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正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。

といっても、私は暴力団の一味ではない。反対に、警視庁が指名手配した五人の犯人たちを、我が手で一網打尽にして、一大スクープをものしようと考え、まず、その一人を捕えたのが、「犯人隠避」罪に問われたのであった。

それからまた、浪々の身となる。愛する女を、愛するが故に諦める。あの、男の心意気である。私が退社せねば読売に、〝惚れた〟読売に迷惑がかかるのだ。

そして十年。諦めた女は、大家の奥様となって、その家風に馴染み、好むと好まざるとにかかわらず、昔のおもかげすら見出せない違う女に変っていった。しかし、それが〝女〟(新聞)の宿命なのである。

私は、私を産み、私を育ててくれた、母なる読売新聞の、その昔のおもかげを求めて、昭和四十二年の元旦から、自力で小さな新聞「正論新聞」を発行した。そして、その新聞はいま育ち盛りなのである。

読売を退社して、私ははじめて、新聞を客観的にみつめる〝眼〟を持った。そこには、矛盾もあれば、過誤もあった。科学として体系づけられた「新聞学」が、新聞の実態の変化に追いつけないほどの、変移すら起こっていたのである。

こうして私は、読売新聞への私の愛情、大きな意味での、新聞への愛情に駆りたてられて、小さな「正論新聞」での実験的試みを通しながら、新聞の体質の変化をまさぐり、〝生きている新

聞論〟を執筆しよう、と考えるにいたった。それが、「正論新聞」に連載している「現代新聞論=読売新聞の内幕」である。すでに、「朝日新聞の内幕」は、昨年秋から、月刊誌「軍事研究」に連載ずみで、読売のつぎは毎日へと続く予定である。

さて、本筋へもどって、なぜならばの項に入らねばならない。

なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。しかも、プロ野球があれほど多くのスポーツ紙を興隆させ、テレビもまた花盛りで、スポーツ面、テレビ面が、全新聞紙の主要頁になっている現状をみる時、その人を葬送するのに読売新聞が全紙面を埋めても、何ら奇異とするにあたらないからである。

奇異とするに当たらないばかりではない。読売のつい先ごろまでの、いわゆる〝正力コーナー〟なる紙面を考える時、そして、読売の今日の隆昌を見るならば、「社主」と自ら呼号した正力松太郎のために、最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟をつくってあげることは、人間社会の礼儀として極めて自然なことであるからだ。そしてそれが、正力松太郎という偉大なる新聞人の、桎梏から解放された読売人としての、最後のおつとめではなかったか。

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 私はただ一人で正力さんから辞令を頂いた

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある
正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

私が今日こうして、一本のペンをもって、口に糊することができるのも、読売新聞あればこそであり、その読売の先輩、同僚諸氏の薫育指導、切磋琢磨のおかげである。しかし、それは私情である。私情、私生活では、先輩として礼を尽くし、敬愛するところがあっても、新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質があるのだが、それは、後述することにしよう。

そして、私は私なりに、この書のはじめで、正力さんへの追憶の一文を捧げたいと思う。

正力〝社長〟の辞令

ちょうど工場へ入稿の日、ニュースが正力さんの、突然の訃を伝えていた。私は徹夜で原稿を書いた朝だったが、一瞬、ハッとして筆を止めてしまっていた。

——私が、正力さんの追憶などを書くのに、その任でないことは明らかである。だが、入稿の日だったので、どうしても、書かないではいられない気持になって、全二段の広告欄をはずし、そこに、この原稿を入れる手配を取ってしまっていた。

昭和十八年十月一日。戦争中の半年の繰りあげ卒業で、九月に卒業した私は、月末の数日を郷里の盛岡市に遊んで、三十日夜の列車で上京した。ところが、十月一日からのダイヤ改正で、真夜中になると、列車は時間調整のため、途中駅で停ってしまった。一日朝九時からの読売の晴れの入社式には、どう計算してみても間に合わない。一応、電報だけは打とうというチエは浮んだ。

社に着いたのは、もう十時を回ったころだった。岡野敏成人事部長に伴われて、私はただ一人で正力さんから、辞令を頂いた。「見習社員ニ採用、社会部勤務ヲ命ス」とあるその辞令は、スクラップ・ブックに貼られて、今でも手許にある。

そのまま、社会部にいって、電話取りから始まったのだが、その当時のことを、私が読売を退社した昭和三十三年十二月に出した「最後の事件記者」(実業之日本社刊)には、こんな風に書いている。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 正力さんに必死の想いで手紙を

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた」

日大を出る時、私はNHK、読売、朝日の三社を受験し、朝日だけ落ちた。NHKには「採用辞退届」というのを送って、読売をえらんだのだった。そして、読売をえらんだことは、入社してみて、誤っていなかったのだと、自信を固めていた。

正力さんとは、口をきいたのは、辞令を頂く時の一言、二言だけだった。それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

高木健夫さんが、「読売新聞風雲録」に書かれている「社長と社員」を読むと、正力さんの人柄が大変に偲ばれる。昭和三十年春に出たその本を、私は警視庁記者クラブ詰め時代に読んだものだが、その先輩たちを羨しく感じた。

昭和十八年ごろの正力さんは、まだ高木さんの書かれた通りの、〝正力さん〟だったろ うと思う。それなのに、入社早々の私には、先輩たちのような、正力さんとの〝交情のものがたり〟がないからだ。

