米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.130-131 青木照夫もその一人である

読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。
読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ

満二年のシベリア抑留中に、私は、イルクーツクのそばの、バイカル湖沿いの炭鉱町、チェレムホーボの収容所で、KGBの少佐によって、「スパイ誓約書」に署名させられたという経験を持つ。

「…日本に帰ってからも…」という条項の入ったその誓約書は、シベリア抑留者の多くに暗い、重い心の負担であったに違いない。

現に、私の読売同期生で、私より一年遅れて帰国した青木照夫も、その一人である。彼は、報知新聞編集局長の現職で、早逝してしまったが、この心の重みが、彼の死を早めたのかも知れない。

昭和二十四年の暮れ、私は梅ヶ丘の都営住宅に入り、青木も、空家抽せんで、同じ平屋一戸建の都営住宅に入居していた。

寒さが、しんしんと夜気を静まらせていた深夜、米占領軍のジープの音が響き、声高な罵り声が聞こえて、目が覚めた。何事かと起き出して行ってみると、ジープが止まっているのは、青木の家だったのである。

二日か、三日、青木は帰ってこなかった。もちろん、出社していなかった。数日後に青木の家をのぞいてみると、元気のない様子で、彼が現われた。

その夜、二人は話し合った。彼が、「スパイ誓約書」に署名し、合言葉の男が訪ねてきたことを、私に打ち明けたのである。

それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。事実を竹内部長だけに打ち明けていた私は、青木の告白で、最終的な取材を終えた。

シベリア捕虜たちが、誓約書の文言に縛られて、心の重荷を背負って生きていることへの、〝気晴らしのレポート〟として、このスパイ実話を、翌二十五年一月十一日付朝刊の全面を埋めて、第一回分を発表した。

整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。この「幻兵団」の記事には、前段がある。シベリア復員者の「代々木詣り」という記事である。

私が日大で三浦逸雄先生(三浦朱門氏の父君)に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、欠かさずにやっていた。

そこで、婦人団体よりもテキパキと援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ、献身的な姿が見られた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

読売梁山泊の記者たち p.132-133 〝代々木詣り〟の引揚者

読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」
読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料ができ上がった。私は、これを竹内社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。

「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引き起こすと思います」

いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。

竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。

「それで?」

「予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いたほうがいいと思います」

こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴社に、先月既に八百名という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行なっているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、丁寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。

この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私はその記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。

「…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行なわれており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているのかを、時間をかけて、調べてみたいのです」

「何? スパイだって?」

「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているのに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は、同胞相剋の悲劇を強いられているのに違いない、と思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終わってまだ数年だというのに、もう次の戦争の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」

読売梁山泊の記者たち p.134-135 私自身が書いた〝スパイ誓約書〟

読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。
読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

「それで、調べ終わったら、どうするつもりだね」

「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが」

「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」

「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」

部長は許可してくれた。それから、私とソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私の許には、相当程度のデータは集まっていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集まってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一カ月のデータの中から、めぼしいものが浮かんでいたのである。そのなかには海部内閣の閣僚さえいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません」と、私自身の手で書き、署名さえした、〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類に残されているのだ。「…もしこの誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処罰をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

「ミータ、ミータ」兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭鉱作業に、疲れきった私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回も、ひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べをうけていた私は、直観的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が、着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

読売梁山泊の記者たち p.136-137 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ

読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。
読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良いものだった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。

「第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「宜しい。よく判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼しドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パダジュディー!(待て) 今夜お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭鉱の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」

と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、今までの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは、〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いない、と思っていた。

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに呼び出された。当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。

ペトロフ少佐と、もう一人、通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれ、ということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクー、ハヤクー」と、歩哨がせき立てる。

読売梁山泊の記者たち p.138-139 何か大変なことがはじまる!

