第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長
である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。
司法記者クラブでのキャップではあったけれども、立松が、社会部長直轄だったので、私は責任を問われることはなかった。
だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
「危険な記者は、社会部の現場からトバす」というのが、新任の金久保社会部長の方針のようであった。
部長のこの方針は、とりも直さず、国会の法務委員会に、証人喚問されそうになって、震え上がってしまった、小島編集局長の方針でもあったのだろう。
この時期、原四郎は、編集総務から出版局長になって、新聞制作からは、遠ざけられていた。〝遠ざけられ〟たといっては、語弊があろう。立松事件の後遺症に苦しむ、社会部記者たちとは、隔離されていたのだった。
金久保部長に対する、私の反抗的な言動が、部長に伝わったのだろう。大阪の次長、週刊読売の次長といった、配置転換の話が、私にきたのは、昭和三十三年春ごろのことだったろう。
この二つの人事異動を拒否したのだから、この次には、もっと悪いポストの話がくるだろう、と思っていた。例えば、厚生部の次長とか、編集以外の部門に出されるナ、と感じていた。
——編集局以外へ左遷されたら、サッサと辞めてやる!
心中秘かに、そう決心をしていたものであった。まだ、三十歳代なのだから、転進するぐらいはヘッチャラさ、と、思っていた。
そして、六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷
の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。
久しぶりの、事件らしい事件に、警視庁クラブは沸き立っていた。司法クラブ前任キャップの萩原が、警視庁のキャップになっていたので、私も、道路一本を隔てた警視庁に出かけて、記者会見のやりとりを聞いていたりしたのだった。
ところが、安藤組の親分、安藤昇は逃亡していて、所在がつかめない。組事務所には、花田という副親分ひとりが残っていて、主な組員は、みな、地下に潜伏してしまった。
いまでこそ、毎日のように、殺人事件が起きていて、コロシが社会面のトップになるようなことはない。だが、そのころには、まだ殺人事件というのは、月に一件か二件だったから、コロシは、やはり社会面の花だった。
考えてみれば、きょうこのごろは、何でもないことで、すぐ、人を殺す。少なくとも、三十年前ごろには、殺人の件数が非常に少なかったのだから、イヤな世相に変わった、ともいえるだろう。
安藤親分は、依然として捕まらない。「これは社会不安である」として、当時の岸首相は、田中栄一警視総監を呼びつけて、叱りつけた。異例中の異例であった。
いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。
と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業
事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。
いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。
と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業
事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。
「安藤組事件のこと、知ってるかい?」というのだから、私は、欣喜雀躍して会いに出かけていった。
簡単に、事件のことを述べよう。横井が、蜂須賀侯爵家から、当時の金で二、三千万だかを借りて、返そうとしない。蜂須賀家では裁判を起こし、勝訴して差し押さえをかけたら、豪邸から家財道具までのほとんどが、他人名義のため、三万五千円の応接セットしか差し押さえできなかった。
その話を聞きこんだのが、元山である。元山は、安藤に話し、「法律で解決できないワルなら、オレたちが裁く」ということで、横井に掛け合いに行った。
横井は、それ以前に、東洋製糖の秋山社長問題から、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。白木屋というのは、いまの東急デパート日本橋店のことで、名門デパートだった。その時に、横井側で動員した不良少年のなかに、安藤がいたものだった。
いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にしたものである。
怒った安藤は、蜂須賀問題どころではなくて、渋谷の事務所に取って返すと、子分の千葉に命じた。
「横井をコラシめてこい。殺すんじゃない。左肩でも、ブチ抜いてやれ!」
千葉は、射撃の名手といわれ、銀座の東洋郵船社長室にのりこんで、命令通りに左肩を射ってきた、ものである。
一方、病床の横井に、警視庁の係官が、安藤組の顔写真を見せると、「コレだ!」と、犯人の顔を見つけた。これは、横井の見誤りで、事件に関係のない小笠原だったが、警視庁は、小笠原を全国に指名手配した。
そしてそのころ、これまた、旧知の王長徳という、怪中国人がいた。「東京租界」のころ、取材で知り合った男だ。この王から電話があって、彼の許に出かけていった。
