『貴方は薬品会社にお勤めですか?』
——イ、エ、私は製紙会社です。
『この近くに食堂がありますか?』
——ハイ、この道の先にあります。
前の例は屋内で用いられるもので、会社の名前、あるいは営業部、総務部などの部課名でもそれぞれのケースで違ってくる。二の例は、戸外で用いられるもの。いずれも、薬品会社——製紙会社、食堂——先にある、という具合に受け答えが決まっている。
ハ、反覆式
『貴方は星澤さんを御存知ですか?』
『貴方は薬品会社にお勤めですか?』
——イ、エ、私は製紙会社です。
『この近くに食堂がありますか?』
——ハイ、この道の先にあります。
前の例は屋内で用いられるもので、会社の名前、あるいは営業部、総務部などの部課名でもそれぞれのケースで違ってくる。二の例は、戸外で用いられるもの。いずれも、薬品会社——製紙会社、食堂——先にある、という具合に受け答えが決まっている。
ハ、反覆式
『貴方は星澤さんを御存知ですか?』
ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう
と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。
少佐は半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシヤ語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳した。
『貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと、願いますか』
歯切れのよい日本語だが、私をにらむようにみつめている二人の表情と声とは、『ハイ』という以外の返事はは要求していなかった。短かく区切って、ゆっくり発音すると、非常に厳粛感のこもるロシヤ語で、平常ならば国名もエス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと正式に呼んだ。その言葉の意味することを、本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。
『ハ、ハイ』
『本当ですか』
『ハイ』
『約束できますか』
タッ、タッと息もつかせずにたたみ込んでくるのだ。もはや『ハイ』以外の答はない。
『ハイ』
私は興奮のあまり、続けざまに三回ばかりも首を振って答えた。
『誓えますか』
『ハイ』
しつようにおしかぶさってきて、少しの隙もあたえずに、少佐は一牧の白紙をとりだした。
『宜しい。ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい』
——とうとう来る処まで来たんだ!
私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。
『日本語ですか、ロシヤ語ですか?』
『パ・ヤポンスキイ!』(日本語!)
ハネかえすようにいう少佐についで、能面のように表情一つ動かさない少尉がいった。
『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。
『チ、カ、イ』(誓)
『………』
『次に住所を書いて、名前を入れなさい』
『………』
『今日の日付、一九四七年二月八日…』
『私ハソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス(ここにもう一行あったような記憶がある)
コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス。
モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス』
不思議にペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮が退いてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。
最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要がないことに気付いて、誓約書の文句も分らぬうちに、サインをさせられてしまったナ、などと考えたりした。
この誓約書を今まで数回にわたって作成した書類と一緒にピンで止め、大きな封筒に納めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。
『プリカーズ!』(命令)
私は反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——
『ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)一ヶ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿を作れ!』
ペールウイ(第一の)というロシヤ語が耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。
『ダー』(ハイ)
はじめてニヤリとした少佐が立上って手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立った。少尉がいった。
『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬよう』
ペールウイ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループがパンをバラまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフのもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。
そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と
私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。
そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と
私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。
私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩をガッシとつかんでいる赤い手のことを思い悩むに違いない。そして『……モシ誓ヲ破ッタラ……』その時は当然〝死〟を意味するのだ。そして、『日本内地ニ帰ッテカラモ……』と明示されている。
ソ連人はNKの何者であるかをよく知っている。私にも、NKの、そしてソ連の恐しさは、充分すぎるほど分っているのだ。
——だが待て、それはそれで良い。しかし……一ヶ月の期限の名簿はすでに命令されている。これは同胞を売ることだ。私が報告で認められれば早く内地に帰れるかも知れない。
——次の課題を背負ってダモイ(帰国)か? 私の名は間違いなく復員名簿にのるだろうが、私のために、永久に名前ののらない人が出てくるのだ。
——誓約書を書いたことは正しいことだろうか? ハイと答えたことは、あまりにも弱すぎただろうか?
