベッドの下に突っこんであった底の割れたボロ靴に決めた。

衣裳はこれですっかり揃った。台本は、すでに考えてある。霊験あらたかな立正交成会の御教

祖様「妙佼先生」の御慈悲にすがる、あわれな男である。

最後の事件記者 p.250-251 それはいいっこなしですよ。

最後の事件記者 p.250-251 うしろから、油気のない頭髪の、貧乏たらしい男がついてきた。厳寒の候だというのに、オーバーもきていないのだ。
最後の事件記者 p.250-251 うしろから、油気のない頭髪の、貧乏たらしい男がついてきた。厳寒の候だというのに、オーバーもきていないのだ。

衣裳はこれですっかり揃った。台本は、すでに考えてある。霊験あらたかな立正交成会の御教

祖様「妙佼先生」の御慈悲にすがる、あわれな男である。

年令は三十才位、中学卒。戦後、中小企業の鉄会社に勤めていたサラリーマン。朝鮮動乱の好景気で遊びを覚え、妻との仲がうまくゆかなくなる。やがて、動乱が終り、会社は左前。サラリーはおくれがちで、生活はつまってきた。妻とのいさかいが多くなり、会社はついに前年秋に倒産。失業する。愛想をつかした妻は、彼をすてて逃げてしまう。生きる希望を失った男。しかし、まだ失業保険が半年あるので、新橋のある保険会社で、外交の講習を受けており、ヤケにもなるが、何とか立直りたいとの努力も忘れさってはいない男だ。

銀座を呑み歩いていたころ、知り合ったのが新聞記者T。その記者をたずねて、何か職を世話してもらおうと考えた。記者はその男に一パイ呑ませて帰してしまおうと、オバさんの呑み屋に入ってくる。

にせのルンペン

ライトが消えて、暗い舞台のドン帳のかげで、ドラが嗚りひびいて、幕が静かに上る。

オバさんは、ガラりと入ってきた客の顔をみてニッコリとする。サッソウとした青年記者のう

しろから、油気のない頭髪の、貧乏たらしい男がついてきた。厳寒の候だというのに、オーバーもきていないのだ。二人が台の前に腰かけると、記者は酒を注文した。

『まア、Tさん。久し振り。アンタはいつもパリッとして、元気でいいわねえ』

『イヤア、ここしばらく忙しくてね』

オバさんと彼の挨拶がすむと、酒が出される。

『うまい。やはり一級酒は違うな。もう、もっぱらショウチュウで、しかも、このごろは御無沙汰ばかりだから……』

男はいやしく笑って、ナメるように酒をのむ。オバさんはフト、この奇妙な二人の取合せに疑問を感じたようだ。彼は素早く感じとって、

『しかし、鈴木さん、あなたの全盛時代はいつも銀座だったからね』

男は鈴木勝五郎といった。下品な仕草で酒を味うようにピチャピチャと舌を鳴らして、

『それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ』

終りの方は、自分にいいきかせるように、やや感慨をこめていった。鈴木という名も、間違え

ないよう、同僚の名前を合せたものだ。私はオバさんの視線が、チラと自分に注がれたのを感じた。

最後の事件記者 p.252-253 妙佼先生のお手配なんですよ

最後の事件記者 p.252-253 『しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?』オバさんは確信にみちて言下に答えた。『エエ救われますとも!』
最後の事件記者 p.252-253 『しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?』オバさんは確信にみちて言下に答えた。『エエ救われますとも!』

『それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ』

終りの方は、自分にいいきかせるように、やや感慨をこめていった。鈴木という名も、間違え

ないよう、同僚の名前を合せたものだ。私はオバさんの視線が、チラと自分に注がれたのを感じた。

『しかしね、Tさん。近頃の読売は一体何サ。交成会のことをあんなにヒドク書いてさ。あたしァ、アンタにとっくりいって聞かせねば、と思ってたんだよ』

『ア、そうそう。オバさんは祈り屋だったッけね。だけど、交成会だったのかい? それじゃくるんじゃなかった。読売と交成会とじゃ、全然マズイじゃないか』

『イエ、いいんですよ。それはそれですから、いらしてもいいんだけどサ』

オバさんは、謗法罪といって、交成会の悪口をいうとバチがあたる罪だとか、読売の記事についての、冗談まじりの口論をはじめる。鈴木は、はじめ興味なさそうに、やがて、だんだんと聞耳を立ててくる。

