投稿者「mitaarchives」のアーカイブ
正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 正力亨氏へのホコ先
編集手帖なしの読売
私が、亡き正力さんについて語るのに、決して相応しくない、ということは、さきほど述べておいた。
事実、それだけの接触がなかったのだから、それは当然であろう。しかし、思いたって「現代新聞論」と銘打ち、私なりの新聞批判を書こうとし、正力松太郎という人物を調べてみると、これは、まさに「偉大なる新聞人」であることに、異議はさしはさめないのである。読売新聞の、現実の姿がそこにあるからである。
ここで、ハッキリさせておかなければならないのは、一人の新聞記者、もしくは、〝物書き〟として、正力松太郎という新聞人の事蹟を評価し、批判することと、一個人としての私が、正力松太郎に私淑することとは、あくまで別個の問題であるということである。
同様に、現在、読売新聞を率いている、務台光雄代表取締役に、私が個人的に敬意を表することと、読売新聞批判という立場で、務台副社長を論難することとは、全く別の次元の現象なので
ある。
私のもとに、一通の投書があった。それによると、私が「軍事研究」誌に連載していた「読売論」は、「大雑把な印象としては、故人となった小島文夫氏や、いま読売に発言力のない正力亨氏へのホコ先がきびしく、いま権勢を極めている務台代表や、原四郎氏へ〝ベタベタ〟という感じが露骨です。〝力が正義〟というなら話は別ですが……」と、いうのである。
最近の私は、私の主宰する小新聞「正論新聞」の販売に関して、務台代表に教えを乞いに行くことなどもあって、面談の機会がままある。いつも私は、第一番の挨拶に、「小僧ッ子が、小生意気なことを書きなぐりまして、誠に申しわけありません」と、務台批判の非礼について詫びるのだが、務台は笑って、「いやあ、批判は批判ですよ」と、私のわがままを認めている。
つまり、私としては、公私のケジメはそんな形でつけているのだが、前記の投書にあったように、〝正力亨氏へのホコ先がきびしく〟とみて、私の正力松太郎批判もまた、〝反正力〟と、受け取る人物が少なくない。
新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。
大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに
は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 〝小さな〟異変があった
新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。
大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに
は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。
私が、「大正力の死」について、追憶を述べるのには、人を得ていないといったのは、そんな形での、感覚的な(触覚的なというべきか)接触がなかった人間だから、という意味で、前述した通り、大正力の遺したなにかについて書くならば、十分に書ける立場であったのである。
さて、本論に入って、十月十日付、つまり正力死去の翌日付の読売朝刊五版(注。夕刊が一版から都内最終版の四版まであるから、五版というのが、東京読売がつくる朝刊の第一版ということになる。朝刊は、この五版から都内最終版の十四版まである)に、〝小さな〟異変があったのは、東京の読者では気付かれなかったのが当然であろう。
この五版というのは、東京本社管内で、一番遠隔地に配達される新聞だから、青森とか名古屋だとかに行く新聞である。その五版の一面下、読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。
調べてみると、この欄のコラムニストは、〝大正力の死〟について、その追悼文をまとめてきて、提稿したのであったが、編集幹部の意向で、「アイツが、正力の追悼を書くなんて、オコがましい」という声もあって、ボツになり、急いで別のテーマで原稿をまとめて、六版の〆切に間に合わせたらしい、ということが判った。
彼は戦後の入社だから、私以上に正力について語るべき、〝触覚的〟接触は少なかったろうと思う。しかし、このコラム休載という事件は、極めて示唆的であった、と考えざるを得ない。
つまり、彼コラムニストとしては、〝大正力の死〟の翌朝刊の紙面構成は、当然、大々的な正力追悼号になるであろう、と判断したに違いない。従って、その日の編集手帖としては、正力をテーマとすべきである、と、考えるのが、これまた理の当然である。
例えば、朝日新聞の社会面が、「板橋署六人の刑事」入浴事件を、〝独占的〟に華々しくやれば、「天声人語」もまた、筆を揃えてその責任を追及する、というのが、最近の大新聞の〝綜合編集〟なる紙面構成の常だから、「六人の刑事」事件のように、自社社会面が歪報で構成されていても、コラムはその真否をたずねることなく、オ提灯を持たされるのが、習慣となっているのだった。
その限りでは、「編集手帖」子の判断は正しかったハズであり、彼を迎合的であると非難するのは酷であった。最近では、コラムニストとはいっても、〝老妻〟や〝外孫〟などをテーマに、身辺雑記をつづってはおられなくなったし、組織の中の、月給取りコラムニストなのが、現実の姿なのだからだ。
私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟
であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。
私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力という〝重石〟がとれたので
私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟
であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。
私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。
「正力さんが亡くなられて、いろんな形の〝異変〟が、早くも起りはじめた。
第一番に感じたのは、読売の葬儀その他の記事の扱いが、極めて地味だったということ。第二には、亡くなるのを待ちかねていたように、日本テレビの粉飾決算が問題化したこと。第三には、週刊誌がまったくの興味本位に、いわゆる〝跡目争い〟なるものを書きはじめたこと、などなどである。
