すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。
何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力
で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。
日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。
そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。
そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!
三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。
何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。
そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。
ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。
この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。
三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。
国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力
的にスラスラと一切を自供に及んだ。