『もっともアンタは、♪今日も行く行くサツ廻り、ッてンだから、あの記事には関係ないんでしょ』

『そうさ。もっとエライ記者がやってるのだよ』

『じゃあ、本当は謗法罪で大変なところなんだけど、まあ勘弁してあげる。お悟りといって、バ

チが当るから、決してあんな記事は書いちゃダメですよ』

酒をのむ手も止めて、二人の話を聞き入っていた鈴木が、この時フィと口を開いた。

『しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?』

オバさんは確信にみちて言下に答えた。

『エエ救われますとも! 妙佼先生という尊い方がいらして、真心から拝めば、キット有難い御利益がありますよ。ただし、いい加減な気持じゃダメですよ』

『だけど、本当かなあ』

鈴木は呟くようにいって、グイと盃をあけた。そして、考えこむ。オバさんはあわれむように鈴木をみつめた。

『一体どうしたのさ。ワケを話してごらんよ。奥さんに逃げられたとかって、ウチにこうして呑みにきたのも、妙佼先生のお手配なんですよ。エ? ネェ、Tさん』

しかし、鈴木は耳に入らないかのように考えこむ。グイ、グイと盃をあけながら、「本当かなあ」「救われるかなあ」と、ひとり呟いている。ややあって、鈴木は思いきったように、顏をあ

げて、真剣にオバさんをみつめていった。

最後の事件記者 p.254-255 オバさんは「可哀想に」と呟いた

最後の事件記者 p.254-255 ウソも方便と、ホトケ様がいわれたそうだが、この交成会の潜入で、計画的かつ継続的なウソの辛さ、苦しさをしみじみと味わわされた。
最後の事件記者 p.254-255 ウソも方便と、ホトケ様がいわれたそうだが、この交成会の潜入で、計画的かつ継続的なウソの辛さ、苦しさをしみじみと味わわされた。

しかし、鈴木は耳に入らないかのように考えこむ。グイ、グイと盃をあけながら、「本当かなあ」「救われるかなあ」と、ひとり呟いている。ややあって、鈴木は思いきったように、顏をあ

げて、真剣にオバさんをみつめていった。

『オバさん。オレはやってみるよ。その有難い教えというのを、オレにも教えてくれよ。もう一度、一人前になりたいんだよ』

鈴木は声を落して、オバさんと連れの記者とに、彼の罪多い過去から、行き詰った現在までを語り出した。

遂に潜入に成功

こうして、鈴木勝五郎こと私の、交成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

ウソも方便と、ホトケ様がいわれたそうだが、この交成会の潜入で、計画的かつ継続的なウソの辛さ、苦しさをしみじみと味わわされた。一時逃れの、方便のためのウソとは違って、この人の良いオバさんの善意に対し、ウソをつきつづけるということは、今だに寝覚めの悪い感じだ。

オバさんを信じこませるため、途中でわざわざ便所に立った。オシリの破れをみせるためだ。すると、オバさんは「可哀想に」と呟いたという。効果的ではあったワケだ。

導いてくれる(入会紹介をしてくれる)と決れば、もう短兵急である。明朝の約束をして、それこそ明るい気持で店を出た。駅の近く、暗い横丁へ待たせてあった車にサッと飛びこんだ。

ところが、その衣裳のままで、社の旅館に入ったところが、顔見知りの政治部記者が、廊下の向うで私をみていた。その記者はあとで女中に向って、「どうしてアンナ汚いのを泊めるのだ」と怒ったという。女中たちと大笑いしたが、自信もついてきた。

翌朝早く、その呑み屋へ行って、オバさんを叩き起した。彼女は少女と一緒に、店の奥の一畳ほどのところに、センべイ布団でゴロ寝だ。モゾモゾと起き出してきて、新聞紙で粉炭を起す。洗面すると、交成会発行の総戒名という、先祖代々の戒名に向い、タスキ、ジュズの正装で、お題目を二十分ばかり、朝のお勤めである。

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

だが、おばさんも外出姿になると、精一ぱいのオシャレだから、電車に乗ると、私のみすぼらしさたるや、彼女が同行するのも恥づかしかろうと思うほどだ。蓬髪、不精ヒゲ、オーバーなし