昭和二十二年秋、復員してきた時には、正力さんは巣鴨で、しかも、銀座の本社は戦災の復興中。読売は、今の読売会館、有楽町のそごうデパートの場所にあった報知の建物に入っていた。私の顔を覚えていてくれた竹内四郎社会部長が、「オーッ」とうなって「社会部はココだ」とばかりに、手をあげて呼んでくれただけであった。

やがて、出所はしてこられたのだが、公職追放。読売は社主という立場で、以前のように、編集局の中央に立って、「誰彼れとなく話しかけ」る状態ではなくなっていた。私と正力さんの距離はさらに遠くなり、たまさか、社の行事や日本テレビ関係の取材で、身近くいることはあっても、高木さんが書かれたような〝正力さん〟ではなかった。

社会部の記者たちの間でも、ある時は〝ジイサマ〟であったり、ある時は〝ジャガイモ〟であったりした。もはや、〝正力さん〟ではなかったのである。

昭和三十三年に社を去った私ははじめて「新聞」を、そとからながめる機会に恵まれたのである。そしてまた、「読売」をも、その眼でみつめたのだった。昭和四十年の秋、私はいたたまれない想いで、いわゆる〝務台事件〟後の読売の現況を憂えて、「現代の眼」誌に、読売批判の一文を草したのである。これが、現在の正論新聞創刊の動機ともなるのであるが、私は〝遠くなった〟正力さんに必死の想いで手紙を書いたつもりであった。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正力の読売」への愛情

正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。

さる八日の夕方、亡くなられる前日のことである。私は本社で、務台副社長におめにかかっていた。フト、思いついて、正力さんのご様子を務台さんに伺った。

「元気でね。私なども会いにゆくと、引き止めて仕事の話だ。しかし、人にあったあとがあまり良くない。だから、医者は面会させたがらないのだが、本人は元気だから、人がくれば引きとめる。……面会謝絶といえば、それでは悪いのだろうと思われる。だから、困るのだが、お元気だよ」

私は、その話で、〝会いに行きたい〟という気持が、わき起ってきた。虫の知らせというのだろうか。

私のは、〝会いたい〟ではなくて、〝見たい〟だったのかも知れない。あれほどの人物をそばで見るということは、それだけで影響されるなにかが、私に残されるから、私はそれがほしかったのだろう。

務台さんとのその会話から、十時間ほどで、正力さんは息を引きとられた。〝遠い〟と思った正力さんが、「現代新聞論」を書きはじめてから、私の「正力の読売」への愛情が、正力さんに通じたのであろうか。ともかく、何万、何十万人という読売関係者の中で、私が一番身近く正力

さんの健康を案じた人間だった、と信じている。

「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。一世紀にも近い、その生涯で、何百万人、何千万人もの人々の胸の中に、なにかを与え残して、神去り給うたのだった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 正力亨氏へのホコ先

正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでない
正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでない

編集手帖なしの読売

私が、亡き正力さんについて語るのに、決して相応しくない、ということは、さきほど述べておいた。

事実、それだけの接触がなかったのだから、それは当然であろう。しかし、思いたって「現代新聞論」と銘打ち、私なりの新聞批判を書こうとし、正力松太郎という人物を調べてみると、これは、まさに「偉大なる新聞人」であることに、異議はさしはさめないのである。読売新聞の、現実の姿がそこにあるからである。

ここで、ハッキリさせておかなければならないのは、一人の新聞記者、もしくは、〝物書き〟として、正力松太郎という新聞人の事蹟を評価し、批判することと、一個人としての私が、正力松太郎に私淑することとは、あくまで別個の問題であるということである。

同様に、現在、読売新聞を率いている、務台光雄代表取締役に、私が個人的に敬意を表することと、読売新聞批判という立場で、務台副社長を論難することとは、全く別の次元の現象なので

ある。

私のもとに、一通の投書があった。それによると、私が「軍事研究」誌に連載していた「読売論」は、「大雑把な印象としては、故人となった小島文夫氏や、いま読売に発言力のない正力亨氏へのホコ先がきびしく、いま権勢を極めている務台代表や、原四郎氏へ〝ベタベタ〟という感じが露骨です。〝力が正義〟というなら話は別ですが……」と、いうのである。

最近の私は、私の主宰する小新聞「正論新聞」の販売に関して、務台代表に教えを乞いに行くことなどもあって、面談の機会がままある。いつも私は、第一番の挨拶に、「小僧ッ子が、小生意気なことを書きなぐりまして、誠に申しわけありません」と、務台批判の非礼について詫びるのだが、務台は笑って、「いやあ、批判は批判ですよ」と、私のわがままを認めている。

つまり、私としては、公私のケジメはそんな形でつけているのだが、前記の投書にあったように、〝正力亨氏へのホコ先がきびしく〟とみて、私の正力松太郎批判もまた、〝反正力〟と、受け取る人物が少なくない。

新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。

大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに

は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 〝小さな〟異変があった

正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。

新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。

大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに

は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。

私が、「大正力の死」について、追憶を述べるのには、人を得ていないといったのは、そんな形での、感覚的な(触覚的なというべきか)接触がなかった人間だから、という意味で、前述した通り、大正力の遺したなにかについて書くならば、十分に書ける立場であったのである。