私はかつて、昭和四十年ごろの〝正力コーナー〟(注。読売紙上の正力関係記事のこと) 華やかなりしころに、『紙面を私するもの』と、批判したことがあった。このような社内外の批判から、やがてコーナーは姿を消したのだった。
しかしいま、この偉大なる新聞人を葬送するとき、読売が特集グラフを組み、参列者氏名を掲げ、コラムで追悼し、といった、大扱いをしないことに、フト、一抹の寂しさを感じた。
『社主・正力松太郎』の死亡記事として、読売のあの扱いは、妥当であり、良識の線を守ったものであろう。他紙誌の扱い方は、過小の感があったけれども、それは、私の〝私的な感情〟かも知れない。
しかし、解せないのは、日本テレビの粉飾決算の摘発である。大蔵省は『過去四年半にわたり……このほど調査で判明』(毎日紙)というが、その〝調査〟は四年半もかかるものであり、ホントに〝このほど判明〟したものなのだろうか。正力という〝重石〟がとれたので、欣然として発表した感が残る。
週刊誌もまたしかり。私をたずねてきた某誌の若い記者は、『臨終には〝愛人〟が付き添ってたといいますが、ホントでしょうか』ときく。この下品なノゾキ趣味! 相手えらばずの、貧しい取材力は、週刊サンケイ、週刊ポストなどに、掲載された記事でも明らかである。
正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。
解放感もあろう。しかし、あまりにも、わざと過ぎまいか」
〝フト、一抹の寂しさ〟を感じたのは、私自身の〝私的な感情〟であったことは、認めるのだが、「編集手帖」の休載が、〝重石のなくなった解放感〟でなければ、それでよい。
しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ
て、変化させつつあるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 〝紙面で勝負〟する新聞だった
しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ
て、変化させつつあるのである。
この「現代新聞論」の取材を進めながら、私は「現役を去って十年。この十年間に新聞は大きく変った」と、感じたのだったが、正確にいうならば、昭和三十年代の十年間に大きく変り、さらにまた昭和四十年代の十年間に、もっと大きく変ろうとしていることに、気付いたのである。
例えば、後述するが、元朝日新聞記者の佐藤信。退社した朝日の内情を、〝感情的〟にバクロし、同僚、上司を口を極めて罵倒した著書を公刊して、話題となった人物である。
この佐藤信のような、〝奇特の言行〟を旨とする記者が、昭和三十年代の十年間に、社という組織からハミ出るか、組織の中に埋没してしまうかという現象が、私の指摘する第一次の大きな変化である。新聞の均質化、個性放棄の時代である。
事実、彼の二著を読んでみて、新聞記者であるならば、あえて、〝奇異〟とするに当らない事実が書かれている。少くとも、昭和三十年ごろまでの新聞は、〝紙面で勝負〟する新聞だったのである。戦後のタブロイド版からブランケット版(大判)二頁、四頁、六頁と、次第に頁数を増し、朝刊紙は夕刊を出して、朝夕刊セットとして伸びてきた新聞の争いは、「紙面」であった。
紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。紙面は他社との比較の上で、担当記者の実力を一眼で、誰にでも判断させた。こうして、才能のある者、
学のある者、チエのある者は、学歴や年齢や、入社年次に関わりなく、自然に重きをなしたのであった。
何よりも不都合なことは、取材、執筆という記者の仕事は、穴掘りや帖面付けと違って、職制が命令したからといって、一定時間が経過したからといって、完了し、完成するものではない。だから、能力のない者が、能力のある者を、〝使う〟ことができないのだ。先輩だからといって、後輩に、〝指図〟できないのである。
「何某さんは旅行中です」「まだ調査が終りません」——これらの言葉で、やがて〆切時間が来てしまう。合法的に、反抗もサボタージュも可能だったのである。
佐藤信の二著は、どこの新聞社でもあることを、多少、誇張した表現ともとれるが、また、人間関係の微妙さを無視した形で、活字にしたに過ぎない。活字以外に、クチコミでならば、どこででも、平然と語られていることである。無能な先輩やデスクをコケ扱いにし、酒のサカナにしたり、喫茶店でのダベリに持ち出すのは、記者にとって、日常茶飯事であった。
私のいた読売でも、三十歳を出たばかりで次長に登用された記者が、末席の若僧のクセに、先輩次長たち、十歳も年齢の違う人たちを、すべてクン付けで呼んでいた。クンと呼ばれた先輩たちの胸中は如何ばかりであったかは別として、彼がクンと呼ぶのを聞いた私たちカケ出しは、彼の態度の大きさに、少しも不自然さを感じなかったのも事実だ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 各社の〝奇特の士〟
そしてまた、実力のある部長、すなわち、実力故に尊敬せざるを得ない先輩に、怒鳴られる時のおそれたるや、これは全く、並大抵のものではなかった。——紙面の優劣が、新聞の評価となり、そして、販売部数にそのままつながる時代は、記者の質と量との戦いの時代であり、記者自身の〝個性〟の戦いの時代でもあった。
〝読売の三汚な(サンキタナ)〟の筆頭にあげられたA記者。慶大卒の富裕な家の息子でありながら、妻子をよそに社の宿直室住いで、都庁クラブ在勤中に、安井都知事の招宴が東京会館で催された折に、受付で浮浪者と間違えられて、断られたほどの人物。また、K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。クラブばかりではなく、その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。
朝日とて例外ではない。私とサツ廻りの同じ矢田喜美雄記者は、上野のパンスケの一人を、一カ月余りも自宅に引取ってやった。毎日が「百万近い現金を貯めこみ身につけている」と、雑記帳欄の記事にしたため、公園での客引き中に襲われたのに同情したからである。彼は下山事件が起きるや、東大法医学教室に〝住込〟んで詳細なレポートをモノした記者である。