の穴あきズボンに、ヒビ割れ靴というのだから……。

最後の事件記者 p.256-257 「もっと熱心に信心しなければ」

最後の事件記者 p.256-257 いずれも支部と自分の名を書いたノシ袋に、オサイ銭を入れて、本部拝殿前の三宝の上に差出す。名前が明らかにされるのだから、誰でも数枚の百円札はハズまざるを得ない。
最後の事件記者 p.256-257 いずれも支部と自分の名を書いたノシ袋に、オサイ銭を入れて、本部拝殿前の三宝の上に差出す。名前が明らかにされるのだから、誰でも数枚の百円札はハズまざるを得ない。

だが、おばさんも外出姿になると、精一ぱいのオシャレだから、電車に乗ると、私のみすぼらしさたるや、彼女が同行するのも恥づかしかろうと思うほどだ。蓬髪、不精ヒゲ、オーバーなし

の穴あきズボンに、ヒビ割れ靴というのだから……。

こちらも国電に乗ると緊張した。誰か知人に出会って、「よう」などと、肩を叩かれたら大変。「何だ、読売はやめたのか?」と、きかれること間違いなしの格好だからだ。伏眼がちに、四方を警戒しながら、やっとのことで新宿駅へ。そしてバスで本部へ。

行ってみると、オサイ銭をあげるオバさんの気前の良さに驚いた。冬のさ中にあんな朝食をとるオバさんが、実にカルイ気持で三百円もの大マイを、妙佼先生に捧げる。イヤ、ふんだくられているのだ。

バスを降りると、参拝者の列がつづく。それが、いずれも支部と自分の名を書いたノシ袋に、オサイ銭を入れて、本部拝殿前の三宝の上に差出す。名前が明らかにされるのだから、誰でも数枚の百円札はハズまざるを得ない。しかも、信者の勤労奉仕の道路整理係がいて、信者の群れを本部拝殿前へと追いこむのだ。そこを通らぬと、直接は修養道場へ行けないように、交通制限をしている。

そして、拝殿前でこのノシ袋を市価より高く売っているのは、教祖一族のものだというから、二重、三重のサク取である。

金の成る礼拝道路を経て、修養道場へ入る。道場というと立派そうだが、要するにクラブである。大広間になっていて、支部ごとに別れて、支部長を中心に〝法座〟を開いている。輪(和)になって、妙佼先生の代理ともいうべき支部長さんの前で、ザンゲしたり教えを受けたりする場だ。

しかし、実際は、例のノシ袋で支部ごとのオサイ銭上り集計表が作られて、支部長が「もっと熱心に信心しなければ」と、金のブッタクリを訓示する場所である。〝熱心に信心する〟ということは、〝毎日本部へ来る〟ことである。本部へ来れば、あの礼拝道路を必らず歩かせられるのだから。

支部長の御託宣

オバさんの支部長への報告の済むまで、隅ッこに坐っていた私は、やがて法座へ加えられた。そこで、まず、ザンゲをしなければならないのである。

肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私のセリフに、年配のオカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました……という件りに

きたとき、支部サン(支部長)の声がかかった。

最後の事件記者 p.258-259 いい奥さんが御手配になります

最後の事件記者 p.258-259 『色情だよ! オ前さんには、名前の示す通り、色情のインネンがあるンだよ。だから奥さんに逃げられたんだ』
最後の事件記者 p.258-259 『色情だよ! オ前さんには、名前の示す通り、色情のインネンがあるンだよ。だから奥さんに逃げられたんだ』

そこで、まず、ザンゲをしなければならないのである。

肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私のセリフに、年配のオカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました……という件りに

きたとき、支部サン(支部長)の声がかかった。

『アンタ、何て名前だっけね』

『ハイ、鈴木勝五郎です』

支部サンは、掌に字を描いて、その名前の画数を数えていたが、吐き出すように、自信をこめて断言した。

『色情だよ! オ前さんには、名前の示す通り、色情のインネンがあるンだよ。だから奥さんに逃げられたんだ』

『ハ、ハイ』消え入りそうな声だ。

『だけどね。熱心に信心すれば、この教えは有難いもんでね。御利益があるよ。妙佼先生の有難いお手配でね、前の奥さんが知ったら口惜しがるような、いい奥さんがまた御手配になりますッ』

