
『チ、カ、イ』(誓)
『………』
(写真キャプション (上)ナホトカにて引揚船に乗船、(下)ナホトカ収容所風景)
『チ、カ、イ』(誓)
『………』
(写真キャプション (上)ナホトカにて引揚船に乗船、(下)ナホトカ収容所風景)
『パ・ヤポンスキー!』(日本語!)
ハネかえすようにいう少佐についで、お面のように表情一つ動かさない少尉がいった。
『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。
切って、ゆっくり発音すると、非常に厳粛感のこもるロシア語で、ふだんならば国名もエス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサユーズ・ソヴエスキイ・ソシァリチィチェスキイ・レピュブリイクと正式に呼んだ、その言葉の意味することを、本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。
『ハ、ハイ』
『本当ですか』
『ハイ』
『約束できますか』
タッ、タッと息もつかせずたたみ込んでくるのだ。もはや『ハイ』以外の答はない。
『ハイ』
私は興奮のあまり、続けざまに三回ばかりも首を振って答えた。
『誓えますか』
『ハイ』
しつようにおしかぶさってきて、少しの隙もあたえずに、少佐は一枚の白紙をとりだした。
『宜しい。ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい』
——とうとう来るところまで来たんだ!
私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。
『日本語ですか、ロシア語ですか?』
とのできないこの密室で、私は二人の秘密警察員と相対しているのである。
——何が起ころうとしているのだ⁈
呼び出されるごとに立ち会いの男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人々だけで、他の者は一部しか知り得ない組織になっているらしい。
——何と徹底した秘密保持だろう!
鍵をしめた少佐は静かに大股で歩いて再び自席についた。それからおもむろに机の引出しをあけて何かを取りだした。ジッと少佐の眼に視線を合わせていた私は、『ゴトリ』という鈍い音をきいて、机の上に眼をうつした。
——拳銃!
ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもうと思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。
少佐は半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳した。
『貴下はソヴエト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと、願いますか』
歯切れのよい日本語だが、私をにらむようにみつめている二人の表情と声とは、『ハイ』という以外の返事は要求していなかった。短く区
握られた一人の捕虜を威圧するには、充分すぎるほどの効果をあげていた。
『サジース』(坐れ)
少佐はかん骨の張った大きな顔を、わずかに動かして向かい側の椅子をさし示した。
——何か大変なことがはじまる!
私のカンは当たっていた。私はドアのところに立ったまま落ちつこうとして、ゆっくりと室内を見廻した。八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像が飾られ、少佐の背後には本箱、右隅には黒いテーブルがあり、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一枚の新聞の『ワストーチノ・プラウダ』(プラウダ紙極東版)とかかれた文字が印象的だった。
歩哨が敬礼をして出ていった。窓には深々とカーテンがたれている。
私が静かに席につくと、少佐は立ち上がってドアのほうへ進んだ。ドアをあけて外に人のいないのを確かめてから、ふり向いた少佐は後手にドアをとじた。
『カチリッ』
という鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルッと震えた。
——鍵をしめた!
外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうこ
った。ニセの呼び出し、地下潜行!
——何かがはじまるんだ!
吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走りぬけ、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。廊下を右に折れて突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔つきで服装を正してからコツコツとノックした。
『モージノ』(宜しい)
重い大きなドアをあけて、ペーチカでほどよくあたためられた部屋に入った私は、何か鋭い空気を感じて、サッと曇ってしまった眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。ソ側からやかましく敬礼の励行を要望されていた関係もあって、左手は真っ直ぐのびてズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴の踵が、カッと鳴ったほど厳格な敬礼になっていた。
正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らには、みたことのない若いやせた少尉が一人。その前には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ピンと天井の張った厳めしいこの正帽は、NKだけがかぶれるものである。密閉された部屋の空気はピーンと緊張していて、わざわざ机の上においてある帽子の、眼にしみるような鮮やかな色までが、すでに生殺与奪の権を
動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを質問した。結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子ともなれということ、すなわち〝地下潜入〟であり、〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ側政治部の見方でもあったのだろう。
この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。
そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。
——何だろう、日本新聞行きかな?
忙しい身支度は私を興奮させた。
——まさか! 内地帰還ではあるまい!
フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮かべていたのだ
シア語の勉強がしたいのです』
『宜しい、よく分かりました』
少佐は満足げにうなずいて、帰ってもよいといった。私が立ち上がってドアのところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。
『パダジジー!(待て!)今夜、お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。いいか、分かったな!』
見知らぬ少佐が説明するように語をつぎ、
『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。
こんなふうに含められたことは、はじめてであり、二人の少佐からうける感じで、私はただごとではないぞという予感がした。見知らぬ少佐のことを、歩哨はモスクワからきたんだといっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思っていた。
それからひと月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時〝日本新聞〟の指導で、やや消極的な〝友の会〟運動から、〝民主グループ〟という積極的な動きに変わりつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運
具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。
作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの少佐が待っていた。
私はうながされてその少佐の前に腰を下ろした。少佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。
私はスラスラと正直に答えていった。やがて少佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト気がついてみると、それはこの春に提出した、ハバロフスクの〝日本新聞〟社編集者募集の応募書類だ。
『何故日本新聞で働きたいのですか』
少佐の日本語は丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。少佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。
『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロ
A氏(特に名を秘す。三十歳、元少尉、大学卒、会社員、東京都、チェレムホーボ地区より二十二年に復員)
『A! A!』
兵舎の入口で歩哨が声高に私を呼んでいる。それは昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめにもう零下五十二度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。北緯五十四度という、八月の末には早くも初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が雪の氷粒をサアーッサアーッところがし廻している。
もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に疲れ切った私は、二段寝台の板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。
——来たな! やはり今夜もか⁉
今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。
『ダ、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)
第一回は昨年の十月末ごろのある夜だった。この日はペトロフ少佐の思想係着任によって、
ちソ連のもつ暗さである——と闘う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。
このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪郭が浮かんできたのである。それによると、
一、この組織は二十二年を中心として、シベリア各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。
二、これらの組織の一員に加えられたものには、少なくとも四階級ぐらいあること。
三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。
四、使命遂行の義務が、シベリア抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分かれ、両方兼ねているものもあると思われること。
五、こうした運命の人が、少なくとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。
などの状況が判断されるにいたった。
これらの状況を、もっと具体的に理解してもらうためには、あつめられた次の五例をみることが、一番手っ取り早いに違いない。まずA氏の場合を、その告白文によってみよう。
一、A氏の場合(手記)
二、五人の場合
雲をつかむような〝幻〟の調査はさらに続けられていった。やがて、現に内地に帰っているシベリア引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。
彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真っ向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起こさせるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。
こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即
パイ団〟の存在を証言したのです!』
だが、はやり立った私を、老練な部長は軽くたしなめて笑った。
『メクラの象見物を知ってるかい。エ?!』
私の調査報告をずっと受け取っていた部長には、このスパイ団は一収容所や一地区の問題ではなく、まして収容所付きの一NK将校の意志で組織されたものなどではなく、非常に膨大な国際スパイ団的な内容を持った組織であることが、早くも判断されていたに違いない。若い私が功をあせ
りすぎて、尻尾をつかんだだけで書いてしまっては、全貌を逸するおそれがあったわけである。
(写真キャプション 参議院で重大証言をした小針氏)
(写真キャプション 小針氏に数多く送られた脅迫状の一つ)
『…各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴエト側の情報部の部長が、その収容所の政治部の部員に対しまして、お前のところに誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。…この男ならば絶対に信用できると、ソ連側が認め場合には、その者にスパイの命令を下します。
…そうしてスパイというのは、ほとんどスパイになっておる人は、非常に気持ちの小さい男で、ビクビク者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。
…こういう男を選んで、それに始終新聞社から行って連絡しまして、こういうことをやれ、その代わり後のことは心配するな、後で問題が起こった場合にはすぐ連絡する…』
私は興奮しきっていた。カーッと耳がほてっている。踊り上がらんばかりだった。見よ、鉄のカーテンは手荒く押しひろげられ、幻のヴェールは第一枚目をムシリとられた!
『ウン、ウン、これでイケる。ヨシ、書いてやるゾ』
委員会は深夜の十時まで続いたので、私は翌朝を待ちかねて部長に報告した。
『この証言をキッカケに書きましょう。小針証人が国会の保護を前提として、ハッキリと〝ス
私は社会部へ帰って引揚記事を担当した。翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた——だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は船中から海に投じ、ある者は復員列車から転落し、またある者は自宅で縊死をとげているのだ。
私はこの謎をとくべく、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。
約十分間の休憩ののちに、岡元委員長は冷静な口調で再開を宣した。ついに公開のまま続行と決定した。満場は興奮のため水を打ったように静まり、記者席からメモをとるサラサラという鉛筆の音だけが聞こえてくる。小針証人が立ち上がって証言をはじめる。