この王が経営している、碑文谷あたりのマーケットの事務所にいるというので、そちらへまわって見ると、大声で怒鳴っている。
「なんだ、ホンの二、三日だというから、かくまってやったのに、もう一週間にもなる。一体、どうする気だ」
「ハ、ハイ。でも、まだ、組のほうから、何もいってこないので…」
安藤組の若い衆らしい男が、困り切った様子で、頭を下げている。
「ナニが、どうしたんだい?」
「イヤね、安藤組の男を預かったんだけど、指名手配だというから、出ていってくれ、といってるところだ」
「面白そうだネ。その男に会わしてくれよ」
「ヨシ、アンタにやるよ」
「わかった、オレがもらった!」
男の受け渡し場所を決めて、私の、読売の社旗を立てた車が、その場所に近づいてゆくと、対向車線に停まった車から、ひとりの男が、こちらをめざして走ってくる。
その男を、社の車に拾って、赤坂見付の社用旅館の「奈良」に向かった。もちろん、運転手は、なにも知らないし、車内では一言も話をしなかった。もう夜になっていた。
奈良旅館に着いて、女中さんに部屋をとらせて、はじめて、明るい部屋で対座した。男は、「山口です」と名乗った。だが私には、王との話で、指名手配の小笠原らしい、と判断できたが、もとより、確認はしない。
「一体、どういうことです?」
それから、長い時間、私と彼とは、話をつづけていた。社会部の誰にも、何も連絡していない。ただ、司法クラブの二人には、電話して、「仕事で奈良旅館にいる」とだけ、連絡しておいた。
やがて、彼が、小笠原であること。射ったのは、千葉という男で、写真で見ると、自分に似ているので、横井が間違えたのだろう。私は、バクチの係で、「顧客名簿」を持っているので、これをサツには渡せないこと。
安藤がまだ捕っていないので、安藤より先に捕まるワケにはいかないから、まだ、自首はできないこと。自分が犯人でないということは、花田が知っていること。花田に聞いてもらいたい、といったことなどを聞かされた。
彼に、花田に電話させて、花田を奈良旅館に呼ばせた。
安藤組というのは、博徒でもないし、テキ屋でもない。不良少年グループだ、という。安藤の方針は、いわゆるヤクザ風な服装や髪形を禁じていた。「オレたちはギャングだ」というので、背広をキチンと着こみ、サラシの腹巻や、モンモン(刺青)など、許されなかった。
博徒ではないから、縄張りなど関係なし、ということで、渋谷で花札賭博をやる。博徒としては、渋谷は武田組のショバだ。武田組が安藤に文句をつけてきた時、安藤はこう答えた、という。
「オレが博徒なら、縄張り荒らしになる。しかし、オレたちはギャングだ。筋違いだ」
こうして、武田組と紛争になった。安藤組事務所に、武田組が殴り込みをかけてきた。三階建てビルの三階、せまい階段があるだけで、多数がワッとなだれこめない。一列縦隊で、階段を上がってくるのを、上から、消火器を噴射する。その圧力に、先頭の男が転がり落ち、後につづいた全員が、将棋倒しになって、殴りこみは失敗した、というエピソードさえある。
そして、花田という副親分は、当時、なんの事件も抱えておらず、合法面に出ていられる立場だった。
やがて、花田が現われた。礼儀正しい紳士であった。犯人は千葉であり、小笠原の指名手配は間違いだ。まだ、安藤とも、千葉とも連絡はついていないが、そのうち、安藤が捕まれば、千葉たちも自首するだろう。
安藤組としては、まだ、小笠原を自首させるわけにはいかない。ご迷惑をかけましたが今夜はもう
遅いので、明日、出発させます、という。
やがて、花田が現われた。礼儀正しい紳士であった。犯人は千葉であり、小笠原の指名手配は間違いだ。まだ、安藤とも、千葉とも連絡はついていないが、そのうち、安藤が捕まれば、千葉たちも自首するだろう。
安藤組としては、まだ、小笠原を自首させるわけにはいかない。ご迷惑をかけましたが今夜はもう
遅いので、明日、出発させます、という。
「分かりました。しかし、指名手配は解除されていないのだから、私は、これで帰りますが、夜があけたら、ここから立ち去って下さい」と、私は結論を出した。
トイレに立って、部屋に二人だけの時間を作ってやった。帳場に行って、「お客さんはひとり泊まる。朝食を出してやってくれ」と頼んで、部屋に戻った。
花田は、小笠原に金を渡したようだった。
「それでは、私はお先に失礼します」と、挨拶をして、花田は帰った。私も、車を呼んで帰宅した。
車中、ひとりになって、考えてみた——花田は、安藤と連絡が取れていない、といっていたが、小笠原の連絡が、すぐ花田に通じたことをみると、もちろん、組事務所ではなく電話連絡のルートがあるのだろう。
花田のカミさんは、渋谷でクラブを経営しているというし、渋谷一帯には、安藤組の影響下にある店や事務所は多い。
小笠原は、横井の写真面通しで、指名手配犯人にされているが、事実は、千葉の犯行だということだ。小笠原には、これ以外に、現在のところ、なんのヤマ(犯罪事実)もないということだった。
——ウン? 花田に頼んだら、安藤と連絡がつくかも知れないナ…。安藤だって、逃げ切れるものではないのだから、やがて、自首するだろう。
——それなら、自首の前夜に、花田に頼んで安藤に会わせてもらって、〈単独会見〉というのも、悪
くないな…。
——首相が総監を叱りつけた事件だ。その安藤にあって、オレが自首をすすめる。説得できれば、警視庁と連絡をとって、逮捕という形の自首をさせる。すると、〝安藤逮捕〟というビッグ・ニュースを読売のスクープにできるな!