高圧的にいいきる支部長の言葉は、確かに神のお告げのように、何かいいようのない新しい力を、私の体内に湧き起らせた。

また、新しいオヨメさんがもらえる! 現実には八年の古女房が、二人の子供とともにデンと

居坐っている私にさえ、この言葉は不可思議な魅力を持っていた。ただし、〝熱心に信心すれば〟イコオル〝うんとおサイ銭をあげれば〟である。

社へ帰って報告したら、景山部長はじめ社会部のデスクは爆笑につつまれた。

『これァ邪教じゃないよ。ズバリ、最初に色情のインネンがあると喝破したからな』

『妙佼サマのお手配で、またオヨメさんがもらえるなら、オレモ信者になるよ』

と大変な騒ぎだった。

その後の法座で見聞したところによると、男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。聖人君子はさておき、男の子でこの二つに該当する過去をもたないものはあるまい。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。これもまたムベなるかなである。

三百円ほど支払って、タスキなどの一式を買わされ、翌日は導き親であるオバさん宅の総戒名、支部サン宅のオマンダラ(日蓮上人筆の経文のカケ軸)、本部と、三カ所へお礼詣りだ。

お礼詣りが、無事とどこおりなく済むと、翌々日は祀り込みだ。本部で頂いた鈴木家の総戒名を、支部の幹部が、私の自宅へ奉遷し参らせて、諸顕安らかに静まり給えかしと、お題目をあげ

る儀式である。

このことのあるのは、かねて調査で判っていたから、城西のある古アパートの一室を、知人の紹介で借りておいた。家主には事情を話し、チャブ台その他、最少限の世帯道具も借りておいたのであった。

最後の事件記者 p.260-261 交成会青年部の妙齡の乙女

最後の事件記者 p.260-261 色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカート、発育したモモとが入る。
最後の事件記者 p.260-261 色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカート、発育したモモとが入る。

お礼詣りが、無事とどこおりなく済むと、翌々日は祀り込みだ。本部で頂いた鈴木家の総戒名を、支部の幹部が、私の自宅へ奉遷し参らせて、諸顕安らかに静まり給えかしと、お題目をあげ

る儀式である。

このことのあるのは、かねて調査で判っていたから、城西のある古アパートの一室を、知人の紹介で借りておいた。家主には事情を話し、チャブ台その他、最少限の世帯道具も借りておいたのであった。

幹部婦人の愛欲ザンゲ

その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、交成会青年部の妙齡の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。

儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、いつかザンゲに変っていた。

『これでネ。私も色情のインネンがあってネ。一度では納まらなかったのですよ。』

優しい調子で、こんな風に話しはじめた幹部サンは、彼女の悲しい愛欲遍路の物語をはじめた。富裕な商家の一人娘に生れた彼女は、我儘で高慢に育った。年ごろになったころ、同郷の知人からあずかって、店員として働らいていた青年に恋をされた。

しかし、気位が高くて、店員なんぞハナもひっかけなかった彼女の態度に、その青年は破鏡の胸を抱いて故郷へ帰っていった。

『あとでそのことを知ってネ。私の色情のインネン、そして、そのごうの深さに恐しくなりましたよ』

最初の夫との結婚話、それに失敗した第二の結婚、そして、いまの生活——それは、彼女の性欲史であった。彼女のその物語は、もう窓辺に宵闇をただよわせている部屋の薄暗さと相俟って、私は何かナゾをかけられているのかナ、とも考えたりした。

他人に恋心をよせられるのも、再婚するのも、浮気するのも(とは彼女は口にこそしないが)、すべてこれ、色情のインネンのしからしむるところだという。そのごうから逃れるための修養だというが……。

『しかしネ。なかなか修業が足りなくて……。あなたも、熱心に修業しなくちゃあネ』

色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。私は正座してうつむき、抜けかけた膝をみつめ、ジュズをにぎってそんなことを考えていた。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカート、発育したモモとが入る。

美しい部類に入るその子は、眼の下のホクロが、色白の肌に鮮やかで魅力的だ。

最後の事件記者 p.262-263 教祖の過去が売春婦であった

最後の事件記者 p.262-263 噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。
最後の事件記者 p.262-263 噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。

色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。私は正座してうつむき、抜けかけた膝をみつめ、ジュズをにぎってそんなことを考えていた。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカート、発育したモモとが入る。