さて、本論に入って、十月十日付、つまり正力死去の翌日付の読売朝刊五版(注。夕刊が一版から都内最終版の四版まであるから、五版というのが、東京読売がつくる朝刊の第一版ということになる。朝刊は、この五版から都内最終版の十四版まである)に、〝小さな〟異変があったのは、東京の読者では気付かれなかったのが当然であろう。

この五版というのは、東京本社管内で、一番遠隔地に配達される新聞だから、青森とか名古屋だとかに行く新聞である。その五版の一面下、読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。

調べてみると、この欄のコラムニストは、〝大正力の死〟について、その追悼文をまとめてきて、提稿したのであったが、編集幹部の意向で、「アイツが、正力の追悼を書くなんて、オコがましい」という声もあって、ボツになり、急いで別のテーマで原稿をまとめて、六版の〆切に間に合わせたらしい、ということが判った。

彼は戦後の入社だから、私以上に正力について語るべき、〝触覚的〟接触は少なかったろうと思う。しかし、このコラム休載という事件は、極めて示唆的であった、と考えざるを得ない。

つまり、彼コラムニストとしては、〝大正力の死〟の翌朝刊の紙面構成は、当然、大々的な正力追悼号になるであろう、と判断したに違いない。従って、その日の編集手帖としては、正力をテーマとすべきである、と、考えるのが、これまた理の当然である。

例えば、朝日新聞の社会面が、「板橋署六人の刑事」入浴事件を、〝独占的〟に華々しくやれば、「天声人語」もまた、筆を揃えてその責任を追及する、というのが、最近の大新聞の〝綜合編集〟なる紙面構成の常だから、「六人の刑事」事件のように、自社社会面が歪報で構成されていても、コラムはその真否をたずねることなく、オ提灯を持たされるのが、習慣となっているのだった。

その限りでは、「編集手帖」子の判断は正しかったハズであり、彼を迎合的であると非難するのは酷であった。最近では、コラムニストとはいっても、〝老妻〟や〝外孫〟などをテーマに、身辺雑記をつづってはおられなくなったし、組織の中の、月給取りコラムニストなのが、現実の姿なのだからだ。

私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟

であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。

私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力という〝重石〟がとれたので

正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。

私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟

であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。

私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。

「正力さんが亡くなられて、いろんな形の〝異変〟が、早くも起りはじめた。

第一番に感じたのは、読売の葬儀その他の記事の扱いが、極めて地味だったということ。第二には、亡くなるのを待ちかねていたように、日本テレビの粉飾決算が問題化したこと。第三には、週刊誌がまったくの興味本位に、いわゆる〝跡目争い〟なるものを書きはじめたこと、などなどである。

私はかつて、昭和四十年ごろの〝正力コーナー〟(注。読売紙上の正力関係記事のこと) 華やかなりしころに、『紙面を私するもの』と、批判したことがあった。このような社内外の批判から、やがてコーナーは姿を消したのだった。

しかしいま、この偉大なる新聞人を葬送するとき、読売が特集グラフを組み、参列者氏名を掲げ、コラムで追悼し、といった、大扱いをしないことに、フト、一抹の寂しさを感じた。

『社主・正力松太郎』の死亡記事として、読売のあの扱いは、妥当であり、良識の線を守ったものであろう。他紙誌の扱い方は、過小の感があったけれども、それは、私の〝私的な感情〟かも知れない。

しかし、解せないのは、日本テレビの粉飾決算の摘発である。大蔵省は『過去四年半にわたり……このほど調査で判明』(毎日紙)というが、その〝調査〟は四年半もかかるものであり、ホントに〝このほど判明〟したものなのだろうか。正力という〝重石〟がとれたので、欣然として発表した感が残る。

週刊誌もまたしかり。私をたずねてきた某誌の若い記者は、『臨終には〝愛人〟が付き添ってたといいますが、ホントでしょうか』ときく。この下品なノゾキ趣味! 相手えらばずの、貧しい取材力は、週刊サンケイ、週刊ポストなどに、掲載された記事でも明らかである。

正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。

解放感もあろう。しかし、あまりにも、わざと過ぎまいか」

〝フト、一抹の寂しさ〟を感じたのは、私自身の〝私的な感情〟であったことは、認めるのだが、「編集手帖」の休載が、〝重石のなくなった解放感〟でなければ、それでよい。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 〝紙面で勝負〟する新聞だった

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

この「現代新聞論」の取材を進めながら、私は「現役を去って十年。この十年間に新聞は大きく変った」と、感じたのだったが、正確にいうならば、昭和三十年代の十年間に大きく変り、さらにまた昭和四十年代の十年間に、もっと大きく変ろうとしていることに、気付いたのである。

例えば、後述するが、元朝日新聞記者の佐藤信。退社した朝日の内情を、〝感情的〟にバクロし、同僚、上司を口を極めて罵倒した著書を公刊して、話題となった人物である。

この佐藤信のような、〝奇特の言行〟を旨とする記者が、昭和三十年代の十年間に、社という組織からハミ出るか、組織の中に埋没してしまうかという現象が、私の指摘する第一次の大きな変化である。新聞の均質化、個性放棄の時代である。