——いま、地下に潜っているのは、安藤以下五人だ。小笠原は、「兄キより先に自首はできない」といったから、安藤でスクープしたあと、小笠原以下、毎日ひとりずつを自首させて、五日間の連続スクープか…。——だいたいからして、いまの社会面はなんだ? 企画モノでなければ、トップを張れないなンて、事件の読売はどうなったンだ?
——巨人戦の招待券を、クラブでバラまいているような社会部長なんて、あるもんか。畜生! 〝社会部は事件〟なんだゾ!
——黙っていたら、あの部長には、社会部なんて、分かりやしないさ…。ひとつクーデターを起こして、目を覚まさせてやるか!
世田谷は、梅ヶ丘の自宅まで、車の中で、私の気持ちは、だんだん、高揚してくるのだった。
——そうだ、これはクーデターだ!
〝五人の犯人の生け捕り計画〟は、五日間の連続スクープ、ということになる。〝事件〟に逃げを打つ編集局長と、社会部長とに、事件で育ってきた社会部記者が、「事件とはこういうもんだ」と、教えてやろう…。
金久保社会部長と、小島編集局長に対してクーデターを起こそう、という決心は、社の車で送られて、世田谷の家に帰りつくまでにもう、九分九厘まで決めていた。
翌日、やや早目に起きると、社の自動車部に電話して、家から五分ぐらいの距離にある北沢署に車を呼んだ。
たしかに、〝いい時代だった〟と思う。三十歳代の後半とはいえ、出勤には、いつも社用車が使えたのだから…。
ひる前ごろ、赤坂の奈良旅館に着いてみると、小笠原は、昨夜、「指名手配なのだから夜が明けたら、ここを立ち去って下さい」といっていたのに、まだ、旅館に居たし、私の来るのを、待っていたような感じだった。
「どうしたんです。まだ、居たんですか」と私はワザと、詰問調にいった。
「…あのう、お願いがあるんですが…」
——きたな! と、私は思った。
「ゆうべと今朝、花田とも、連絡を取ったのですが、やはり、兄キよりも先に、捕まるわけにいかないんです。それに、私の指名手配はマチガイですし…」
「……」
「…で、兄キが自首するまで、もうしばらくの間、どこかに、かくまって頂けないものでしょうか…」
「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」
今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。
——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!
——しかし、小笠原との〝取引〟ではダメだぞ。花田に、ゲタを預けなければ…。
ダンマリのなかで、私の心の中では、着々と、クーデター計画が煮つまっていった。
「この場では、私には返事ができない。仕事もあるので、私はでかけるけど、夕方、暗くなったら、花田さんを呼んでおきなさい。
メシは運ばせるけど、部屋から出てはダメだよ。今朝、ここを立ち去らなかったので、私は、再度、今夜には出ていくように、厳重に注意したんだよ」
事務的な口調でそういうと、司法記者クラブに出かけていった。
犯人を旭川へ、サイは投げられた
夕刊の締め切りがすぎたころ、私は、警視庁クラブに出かけていって、キャップの萩原や、捜査二課担当の子安雄一記者に、安藤への追及状況を聞いた。まだ、足取りは、まったくつかめていないようだった。
それから、シベリアで一緒に苦労した、大隊長の塚原元大尉に電話を入れ、「至急、会って相談した
いことがある」といった。
それから、シベリアで一緒に苦労した、大隊長の塚原元大尉に電話を入れ、「至急、会って相談した
いことがある」といった。
塚原大隊長は、もともと、私の上官ではなかった。八月十三日、満州国の首都・新京で私の所属する二〇五大隊の主力は、すでに満ソ国境の白城子付近に展開していた、旅団主力に合流できず、新京防衛隊に編入されていた。そして敗戦。
やがて、南の公主嶺に撤退し、一千五百人の部隊編成が命令された。そこで、二〇五大隊を基幹として、二〇三大隊の一部を加えてジャスト一千五百名が編成された。
だが、シベリアに入ったその冬、二〇五大隊長だった星野六蔵少佐が死亡して、二〇三大隊の長だった、塚原勝太郎大尉が、後任の大隊長になった。
バイカル湖の西側、イルクーツクから、シベリア本線で二つ目の駅、チェレムホーボの炭鉱で、私たちは働かせられた。はじめは、建制(旧軍の編成)のままの作業隊だったが、のちに、将校だけの作業隊になったので、私は、塚原大尉とも、親しくなっていた。
「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」
「ウン、話せない事情があるのなら、聞かないことにしよう。そうだナ。旧部下で、思い当たるのは、旭川で材木屋をやっている、外川曹長ぐらいだナ」
「あァ、外川さん。私も知っていますが、そんなことを頼めるほど、親しくないので…」
「いや、いいよ。オレが頼んでやるよ。住みこみの店員もいるし、ひとりぐらい…」