読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。
読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクー、ハヤクー」と、歩哨がせき立てる。

「ウン今すぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かがはじまるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージュナ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良くあたためられた部屋に一歩踏みこむと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。

ソ連側から、やかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私は、そんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられたカカトが、カッと鳴った程の、厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、

見たことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳めしいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の、眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。

「サージス」(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向かい側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当たっていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の「ワストーチナヤ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立上がってドアの方へ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルッブルッと震えた。

読売梁山泊の記者たち p.140-141 もはやハイ以外の答えはない

読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」
読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まりかえったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできない、この密室で秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ころうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会の男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人びとだけで、他の者は一部だけしか知り得ない仕組みになっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

スパイ誓約書に署名させられた実体験

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引き出しをあけた。ジッと、少佐の眼に視線を合わせていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いた。机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

——拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。

少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」

歯切れのよい日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくりと区切って発音すると、非常に厳格感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはソユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにして見つめている、二人の表情と声は、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ。もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白い紙

を取り出した。

読売梁山泊の記者たち p.142-143 スパイ誓約書

読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…
読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白い紙

を取り出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとう来るところまで来たんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキ!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。「漢字とカタカナで書きなさい」

「チ、カ、イ」(誓)

「…」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「……」

「今日の日付、一九四七年二月八日……」

「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで、静かに眺める余裕がでてきた。

最後の文字を書きあげてから、捺印をと思ったが、その必要がないことに気付くとともに、「契約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——「ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)、一カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショー」(終わり)

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も

立 ち上がった。

読売梁山泊の記者たち p.144-145 終身暗いカゲがつきまとう

読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。
読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが…

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立

ち上がった。少尉がいった。

「三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉ということを、忘れぬように…」

ペールヴォエ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然、ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた、つぎの命令……と、私には、終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体ある限り、その肩を後からガシッとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーが何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは十分すぎるほどに、判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められれば、の話

だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には、妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは、当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装を解いた軍隊を、捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを、いまさら、いってもはじまらない。現実のオレは、命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラック(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

読売梁山泊の記者たち p.146-147 このナゾこそ例の誓約書

読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。
読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイのバクロをやってのけられるのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然、収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校のだれかれにたずねてみたが、返事は異口同音の、「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では、他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンと、バラックの二重扉の開く音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ、胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起こり、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明けはじめたのであった。三月八日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終わった。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現われなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口(ぐち)だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカ

でダメ押しのレポも現われないまま、懐かしの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔。復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿。肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者。そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

私は、このナゾこそ、例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように、〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会でKという引揚者が、ソ連のスパイ組織の証言を行なった。その男は「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて、「日本新聞」の編集長まで、ノシ上がった男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

「チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう」

「何をいってるんだ。今まで程度のデータで何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか」

読売梁山泊の記者たち p.148-149 このソ連製スパイの事実を暴いていった

読売梁山泊の記者たち p.148-149 私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。
読売梁山泊の記者たち p.148-149 私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。

若い私は、ハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。

その結果、現に内地に帰ってきている、シベリア引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての、暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の国土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしている者がいるという、奇怪な事実までが明らかになった。

そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して、自分の暗い運命を語った人もあった。

さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命に、はんもんしている他の人たちの勇気をふるい起こさせるだろう、というので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

私の場合、テストさえも済まなかったので、偽名や合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉を授けられていた。

例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで、「この池には魚がいますか」と問われて、「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが、合言葉であった。

ラストボロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを、示そうとしてか、万葉の古歌「憶良らは いまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むずかしい合言葉だった。

そして、自宅から駅へ向かう途中の道で、ジープを修理していた男に、「ギブ・ミー・ファイヤァ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は、素早く一枚の紙片を、彼のポケットにおしこんだ。

彼が、あとでひろげてみると、金釘流の日本文で、「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています。もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、場所で」とあった。子供がワンワン泣いている、というのが、さきの万葉だったのである。

また、「あなたはいつ企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか、「私はクレムペラーを、持ってくることができませんでした」と、話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から暴いていった。

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局(現公安調査庁)などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CIC(米占領軍情報部)が確実なデータを握っている時、日本側の治安当

