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雑誌『キング』p.129下段 幻兵団の全貌 人民裁判で逆送のはずが

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 下段

にしていなければならない。

つまり、二十三年まで(共産党演出するところの〝代々木詣り〟——復員者の共産党本部集団訪問のこと——が、この年の六月四日からはじめられた)の引揚者で、前職者でありながら、あるいは法務官であるとか、反ソ分子、惨虐行為者など、ナホトカ民主グループに〝人民裁判〟にかけられたりして、当然再び逆送されるべき人間で、まともに乗船して帰ってきたものは、一応Ⓑ要員であると考えてもよいことになる。すなわち、早く帰れないはずなのに、早く帰ってきている者は、おかしいわけである。また、帰還者名簿を眺めて、抑留地区がただ一人違う者なぞも、そうである。

これは余談であるが、吉村隊長はナホトカで罪状を認めたというのに、隊員と同じ船で帰ってきていることもうなずけない。人民裁判事件で、多数の逆送を認めた津村謙二氏が、吉村隊長を吊るしあげておきながら、そのまま帰したということが、腑に落ちない。筆者は吉村隊長にその旨を質したところ、彼も『私自身何故すぐ乗船できたか分からない』と答えているが、この裏面には何らかの問題が、伏在しているに違いない。

2 連絡と組織

雑誌『キング』p.108中段 幻兵団の全貌 引揚者の不可解な死

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 中段

私は社会部へ帰って引揚記事を担当した。翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた——だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は船中から海に投じ、ある者は復員列車から転落し、またある者は自宅で縊死をとげているのだ。

私はこの謎をとくべく、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。

約十分間の休憩ののちに、岡元委員長は冷静な口調で再開を宣した。ついに公開のまま続行と決定した。満場は興奮のため水を打ったように静まり、記者席からメモをとるサラサラという鉛筆の音だけが聞こえてくる。小針証人が立ち上がって証言をはじめる。

事件記者と犯罪の間 p.162-163 私を「反動読売の反動記者」と攻撃

事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
事件記者と犯罪の間 p.162-163 警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

「キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」
新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私

と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。

話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。私は〝ニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介

しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。

最後の事件記者 p.086-087 「悪質な反ソ宣伝だ」と

最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
最後の事件記者 p.086-087 引揚列車に注目し、出迎えにみむきもせず、代々木の日共本部を訪問するトラブルを〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

三百人もの、老若美醜とりどりの女たちの、半分以上がクツもはかずに、ぞろぞろと群れ歩く周囲には、自動小銃が凝されているあの光景を想い浮べる時、ナホトカ港でみた船尾の日章旗と、舞鶴湾の美しい故国の山河の感激、上陸以来の行届いた扱いと温かいもてなしとに、有難い国日

本、美しい国日本と、目頭をあつくして、いまなおシベリアに残る六十万同胞の帰還の一日も早かれと祈るのであった。

反動読売の反動記者

もう十一年も前の記事で、今、よみ返してみると、ずいぶんオカシナところも目につくが、 数年にわたる軍隊、捕虜生活を終って直後に、一夜で書いた原稿にしては、案外ボケてもいなかったようである。

私のこの署名処女作品は、その日の記事審査日報で、こんな風にほめてくれたのだ。

「内容はこの方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上でシベリアの一部分だけの面であるが、しかし限定されているだけに内容が詳しく、かつ新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では読ませる紙面となった」

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、記者会見を行い、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明を行うほどの反響をまき起したのだった。

やがて、サツ廻りとして、上野署、浅草署を中心に、あの一帯を担当した私は、上野駅に到着する引揚列車に注目し、出迎えの老母や愛児にみむきもせず、代々木の日共党本部を訪問しようとする愛情のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープした私は、「反動読売の反動記者」という烙印を、ハッキリと押されてしまったのである。

だが、このレッテルは必らずしも当っていない。当時のニュースの焦点は、日共だったのである。シベリア印象記も、はじめに書いた抑留記が、森村次長によって、ボツにされてから、それでは今、何がニュースの焦点なのかを考えたのだ。

いや、考えたのではない。新聞記者としての第六感が、戦後の日本に帰ってきて、まだ数日しか経ってない私に、〝コレダ!〟と教えてくれたのであった。そして、生れたシベリア印象記である。それが、キスレンコ声明などで反響を呼び起したのであった。私は、反動記者ではなく、〝ニュースの鬼〟だったのである。

かつて、築地小劇場の左翼演劇にあこがれ、左翼評論家に指導されて、官僚からジャーナリズムヘ方向転換した私にとって、この名は皮肉なものだった。 私は反共記事ばかりではない。反右翼も、反政府も、反米も手がけた。

最後の事件記者 p.110-111 ソ連引揚者の〝代々木詣り〟

最後の事件記者 p.110-111 私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。
最後の事件記者 p.110-111 私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