さきごろ、NETテレビの取締役として、下り坂のモーニング・ショウに活を入れようと、陣頭指揮していた三浦甲子二は、政治部次長時代にこんな伝説を生んだ。筆頭次長の上に新任の部長、岡田任雄(前出版局長)が着任した。この人事に不服があったらしい。三浦は次長の身で、
部長を自宅に呼びつけた。何事かと赴いた客間の部長に対し、三浦はカラリと次の間のフスマを引いた。すると、そこには、政治部員十八名が勢揃いして、三浦〝 親分〟擁立の気勢をあげた、という。
この〝伝説〟について、ゴ本人に確めてみると、「誤伝ですよ。有楽町のバーで部長と出会い、帰途が同方向なので、同車した。通り道の私の自宅に寄っていった、というのが真相」という。しかし、政治部次長からNET重役という実績は、この〝伝説〟にふさわしい〝怪物〟ぶりである。私の単刀直入の質問に、否定したあと、思わず彼は呟いた。
「朝日には、そんな伝説を作り出す風潮があるのです」と。
朝日新聞ならずとも、各社の〝奇特の士〟は、あげればざらにある。才能があり余って、組織からハミ出した孤高な男、実力ゆえに敬遠されて、他の組織に放出された〝怪物〟、実績がありすぎたためか、組織に〝軟禁〟された大記者。この三者三様のあり方が、良きにつけ、悪しきにつけ、「新聞」の人材の処遇を物語っていよう。
このように、多くのエピソードに彩られた人物群像が、新聞を〝作って〟いた時代は、すでに過去のものとなった。
そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。
昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、 夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 日本の新聞は戦争によって発展
そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。
昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。
正力なればこその「社主」
ここで、三社の簡単な社史をべっ見しなければなるまい。
朝日新聞社は資本金二億八千万円。大阪、東京、西部(小倉)、名古屋の四本社、北海道支社。明治十二年大阪で第一号創刊。同二十一年「めざまし新聞」を買収して、「東京朝日新聞」として東京進出。昭和十年、西部、名古屋両本社設置、昭和十五年、現題号に統一。大株主は、村山長挙、一二%、村山於藤、一一・三%、村山美知子、八・六%、村山富美子、八・六%、(村山一族合計四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%、(上野一族合計一九・五%)
となり、六氏六〇%を占める。この数字は、私の手許の資料で昭和三十五年以来変っていない。
毎日新聞社は資本金十八億円。大阪、東京、西部(門司)、中部(名古屋)の四本社。明治十五年、日本憲政党新聞として大阪で創刊、明治二十一年大阪毎日新聞と改題(朝日の東京朝日発刊の年)明治四十四年、東京日日新聞を合併した。昭和十年、西部、中部両本社開設(朝日と同年)。昭和十八年現商号となり、題字を東西ともに毎日新聞に統一した。
読売新聞は明治七年創刊。昭和十八年報知新聞を合併、読売報知となる。昭和二十一年、報知を夕刊紙として分離、現題号に復題。昭和二十七年大阪進出、同三十四年北海道進出(朝、毎とも同じ)同三十六年、北陸支社開設。正力松太郎社主が、警視庁を退官して部数三、四万でツブれかかった読売を松山忠二郎から買い取ったのは、大正十三年だが、務台光雄副社長が請われて入社したのは昭和四年だから、現在の読売新聞の社史をいうなれば、この時期からとみるべきである。
こうして、三社の小史をひもとけば、戦前からの、朝日、毎日の二大紙対立時代は、容易に理解できよう。そして、戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、読売もようやく、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられたのであった。この事実をみても、日本の新聞は、戦争によって発展し、成長してきたことが明らかである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 毎日は極めて〝健全〟な会社
戦後、東日本を地盤とする読売の部数に加えて、二十七年に大阪進出が成って全国紙の形を整えたことで、ついに念願の三大紙時代になったものである。読売は、その後も、九州に進出、地元紙と朝毎に押えられた名古屋をさけて、正力の郷里高岡に北陸支社を開設、完全な全国紙となったが、以来、僅々数年にして、二大紙として朝日と対立するにいたった。
四十三年三月の、販売関係における五社の発行部数がある。朝日五四七万、読売四九五万、毎日四四一万、サンケイ一九八万、日経九一万という数字である。新聞の発行部数について、正確な数字をつかむことは、極めてむずかしい。例えば、広告関係では、部数をふくらませて、広告価値と広告単価との根拠にせねばならないし、新聞協会が毎年四月と十月に行う部数調査では、部数に応じて会費負担が増減するので、とかく内輪の数字を公表するといった実情にあるからだ。
ここ数年来、読売の元旦付紙面を飾り出した、恒例の部数発表によれば、東京(北海道、北陸支社分を含む)、大阪、西部で、合計五百六十万部。前記数字を六十五万部も上廻った、四十三年元旦号の部数が示されている。一方、朝日は自社発行の「広告統計月報」で、四十三年二月の数字として、五百四十九万(弱)部を発表している。
いずれの数字が正しいかは別として、寂として声のない毎日をみれば、新しい二大紙時代が、この昭和四十年代に始まりだしていることは明らかであろう。朝日と読売の、次は六百万の大台
のせ競争によって……。
私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。
「毎日は、今や極めて〝健全〟な会社になった。詳しい数字は知らないが、不動産を処分して借金を返済し、経営を圧迫する厖大な金利負担を軽減した。ことに、大阪に持っていた沼みたいな土地がビル建築の出土で埋め立てられ、新幹線にひっかかったのは、全く幸運であった」
私はさらにたずねた。不動産を次々に処分したというのは、いうなれば〝売り喰い〟で、今や本社もこのビルの店子、毎月、家賃の日銭に追われるのではないか、と。
「新聞界における評価は別として、銀行家として見るならば、発行部数に見合った、以前よりも堅実な会社になった、というべきでしょう」