局は、まったくツンボさじきにおかれて、日本側では、舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

読売梁山泊の記者たち p.150-151 同胞への〝恐怖のデモンストレーション〟

読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。
読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局(現公安調査庁)などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CIC(米占領軍情報部)が確実なデータを握っている時、日本側の治安当

局は、まったくツンボさじきにおかれて、日本側では、舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

「デマだろう」という人に、私は笑って答える。

「大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ」

紙面では回を追って、〝幻のヴェール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。

「よく生きているな」

親しい友人が笑う。私も笑った。

「新聞記者が、自分の記事で死ねたら、本望じゃないか」

ただ、アカハタ紙(現赤旗紙)だけが、ヤッキになってデマだと書いていた。読売の八回の記事に対し、十回も否定記事をのせ、左翼系のバクロ雑誌「真相」(現「噂の真相」とは違う)も、〝幻兵団製造物語〟というデマ記事で、私の記事を否定した。私には、その狼狽ぶりがおかしかった。そして、それから丸三年たって、二十七年暮れに、鹿地・三橋スパイ事件が起こって、「幻兵団」の実在が立証されたのであった。

アメリカ側の引揚者調査機関、NYKビル(郵船ビル)がその業務を終わった時、チェックされた「幻兵団」員は、多分、私もふくめて、七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記者としての、いわば〝出世作品〟であった。

幻兵団を実証する事件がつぎつぎと

「シベリアで魂を売った幻兵団」という、大きな横見出しの記事を、いま、改めて眺めてみると、〝魂を売った〟のではなく、〝魂を奪われた〟と、表現すべきだった、とも思うのである。

私にとっては、「スパイ誓約書」を書かされた、ペトロフ少佐のデスクの拳銃の、鈍い輝きよりは、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。

屈強な若者たち。とても、同じ捕虜には見えない、約二十名ほどの円陣のなかに、どこの、どういうグループで、ナホトカまできたのか、知るよしもなかったが、将校服に大尉の襟章をつけ、黒皮の長靴をはいた男が、土下座させられていた。

彼は、バリザンボウを浴びせられながら、ケ飛ばされ、階級章をムシリ取られ、長靴を切り裂かれて、衆人環視のなかで、いわゆる〝吊るし上げ〟にあっていた。

男は、ツバを吐きかけられ、殴られ、蹴られて、〝日本帝国主義の走狗〟として、人民裁判にかけられていたのである。それはまた引揚船を目のあたりにして、いっそう、望郷の念をつのらせている、数百人もの同胞への〝恐怖のデモンストレーション〟でもあったのである。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

読売梁山泊の記者たち p.152-153 「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝

読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。
読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

日本帝国主義の走狗といえるのは、中佐参謀——いうなれば、瀬島竜三中佐クラスであろう。ラストボロフ中佐に、萬葉集の合言葉をささやかれた、志位正二(モスクワ上空の日航機内で急死)も、少佐参謀であった。現日本共産党志位書記長の伯父である。

私たちは、バイカル湖の西岸、イルクーツクの北にある、炭鉱町のチェレムホーボから予備役将校ばかりの梯団で、昭和二十二年十月、引揚船の待つナホトカに着いたばかりであった。

捕虜生活も二年目に入って、従来の建制、旧軍隊組織のままの作業隊から、将校ばかりの作業隊に組み替えられ、大いに作業成績をあげていた。それまで「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝していた、「将校は、日本へ帰さない」から、「作業成績が良いものから帰国させる」の見本として、ダモイ(帰国)させるのだ、と聞かされていた。

だが、ナホトカに着いてみると、私たちのすこし前に、第一回の将校梯団が帰国したという。この、人民裁判にかけられている大尉は、その第一回梯団から、残されたひとりだったらしい。

そして、後続の私たちに、その光景を目撃させることは、あのスパイ誓約書にある「日本に帰ってからも…」の条項に、金縛りをかける効果は、十分すぎるほどであった。

明日の乗船を控えて、私は、スパイ下命者である、ペトロフ少佐が突然いなくなって、第一の課題であった、「収容所内の反ソ反動分子の名簿作成」が、流れてしまった幸運をよろこんでいた。

