投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 気前良く何枚も女どもに呉れてやる

正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!
正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!

年があけてから、立松がキャップの指揮下になかったので、直接の処分こそ受けなかったが、私には、「大阪読売の社会部次長はどうか」という、打診がきた。もちろん断った。すると、し

ばらくして、「週刊読売の次長はどうだ」という。私は一笑に付した。けれども、この次には、もっと悪いポストで、私は社会部から追放されるナと、感じたのであった。

なにしろ、金久保が部長になるや、千葉銀事件、鮎川金次郎事件といったような、〝危険な事件モノ〟は、全くボツになって、無難な企画モノだけで、社会面がつくられるという状態であった。金久保は社会部育ちの古参次長たちを、逐次、部外へ出していった。小島の特命をうけたらしい、〝角をためる〟部長であった。

彼は、直ちに社会部内の現況を握るため〝管内巡視〟をはじめた。当時、司法記者クラブのキャップであった私の、御進講を受けた部長は、勉強を終って銀座のバーへと流れることとなった。

余談ではあるが、やはり、書きしるしておかねばならないことがある。馴染みのバーで馴染みの女の子たちに、社会部長就任を祝われた部長は、すっかり〝その気〟になってしまって、私の眼前で、巨人軍の試合の招待券を、気前良く何枚も女どもに呉れてやるのであった。

私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。女どもの嬉々としてよろこぶ有様をみていて、酒好きと女好きでは人後に落ちない私ではあったが、その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券! ジャイアンツ・ファンのデカや検察事務官にとって、これほどの贈り物があるだろうか。

警視庁や検察庁のクラブ記者が、夜討ち朝駈けの際に、この一枚の切符をポケットに忍ばせておれば、どんなにか心強いことか! この時の私の部長不信の念が、やがて、半年余を経て、私の横井英樹殺人未遂事件への連座となり、引責退社となるのである。そして、小島常務・編集局長は、三十一年に事業本部嘱託として入社してきた正力亨を戴いて、専務、副社長を目指しているための、〝安全運転〟であると噂されていた。

五人の犯人〝生け捕り計画〟

社会部中心の記述が続いているが、読者の御寛恕を乞いたい。が何しろ、〝事件の読売〟といわれて、三面(注。四頁時代の社会面)記事でノシてきた大衆紙である。ことに、原の社会部黄金時代のあとだけに、もうしばらく、筆を進めさせて頂くこととする。

前述したような小島の〝安全運転〟ぶりや、部長やデスクの〝事件記事圧殺〟によって、当時の読売社会部は、最近の大学のように荒廃してきた。私は、心中ひそかに決意しはじめていた。何かの事件を機会に、「社会部は事件」という実物教育をやってやろう、ということである。い

うなれば、社会部記者としてのクーデターである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 十年後の「新聞」を暗示

正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?
正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?

前述したような小島の〝安全運転〟ぶりや、部長やデスクの〝事件記事圧殺〟によって、当時の読売社会部は、最近の大学のように荒廃してきた。私は、心中ひそかに決意しはじめていた。何かの事件を機会に、「社会部は事件」という実物教育をやってやろう、ということである。い

うなれば、社会部記者としてのクーデターである。

小島局長、金久保部長、そして社会部デスクたちへの〝反逆〟である。その当時の雰囲気を私が読売を退社した直後に、文芸春秋昭和三十三年十月号に書いた、「事件記者と犯罪の間。—我が名は悪徳記者—」から引用しよう。

「私がもし、サラリーマン記者だったなら、もちろん、〝日本一の社会部記者〟などという、大望など抱かなかったから、こんな目にも会わなかったろう。(注。私は昭和三十三年六月十一日、銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組による、横井社長殺人未遂事件にからんで、指名手配=あとで 誤認と判明=犯人の一人をかくまったカドで、犯人隠避容疑に問われた)もし、それで逮捕されたとしても、起訴はされなかったろう。

七月の四日すぎ(昭和三十三年)、多分、七日の月曜日であったろうか。警視庁キャップの萩原君が、ブラリと最高裁のクラブにやってきた。二人で日比谷公園にまで、お茶をのみに出かけた。

『オイ、岸首相が総監を呼びつけた(注。横井事件の早期解決指示のため)という大ニュースが、どうしてウチには入らなかったのだい。まさか、政治部まかせじゃあるまい』

と、私はきいた。

『ウン、原稿は出したのだが、それが削られているんだ。実際、ニュース・センスを疑うな。削った奴の……』

彼は渋い顔をして答えた。

『どうして、ウチは事件の記事がのらねェンだろう。全く、立松事件の影響は凄いよ』

『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』

『エ? じゃ、社会部は、婦人部や文化部や、科学部の出店でいいというのか?』

私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?」

私はガク然とした——という記憶を、今だに持っている。萩原のこの言葉は、いみじくも十年後の「新聞」を暗示していたのであった。そして、それから旬日余りのちに、私のクーデターは失敗して、「横井事件の五人の指名手配犯人の生け捕り」計画は、ウラ目に出る。

七月二十一日の月曜日朝、部長と同道して、警視庁に新井刑事部長(前警視庁長官)を訪ねた私は、犯人隠避の事情を説明して引責退社の手続きの猶予を乞うた。翌二十二日午前中に、依願退社が決定され、私は正午に警視庁の表玄関の石段を上っていった。二十日の日曜日、別の事件のため出社した私は、旭川支局からの原稿「横井事件特捜本部は旭川に指名手配犯人の立廻り方

を手配してきた。立廻り先は……」を読んで、我が事敗れたりと知ったのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 前借伝票には局長の印が必要