あのような場合、ハイと答えることの結果は、分りすぎるほど分っていたのである。それは『ソ連のために役立つ』という一語につきてしまう。
私が、吹雪の夜に、ニセの呼び出しで、司令部の奥まった一室に、扉に鍵をかけられ、二人
の憲兵と向き合っている。大きなスターリン像や、机上に威儀を正している二つの正帽、黙って置かれた拳銃——こんな書割りや小道具まで揃った、ドラマティックな演出効果は、それが意識的であろうとなかろうと、そんなことには関係はない。ただ、現実にその舞台に立った私の、〝生きて帰る〟という役柄から、『ハイ』という台詞は当然出てくるのだ。私は当然のことをしただけだ。
私はバラック(兵舍)に帰ってきてから、寝台の上でてんてんと寝返りを打っては、寝もやらず思い悩み続けた。
『プープー、プープー』
哀愁を誘う幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は止んだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。
四 読売の幻兵団キャンペイン
しかし私に舞い込んできた幸運は、この政治部将校ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は次回のレポである三月八日を前にして、突然収容所から消えてしまったのである。ソ連将校の誰彼に訊ねてみたが、返事は異口同音の『ヤ・ニズナイユ』(知らない)であった。そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年 十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。
そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年
十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。
翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の集団入党のための代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた。
だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキに佇んで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は船中から海に投じ、或者は復員列車から転落し、また或者は自宅で縊死をとげているのだ。
私はこの謎こそ例の誓約書だと信じて、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮び上ってきたのだった。現に内地に帰っているシベリヤ引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。
そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。
彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。
こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即ちソ連のもつ暗さである——と斗う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。
このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると
一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。
二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。
三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。
四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。
五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。
などの状況が判断されるにいたった。
このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると
一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。
二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。
三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。
四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。
五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。
などの状況が判断されるにいたった。
私はこれらのデータに基いて、二十五年一月十一日第一回分を発表、それから二月十四日までに八回にわたってこのソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から曝いていった。この一連の記事のため、このスパイ群に〝幻兵団〟という呼び名がつけられた。
反響は大きかった。読者をはじめ警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも半信半疑であった。CICは確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴援護局の一部の人しか知らなかった。引揚者調査を担当した、NYKビルが、その業務を終ったときチェックされた「幻兵団」は七万人にも上っていたのである。