もしも、私が名簿を提出していたら、その名前の同胞は、永遠にダモイできなかったかも知れない。あの大尉も、襟章をつけ、長靴をはいていたところをみると、欧露エラブカの、日独同居の将校ばかりの収容所にいたのかも知れない。

エラブカ収容所における独軍将校は、毅然として、ジュネーブ条約による待遇を要求し、もちろん労働を拒否し、バターの定量を監視するほどの余裕を持っていたそうだ。

それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

「私の名前を出さない、という約束をして下さいね」

その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で逢いましょう〟という、耳もとでの熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交差点で、そのマーシャそっくりの女性を見つけて、ハッと心臓の凍る思いをしたといった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。

「どうしても、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……」

彼は黙っていた。やがて、ポツンと、一言だけいった。

読売梁山泊の記者たち p.154-155 所轄の北沢署に保護を頼んだ

読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。
読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。

「殺されるかもしれないから」

彼の表情は、まったく真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私は見た。

「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。

ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から玄関を見通す階段へ一歩踏み出したところ、アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。

玄関のドアにはまったガラス。その上のラン間のガラスに、一条の懐中電灯の光が走っていたのだ。

その光は、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には玄関を去ってゆく足音さえ聞こえない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻はその後、その時のことを想い出しては、「あれほど恐ろしかったことは、まずちょっとなかったわね」と、よくいった。

あの懐中電灯の光の主が、保護を頼んだ警官なのか、あるいは、何かの配達か。また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

幻兵団の記事に対する意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCIC(米軍防諜部隊)が、私と私の記事とを疑ったのである。

「私の名前のコーサクは、耕す作ると書くのですから、多分、百姓の出身ですネ」

担当官の二世のタナカ中尉は、私の気持ちをほぐそうとするかのように、そういって笑った。私も、いっしょになって笑った。

しかし、調べは厳しかった。

「ナゼ、あの記事を書きましたか。ソ連のスパイ組織をバクロして、恐いと思わないのですか。死への恐怖を感じないのですか」

「軍隊と捕虜とで、どうせ一度は死んだものと思えば、『死』なんて、コワクはありませんよ。ことに、新聞記者が、自分の書いた大きな記事のために殺されたとすれば、それは日本語で、本懐というものじゃありませんか。私に悔いはありませんよ」

「?…。仕事のために死ぬ? コワクない、本懐だ?…信じられない…記者の功名心?」

タナカ中尉には、この「死生観」が、どうしても信じられないようであった。

じつは、彼の思考はもうひとひねりしたものだった。スパイ組織のバクロという、コワイ記事を書いて、平気でいられるのは、その記事のリアクションがないという保証があるからではないか?

保証があるということは、つまり、この男は、反ソ的な記事を書くことによって、米軍側に取り入り、ソ連のためのスパイを、効果的にしよう、としているのではないか?

読売梁山泊の記者たち p.156-157 三年も前にスクープしていた

読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。
読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

だが、私は、この記事によって、〈有力なニュースソース〉を得た。陸士出身の少佐だから、五十三期ぐらい。復員官として、舞鶴で引揚援護業務にたずさわり、復員が終了してからは、厚生事務官。やがて、内閣調査室出向となり、のちに、調査官。

その氏名は、〝情報の世界〟に棲む者の礼儀として、まだ、明らかにはできない。が、私の記者としての視野を、大きく展開してくれた、優れたアドバイザーであった。ただいま現在、日常的に使われている「情報」という言葉とは、まったく意味の違う「情報」の時代だったのである。

昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」というのが、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。

この日、斉藤昇・国警長官(いまの警察庁長官)が、参院外務委での答弁で、「戦後ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。

二十七年秋から、警視庁記者クラブの「七社会」詰めとなっていた私は、その日何も知らないで、夕刻、社に上がってきた。斉藤長官の答弁の原稿が、ちょうどそのころ、社に入ってきて、原部長が目を通したばかりだった。

