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p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―
わが名は「悪徳記者」
――事件記者と犯罪の間――|
三 田 和 夫
(元読売新聞社会部)
昭和三十三年七月二十二日、私は犯人隠避容疑の逮捕状を、警視庁地下の調べ室で、捜査第二課員によって執行された。「関係者の取調べ未了」という理由で、刑訴法に定める通り、二十日間の拘留がついた。そして、満期の八月十三日、私は「犯人隠避ならびに証拠湮滅」罪で起訴され、意外にも早い同十五日に、保釈出所を許された。逮捕から拘禁を解かれるまで二十五日間であった。
グレン隊と心中?
事件というのは、改めていうまでもない。さる六月十一日、銀座の社長室を襲って、ひん死の重傷を負わせた横井事件で、殺人未遂容疑の指名手配犯人となった、渋谷のグレン隊安藤組幹部小笠原郁夫(二六)を、北海道旭川市に逃がしてやったということである。
これが、私の〝悪徳〟ぶりの中身であった。
p54上 わが名は「悪徳記者」 グレン隊の一味
出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。
無職の一市民として、逮捕、警察の調べ、検事の調べ、拘禁された留置場の生活、手錠、曳縄――、いわゆる被疑者と被告人との経験を持ったということは、私が新聞記者であっただけに、又と得難い貴重な教訓であった。
失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。私の、長い記者生活は、それこそ何千本かの記事を紙面に出しているのであるが、私の記事の中に、あのような記事があったのではないか、ということである。
私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。一人の男が相手の男を拳銃で射殺せんとした――殺人事件である。だが、これが戦争という背景をもち、戦闘という時の経過の中で、敵と味方という立場であれば、話は別である。しかし、その〝射殺〟という事実には間違いはない。背景と時の経過と、立場なしに取上げられたのが、私の「犯人隠避」であった。その限りでは、私に関する報道には間違いがなかったのである。ところが、それに捜査当局の主観がプラスされてくると、もはや事実ではなくなってくるのである。
p54下 わが名は「悪徳記者」 納得がいかない
警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。これが、「納得がいかない――理解してやろう」という好意で出てくる場合と、「納得がいかないのは、まだヤマ(犯罪事実)をゲロ(自供)していないからだ」という、下品な岡ッ引根性から出てくるものと、二通りあったのである。ところが、検察庁での調べになると「犯罪の構成要件さえガッチリと固めておけば良い」という態度である。納得がいくもいかないも、被疑者の心理状態など、全くお構いなしである。
捕えたものは起訴せねば……、起訴したものは有罪にせねば……の、ただそれだけのようである。もっとも、検事個人の人間的差はあるのだろうが、私は、ここに、司法官僚と内務官僚との、宿命的対立の基盤になっている、何ものかを感じた。
何が納得がいかないか? これは調べが進むと同時に、捜査官の胸中に浮んできた疑問であった。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。
調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振ったのである――納得がいかないのも無理もない。
p55上 わが名は「悪徳記者」 人を信じる信念
私は答えた。『棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ』と。
私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。
人を信じるという信念
昭和十八年の秋、私は読売新聞に入り、すぐ社会部に配属された。やがて出征、そして終戦。私の部隊は武装解除されてシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。今度の事件で、全く何の関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏はこの地獄の中で私の大隊長だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働を乗り切ったのである。
