日本における連絡のための合言葉を授けられており、しかも、数種類の写真を写されていることから、当然連絡を保つ意志がうかがわれるのである。
種村元大佐は、在ソ抑留者の帰還遅延の真の理由として、『ソ連のNKが、日本の現状をつかむために、その全組織をあげて、約七〇万人の日本人を、詳細、綿密に調査するためには、どうしても四年ぐらいの期間が必要であった』と述べ、その証拠には、『細菌戦に関する戦犯事件も、ようやくこのほどまとまったではない
日本における連絡のための合言葉を授けられており、しかも、数種類の写真を写されていることから、当然連絡を保つ意志がうかがわれるのである。
種村元大佐は、在ソ抑留者の帰還遅延の真の理由として、『ソ連のNKが、日本の現状をつかむために、その全組織をあげて、約七〇万人の日本人を、詳細、綿密に調査するためには、どうしても四年ぐらいの期間が必要であった』と述べ、その証拠には、『細菌戦に関する戦犯事件も、ようやくこのほどまとまったではない
凝視した、その瞬間——
『ペールウイ・ザダーニエ!(第一の課題)
一カ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿を作れ!』
ペールウイ(第一の)というロシア語が耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。
『ダー』(ハイ)
はじめてニヤリとした少佐が立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立った。少尉がいった。
『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬよう』
ペールウイ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループがパンをバラまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフのもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。そして『忠誠なり』の判決を得れば、ブタロイ・ザダーニエ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェビョルテ、ピャートイ…(第三の、第四の、第五の…)と、終身私には暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。
——私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩をガッシとつかんでいる赤い手のことを
具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。
作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの少佐が待っていた。
私はうながされてその少佐の前に腰を下ろした。少佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。
私はスラスラと正直に答えていった。やがて少佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト気がついてみると、それはこの春に提出した、ハバロフスクの〝日本新聞〟社編集者募集の応募書類だ。
『何故日本新聞で働きたいのですか』
少佐の日本語は丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。少佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。
『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロ
■□■日の丸はスポーツグッズか?■□■第27回■□■ 平成11年(1999)8月31日
昭和20年秋、というよりは、ここシベリアのバイカル湖にほど近い、炭坑町のチェレムホーボでは、10月だというのに冬だった。
旧満州の国境の町、満州里からソ連に入り、左へと進路を取った時、私たちは捕虜にされたことを実感した。そして、シベリア本線の駅で停車するたびに、日本兵を満載した貨車を取り巻く“戦勝国ソ連”の人びとが、どんなに貧しい生活をしていたかが、目に見えたのだった。子供たちは、多くが裸足で、食べ物や衣類をねだっていた。
私たちが収容所に入り、炭坑作業に追い立てられて、意外な風景が現れた。頭に赤い布を巻く女たち、“日の丸バアさん”があふれてきたのである。文革当時の中国と同じように、ソ連にも“色”がなかったのである。兵隊たちの誰もが持っていた、日の丸の旗が流出して、女たちのプラトーク(頭巾)になって、それが大流行したのだった。