アカハタ紙は躍起になってこれをデマだといった。読売の八回に対して十回も否定記事を掲載し、左翼系のバクロ雑誌「真相」も『幻兵団製造物語』という全くのデマ記事をのせて反ばくした。その狼狽振りがオカシかった。だが、それから丸三年、二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件でこの幻兵団は立証されたのだった。
五 ソ連的〝間拔け〟
ラ事件の立役者の一人、志位元少佐はスパイ誓約の事実をこう述べている。
最後に四月の二十日過ぎてから私たちの分所に出入りしはじめたのが、モスクワのMVD(エムベデ)から来た大佐とその専属通訳の中尉であった。この大佐が大きな権力を持っていることは私たちにすぐわかった。
四月二十八日朝、大佐の呼び出しを受けて作業を休んだ私は、九時頃分所のオーペルのシュイシキン中尉の案内で本部に大佐を訪れた。大きな手を差し延べて挨拶をかわした後、大佐は上等な口付煙草(パピロース)「カズベック」を私にすすめながら、がっちりした体躯にも似合わない静かな声で口を開いた。
『ガスポジンS(Sさん)、今日はひとつゆっくりした気分で私とつき合ってください。私は、日本人のあなた方がどんな意見を持ち、どんな希望を抱いているかを知りたいのです。どうぞ率直に話してください……。そこでまずどうですか、ラーゲリの暮しは、なにか不満な点はありませんか?』
私は、ハハンかれは検閲官だな、それでこんなことをたずね、所長もかれを特別扱いにしたのだなと軽く考えた。
大佐は私の率直な返事に苦笑してしきりに紅茶を飲めと私にすすめながら、今度は話を飛躍させて世界情勢に移していった。
『あなたは戦後の世界情勢をどう考えられますか? また、それがどうなると思われますか?』
大佐はさらに 『それではあなたは戦争の原因をどう考えますか?』と、たずねた
身体を投げ出して逃れようとした人もありました。けれども無駄でした。汚されたうえに更に脅迫が続くのです。一人落ち、二人承知し、次々に恐しい誓約書を書いてゆきました。そし
て私もとうとうその一人になりました。
非生産的で、働らかざるものは食うべからずというので、私たちダンサー十五人は強制送還ということになりましたが、列車の停る度毎に、青帽子に青肩章の将校が、誓約書の念を押し、大連の出帆真際まで執拗に脅迫が続いたのです。
東京での仕事は、必ずアメリカの将校のくるキャバレーと決められ、情報収集が命令されました』
呟くような声で、和子の想夫恋は、るるとして続いていた。
『だけど、私にはあなたが生きているとは信じられなかったの。生きていてもシベリヤに送られれば、再び日本の土を踏めるあなたではなかったでしょう?』
四 バイラス病原菌の培養成功
もう一時間近く待っていた。地下鉄の赤坂見付駅の入口を一直線に見張れる弁慶橋のらんかんによりかかりながら、勝村は現れてくる筈の大谷元少将を張り込んでいた。キリコフとの連絡は必らずここが使われるのだ。
ホームへ降りる長い階段が、誰にも怪しまれず二人だけになれる絶好のレポの場所だ。今日は場合によっては、尾行して機会を狙って大谷元少将を誘拐する予定でもあった。婦人用の小さなコルトが、背広のポケットを心持ち重たくしている。
退屈まぎれに、もう読み終えた夕刊をもう一度ひろげ直した時、彼は首をかしげた。二段組の警察(サツ)種が何かおかしかった。
「生血を吸う四人組」という見出しのその記事は、十四日、谷中署では詐欺並びに横領の疑いで台東区浅草山谷三の二、第二十六号厚生館止宿、無職一色三郎(24)同関根道男(24)同東条境史(20)同浜野年久(30)の四人組を検挙した。調べによれば同人らは葛飾区本田立石町一三東京製薬採血工場の健康診断合格登録証二百枚を買集め、金に困っている浮浪者たちに貸し、二百CCの血液代四百円のうちから二百円をピンハネし、約五十万円を稼いでいたもの。なお同署では不潔な血による被害がなかったかを、同工場につき調査している。と、トッポイ四人組の悪事を報じたものだった。
勝村の眼は生き生きと輝き、最後の「なお同署では……調査している」というくだりをみつめていた。
五年前のシベリヤ。発疹チフスが荒れ狂っていたころ、重病人に無検査の輸血が行なわれて、生命は取り止めたが、身に覚えのない梅毒やマラリヤが伝染していった。——勝村はその恐しい事実を知っている。
『ウ、彼奴だ…』
脳症で小便樽に飛び込んだ男、あの濃い眉と険しい鼻の四十男の顔が、クラブ・ピジョンで みかけながら、どうしても想い出せなかった男の顔とダブッて、ピタリと重なる。
国内警備隊が、コルホーズ、工場、鉄道、都市各警備隊をもっているのでも、ソ連が並々ならぬ軍事国家であり、圧政を敷いているということが分るだろう。
赤軍には軍諜報部があり、その参謀部第四課が対外諜報の担当で、第二課が四課の収集した情報を整理分析する。この他、外務省、貿易省、党機関がそれぞれに対外諜報機関を持っており、或る場合にはそれがダブって動いている。
スパイ要員として特殊教育をうけた人たち、これがいわゆる「幻兵団」である。その適例として三橋正雄氏の場合はどうだろうか。山本昇編「鹿地・三橋事件」第四部「三橋の告白」の項に、彼のスパースクでの教育内容が具体的に書かれているから摘記しよう。
(二十二年二月ごろ、マルシャンスク収容所で〝モスクワの調査団〟にスパイ誓約書を書かされたのち)二十二年の四月でした。誰、誰と、名前を呼び出されました。その中に私が入っておったわけです。やっぱり前に希望した各地の日本人技術者なんです。
当時大体モスクワへ行くという噂が飛んでいました。そこから、客車に乗って一行八人でモスクワまで二晩ぐらいかかった。そうして四月の七日頃でしたか夕方モスクワの駅に着いたんです。それからモスクワの収容所に入れられたわけです。
モスクワの収容所は、部隊番号がわかりませんね。そこは日本人が千五百名位いた。主に兵隊で、
将校はいくらもいなかった。皆工場の作業に行っておりました。工場を建設しているんですね。ジーメンス、それからツアイスなんかの設備を、どんどん運んでいるようでした。ドイツのいわゆる技師も家族をそっくりつれて来ているんです。なかなか優遇されているようでした。