「でも、あんまり、肉体労働のできる男ではないので、寝るところとメシだけ、お願いできれば…」
「よし、分かった。頼んでやる。オレと同じ二〇三大隊育ちだから、引き受けるよ」
「スミマセン。…どんなに長くても、一カ月ぐらいですので…。ア、山口二郎という男ですが、上野を発ったら、旭川着の時間をお知らせします」
私が、王長徳から、小笠原を〝もらった〟時に彼は、山口二郎といっていたのを、思い出して、そうつけ加えた。
塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。迷惑がかからないよう、留意したのであった。それでも、塚原大尉には、二泊三日ぐらいの、留置場体験をさせてしまった。二人の供述が、ピタリと一致したので釈放されたのだった、けれども……。
シベリア会という、戦友会が、年一回開かれている。その席で、塚原大尉とはじめて同席した時、私は発言を求めて、改めて、謝罪したものだった。
さて、話の本筋へ戻ろう——小笠原をオトしてやるメドがついたので、夜になって、奈良旅館へ出かけていった。もう、ハラは決まっていた。
花田が来て、小笠原からではなく、花田から頼ませる形をとった。
「あくまで、安藤親分の自首までの間、ですからね。そして、安藤が自首する前、私にはインタビューさせて下さい。警視総監が首相に叱られた事件だから、多分、実情は自首であったとしても、逮捕
という形を取ることになるでしょう。
「あくまで、安藤親分の自首までの間、ですからね。そして、安藤が自首する前、私にはインタビューさせて下さい。警視総監が首相に叱られた事件だから、多分、実情は自首であったとしても、逮捕
という形を取ることになるでしょう。
それから、上野駅までは、私が送ります。落ち着き先へ到着したら、連絡を入れますから、食費その他の経費は、そちらで賄って下さい。切符代もね。もちろん、先方では、なにも事情は、一切知らないのですから。軍隊と捕虜の〈友情〉なのです。
途中、職質で逮捕されたりしたら、私は、まったく、関知しませんから、旅館のマッチやメモ類など、持たないこと。花田さんの電話番号は、頭の中に入れて下さい」
私は、あらゆる場合を想定して、安藤の自首までの、時間稼ぎを考えていた。警視庁は安藤の足取りを、まだ、つかんでいないことは確かだった。
安藤と千葉の身柄を、捜査二課が押さえた段階で、小笠原は、自首してもらえばいいという、プログラムだった。
そして、それらの連絡は、合法面に残っている花田である。私が想定した情況は、十分に知識のある、日本共産党の九幹部潜行の実例であった。その時も、合法面には、椎野議長ひとりが残って、連絡係をしていたのだ。当時、日共担当だった私は、同じ捜査二課の捜査手法には、通じているつもりだった。
のちに、捜査四課が設けられて、暴力団担当となり、公安一、二、三課ができて、左翼、右翼、外事を、分掌したが、当時はまだ、捜査二課の一、二、三係であった。
奈良旅館に、車を呼んだ。社の自家用ではなく、雇い上げのハイヤーを指定した。
旅館の門のところで、花田は、「では、なにとぞ、宜しくお願いします」と、頭を下げて、去っていった。
少し離れて、待っていた車に、私と小笠原は乗りこんだ。私の人生で、〝夜のヤミ〟を気にしたことは、この時が最初だったろう。
赤い横線の入った、読売の社旗が、ヘッドライトの横でハタめく。
——まず、検問を受けることはない…。
それでも、車窓に流れる制服警官の姿には緊張する。上野駅に着いて、正面玄関から、一階の広場を抜けて、右手の大改札口に至る数十メートルの歩きには、あとでクタクタになるほどに、精神が張りつめていた。
むかし、サツまわりで、上野署を担当したので、駅警備の詰め所や、巡回コースなどの知識はあったが、駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。
小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。
——済んだ…。あとは連絡船の乗降だけが賭けだ!
待たせておいた車に戻り、「ウチまで送ってよ」と、運転手にいって、深々と、座席に身を沈めた。頭の中が、空ッぽのような感じだった。サイは投げられたのだった。
夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし
ていた。
夜遅く、梅ヶ丘の自宅に戻った。妻も、二人の男の子たちも、もう寝静まって、家中がシーンとし
ていた。
自分の部屋に入り、改めて、六法全書を取り出し、机上にひろげた。
第一〇三条(犯人蔵匿) 罰金以上ノ刑ニ該ル罪ヲ犯シタル者、又ハ拘禁中逃走シタル者ヲ蔵匿シ、又ハ隠避セシメタル者ハ、二年以下ノ懲役、又ハ二百円以下ノ罰金ニ処ス
カタカナ書きの、刑法の条文が、それなりの重みをもって、私の視野に、飛びこんできた。
——オレはいま、間違いなく、刑法の罪を犯した…。
——しかし、これは私利私欲ではない。公器たる新聞の、取材のためであり、報道のためなのだ!