事実、彼の二著を読んでみて、新聞記者であるならば、あえて、〝奇異〟とするに当らない事実が書かれている。少くとも、昭和三十年ごろまでの新聞は、〝紙面で勝負〟する新聞だったのである。戦後のタブロイド版からブランケット版(大判)二頁、四頁、六頁と、次第に頁数を増し、朝刊紙は夕刊を出して、朝夕刊セットとして伸びてきた新聞の争いは、「紙面」であった。

紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。紙面は他社との比較の上で、担当記者の実力を一眼で、誰にでも判断させた。こうして、才能のある者、

学のある者、チエのある者は、学歴や年齢や、入社年次に関わりなく、自然に重きをなしたのであった。

何よりも不都合なことは、取材、執筆という記者の仕事は、穴掘りや帖面付けと違って、職制が命令したからといって、一定時間が経過したからといって、完了し、完成するものではない。だから、能力のない者が、能力のある者を、〝使う〟ことができないのだ。先輩だからといって、後輩に、〝指図〟できないのである。

「何某さんは旅行中です」「まだ調査が終りません」——これらの言葉で、やがて〆切時間が来てしまう。合法的に、反抗もサボタージュも可能だったのである。

佐藤信の二著は、どこの新聞社でもあることを、多少、誇張した表現ともとれるが、また、人間関係の微妙さを無視した形で、活字にしたに過ぎない。活字以外に、クチコミでならば、どこででも、平然と語られていることである。無能な先輩やデスクをコケ扱いにし、酒のサカナにしたり、喫茶店でのダベリに持ち出すのは、記者にとって、日常茶飯事であった。

私のいた読売でも、三十歳を出たばかりで次長に登用された記者が、末席の若僧のクセに、先輩次長たち、十歳も年齢の違う人たちを、すべてクン付けで呼んでいた。クンと呼ばれた先輩たちの胸中は如何ばかりであったかは別として、彼がクンと呼ぶのを聞いた私たちカケ出しは、彼の態度の大きさに、少しも不自然さを感じなかったのも事実だ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 各社の〝奇特の士〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。
正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。

そしてまた、実力のある部長、すなわち、実力故に尊敬せざるを得ない先輩に、怒鳴られる時のおそれたるや、これは全く、並大抵のものではなかった。——紙面の優劣が、新聞の評価となり、そして、販売部数にそのままつながる時代は、記者の質と量との戦いの時代であり、記者自身の〝個性〟の戦いの時代でもあった。

〝読売の三汚な(サンキタナ)〟の筆頭にあげられたA記者。慶大卒の富裕な家の息子でありながら、妻子をよそに社の宿直室住いで、都庁クラブ在勤中に、安井都知事の招宴が東京会館で催された折に、受付で浮浪者と間違えられて、断られたほどの人物。また、K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。クラブばかりではなく、その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。

朝日とて例外ではない。私とサツ廻りの同じ矢田喜美雄記者は、上野のパンスケの一人を、一カ月余りも自宅に引取ってやった。毎日が「百万近い現金を貯めこみ身につけている」と、雑記帳欄の記事にしたため、公園での客引き中に襲われたのに同情したからである。彼は下山事件が起きるや、東大法医学教室に〝住込〟んで詳細なレポートをモノした記者である。

さきごろ、NETテレビの取締役として、下り坂のモーニング・ショウに活を入れようと、陣頭指揮していた三浦甲子二は、政治部次長時代にこんな伝説を生んだ。筆頭次長の上に新任の部長、岡田任雄(前出版局長)が着任した。この人事に不服があったらしい。三浦は次長の身で、

部長を自宅に呼びつけた。何事かと赴いた客間の部長に対し、三浦はカラリと次の間のフスマを引いた。すると、そこには、政治部員十八名が勢揃いして、三浦〝 親分〟擁立の気勢をあげた、という。

この〝伝説〟について、ゴ本人に確めてみると、「誤伝ですよ。有楽町のバーで部長と出会い、帰途が同方向なので、同車した。通り道の私の自宅に寄っていった、というのが真相」という。しかし、政治部次長からNET重役という実績は、この〝伝説〟にふさわしい〝怪物〟ぶりである。私の単刀直入の質問に、否定したあと、思わず彼は呟いた。

「朝日には、そんな伝説を作り出す風潮があるのです」と。

朝日新聞ならずとも、各社の〝奇特の士〟は、あげればざらにある。才能があり余って、組織からハミ出した孤高な男、実力ゆえに敬遠されて、他の組織に放出された〝怪物〟、実績がありすぎたためか、組織に〝軟禁〟された大記者。この三者三様のあり方が、良きにつけ、悪しきにつけ、「新聞」の人材の処遇を物語っていよう。

このように、多くのエピソードに彩られた人物群像が、新聞を〝作って〟いた時代は、すでに過去のものとなった。

そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。

昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、 夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 日本の新聞は戦争によって発展

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。

そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。

昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。

正力なればこその「社主」

ここで、三社の簡単な社史をべっ見しなければなるまい。

朝日新聞社は資本金二億八千万円。大阪、東京、西部(小倉)、名古屋の四本社、北海道支社。明治十二年大阪で第一号創刊。同二十一年「めざまし新聞」を買収して、「東京朝日新聞」として東京進出。昭和十年、西部、名古屋両本社設置、昭和十五年、現題号に統一。大株主は、村山長挙、一二%、村山於藤、一一・三%、村山美知子、八・六%、村山富美子、八・六%、(村山一族合計四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%、(上野一族合計一九・五%)