美しい部類に入るその子は、眼の下のホクロが、色白の肌に鮮やかで魅力的だ。

——彼女に、色情のインネンはないのだろうか。この子が、妙佼先生のお手配で、オレのものになるのかナ。幹部サンやオバさんではお断りだナ。

こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。帰社すると、夜は銀座の紳士、昼はウラぶれた失業者。こんな二重生活が一週間余りつづいて、潜入ルポができ上った。

今でも、新宿から中野あたりを通ると、私の二人の相手役女優——オバさんとホクロの乙女を想い出す。

教祖の身元アライ

この、立正交成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。交成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば、読売の判定勝ちという

ところであった。

この時に一番面白かったのは、生き仏様の妙佼教祖の、過去の色情のインネンを正確に取材して、バクロしたことであった。交成会にとっても、教祖の過去が売春婦であったということは、信仰者としての適格性に影響してくるので、一番痛いことではなかっただろうか。

噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。紙面で書くのは、少しエゲツないので、書かなくとも〝伝家の宝刀〟として正確な事実だけは調べておこう、というので、その取材を私が買って出た。

大正十年前後、約四十年も前の事実を、正確に調べようというのだから、困難な取材であることは覚悟したが、何かマリー・ベルの名画「舞踏会の手帖」を思わせる、たのしみがあった。

交成会の機関誌によると、御先祖は石田三成を散々に悩ませた、北条側の大将成田下総守の家臣、長沼助太郎という武士で、成田家の滅亡により、自領の志多見村に落ちのび、土着して半農の大工になったという。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

最後の事件記者 p.264-265 マサさんを苦界から身請けした夫

最後の事件記者 p.264-265 誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。
最後の事件記者 p.264-265 誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

これだけの資料をもって、自動車一台とともに、埼玉、茨城両県下を、一週間にわたって走り廻った。古老たちを土地土地でたずね歩き、彼女が醜業に従事した証拠を探し出したのである。

困ったのは、彼女の同僚だったオ女郎サンを、その家庭にたずねた時である。すでに孫までいる人、しかも耳でも遠くなっていようものなら、怒鳴るような大声で、四十年前のことを、しかも他聞をはばかる遊廓のことを聞くものだから、あるところでは、息子に怒られて追出されてしまった。

もちろん、当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいたのである。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。或は、口止めが行われていたのを、私が話させてしまったのかもしれない。大熊さんは、はじめはなかなか話そうとせず、「昔は昔だけど、今はあんなにエラクなったのだから、身分にさわる」といって、話すのをイヤがったほどだ。

それが、終いには、

『会からも、いい役につけるから、来いといわれたんですが、会に行けば、マサに頭を下げなければならない。誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの

女房だったし、女郎だったンだ。そりャ、有難やと手をもめば、金になることは判っているンだけど、とても男にやァ出来ねえことだ』

と、気焔をあげる始末だった。

新興宗教の現世利益

マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

境町というのは、利根川をはさんで、埼玉県関宿町に相対する宿場で、箱屋の酌婦というのは、いわば宿場女郎だ。この箱屋も主人が死んで代変りとなり、その建物は伊勢屋という小間物玩具店になっている。箱屋の娘二人は、それぞれ老令ながら生存しており、当時の酌婦二人も生きていた。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室

の部分は、取壊されてしまってすでにない。

最後の事件記者 p.266-267 だんだん祈り屋的性格が出てきた

最後の事件記者 p.266-267 そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。
最後の事件記者 p.266-267 そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室

の部分は、取壊されてしまってすでにない。

この斎藤楼で、彼女は第一の夫大熊さんに出会った。大熊さんは、東京京橋の床屋に徒弟奉公中の職人。清久村の出だが江戸ッ子気質だ。彼は床つけの良いマサさんが気に入って身請けの決心を固めた。

借金を聞くと、金十円だという。大正十一年ごろの十円だから大金である。大熊さんは自分の貯金の五円だけでは足りないので、来年年季があけたら店を持つという名目で、アチコチ借金して、さらに五円を工面した。そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

ところが、だんだん祈り屋的性格が出てきたので、二人の仲はうまくゆかず、性格の相違を理由に、昭和四年二月九日、ついに協議離婚した。マサさんは霊友会へ進み、大熊さんは今でも清久で床屋をしている。