細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥ねいの坑床、肩で押し出す一トン積の炭車、ボタの多い炭層――こんな悪条件の中で、「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できる訳はなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。こんな環境から生れた、人間の相互信頼の気持である。
p55下 わが名は「悪徳記者」 深い相互信頼
七月十一日の夜、すでに床についていた塚原さんを叩き起した私は、『ある事件の関係者だが、四、五日あずかって頂けないだろうか』と頼んだ。塚原さんは何もいわず、何もきかずに、ただ一言『ウム』と引受けてくれたのである。これが小笠原を旭川に紹介してやるキッカケであった。そしてまた、この一言が、塚原さんが築地署の留置場へ二十三日もプチ込まれる「ウム」だった。
私が、二十一日の月曜日に、警視庁の新井刑事部長と平瀬捜査二課長とに、事情を説明したことがある。もちろん逮捕の前日だ。この時、新井刑事部長は笑った。
『キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし』
新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。
話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。
p56上 わが名は「悪徳記者」 反動読売の反動記者
私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。
過去のない男・王長徳
帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。
この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
p56下 わが名は「悪徳記者」 東京租界と王長徳
左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。〝私はニュースの鬼〟だっただけである。
私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。
そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。
まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日逮捕されている。
私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引き続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下ろした日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。 原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。
p57上 わが名は「悪徳記者」 三人の大物国際博徒
そして、この記事をはじめとするキャンペーン物で、文芸春秋の菊池寛賞の新聞部門で、読売社会部が第一回受賞の栄を担ったのである。
その第一回の記事に、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい編張り争い」と、国際バクチ打ちの行状がある。この時に登場を願ったのが、即ちこの王長徳である。つまり、東京租界を自分のシマ(縄張り)にしようと、三人の国際博徒の大物が争っている。その一人はアル・カポネの片腕、アメリカはシカゴシチーで東洋人地区の取締りをやっていた鮮系米人のジェイソン・リー。二人目は、フィリピンはマニラの夜の大統領といわれるテッド・ルーインの片腕、自称宝石商のモーリス・リプトン。どんじりに控えたのが、上海の夜の市長〝上海の王〟だという情報だった。
牧野記者と二人で、この大物バクチ打ちの所在を探し、リーとリプトンとにはインタヴューすることが出来たが、〝上海の王〟はその所在さえつかめない。調べてみると、この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。