となり、六氏六〇%を占める。この数字は、私の手許の資料で昭和三十五年以来変っていない。

毎日新聞社は資本金十八億円。大阪、東京、西部(門司)、中部(名古屋)の四本社。明治十五年、日本憲政党新聞として大阪で創刊、明治二十一年大阪毎日新聞と改題(朝日の東京朝日発刊の年)明治四十四年、東京日日新聞を合併した。昭和十年、西部、中部両本社開設(朝日と同年)。昭和十八年現商号となり、題字を東西ともに毎日新聞に統一した。

読売新聞は明治七年創刊。昭和十八年報知新聞を合併、読売報知となる。昭和二十一年、報知を夕刊紙として分離、現題号に復題。昭和二十七年大阪進出、同三十四年北海道進出(朝、毎とも同じ)同三十六年、北陸支社開設。正力松太郎社主が、警視庁を退官して部数三、四万でツブれかかった読売を松山忠二郎から買い取ったのは、大正十三年だが、務台光雄副社長が請われて入社したのは昭和四年だから、現在の読売新聞の社史をいうなれば、この時期からとみるべきである。

こうして、三社の小史をひもとけば、戦前からの、朝日、毎日の二大紙対立時代は、容易に理解できよう。そして、戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、読売もようやく、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられたのであった。この事実をみても、日本の新聞は、戦争によって発展し、成長してきたことが明らかである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 毎日は極めて〝健全〟な会社

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

戦後、東日本を地盤とする読売の部数に加えて、二十七年に大阪進出が成って全国紙の形を整えたことで、ついに念願の三大紙時代になったものである。読売は、その後も、九州に進出、地元紙と朝毎に押えられた名古屋をさけて、正力の郷里高岡に北陸支社を開設、完全な全国紙となったが、以来、僅々数年にして、二大紙として朝日と対立するにいたった。

四十三年三月の、販売関係における五社の発行部数がある。朝日五四七万、読売四九五万、毎日四四一万、サンケイ一九八万、日経九一万という数字である。新聞の発行部数について、正確な数字をつかむことは、極めてむずかしい。例えば、広告関係では、部数をふくらませて、広告価値と広告単価との根拠にせねばならないし、新聞協会が毎年四月と十月に行う部数調査では、部数に応じて会費負担が増減するので、とかく内輪の数字を公表するといった実情にあるからだ。

ここ数年来、読売の元旦付紙面を飾り出した、恒例の部数発表によれば、東京(北海道、北陸支社分を含む)、大阪、西部で、合計五百六十万部。前記数字を六十五万部も上廻った、四十三年元旦号の部数が示されている。一方、朝日は自社発行の「広告統計月報」で、四十三年二月の数字として、五百四十九万(弱)部を発表している。

いずれの数字が正しいかは別として、寂として声のない毎日をみれば、新しい二大紙時代が、この昭和四十年代に始まりだしていることは明らかであろう。朝日と読売の、次は六百万の大台

のせ競争によって……。

私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

「毎日は、今や極めて〝健全〟な会社になった。詳しい数字は知らないが、不動産を処分して借金を返済し、経営を圧迫する厖大な金利負担を軽減した。ことに、大阪に持っていた沼みたいな土地がビル建築の出土で埋め立てられ、新幹線にひっかかったのは、全く幸運であった」

私はさらにたずねた。不動産を次々に処分したというのは、いうなれば〝売り喰い〟で、今や本社もこのビルの店子、毎月、家賃の日銭に追われるのではないか、と。

「新聞界における評価は別として、銀行家として見るならば、発行部数に見合った、以前よりも堅実な会社になった、というべきでしょう」

村野副頭取のこの言葉は、朝日と読売との二大紙時代を裏付けるに十分であろう。〝栄光ある老大英帝国〟にも似た、毎日新聞の詳しいレポートは、続稿にゆずろう。

昭和二十年代の十年間は、戦後新聞史のうちで、最も華やかな、「スター記者」時代、紙面の優劣の戦いの時代であった。新聞記者個人の才能と個性とが、いうなれば〝妍〟を競った時代で、また、殺伐な戦後の世相を反映し、その実力競争のモノサシとしての「事件」にも事欠かなかったのである。その中で〝事件の読売〟が大きく伸びて、三社てい立の時代をつくった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 何人かの雑誌記者の訪問

正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。

昭和三十年代に入ると、世情は落ち着きをとりもどして、「事件」は国際的な規模にひろがり、一人のスタープレーヤーよりも、組織の力に、取材力の比重が傾いてゆく。同時にテレビの急速な発達から、新聞は速報性の王座と、広告媒体としての優位を奪われ、経営と編集の両面から、体質改善を余儀なくされてゆく。新聞変質の過渡期である。そして毎日の凋落が進み、二大紙時代へと移る。

さて、昭和四十年代に入ると、その傾向が一そうハッキリとしてきた。資本の集中による企業の大型化に伴い、新聞企業とて例外ではいられなくなった。兵庫新聞、東京新聞といった、地方紙の倒産が目立ち、全国紙としても、日経という専門紙は例外として、サンケイの危機、毎日の衰退が深刻化し、朝日、読売の巨大化が進んでゆくのだ。

