
『キング KING』昭和23年(1948)2月号 表紙



三田和夫著「シベリヤ印象記」は、1999年4月18日~2000年9月25日の間、「編集長ひとり語り」と併行して執筆された。途中の記事発表日付は不明なので、便宜的に日付を振ってある。なお、本文中では、「シベリヤ」ではなく「シベリア」で表記を統一。
シベリヤ印象記
~1945-1947~
このとき僕達は
これから地獄のような日々を迎えるとは思いもしなかった…
1999年4月1日開設
管理人:田志偉(デンシイ)
2年間にも及ぶシベリヤ抑留時代を
ジャーナリストの視点で赤裸々に語ります。
残り少なくなった戦争の実体験を持つ筆者の青春時代の自叙伝。
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シベリヤ印象記(1)『シベリヤ印象記のはじめに①』 平成11年4月18日
1999年4月16日、ハルピン学院の最後の同窓会が催された。敗戦で消滅した、中国東北部ハルピン市にあった学院は、最後の学生さえも70歳を過ぎて、同窓会の維持が難しくなったという理由からだった。
この学校は、ロシア語とソ連事情の教育が中心だったので、東北部に進入してきたソ連軍によって、対ソスパイ養成機関とみなされてシベリアに送られたものが多かった。
と同時に、シベリア抑留の中心となったのは、在満部隊(旧関東軍)だったが、対ソ圧力であった関東軍では、ロシア語教育が行われており、通訳できる兵隊を養成していた。だが、私の所属していた北支軍では、そんな兵隊はいなかった。なにしろ、関東軍を南方戦線に抽出したあとに、北支軍をあてて、私たちの師団主力はソ満国境に出ていたが、移動の最後尾の私の大隊が長春市(旧新京)に到着したのが、1945年8月13日の夜だったほどだ。だからロシア語のロの字もわからない。
15日の天皇放送から、満州国軍の反乱、その鎮圧、在留婦女子の保護、治安の維持と目まぐるしい数日の後、ソ連軍の首都入城となった。国境地帯で交戦した気の立っているソ連軍は新京市内に入れず、日本軍と交戦していない部隊を入城させたというソ連司令部の話だったが、虐殺、強姦、掠奪は、日常茶飯事だった。家に押し入ってきたソ連兵が、父母の面前で娘をレイプしようとする。それを止めに入った父親に、“ダダダダッ”とマンドリン(ソ連製自動小銃)が火を噴く。母親も標的にされる——戦争の悲惨な姿が、一夜にして崩壊した満州帝国の首都で、絶え間なく展開されたのだった。
首都に武装した日本軍がいると、衝突の恐れがあるというので、半分だけ武装解除された日本軍は、南の公主嶺市に撤退する事になった。8月19日のことだった。半分というのは、重火器は取られたが、小銃、軽機関銃程度は認められた。公主嶺までの行軍の自衛のためである。事実、ソ連兵と共に暴徒化した満人たちも日本人を襲っていた。この新京での4日間の体験は、敗戦都市ではナニが起こるか、それこそ、筆舌に尽くし難い“地獄”であるということだ。
公主嶺は、かつて日本の軍都だった。だから兵舎の数が多い。新京から追われた私たちは、それらの施設に入って、まず食料の確保である。公主嶺の貨物廠(倉庫群)から、米、味噌、醤油を自分たちの部隊にどれだけ多く取りこめるかである。ここにはまだソ連軍が進駐していなかったのだ。
満州には、百万関東軍を30年間養えるだけの食料が備蓄されている、といわれた。事実、食料だけは豊富にあったが、兵器、弾薬はゼロに等しかった。そして、掠奪に群がる満人たちを追い払いながら、大型の荷車に山のように米を積んで兵舎に持ちこんだ。
衣類も新品が積まれていた。食料が終われば、衣類と酒と甘味品だった。北支軍は綿の軍服だったが、関東軍は日本と同じ羅紗(ラシャ=羊毛)の軍服だ。兵隊たちは争って羊毛服に着替えた。ネルの下着、毛の防寒下着もあった。北支では見たことのないものばかりだ。ことに、ウイスキーやチョコレートの入った航空食糧には驚いたものだった。
やがて、ソ連軍が進駐してきて、兵舎のまわりに歩哨が立った。将校の軍刀以外は、完全に武装解除されたからだ。兵営の中に軟禁されたことになる。日本に帰れるとばかり思いこんでいた私たちは、敗戦とはいえ元気一杯だった。毎朝起きると、フンドシをはじめ、下着、軍服とすべて新品に着替え、運動会を催したり、体操をしたりと、日本での新しい生活に備えていた。昨日1日着ただけの衣類は、塀の外に放り投げ、満人たちが拾っていった。
敗戦とはいえ、公主嶺の1カ月は天国さながらのゼイタク暮らしだった。虐殺やレイプも見聞きせず、帰国の希望に燃えた若者の集団生活で、ビールに砂糖を入れたりの悪フザケや、食べ放題、飲み放題の生活だったからだ。
昭和20年の10月も半ばすぎ、駅から貨車に乗った。列車で南下して朝鮮経由で祖国へ、と思いこんでいたのに、汽笛とともに列車は北上するではないか。「そうか。南下ルートは混んでいるからナ」と、不安を打ち消す噂が流れた…。だが、北上をつづける列車は、やがて満州里(満ソ国境の街)目指しての一本道へと進んでいった。
「シベリア送りだ」「捕虜だぞ」と、絶望的な声が無気味に列車を支配していた。私も覚悟を決めた時、あるひらめきがあった。新京での在留邦人保護の時、一軒の民家で拾った「日用日露会話」というポケットブックを思い出したのだった。(つづく) 平成11年4月18日


シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年5月8日
多分、8月16日の深夜のことだったと思う。私が初めてソ連兵と接触したのは…。
「有力なソ連戦車集団は、8月15日未明、新京南郊外に到着する模様…」という、首都防衛軍司令部の命令で、私たちは南新京の丘陵地に防衛線を造った。ソ満国境に進出していた師団司令部とは、もはや連絡も取れない私たち第205大隊は、防衛軍に編入されていた。「一兵能く敵戦車一両を倒し…」というのは、体当たり自爆を意味していた。だが戦車用の爆雷もなく、手投げ弾を4、5個ごとにヒモで縛ったものを抱えて飛びこむ…。
タコ壷を掘って身を潜め、地面に耳を当てて地響きを聴いていた。「オレの人生もこれで終わりだな」と、静かに想った。回想に出てくる恋人も妻子もなく、母親だけしか思い浮かばなかった。読売新聞新京支局に、北支から満州に移駐したことを、母親に伝えたいと、幾度か電話したが、空しくコーリングが鳴りつづけるだけだった。
そんな回想のうちに、15日の朝が明けて正午の放送を聴いた。天皇の声は、あのイントネーションで本物だと思ったが、どうやら戦争が終わったことを知った。
「また、読売新聞に戻れる!」日本の敗戦というよりも、生きていて良かった、というのが実感だった。
8月15日の午後から、満州国軍の反乱が起き、部隊は邦人婦女子の保護にまわった。我が三田小隊50余名を指揮して、日本人宅をまわり、付近の錦ヶ丘高女の校舎に集合させていた時のことである。先方から隊列を組んだ兵隊が進んでくるのである。
「オヤ? ここらあたりは私の担当で、他の部隊がくるハズもないのに…」と、我が方も隊列を組んで進みながら、先方を凝視してみると、どうも日本軍らしくない。と、距離が詰まってきたところで、先方もこちらに気付いたようだ。ソ連軍だ!
どちらが先に発砲するか、息詰まる瞬間がつづく。どうやら、向こうもオッカナビックリの感じだった。広い道路の両側で、日ソ両軍は素知らぬフリをして、スレ違った。兵力は同じぐらいの、先遣隊だったらしい。首都には、戦闘していない部隊を進駐させたので、衝突が避けられたのだろう。信じられないような事実である。
そんな邦人婦女子の保護で、日本人宅をまわって、悲惨な死体も数多く目撃した。レイプしたあと、生かしておくと問題化のおそれがあるので、殺してしまうのである。そして、ナニ気なく拾ったのが、日用日露会話本だ。貨物列車が西に向かった時から、私はロシア語を習いはじめた。先生は、三田小隊の貨車に乗りこんでいる、若い警戒兵である。
私は、そのソ連兵の隣で、イチ、ニイ、の数詞から、コンニチワ、サヨナラなど、会話本のフリガナを読んでは、彼に発音を直してもらった。もちろん、無学な彼は、ロシア文字も読めないが、発音は理解できる。
1カ月ほどの貨車輸送ののち、私たちはバイカル湖の南側を3分の1周ぐらいまわって、イルクーツク州チェレムホーボ(のちに地図で見ると、シベリア鉄道でイルクーツクから二駅目だった)に到着した。昭和20年10月の半ば頃だったろう。
1カ月ほどのロ語特訓で、私は基礎ロシア語の概要を身につけていた。それは、私の丸2年間のシベリア生活に、大いに役立ったし、旧部下たちの生命の安全にもプラスしたと信じている。
チェレムホーボ第一収容所。この炭坑町にきたのは、私たちが第一陣だったろう。北支派遣軍第十二軍第百十七師団第八十七旅団独立歩兵第二百五大隊。同第二百三大隊。合計3000名(ソ連側は、数が判り良いように、一大隊1500名を原則とし、数が足りない分は満州内で、日本人を見れば拉致してピッタリにしていた)。これを第一大隊、第二大隊として、さらに満州部隊の1000名の第三大隊を付け加えて、4000名の大収容所を組織した。
なぜ、ここに軍の組織を列記したかといえば、ソ連側は、日本兵捕虜を統制しやすいように、日本軍の建制をそのまま利用した。そして、点呼など、日常生活のほとんどを、自主管理させたのだった。
だが、やがて、軍の建制のままでは、団結が良すぎて、ソ連側の意図した反軍闘争、対将校階級闘争など、いわゆる民主化闘争の壁になることに気付き、収容所を改廃し、部隊をゴチャマゼにするのだった。
それらは、私たちが将校梯団の第二陣として、満2年で“ダモイ(帰郷)”したのちのことで、昭和21年の春、日本兵捕虜の死ぬべき連中が死に、身体も極北の地に適応したのを見届けてからだったのである。(つづく) 平成11年5月8日