「祈武運長久」と墨書きされた日の丸は、その赤丸ゆえに大モテで、暗い冬の黒い炭坑で、女たちの色気を飾っていた。私も、昭和18年9月卒業、10月読売入社、11月入営というあわただしさの中で、正力松太郎社長に署名を頂いた日の丸を、大切にしまっておいたのだが、盗まれてしまったので、ソ連女の頭巾にされていただろう。
最近のワールドカップやオリンピックの時に武運長久に変わって、「頑張れ!」「金メダルを!」と、日の丸の旗の白地が、墨で汚されて、打ち振られるのを見て、私は戦争中の日の丸の旗を思い出し、シベリアの女たちを思い出した。
戦争中の日本軍人たちの大きな過ちのひとつに、国旗・日の丸に落書きを認めたことがあげられる。一銭五厘のハガキ代だけで、徴兵するうしろめたさからか、日の丸を署名帖代わりにすることを、はやらせたのだ。だから戦後、日の丸はその尊厳を失って、ソ連女の頭巾となり、スポーツグッズに成り果ててしまったのである。国旗には、その尊厳への敬意と、侮辱の罪が必要だ。
そこに、自民党政府の法制化という、戦時中の落書き容認以上に、愚かな過ちである。野中という男は、小沢一郎を悪魔と罵っておきながら、それと手を握るという、節操のない男である。それが、法案成立直後から、官房長官会見場に、日の丸を立てた。ナゼ、いままで立てなかったのか。
それを真似たか、通達でも出したのか、各大臣たちが記者クラブとの会見場に、日の丸を持ち込んできて、農林省や自治省の記者クラブとモメ出している。自治組織の記者クラブの部屋で、記者会見をやるのだから、クラブ側の了解なしに、日の丸を立てたがるのは、オカシイというべきだし、第一、どのような効用価値があるというのだ。法制化に当たって、十分に国民との合意を得なかったのだから、記者たちから異議がでるのも、当然というべきだろう。十分な国民的合意を得ないままの、法制化の強行という事実。それにつづいての、政府側の記者会見での日の丸掲揚。この経過を見ると、戦争中さながらの問答無用。「知らしむべからず、依らしむべし」という、権力のらん用が始まり出している。数だけの政治がいまや、押しつけられつつある。
戦争法、盗聴法と、独立国家としての落ち目を食いとめるどころか、いよいよ、アメリカの属国化への道を走り出している。国民の大多数が、アメリカの属国になりたい、というのであれば、それはそれでいいではないか。
90パーセント以上の投票率で、進路を決めるのは、東ティモールではなくて、日本ではないのか。 平成11年(1999)8月31日
国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力
的にスラスラと一切を自供に及んだ。
上野の岩倉鉄道学校を卒業後、昭和十年に帝国電波会社に入り、十九年千葉の野戦重砲隊に召集され、続いて新京の関東軍固定通信隊司令部に転属、通信一等兵として無電技術を覚えた。
入ソしてからは、欧露マルシャンスク収容所にいたが、二十一年春に、〝モスクワから来た少佐〟に調べられた挙句、脅迫されてスパイ誓約書に署名した。
それから七月になって、モスクワ郊外にあるスパースクの特殊収容所に移された。ここは収容所というものの、実はスパイ学校で、各地から集められた連中が、無電、暗号、スパイなどの特殊技術を教えられるのだ。ここで約一年間、二十二年十月まで教育をうけた。
それから日本人将校と同道でハバロフスクに移され、病弱者として十二月三日舞鶴入港の朝嵐丸で帰国した。帰国の際、上野公園付近で、合言葉の男と連絡をとるように命ぜられた。
翌二十三年四月十七日、上野公園入口交番裏の石碑付近で、ソ連代表部員クリスタレフ氏とはじめて逢った。この男は無電技師だということだった。合言葉は不忍池のそばで、『この池には魚はいますか→戦時中はいましたが今はいません』というものだ。
それからは毎月一回、都内の各所でレポに逢い、無電機やら二、三万円の現金を受取った。レポは、三人のソ連人らしい男と日本人で、日本人として最初のレポは、二十四年三月から元駐ソ日本大使館付武官佐々木克己氏で、鹿地氏がレポになったのは二十六年五月からだった。
ところが二十四年春頃、東京駅前の郵船ビルに呼び出され、ソ連スパイとして追究をうけ遂に一切を自白して、逆スパイになることになった。それからは、レポの日時、人相、さらにソ連側から打電を命ぜられた暗号文などを、みんな米側に報告することになった。
二十六年十一月頃、米側から新しいレポとの連絡を報告するようにいわれ、鵠沼で逢うことを話したところ、そのレポ中に米側の係官がやって来てレポを逮捕してしまった。その後米側で写真をみせられ、その男がはじめて鹿地氏だと分った。
