『パ・ヤポンスキー!』(日本語!)
ハネかえすようにいう少佐についで、お面のように表情一つ動かさない少尉がいった。
『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。
『パ・ヤポンスキー!』(日本語!)
ハネかえすようにいう少佐についで、お面のように表情一つ動かさない少尉がいった。
『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。
握られた一人の捕虜を威圧するには、充分すぎるほどの効果をあげていた。
『サジース』(坐れ)
少佐はかん骨の張った大きな顔を、わずかに動かして向かい側の椅子をさし示した。
——何か大変なことがはじまる!
私のカンは当たっていた。私はドアのところに立ったまま落ちつこうとして、ゆっくりと室内を見廻した。八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像が飾られ、少佐の背後には本箱、右隅には黒いテーブルがあり、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一枚の新聞の『ワストーチノ・プラウダ』(プラウダ紙極東版)とかかれた文字が印象的だった。
歩哨が敬礼をして出ていった。窓には深々とカーテンがたれている。
私が静かに席につくと、少佐は立ち上がってドアのほうへ進んだ。ドアをあけて外に人のいないのを確かめてから、ふり向いた少佐は後手にドアをとじた。
『カチリッ』
という鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルッと震えた。
——鍵をしめた!
外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうこ
シア語の勉強がしたいのです』
『宜しい、よく分かりました』
少佐は満足げにうなずいて、帰ってもよいといった。私が立ち上がってドアのところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。
『パダジジー!(待て!)今夜、お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。いいか、分かったな!』
見知らぬ少佐が説明するように語をつぎ、
『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。
こんなふうに含められたことは、はじめてであり、二人の少佐からうける感じで、私はただごとではないぞという予感がした。見知らぬ少佐のことを、歩哨はモスクワからきたんだといっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思っていた。
それからひと月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時〝日本新聞〟の指導で、やや消極的な〝友の会〟運動から、〝民主グループ〟という積極的な動きに変わりつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運
ちソ連のもつ暗さである——と闘う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。
このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪郭が浮かんできたのである。それによると、
一、この組織は二十二年を中心として、シベリア各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。
二、これらの組織の一員に加えられたものには、少なくとも四階級ぐらいあること。
三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。
四、使命遂行の義務が、シベリア抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分かれ、両方兼ねているものもあると思われること。
五、こうした運命の人が、少なくとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。
などの状況が判断されるにいたった。
これらの状況を、もっと具体的に理解してもらうためには、あつめられた次の五例をみることが、一番手っ取り早いに違いない。まずA氏の場合を、その告白文によってみよう。
一、A氏の場合(手記)
パイ団〟の存在を証言したのです!』
だが、はやり立った私を、老練な部長は軽くたしなめて笑った。
『メクラの象見物を知ってるかい。エ?!』