正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。

七月二十一日の月曜日朝、部長と同道して、警視庁に新井刑事部長(前警視庁長官)を訪ねた私は、犯人隠避の事情を説明して引責退社の手続きの猶予を乞うた。翌二十二日午前中に、依願退社が決定され、私は正午に警視庁の表玄関の石段を上っていった。二十日の日曜日、別の事件のため出社した私は、旭川支局からの原稿「横井事件特捜本部は旭川に指名手配犯人の立廻り方

を手配してきた。立廻り先は……」を読んで、我が事敗れたりと知ったのであった。

殷鑑遠からず。私の退社、逮捕、起訴の経過をみつめていた、社会部の〝不平不満〟は、破れた風船のようにシボンで、金久保が小島に与えられた〝去勢〟任務は、望外の成果を納めたもののようであった。

立松事件、三田事件と、この半年余りの間に、立てつづけに読売社会部を襲ったアクシデントは、それから、四十年に小島が死去するまでの丸七年間、彼をして局長の椅子に安泰せしめたのである。そして、原はその間に出版局長として、外部におかれ、正力のランド熱中の影響から、読売は斜陽の一途をたどり、四十年春の務台事件当時は、まさに倒産寸前にまで傾いていたのであった。

小島の前任の編集局長、安田庄司(故人)についても語らねばならない。この人の愛称は〝安サン〟であった。小島の〝ハリ公〟と比べて、人柄が偲ばれるであろう。小島を、〝ハリサン〟と呼ぶ人はいても、安田を〝安公〟と呼ぶ人はいなかったのである。

昭和二十三、四年ごろ、まだ、チンピラ記者であった私が、どうしても金の必要に迫られた時、社で前借をすることを、社会部の先輩に教えられた。だが、この前借伝票には、当該局長の承認印が必要であった。私は、金参千円也、と書いた伝票を持って、勇を鼓して局長室のドアをノックした。

安サンは、初めて見る若い記者の入室に、いぶかし気な表情をした。私としても、はじめて編集局長とサシで会う次第だ。私が差し出した伝票を見て、安サンはいった。

「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」

赤くなって、酒代を否定しようとする私をみて、安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。ハッとする私に、安サンはおもむろに、自分の財布から三千円を取出して、「返せたら、返せよ」といった。——これが、〝安サン〟であった。

こうして編集局長の人となりと社業のおもむくところを眺めてみると、あるグラフが描かれるのである。第二次争議で、鈴木東民編集局長を追放して、〝共産党機関紙〟から脱け出した読売の、昭和二十三年以降の二十年代における飛躍的な伸びは、安田編集局長時代であったし、毎日を完全に蹴落して、朝日、読売の角逐時代を迎えられたのは、原四郎になってからである。小島時代の昭和三十年代は、事実、「新聞」なるものの、体質変化の過渡期でもあったろうが、読売の発展とはいい得ないであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 読売の社史・日本新聞年鑑

正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。
正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。

社史にはない二度のスト

ここでもう一度、読売の社史にふれておかなければならない。これは、昭和四十年版の日本新聞年鑑によるもので、読売の報告にもとづいたものである。

「本紙は明治七年十一月二日、芝琴平町の日就社から創刊された。題号の『読売』は三百数十年前から、京阪や江戸の町で売られていた〝読売瓦版〟に由来するものである。

当時、他の新聞がむずかしい文章で、政論をたたかわすのを主としていた中に、本紙はふりがなつきの読みやすい、大衆向きの新聞を作って人気を得た。

十年三月、銀座一丁目京橋のたもとに移転、二十年代にはいって高田早苗、坪内逍遙が相ついで主筆となるにおよび、文芸新聞としての色彩を濃くし、幸田露伴、尾崎紅葉が入社、後には泡鳴、秋声らの自然主義運動の本拠たるの観を呈した。

関東大震災では、全焼の厄にあったが、翌大正十三年二月、正力松太郎が第七代目の社長とな

るや、独創的な企画や紙面の刷新によって、驚異的な発展をとげるにいたった。

昭和十五年には九州日報、山陰新聞、十六年には長崎日々、静岡新報を合併し、十七年には樺太の四新聞を統合して、本社経営のもとに樺太新聞を創刊し、同年八月には、長い歴史のある報知新聞を合併して、題号を読売報知と改めた。

第二次大戦の終りごろ、軍部の新聞統合案に対し、正力は身をもってこれに反対し、辛くもその実現をはばんだが、昭和二十年十二月、戦犯の容疑を受けるに及んで社長を退き、後任に馬場恒吾を推して社長とした。

二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十六年一月、馬場が退き、安田が代表取締役副社長に就任。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。

二十九年十一月、創刊八十周年を迎えるに当たり、資本金を一億四、五八〇万に増資した。三十年二月、安田死去し、代わって務台光雄が代表となった。

同年四月、英字日刊紙ザ・ヨミウリを発刊、同年六月、高橋雄豺が代表取締役副社長に就任した。

三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用

いて、東京最新版の現地印刷を開始した。

昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三○○万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」

正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民らは社長以下の退陣を要求

鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。

三十二年五月、読売会館を建設、三十三年七月一日、株式会社日本自動車会館を合併して、資本金一億五、三三〇万となった。三十四年、北海道支社を開設し、タイムズ式ファクシミリを用

いて、東京最新版の現地印刷を開始した。

昭和三十八年八月、朝刊十六ページ、夕刊十ページ建てで、三〇〇万の発行にせまられ、第二別館を建設、超高速度輪転機を四十八台とした。三十九年九月。北九州市小倉区に西部本社を創立、九州進出を実現した」

会社側の社史には書かれていないが、第一次、第二次のストがあった。「組合史」第一巻(昭和三十一年、読売従組発行)にはこうある。

「一九四五年十月二十五日、読売新聞社の全従業員をふくむ、読売新聞社従業員組合が結成された。これが今日の我々の組合の出発点である。

九月十三日、論説委員鈴木東民ほか四十五名が、社内改革の意見書をつくり、主筆、編集局長の退陣を正力に申入れた。これを拒否されて、鈴木らの民主主義研究会は、社長以下の退陣を要求、正力は十月二十四日に、鈴木ら五名の退社を申し渡した。かくて、二十五日の組合結成とともに、第一次争議に突入した。

