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迎えにきたジープ p.178-179 鹿地亘の複雑すぎる過去

迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.
迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.

6 釈放の時、鹿地自身が外苑で自動車からおろして貰ったのではないか、普通なら自宅まで自動車でおくるのがアメリカ人の習慣になっている。

7 出たままの姿で帰るのはおかしい、一年間に別の着物ができているはずだ。

8 自宅にはアメリカから送金があったのではないか、池田や看護婦や子供の一年間の生活は仲々むずかしい。

9 監禁等は芝居で何か別のこと、日共ヘの入党、来年の参議院選挙をあてこんでいるのではないだろうか。

10 鹿地も池田も苦しい生活に堪えることのできない人だ。

二 新版〝ハダカの王樣〟

これらのナゾに応えるものは、複雑極まりない彼の過去の経歴である。

鹿地氏は詩人であり、批評家であり、俳優でもあり、街頭演説もやれば、繊細な水彩画も画く。本質的には弱々しい神経質な人間だけあって、彼の政治活動は目まぐるしく変転した。

日共党員であったこともあるし、国民党の宣伝工作員になったこともあり、延安当時には中共のスパイにもなった。戦時中には中国にあった米国秘密機関の謀略、宣伝工作に従事したかと思うと、一方、米国の秘密を探っていたという疑いをいだく向きもあり、また戦後の東京で

は貿易商社の重役にもなったが、その会社は中日貿易を目的としながら、殆んど商売らしい商売もしていなかったといわれている。

彼は大正末期に「新人会」を経て国際共産党の仕事に携ったといわれている。当時の彼の主な任務は、学生層や文化人グループ内に、共産主義思想の浸透をはかることにあった、とみられている。

昭和七年ごろ、彼はその文化人としての立場をすてて、当時死滅にひんしていた日本共産党を救うために活躍、同九年には日共の他の幹部たちと一緒に逮捕された。そこで彼は日共から離れて大陸へ渡り、左翼作家として反日運動を指導することになった。

上海時代の鹿地氏は、同地で書店を経営していた内山完造氏を通じて、国民政府に喰い入った。そのころの彼は、蒋介石などの要人から公然と命令を受けるという地位にあったが、同時に当時国府に入っていた中共の代表者周恩来からも、秘密裡に指令を受けていたという噂があった。

そんなことも影響したのか、国府は彼を警戒しはじめ、彼が日本人捕虜を集めて作っていた「鹿地調査室」や、その表看板であった「民主日本建設同盟」を廃止してしまった。

鹿地氏は早速米国機関に接近してそこで働らいていたが、やがて戦時中の米国諜報機関とし

て極秘の存在であったOSS(海外秘密情報戦略本部)に近づいた。ここで働らいていたときに、彼は日本人捕虜を利用する詳細な計画を立てた。

迎えにきたジープ p.186-187 三橋の身柄までつけて国警に

迎えにきたジープ p186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.
迎えにきたジープ p.186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。

そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。

そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!

三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。

何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。

そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。

ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。

この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。

三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

迎えにきたジープ p.208-209 鹿地・三橋スパイ事件日誌

迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952
迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952

鹿地・三橋スパイ事件日誌

▽昭和二十七年

九月二十四日 米軍による鹿地氏不法監禁という、いわゆる鹿地事件英文怪文書が大阪国際新聞社に送られ、「鹿地事件」がジャーナリズムに取上げられた。

十一月九日 鹿地亘氏(48)=本名瀬口貢、東京都新宿区上落合一ノ三六〇=は、昨年十一月二十五日午後六時すぎ転地療養先の神奈川県藤沢市鵠沼で散歩に出たまま行方不明になっていたが、同氏夫人の池田幸子さん(42)が藤沢署に捜査願を提出した。

十二月六日 日中友好協会内山完造氏(68)と鹿地氏夫人池田幸子さんら近親者が『鹿地氏は米軍に

不法監禁されている。私は六月まで一緒にいた』という元駐留軍コック山田善二郎氏(24)を伴い、港区芝車町六二の左社代議士猪俣浩三氏を訪れ鹿地氏の救出措置を依頼した。

同七日 一年余にわたり失踪していた鹿地氏は同夜八時半ごろ突然新宿区上落合一ノ三六の自宅に帰ってきた。

同八日 猪俣浩三氏は衆院法務委員会で、鹿地氏からの「私は訴える」という声明書を発表した。

同九日 在日米軍スポークスマンは八日夜、鹿地氏が米軍に監禁された旨の日本の新聞報道について、『鹿地氏は二十六年末に尋問のため一時監禁されたが、その後釈放されている』と語った。

三橋正雄氏(39)=東京都北多摩郡保谷町下保谷二三八=が国警東京都本部に自首、当局では電波法違反で取調べを始めたところ『私は米軍の鹿地氏逮捕の真相を明らかにするために自首した』と、自供した。

同十日 鹿地氏は衆院法務委員会で証人に立ち、昭和十三年三月の漢口の国民政府軍事委員会顧問の反戦運動時代から咋年十一月米軍に拉致され、そして釈放されるまでの経緯を証言した。

同十一日 在日米大使館は鹿地氏失踪以来の沈黙を破って『鹿地氏の逮捕は外国スパイの容疑だった』と発表。また国会でも岡崎外相、齋藤国警長官らが衆院法務、参院外務各委員会などで『鹿地氏にはスパイの疑いがある』と言明した。

同十二日 電波管理局では三橋氏の自供により同夜十一時四十五分から三十分間にわたりソ連からの

無電連絡の呼出しのコールサインをキャッチした。その発信地はウラジオストックであることが確認された。

同十四日 国警都本部では三橋氏は昨年五月、某国人の紹介で鹿地氏と知り合い、鹿地氏が米軍に逮捕されるまで都内や江の島電鉄鵠沼駅付近などで、前後六回街頭連絡していたと自供したことを明らかにした。

同十五日 国警都本部は三橋氏が『アメリカにも通報していた』と自供したことから、二重スパイと認定した。

同二十三日 鹿地氏夫妻は衆院法務委員会で、三橋氏とのレポの模様や米軍により沖繩へ連行されたことなどを証言した。

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

新宿慕情112-113 留置場という〝仮の宿〟

新宿慕情112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。
新宿慕情112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。