レポとの連絡方法は、指令された場所に行きレポと逢い、土中に埋められた送信用の暗号電文と現金を受取った。殆ど会話はしていない。都下北多摩郡へ移転してからは石神井公園や、自宅近くの稲荷神社脇の土中に暗号電文が埋められ、それは金属性のマッチ箱大の箱に入れてあった。
レンガがそこに置いてあれば、埋めてある知らせだった。こちらで受信したものはその代りに、箱へ入れて埋めていた。
さる六日(二十七年十二月)レンガは置いてあったが、暗号電文はなく、こちらが埋めて置いたのがそのままになっていた。そんなことは今までになく、自分が米側に協力していることが分ってしまったと思い、不安がつのり自首してきた。
この自供に基いて国警当局は、直ちに鵠沼をはじめ、都内十数カ所の現場検証を行った。そして、自供通りの現場をみて、自供は真実なりとの結論を下した。
だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。
私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません。」と、私自身の手で書き、署名さえした。〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「…もし、この誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。
モスクワから来た中佐
『ミー夕、ミータ』、兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。
北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。
もう一週間も続いている深夜の炭抗作業に、疲れ切った私は、二段べッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。
――来たな! やはり今夜もか?
今まで、もう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながらに上半身を起した。
『ダー、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)
第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。
作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。
私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。
本人の語る経歴は、ハルビン学院卒、満州石塔の幹候隊在隊中、軍曹で終戦となった幹候十
三期生、ウォロシロフ付近の炭坑作業の収容所にいて、二十二年四月に引揚げてきたという。
私が調べてみたところでは、二十二年四月の引揚船の乗客名簿には、彼の名前が見当らなかった。
私はまた治安当局の係官に確かめてみた。
『本人は否定するけど、音羽に行ったのは本当に奴なのかい?』
『もちろん、間違いない。あの男なら、わしの方で前から調べていた男なんだ。大田区に住む清水郁夫に間違いないよ』
『しかし、それは奴の本名かい? 戸籍上の名前かい? 奥さんの品は良いし、子供もマトモな顏をしているし、どうみても、あんな裏長屋に住む人種ではないぜ』
『……。実はそこまでやってないンだ』
『何故、何故だい。本人が清水と称し、表札が出ていて、米の配給通帳が清水だからといって戸籍上の名前とは限らンだろう?』
『ウン、そうなんだ。……実は、本籍地照会をやろうとしたら、上の方で、しなくても良いッていうンだよ。内密だけど……』
『フーン。すると、ずっと上の方では、奴が何者だか分ったわけだナ!』
私はその係官と別れて、いわゆる〝治安当局のアナリスト〟に会った。
彼はいう。
『これは、発表されてもらいたくない部分もある話なんだ。しかし〝奇怪な三人〟がいたということまで調べられたのでは、参った。実はあの清水の父親は、大変なエライ(という意味は、社会的地位や名誉ではなく)人だったンだ。ソ連にカンのある人だ。彼の父だけが、同志九名のうちで生残ったのだ。
莫然とした話だが、私の立場でいえない部分がある。眼光紙背に徹して、声なき声も聞いてくれョ。
だから、清水郁夫に、ハバロフスク帰りだという噂も出たのだ。ともかく、彼の父の立場を受継いだ清水だから、ああいうこともできるのだ。
係官に、彼の黒幕に有名な政治家がいる、と聞かなかったかい? それが、果して彼の黒幕なのか、或はその政治家の方が彼の手先なのかも知らンよ』
本人に父親や戸籍のことをたずねた。
『先日亡くなった母は、鹿児島にいました。もちろん、戸籍上も清水郁夫ですよ。父は大陸で働いていて、引揚げてきて亡くなりました』
黒幕とみられている有名政治家が、実は彼の手先なのだッて? では一体……