シベリヤ印象記(3)『シベリヤ印象記のはじめに③』 平成11年7月3日
私たちを詰めこんだ貨車が、公主嶺から新京(長春)を過ぎ、ハルピンを経て国境の町、満州里からシベリアに入り、進路を西に向けた時から、貨車の中はどよめきが起こった。戦争が終わったのだし、テッキリ祖国日本へ帰れるものだと、誰もがそう思いこんでいたのだから、西に向かったということは、ようやく、自分たちが戦時捕虜になったことを教えてくれた。シベリアに入りながらも、列車は東に走り、ウラジオから日本へという、最後の夢が打ち砕かれたからだ。
簡単に旧軍の組織(建制)を説明しておこう。まず、現役兵(満20歳で徴兵)だけの部隊が甲編成。現役兵と召集兵(満二年の現役兵役を終わり、予備役になっていた者や、兵隊検査で乙種合格だった者なので、年齢は20代後半から30代の者)とが半々というのが、乙編成という。満州に駐屯して、対ソ圧力になっていた関東軍などは甲。私たちのように、中国本土に駐屯していたのは乙であった。関東軍は内地部隊と同じ編成だったが、支那派遣軍などは「野戦軍」と呼ばれ、実質的に臨戦体制だったのである。
それが、前回述べた「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」である。これは組織の名称で、会社の中の局、部、課、班と同じだ。これが甲編成だと、3個小隊(大体12、3名の分隊が4個)で1個中隊。3個中隊で1個大隊。3個大隊で1個聯隊。3個聯隊で1個師団。というのが原則だった。師団長は中将、聯隊長は大佐、大隊長は少佐、中隊長は大尉か中尉、小隊長は少尉であった。
軍は「将校は国軍の楨幹」として、旧制中学2年から入学できる幼年学校、中学4年、5年から入学できる士官学校(幼年学校卒業生を含む。海軍は江田島の兵学校)と、職業軍人を育成した。士官学校を卒業すると見習い士官に進み、半年余りで陸軍少尉に任官する。さらに、大尉になると、軍官僚の養成のため陸軍大学を受験できる。実に、陸軍士官学校を卒業すると、21、2歳で少尉任官、大尉は24、5歳であった。それで「天皇陛下の軍隊」を指揮する能力が養われたのだ。
こうした職業軍人の将校は、時間と教育費を注ぎこみながら、少尉の役職は第一線小隊長だから、戦死率が高くモッタイないというので、予備士官学校を設け、一般兵(徴集)から幹部候補生を募った。試験にパスすると、その成績で甲種(士官適)と乙種(下士官適)とに分けた。甲種幹部候補生が入学するのが、この予備(役)士官学校だった。1年の教育で少尉に任官させ、同時に予備役に編入される。現役の少尉より格下で、消耗品だったのである。
軍は、この予備役将校を乙種編成部隊の下級幹部として活用した。それが、師団(旅団)⇒独立歩兵大隊となる。天皇から賜った軍旗(聯隊旗)がないのだ。独歩大隊は小銃中隊5、機関銃中隊1、大隊砲中隊1の、7個中隊で正規の大隊より大きく、聯隊より小さい組織である。これが支那派遣軍だった。二〇三、二〇四、二〇五、二〇六の独歩四大隊が百十七師団になる(2個大隊宛、八七、八八旅団)のだが、一般の兵隊検査を受け、初年兵として一般兵と同じく訓練と生活をともにしたのち、幹候試験に合格して、予備士官学校に進み、将校になってもとの部隊に帰ってくる。
正規の士官学校では、兵隊と一緒の生活をしていない。エリート将校なのである。関東軍や内地部隊の甲編成部隊では、階級章の星の数が、上下関係のすべてなのである。そういう環境にいた部隊は、捕虜になっても、そうである。だから、団結力とはいえないが、上下関係に縛られるのだった。
それに対し、野戦軍であった私たちの二〇三、二〇五の大隊は、対共産軍、対国府軍との戦闘で、死線を共にくぐってきたので、団結力があった。入ソ当時、この日本軍の建制のままだと、自主管理させるのには便利だったが、抑留が長引き、シベリアの気候風土に馴れてきた捕虜たちに、思想教育するのにはこの建制が邪魔になってきたことは、想像に難くない。
大体からして、満ソ国境の部隊を、米軍の本土上陸に備えて内地に戻し、その穴埋めに北支からやってきた我々は、在満部隊とは異質だった。だから、建制のまま炭坑労働に従事させて1年余り、まず将校と下士官兵とを分離し、将校だけの作業隊で石炭掘りをさせたのだった。そこらあたりが、軍隊に“しんにゅう”をつけて“運隊”と呼ぶように、私たちは労働成績優良ということで、将校梯団の第2陣として、早期に帰国復員できた。丸2年の捕虜生活だった。(つづく) 平成11年7月3日






シベリヤ印象記(4)『シベリヤ印象記のはじめに④』 平成11年8月28日
旧軍隊の組織について、長々と書いたのはほかでもない。60万人の日本兵を捕虜にして、一割の6万人を死なせてしまったソ連だが、この60万人の組織が、在満日本軍のほかに、在支軍、在蒙軍、一般市民に分かれる。それらの出身別を理解しないと、ソ連側の対応が理解できない。
チェレムホーボ第一収容所は、私たち第二〇五大隊基幹の1500名が第一大隊、第二〇三大隊基幹の1500名が第二大隊、在満軍(関東軍は南方転出していたので、その交代部隊)基幹1000名の第三大隊、計4000名の収容所だった。戦闘に勝って捕虜を獲得すると、これを収容する建物と食料とが重大問題である。どうして食わせるかが、頭痛のタネである。コソボの難民問題も同じである。いわゆる南京事件で、日本軍が捕虜を殺したというのは、日本軍でさえ食料に事欠くのだから、正規に捕虜とする前に“処置”してしまった事も、事実であろう。
私たちがチェレムホーボに第一陣として到着した時、ソ連側は食料の準備など、できていなかった。私たちが満州から貨車に積みこんで持ってきた、米、味噌、醤油で、12月頃まで食いつないだのだ。その間に、ソ連側は満州から、日本軍が蓄積していた馬の飼料(コーリャン、アワ、ヒエ、などの雑穀類)を輸送してきて、支給した。
つまり、ソ連側の日本兵捕虜をどうするのか、その大方針が昭和20年いっぱい、決まっていなかったのである。そればかりか、零下数十度の酷寒である。私の体験したのが零下52度。風速1メートルで体感温度は1度下がる。日本人の多くが、初めて体験する寒さだから、作業するどころではない。手はいわゆる軍手の綿、その上に毛の防寒手袋。さらに和紙の入った防寒大手袋をしても、寒さで手がシビれてくる。足も綿靴下、毛の防寒靴下、さらに防寒靴という毛皮裏の靴。そんな重装備でも、足踏みをしながら、手の指を握ったり、伸ばしたり。顔は毛皮つきの防寒帽で耳まで覆っていても、鼻の頭がスーっと白くなって凍傷にかかる。鼻覆いという毛皮で鼻を隠し、露出しているのは目と口だけ。それでも、吐く息でマツ毛に白く氷がつくという始末だった。
米が無くなり、馬の飼料のオカユになって急速に体力が落ちていった。そこに寒さとシラミによる発疹チブス。昭和20年12月から21年3月までの間に、私の推計では800名(2割)が死んだと思う。それも、30歳代以上の召集兵が中心である。20歳代と30歳代との体力の違いが、これほど明らかに、目に見えたのである。
そして、さらに驚いたことには、翌21年の冬である。20年の冬を乗り切った20歳代の連中は、もう身体が酷寒に馴れて、地下炭坑での採炭シャベルを使うのに、胸をハダけて働けることだった。そればかりか、昭和22年の冬の日本で、オーバー不用の寒さ知らず(ついでに、ひもじさ知らず)だった。ただし、23年の冬からは寒かったし、空腹だったのである。人間の身体は1年で風土に同化できることを知った。
ソ連側は、日本兵捕虜を、組織的にシベリア開発の労働に使用し、帰国後の親ソ分子の養成のための洗脳、いわゆる民主化運動を進めたのは、このような無秩序の抑留から、死ぬべきものを死なせたあとの、約1年を経過してからだった。
初等教育も十分でないソ連だから、10月、11月の早朝の寒さの中の点呼で、警備兵たちは、三列に並べて数を数え出すが、十位を過ぎると怪しくなる。五列に並べ直して、また始める。バカらしくて、寒さの中に何十分も立っていられるものではない。大隊長がソ側に交渉して、点呼は日本側の責任でやることになった。
続いて、作業隊の編成、勤務。すべてに日本側の自主管理となった。野戦軍であった私たちは、建制のままで作業隊を組織したのである。一例をあげると、地下炭坑のシトウリヤナは、各中隊から1個小隊宛、朝8時から午後4時、4時から深夜12時、12時から朝8時と、8時間労働の三交代制。三田少尉は三田小隊52名を連れて作業する。そして、炭坑側の要求するノルマ100トンの採炭を完遂すれば、金ダライ(満州からの戦利品の金属製洗面器)一杯のオカユを4人で分配し、ノルマ達成以下だとそれを6人、8人、10人と分配量を減らしてゆく。
この建制の作業は、仲間たちと協力して働くのだから、もう、軍曹も伍長も、上等兵も一等兵も、階級は関係無しだ。だが、礼儀だけはキチンと守られていた。21年いっぱいを経て、ソ連側の管理組織が整備されてくると、この建制のままの捕虜集団では、洗脳教育が難しいことを知ってくる。(つづく) 平成11年8月28日


シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年9月25日
昭和21年の5月、ようやくシベリアにも春が来た。5月の春、6月の夏、7月の秋。そして、8月は初冬で、月末には雪が降った。残酷なことだが、ソ連側にいわせれば、死ぬべき者はすべて死なせて、ようやく、本格的な捕虜の労働力を建設に役立たせる時がきた、ということだろうか。
捕虜名簿を作り出し、思想教育のプログラムもスタートした。私が帰国後に知ったことだが、ハバロフスクを中心に、「日本新聞」という宣伝紙を発行し、いわゆる民主化運動が進み出したのである。欧露のエラブカには将校収容所があり、ここから、瀬島龍三(伊藤忠顧問・大本営参謀)が、東京裁判にソ連側証人として出廷したこと。関東軍(在満部隊)の高級将校たちが、戦犯調査にかけられていること。日独のプロ将校たちの対比が際立っていたこと、などなど、いろいろなことが、読売新聞に復職して、引揚担当者として舞鶴に詰めていた私に分かってきた。
そうして考えてみると、21年9月ごろに、建制のままの作業隊であった、チェレムホーボ第一収容所の第一大隊、第二大隊(ともに北支軍)が、まず、下士官兵と将校とに分割された。将校は将校だけで作業隊を編成し、石炭掘りに従事させられていた。と同時に、下士官兵は、同地の他の収容所との間で、入れ替えが進められ、建制を完全に壊したのだ。
当時、第一大隊長だった塚原勝太郎大尉は「将校がどんなに働けるか、ソ連側に思い知らせてやろうじゃないか」と、檄を飛ばした。今までの建制では、三田小隊員54名の健康と作業との兼ね合いに、心を砕いていた私などは、その責任から解放されて、ただ肉体労働に専念できる気軽さにバリバリと働いたものだ。丸1年、シャベルを握りつづけたので、指の内側の丸みの角には、タコができて、手の平は真ッ平になってしまった。このタコがすっかり取れるまで、1年ぐらいもかかっただろうか。
こうして、わずか丸2年の俘虜生活ではあったが、人生体験としては、軍隊の丸2年以上の厳しさがあった。軍隊のそれは、生と死との隣り合わせではあっても、精神的には楽だった。天皇の軍隊ではあろうとも、祖国防衛であり、具体的には親兄弟、家族を守ることだったからだ。
だが、戦時俘虜の境遇は、ポツダム宣言によって、家族のもとに帰れるハズが、日ソ中立条約を破り、8月9日に宣戦布告とともに満州になだれこんできたソ連軍に降伏して、極寒の地に拉致され、強制労働を強いられている。精神がまず参ってしまった。
初めて体験する寒さ。この酷寒に加えて、飢餓である。昭和20年の終わりごろまでは自分たち自身で満州から持ってきた、米、味噌、醤油といった食糧があった。しかし、21年にはいると、手持ちの食糧はなくなり、ソ連側も対応できないための飢餓である。これがつづくのだから慢性飢餓である。
寒さ、飢え、栄養失調に、襲いかかってきたのは、発疹チフス。その間も休みなくつづく炭坑労働——。これを「地獄」といわずして、なんといおうか。
いままで、旧陸軍の兵制について、冗慢と思えるほどに述べてきたが、それは、シベリア捕虜について、理解されやすいように、との思いからであった。第一、私たちを軍隊に引っ張り出したのは徴兵制という、国の法律によってである。しかし、その持ち駒を、自由に、勝手に動かしたのは、陸士、陸大出身の職業軍人たちである。だが、建制のまま入ソしたとき、命令を出すのは、幹候出身の予備役将校しかいない。階級章こそ、少尉、中尉、大尉、少佐と順番があるが、みな、自分たちと同じなのだ。同じ隊にいて、生死を共にしてきた仲だから、「どうしてくれるんだ!」と、文句をつけられない。
中佐、大佐、少将、中将という高級将校。いうなれば、“軍閥”や“その片割れ”はいないのである。これではケンカにならない。団結して、ソ連と戦うしかない。ソ連は団結されたら困るから、建制をブチ壊すのだ。
寒さ、飢え、伝染病、重労働という生活の一断面ごとに書くことは多い。が、それに加えて、スパイである。同胞相争うように、ソ連は、民主化運動を進め、その運動のなかに“密告制スパイ”を作りはじめたのだった。この日本人同士の密告の中で訓練を重ねて「ソ連のための日本人スパイ」の、一本釣りが始まったのである。それは、米軍占領下の日本に帰るのだから、対米ソ連スパイを日本中に配置しよう、という計画だったのであった。昭和21年には、米ソの冷戦は始まっていたのである。
それに対して、米軍だって黙ってはいられない。引揚港・舞鶴に、米軍防諜部隊を配置して、引揚者のひとりひとりを訊問した。在ソ経歴を申告させ、「そこでナニを見たか」「スレ違った列車には何が積んであったか」、何十万という引揚者を調べるのだから、米軍は、居ながらにして、シベリアの全実情をつかんだのである。これを、軍隊用語で「兵要地誌」という。つまり、作戦計画を立てる時の基礎資料である。当時はまだ、偵察衛星も飛んではいなかった。さて、ここから、私の「シベリア物語」は始まる。——スパイのことからである。(つづく) 平成11年9月25日


シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年11月27日
「ミーチャ、ミーチャ」兵舎の入り口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和22年2月8日の夜8時ごろのことだった。去年の12月初めに、もう零下52度という、寒暖計温度を記録したほどで、2月といえば冬のさ中だった。
北緯54度の、8月末といえばもう初雪のチラつくあたりでは、くる日もくる日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下2、3メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッ、と転がし廻している。
もう1週間も続いているシトーリナヤの炭坑の深夜作業に、疲れ切った私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。
——きたな! やはり今夜もか?
いままで、もう2回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べを受けていた私は、返事をしながら上半身を起こした。
「ダー、ダー、シト?」(おーい、何だい?)
第1回は、昨年の10月末ごろのある夜であった。その日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第1回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行われていたのである。
作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、恰幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。その中佐の姿を見た瞬間、私は直感的に事の重大さを感じとって、緊張に身を固くしていた。
私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。
私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。
「ナゼ、日本新聞で働きたいのですか」
中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。
「第一にソ連同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」
「よろしい。良く判りました」
中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼し、ドアのところへきた時、いままで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。
「パタジジー!(待て) 今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」
見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。
「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」と、教えてくれた。
こんなふうに言い含められたことは、いままでの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただ事ではないぞ、という予感が的中した思いだった。
見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは“モスクワからきた中佐”といっていたが、私は心密かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと考えていた。 平成11年11月27日








シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年5月27日
それから1カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。“モスクワからきた中佐”との初対面のあとである。話は前後するが、それまでの呼び出しの様子を思い出して書きとめておこう。
当時、シベリア捕虜の政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変わりつつある時だった。
ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。
この時は、もうひとり通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。
政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、“偽装”して地下潜入せよ、ということになるのではないか。
この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に“偽装”を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも“幻のヴェール”が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。
そして、いよいよ3回目が冒頭に書いた2月8日の夜のことである。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウン、いますぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛布外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。
——何かが始まるンだ。
忙しい身仕度が私を興奮させた。
——まさか、内地帰還?
ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。
廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。
「モージノ」(宜しい)
重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良く暖められた部屋に一歩踏み込むと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。
ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私はそんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴のカカトが、カッと鳴ったほどの、厳格な敬礼になっていた。 平成12年5月27日



シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年8月12日
正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、見たことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳しいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。
密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分過ぎるほどの効果をあげていた。
「サジース」(坐れ)
少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向かい側の椅子を示した。
——何か大変なことがはじまる!
私のカンは当たっていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。
八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の、「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東板)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。
歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。
私が静かに席につくと、少佐は立ち上がってドアのほうへ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルと震えた。
——鍵をしめた!
外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの部屋で二人の秘密警察員と相対しているのである。
——何が起ころうとしているのだ?
呼び出されるごとに、立会いの男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人々だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。
——何と徹底した秘密保持だろう!
鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引出しをあけた。ずっと、少佐の眼に視線を合わせていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いて、机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。
——拳銃!
ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。(つづく) 平成12年8月12日



シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年9月7日
少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。
「貴下はソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、役立ちたいと願いますか」
歯切れの良い日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。
私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。
「ハ、ハイ」
「本当ですか」
「ハイ」
「約束できますか」
「ハイ」
タッ、タッと、息もつかせずにたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を縦に振って答えた。
「誓えますか」
「ハイ」
しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまで持ちこむと、少佐は一枚の白紙を取り出した。
「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」
——とうとうくるところまできたんだ。
私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔を見ながら、刻むような日本語でたずねた。
「日本語ですか、ロシア語ですか」
「パ・ヤポンスキー!」(日本語!)
はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。
「漢字とカタカナで書きなさい」
静かに、少尉の声が流れはじめた。
「チ、カ、イ」(誓い)
「………」
「次に住所を書いて、名前を入れなさい」
「………」
「今日の日付、1947年2月8日……」
「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)
コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。
モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」
不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。
最後の文字を書き上げてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。
この誓約書を、いままでに数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。
「プリカーズ」(命令)
私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——
「ペールウィ・ザダーニエ!(第一の課題)1カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」
ペールウィ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。
「ダー」(ハイ)
「フショウ」(終わり)
はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立ち上がった。少尉がいった。
「3月8日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように」(つづく) 平成12年9月7日



シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年9月11日
ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の“忠誠さ”をテストするに違いない。
そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令…と、私には終身暗いカゲがつきまとうのだ。
私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後ろからガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。
ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。
——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!
——あるいは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。
——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。
——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子供があるのではあるまいか。
——誓約書に書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
——だが待て、しかし、一カ月の期限はすでに命令されていることなのだ…。
——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然…。いや、人間として果たして当然だろうか?
——大体からして無条件降伏して、武装を解いた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き換えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。
——そんなこと今更いってもはじまらない。現実の俺は命令を与えられたスパイじゃないか。
私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。
「プープー、プープー」
哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。(つづく) 平成12年9月11日




シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年9月25日
私に舞い込んできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの3月8日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。
ソ連将校の誰彼に訪ねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることになるのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。
不安と恐怖と焦燥の3月8日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから3、4時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。
夜が明け始めたのだった。3月8日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……9日も終わった。1週間たち、1カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。(つづく) 平成12年9月25日
◇◆◇◆執筆者略歴◆◇◆◇
三 田 和 夫 78歳
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。
メルマガ「シベリヤ印象記」は、「~(つづく)平成12年9月25日」とあるが、この(11)が最終回となった。「編集長ひとり語り」のほうは、1年以上後の、平成13年11月22日までつづくが、その間「シベリヤ印象記」の原稿を催促すると、三田和夫は「わかったよ。いろいろ考えてるから」と笑って答えたという。なにを考えていたのかわからないが、そのまま死んでしまった。
「シベリヤ印象記」は、じつはメルマガを含めると、3回も書かれている。
第1回目の「シベリア印象記」は、三田和夫が、昭和22年11月、シベリア抑留から帰還、読売新聞に復職して最初に書いた記事だった。その状況と記事内容は、『最後の事件記者』(p.076~p.087)に書かれている。


第2回目の「シベリア印象記」は、平成2年8月、ソ連旅行で45年振りにシベリアを訪れた紀行文を、『正論新聞』第587号から連載している。




つまり、読売新聞「シベリア印象記」、正論新聞「シベリア印象記」、そしてメルマガ「シベリヤ印象記」と、3回も書いているのだ。そんなこともあってか、メルマガ「シベリヤ印象記」の(6)~(11)は、『最後の事件記者』(p.116~p.133)の焼き直しになっていて新味がない。
メルマガの「シベリヤ印象記のはじめに①~⑤」は、78歳になった三田和夫の書き下ろしだが、若いころに書いた『赤い広場—霞ヶ関』『迎えにきたジープ』に比べると、論調がだいぶマイルドになっている感がある。
たとえば、「シベリア抑留60万人・死者6万人」と書いているが、それは、ソ連側・日本政府の公式発表の数字に過ぎない。また、最初の冬に推計800名(2割)が死んだと書いているが、以前はよく「零下50度、最初の冬に約半数が死んだ」と言っていた。『迎えにきたジープ』でも、「春がきて約3割、1200名減った」と数字はもっと大きい。戦後、『キング』に書いた「シベリア抑留実記」では2割だが、ソ連当局は実態を把握させないように、名簿を作らなかったり、収容所間で人員を動かしたりして、証拠湮滅を図っていたのだから真実のところはわからない。
10年前に戦後45年目の平和な時代のシベリア旅行を経験したことや、戦友会で戦友たちのいろいろな話を聞いているうちに、意見が変わった部分もあるのかもしれない。
『迎えにきたジープ』(p.096~p.110)には、証拠の有無は別として、細菌戦や収容所内部の状況、死亡者の扱いについて、三田和夫の体験・疑似体験が書かれている。
できれば、メルマガ「シベリヤ印象記」(つづく)で、『迎えにきたジープ』の続編を書いてもらいたかったものだ…。

■□■ 売買勳、いまだ死なず! ■□■第1回■□■ 平成11年(1999)3月18日
中村正三郎法務大臣がようやく辞表を出して、この人物の正体があまねく全国民の知るところとなった。だが、どうしてこのような人物を法相に据えたのか小渕首相の人事を疑わざるを得ない。法相は首相に次ぐ序列2位の要職である。
むかし田中角栄首相の時、小宮山重四郎という郵政大臣が生まれた。彼は平和相互銀行のボス、小宮山栄吉の弟である。当時「角さんに五億円献金して大臣になった」と噂された。平和相銀はやがてツブれ、住友銀行に吸収されたが、当時の総務部長(故人)が、私に「あの五億円は銀行の金を持ち出したものだ」と語ったのをメモしていた。
やがて平和相銀の「金屏風事件」というのが表面化し、竹下首相の青木秘書が地検特捜部の追及に出頭予定日前夜に自殺して果てた。このときの不明分のうち30億円は竹下から中曽根首相の禅譲代として献金されたといわれている。郵政大臣が5億円なら、総理大臣なら30億円というのはうなずける金額である。
さて、あのようにオソマツな法務大臣が出現してみると中村正三郎が大金持ちなだけに派閥会長の三塚博と小渕首相の双方に、億単位の献金があったのではないかと邪推したくなる。中村スキャンダルが内部告発としか思えないものばかりだから法務官僚たちがサシたとも考えられるが、そのような人物を金持ちだからといって法相に据えるほうが怪しい。
自民党もいつまでもこんなことを繰り返していてはどうしようもない。第一この時代に、いまだに「大臣」とはナンだ? 国民の公僕である政府の長が、“大臣”とは時代錯誤もはなはだしい。行政改革で省名を変える機会に、大臣の呼称も廃止すべきだ。そうでなければ、“大臣病患者”が金で買いたがるばかりではないか! 平成11年(1999)3月18日

■□■老醜をさらしつづける竹下登元首相■□■第2回■□■ 平成11年(1999)3月20日
3月18日付の産経新聞夕刊は「北京発・古森義久」という特報を大きく掲載した。これまでの日本の中国に対するODAの総計は三兆円近い額だというのに、中国の新聞は今まで「援助」という表現を使わず、しかも報道することもなかった。が、日本政府がこの資金を使う地方機関などにアピール文を送ったことから報道され始めた。しかし人民日報は「合作」だと言う。
この記事は古森記者らしい、しかも産経紙らしい大特報として私は感じ入った。というのは、日本のODAは日本の政治家たちの“食いモノ”だったからである。例えばその元凶は利権漁りの竹下登である。もう2、3年前だったか、ODAで北京に大きな青年宮かナニかを建てたが(竹下が北京を訪問して締結した)、その建設請負は、日本の竹中工務店だった。竹下のバツイチ娘が、竹中のバツイチ息子に嫁いでいる関係だ。竹下がバックマージンを取ったことは、容易に想像される。「李下に冠を正さず」に反して…。
中国は全人代を終えたばかり。数年前からの反腐敗闘争についても、朱首相が厳しく発言している。つまり、この闘争の成果が出てきて、竹下からのプレゼントを受けていた中国側の要人の“担白”があったので、ODAが「合作」から「援助」に変わったのではないか、と私は推理する。と同時に、日本官僚の日本政治家への“反乱”が、中国側受益者への直接アピールとなった、と思う。なぜならこのような措置が遅すぎたからである。
首相経験者が依然として現役議員でいる制度自体がオカシイ。三権の長だった者は、それこそ“元老院”のような待遇を考えるべき時に来ている。そうでなければ21世紀には、日本は三等国に堕ちるであろう。