電波媒体はさらに発展し、経営、編集ともに大きな影響を新聞におよぼす。そして、極めて皮肉なことには、新聞に対して経営と編集の両面から、その体質改善を迫るキッカケとなったテレビの急速なる発達は、実に他ならぬ正力松太郎の日本テレビ創立が、その機運を促したのである。

正力が育てたプロ野球の隆昌が、スポーツ新聞なる新しい種類の娯楽紙の隆盛をもたらしたのだが、〝大正力の死の報道〟を、このスポーツ紙たちは一面トップの大扱いで酬いてくれた。にも拘らず、肝心の「新聞」は、テレビによる体質改善から、極めて冷淡な扱い方しかできなかっ

たのは、皮肉なことだった。

こうして、新聞は、今や決定的な変革を迫られている。その内部では、政治と資本、思想と表現とが、それぞれにブツカリ合って、まさに「社会の木鐸」とか、「無冠の帝王」などという、かつて新聞を表現した古語の看板を、ハネ飛ばそうとしているのである。

この「現代新聞論」の意図するところも、新聞の現状から、変革さるべき「新聞の近い未来像」を探ろうと試みるものである。

正力の死を報じた朝毎の夕刊は、いずれも一段組み。型通りの、〝亡者記事〟で、ただ、毎日だけが、同社会長である田中香苗主筆の追悼談話を加えた。葬儀にいたっては、両紙とも全くのベタ記事、〝冷淡な扱い〟といえるものであった。

さきほども述べたが、その死とともに、私は何人かの雑誌記者の訪問を受けた。曰ク。「最後の枕頭には、愛人がつきそっていたというのですが……」「社主には誰がなるのですか」「いよいよ読売社内での、跡目争いの内ゲバですか」ETC いずれも、いうなれば笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。

新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年

にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 〝蒙〟を啓いておかねば

正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。

新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年

にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。

この機会に〝蒙〟を啓いておかねばならない。〝愛人〟とは誰を指すのか、武の生母。中村すず女であろう。正力の戸籍をみると夫人はま女は、大正七年五月一日に結婚昭和三十八年元旦に、死去している。すず女が臨終をみとって何が不自然であろうか。また、「社主」に誰がなるか、社長は、というものも、商法上の「代表取締役」と混同していて、正力なればこそ、「社主」と称し得るのである。しかも、この「社主」なる呼称は、英語の「オーナー」とはまたニュアンスが違う。朝日の村山、上野家とはまた、その事情を異にする。私が昭和十八年の読売入社時に提出した誓約書の宛名が、すでに「読売新聞社主正力松太郎」であることに最近気付いたのだが、正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。

内ゲバにいたっては、務台、小林両代表取締役副社長の、人柄はもちろん、読売を取りまく、客観情勢さえ判断できぬ、その無知を嘲うべきであろう。

務台七十三歳、小林五十六歳。その新聞経歴は務台が十倍にもなろうという差がある。そしていま、大手町の新社屋建設二百億の金繰りを控えての、読売の正念場である。務台を措いて、余人をもってはかえられない、大事業に直面しているのである。

このとき、官僚としての最高位、自治省事務次官まで進んだほどの小林が、内ゲバをあえてしてまで、務台と事を構えねばならぬ、何の必然があるだろうか。いうなれば、福田赳夫と田中角栄との年齢の開きにも似て、小林としては、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・ムタイの構想を練るべき秋なのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 警視庁七社会詰め

正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。

悲願千人記者斬り

私の手許に、二巻の録音テープがある。

読売新聞、いうなれば〝大正力〟の事蹟をみてゆくためには、同時に各社の実情とその人とを知らねばならない。その時、この二巻のテープの内容の話は、極めて示唆に富んでいた。

今は、故人となった某スポーツ紙の社長をはじめ、各社の四十名近い記者が登場する、このテープを聴いてみて、朝日、毎日、読売の三大紙についての、極めて象徴的な〝分析〟を、私は発見したのであった。

何故、象徴的というかといえば、氏名を明らかにされて、このテープに登場させられる記者たちは、十年余りも経た現在では、それぞれの社の、部長以上の幹部になっているからである。

——話は、そんな昔にさかのぼる。

私は、昭和二十七年から三十年まで、丸三年間、読売新聞社会部記者として、警視庁七社会詰めであった。

当時の同庁刑事部長に、極めて〝政治的〟な敏腕家がいた。彼は、のちに代議士に打って出たほどであるから、すでに双葉より香んばしかったのであろう。そして、当時の警察は、アメリカの占領から民主警察へ移行するという過渡期であったから、なおのこと、彼のような政治家によって〝家庭の事情〟を、新聞の監視外におかねばならなかったのであろう。

ともかく、「キャップ」会といわれるところの、「刑事部長懇談会」が月例となり、築地あたりの料亭で、ひんぱんに開かれていたことは事実であった。そして、料亭での宴会が終ると、銀座のバーに流れて、二次会、三次会というのがきまりであった。

今は二階に各記者クラブが広報課とならんで、一個所に集まっているが、当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。三階にある「警視庁記者クラブ」は、時事の身代りでも、七社会に加えてもらえなかったサンケイ、NHK、東京タイムズ、内外タイムズ、それに民放各社などで組織されていた。

従って、私の経験や目撃談も、この七社会が中心であった。三階のクラブについては、言及の限りではない。ともかく、この刑事部長の〝宴会戦術〟は、言論統制を意図したものであって、各社のキャップと〝親密〟になることによって、警察の内部問題に対して、新聞が興味と関心を持つことを、未然に防止しようとするものであったらしい。