そしてこの青幇の幹部の一人が経営していた、銀座二丁目の米軍人クラブのⅤFWクラブにもぐりこんでいるというところまで突きとめたが、どうしても会えない。他の二人には会えたのに、三人目が欠けたのでは面目ないと、考えこんでいる時、サツ廻りの上野記者が、『新橋に王という変った男がいますよ』と情報を入れてくれた。
p57下 わが名は「悪徳記者」 王長徳と小林初三
話を聞いてみると、帆足、宮腰氏らの訪ソ旅行の旅費を出したとか、自由法曹団の布施弁護士は父親みたいな仲だとか、花村元法相とは「花ちゃん」という付き合いだとか、いろいろと面白い話が多い。そこで窮余の一策として、彼に会って、『貴方が上海の王といわれる有名なバクチ打ちか』と、当ってみたものだ。
すると、ハッキリ別人だということが調査して判っていたのに、意外にも彼はニコヤカにうなずきながら、『そうです。私が上海の王です。上海時代はビッグ・パイプとも仇名されていたので、このキャバレーにもその名をつけたのです』というではないか。
こうして、「登録証を信ずると、十一歳の時にビッグ・パイプという名を持った国際バクチの大親分という、世にもロマンチックな話になる」と、皮肉タップリな記事となって紙面を飾った。
これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、朝鮮人とも北鮮育ちの中国人ともいわれるが、異国での生活の技術にか、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。金の話は常に億単位なのだから、国際バクチ打ちの〝身分〟を買って出たのも、彼の生活技術であろう。
ニュース・ソース
小林元警部補とは昭和二十七年から三十年の三年間、私が警視庁クラブにいた時に、彼が現職だったので知り合っていた。ところが彼は退職して、銀座警察の高橋輝男一派の顧問になってしまった。そのころも、銀座あたりで出会ったりしていたのだ。
高橋が死んでから、彼は〝事件屋〟になって王と近づいたらしい。
p58上 わが名は「悪徳記者」 新聞記者の財産はニュース・ソース
今度の横井事件でも、王、小林、元山らが組んで蜂須賀家の債権取立てを計画したようだ。六月十一日に横井事件が起きた翌日、王から私に電話がきて、
『問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう』という。私は即座に『会いたい』と答えた。十三日の夜おそく、元山は王と小林に伴れられて私の自宅へやってきた。
元山との会見記は翌十三日の読売に出た。
週刊読売の伝えるところによると、新井刑事部長は部下を督励して、『新聞記者が会えるのに、どうして刑事が会えないのだ』と、叱りつけたそうである。しかし、この言葉はどだいムリな話で、新聞記者だからこそ会えたのであった。
この元山会見記は、同日朝の東京新聞の花形を間違えたニセ安藤会見記(木村警部談)と違って、一応特ダネであった。しかし、私が司法記者クラプ(検察庁、裁判所、法務省担当)員でありながら、警視庁クラブの担当している横井事件に手を出したことが、捜査本部員をはじめ、他社の記者にいい印象を与えなかったようでもある。
私をしていわしむれば、誰が担当の、何処が担当の事件であろうとも、新聞記者であるならばニュースに対して貪婪でなければならないし、何時でも、如何なるものでも、ニュースをキャッチできる状態でなければならないのである。 新聞記者の財産はニュース・ソースである。『貴方だからこれまで話すのだ』『貴方だからわざわざ知らせるのだ』という、こういう種類の人物を、各方面に沢山もっていてこそ、その記者の値打ちが決まるのである。誰でもが訊きさえすれば教えてくれること――
p58下 わが名は「悪徳記者」 並び大名の記者たち
これは発表である。誰でもが簡単に知り得ることは、これはニュースとしての価値が低いのは当然である。
例えば、両国の花火大会の記事は、ニュースではあるが、誰でもがこのニュースにふれることができる。公開されているニュースだからである。機会は均等である。
新聞記者の中にも、こういう公開されたニュースしか書けない記者がいるし、それが多い。特ダネの書けない記者である。それは、その記者が、不断の勉強を怠っているからである。記者の財産である、ニュース・ソースの培養を心がけていないからである。