そこに、正力の戦犯容疑の逮捕状が出たので、十二月十二日、正力社長、高橋副社長、中満編集局長、務台常務は退任し、馬場社長、小林光政専務、鈴木編集局長の陣容となり、第一次争議は

解決の形となった。

鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任したので、編集はもちろん人事や業務の全般に対して、経営協議会を通じて有力な発言をなしうることとなったため、実質的には、第一次争議中の組合の業務管理がそのままつづいている形であった。そのため馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、四六年六月十二日、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。

その後、七月十四日から十七日まで、新聞発行は不可能となり、十七日、分裂した組合、刷新派組合員が大挙して工場を明渡し、十八日から新聞が印刷刊行された。

その間、GHQの両派応援の介入、日本新聞通信放送労働組合のゼネスト計画の失敗などの曲折を経て、十月十六日、鈴木東民以下の依願退社扱いによる解決をみ、分裂した組合もまた、従業員組合として一本化した」

この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰

雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 七月十四日、新聞が停った日だ

正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた
正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた

この第一次、第二次争議の、詳しい事情は、「組合史」が文献中心の表現をしているのに対し、赤沼三郎「新聞太平記」(昭和二十五年、雄鶏社)(注。読売政治部出身の政治評論家花見達二のペンネームといわれる)は、このストの経過について、正力、高橋、務台、八反田、岡野、品川、清水らの現存幹部たちの役割りについてまで、情景タップリに叙述しており、馬場は主筆に迎えた岩淵辰

雄の提案をうけて、廃刊の決意を固めたという。七月十四日、新聞が停った日だ。

「『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。そのつもりで全従業員に訴えたい』

聞いていた重役は、みな泣いた。品川重役はたまりかねたか、

『社長、そんなことは思いとどまって下さい。わたしが今一度、工場へいって頼んでみますから……』

拳で涙をぬぐって出ていこうとする。もうそんなことが、なんの効果もないことは、みんなよく判っていた。

……輪転機は鳴りやんだ。新聞発行は停った。工場は暗黒になった。射るような夏の西日が、葬儀車のようにならんだ発送トラックを照らしつけた。工場は乗取られた。

……千九百名の社員が大ホールに集められた。空爆でただれ焦げた大ホールだった。馬場は壇上に立った。

『光栄ある伝統の本社も、ここに七十年の歴史を閉じるほかない。世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』

馬場は壇上で泣いた」

このあとに工場奪取の提案がなされ、青年行動隊が組織される。活字ケースをひっくり返されないため、千三百人の再建派が、青行隊を先頭に、四百人の籠城する工場を攻撃しようというのだ。当時は用紙割当制時代だから、すでに三日の休刊、活字ケースがバラされたら、さらに十日も休まねばならない。そしたら、割当てがなくなる。自然廃刊になるという危機感が、みなをいらだたせる。

「『万一の場合、死んでくれるものが、青行隊のなかに何人あるのか、すぐ調べてくれ』

それはもう真夜中であった。事は急を要し、秘密を要する。……青行隊の鈴木、鹿子田が、決死の覚悟の青年を点呼してみると、十三名あった。武藤委員長の前に、ひとりひとり呼ばれた。

『大丈夫か、やってくれるか』

『お父さんはいるか? お母さんは?』

そして、つぎつぎ固い約束が交わされた。さすがに、家族のことを口にすると、みんなおたがいに涙が流れた。

工場の二つの入口から、七名と六名が突入して活字の馬を奪還する。……青行隊が、活字台に伏せた、その体をふみこえて、工場に突入。……夜十一時五分前、再建派が青行隊を先頭に工場に向ってナダレを打った。

……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』

馬場は電話口で声をあげて泣いた。

『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」

正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 毎日がストの洗礼を経なかった

正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。

……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』

馬場は電話口で声をあげて泣いた。

『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」

朝日のストについて細川隆元が「朝日新聞外史(騒動の内幕)」(昭和四十年、秋田書店)を書いているが、花見と細川の筆力の違いもさることながら、終戦直後と昭和元録という、時代背景の差もあって、この読売争議ほど、朝日のはドラマチックではない。

もっとも、朝日もまた、終戦直後には、民主化騒動を経ているが、読売のそれにくらべると、正力の下獄などという、緊迫感の盛り上りに欠ける。さすがに読売は〝事件の読売〟だけのことはあると、改めて、花見の文章に酔ったほどであった。

読売と朝日とが、戦後、このような騒動によって、体質の改善が行なわれたのに対し、毎日がストの洗礼を経なかったことで、今日の朝読—毎日の差がついたという人もいる。しかし昭和二十八年に青地晨が、その著の「好敵手物語」に、朝日—毎日をとりあげ、「部数において朝日四百三万九千余、毎日四百五万五千余と、読売(東京)百八十九万七千余と産経百二十一万余部=二十七年二月現在、新聞協会編ザ・ジャパン・プレスより。但し数字は公称=を、大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青

地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。

元朝日記者の酒井寅吉もまた、文芸春秋誌の「新ライバル物語」(昭和四十年十一月号)で、朝日—毎日をとりあげているが、「……読売の経営難は朝毎以上。……この値上げ競争で結局、弱小新聞はふるい落され、二大新聞(朝毎をさす)の独占化へ進んでゆく道が大きく開かれることになる」と、観測を誤っている。

務台事件後の読売の一番困難な時期、つまり、酒井寅吉が、この〝読売の経営難は朝毎以上〟と書き、朝毎の二大紙独占化を予想した時点で、編集局長となった原四郎について、さらに語らねばならない。なぜなら、予想はくつがえされて、それからわずか四年後に朝日—読売の独占化時代に突入したからである。