——新聞は事件なのだ。事件を扱わなくなった読売新聞の、編集幹部に覚醒を促すための手段なのだ。
新聞の編集局長や各部の部長などは、そのクビを、大勢いる部下の記者たちに、預けているのも、同然である。
古くは、朝日新聞の「伊藤律架空会見記」が、そうであり、近くは、「サンゴ礁事件」がそうである。部長、局長、社長のクビを飛ばすことができる。
読売の立松事件では、記事はデマだったが、ネタモトに法務省刑事課長・河井信太郎という、レッキとした人物がいたので、部長が左遷されただけで、局長はお構いなしだ。
なんと、美辞麗句を並べようと、私の今夜の行動は、まぎれなくも、「犯人隠避」である。
——これが、「事件」になるかどうかは、私の手で、安藤以下の指名手配犯人を警視庁に自首させられるか、捜査の手が早く逮捕されてしまうか、どうか、そのスピード如何にかかっている。もし、当局
の手が早ければ、私は犯人隠避罪の、刑事被告人になることは、間違いのないところである。
そう考えると、私は、急に脱力感に襲われて、虚しくなってきた。
——いったい、新聞記者、新聞記者って、ひとりでリキみ返っているが、新聞記者って、なんなのだ?
いつも私の寝ている間に、学校へ行ってしまって、顔を合わせるチャンスの少ない、子供たちの顔が、急に見たくなってきた。
子供部屋に行って、二人の男の子の寝顔を見ていると、虚しさが、一層つのってきた。
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
そして、しばらくののちに、私のクーデターは失敗する。私は負けるのだった。それもまったくの偶然からだった。
安藤の足取りは、まったくつかめない。上からは、ヤイヤイいわれる。刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。
もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。と、一枚の紙切れが入っていた。
「北海道、旭川市……。山口二郎」
手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。
手紙の封筒のウラの、差出人の住所部分を財布に入れて、持っていたのである。刑事たちは、いぶかった。
「安藤組で、旭川市に土地カンのある奴はいない。山口二郎なんてのも、知らんな」
花田のカミさんが、刑事の質問に、どう答えたかは、私は知らない。もとより、カミさんの供述を、そのまま、ウ呑みにするハズはありはしない。私の推理では、小笠原が、花田に金でも送ってくれ、と手紙を書き、花田はカミさんにいいつけた。それで、送金のため、住所を残していた…?
北海道警察本部に手配が行き、この「山口二郎」なる人物が、何者であるかの捜査が始められた。
その日は日曜日で、私は、久し振りにくつろいで、自宅にいた。と、司法クラブの寿里記者から、電話があった。
「月曜日の朝、通産省の役人のサンズイ(汚職、汚の字がサンズイだから、こういう)で地検がガサをかけるんです。それほど、大きなヤマ(事件)ではないんですが、原稿、どうしましょう?」
「小さなサンズイなんか、どうせ、ベタ(一段の小さい記事)だろうけど、オレも晩飯を喰ったら、社へ出るから、その時に打ち合わせしよう」
久しぶりに、家族四人揃っての夕食ののち私は、車を呼んで出社した。日曜日の夜の編集局は、いつものような活気がない。ニュースが少ないからである。
寿里も、お茶を飲みに出たというので、私は、空いてるデスク(次長席)に坐ってなに気なく、机上の原稿に、目を落とした。少し前に、地方連絡が置いていった、北海道発の記事である。
その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。
「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。
——小笠原のことだ!
むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。
偶然にも、日曜日の夜、翌朝の、地検のガサ入れの打ち合わせに出社して、私は旭川署の動きを報じてきた、旭川支局発の原稿を見ることになってしまった。
手短かに、寿里記者との打ち合わせを済ましたのち、婦人部長の長谷川実雄(のち巨人軍代表)を訪ねて、経過を報告し、「警視庁は逮捕すると思うので、即刻、辞職したいと考えている」と、打ちあけた。
もちろん、前夜のうちに、塚原大尉にも電話して、事情を説明し、「警視庁から呼び出しがくるでしょうから、なにもかも、洗いざらい、ホントのことを話して下さい。下手すると、一泊か二泊、させられるかもしれませんけども、それ以上のことはないでしょう」と、話しておいた。
昭和三十三年七月二十一日の月曜日、私は朝早く、金久保通雄・社会部長の自宅を訪ね事情を説明して、前夜に用意した辞表を出した。部長は、警視庁の話も聞いてみよう、と一緒に刑事部長を訪ねた。当時の警視庁刑事部長は昭和十二年採用の新井裕であった。
その時、この修羅場をくぐったこともないエリート官僚は、塚原大尉に対する、私の説明を聞いて、こういい放った。
「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった
りするもンか!」
「そんなバカな! ヤクザじゃあるまいし、カタギの人間が、ワケも聞かないで、小笠原を預かった
りするもンか!」
警察取材が長く、親しい警察官も、警察官僚にも友人が多くいるのだが、この言葉には激怒を覚えたものだった。
新井裕もまた、「幻兵団」の調べ官、二世のタナカ中尉と同じように、「記者の功名心? …信じられない…」と、いった。その心は、安藤組との深いつながりや、金の関係などを、疑っているようだった。
同席していた、捜査二課長は平瀬敏夫。若い彼は、一言も発せずに、私と新井裕とのヤリトリを聞いていた。
この新井は、のちに、警察庁長官にまで進む。が、私は彼を糾弾する。昭和五十年六月四日付の「正論新聞」一面のトップ記事である。
「大林組〝夜の社長〟と元警察庁長官」という大見出しである。大林組に寄生して、女の世話までしながら、同社の全資材からマージンを取っていた、福島県出身の代議士の息子がいた。菅家(かんけ)というこの男は、福島民報の記者だったが、当時の県警本部長の新井と親しかった。
多分、新井は、そのころ、日本航空顧問だったと思う。大林組が青山に落成させたばかりのマンションに、この菅家と新井とが、隣りあわせで入居していたのだった。つまり、菅家と新井のゆ着である。全国に作業所を持つ大手土建は、それぞれ、各地で事故を起こしたりするので、モミ消しには警察庁長官を利用していたのだろう。
刑事部長への経過説明のうちに、二課担当の子安記者が入ってきて、「二課ではビラを請求しました」と、耳打ちしてくれた。逮捕状のことである。
「新井さん。当然、強制捜査をされるんでしょうが、私としては、今朝、社会部長に辞表を出しました。これが、今日、受理されて、〝元読売記者〟になってから、逮捕されたいのです。いくらなんでも、現役記者のままでの逮捕では、社に迷惑をかけすぎます。…立松の場合とは、違うんですから、それぐらいの時間を下さい。こうして、自分から出頭してきているんですから」
交渉の末、社会部長が預かる形で、明日の火曜日正午に出頭する、ということで、決着がついた。
——明日の正午まで、丸二十四時間しか、自由の時間がないのだ。
社にもどる。辞表は持ちまわり役員会にかけられ、夕方には受理、発令された。仲間の萩原キャップが、「オイ、中村信敏弁護士を社でつけてやるからナ」と、気を配ってくれたのに、感謝した。
しかし、人間、落ち目の時にこそ、まわりの人の〈人間〉が目に見えてくる。
さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局
長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。
さて、翌二十二日、正午の出頭を控えて四階の務臺専務のもとに、挨拶にいった。その時、在社していた役員は、務臺さんだけだったのだ。
「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」
ニコニコ笑いながら、こういわれて、私はすっかり感激した。なにしろ、前夜、小島文夫・編集局
長に、電話で報告しようとしたら、その第一声が「キミ、金は取ってないだろうナ、金を!」という、情ない言葉だったのだから、務臺さんの「また、社に戻ってきたまえ」には、ジーンときたのだった。
そして、それから一年ほども経っただろうか。読売本社へ顔を出したところ、バッタリと、深見和夫・広告局長に出会った。
「オイ、三田。この間、務臺さんと同じ車に乗った時、『三田は、どうしているンだ』と心配されていたぞ。社に来た時は、挨拶に顔ぐらい出してこいよ」
こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。正論新聞の十周年では、多忙のなかを割いて、帝国ホテルのパーティで、鏡割りをしていただいたほどである。
そして、私の腕時計は、45・7・21ツー・ミタ・フロム・ムタイと、裏に刻みこまれたオメガ。もうすでに、二十年を越えているが、ほとんど狂わない。務臺さんの読売社長就任の時、記念に下さったものである。