だいたい、出先の記者クラブ詰めの記者、ことに、警視庁クラブの記者などは、部長には、あまり、顔を合わせたがらないものだ。というのは、デスクとだけの黙認で、いろいろと、〝悪事〟を働いているのだから、部長と話をしたりすると、ツイ、露見する危険があるからである。

例えば、カラ出張やら、インチキ伝票やらで、デスクの呑み屋のツケを払ったり、取材で足をだしてしまった経費を、然るべく処理しているからである。ついでながら、つけ加えると、このような〝処理〟は、この業界での、長年にわたる習慣で、しかも、不法領得の意思がないので、〈横領罪〉には当たらない。念のため。

身についた〝習慣〟で、部長に近寄らないよう、素早く、遠い席に座ろうとしたら、顔をあげた部長と、目線(めせん)が合ってしまった。間髪を入れずに、部長が、叫んだ。

「オイ、まぼろしッ! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて、入籍されたゾ!」

「…?」

満面に笑みを浮かべた、ゴキゲンの良い原チンの顔は、可愛い。いま風なら、カワユーイのであるが、当の私には、その理由が分からないのだから、当惑しながらも、部長のゴキゲンに合わせて、オリエンタル・スマイルを浮かべながら、部長席に寄っていった。

「オイ、これだよ」

デスクが、朱(赤字の校正)を入れていた原稿をわたしてくれた。読み進んでいくうちに目頭が熱くなってくるのを感じていた。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

読売梁山泊の記者たち p.158-159 日本のソ連通を総動員

読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。
読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

一面、社会面ともトップの大ニュースを、三年も前にスクープしていた感激は、やはり終生、忘れることはできない。新聞記者のみが味わえる、このエクスタシーは、身をもって感じるしか、理解で

きないであろう。

昭和二十三年当時、吉田茂・兼任法務総裁の法務庁記者クラブに行った。その時のキャップは、ハンニャの稲ちゃんこと稲垣武雄だった。長い間の警察記者のボスであった稲ちゃんは、私を、当時の国警本部の村井順警備課長に紹介してくれた。

村井課長は、私のスパイ体験を、はじめて熱心に聞いてくれた最初の人物であり、竹内社会部長とも親しかった。竹内四郎が、私の我がままを、大きく許してくれたのには、村井順の推輓もあったのである。

六十三年一月十三日、七十八歳で亡くなり、二月五日の、晴天ながら寒い日に、青山葬祭場で、最後の別れを惜しんだが、村井順なかりせば、あるいは、稲垣武雄のような、先輩記者にめぐり合わなかったなら、「幻兵団」は、〝大人の紙芝居〟で終わったかも…。

昭和二十五年春、それこそ、四十年後の現在では、とうてい信じられないような、〈米ソ・スパイ合戦〉が、米軍占領下のトーキョーで展開されていた。首都東京のド真ン中で、当時七百万都民が、何気なく生活している時から、すでに米ソの、〝熱いスパイ戦〟がおこなわれていたのである。

ここで予備知識として、米国側の諜報機関の概略を説明しておこう。

連合軍の日本占領中、東京駅前の郵船ビルには、総司令部幕僚第二部(GⅡ)指揮下米軍CIC(防諜部隊)と、総司令官直属のCIS(対諜報部——軍の部隊ではない)とがあり、米大統領直属のC

IA(中央情報局)は、ほとんどメンバーもおらず、積極的な活動もしていなかった。

CICはその名の通り、軍内部で諜報を防ぐ部隊なのだが、その一部には、秘密諜報中隊があり、これが積極的にソ連の諜報網の摘発を行ない、CISがこれに協力していた。

さてこのCISは、全国の主要都市に、それぞれ要員を駐屯させていた。情報というものは、どんなに断片的で、小さなことでも、それが収集され、整理されると、そこには意外な事実さえ浮かんでくるものなのだ。

戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。これを押さえれば、日本の対ソ情報は真暗になる。とりもなおさず、アメリカの対ソ情報もつぶれる、というのが狙いで、ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。