役所を担当しても、その役所のスポークスマンしかしらないし、スポークスマンの言い分を文宇にして本社へ伝えるだけである。この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。だから、役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。心ある読者は、一度役所の記者会見なるものを覗いてみられよ。二十人もの記者がいても、質問の発言をするのは二、三人だけである。それは決して代表質問ではない。並び大名の記者たちには、質問すら浮かんで来ないのである。
あんたにやるよ
私はサツ廻りののち、法務庁、国会、警視庁、通産省、農林省、法務省と、本社の遊軍以外に、これだけの役所のクラブを廻ってみたが、どこのクラブでもそうである。記者会見で談論風発という光景は少ない。質問さえできない記者は、他社の記者の質問によって「成程そうか」と思い、本社へ送る時には、自分の質問であるかの如くよそおうのである。
p59上 わが名は「悪徳記者」 蜂須賀侯爵の急死…
自分の質問であるかの如くよそおうのである。
ニュース・ソースのない記者は、全くのサラリーマンである。その役所にいれば、その役所のことはその時だけ。他のことは我関せずに、そのクラブを去ったならば、もうその役所のことは判らないのである。
この場合、小林も王も私のニュース・ソースだったのである。もちろん、元山にも警察へ行く前に、自分の言い分を宣伝しておきたいという気持もあったろう。私は元山の話はさておき、横井との会見の理由が、蜂須賀侯爵家の債権取立問題と聞いてのりだした。
私は社へ電話して、『元山に会った。だが彼の話は宣伝だから面白くないが、蜂須賀侯爵家の債権問題が面白い。誰か記者をやってほしい』と伝えた。
華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾――金と女が出てくる、絶好の社会部ダネだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。情報通の元子爵を叩き起して……と考えながら、私は社へきてみたのだが、社では何の手配もしてなかった。
『畜生メ、ワカラズ屋ばかりだ。こんなネタを見送るなんて、読売社会部のカンバンが泣くヨ!』
私は心中で怒嗚って、黙って元山の原稲だけ書くとデスクに出した。私は萩原君を付近の喫茶店に誘うと、久し振りの快事件だというのに、ニュース・センスのなさを散々に毒づいてやった。何しろ「事件」が判らないのである。 しかし、翌日、私は念のため某元子爵に会って、蜂須賀家の内情をきいてみると、亡くなった正氏侯爵が奇行の人で、いよいよ面白い。
p59下 わが名は「悪徳記者」 安藤組の子分という男
ところが、翌日朝、毎日が一通り書いてしまった。『ウチのほうが余ッ程深く掘っているのに!』と、また舌打ちである。
それからしばらくたって、私はある週刊誌から、横井事件の内幕の原稿依頼を受けた。どんなに面白いネタを集めても、自分の新聞にのらないのだから仕方がない。何しろ、私は一出先記者である。紙面制作にタッチしていないのだから、原稿の採否の権限がない。
私は依頼を引受けて、蜂須賀対横井の最高裁までの法廷の争いを調べようと思った。私は車を駆って、目黒区三谷町の王の事務所を訪れた。夜の八時ごろだったろうか。七月三日のことである。その時に安藤組の子分という若いヤクザっぽい男に会った。
事務所の二階で、各級裁判所の判決文写しなどを見せてもらっていると、階下が騒がしい。事務員がやってきて、『碑文谷署の刑事がきた』という。上ってきた刑事は、横井事件の本部から、『こちらに安藤組の犯人が立ち廻ったという情報だから調べてくれ、とのことです』という。
私は王から、付近のマーケットの立退き問題でモメていると聞いていたから、即座に私を誤認したイヤガラセの電話だナと判断したのだった。何しろ、その時の私は、髪は油気なしのヒゲボウボウ、Yシャツを車に脱いでアンダーシャツ一枚の姿だったから、見間違えられるのもムリはなかった。 『それは間違いでしょう。私は読売の記者で三田といいます。私を間違えたのですよ』と、笑って自ら名乗った。もちろん、何の疑念もなかった。そして、刑事たちは納得して帰っていった。
p60上 わが名は「悪徳記者」 それなら、あんたにやるよ
王と小林はプンプン怒って出たり、入ったりしていたが、やがて、私に伝言を残していなくなってしまった。
事務所の伝言によると、先程の若いヤクザを探して一緒にきてくれということだ。私は付近の喫茶店にいたその「フク」と呼ばれる男と一緒に渋谷のポニーという喫茶店に出かけた。