強まる「広報伝達紙」化

読売編集局における、局長の原四郎を評して、〝一犬実に吠えて万犬虚を伝う〟というべきである、と述べたのは他でもない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 叛骨がすでに失われている

正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。
正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。

強まる「広報伝達紙」化

読売編集局における、局長の原四郎を評して、〝一犬実に吠えて万犬虚を伝う〟というべきである、と述べたのは他でもない。

局長と部長クラスとの間に、「断層」がありすぎるからである。「断層」については、さらに説明を加えねばならないであろう。前稿において、原を〝孤高の新聞記者〟と評し、〝古き良き時代〟における、ある新聞記者像として、二人の男の〝社を辞める〟という感覚を紹介したことを、読者は想起して頂きたい。

つまり、現在の部長クラス以下の、中堅幹部たちに、「畜生! 社を辞めてやる!」という、叛骨がすでに失なわれているのだ。個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。

早い話が、さる四十四年六月二十九日付の読売第十七面の「社告」の例がある。

「読売新聞はさる六月一日から紙面を刷新、連日二十ページとしてニュース面の拡充をはかるとともに、うち四ページをテレビ・ラジオ欄と読者の投書を主体として構成、扱いやすく読みやすい別刷りシステムをとってまいりました」

従来、何枚重ねかになっている新聞の、真ン中あたりのページにあったラジオ・テレビ欄を、これでは、番組探しのさいに、いちいち引ッ張りだしてくるのが面倒臭いので、手ッ取り早くラ・テ欄が見られるように、四ページの別刷りの、第二、第三面見開きに移すという「紙面刷新」を行なったということだ。

その結果、この別刷りの第一面に、読者投稿の気流欄と、呼び物の「昭和史の天皇」をすえ、

第二、第三面がラ・テ欄となった。こうすると、「読売新聞」の「新聞」たる所以である、政治、経済、社会の各面には全く〝触れる〟こともなく、新聞の中味を、折込広告と共に抜きとり、「扱いやすく読みやすい」ラ・テ欄に直行できるという仕組みになったわけである。

(承前)「これは幸い読者の圧倒的な支持を受けておりますが、本社によせられた多数のご意見のうち、別刷り四ページについて、テレピ欄は最初の面にあった方が、さらに便利だ、という向きが、日を追ってふえております。ごもっともなご意見ですので、七月一日から別刷り四ページを改定、ご希望にこたえることに、いたしました」

こうして、別刷り四ページの第一面がテレビ欄、第二面がラジオ・プロと放送ニュース、読みもの、第三面が「昭和史の天皇」「気流」「時の人」という、構成に変った。第四面は、従来からの全面広告である。

いうなれば、何の変哲もない「お知らせ」ではあるが、意味するところは大きい。

新聞はかつて、ラ・テ番組の掲載は、これを広告とみなすべきで、スポンサーの広告料で番組を作っている民放なのだから、この番組掲載に対して、ラ・テ局は広告料を支払うべきであると、主張したことがあった。たしかに、スジ論としては、この主張は正しかったが、民放に一蹴されてしまい、さりとて、ラ・テ番組のボイコットも叶わず、恥をかいただけで、この「番組広告論」は鳴りを静めてしまった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 読売の変り身の早さ

正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 朝日の政治紙、読売の大衆紙としてのスタートの違いもうかがわれる。読者大衆に媚びてゆく変り身の早さが、トップの座を、読売がおびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 朝日の政治紙、読売の大衆紙としてのスタートの違いもうかがわれる。読者大衆に媚びてゆく変り身の早さが、トップの座を、読売がおびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。

今、こうして、読売のさりげない社告をみる時、今更のように、変質してしまった「新聞」なるものの姿に、眼を見張らざるを得ないのである。

読売が、別刷り四ページの企画をたてたとき、その第一面に、「気流」のスペースをひろげて、持ってくるということを決めたのは、実に、〝新聞記者の良心〟の、最後の抵抗であったろうと考えられる。

だが、時代の波は、その〝記者の良心〟をも、わずかに一カ月で、とうとうと押し流してしまったのであった。

別刷りとはいえ、第一面にテレビ・プロがくるということは、これまた、サンケイが一週間のラ・テ番組の別刷りを折りこみでつけた時の、新聞界の紛争を想い起こさせよう。サンケイ新聞のラ・テ新聞の付録と、読売の別刷りとは、五十歩百歩である。

朝日の紙面刷新は、社説の活字を大きくして、「時の人」と投書欄とを組ませて、一ページを構成することであった。そして、これを「オピニオンのページ」と名付けた。読売のそれは、社説ではなくして、実際に読まれている「昭和史の天皇」を、投書と時の人とに組ませることであった。

ここらあたりに、朝日の政治紙、読売の大衆紙としての、それぞれのスタートの違いもまた、うかがわれるのであるが、一カ月にして、新聞のメンツをかなぐりすてて、読者大衆に媚びてゆ

く読売の変り身の早さが、朝日が百年にして築きあげたトップの座を、読売が五十年にしておびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。

オリンピック後の新聞広告不況時代に出てきた、「番組広告論」が民放に一蹴されたというのも、「新聞」がもはや「社会の木鐸」ではなくなってきているという、体質の変化を物語る一事例であり、かつ、読売のこのページ建ての変更が、それを裏付けている。

朝日を取材した。会社側の代表格で、渡辺誠毅常務にインタビューしたことがある。話題は東大OBの会の「意見広告」を朝日が掲載しなかったことと、宅配制度の見通しについてで、渡辺はこう語る。詳しい話は後述することにして、要約するとこうだ。