どうやら、新興宗教の〝現世利益〟というのは、色情のインネン——性のよろこびにあるらしい。事実、「恋」は人に希望を与え、明るくさせ、よろこびを与える。打ちひしがれた人を、ふ

るい立たせる〝現世利益〟である。

最後の事件記者 p.268-269 外部からみつめる機会を得た

最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。
最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとに、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといいえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、

新聞雄誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

最後の事件記者 p.270-271 肉体をスリ減らし家庭を犠牲に

最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。
最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。

〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

『ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ』

『エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?』

『アッ、そうか!』

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の、辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということが、このように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に挨拶をした。

『これからは、お友達として付合いましょう』

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

『これ、どういう意味?』

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

最後の事件記者 p.272-273 裁判が済むまで何も書くなよ。

最後の事件記者 p.272-273 オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ
最後の事件記者 p.272-273 オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去るのが当然だ、という気持なのだ。

保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たら、その人も困るのであろう。だが、その人はいった。

『ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう』——もはや、会う必要はないということだった。

ある先輩は忠告してくれた。

『書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ』——何人にも、この有難い言葉を頂いた。

だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。

文春を読んだ先輩がいった。

『惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ』

『しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか』

友人がいった。

『オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ』

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威であ

る、小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

『文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね』この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

最後の事件記者 p.274-275 護国青年隊が光文社を恐喝

最後の事件記者 p.274-275 おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、一同は息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた
最後の事件記者 p.274-275 おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、一同は息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた

『オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ』

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威であ

る、小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

『文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね』この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

護国青年隊の恐喝

昨三十二年春、私は一人で、護国青年隊事件というのをやった。この右翼くずれの暴力団が、進歩的出版社として有名な、「光文社」のK編集局長をおどかしたということを、私はある右翼人から聞いた。

同社が出版した、「三光」という、支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

私はこの話を聞くと、即座に二つの面からするニュース・バリューを感じた。一つは右翼くずれの暴力団が、いよいよ金に困って、出版言論に干渉しはじめた。これは言論の自由にとって、

重大な問題だということだ。

第二は、その進歩的出版物で売り出した、光文社のベストセラー・メーカーのK氏が、暴力に屈して絶版を約束し、現にその広告の撤回をはじめた、という点である。その辺の売れるならエロでもグロでもといった、商売人根性丸だしの出版屋と違って、「三光」の出版意図を読んでも、信念のあるはずの編集者だからである。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると、契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。

光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

しかも、相手は電話の受話器を突きつけて、「一一〇番に訴えたらどうだ」ともいったが、何もできなかったという。

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙

ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

最後の事件記者 p.276-277 デスクの面前で破いてすてた

最後の事件記者 p.276-277 『いくら出しました?』 私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』
最後の事件記者 p.276-277 『いくら出しました?』 私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙

ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンバアー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。決して気持の良いところではない。石井隊長に会い、財政部次長という青年にもあって、光文社恐喝の一件をききただした。彼らは右翼としての信念から、「三光」のような本を出すべきでない、と抗議した事実を認めた。そして、K氏は絶版にし、広告を撤回すると約束したという。

『いくら出しました?』

私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。

『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』

ニヤリとして否定する。

こうして、私の特ダネは取材を終り、原稿にされた。ところが、どうしてか紙面にのらない。いろいろとウルサイ問題の起きそうな記事だから、その責任をとりたくないのか、デスク連中は

敬遠してのせようとしない。そんな時に、カンカンガクガク、デスクと論争しても、掲載を迫るような硬骨の記者も、何人かいるが、私は軽べつすると論争などしないたちだ。

新聞記者というピエロ

そうこうして、一週間ほどたつうちに、朝日が書いてしまった。私の狙った観点のうち、言論の自由の侵害の面だけ、記事として取上げたのだ。読売の場合でもそうだったが、光文社という大口の広告スポンサーとして、営業面からの働らきかけがあったのかもしれない。

私としては、K氏のような一流の出版文化人が、暴力に屈した点も書くべきだと思った。この恐いという気特は、警察の保護に対する不信へもつながるのだが、会社の金で済むことなのに、怪我でもしたらバカバカしい、という、インテリ特有の現実的妥協とともに、やはり取上げるべき問題であったと思う。

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本

敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を、原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だから、もう一度、やってくれというのだった。