私の調査報告をずっと受け取っていた部長には、このスパイ団は一収容所や一地区の問題ではなく、まして収容所付きの一NK将校の意志で組織されたものなどではなく、非常に膨大な国際スパイ団的な内容を持った組織であることが、早くも判断されていたに違いない。若い私が功をあせ
りすぎて、尻尾をつかんだだけで書いてしまっては、全貌を逸するおそれがあったわけである。
(写真キャプション 参議院で重大証言をした小針氏)
(写真キャプション 小針氏に数多く送られた脅迫状の一つ)
だ。私はひとりつぶやいた。『これは何か、重大な秘密がひそんでいるぞ』と。もはや私は自分がワエンヌイ・プレシヌイ(軍事俘虜)であることも忘れていた。作業場ではソ連労働者が『ソ米戦争は始まるだろうか』『お前達の新聞には次の戦争のことを何とかいているか』としきりにたずねていた。〝日本新聞〟の反米宣伝は泥臭いあくどさで、しつように続けられている。アメリカ——日本——ソ連。そしてスパイ。私は心中ひそかにうなずいていたのだった。
やがて、私も故国に向かうダモイ梯団に加わって出発した。船中では『誓約書』という言葉を小耳にはさんだ。舞鶴ではさらに数多くの、断片的な情報をつかんだ。そして、私の推理を裏付けるように、昭和二十一年春に、当時はまだ新聞といえないほどお粗末だった〝日本新聞〟が、同志編集者を募る旨の紙上広告を発表し、それに応募した男が前述の四つの謎をもつ男だったことも知るにいたった。私は、『ソ連地区抑留日本人で組織されたソ連側のスパイ網』の存在を確信した。
私は帰京して出社するや、直ちに社会部長にこれらの状況を説明して、その組織や目的の調査をはじめることを報告した。こうして私の〝幻兵団〟との戦いがはじめられた。昭和二十二年十一月はじめのことだった。
ターリンは素晴らしい!)と。ふだんから要領のうまい最初の男を嫌っていた最後の人の良い男は、真剣な表情で前の二人に負けないだけの名文句を考えるが、とっさに思いついて『ヤポンスキー・ミカド・ターク!』(日本の天皇なんかこうだ!)と、首をくくる動作をする——これが美辞麗句をぬきにして、ソ連大衆が身体で感じているソ連の政治形態の恐怖のスパイ政治という実態だった。
戦争から解放されて、自由と平和をとりもどしたはずの何十万人という日本人が、やがて〝自由と平和の国〟ソ連の軍事俘虜となって、慢性飢餓と道義低下の環境の中で混乱しきっていた。その理由は、俘虜収容所の中にまで及ぼされた、ソ連式密告スパイ政治形態から、同胞の血で血を洗う悲劇が、数限りなくくりひろげられたからだった。
一片のパン、一握りの煙草という、わずかな報償と交換に、無根の事実がねつ造され、そのために収容所から突然消えて行く者もあった。収容所付の政治部将校(多くの場合、赤軍将校のカーキ色軍帽と違って、鮮やかなコバルトブルーの青帽をかぶったNKの将校である)に、このご褒美を頂いて、前職者(憲兵、警官、特務機関員など)や反ソ反動分子、脱走計画者、戦犯該当者、その他種々の事項を密告(該当事実
=福島市中町三五=氏が出席しているので、場内は空席一つない盛況で、ピーンと緊張し切っていた。
『オイ、面白くなるゾ』
私は鉛筆を握りしめながら、隣席の同僚にささやいた。たったいま、小針証人が『委員会が国会の名において責任を持つなら、私はここで全部を申し上げます』と、爾後の証言内容について国会の保護を要求したところだった。
正面の岡元義人代理委員長をはじめ、委員席には一瞬身震いしたような反応が起こった。私も反射的にあるデータを思い浮かべて、不安と期待に胸が躍った。終戦時から翌年の六月まで、シベリア民主運動の策源地ハバロフスクの、日本新聞社の最高責任者、日本新聞の署名人であるコバレンコ少佐こそ、極東軍情報部の有力なスタッフではないか!
委員会は小針証人の要求により、秘密会にすべきかどうかを協議するため、午後二時二十九分、休憩となった。
私が小針氏の言葉で、反射的に思い浮かべたあるデータというのは、実に奇々怪々な話であった。それは他でもない、いわゆる〝幻兵団〟のソ
脚本、事件の立役者小針とはこんな男
2・7 前進欄
2・7 〝幻〟は読売のデマ
自殺の真相
2・10 投書欄
ニッポン・タイムズ
1・28 参院で〝幻兵団〟を究明
時事新報
2・1 引揚者の自殺、参院で重視
新聞協会報
2・6 〝幻兵団〟の恐怖
2・27 〝幻兵団〟について
世界経済
△3・1 日本人スパイ謎の行方
不明、〝幻兵団〟顛末記(夕刊)
註、日付上部の△印はトップ記事
シベリア捕虜収容所分布略図
コムソモリスク、ハバロフスク、ライチハ、アルチョム、ナホトカ、ウラジオ、ウォロシロフ、チタ、タイセット、イルクーツク、チェレムホーボ、ビイスク、バルナウル、ロフソスカ、アルマアタ、カラカンダ、ベゴワード、エラブカ、カザン、モスクワ
(写真キャプション 高砂丸引揚者、参議院在外同胞特別委員会で状況証言。立てる向って右より有田浩吉、尾上正男、高橋善雄、内山明、板垣正、長命稔、種村佐孝の各氏。左端後向きは岡元委員長。)