そこには、王、小林の両名がいて、たちまち、そのフクとの間で激しい口論になった。『何だ、二日という約束なのに、どうしたッていうんだ。いまだに何の連絡もないじゃないか』『今時のヤクザなんて、何てダラシがないんだ。他人に迷惑をかけやがって』
私は黙って三人の会話を聞いているうちにやっと様子がのみこめてきた。王、小林が誰か犯人を、二日の約束であずかったのだが、そのまま背負い込まされているので、連絡係のフクに喰ってかかっているのだ。
『一体、その男は誰だネ』
『安藤組の幹部で、山口二郎という人だ』
私の問に王が答えた。山口二郎? 聞いたことのない男だが、五人の指名手配者の誰かの変名に違いない。しかも、〝という人〟という表現だ。面白い。私は乗り出した。
『そんなみっともないケンカは止めなさい。それより、その男に私を逢わしてくれ』
『ヨシ、それなら、あんたにやるよ』
王と小林は渡りに舟とばかり、即座に答えた。私はその男をもらったのである。煮て食おうが焼いて食おうが、私の自由である。それから三十分ほどのちに、渋谷の大橋の先の広い通りで待っていた私の車を認めて、一台の車が向い側で止った。
p60下 わが名は「悪徳記者」 その男に自首をすすめた
私の車を認めて、一台の車が向い側で止った。
ドアを開けて、一人の男がこちらに走ってくる。私は『山口さんですネ』と念を押してうなずく男を、すぐ車中に招じ入れた。チョッとしたスリラーである。例のフクも乗りこんできた。私は運転手に『奈良へ』と、赤坂見付にある社の指定旅館「奈良」へ行くように命じた。これが、新聞記事にある〝共同謀議をした赤坂の料亭〟の正体である。旅館のママさんは、一流料亭のように扱われたのでニヤニヤであろう。近頃のデカやサラリーマン記者には、〝赤坂の料亭〟など、見たこともないし、旅館と料亭の区別もつかないのであろうか。
旅館について、明るい灯の下で、〝山口二郎という人〟を見た私は、どうやら小笠原郁夫らしいナと感じた。いろいろの話をしたのち、私はその男に自首をすすめた。
『しかし、自首といっても、形はあくまで逮捕ですよ。犯人が自首して出るなンてのは生意気ですからね。警察というものは、犯人を逮捕しなければ、威信にもかかわるのです。だから私はあなたを、あくまで逮捕させるのに協力するのです。そして、ウチの紙面でももちろん逮捕と書きます』
彼は、『まだ自首できない』と答えた。その理由をいろいろと述べるのである。私はもう深夜なので、時間を気にしはじめた。明日までに週刊「娯楽よみうり」に決りものの、「法廷だより」の原稿を書かねばならない。
『ともかく、一晩ゆっくり考えて、自首する決心をつけなさい。もし、どうしても自首できないならば、明日の夕方までにここを立ち去ってもらいたい』
と、私は厳しくいって「奈良」を出た。
p61上 わが名は「悪徳記者」 小笠原は自首の決心をしたのか
『ともかく、一晩ゆっくり考えて、自首する決心をつけなさい。もし、どうしても自首できないならば、明日の夕方までにここを立ち去ってもらいたい』
と、私は厳しくいって「奈良」を出た。
のるか、そるかの決断
翌四日は、私が忙がしくて夕方までに「奈良」へ行けなかった。夜十一時すぎごろ、やっと「奈良」へかけつけると、私が来ないと思った小笠原は、すでに帰り仕度をして、玄関に立っていた。私と彼は再び「奈良」の一室で会った。
『私は、実は小笠原郁夫です』
彼の名乗りを開いて、私はうなずいた。彼は自首する時は必ず三田さんの手で自首して、読売の特ダネにする。自首までもう四、五日間時間をかしてほしい。必ず連絡する、というので、自宅と記者クラブの電話番号を教えた。そして、彼を鶯谷まで送ってやって別れたのである。
七月十一日の夕方、フクから(のちに福島という、花田の子分と判った)電話で小笠原が会いたいと連絡してきた。いよいよ自首の決心がついたのかと、私はよろこんで会う段取りを決めた。五人の指名手配犯人の逮捕第一号が、読売の特ダネになるのである。ソワソワするほどうれしかった。
自首の段取りができたから、この事件の担当である深江、三橋両記者を呼んで、逮捕数時間前のカッチリした会見記を取材する。取材が終ったら、この両記者が花を持たせたい捜査主任に連絡して、小笠原を放し、路上で職務質問の逮捕をさせるのである。 或は、小笠原の自宅に張込みをさせて、そこまで送りとどけ、細君と最後の対面をさせてやって、逮捕してもよい。
p61下 わが名は「悪徳記者」 自首どころか隠してくれと