「宅配は全くはなくならない。料金を値上げするなら、紙代と配達料との二本立て計算というのが合理的な考えである」「しかし、日本の実情では、合理的だからといって、そのまま実行に移すことはむずかしい」「もしも、スタンド売りが中心になったとすれば、三億円事件のようなものがあれば売り切れ、何もなければ、大量の売れ残りといったように、部数が安定しない。部数が安定しないということは、経営を危うくするものだ」

広告主の紙面への干渉が、出稿・掲載という経済行為だ、と割り切れない〝日本的〟な習慣だと非難しながらも、今度は販売、拡張面では、その〝日本的〟な習慣を逆手にとって、読者の固定化を図ろうというのである。これは広告主の編集権への侵害であると同時に、読者の紙面撰択権

への侵害でもある。新聞とは、〝大朝日〟においてすらも、かくの通り、〝御都合主義〟であるということを示している。

正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 大新聞の「広報伝達紙」化の傾向

正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

広告主の紙面への干渉が、出稿・掲載という経済行為だ、と割り切れない〝日本的〟な習慣だと非難しながらも、今度は販売、拡張面では、その〝日本的〟な習慣を逆手にとって、読者の固定化を図ろうというのである。これは広告主の編集権への侵害であると同時に、読者の紙面撰択権

への侵害でもある。新聞とは、〝大朝日〟においてすらも、かくの通り、〝御都合主義〟であるということを示している。

渡辺は、宅配崩壊後の〝新聞のあり方〟についての質問の中で、わずかにこの程度の具体論にサッとふれただけで、得意の専門分野の〝未来の新聞〟へと、体をかわしてしまったのである。

私は反問した。「部数が不安定では、経営が不安定だというのは、新聞経営者としての一方的な考え方であって、そこでは、〝読者不在〟ではないでしょうか」と。

事実、これからの「マスコミとしての新聞」においては、いよいよ読者不在の傾向が強くなってゆくのである。それが、朝日、読売の二巨大紙の〝超巨大化〟を推進して、いわゆる言論機関としての機能が退化し、意見広告などの、広告面を中心とした、〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。

意見広告のすう勢は、同時に、言論機関としての、ミニコミ、小新聞、ガリ版新聞の隆盛を促してくるのだ。ここに、ハッキリと大新聞と小新聞の機能別併存が約束されよう。

私は渡辺との会見で、このような判断の確信を得たのだった。

読売の別刷り第一面から、投書欄が〝敗退〟したということ、それが、たとえかねてからの予定の〝撤退作戦〟であろうと、なかろうと、これは、大新聞の体質が、〝広報伝達紙〟に転換しつつあることを示している。

かつての読売編集局長の小島が、「社主の魅力でとっている読者が四〇%、巨人軍でとっているのが二〇%、記事が良いからとっているのが五%」と述べて、全社的失笑を買った話は、前稿で紹介したが、いまや、正確にいうならば、「新聞をとっている」理由の大部分は、ラジオ、テレビという新しい媒体が出現してくる以前からの、長い間の〝慢性的習慣〟であり、そして、新しい世帯の読者は、「ラジオ・テレビ番組があって便利だから」というのが、真相に近いのではあるまいか。

すでに、「社説」が盲腸化したことは、論説委員の質的、社内的評価の下落とともに、万人の認めるところであり、かつ「投書欄」の投稿者が、固定化し、プロ化していて、もはや、〝読者の声〟を反映していない事実もまた、関係者のひとしく認めるところだ。

この「社説」や「投書欄」が、新聞の〝社会の木鐸〟時代の、最後の名残りであった。朝日が、社説の使用活字を大きくして、組み方を変えたのも、読売が、別刷り第一面に、投書欄を持ってきたのも、ローソクの灯の最後の明るいまたたきであった。そして、この読売の別刷りのラ・テ番組に組み合わされている、放送ニュース、読みものなるものは、一般紙の娯楽紙寄り、芸能紙誌寄りの傾向を示して、わずかに、家庭・婦人欄にセックス記事の出てこないことで、一般紙としての〝権威〟を保っている、といえよう。

このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし な い。

正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 〝私憤のバクロ書〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 『表へ出ろッ』私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……
正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 『表へ出ろッ』私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……

このような、大新聞の「広報伝達紙」化の傾向は、今後、強まるとも、決して弱まりはし な

い。いよいよ、読者に媚び、大衆に迎合してゆくのである。そうすることによって、「大量生産」の「大量配布」という、「広報伝達紙」としての実力を保持できるのであって、もはや、そこでは、〝読者がつくる、あなたの新聞〟などという、マヤカシのキャッチフレーズはいらない。〝読者不在〟であるということは、新聞が個性を放棄することである。紙面が〝個性〟を放棄する時、それを作る記者もまた、個性を放棄せざるを得ないのである。

新聞が、「社会の木鐸」でなくなったように、新聞記者もまた、「無冠の帝王」ではなくなったのである。原編集局長をして〝孤高〟と評する所以もまた、そこにある。

記者のド根性

さらにまた、いくつかのエピソードを紹介せざるを得ない。

元読売社会部記者の遠藤美佐雄が、森脇将光の森脇文庫から出版したが、事情があって、陽の目を見ずに断截されてしまった、「大人になれない事件記者」の一節である。

「どこの新聞社でもそうだと思うが、社会部には二つの流れがあり、たがいに軽蔑し、反目している。事件派と綴り方派だ。これは、武断派と文弱派に似ている。才能というより血液型の違いだろう。

原さんは、典型的な綴り方派で、国民新聞から文才を買われて、読売新聞に入った人だ。……原氏も、社会部長として、はじめから私を使う気がなかったものでもなかろう。しかし、どうも私は、血液型があわない。私は彼の命令にしばしば反抗した。(中略)

『表へ出ろッ』

私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……」

この遠藤の本は、このような叙述で〝私憤のバクロ書〟とされており、原をはじめ、登場させられた読売幹部たちから、名誉棄損の告訴をも受けたのであるが、実際に、多くの事実の誤まりを犯している。