中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。
こうして、私は、中村弁護士と萩原とにつきそわれて、警視庁に出頭した。捜査二課の石村勘三郎警部補係で、調べ室に入った。
夕方になったころ、石村主任はニヤニヤしながら、「ブン屋をしていたって、見たことのないものを見せてやるよ」と、一枚の紙片をさし出した。
「フーン。逮捕状か。アレ? オレの名前が書いてあるよ!」
「ドレ、ドレ。アーホントだ。じゃ、オメェさんを逮捕しなくッちゃ!」
調べ室の中の千代部長刑事も、二人の若い刑事も、みんな、大笑いした。その日は形式的な調べだけ。十名近い雑居房で、監房長官は、暴力団右翼のボス。私は〝安藤のために、読売記者を棒に振った英雄〟として、その客分扱い。
雑居房の上席は、入り口に近い所から、奥の便器の側へと、下がってゆく。私は、ボスの次の場所で、日曜、月曜と二日つづきの寝不足に、グッスリと眠った。
石村主任は、おもしろい男だ。藤井丙午・八幡製鉄副社長を逮捕しようとして、令状請求書を持って、朝、課長室に入る。所轄署なら、令状警部と呼ばれる警部で、裁判所に逮捕状を請求できる。しかし、警視庁では、課長の決裁が必要である。業務上横領の容疑であった。
「……」
課長は、ジロリと石村を見て、黙ったまま横を向いてしまう。デスクの正面には、石村も黙ったまま、直立している。手には、令状請求書を持っている。
課長は、横を向いて、サイドテーブルで仕事をすることになる。上のほうから、待てという指令がでているからだ。…こうした日が何日もつづいた、ということだ。
そして、ある日。彼は、推せん枠で警部に昇進させられ、制服を着て、方面本部の刑事官として、捜査の現場から外されてしまう。のちに、警視で退官し、平和相互銀行に入り常務にまで栄進した。
逮捕の翌日朝、運動に出る時、「読売!」と、声をかけてきた男がいた。まだ、メガネの使用許可がとれず、遠いので、誰であるか分からない。
「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」
「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」
「ハハン。すると、安藤もパクられたのか。小笠原も、旭川から護送されたんだろう。それにしちゃ、顔を見ないネ」
「オメエ、ほんとに声をかけた男、知らねえ男かい?」
「そういってるダロ、元山と王の関係で、小笠原を紹介されただけで、安藤組なンか、だれも知らないよ」
「フーン…」
この時から、石村主任の態度が変わった。いままでは、まだ、疑っていたのだった。私がほんとうのことを供述していない、と。
萩原の配慮で、中食には、大増の弁当がさし入れられた。子安が、石村の部屋まで届けてくれる。もう、調べは終わってしまい、私は、朝から石村部屋で、ダベりながら、時間をツブしていた。
「しかし、なあ。捕まえたオレが、牛乳とパンを喰っているのに、捕まったオメエサンが、豪華な弁当を喰っているッてのは、少し、オカシイんじゃないか」
部屋持ち主任の石村以下、デカ長一、デカ二の合計四名と、私とが、みんなで揃って中食を取る。そんな冗談も出てくるフンイキだった。いわゆる〝石村学校〟と呼ばれ、石村式捜査が、若い刑事たちに叩きこまれていくという、〝捜査の職人〟だった。
やがて、満期日がきて、私は起訴された。その翌日、高検次席だった中村弁護士は、自分で書類を持ち歩いて、保釈の手続きを素早く済ませてしまった。やはり、ベテランの刑事弁護士であった。
だが、ベテランの刑事弁護士では、あまり収入にはならない。人柄もまた、商売向きではないので、友人たちが仕事をまわしてくれる。やがて、彼は、児玉誉士夫の顧問弁護士になった。やはり、友人の好意からだ。
当時、すでに児玉批判を強めて、そんな雑誌原稿を書いていた私のことを、彼は、よく知っていた。ある日、銀座の中村事務所に、ヒョイと立ち寄ってみた。
「オイ、三田クン。いままでは、読売以来の仲で、親しくしていたけれど、これからは、そうはイカンぞ。…なにしろ、オレは、児玉の弁護士になったんだから、キミとの付き合いにも、一線を画するからな」
ニコニコとして、そういっていた中村弁護士だったが、早逝されてしまった。 裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。
裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。
「一審は、有罪。懲役六カ月、猶予二年というところかな。二審でついてあげるから、一審は中村先生におまかせしなさい。拳銃不法所持の訴因について、争う余地があるから。でも、一審の裁判官は、冒険を試みはしないから、やはり有罪だよ」
私の、小笠原の指名手配犯人という認識は、横井英樹を射った拳銃の、不法所持犯人という認識であった。
ところが、小笠原が奈良旅館で語ったように、実際の射撃犯は千葉で、小笠原は誤手配であったことが、明らかになっていた。検察は、その時点で、小笠原の供述のなかに、むかし、拳銃の入ったボストンバッグを、東宝撮影所のロッカーに隠した、とあるのを取り上げて、私が小笠原を知る以前の、拳銃不法所持犯人と、訴因を変更していた。
——バカらしい。オレは、横井事件が発生してから、小笠原を紹介され、その時点で、横井を射った拳銃の不法所持犯人という認識はあった。それが、誤りだったとなれば、犯人という認識が崩れたのだから、無罪だ!