そこで米国側にとっては、占領下にあった日本のソ連通を総動員して、旧軍の作戦参謀や情報参謀、それに憲兵、特務機関員、特高警察官などを、CICの秘密メンバーとせざるを得なかった。

そればかりでは足りない。ソ連引揚者に眼をつけるのは当然で、彼らほど最新の知識を持ったものはいないのだ。舞鶴引揚援護局内に一棟の調べ室を作り、二世の連中が分担して、引揚者の一人一人から情報を集めた。

そのために引揚者たちは、せまい小部屋で友好的に尋問され、いい話がでると、まず〝ひかり〟(当時のタバコ)がすすめられ、話が詳しければ、果物までが出された。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

読売梁山泊の記者たち p.160-161 二~三割の日本人が死んだ

読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。
読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

どんな服装の兵隊がいた。その記号、数、兵器は。貨物列車を見た。積荷、何両? こうして兵力分布や整備、移動までが分かり、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が判明する。

昭和二十二年の秋、舞鶴に第一回の将校梯団が上陸してきた。ソ連側は将校は帰さないと宣伝したり、収容所では、対将校階級闘争が盛んになっていたころだったので、こうして将校ばかりが、何百名と、まとまって帰ってきたのは、珍しいことだった。

彼らも、型のごとく調べられた。すすめられた〝ひかり〟を、珍しそうに眺めながら、彼らはそれを深々と吸いこんでは、それぞれのソ連見聞記を話し出していた。

私たち、第二回目の将校梯団が、第一大拓丸で、舞鶴に上陸したのが、昭和二十二年十月三十日。ナホトカを出港する時に目撃させられた、大尉の人民裁判があったのだから、第一回の将校梯団の帰国も、十月はじめごろだったに違いない。

ソ連側は、はじめは、統制が取りやすいので、日本軍捕虜を、建制(軍隊組織)のまま収容所に入れたのだが、最初の冬、昭和二十年暮れから、二十一年春までの間に、どこの収容所でも、二~三割の日本人が死んだ。

生まれてはじめての酷寒——私たちのところでも、寒暖計で零下五十二度を記録した。しかも、風速一メートルで、体感温度は一度下がる。慢性飢餓と重労働。シラミによる発疹チフス、栄養失調と、まさに、いまにして想えば、生き地獄であった。

こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。

この建制を崩して、捕虜をゴチャまぜにすることには、もうひとつ、目的があったようである。それが、はしなくも、第一回の将校梯団で、米国に発見された。

その中に一人、軍曹がいた。いや、はじめは少尉だといって、将校梯団の一員らしく、振る舞っていたのだが、身上調査から乙幹の軍曹だということが、バレてしまったのだった。ウソと分かってからの、その男は、全く狼狽して、ソワソワと落ちつかず、何か挙動がオカシイのだ。

報告をうけた二世のサカモト大尉は、自分で調べようと思って、その男を呼び入れた。風呂から出れば、ドテラでアグラをかくような、二世らしからぬ二世であるサカモト大尉は、日本人の気持を良く知っていたのだ。

大尉は、そのニセ少尉の心配ごとが、彼自身の予想していたようなもの、ではないかと思って、まず優しく、家族の話などから持ちかけ、その男の気持を落ちつかせてやった。

男はあたりを見回してから、泣きそうな顔で大尉に聞いた。

「国際法とかでは、日本人が外国でしてきた約束とか、日本にいる日本人が、外国の刑法で罰せられる、というようなことがあるんでしょうか?」

大尉は、密かに期待しながらいった。

「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

読売梁山泊の記者たち p.162-163 元ハルピン陸軍病院長・I少将

読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。
読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

大尉は、密かに期待しながらいった。
「ここは日本ですよ。ボクたちは日本の味方なんです。日本をよくしようとして、お手伝いしている

んです。……どうです一本」

煙草をすすめて、自分もつけた。

「少しも恐いことはないよ。何もかも話してごらんなさい」

男はオドオドしながらも、彼の恐しい体験を語りだした。大尉は、黙ったまま深くうなずいた。

こうして舞鶴CICは、はじめて引揚者の中にソ連製のスパイがいることを知った。

「ソ連スパイが、引揚者にまぎれて、投入されつつある」——こんな重大な事実を発見した、舞鶴CIC、およびCISからは、報告書を携え、ピストルで武装した将校が、伝書使となって東京の本部へ飛んだ。