村野副頭取のこの言葉は、朝日と読売との二大紙時代を裏付けるに十分であろう。〝栄光ある老大英帝国〟にも似た、毎日新聞の詳しいレポートは、続稿にゆずろう。
昭和二十年代の十年間は、戦後新聞史のうちで、最も華やかな、「スター記者」時代、紙面の優劣の戦いの時代であった。新聞記者個人の才能と個性とが、いうなれば〝妍〟を競った時代で、また、殺伐な戦後の世相を反映し、その実力競争のモノサシとしての「事件」にも事欠かなかったのである。その中で〝事件の読売〟が大きく伸びて、三社てい立の時代をつくった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 何人かの雑誌記者の訪問
昭和三十年代に入ると、世情は落ち着きをとりもどして、「事件」は国際的な規模にひろがり、一人のスタープレーヤーよりも、組織の力に、取材力の比重が傾いてゆく。同時にテレビの急速な発達から、新聞は速報性の王座と、広告媒体としての優位を奪われ、経営と編集の両面から、体質改善を余儀なくされてゆく。新聞変質の過渡期である。そして毎日の凋落が進み、二大紙時代へと移る。
さて、昭和四十年代に入ると、その傾向が一そうハッキリとしてきた。資本の集中による企業の大型化に伴い、新聞企業とて例外ではいられなくなった。兵庫新聞、東京新聞といった、地方紙の倒産が目立ち、全国紙としても、日経という専門紙は例外として、サンケイの危機、毎日の衰退が深刻化し、朝日、読売の巨大化が進んでゆくのだ。
電波媒体はさらに発展し、経営、編集ともに大きな影響を新聞におよぼす。そして、極めて皮肉なことには、新聞に対して経営と編集の両面から、その体質改善を迫るキッカケとなったテレビの急速なる発達は、実に他ならぬ正力松太郎の日本テレビ創立が、その機運を促したのである。
正力が育てたプロ野球の隆昌が、スポーツ新聞なる新しい種類の娯楽紙の隆盛をもたらしたのだが、〝大正力の死の報道〟を、このスポーツ紙たちは一面トップの大扱いで酬いてくれた。にも拘らず、肝心の「新聞」は、テレビによる体質改善から、極めて冷淡な扱い方しかできなかっ
たのは、皮肉なことだった。
こうして、新聞は、今や決定的な変革を迫られている。その内部では、政治と資本、思想と表現とが、それぞれにブツカリ合って、まさに「社会の木鐸」とか、「無冠の帝王」などという、かつて新聞を表現した古語の看板を、ハネ飛ばそうとしているのである。
この「現代新聞論」の意図するところも、新聞の現状から、変革さるべき「新聞の近い未来像」を探ろうと試みるものである。
正力の死を報じた朝毎の夕刊は、いずれも一段組み。型通りの、〝亡者記事〟で、ただ、毎日だけが、同社会長である田中香苗主筆の追悼談話を加えた。葬儀にいたっては、両紙とも全くのベタ記事、〝冷淡な扱い〟といえるものであった。
さきほども述べたが、その死とともに、私は何人かの雑誌記者の訪問を受けた。曰ク。「最後の枕頭には、愛人がつきそっていたというのですが……」「社主には誰がなるのですか」「いよいよ読売社内での、跡目争いの内ゲバですか」ETC いずれも、いうなれば笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。
新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年
にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 〝蒙〟を啓いておかねば
新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年
にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。
この機会に〝蒙〟を啓いておかねばならない。〝愛人〟とは誰を指すのか、武の生母。中村すず女であろう。正力の戸籍をみると夫人はま女は、大正七年五月一日に結婚昭和三十八年元旦に、死去している。すず女が臨終をみとって何が不自然であろうか。また、「社主」に誰がなるか、社長は、というものも、商法上の「代表取締役」と混同していて、正力なればこそ、「社主」と称し得るのである。しかも、この「社主」なる呼称は、英語の「オーナー」とはまたニュアンスが違う。朝日の村山、上野家とはまた、その事情を異にする。私が昭和十八年の読売入社時に提出した誓約書の宛名が、すでに「読売新聞社主正力松太郎」であることに最近気付いたのだが、正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。
内ゲバにいたっては、務台、小林両代表取締役副社長の、人柄はもちろん、読売を取りまく、客観情勢さえ判断できぬ、その無知を嘲うべきであろう。
務台七十三歳、小林五十六歳。その新聞経歴は務台が十倍にもなろうという差がある。そしていま、大手町の新社屋建設二百億の金繰りを控えての、読売の正念場である。務台を措いて、余人をもってはかえられない、大事業に直面しているのである。
このとき、官僚としての最高位、自治省事務次官まで進んだほどの小林が、内ゲバをあえてしてまで、務台と事を構えねばならぬ、何の必然があるだろうか。いうなれば、福田赳夫と田中角栄との年齢の開きにも似て、小林としては、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・ムタイの構想を練るべき秋なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.036-037 3章トビラ
正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 警視庁七社会詰め
悲願千人記者斬り
私の手許に、二巻の録音テープがある。
読売新聞、いうなれば〝大正力〟の事蹟をみてゆくためには、同時に各社の実情とその人とを知らねばならない。その時、この二巻のテープの内容の話は、極めて示唆に富んでいた。
今は、故人となった某スポーツ紙の社長をはじめ、各社の四十名近い記者が登場する、このテープを聴いてみて、朝日、毎日、読売の三大紙についての、極めて象徴的な〝分析〟を、私は発見したのであった。
何故、象徴的というかといえば、氏名を明らかにされて、このテープに登場させられる記者たちは、十年余りも経た現在では、それぞれの社の、部長以上の幹部になっているからである。
——話は、そんな昔にさかのぼる。
私は、昭和二十七年から三十年まで、丸三年間、読売新聞社会部記者として、警視庁七社会詰めであった。