■□■「箸の文化」が衰えはじめて… ■□■第3回■□■ 平成11年(1999)3月27日
中国、朝鮮、日本をつないでいた「箸の文化」がアメリカ外食産業の進出で(ハンバーガー等)で、衰えはじめている。適量の食物を箸でつまんで口へと運ぶ——これは、いろんな効果をもたらしていたものだ。第一に礼儀であろう。最近のテレビCMで、お茶漬け屋で下品な男がドンブリ飯を掻きこむ下品さが、それを象徴している。CMでは箸は使っているが、スプーンで十分だ。
第二に咀嚼、即健康である。日本での戦後五十年。学校給食がスプーンを普及させたところで、ハンバーガーに食らいつきフライドチキンを放りこむ。だから、日本には、オチョボ口の女がいなくなった。噛まないから、アゴが小さくなり、乱杭歯ばかりになった。中国での美人の条件は「明眸皓歯」だが、そんな女は日本では数えるほどになり、同じ化粧の、同じ髪形の、同じ顔の女ばかりが街を横行している。もう、オチョボ口の女は、中国か韓国にしかいない。日本は乱杭歯の大口女ばかりのようだ。
先ごろ、新聞のコラムに、日本での洋食のマナーで、フォークの背(丸くなってる部分)に米飯を乗せて食べるのはオカシイとあったが、明治、大正期に、箸の文化に心を使う人たちが、少量しか米飯をのせられない、あのスタイルを“洋食のマナー”としたのだろう。ライスを添えるのは日本だけだから…。
白人女の口はバカでかい。だから、クリントンのオーラルセックスも可能だ。日本の春画には、そんな図柄を見たことがない。オチョボ口の時代だったからだ。上海でのアメリカ外食産業の繁盛を見ると、やがて中国でも「箸の文化」が衰えるかも…。韓国では若い世代は箸も使えない、と新聞にあった。 平成11年(1999)3月27日

■□■小沢自由党の“馬脚事件”のこと■□■第4回■□■ 平成11年(1999)4月3日
東(あずま)祥三。47歳。比例代表東京ブロック当選の自由党衆議院議員。当選3回。創価大学院卒で国連職員だった人物。顔貌(がんぼう)もマトモだし、その年齢からも、将来を嘱望できる議員だと思っていた…。その彼が、先ごろ記者会見をして、「東京15区の柿沢辞職の後の補選出馬はやめた」といった。ところがその記者会見には、中西啓介議員が同席しているではないか。なぜなのだ?
東議員は公明党から出馬して、中選挙区制度最後の前回(平5.7.18)は東京6区で柿沢、不破につぎ第3位で、2回目の当選。小選挙区になれば、柿沢絶対優位なので、不破と同じく比例に回ったのだろう。同席していた中西議員は、自民党時代からスキャンダルまみれの古いタイプの議員。前回中選挙区では、和歌山1区で9万余票のトップ。小選挙区でも同区で6万6千のトップ当選である。しかし、前回当選後、電通社員だった息子の麻薬事件で辞職(平7.5.12)して、1年半後返り咲いた。私の個人的見解では、小沢一郎を評価できないのは、このような側近を登用しているからである。
4月1日の日テレ「ザ・ワイド」は、浅香光代が野村沙知代への“果たし状”宣言をとりあげていた。その時、加藤タキがいった。「あの人が立候補したこと。政治をなんと考えているのか、許せません」と。まさに名言である。東議員の辞職は、野村の繰り上げ当選を意味する。幸いにもそれは消えたが、東議員にはその認識があっての、15区転出だったのだろうか? 繰り上げでも、野村は経歴詐称などで辞職に追い込まれよう。ただ、仮に一時期でも野村が衆議院議員になったら、もう世紀末と笑ってはいられない。議員の私利私欲がムキ出しになり、公明党も、自由党も、ともに信用できないことを示した“事件”であった。 平成11年(1999)4月3日

■□■検察NO.2の失脚■□■第5回■□■ 平成11年(1999)4月10日
月刊「噂の眞相」誌の報じた、則定衛(のりさだまもる)・東京高検検事長の女性スキャンダルは、5年前の事件にもかかわらず、各方面に大きな衝撃を与えて、本人の辞意表明にまでいたった。(10日現在)
私はこのニュースに、読売の司法記者時代に直面した、検察の派閥対立と抗争を昨日のことのように思い出した。この事は書き出せばキリがないので、ある検察首脳のひとりを紹介したい。
東京高検次席、京都検事正、大阪検事長、最高裁判事、同長官を経て、さきごろ亡くなった岡原昌男氏。
さきの派閥対立は、一般には戦前の特高検察の流れの公安検察と、戦後の経済混乱で勃興した経済検察との対立と、とらえられているが、私は違う意見である。検察の正統派と政治に癒着する権力派との戦いと見る。前者の代表が岸本義広東京検事長、後者は馬場義続法務次官。悪名高い“馬場派の殺し屋”河井信太郎特捜部長を抱える。
馬場を切るために、総長を諦らめ代議士となり、法相となってと転換した岸本の選挙違反を、馬場は徹底追及して起訴した。岸本は失意のうちに逝き、その次席だった岡原は、実に7年間も京都検事正のままだった——私は「正論新聞」でこの事実を叩き、馬場の次の総長が岡原を大阪検事長とした。
岡原は定年前に最高裁判事の検察ワクに移った。馬場の偏向人事を正した総長の思いやりだったろう。そして長官へと進む。検事出身判事が長官になるとは、異例中の異例であるが、他の判事たちからクレームが出なかったことが、岡原の人格すべてを物語っているではないか。
検事も若い時にはその理想に燃えて、正義のためにのみ行動するが、年をとるとともに現実的になり、権力におごって自己中心的になり、金と女の誘惑に溺れながら、それを自己規制も批判もできなくなる。そこで、その人自身の人間性が出てくるのである。新聞記者とて、企業人とて例外はない。則定事件が5年前のことだろうが、どうして、今ごろ表面化したのかなどは、事件の本質には無関係である。
権力とそれに近い立場にある者に求められるのは、高い倫理性である。私はその例として、岡原昌男を想起した。長い記者生活で、則定のような人生の浮沈のドラマを見つづけてきた。三越の岡田茂社長の「なぜだ?」が、あれほど人口に膾炙(かいしゃ)されながら、則定官房長(当時)にはなんの教訓にもならなかったのだった。 平成11年(1999)4月10日