それからは、ソ連情報の収集ばかりではなく、ソ連スパイの摘発が、郵船ビルの重要な仕事となった。復員局から「復員業務について占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします」というハガキが、日本全国の引揚者のもとに届けられた。

往復の旅費、日当、食費も日本政府から支給され、北は北海道から南は鹿児島まで、容疑者と、容疑者の情報保持者が郵船ビルに集合させられたのである。

数日で終わる者もあったが、数週間、数カ月間もかかる者がいた。試みに、郵船ビルの表口に立って見ていると、夕刻には、嬉々として現われる者と、足取りも重くうなだれて来る者とがいた。

米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」

そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。

その中の一人に、元ハルピン陸軍病院長をしていたI少将がいた。仔細に見れば、I少将のどこかに、緊張に引きしめられた、あるカゲが見られたであろうが、さすがのCICも、元将官には敬意を払って、多くを追及しなかった。

その元少将が引揚後のある日、何となく後ろめたさを覚えながらも、もう小一時間も、靖国神社の境内を、そぞろ歩いていた。

困惑と期待との入りまじった、不思議な感情だった。半分はウソだと思ったし、半分は行かずにいられない、脅迫感を覚えていた。

やがて、彼がちょうど境内を一回りして、また大村益次郎の銅像にもどってきた時、一人の男が彼に声をかけてきた。

——ああ、やっぱり!

そう思った瞬間、I元少将は、思わず声とも叫びともつかない音をあげてしまった。

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

読売梁山泊の記者たち p.164-165 理解を絶するようなことが起こっていた

読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——
読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——

その男はSといい、ソ連代表部雇員という肩書の男だった。肩書は〝市民雇員〟であったが、もち

ろんれっきとした軍人である。ちょうど、シベリアで、日本新聞の指導をしていたコワレンコ中佐が、タス通信記者という肩書で、代表部にいたように、各収容所付の将校たちが、入れかわり立ちかわり、背広姿で日本にやってきて、重要な〝幻兵団〟に、合言葉をささやくのであった。

I元少将が命ぜられた任務は、在日米軍のバクテリア研究所の実体調査である。当時、日本の細菌研究は、世界的に優れており、その指導者である石井中将を、満州において取り逃がしたことは、ソ連にとって痛恨事であった。その石井中将直接の指導の下に、在日米軍が、ソ連ウクライナの穀倉地帯の、食物に対する細菌戦を準備しているから、その情況を調査せよ、というのが、I元少将の任務であった。

こうしたレポのために、ソ連代表部の〝市民雇員〟は、夜な夜な、東京都内を徘徊するのであった。

ちなみに、夜の七時から九時までの間、三十分おきに、ソ連代表部から出る自動車の行先をみてみよう。歌舞伎座、日比谷公会堂、アーニーパイル劇場(東宝劇場)、帝国劇場、明治座、日劇、そんな賑やかな所を、グルグル廻ってから、目的地へ辿りつくのだ。

昼間なら、赤坂の虎屋、靖国神社、地下鉄赤坂見付駅、日本橋の高島屋、渋谷郵便局、上野公園、皇居前の楠公像、大宮公園、井の頭公園などに行く。

レポには、決して特定の店は使わない。必ず直接である。報酬は月額三—五万円のクラスと、六—十万円のクラスとがある。

こうして、ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日

本人が、甘受する運命は何であろうか。

佐々木克己・元大佐という軍人が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘という作家もまた、なにやら、〝人さらい〟にさらわれる——実に、米軍の占領下では、いまの、平和な日本に生まれ、育った人たちには、とうてい、理解を絶するようなことが、相次いで起こっていたのである。