正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 彼女の新聞記者遍歴

正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 私が、三大紙についての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 私が、三大紙についての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。

当時の警視庁クラブ詰め記者気質についていうならば、ともかく、〝呑む、打つ、買う〟の三道楽は、ある意味での美徳として、決して、非難さるべきものでなかったことは確かである。従って、このキャップ会の〝宴会〟が、刑事部長の意図した通りの効果を納め得たかどうか、〝言論統制〟が行なわれたかどうかについては、また稿を改めねばなるまい。

当時の新聞社の人事管理は、現在に比べると大変であったに違いない。まして、その中でも社会部、社会部なら警視庁キャップという管理職は、十名近い〝事件記者〟の精鋭を使いこなさねばならないのだから、並大抵ではなかった。

刑事部長は、二次会に銀座の「M」というバーに、キャップ連を伴った。皆は、そこのマダムに紹介され、ツケが利くことになるのである。通説によると、そのママが刑事部長の愛人だったというから、その辺のところは十分にわきまえていたのであろう。こうしてキャップ連中は、部下のクラブ記者を、安心して呑ませてやれることになる。もしも、あの当時のツケが、厳しく取立てられなかったとすれば、尻拭いをしたのは、警視庁であったに違いない。

ともかく、この「M」は各社の事件記者やそのグループで、毎晩のように賑っていたのであった。勘定が安心なばかりではない。もう一つ理由があった。いうまでもない、女である。

本名S・K、通称オシゲと呼ばれる、その「M」のホステスが、豪快に酒をのむばかりか、大の新聞記者ファンであったからだ。私が、このいわゆる現代新聞論を書くに当って、三大紙につ

いての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。

ここまで書けば、「三田の奴メ、一体、何を書こうとするのか?」と、不安の胸を押えられる、各社の中堅幹部の方々が、大勢おられるに違いない。

本格的な声楽家を目指して、上京してきた彼女は、音楽学校に入学した。故郷を捨ててきたのだから、学資も自分で稼がねばならない。美人とはいえないながらも、マアマアの顔で、生来の利口さから頭の回転が早い方だから、話していて退屈しない——となれば、若い身空でバー勤めに出ても、結構、通用しようというもの。

一応は学生だから、私鉄沿線の素人下宿に入って、二足のワラジの生活がはじまったのだが、声量もタップリな、若いツヤのある声が、次第に酒とタバコに荒れて、学校の方もともすればサボリ気味。そんな、学業と生活のギャップに悩みはじめた時期に、彼女は一人の新聞記者を知った。

悩みを酒の酔いにまぎらわしていたのも、金に困って身体の切り売りをしたことなどもあったようだった。そして、そんな生活から立ち直ろうとして、彼女はその記者に、本気になって打ち込んでいったのだが、その恋にもやがて破局が訪れた。男の妻の知るところとなったからだ。

オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ

た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。

正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 図々しくて阿呆なのが朝日

正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。

オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ

た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。

社をやめてから、もうしばらく経っていた私にも、その御乱行ぶりが聞えてきたのだから、察しがつこうというものだ。記者たちと飲み歩きの果てには、明け方、警視庁クラブの長椅子に倒れこみ、クラブを我が家の如く振舞う、とまで噂されていた。

彼女の〝悲願千人記者斬り〟は、何も警視庁クラブ詰めの記者ばかりではない。明け方の朝刊〆切りまで起きている、新聞社の編集局にまで乗ッ込んでくるのだから、その日の風の吹き工合だ。こうして、私の先輩である社長までが加えられた。

さて、オシゲはやがて、中年の役付き記者と深くなった。事実上、同棲同様であったらしい。心配した上司が、その記者を遠方に転勤させてしまったものだから、家庭さえブン投げてしまったその記者も、やっと眼が覚めるといった始末。げに、中年男の恋らしい結末だった。そして、どうやら、オシゲの記者遍歴は終りをつげる。

そんな時期に、私はオシゲと銀座でバッタリと出会った。数年振りであったろう。彼女の〝回顧録〟に、私はテープレコーダーの用意をした。一人一人社名と氏名をあげて、彼女のその男の想い出が、綿密に語られてゆくのだ。

それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。だからこそ、私は参考資

料として、記録を残すためテープにとったのであった。

「読売の記者は、私がエライ人との寝物語で、何をいいつけようが、そんなことを気にしたり、他人の彼女だなんてことにこだわりゃしない。女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだから、イタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。

一番数が少ないのが毎日の記者。これはキャップの親しいバーで、誰がキャップの彼女だか判らないから、遠慮するし、警戒するのよ。親分、子分の意識が強いのネ。据え膳にだって、自分の立場を考えて、盗み喰いさえしないのが毎日よ。古いわねえ。

図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。

オレは〝大朝日新聞の記者だ〟ッてのが、ハナの先にブラ下っているの。アタシが他社の記者を斬ってきて、そのあと続いて、朝日の記者を斬っているのに、マワシの二番煎じとも知らずに、〝朝日にイタして頂いて有難いと思え〟式なの。〝目黒のサンマ〟の殿サマは、裏返しにしたのを知っててオトボケするンだけど、朝日の記者は思い上ってるから、裏返しのパッというところが、読めないのねェ」

オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあっていないし、その消息も聞かない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 Fという有能な整理記者がいた

正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 その退社の日たるや、けだし壮観であったという。Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 その退社の日たるや、けだし壮観であったという。Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。

オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあっていないし、その消息も聞かない。

「畜生、辞めてやる!」の伝統

さて、ここで、古き良き時代の新聞記者について語らねばならないだろう。

まず、二人のチャンピオンをあげよう。さきごろ、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、読売常務・編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

この言葉には、解説が必要である。Fという有能な整理記者がいた。ところが、これがまた大変な競馬狂で、仕事以外は、競馬のことしか念頭にないのである。そのキャリアは、累積赤字四百万円に達したというのであるから、想像を絶しよう。もちろん、負けに負け続けたというものではない。勝つ時もあるのだが、その時は景気良く派手に使ってしまうのだから、負けた時の借金が累積してゆくのだ。

ありとあらゆる所から借りつくして、流石に身動きが出来なくなってしまった。かくし てF

は、読売を退社して、その退職金四百万円を投げ出し、一度、借金の整理をすることとなる。借金と退職金がツーペイである。これでは、家族も困ろうと、友人たちが高利貸しを口説いて利子をまけさせ、四十万円を捻出した。その退社の日たるや、けだし壮観であったという。

Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。だが、Fは悠然として、この四十万円で競馬に出かけ、倍の八十万円にして帰ってきたというのだ。しかも身辺整理の終ったFは、大阪読売に迎えられて、華麗な見出しで紙面を飾っている。

Fの能力に感嘆した栗山が、「とても、普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。大阪の陣容強化のため、もっと優秀な記者がほしいものだ」として、今度は競馬狂ではなくて〝パチンコ狂はいないか〟と、原にたずねたというものである。

もう一人は、Iというカメラマン。これまた、無類の酒好きで、早朝から酒気を帯びてはいても、一瞬のシャッター・チャンスを争う報道写真にかけては、抜群の腕前ではあった。私も、幾度かIと仕事に出かけたが、彼の名人芸には感嘆させられたものであった。

多くのカメラマンは仕事に出かけると、ヤタラとシャッターを切る。紙面に使われるのはタダの一枚の写真なのに、沢山写して、デスクや部長にえらんでもらうためだ。もっとも、未熟なカメラマンを育てるための、それが教育法でもあったのであろう。ところが、Iはいつも、仕事は

一枚限りである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 壮絶な出所進退

正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

多くのカメラマンは仕事に出かけると、ヤタラとシャッターを切る。紙面に使われるのはタダの一枚の写真なのに、沢山写して、デスクや部長にえらんでもらうためだ。もっとも、未熟なカメラマンを育てるための、それが教育法でもあったのであろう。ところが、Iはいつも、仕事は

一枚限りである。

最近は、小型カメラ全盛だが、Iの時代はスピグラ一本槍のころである。現場へ着くと、Iはただ一発のフラッシュガンを片手に握り、片手にスピグラというスタイル。フラッシュの点火を確実にするため、差込み部分をナめながら、チャンスを狙って閃光一閃。他社カメラマンがひしめきつづけるのをシリ目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

昭和二十四年暮。当時国会担当であった私が、議員会館に女を連れこんで、温泉マーク代用にしている者が多い、という噂を聞きこんで、一晩張り込みをした時の相棒もIであった。……深夜、寒さにふるえながら待った甲斐があって、某参議院議員が、一見水商売風の女性と手をつないで会館へとやってきた。

玄関前の植え込みから飛び出した我々を見て、クダンの議員はクルリと反転、女を引っ張ったまま逃げ出した。一瞬の差で顔を写しそこねたIは、まだシャッターを切らない。二人で、待機中の車に飛び乗って、逃げた方角を追う。私が守衛にその男の顔を確認していた数分、否、数十秒のおくれがあったからだ。四国出身のK議員と判って勇躍する。

会館の周囲をグルリと走って、三宅坂方向をみると、何と、まだ手をつないだまま、二人が走っている。Iが運転手のSに落着いた声でいった。「あの二人を追い抜きざま、急カーブを切って、前を廻ってくれ」と。みると、例のスタイルでフラッシュをナめているではないか。

自動車部のSもヴェテラン、車がアメリカのギャング映画もどきの、鋭い悲鳴をあげて急転回した瞬間、車窓に構えたスピグラが光った。——翌日の夕刊一版から、トップを飾ったこの一発の写真は「噂の議員会館・門限後潜入記」の見出しを語りつくしていた。そして、この議員は翌春の参院選に落ち、衆院に廻ってきて、以来当選七回である。

Iは共同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上のケンカで椅子を相手に投げつけ、片眼を失明させてしまった。酔いさめたIは、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。

競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

私がいいたいことは、この二人の記者の行動についてではない。彼らにも、それぞれの家族もあり、家庭内の事情もあったろうから、退職金を投げ出すことについての、若干の感慨もあったであろう。個人的な事情とはいえ、退職金までもゼロにして、社をやめるという壮絶な出所進退をとりあげたいのだ。そして、二人ともその〝骨〟ならぬ〝腕〟が、立派に拾われているということだ。

古き良き時代の、ある新聞記者像として、この二人のエピソードを紹介した。読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟

という感覚を、とりあげてみたかったのである。