■□■石原新都知事決まる■□■第6回■□■ 平成11年(1999)4月12日
やっぱり、というべきか、当たり前というべきか、石原慎太郎が他の候補を蹴散らかしてダントツ当選した。朝生に始まるテレビ討論から、各候補たちの動静をテレビで見つづけていて、石原が出なければ再選挙だと感じていた。まず、有力5候補の人物評を試みたい。総評として、みな現在の自分が行き詰まっていて、場面転換としての出馬である。
まず鳩山。兄弟で金を出して、民主党を作りながら、二人ともトップになれない。副代表や幹事長代理という、ナンバー3以下に甘んじ、菅をかつがざるを得ない現実——つまり誰もついてこない政治的現実がある。50歳になるまで、電車に乗ったことのない男の選んだ道が、代議士をやめて浪人すること。
柿沢の過去は地元では常にトップ当選しながら、出たり入ったり、また出たりの政治的変節の放浪人生。もう自民党内でメの出る可能性はゼロだった。無党派を取りこむのが、飯島直子の肩を抱いたり、ダッチューノとアップの醜い顔をさらしたり、というセンス。
舛添もまた、女出入りや母親介護のセールスやらで、肩書きの「国際政治学者」も色あせてきて、テレビ出演も減っていただろう。栗本とのトラブルなど、噴飯モノだ。自民党員と組んだりするあたりのバカさ加減。石原優位のニュースに、「四分の一取れるかどうか、まだ分からんサ」と、惨めなセリフの男だ。
明石もまた、「総理に口説かれたから…。自民党一本化の約束だ」といったが、三分裂選挙となった時点で降りるべきだった。テレビで国連次長が10人ぐらいもいることをバラされたり、晩節を汚してしまった哀れな男。
共産党の三上。一番マトモな候補だったが、残念ながらまだまだ共産党での当選は無理である。しかし、こうして出馬し、票数を伸ばして行く事に意義があるのだから、ビリの柿沢の上にいた事は大健闘だろう。
間違って当選し、辞退もせずに4年間ネバった青島が、五千万円近い退職金を手に、都庁を去ってくれることだけでも、気持ちが明るくなる。
サテ、石原が都議会とどう付き合えるか。イエスとノーとを、どう表現してゆけるのか、まず、都議会との衝突で、解散をできるかナ。解散しても、いまの都議たちが再選されてくるだろうから、不信任されたらサッサと辞めるかナ。ともかく、一応、石原に期待してみようか…。 平成11年(1999)4月12日

■□■誰が二度と戦争に行くものか!■□■第7回■□■ 平成11年(1999)4月17日
コソボ紛争のニュースは悲惨な殺戮と死体の山を見てきた私にとって、どうしようもない悲しい現実である。ナゼ、人間は殺し合いに飽きないのか。日刊紙をひろげれば殺人と死体発見の記事が連日つづいている。私が警視庁記者クラブにいた昭和27年から30年の3年間で捜査一課(殺人)が動くのは精々、月に2~3回だった。つまり、戦争の記憶がまだ生々しかった時代だ。
北朝鮮の工作船事件から、戦争法の論議がいろいろとかまびすしい。コソボ空爆の進展を見ても、「後方支援」というのは事実上の参戦である。敵方に攻撃されるのは当然である。“親方・星条旗”がヤレというのだから、政府はやらざるを得ない。残念な事だが、日本は独立国ではないのに、独立国ヅラをしようとするのだから、ムリが目立つ。
これらのすべては、戦後の自民党独裁がもたらせた結果で、その二世議員たちが家業を継いでいるのだから。どうしようもないというのが実態である。それにしても、彼らから「アメリカの一州になろう」という声があがらないのも不甲斐ない話だ。
独立国というのは、領土と国民と、軍刑法を持つ軍を持たねばならない。だから自衛隊はもちろん軍隊ではない。ましてや、日本が軍事大国になるなどの声は牽強付会もはなはだしい。昔の日本陸軍の歩兵操典の第一条に、「歩兵は軍の主兵にして…」(戦友会などで、この続きを訊いたが、もう誰も覚えていなかった)とあった。
米映画『プライベート・ライアン』を見給え。ノルマンディ上陸作戦の米軍歩兵の死屍累々の場面が息をのむ思いで迫ってくる。つまり、歩兵が敵地を占領しない限り戦争は終わらないのだ。米軍の第一騎兵師団が横浜に上陸して、はじめて第二次大戦が終わった。湾岸戦争が終わらなかったのは、米軍の歩兵がイラクを占領しなかったから、フセインは生きのびた。もっとも“アメリカの死の商人”がミサイルの古いのを使わせて新品に換えさせるためという説もある。するとコソボも同じだ。
話がそれたが、日本で歩兵になりたがる若者がいるだろうか。重い装備で歩く兵隊は、即、死を意味する。コンピューター操作でミサイルを撃ったり、航空機の操縦、戦車の運転など、志願者はある程度いるだろう。しかし、歩兵が多数いなければ、軍事大国ではないのである。今の若者に、そんな歩兵になりたがるのはいない、と私は断言する。そして日本では、徴兵制度の立法化ができるハズがない。髪を染めたり、ピアスをつけたり、より享楽的な女の子と遊んでいる方が、よっぽど楽しいではないか。私も、若かったらテレビの深夜番組の下品でブスな女たちを見ながら、センズリを掻く生活を選ぶだろう。 平成11年(1999)4月17日