太平洋戦争後の、米ソの冷戦。これもまたいまのゴルバチョフ・ペレストロイカのもとでは、さながら、フィクションそのもの、といえるだろう。

こんなこともあった。私たちは、シベリア捕虜として、炭坑などの重労働を強いられたが、そこで見た、ボーリング機械も、パワー・ショベル・カーも、ほとんどの機械は、米国製であり、食糧援助の粉末鶏卵など、戦争中のソ連の窮状ぶりが良く分かった。それこそ、丸抱えのように、米国製品が、ソ連に満ちあふれていた。そして、米国製機械のイミテーションのソ連製はすぐ故障して、使えなかった。

満ソ国境で、戦闘してきたソ連軍は、さすがに、大都市には入れなかった。ソ軍の幹部も、その殺気立った部隊を都市に入れたら、どんな混乱を生ずるか、良く分かっていたのだろう。

降伏した日本軍は、武装解除されたが、将校だけは、勲章をつけ、軍刀を帯びていることが許された。兵舎内に起居し、塀の外に、ソ軍の歩哨が立つ生活が、一カ月もつづいただろうか。

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

読売梁山泊の記者たち p.166-167 ソ連女性たちが物見高く集まって

読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」
読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

映画「ラスト・エンペラー」を、殊のほか興味深く見たのも、一つの国家が、ガラガラと音をたて

て、崩れてゆく瞬間を、目撃したからだった。大日本帝国のカイライ・満州帝国、建国十年の崩壊である。

そして、シベリアに列車が入ってゆくと、ハダシの子供たち、新品の軍服をほしがる男たち、布地を求めて集る母親——どちらが、戦勝国なのか、錯覚に陥るほどであった。

日本が敗戦国で、自分たちは軍事俘虜である、ということを痛感させられたシーンが、いまでも、思い起こされる。

長い貨物列車の旅が終わり、バイカル湖の西岸のチェレムホーボ収容所に着いた時のこと。将校だけ集められて、門外に長く待たされていた。まわりには、ソ連女性たちが、物見高く集まってきていた。

何の指示も命令もなく、何時間も待たされていた時、応召の内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。

「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」

「エッ?」

敗戦の日から、もう二カ月ほどが経ち、それこそ、落着いて物事を考えるゆとりなど、まったくなかったが、公主嶺の貨物廠から持ってきた、旧日本軍の備蓄糧秣のおかげで、三食白米の日本食だか

ら、健康そのもの、体調も良く、〝女〟などは考えも及ばなかった。が、〝去勢〟となると、人生の〝重大問題〟である。捕虜に対して、そんなことがあっていいものか、と、軍医の言葉だっただけに、ガク然としたものだった。

ずっとあとで分かったことだが、あの時の女たちが、私たちの誰、彼を指差していたのは、それぞれの好みで、「私はあの男が…」「イヤ、私ならアッチの男がいいわ」と、性的対象として、品定めをしていたのだった。

さて、「幻兵団」の裏付けとして、国警長官が国会で明らかにした、一連のソ連製スパイ事件を「鹿地(かじ)・三橋事件」と呼ぶ。つまり、鹿地亘に米ソの二重スパイを強要していた、米軍情報機関は、昭和二十七年九月二十四日付の「国際新聞」などに、英文の怪文書が掲載されたので、鹿地を釈放せざるを得なくなり、同年十二月七日、鹿地は新宿・上落合の自宅に帰ってきた。

外国の官憲が、日本国民を恣意に逮捕したり、監禁したりというのだから、人権問題はいまほどではなくとも、「反米感情」は高まる。そこで、米軍機関は、鹿地問題の〝火消し役〟に、かねてから〝二重スパイ〟として利用していた三橋を、国警(国家地方警察。自治体がもっている自治体警察の、所轄以外の部分をカバーする警察。現在は、この分類が廃止され、警視庁以外はすべて警察庁の所管)本部に自首させたのである。

同十二月九日、帝国電波株式会社技術課長三橋正雄(当時39)は、「私は、米軍による鹿地氏逮捕の

真相を、明らかにするために、自首してきたものだ」と、第一声をこういい放った。