何年も前の、違う拳銃の不法所持犯人という認識など、まったく無かったのである。小野弁護士は、そのことを指して、「争う余地がある」と、いわれたのだった。
東京高裁で二審が始まった。小野主任弁護人で、審理が進んだ。当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。
小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧
問室に伺って、公判の打ち合わせがある。公判当日は、車で本郷の私邸にお迎えに行き、車でお送りする。次回の打ち合わせ、次回の準備と、私は、すっかりくたびれてしまい、控訴審が始まって、半年ほどで、控訴を取り下げてしまった。一審判決が確定した。懲役六月、執行猶予二年の刑であった。そして、猶予期間の二年間を、無事に、なにごともなく、満了したのだった——。
それと同時に、イヤ、それよりも早く、私は保釈出所すると同時に、文芸春秋本誌に、「我が名は悪徳記者・事件記者と犯罪の間」という、長文の原稿を書いていた。これは、その年、昭和三十三年十月号に掲載され、その年度の、文春読者賞にランクされるほどの評判で、これで、精神的な決着をつけ、控訴取下げ、判決確定、猶予期間満了で、物理的な決着をも、つけていたのだった。
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
この、私の安藤組事件の期間、原四郎は出版局長として、新聞から離れていた。だからこの〝事件〟に関しては、原のアクションはなかった。そして、この年の秋、新聞週間で講師になった原出版局長は、こういった。
「週刊誌ブームというのも、ラジオが思わぬ発達をとげたために、起こったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌など、つぶしてしまわねばならないと思う」
この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版
局長の言葉である。
この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版
局長の言葉である。
そしてまた、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へもどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。
「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」
私の名前が出て来るのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。
原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変わっているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。
また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。
「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。
彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと『あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。
帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」
尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。
私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺害未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果たして〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。
本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集
局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。
本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集
局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。
《彼には、記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う》——原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。
これは、正しいことである。
私は刑事訴追を受け、有罪となったが、公判を通じて明らかになったことは、安藤組という暴力団とは、過去に全く関係がなかったこと、金銭その他の利をもって誘われたものでもなく、全く「五人の指名手配犯人逮捕の記事独占」のためであった、ということである。
そのため、社歴十五年の記者経歴を棒に振り、刑事訴追されて有罪となる——となると、やはり客観的には〝バカげて〟いるし、原因としては、〝記者としての基礎訓練不充分〟としか、判断しようもないのが事実であろう。
私自身の主張はさておき、だから、原のいうことが正しいというのだ。では一体、〝十分な基礎訓練〟とは、何を指していうのであろうか。
私たちの時代は、小山栄三の「新聞学」であったが、そのうん奥をきわめることなのだろうか。否である。新聞学の学究が、〝完成された記者〟でないことは、明らかである。
刑事は〝現場百遍〟という。犯罪の手がかりは、すべて現場にあるということだが、これも「読書百遍、意義おのずから通ず」からきたものだ。事件記者の完成は、デカになることではない。
「新聞記者は、疑うことではじまる」
この言葉は、読売の先輩「昭和史の天皇」をまとめていた辻本芳雄記者に、私が教えられた言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。
〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。
まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。
私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は、〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。
五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には、まず抵抗の精神が、空しくマヒしてしまった、つまりルールを忘れたのであった。
この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと
考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。
この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと
考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。
私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。
しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。
そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培われていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」といったのであろう。
部下に対する信頼も〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当たって、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。
しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。
そして、もうひとり——原の良き理解者であった務臺光雄がいる。
務臺が逝ったのが、平成三年四月三十日。その一月から六月までの、平均ABC調査部数は、読売をトップとして、九百七十六万五千部弱の数字をあげている。
実に、一千万部を目前にして、務臺は逝ったのであった。その胸中たるや、無念の一語に尽きるであろう。
正力松太郎の、当時としては、斬新極まりない企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させた。もちろん、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、それをバックアップしたからである。
加うるに、原四郎の紙面作り。社会部を主軸とした、〝事件の読売〟という目玉が、ついに、日本一の新聞という地位に就かしめたのだった。
昭和二十三年の発言ではあるが、「週刊誌などは、新聞が増ページしてツブせ!」という原の見通しは、〈新聞がしっかりしない〉こともあって、現実からは、乖離した結果となっている。
そして、務臺が苦労しつづけた宅配制度もまた、崩壊に瀕している。労働力が足りない——これは、合売制への転換を示唆している。
この秋、読売の築き上げた、一千万部近い部数は、どうなってゆくのであろうか。「原四郎の時代」は、確実に終わったのだ。
正力松太郎、務臺光雄、原四郎という、昭和の新聞史に、その名を刻する三人の、鎮魂の想いをこめて、この稿を終わる——。