当時の同庁刑事部長に、極めて〝政治的〟な敏腕家がいた。彼は、のちに代議士に打って出たほどであるから、すでに双葉より香んばしかったのであろう。そして、当時の警察は、アメリカの占領から民主警察へ移行するという過渡期であったから、なおのこと、彼のような政治家によって〝家庭の事情〟を、新聞の監視外におかねばならなかったのであろう。
ともかく、「キャップ」会といわれるところの、「刑事部長懇談会」が月例となり、築地あたりの料亭で、ひんぱんに開かれていたことは事実であった。そして、料亭での宴会が終ると、銀座のバーに流れて、二次会、三次会というのがきまりであった。
今は二階に各記者クラブが広報課とならんで、一個所に集まっているが、当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。三階にある「警視庁記者クラブ」は、時事の身代りでも、七社会に加えてもらえなかったサンケイ、NHK、東京タイムズ、内外タイムズ、それに民放各社などで組織されていた。
従って、私の経験や目撃談も、この七社会が中心であった。三階のクラブについては、言及の限りではない。ともかく、この刑事部長の〝宴会戦術〟は、言論統制を意図したものであって、各社のキャップと〝親密〟になることによって、警察の内部問題に対して、新聞が興味と関心を持つことを、未然に防止しようとするものであったらしい。
正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 彼女の新聞記者遍歴
当時の警視庁クラブ詰め記者気質についていうならば、ともかく、〝呑む、打つ、買う〟の三道楽は、ある意味での美徳として、決して、非難さるべきものでなかったことは確かである。従って、このキャップ会の〝宴会〟が、刑事部長の意図した通りの効果を納め得たかどうか、〝言論統制〟が行なわれたかどうかについては、また稿を改めねばなるまい。
当時の新聞社の人事管理は、現在に比べると大変であったに違いない。まして、その中でも社会部、社会部なら警視庁キャップという管理職は、十名近い〝事件記者〟の精鋭を使いこなさねばならないのだから、並大抵ではなかった。
刑事部長は、二次会に銀座の「M」というバーに、キャップ連を伴った。皆は、そこのマダムに紹介され、ツケが利くことになるのである。通説によると、そのママが刑事部長の愛人だったというから、その辺のところは十分にわきまえていたのであろう。こうしてキャップ連中は、部下のクラブ記者を、安心して呑ませてやれることになる。もしも、あの当時のツケが、厳しく取立てられなかったとすれば、尻拭いをしたのは、警視庁であったに違いない。
ともかく、この「M」は各社の事件記者やそのグループで、毎晩のように賑っていたのであった。勘定が安心なばかりではない。もう一つ理由があった。いうまでもない、女である。
本名S・K、通称オシゲと呼ばれる、その「M」のホステスが、豪快に酒をのむばかりか、大の新聞記者ファンであったからだ。私が、このいわゆる現代新聞論を書くに当って、三大紙につ
いての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。
ここまで書けば、「三田の奴メ、一体、何を書こうとするのか?」と、不安の胸を押えられる、各社の中堅幹部の方々が、大勢おられるに違いない。
本格的な声楽家を目指して、上京してきた彼女は、音楽学校に入学した。故郷を捨ててきたのだから、学資も自分で稼がねばならない。美人とはいえないながらも、マアマアの顔で、生来の利口さから頭の回転が早い方だから、話していて退屈しない——となれば、若い身空でバー勤めに出ても、結構、通用しようというもの。
一応は学生だから、私鉄沿線の素人下宿に入って、二足のワラジの生活がはじまったのだが、声量もタップリな、若いツヤのある声が、次第に酒とタバコに荒れて、学校の方もともすればサボリ気味。そんな、学業と生活のギャップに悩みはじめた時期に、彼女は一人の新聞記者を知った。
悩みを酒の酔いにまぎらわしていたのも、金に困って身体の切り売りをしたことなどもあったようだった。そして、そんな生活から立ち直ろうとして、彼女はその記者に、本気になって打ち込んでいったのだが、その恋にもやがて破局が訪れた。男の妻の知るところとなったからだ。
オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ
た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。
正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 図々しくて阿呆なのが朝日
オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ
た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。
社をやめてから、もうしばらく経っていた私にも、その御乱行ぶりが聞えてきたのだから、察しがつこうというものだ。記者たちと飲み歩きの果てには、明け方、警視庁クラブの長椅子に倒れこみ、クラブを我が家の如く振舞う、とまで噂されていた。
彼女の〝悲願千人記者斬り〟は、何も警視庁クラブ詰めの記者ばかりではない。明け方の朝刊〆切りまで起きている、新聞社の編集局にまで乗ッ込んでくるのだから、その日の風の吹き工合だ。こうして、私の先輩である社長までが加えられた。
さて、オシゲはやがて、中年の役付き記者と深くなった。事実上、同棲同様であったらしい。心配した上司が、その記者を遠方に転勤させてしまったものだから、家庭さえブン投げてしまったその記者も、やっと眼が覚めるといった始末。げに、中年男の恋らしい結末だった。そして、どうやら、オシゲの記者遍歴は終りをつげる。
そんな時期に、私はオシゲと銀座でバッタリと出会った。数年振りであったろう。彼女の〝回顧録〟に、私はテープレコーダーの用意をした。一人一人社名と氏名をあげて、彼女のその男の想い出が、綿密に語られてゆくのだ。
それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。だからこそ、私は参考資
料として、記録を残すためテープにとったのであった。
「読売の記者は、私がエライ人との寝物語で、何をいいつけようが、そんなことを気にしたり、他人の彼女だなんてことにこだわりゃしない。女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだから、イタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。