そこの収容所に、六月二十四、五日頃、隊長格の男がやって来たんです。我々八名の人間を、順番にやっぱり調べたんです。最初はそういう身上調査、二日目にはいろいろ貿易などについての雑談をやった。隊長は、あなた日本へ帰ってから、私のほうと取引をやりませんかと言いましたが、私は又、貿易でもやらしてくれるのかと思ったんです。
その次の三回目に、いよいよあの話が始まったんですよ。『どんな仕事ですか』『いろいろソ連の代表部と、ソ連本国との通信をやってくれ。設備は非常に小型な機械ができておるし、それから絶対発見される心配はない。通信プログラムはうまくできておるから、やるたびに波長が変るし、呼出符号も変るし、時間も変る』と、そのときの経緯は大体公判廷ですっかり述べましたがね。誓約書を書いてくれと言うので、向うに言われる通りに書いて署名したんです。
それから、いわゆる七月の三日か四日、松林の家に移されました。ちょっとモスクワ駅から四十分ぐらいのところの小さな田舎町で、そこの松林の中の建物というのは、部屋が十幾つあった立派な建物ですが、木造で中がなかなか豪華なものでした。岩崎邸みたいな感じでした。松林の中にあるから、特殊な秘密目的の要員勤務のものを教育するところだったかも知れません。
だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。
私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません。」と、私自身の手で書き、署名さえした。〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「…もし、この誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。
モスクワから来た中佐
『ミー夕、ミータ』、兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。
北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。
もう一週間も続いている深夜の炭抗作業に、疲れ切った私は、二段べッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。
――来たな! やはり今夜もか?
今まで、もう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながらに上半身を起した。
『ダー、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)
第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。
作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。
私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。
モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス。』
不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。
最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと、考えてみたりした。
この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。
『プリカーズ』(命令)
私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——
『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』
ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。
『ダー』(ハイ)
『フショウ』(終り)
はじめてニヤリとした少佐が、立上って手をさしのべた。生温い柔らかな手だった。私も立上った。少尉がいった。
『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように』
眠られぬ夜
ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。
そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令……と、私には終身、暗いカゲがつきまとうのだ。
私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後からガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。
ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。
——これは同胞を売ることだ。
ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。
——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!
——或は、私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。
——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。
——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。
——誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。
——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?