例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、 誤まりが多い。

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 遠藤をさえも相当に評価していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」
正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

例えば、読売社会部が第一回菊池寛賞をうけた「東京租界」という続きものは、私と牧野拓司記者の二人が取材に当ったのだが、これで取りあげた、鮮系米人のジェイソン・リィという、ギャングの親分を、同書では「原—三田—リィの線」などと、もっともらしく書かれているなど、

誤まりが多い。

話はそれたが、社会部員の遠藤は部長の原に対して、先入主の偏見を抱いて、彼を極度に嫌っていたようである。

しかし、原の方が人物は数等上であった。告訴も児玉誉士夫が調停に入って、取り下げとなったのだが、それよりも、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へともどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。

「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

私の名前が出てくるのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち、〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。

原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変っているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。

また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協

会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な 基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。

「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。

彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと〝あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。

帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」

正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 記者になるための十分な基礎訓練

正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。

尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。

私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺人未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果して〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは、原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。その方が、三田にとっても、社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であろう、と考えている。

「彼は、記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」——原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。

これは、正しいことである。

私は刑事訴追を受け、有罪となったが、公判を通じて明らかになったことは、安藤組という暴力団とは、過去に全く関係がなかったこと、金銭その他の利をもって誘われたものでも、脅迫などの強制的なものでもなく、全く「五人の指名手配犯人逮捕の記事独占」のためであった、ということである。

そのため、社歴十五年の記者経歴を棒に振り、刑事訴追されて有罪となる——となると、やはり、客観的には〝バカげて〟いるし、原因としては、〝記者としての基礎訓練不十分〟としか、判断しようもないのが事実であろう。

私自身の主張はさておき、だから、原のいうことが、正しいというのだ。では一体、〝十分な基礎訓練〟とは、何を指していうのであろうか。

私たちの時代は、小山栄三の「新聞学」であったが、そのうん奥をきわめることなのだろうか。否である。新聞学の学究が、〝完成された記者〟でないことは、明らかである。

刑事は〝現場百遍〟という。犯罪の手がかりは、すべて現場にあるということだが、これも「読書百遍、意義おのずから通ず」からきたものだ。事件記者の完成は、デカになることではない。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた

言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩、「昭和史の天皇」をまとめている辻本芳雄記者に、私が教えられた

言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。

私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず、〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には空しく、まず抵抗の精神が、マヒしてしまった。つまりルールを忘れたのであった。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することな

くして、何の〝抵抗〟であろうか。

私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。

しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。

私の経験をもってしても、「社会部長」というのは、大変にエライ人であった。昭和二十四年ごろ、団体等規制令という法律で、朝連(朝鮮人連盟)が解散を命じられたのだが、夕刊のない時代のことで、当時の法務庁記者クラブ詰めであった私ら三人の記者が、朝の早出をサボって、その事件を号外落ちしてしまったことがある。

恐る恐る社に上ってきた私らを、竹内四郎部長は、編集局入口付近で認めるや、はるかかなたの部長席から、大音声で怒鳴りあげたものであった。

「このバカヤローッ!」と。

ワン・フロア、仕切りなしの編集局で、この罵声であるから、局内の視線がすべて私らに集まったことはいうまでもない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 カラ出張しようという悪企み

正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」
正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」

原部長の時代になってからのことである。同好の士数名が集まって、酒をくみかわすうちに、興のおもむくままに、さる花街にくり込むハメとなった。いよいよ意気さかんな一行も、やがて来るべき〝オ勘定〟が気になり出してきた。鳩首協議の結果、朝刊デスクで深夜でも社にいた次長を仲間に引きずりこみ、カラ出張しようという悪企みとなり、その次長を花街に招いた。

H次長が〝勇躍〟して共犯となったことはいうまでもない。酒好きでは人後に落ちない人物、であったからである。そして、翌日、私がその次長の承認印で、鹿児島に取材出張をしたのであった。約一週間の休暇ののちに、出社した私に対し、原部長は根掘り葉掘りに、出張の取材状況を質問するのである。いつもの例ならば、私が出張報告で「アア、あれはダメです。シロでした」といえば、それで「ウン、そうか」と、済ませていた部長とは違って、何か様子がオカシイ。

かくて、私のカラ出張と、そのカラクリが一切露見することとなる。その翌日の夕刻、夕刊デスク、朝刊デスクの交代時で、すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。

「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」

私の仲間の一人であった立松記者は、取材費の精算のために、「何某氏宅訪問、ウイスキー一本、いくら」を羅列した伝票を出したが、「このドロボーの、✕✕人の、パチンコ屋の手伝い野

郎メッ!」と、やはり怒鳴られた。取材費精算の内容が、あまり正確でないことは〝習慣〟として黙認されていたのであったけれども、これではあまりにもデタラメすぎるということであった。

おのれの収入で養う女房子供がいて、それなりに社会人として通用している、三十歳もの男をつかまえて、「バカヤロー、ドロボー」呼ばわりなのである。

事実、遠藤が切り出しナイフを握って、部長に「表へ出ろッ」と迫ったように、写真部長と社会部次長とが、電話器を投げつけて、殴りあうように、見通しのきく編集局内部では、「よりよい新聞をつくる」という、仕事の上での意見の衝突や対立からの、ケンカ出入りが、日常茶飯事のように行なわれていた。

新聞休刊日に、〝全舷上陸〟と称して、社会部員数十名(百名に近い)が、近郊の温泉地に出かける時には、上下にニラミの利く古手記者の「幹事長」のもとに、「輸送、会計、宴会、酒、勝負事」などの幹事のほか、「ケンカ係幹事」までがあって、旅行間におきるケンカの当事者の顔触れから判断して、「あれはやらせておけ」「これは止めろ」と、指導監督をする時代だったのである。

そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培かわれていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」と、いったのであろう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 想像もできないであろう〝素顔〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。

このような時代に、原は順風満帆の記者生活を歩んできた。長身にジャージィの上衣を着こなし、アミダに冠ったソフトから、横ビンの白髪をのぞかせ、有楽橋(今のフードセンターがある堀にかかっていた)を渡りながら、社の玄関に歩んでくる姿は、それこそ、〝新聞記者を絵に描いた〟感じであった。映画のブンヤの、ハンティングに胸ポケットの鉛筆といった、下品なタネ取り時代のイメージから、A級の知識人という社会的評価に高められた新聞記者を、文化部長から社会部長というコースを歩んでいた原が、身をもって示していたのである。

そうかといって、そんな〝キザ〟な〝気取った〟スタイルばかりではない。原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。本庁の保安で調べて、浅草のとあるウラ露地の旅館が、その会場となった。

われわれの呼んだタレントが到着する前、待たされていた部屋に、妖しい声がきこえてくる。原は、われわれと一緒になって、ツバをつけてあけたフスマの穴から、その部屋をノゾキこんだのであった。

さらにまた、花電車がはじまり、バナナ切りのあとで、ユデ玉子飛ばしの段となったとき、スポンと三メートルほども玉子が飛んだ瞬間、原はアッと小さく叫んでホオを押えた。なんと、バナナ切りの時に、内部に残っていたバナナのスジが、玉子にくっついてハネ飛び、原に命中した

のであった。若い記者諸君には、今の原四郎編集局長からは、想像もできないであろう、〝素顔〟なのである。

仕事と、仕事以外の部分との、チャンネルの切り替えは、極めて画然としていた。取材費がバーのツケに廻るのを承知していても、黙ってハンコを押した。呑んだくれようと、バクチにふけろうと、女におぼれようと、仕事ができればよかった。しかも、「新聞記者の評価は結果論で決まる」という態度であった。彼の人事をみていると、最近はともかくとして、かつてはオベンチャラも、クソ真面目も、共に効果はなかったようである。

部下に対する信頼も、〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当って、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。

しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 立松和博記者の微笑ましいエピソード

正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」
正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

ある社会部次長がいった。

「驚いたよ。今の若い記者には……。コロシがあったサツで、サツ廻りの奴が電話してくるンダ。『アノォ、私は日勤なもンですから、もう帰るンですけど、あとは誰に引きついだらよいの

でしょうか』だとサ。まだ、六時すぎごろのことだぜ。三鷹や下山のころには、一カ月以上もウチに帰れなかったのにナ」

また、もう一人、古手の記者がいう。

「今年の〝全舷上陸〟は中止だよ。何しろ、若い連中から、ふだんの勤務が乱れていて、十分に〝家庭サービス〟ができないのだから、せめて、新聞休刊日ぐらいは、旅行なんぞやめて、ゆっくりと家族と一緒にさせてほしい、という声が強いのでネ。……時代の流れなんだろうナ。ヤング・パワーというヤツか……」

退社してもう十一年。最近の社員名簿をみてみると、百五名におよぶ社会部員のうち、私の知っている記者は、二割程度しかいないのである。文字通りに、〝時移り、星変って〟しまっているのだった。

紙面にクビをかける

もう少し、昔話をつづけさせて頂く。

売春汚職事件にからむ大誤報事件の立松和博記者についての、微笑ましいエピソードは多い。そして、それは多くが、酒についてであった。

彼が警視庁記者クラブ詰めになって、捜査二課を担当していた当時である。もちろん、タタキ、コロシのデカたちと、付き合えはしなかった。警備、公安がダメ。保安防犯は、麻薬や売春、風紀などがあるので興味を示してはいたが、やはり、二課事件(知能犯罪担当。当時は暴力団関係もふくまれていたが、中心は、何といっても、汚職や会社犯罪であった)に集中していた。

彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。

「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」

係官の疑問も当然である。警視庁の捜査を指揮している、検察庁へ行って取材してくるから、係の顔など知らない男が、ボンボン抜きダネを書くのであった。

深夜の三時、四時。朝刊原稿の締め切りごろに、立松記者は酔って、警視庁クラブに現れる。泊り番の記者たちは各社一名宛であるが、原稿を送稿し終って、サテ、仮眠でもという時の、酔ッ払いのチン入である。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 他社の社会部記者たちとマージャン

正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。

彼は、各社の記者に抱きつき、「オレ、オ前が好きなンだア」と、ホオをペロペロなめる。素面の泊り番は、カオをしかめて逃げまどう。やがて、放声高吟のあげく、彼はズボンのチャック

を下げて、クラブ中に〝放水〟を開始する。

そんなある時、数人がかりで彼を押えつけて、ホースの先端にインクを塗りつけたことがあった(注。記者のデスクには、原稿の加筆訂正用に、青、赤のインク壷と筆が備えられている)。数日後、彼は蒼白な顔色で、私に相談してきた。

「オイ。大丈夫だろうか。先の方からボロボロと、皮が剥げ落ちてくるンだ。……まさか、インクで崩れやしまいナ?」

立松記者の、あれほど真剣で、思いつめた表情は、仕事の時でも見られなかったほどである。——こんな想い出も、すでに幽明境を異にして、四十歳の若さで逝った立松記者を偲ぶよすがの一つである。

付記すれば、克城、良城の遺児両君は、靖子夫人の薫育のもとに、健やかに成長して早くも大学生になっている。

このように、立松記者に対して、読売記者はもちろんのこと、他社の記者諸君も、極めて〝寛容〟であった。

それは何故か?