驚きの連続だった。停車ごとに何かを手に入れようとする人達が、男も女も年寄りも子供も押しひしめいた。こうして軍の被服は街にはんらんした。どんな布でも、署名に汚れた日の丸の旗さえ夢中になって求めた。一体今まで何を着ていたのだろうと考えるほど、被服類は払底していた。
「働かざるものは食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じ配給されるパンは、学童妊婦などの特殊なものを除いて、働かないものには全くなかったから、女も子供も働きに出てパンを稼ぐ。一家中で獲得したパンを浮かしてバザールで売り、生活を立ててゆくのだ。食うためには働きに出なければならない。ここから彼等の勤労観は出発する。働く歓びはおろか、ただ食うために働くのだから、固定作業のものは八時間の経過を待ちこがれ、歩合作業のものは労力を最少限に惜しむ。憲法によって享有されている「労働の権利」は「労働の義務」となって重たくのしかかっていた。
富める者は、妻は家庭に、子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ貧しいものが一家総出で得たパンを割愛して売るパンである。「人間による人間の搾取のない国」で、一方は肥え太って美服をまとい、ラジオを備
たけれど砂糖が定量十五グラムとして給與された。しかし栄養失調やら衰弱死などで分かる通り、決して充分なものではなかったが、ソ連としては精一杯の優遇をしたとみることができる。しかし脂肪分の少ないのと、調味料が岩塩だけだったこと、および野菜がなかったのが苦しかった。
病棟炊事は一般の炊事よりはるかに質的によい糧秣を受領し、主食は米をほとんど切らさなかったが、薄い粥であり、すべて量が少ないのが患者の頭痛の種であったろう。
イラスト(バザール風景)
労働の程度
在ソ同胞の作業は、炭坑、森林伐採、鉄道工事、道路建設、建築、港湾、さらに特技者の工場等重要産業、すなわち新五カ年計画遂行へ全面的に参加させられている。中でも森林伐採など
をたくので室内は冬でもあたたかいが、炭坑で働きながら成績不良のため石炭の持ちかえりを止められ、寒さで眠れぬこともしばしばあった。気候、風土、作業になれ、畠など作ったり、碁、将棋、麻雀などの娯楽をたのしめる人間らしい生活に入ったのは、今年の春からであった。
衣類は日本軍のもので、満洲から運んできたものを貸与してくれた。終戦当時、関東軍の貯めこんでいた被服は莫大な量で約三十年分あったというが、多くの部隊は満人の掠奪やソ軍の占領前に必要量を確保したので、私達は持てるだけの新しい衣類を抱えて入ソした。被服類の全くないシベリアのことで、ソ連兵や将校までが機会あるごとに掠めとったし、一般人は隙をみては掻っ払うか物交をせがんだので、どうせとられるならという気持で、警戒兵の監視をくぐって売却したりパンや煙草と交換し、ついには着たきり雀になった。やがて薄い作業服などソ連の被服が支給され、フハイカという綿入れ服、編上靴などまで渡ったが、これもすべて炭坑だからもらえたので、労働が激しく品が悪いのですぐボロになったが、他の一般作業に比べるとまだまともな身なりをしていた。
紙につまったのには困った。便所の紙だけは必要かくべからざるものだったから、入ソ当時たくさんあった書籍類がたちまち影をひそめ、
働は鉄のように守られた。しかも炭坑は二十四時間三交替で決して休まなかった。私達には働くどころではなかった。寒さと闘うのが精一杯だった。朝夕の点呼は一時間以上も屋外に立ち、働きが悪くて二時間三時間もの残業をやり、業間作業に使われ、八時間労働と聞こえはよいが、八時間の睡眠すらとれない有様だった。隙間風のもれるバラックの中で貨車の車軸からとってきた油を灯し、玉蜀黍粉の湯がいたものをすすった。水くみは隊列を作り、警戒兵が付いて一キロ以上も往復した。たまの休みには朝暗い中から起き、六キロも歩いて入浴にゆき、夜遅く飯抜きで帰ってくる。その入浴も桶に湯をもらって行水するのだった。
眼に見えて体力が消耗した。痩せて真黒な顔をして虱をたくさんつけていた。感冒が発病する、下痢は止まらない、凍傷ができる、なれない作業から負傷する。衣食住のあらゆる悪条件の結果は、感冒は肺炎に、下痢は栄養失調に、凍傷は凍冱(全身凍傷)にと進行し、バタバタと倒
シベリア抑留実記
まえおき
船はいつか停まっていた。「内地だ」「日本だ」と呼び叫ぶ声に私も甲板に駆け上っていった。美しい国日本! 樹々の茂った山、青々とした野菜畑、赤い実に飾られた柿の木、藁ぶきの田舎家の白壁。上陸以来の行きとどいた扱いと、沿線いたるところの温かいもてなしとに、ありがたい国日本! とまたまた目頭を熱くしたのだった。それにつけてもなお六十万という残留同胞達は、酷寒期を迎えてどうしているだ