——大体からして、無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。
——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。
私はバラツキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。
『プープー、プープー』
哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。
幻兵団物語
チャンス到米
このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイの暴露をやってのけられたのだろうか。
私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。
ソ連将校の誰彼にたずねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。
不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊の帰ってきた、静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。
夜があけはじめたのであった。三月八日の夜が終った。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終った。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。
私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカでダメ押しのレポも現れないまま、懐しの祖国へ帰ることができたのであった。
そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。
そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。
私はこのナゾこそ例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿がボーッと浮び上ってきたのだった。
やがて、参院の引揚委員会で、Kという引揚者がソ連のスパイ組織の証言を行った。その男は、「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて「日本新聞」の編集長にまでノシ上った男だった。
しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。
記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。
『チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう』
『何をいってるんだ。今まで程度のデータで、何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか』
若い私はハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。
魂を売った幻兵団
すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。
そして、同時に国会も担当して、吉村隊や人民裁判と、引揚関係の委員会も探っていたが、二十四年秋には、国会担当の遊軍に変って、いよいよ、ソ連スパイの解明に努力していた。
その結果、現に内地に帰ってきているシベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされた、と信じこんで、この日本の土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになった。
そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあった。
さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの、勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。
このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記
生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。
ラストヴォロフはその手記で、『この五人を一人ずつ、他の者にわからないように、買収しにかかった』と述べているが、やはり当時の関係者の談話を綜合してみると、ラ氏手記は若干違うようである。
新日本会そのものの出発は、ラ氏手記にあるような目的だったらしい。ところが、結成後の会の運営は、「ソ連側に協力する」という方向へすすみつつあったので、これはイカンと云い出したのが大隅氏で、リーダー格の渡辺氏と論争ばかりしていた。これをマアマアと大隅氏をなだめて、「協力」の方向へ一致して進もうとすすめたのが、日暮氏だという。するとラ氏のいう『他の者に分らないよう』というのは少しズレている。少くともこの五人のメムバーはその任務について論じ合っているのだから。
ところが、さきほどの佐藤大使召喚の説である。これによると、大使はソ連側に呼ばれて、〝協力を要請〟された。平たくいえば、スパイになるか、或は部下からスパイ要員を出せということだ。
これに近い例は、シベリヤ捕虜でも、常に連隊長、大隊長などの最高責任者に要求し、応じなければ長以下全員を苦しめる。そこでその長が屈服して要求に応ずるということだ。第集
の幻兵団の、山田乙彦獣医大尉の大隊が悪条件の伐採に出され、山田乙彦大尉は部下のために誓約したのなどもその例である。