細君と最後の対面をさせてやって、逮捕してもよい。仲の良い後輩であるこの二人の記者に花を持たせ、両記者は担当主任に花を持たせる。そして、当局の捜査に協力したという実績が、読売をして捜査二課に、ニュース・ソースというクサビを一本打ち込ませるのだ。
不忍池で現われた小笠原を車に拾い、「奈良」にとって返した私は、さらにフクの案内で現われた「花田映一」という人物に会った。私が入浴している間に、やってきた三人は、何事かを相談し合っていた。
『東興業副社長の花田さんです。何にもヤマがないので、幹部でホジョウ(逮捕状)の出ていない唯一人の人です』という紹介だった。
しばらくして、
『御迷惑をおかけしてますが、何分とも宜しくお願いします』
と、花田は礼儀正しく挨拶して、一人先に帰っていった。如何にも小笠原より兄貴分らしい貫禄だった。
花田が帰り、小笠原とフクとの三人になったが、彼は一向に自首の話を持ち出さない。私が変だゾと思いはじめた時、小笠原はフクに向って、
『お前はしばらく風呂に入ってこい』
と命じて、私と二人切りの機会を作った。 すると意外にも、自首どころか、もう一週間ほど、隠してくれという依頼を切り出したのだ。小笠原がどんな気持で、私に「逃がしてくれ」と頼んできたのか、私には未だに判らない。のちに、フクからきいたところによると『王さんや小林さんは信用できない人だと思ったので、そこにいる間中、いつサツに密告されるかと心配していた。
p62上 わが名は「悪徳記者」 短い時間で決断を迫られた
その人たちに紹介された三田さんだし、検察庁担当の記者だと聞いて、いよいよ不安だった』そうである。
すると、三日、四日と二日間が無事だったので、すっかり信用してしまったらしい。ともかく、小笠原は花田にも、フクにも内緒で三田さんと二人だけの話ですから、北海道へでも、しばらくかくして下さい。しかし決して逃げ切ろうというのではなく、せめて社長(安藤)の後から自首したい。時間もそう長いことではない。必ず三田さんの手で自首する。御迷惑は決してかけない(自首しても逃走経路は黙秘するという意味)と、頭を下げて頼みこむのである。
私はこの時に、短かい時間で決断を迫られていた。つまり、彼の申し出をキッパリと拒絶するか、きいてやるか。当局へ連絡して逮捕させるべきか、黙って逃がしもせず別れてしまうかである。
私と小笠原との出会いは、前述した通りである。もちろん、安藤組とは誰一人として、今まで何の関係もなく、何の義理も因緑もなかった。王、小林にも、『かくまってくれ』とは頼まれていない。むしろ、先方で持て余していたのを、私が会わせろといったので、厄払いをしたように、『ヨシあんたにやるよ』といって、全くもらってしまった身柄であるし、私の興味は新聞記者としての、取材対象以外の何ものでもない。もちろん、金で頼まれたりするような、下品な男ではない。 第一、私には、前にものべたように、教育と名誉と地位と将来とがあるのである。黙っていて、社からもらうサラリーが約四万二千円。それに取材費として、私は月最低一万二千円、多い時には三万円を社に請求した。その上、自家用車ともいえる社の自動車がある。
p62下 わが名は「悪徳記者」 この瞬間に大勝負へ踏み切った
そればかりではない。数字を明らかにしたくないが、私が月々得る雑誌原稿料は相当なものであった。
この私が、どうして、十万やそこらのメクサレ金で、刑事訴追を受けるような危険を冒すであろうか。もしも、誰かが一千万円も出すといって頼みにくれば、しばらくは考えこむだろうが、百万円もらってもイヤである。私の将来がなくなるからである。私の二人の可愛い子供たちが、学校へ行けなくなるし、三田姓を名乗る一族のすべてが、肩身せまくなるからである。
私の意志は、小笠原のこの突然の、虫の良すぎる申し出の前で、全く自由であった。彼の意志に反して、彼の眼前で警視庁へ電話して突き出すことにも、恐怖なぞ感じなかった。私は取材で、記事で、もっと恐いことを味わっている。
私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。――私は決心して、『よろしい。やってみましょう。ただ、北海道といえば、頼める人はただ一人、旭川にいた私の昔の大隊長だけです。その人がウンといったら、紹介してあげます。もし、ダメだといったら、あきらめて自首なさい。』
私はこの瞬間に、大勝負へ踏み切ったのであった。新聞記者として、一世一代の大仕事である。まさにノルカソルカであった。戦争と捕虜とで、〝人を信ずる〟という教訓を得た私は、小笠原を信じたのである。 人は笑うかも知れない、『何だ、タカがグレン隊の若僧に……』