新聞記者に対する評価は、すべて「紙面」で決ったからである。「紙面」とは、仕事の実績であり、才能の舞台であった。彼の昭電事件における、輝やかしい経歴と、現実のスクープ。極め

て的確、かつ大胆な予告記事、見通し記事と、その記事通りの事件の展開とが、立松記者に対して、人々を寛容にさせ、また、畏敬せしめたのだ。

だが、彼の仕事が、検察庁筋のみに限られていたことが、私の指摘する、〝変則取材〟ということであり、かつ、後年の悲劇の芽を胚胎させていたのであった。

昭和二十四年以来、あしかけ七年間も社会部長の職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにした原四郎が、昭和三十年春に、編集総務に栄転し、後任に、原のサツ廻り仲間といわれる、景山が社会部長となった。

そして、私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。

理由は特落ちである。多久島という農林省の役人が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されるのである。その日の夕方五時ごろ、安田農林経済局長が、農政記者クラブに現れて、「只今告発いたして参りました」と発表した。

農政クラブへは、読売は、政治、経済、社会、地方の各部から記者が派遣されており、ニュースの種類によって、各部ごとに分担する。この時、地方部の記者が発表を聞いて、私を探したが見当らないので、直接社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡した。

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 発表モノの特オチとは

正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と
正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と

私は、その日、その時、ずっと通産省の虎の門記者クラブに在室していた。残念ながら、仕事

ではなかった。通産省のクラブには、経済部を主力に、やはり、政治、社会部から記者が詰めている。私は他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。

負けがこんでいて、午後からずっと、ジャン台にかじりついていたのだった。そして、その日、そんな大事件が起きているとも知らず、夜の九時すぎまで、他社の記者を放さなかったのである。彼らも、国税庁や文部省の兼務はいたが、農林省兼務なのは私一人であった。

大負けした私は、そのまま社へも上らず通産省から帰宅してしまった。そして、翌朝、自宅で、朝日、毎日を見て、「多久島事件」の大々的な記事の扱いに、ガク然としたのだったが、〝発表モノ〟と判って、安心して、最後に読売をひろげた。

無い! 自社は出ていないのである。

スッと、背筋に冷たさが走った。

「そんなバカな! 発表モノなのに……」

私は、あわてて各面を繰ったが、読売だけ、一行すら載っていないではないか。

重い、苦しい気持で農政クラブに電話を入れると、地方部の記者が出た。

「私は発表を聞いて、社会部のデスクに入れておきましたよ」

不安はさらに募った。ニュースが入っているのに出ていないとは……、かつて、立松、萩原両記者と共に、法務庁クラブで、朝連解散の発表モノを、号外落ちした時よりも、重い足取りで社

へ向った——景山社会部長も蒼い顔であったし、原編集総務も、沈痛な表情であった。こんな大事件の、発表モノの特オチとは、まさに醜態の限りであったからだ。

原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。

「特ダネだから隠密に」という注意を守った、捜査二課担当記者は、庁内を当ってみたが判らないので、翌日回しということになったのであった。

いずれにせよ、農林省詰めである私の責任はまぬがれ得ない。ことに遊んでいた時の失敗だから、自責の念にかられた。

ところが、原因調査のさい、山崎次長は「農林省の事件だからと思い、警視庁へ連絡する一方、三田を探して、農林、通產両クラブに社電を入れたが、三田がいなかったので、翌日廻しになった」と、弁解したという話(注。私は以後山崎次長と口を利いていないので、確かめてない)を、部長に聞かされて、私は怒った。

「責任転嫁を部下にするなど、とんでもない野郎だ。今だからいいますが、当日、私はマージャンで通産省クラブから、一歩も外へ出なかったのです。その間、一度だって社電はなかった。他社の三人の証人もいるんです。第一、通産省クラブを呼んだという、電話交換手を明らかにして頂きたい」

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 以前にも〝事件〟を起していた

正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。
正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

私のばく論に、景山部長は黙って腕組みをしてしまった。何かを考えているようだったが、 「マ、いい。オレに考えがあるから、黙ってオレにまかせろ」と、私を制した。

数日後、私は部長に呼ばれた。

「オレも進退伺いを出すが、お前も黙って始末書を出せ」

「部長がそういうなら、私も黙っていうことをききます」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに部長を理解できる部下からは、良く慕われてはいたが、ある意味では、古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあったが、もう一つ、記者の〝鋭さ〟〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。

こうして、当然の配置転換。私は通産、農林両省詰めを解かれて、本社勤務の遊軍記者となった。遊軍になって、部長とお茶を飲んだり、ダベったりする機会が多くなって、私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。

山崎次長という人は、以前にも〝事件〟を起していたのだ。日本テレビの記者座談会での、〝舌禍〟である。時の郵政大臣佐藤栄作に関する、事実無根の呑み屋談義をホントらしくしゃべってしまった。たまたまそのテレビを見た佐藤大臣の抗議から、デマを流した嘱託の記者がク

ビ、山崎次長が次長を剥奪されて平部員に降等、内外タイムスへ出向という、前歴があったのだ。景山は、人情家らしく、やっと次長に復帰してきた山崎デスクを、何とか救ってやろうとしたのである。

前の事件は、原部長時代だ。冷厳な信賞必罰—責任体制の確立こそ、新聞記者という〝責任ある職業人〟にとって、何よりも必要なことであったと思う。

私はいま、自由な立場のライターとして「立松記者事件」の背景を、冷静に眺め、検討してみると、あの大誤報の遠因は、一個人山崎を秘かに救ってやった、景山温情部長の社会部長としてのあり方、姿勢にすでに胚胎していたと考察する。

原四郎編集局長が、七年間も社会部長をつづけていられた、ということの意味の重要さは、このように、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」という、クビのかかった生活の連続の中で、〝名部長〟といわれこそすれ、ほとんどまったく、ミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

原が統率の才にめぐまれていたということと、さらには、「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と同一だったことである。

原四郎編集局長の記者としての体質が、新聞の体質と同じであったことが、彼をして、七年間もの長きにわたって、社会部長の椅子にあらしめた——と、私は書いた。