一 七変化の〝狸穴〟御殿
三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま
ぐるしく進みつつある。
この事実は二十七年五月三十日に日本政府が代表部に対して行った、「講和発効後存在の法的根拠を失った」旨の正式通告を否定して、存在を認めるという事実上の承認にもひとしいことである。
この〝変転〟も、太平洋戦争以前に、さかのぼってみてみると、まさに七変化の〝狸〟である。まず戦前は正式な外交関係があり、大使館として認められていたことは、いうまでもあるまい。
だが、戦争ぼっ発と同時に、米英の連合国側大公使館は敵産として管理され、独伊は同盟国として、ゾルゲ事件が起きたほど寬大な自由を得ており、終戦直前まで中立国であったソ連大使館だけは、〝自由+監視〟という、まさに〝狼+羊の皮〟といった中途半端な立場におかれていた。そしてついに狼は羊の皮をカナぐりすてて本性を現わしたのであった。中立国の大使館は三転して敵産になると、アッという間もなく、対日理事会駐日ソ連代表部に変った。この期間がすぎたのが、二十七年四月二十八日の講和発効と同時の、対日理事会の消滅の時からである。
五度変って「元」ソ連代表部となった。これは日本政府がその存在を認めず、外交上の恩恵
によって、あえて退去強制をしないということからである。従って電話帳でも、「モ」の字の項に配列されたのである。
それが今や「事実上のソ連代表部」となった。やがて近い将来に、再び大使館にもどって、その七変化を終るに違いない。
また対日理事会時代の内容は、日本側にとって全く分らないのは止むを得ないのだが、最盛期には家族も含めて約五百人はいただろうといわれている。
その維持費はすべてPD(占領軍調達命令書)でまかなわれていたのであるから、つまり日本政府の負担だったわけである。これを二十五年度でみると、四千二万、六千七百六十円で、各国代表部中のナムバー・ワンであった。
シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)
部員の洗濯代 五一〇万・〇円
自動車維持費 五三二万・〇円(四十台)
家具購入費 一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代 二二八万・六一八八円
印刷製本代 二二七万・四八〇〇円
事務需品代 四二五万・六〇〇〇円
フィルム代 一万・九五七二円
衣服仕立代 二五一万・五二〇〇円
家具修繕費 五一〇万・〇円
製パン費 七二〇万・〇円
合計 五一五三万・四七六二円