その彼女と、せまい道でバッタリだから、私があわてたのもムリはない。しかし、彼女はすぐには気付なかった。

いぶかしげに、スレ違ってからも、何度も何度も振り返り、ついには立止って、考えこむ有様。逃げ出したら怪まれて、追いかけられたら大変と、何も知らない妻をせかせながら、全神経を背後に配って、足早やに立去る時の気持ちは、夢の中で逃げ出すようなもどかしさであった。

何しろ、この事件以来、私はすっかり半陰陽のオーソリティになって、法医学に興味を抱きはじめたのだ。

何といっても、サツ廻りというのは、一国一城の主。これほど記者として面白い時代はないのに、サツ種のスクープが各社とも少しも見当らないのが不思議でならない。これならば、サツ廻りなどやめてしまった方が、人の使い方としては効果的である。

私の名はソ連スパイ!

〝代々木詣り〟の復員者

私が日大で三浦逸雄先生に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、かかさずにやってきていた。

そこでは婦人団体よりもテキパキと、援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ献身的な姿がみられた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

二十三年六月四日朝八時ころのこと。

最後の事件記者 p.114-115 『何? スパイだって?』

最後の事件記者 p.114-115 ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。
最後の事件記者 p.114-115 ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。

早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴紙に、先月既に八百名、という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行っているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、叮寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現れてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして、京都駅での大乱斗、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。

私の名はソ連スパイ

この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私は、その記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。

『…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行なわれており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているかを、時間をかけて、調べてみたいのです』

『何? スパイだって?』

『ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は同朋相剋の悲劇を強いられているに違いないと思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終ってまだ数年だというのに、もう次の戦斗の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です』

『それで、調べ終ったら、どうするつもりだね』

『もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが!』

『書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか』

『ハイ。私は新聞記者です』

『ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ』

部長は許可してくれた。それから、私のソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私には、相当程度のデータは集っていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集ってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一ヵ月のデータの中から、めぼしいものが浮んでいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。

p56上 わが名は「悪徳記者」 反動読売の反動記者

p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 オルガナイザー、日本新聞グループ

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.
赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.

ただでさえ苦難の多い俘虜生活である。そこへ出現したこの〝○○天皇〟と呼ばれる労働貴族たちの、同胞への苛歛誅求ぶりは、まさにシベリヤ罪悪史として、一書を編むに値するものであった。と同時に、これこそ日本人の国際的訓練の欠如を露呈した惨めな事大主義として、同じ俘虜であるドイツ人たちのびん笑を買ったものであった。

引揚列車を迎える人たちの日の丸の旗をひきちぎり、さし出す花束を踏みにぢり、ソ同盟謳歌を呼号し、〝代々木詣り〟という集団入党のため帰郷すら拒否した、いわゆる「上陸党員」たちのその後をたずねて見給え。ましてや〝赤大根〟と呼ばれた君子豹変組の在ソ行動をたずねて見給え。

だがしかし、このような狂騒民主運動に冷静な監視と、充分な計算とを怠らなかった一群の日本人たちがいた。このグループがアクチィヴィストの上位にある、オルガナイザー(組織者)である。日本新聞グループであり、最高ビューロー・グループである。そしてまた彼らのかげには、「常に一貫して流れている対日政策」に動かされるソ連政治部将校たちの指導があったのである。

今ここでこの詳細を述べることはできないが、民主運動のキッカケとなった「木村檄文」というものがあった。それと同時期に沿海州地区では、ナホトカに近いドーナイ収容所で起した佐藤治平元准尉の民主運動もあった。この分派民主運動は、後に浅原正基対佐藤治平の理論闘争となり、佐藤氏が敗れて粛清されたのであった。

このような経緯もあって、「木村檄文」は主流派となったのだが、これを取上げた当時の日本新聞は、まだ発足間もない単なる宣伝用機関紙にすぎなかったのである。

満州日々新聞の工場施設一切を持ち去り、俘虜の中から印刷工や編集者を探し出し、二十年九月十五日第一号を発行したのである。だから初期の新聞には編集員募集の広告が出ており、私もこれに応募してスパイ誓約のキッカケを作ってしまったころである。

このころ、元共産党員と称して、社長コバレンコ少佐をだまし、編集長の地位に納ったのが、元朝日新聞郡山通信員小針延二郎氏であった。当時の事情を雑誌「真相」(二十五年四月号)は、ともかく次のように書いている。

申出た彼の履歴は、元朝日新聞チャムス通信局長で、日本共産党員、内地では特高につけ廻されるから、満州に派遣してもらっていた。という堂々たるものであった。

コバレンコ少佐はすっかり信用して、いきなりセクレタリ・レダクチア(編集書記)に任命した。主として割付をする仕事で、彼が帰国後自称する「編集長」ではない。何しろ、捕虜にはめずらしい日本共産党員というので、他の日本人からも信頼されたが……