一番数が少ないのが毎日の記者。これはキャップの親しいバーで、誰がキャップの彼女だか判らないから、遠慮するし、警戒するのよ。親分、子分の意識が強いのネ。据え膳にだって、自分の立場を考えて、盗み喰いさえしないのが毎日よ。古いわねえ。
図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。
オレは〝大朝日新聞の記者だ〟ッてのが、ハナの先にブラ下っているの。アタシが他社の記者を斬ってきて、そのあと続いて、朝日の記者を斬っているのに、マワシの二番煎じとも知らずに、〝朝日にイタして頂いて有難いと思え〟式なの。〝目黒のサンマ〟の殿サマは、裏返しにしたのを知っててオトボケするンだけど、朝日の記者は思い上ってるから、裏返しのパッというところが、読めないのねェ」
オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあっていないし、その消息も聞かない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 Fという有能な整理記者がいた
オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあっていないし、その消息も聞かない。
「畜生、辞めてやる!」の伝統
さて、ここで、古き良き時代の新聞記者について語らねばならないだろう。
まず、二人のチャンピオンをあげよう。さきごろ、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、読売常務・編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。
この言葉には、解説が必要である。Fという有能な整理記者がいた。ところが、これがまた大変な競馬狂で、仕事以外は、競馬のことしか念頭にないのである。そのキャリアは、累積赤字四百万円に達したというのであるから、想像を絶しよう。もちろん、負けに負け続けたというものではない。勝つ時もあるのだが、その時は景気良く派手に使ってしまうのだから、負けた時の借金が累積してゆくのだ。
ありとあらゆる所から借りつくして、流石に身動きが出来なくなってしまった。かくし てF
は、読売を退社して、その退職金四百万円を投げ出し、一度、借金の整理をすることとなる。借金と退職金がツーペイである。これでは、家族も困ろうと、友人たちが高利貸しを口説いて利子をまけさせ、四十万円を捻出した。その退社の日たるや、けだし壮観であったという。
Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。だが、Fは悠然として、この四十万円で競馬に出かけ、倍の八十万円にして帰ってきたというのだ。しかも身辺整理の終ったFは、大阪読売に迎えられて、華麗な見出しで紙面を飾っている。
Fの能力に感嘆した栗山が、「とても、普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。大阪の陣容強化のため、もっと優秀な記者がほしいものだ」として、今度は競馬狂ではなくて〝パチンコ狂はいないか〟と、原にたずねたというものである。
もう一人は、Iというカメラマン。これまた、無類の酒好きで、早朝から酒気を帯びてはいても、一瞬のシャッター・チャンスを争う報道写真にかけては、抜群の腕前ではあった。私も、幾度かIと仕事に出かけたが、彼の名人芸には感嘆させられたものであった。
多くのカメラマンは仕事に出かけると、ヤタラとシャッターを切る。紙面に使われるのはタダの一枚の写真なのに、沢山写して、デスクや部長にえらんでもらうためだ。もっとも、未熟なカメラマンを育てるための、それが教育法でもあったのであろう。ところが、Iはいつも、仕事は
一枚限りである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 壮絶な出所進退
多くのカメラマンは仕事に出かけると、ヤタラとシャッターを切る。紙面に使われるのはタダの一枚の写真なのに、沢山写して、デスクや部長にえらんでもらうためだ。もっとも、未熟なカメラマンを育てるための、それが教育法でもあったのであろう。ところが、Iはいつも、仕事は
一枚限りである。
最近は、小型カメラ全盛だが、Iの時代はスピグラ一本槍のころである。現場へ着くと、Iはただ一発のフラッシュガンを片手に握り、片手にスピグラというスタイル。フラッシュの点火を確実にするため、差込み部分をナめながら、チャンスを狙って閃光一閃。他社カメラマンがひしめきつづけるのをシリ目に、悠々と車にもどるという芸当であった。
昭和二十四年暮。当時国会担当であった私が、議員会館に女を連れこんで、温泉マーク代用にしている者が多い、という噂を聞きこんで、一晩張り込みをした時の相棒もIであった。……深夜、寒さにふるえながら待った甲斐があって、某参議院議員が、一見水商売風の女性と手をつないで会館へとやってきた。
玄関前の植え込みから飛び出した我々を見て、クダンの議員はクルリと反転、女を引っ張ったまま逃げ出した。一瞬の差で顔を写しそこねたIは、まだシャッターを切らない。二人で、待機中の車に飛び乗って、逃げた方角を追う。私が守衛にその男の顔を確認していた数分、否、数十秒のおくれがあったからだ。四国出身のK議員と判って勇躍する。
会館の周囲をグルリと走って、三宅坂方向をみると、何と、まだ手をつないだまま、二人が走っている。Iが運転手のSに落着いた声でいった。「あの二人を追い抜きざま、急カーブを切って、前を廻ってくれ」と。みると、例のスタイルでフラッシュをナめているではないか。
自動車部のSもヴェテラン、車がアメリカのギャング映画もどきの、鋭い悲鳴をあげて急転回した瞬間、車窓に構えたスピグラが光った。——翌日の夕刊一版から、トップを飾ったこの一発の写真は「噂の議員会館・門限後潜入記」の見出しを語りつくしていた。そして、この議員は翌春の参院選に落ち、衆院に廻ってきて、以来当選七回である。
Iは共同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上のケンカで椅子を相手に投げつけ、片眼を失明させてしまった。酔いさめたIは、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。