大使は困って、帰館してから腹心の日暮書記生を呼んで、因果を含めて「協力」させ、新日本会全部がその方向に向ったという説である。佐藤尚武氏は参院議長もやられた外交界の大長老であるから、失礼にならぬよう〝説〟と申上げるが、日暮、庄司両氏が逮捕されたときには佐藤大使の身辺危うしの説が流布されていたのは事実である。
そして、大隅氏が説得されて、新日本会の方向が「対ソ協力」と決定されてから、軟禁されていた日本人たちの行動の自由が恢復し、街へ買物にも行けるようになってきた。そこでスパイ誓約書の署名などという、ソ連式儀式が行われたかどうかは知らぬが、私がスパイになることを承知してダモイできたように、この外交宕たちも敗戦の犠牲となったのであった。 果して、帰国後、佐藤大使以下のモスクワ駐在日本人たちのうち、誰と誰とに合言葉のレポがあったかは、私には分らない。ともかく警視庁の捜査当局は、新日本会の会員(?)であった日暮、庄司両氏だけを逮捕したのであった。もちろん他の人々、公務員も民間人も、参考人として任意に出頭して、或は泣きながら、或はオドオドしながら、当時の事情を供述し、その止むを得ざりし環境を釈明したのであった。
これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉
らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。
一例をあげよう。第三軍中佐参謀だった細川直知元侯爵は二十五年一月エラブカ、ハバロフスク経由で引揚げてきた人である。氏はスパイ誓約書に署名をしなかったので、いわゆる幻兵団には入らないが、エラブカではクロイツェル女中尉にしばしば呼ばれ、また〝モスクワから来た中佐〟にも呼ばれていた。
帰国後のある日、同氏は、NYKビルに呼ばれて取調をうけた帰途、ブラブラ歩きで日比谷の三信ビルの角までやってきた。そこへ二十五才位、小柄で色白、可愛いい型の黒ずくめの服装の女が寄ってきた。彼女は歯切れのよい日本語で話しかけたので、日本人らしかったが、ともかく東洋人であることは間違いなかった。
『あなたはエラブカの細川中佐ですネ』
『そうです』
『一寸お話したいことがあるのですが、そこらまで付合って頂けませんでしようか』
『宜しいでしよう』
誓約をしなかった同氏は、もちろん合言葉も与えられなかったし、相手が割に美人でもあったので、何の懸念もなく気軽に応じた。二人は三信ビルの裏を廻って、日比谷映画劇場と有楽座の前にあった日東紅茶のサービスセンター(のちにCIE図書館となった)に入って一休みしながら話し合った。
彼女は品もあり、話し方も淑やかだった。
『私はあなたに仕事をお願いしたいのですが、如何でしようか』
といいながら、小型の女名刺を差し出した。それには「山田葦子」(特に仮名)とあった。細川氏は不審気に反問した。
『ヤブから棒に一体どんな仕事なのです』
『それはやって頂いているうちに分りますわ。もし、お願いできるんでしたら……』
彼女はそういいながら百円札を五十枚、五千円をソッと差出した。細川氏は意外な彼女の態度に驚きながら返事もできずにいると、彼女はキッと形を正して、低く鋭い声でいった。
『どうしても協力して頂けないのなら……』
彼女は終りまではいわずに、あとは黙って膝の上のハンドバッグを開けると細川氏にその中身を示した。
黒い小型のコルト拳銃が一丁、その持主の美しさにも似ず鈍く輝いていた。細川氏はうなずいた。彼女は納得して『では、次の連絡は私の方からとります』と告げて、その日の二人の出
会いは終った。
村上氏の緑十字運動参加は、父君の関係もあって自然に行われた。村上氏のシベリヤ・オル
グとしての使命は、ソ連側の人選が高良女史を適任と認められてから与えられた。女史は村上氏の演出する環境下に欣然として入ソした。
女史は入ソ後にある使命を与えられた。その与えられ方は幻兵団のスパイ誓約署名と同じく拒み得なかったであろう。そして比喩的な表現をすれば、女史は初めて自分は〝猿〟で、秘書という名の〝猿廻し〟がいることに気付いたであろう。女史はその環境下でこれを自分の政治的立場に転用することを図って成功した。しかし村上氏への憎悪は消えない、と同時に自己の秘密を握る同氏を恐れた。
村上氏は「人間変革」を完成した人物である。彼には強い圧力で口止めが行われた。母堂の母親としての吾が子への愛情は深く、若干部分の秘密が母堂へだけは洩れた——?
話は前へ戻ってアルバート・リー氏にもう一度御登場を願わねばならない。「高良女史とナゾの秘書」を書いて数ヶ月後。「東京租界」キャンペーン記事の第十回分「諜報機関」にこう書いてある。
上海の租界にはかって各国の諜報部員が姿を変えて忍び込んでいたことは、日本の陸海軍の例を見ても明らかである。東京が租界的様相を呈しているとすれば、同じことが当然あると思われる。
国警、旧特審局、警視庁がお互いに得た情報を交換して、東京を中心にした在日中共組織の実態を組立てた極秘文書がある。
その中に中共の在日組織は人民革命軍事委に直属するものと、華南軍政委に直属する二つの非公然組織があるとされ、後者の対日責任者は頼洸(在広東)で日本には林美定という人物が特派され、林は部下に姚美戈(京大卒)を持ち、姚はさらに閻西虹(法大卒)という男を使っており、この姚と閻とに資金を提供しているのが目黒区上目黒八の五七六に住む廖伯飛ともう一人中国系米人アルバート・リーだといわれる。以上は極秘の公文書だがこれを一応信頼出来るものとして調べあげ、東京の租界的様相の一典型として読者の判断の資料とした。
警備当局の連中がいま最大の関心を持って知りたがっていることはモスクワ経済会議に呼ばれた高良とみ、帆足計、宮腰喜助氏らに費用の一部を提供したのが、アルバート・リーではなかったかという漠然たる疑いである。
警備当局の言い分によると、話は少し大ゲサだが蒋介石と対立した浙江財閥の孔祥煕が中共ヘ寝返るため大番頭の冀朝鼎を中共政府に派し、自らはアメリカに逃げた。冀朝鼎は現在中共政府に用いられて北京中国銀行総裁となり、中共代表団が国連総会に呼ばれたときも随員の一人になった。一方孔祥熙はアメリカで揚子公司を創設したが、これは中共へ送り込む戦略物資 の買漁りをやったためアメリカ政府によって閉鎖させられた。