競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。
私がいいたいことは、この二人の記者の行動についてではない。彼らにも、それぞれの家族もあり、家庭内の事情もあったろうから、退職金を投げ出すことについての、若干の感慨もあったであろう。個人的な事情とはいえ、退職金までもゼロにして、社をやめるという壮絶な出所進退をとりあげたいのだ。そして、二人ともその〝骨〟ならぬ〝腕〟が、立派に拾われているということだ。
古き良き時代の、ある新聞記者像として、この二人のエピソードを紹介した。読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟
という感覚を、とりあげてみたかったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 商売気のない〝孤高の新聞記者〟
古き良き時代の、ある新聞記者像として、この二人のエピソードを紹介した。読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟
という感覚を、取りあげてみたかったのである。
ある古手の記者が、原の統率する読売編集局を評して、「一犬虚に吠えて、万犬実を伝う」といった。だが、私はこの言葉を裏返して、〝一犬実に吠えて、万犬虚を伝う〟と訂正しなければならぬと思う。原の〝自信にみちた〟怒号を、バチッと自分で受止めて、万犬が〝虚〟を伝えるのを防ぐだけの、幹部級の新聞記者がいなくなったのが、編集の現状だと思う。——誰もが、現在の自分の地位と収入と、退職金とが惜しくなってしまったのである。
「畜生! 辞めてやる!」と口走るのが、事実、読売の伝統であったようである。名文家として知られた高木健夫(役員待遇)が、昭和三十年に書いている「読売新聞風雲録(原四郎編)」中の、「社長と社員」の文章に、正力陣頭指揮時代の読売の社風が、そのようにうかがわれるのである。
編集局長原四郎。常務取締役でもあって、読売の紙面制作の実力者である。国民新聞(注。徳富蘇峰の主宰した戦前の一流紙。現在も旬刊紙として、その題号だけは、細々と伝えられている)から、読売に移って、戦時中は東亜部次長、副参事。ビルマ支局長も経ている。明治四十一年二月十五日生れ。戦後は、文化部長から社会部長、整理部長、編集総務となり、取締役出版局長に出たのち、編集局長へともどってきた全くの記者。
編集局にいるかぎり、販売店のオヤジさんたちとは付合わないで済むが、出版局長ともなれば
そうはゆかない。販売店主やら広告代理店やら、ソロバン片手の交際ももたねばならない。ところが、原はそのような会合に出たがらず、部下まかせにするので、出版局育ちの部長連中が泣いたという伝説があるほどで、商売気のない〝孤高の新聞記者〟でもある。
古き良き時代に、新聞記者として育ち、幹部記者として戦争を見、戦後の反動で文化活動の盛んな時に文化部長を勤め、読売の伸張期である昭和二十年代に「事件の読売」の社会部長として、昭和二十四年から同三十年まで、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。
高木は昭和二年に国民新聞に入ったのだが、しばらくして名文を買われて読売にトレードされたように、原もまた、美文をもって、国民から昭和十一年、高木に誘われて読売に移った。〝伝説〟ではあるが、原の暢達華麗な美文は、〝原文学〟とまで称されていた。
その原が、七年の長きにわたって社会部長であった時、十三年七カ月にわたって編集局長であったのが、小島文夫(故人)である。小島編集局長時代に、これらの「畜生! 辞めてやる!」という読売の伝統は、次第に薄れていったようである。
「正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て社内を一巡する。この時、だだ広 い編集局にただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 「記事でとってる読者が五%」発言
「正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て社内を一巡する。この時、だだ広
い編集局にただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。
『あれは誰だ』
『小島文夫という男です』
『学校は何処かね』
『社長の後輩、東大です』
『あいつを部長にし給え』(遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より。注。元読売社会部記者)」
小島は四十年十一月十五日、専務・編集主幹と昇格した直後に、社の玄関で倒れて逝ったが、その通夜の席で、記者たちは囁いた。
「ハリ公(小島の愛称)は、何のたのしみで新聞記者になったのだろうナ……」と。
彼は、その愛称をモジって、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれるほどの正力の完全な番頭であった。 その端的な実例がある。いわゆる務台事件後の四十年六月、夏期手当をめぐる交渉委員会での発言だ。
「会社—会社の調査では、読売の読者のうち〝社主の魅力〟でとっているのが四〇%、〝巨人軍〟でとっているのが二〇%で、〝記事が良いからとっている〟というのは、わずか五%ぐらいだ。
組合—〝記事でとっているのが五%だ〟というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これではみんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。
会社—社主の魅力が大きい以上、そうした記事(注。いわゆる〝正力コーナー〟と呼ばれて、当時、紙面にひんぱんに登場した正力動静記事)は扱わねばならない。批判的な読者の声も、ほとんど聞いていない(組合ニュース第十一号、六月十六日付)」
この「記事でとってる読者が五%」発言は、当時、全社的憤激をまき起し、小島は引責辞職にまで追込まれそうになったのだが、組合ニュース第十四号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビがつながった。これをもってしても、小島の人柄が判断されよう。
慄えあがった編集局長
小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤
泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 大誤報のニュース・ソースが河井検事
小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬・福田篤
泰両代議士召喚必至」という、大誤報を放った時である。
原が、社会部長から編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原の僚友景山与志雄が社会部長となった。古い社会部記者のタイプの、温情派であった景山は、原の後任としては、社会部長の椅子が重かったようである。おりからの売春汚職にさいして、やはり、〝ここらで一発!〟の気が動いたらしく、療養生活から出社してきたばかりの、司法記者のヴェテラン立松を起用した。
立松はいうまでもなく、昭電事件のスクープで「事件の読売」の評価を高めるに、大功のあったスター記者であった。彼は、米軍占領下で大量追放の憂き目にあった、思想検事閥に代って、GHQに迎合した経済検事閥(注。いわゆる〝馬場派〟のこと)の先達、木内曾益次長検事に可愛がられて、馬場——河井ラインに密着していたので、他社を呆然とさせる連続スクープを放つという、輝かしい経歴を作っていた。
景山には、立松のスクープ可能の〝限界〟が、十分に理解できていなかった。当時、立松のネタモトである河井信太郎検事は、現場を離れて、法務省刑事課長であったのだ。立松を部長直轄として、司法クラブのキャップであった私の、隷下には属させなかったのも、景山のアセリを示し、指揮統率上からも、誤報を生む原因となった。
なぜならば、立松は、長い療養生活から戦線復帰をしてきた直後であり、売春汚職と政界のつながりなどの、十分な基礎知識を勉強する体力も気力もなく、昭電事件当時のように、直接、逮
捕状まで見せてくれた河井検事のような、現場の検事がいなかった。(注。昭電事件における読売の派手なスクープは、事件そのものが、GHQ内部の対立からきた謀略でもあったから、逮捕状を事前に見せるだけの〝意義〟があったのである。そして、この事件に加担した経済検事閥は、この時から国家権力を私する〝よろこび〟を覚えて、検察を堕落させるのである)
立松は、私に良く、部長に対し負荷の任に耐えないことをコボしていた。もし、彼が私の指揮下にあったなら、私はあの原稿の出稿を認めなかったであろう。というのは、私の部下であった滝沢、寿里両記者とも、その内容が、当時〝怪文書〟として流れていた、マルスミ・メモ(注。代議士の氏名の上に、済の字を丸で囲った印のついた名簿)と、あまりに符合していたからである。
そして、立松記者の取材の最後のツメは、私と滝沢とが立会って、河井検事の自宅への電話取材ということになった。私が、あの大誤報のニュース・ソースが、河井検事であると公言できるのは、この事実と、立松が正式に部長、デスクに対し、「河井からの取材」と報告している事実とからである。
宇都宮、福田両代議士の、即日の告訴から、立松の現職逮捕となって、事件は大きくひろがった。検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ
よう、という、岸本派の狙いがあったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 〝研究させてみましょう〟と一言
検察内部の派閥対立から、告訴を受けた 岸本義広東京高検検事長の指揮の下に、「立松記者のニュース・ソースは河井検事に違いない」というので、現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させ
よう、という、岸本派の狙いがあったのである。
この時、マスコミは団結して、立松記者の不当逮捕の非を鳴らし言論の自由のための闘い、を展開した。立松は拘留がつかずに、三日目に釈放された。そこで、宇都宮、福田両代議士は、事件を国会に移し、小島編集局長を証人として喚問し、宣誓証言を求めようとしたのである。もちろん、「ニュース・ソースは河井検事」ということは、局長にも報告されていた。立松、河井の関係の過去があるだけに、〝河井のネタ〟ということで信頼されて、あの大誤報がトップになったものだ。
小島は、国会の証人喚問と聞いて、蒼くなってフルエた。証言拒否権がないのは明らかで ある。「どうしたらいいんだ」という小島の言に、私と、前任の司法クラブのキャップの萩原福三記者とで相談して、小野清一郎、名川保男、竹内誠の三弁護士を招いた。
これにもまた、エピソードがある。三弁護士に局長、部長、萩原と私の会議が開かれ、国会の証人喚問に対する、読売編集局長としてのとるべき態度が相談された。相談といっても、萩原と私とが、経過說明を行なっただけである。本社会議室で約一時間、事情を聞き終った小野弁護士はタダ一言、「難しい問題ですナ。ウチの助教授(注。小野は東大名誉教授)たちに研究させてみましょう」
会議はそれでお開きとなり、近くのレストランで夕食を差しあげて、三弁護士を車でお宅まで
お送りしたのであった。事件はその後、正力の出馬となり、同一スペース、同一活字の訂正記事で、両代議士の名誉回復を図って落着したが、さて、小野弁護士の謝礼が問題であった。
萩原と私が、アチコチ当ってみたが、このようなケースの謝金の額の前例がない。万策つきて、本人に「ぶしつけながら……」と伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。
一流の新聞社が、一流の弁護士への謝金となると、これは〝問題〟である。下手をすると、どちらかの〝一流〟にキズがつく。
小島は、萩原と私が相談した結果の、数字を記入した出金伝票を見て、目を丸くして叫んだ。
「小野先生は、〝研究させてみましょう〟と一言しゃべっただけだ! それなのに、こんなに!」
結局は説得されて局長印を押したけれども、小島は、あの時の〝蒼い顔〟を忘れて不服そうであった。彼には、人間の知的労働についての、正当な認識がなかったようである。
立松は、懲戒停職一週間、景山は一等部長である社会部長から、三等部長の少年新聞部長へと左遷されて、事件はすべて片付いた。景山の後任は、〝危険な〟社会部出身をさけて、経済部出身の金久保通雄であった。
年があけてから、立松がキャップの指揮下になかったので、直接の処分こそ受けなかったが、私には、「大阪読売の社会部次長はどうか」という、打診がきた。もちろん断った。すると、し ばらくして、「週刊読売の次長はどうだ」という。私は一笑に付した。