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迎えにきたジープ p.094-095 高良女史・ナゾの秘書松山繁

迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.
迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ

フ(無職)らが幹部になっている。この中で注目されるのはユシコフであって、彼は銀座八丁目の千疋屋二階にあるナイトクラブ「ハト」の経営者であった。

クラブ「ハト」というのは代表部員たちの溜り場のような店で、客のほとんどが外人ばかりである。ラ氏の工作舞台であったろうことも当然考えられようが、何よりもユシコフはこの店で二人の白系露人をかくまい、またしばしば代表部へ出入していたのである。

この二人というのはさる二十六年七月二十九日、北海道宗谷村から漁船を利用して樺太へ密航しようとして逮捕され、二十七年七月末に札幌地裁で講和の大赦で免訴になった、ウラジミール・ボブロフとジョージ・テレンチーフの二人である。

そしてまたこのユシコフとボブロフの二人は、二十八年三月十六日、西銀座のナイトクラブ「マンダリン」で、〝モンテカルロの夜〟という偽装慈善パーティの国際バクチを開帳して検挙された主犯でもある。

講和発効となって日ソの関係はまた新しく展開した。当時の岡崎外相の国会での発言によれば、現在の日ソ関係は、『降伏関係ではなく、独立国としての日本とソ連との休戦関係』である。代表部としては前二期の工作の成果が実って、この時期に備えるのを待っていた。

第三期工作は成果の誕生とその育成が狙いだ。高良とみという、人間の善意しか理解できな

い(?)ような老婦人が、モスクワ会議へ代表となって飛入りしてきたのも幸先が良かった。チョロまかしやすいタイプの人である。まさに鴨が葱を背負ってきたという処であろう。

女史は、ハバロフスク郊外六十キロの日本人墓地に詣で、『緑の若草が萌え、やすらかな雰囲気を感じた』という。何故六十キロも離れた墓地ではなく、同地帰還者のいう同市周辺に無数にある墓地に詣でて、一掬の涙をそそがなかったのだろう。女史がどの程度シベリヤ捕虜問題に正確な知識をもち、どうしてその墓を日本人の墓と確認したのであろうか。平和で安らかな一刻であったろう。

さらにまた女史はシベリヤで将軍に会って、日本人戦犯への慰問袋、文通自由を確認したという。ああ、どうして女史は……と、女史の一挙手一投足に不安と危惧とを感じない者があるだろうか。

だが、この高良女史問題も二十七年八月九日付の読売紙に報ぜられた「ナゾの秘書、松山繁」の記事が述べているように(第二集〔赤い広場—霞ヶ関〕に詳述)それは決して偶然ではない。ソ連の対日工作はつねに一貫して流れているのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 高良とみにまつわる「高良資金」とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 The security authorities were working hard to back up the information about member of the House of councilors, Madame Tomi Kora, called “Kora fund”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 The security authorities were working hard to back up the information about member of the House of councilors, Madame Tomi Kora, called “Kora fund”.

細川氏の手許には五千円の現金と一枚の名刺が残されていた。そして、これが〝ナゾの女〟の唯一の手がかりであった。他にも池上(特に仮名)という女性から手紙がきて、未帰還の息子のことで、ソ連代表部のロザノフ氏をたずねなさいといわれた留守家族もある。そして当局筋では、このような不思議なケースが、赤軍第四課の線を解明する一つのカギではないかともみている。

いずれにせよ、赤軍系の日本国内におけるスパイ網は、まだその全貌を秘めたままでいる。次に東京で起きるスパイ事件は果して内務省系であるか、また赤軍系がその片鱗をのぞかせるような事件であろうか。

三 「高良資金」とナゾの秘書

ソ連の対日政策は常に一貫して流れているということで、これを三つの段階に分けてみたのは第一集の通りである。即ち、第一期は終戦後のソ連代表部設置から二十六年六月三十日、共同記者の単独会見までで基礎工作の段階、第二期は二十七年四月二十八日講和発効まで工作具体化の段階、第三期が三十年一月二十五日鳩山・ドムニッキー会談まで仕上げの段階であった。そして現在は第四期で収獲の時期である。

この段階によってみてみると、第一期にあげられるのはソ連引揚である。一見大まかに見え

ながらも、緻密な計画と周到な準備と、さらに徹底した教育とによって、百万日本人の引揚が継続的に行われたことである。

第二期といえば対日講和必至とみて、これら第一期工作の根拠地であった麻布のソ連代表部の退去を予想した、秘密地下拠点設置を急いだ具体化の時期である。この間にスパイ線の整理として、再確認と新採用とが行われて、政治経済情報と日米間の基礎資料とが主として集められた。そうして仕上げの第三期に入ってゆく。

そんな時期のころ、治安当局では「高良資金」という、参院議員高良とみ女史に関する情報の裏付捜査を懸命に行っていた。これは日共をはじめとする左翼系各団体の国外資金流入の捜査にまつわって出てきたもので、その中心人物が二十七年春のモスクワ経済会議の際における入ソ第一号、二十八年春の中共引揚使節団代表の旅券問題などで、「外事特高」関係当局に疑惑の眼でみられていた高良とみ女史だけに当局は緊張した。

調べによると「高良資金」とは、二十八年六月五日からデンマークのコペンハーゲンで開かれた第一回世界婦人会議に、随員として出席した高良とみ女史令嬢真木さん(二五)と、女史の秘書柏木敦子さん(二七)両女が、同会議終了後代表団を解散してから、個人の資格でソ連中共に入り、さきごろパリに帰ってきたさい、真木さんが携行してきたもので、〝莫大な小切 手〟といわれている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 「高良資金」はSCIを通じて現金化?

赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 Did money from the Soviet Union or the Chinese Communist Party flow to the FUDANREN(Japan Federation of Women's Organizations) as “Kora fund”?
赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 Did money from the Soviet Union or the Chinese Communist Party flow to the FUDANREN(Japan Federation of Women’s Organizations) as “Kora fund”?

調べによると「高良資金」とは、二十八年六月五日からデンマークのコペンハーゲンで開かれた第一回世界婦人会議に、随員として出席した高良とみ女史令嬢真木さん(二五)と、女史の秘書柏木敦子さん(二七)両女が、同会議終了後代表団を解散してから、個人の資格でソ連中共に入り、さきごろパリに帰ってきたさい、真木さんが携行してきたもので、〝莫大な小切

手〟といわれている。

その後柏木さんは真木さんと別れてロンドンに行き、真木さんは依然パリに滞在してこの小切手の日本送金、もしくは現金化に苦慮していたという。

一方、①当局が入手した日共秘密文書「組織者」(二十八年十一月十八日付)号外に十二月五、六、七の三日間東京芝公会堂で開かれる、日本婦人大会についての極秘指令が出されており、

②また同大会の主唱者である婦団連(婦人団体連合会)の活動が、十二月以降活溌化しているが、その資金は十一月はじめには殆どなかった事実、

③高良女史が旅券問題でもめながらも強引に代表団に加って中共入りしたさい、このコペンハーゲンの世界婦人会議の招待状を受取って帰り、自分の代理として、息女と秘書を随員に加えて入ソさせた点、

④女史自身が日本婦人大会に関係していることなどから、或いはすでに同資金は日本へ送られ、婦団連に流れているのではないかともみられている。

この資金の出所については、大山郁夫氏の第二回国際平和スターリン賞(十万ルーブル、邦価換算九百万円)ではないかとの説もあったが、当局では高良女史の流暢な英会話という技術と、

クエーカー教徒という看板とで、数次の共産圏旅行に話をつけて獲得した別口の「高良資金」であり、女史の国際的利用価値からこの金が出されたものとみている。

当局がこの資金を注目するにいたった端緒は、ユネスコ内にあるSCI(国際建設奉仕団)派遣員某氏から同日本支部へあてた報告からであったという。SCIというのは、高良女史にまつわってしばしば登場するので一言説明しておこう。これは国際建設奉仕団の略称で、第一次大戦後フランスで戦災をうけた村落復興のため、スイスの哲学者ピエール・セレゾールの提唱で、国境を越えた労力奉仕が行われてから組織化され、治山、治水、道路、住宅建設などを行っている。〝ツルハシとシャベルで人の心に平和を植える〟をスローガンに、日本では、緑十字運動、学生キャンプ、学校植林運動などを行う平和団体である。

さてその連絡の内容は、「(前略)SCIに関しても高良さんは良く理解しておられぬことと存じます。現在まで如何に皆々様はじめ私は苦しめられたか、現在も真木さんに関する小切手を現金にするためラルフ氏(註、SCI本部職員)に頼み、SCIの名をもってするといった方法です。この小切手(大きな金額)に関し、ラルフ氏は何処より出たものか実に不明のものと申し、個人ではとても銀行では注意して金を出さないようです。故に、はっきり取扱わないと申しております。(後略)」とあったもので、高良女史の海外旅行はすべてこのSCIを利 用したものだったらしい。

赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 「高良資金」はわずか三十七万円。娘の生活費?

赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 Tomi Kora explained that she had just sent the balance of her overseas trip as a traveler's check to her daughter Maki in Paris.
赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 Tomi Kora explained that she had just sent the balance of her overseas trip as a traveler’s check to her daughter Maki in Paris.

高良女史の海外旅行はすべてこのSCIを利

用したものだったらしい。真木さんもSCIを利用しており、手紙は高良母娘の度重なるSCIの政治的利用に対し、同本部の激しい不信の意を伝えているという。

このような経緯で、当局ではこの高良資金が、すでに日本に持込まれているかどうかに深い関心を持っていた。日本へ海外からの送金は容易であり、しかも外国銀行はこれを日銀に報告すべき義務を課せられておりながら、多くの場合その義務を守らないため、その実態をつかみにくいというのが実状であり、もちろんこれが〝東京租界〟のガンの一つでもあるのだ。

 そこで当局では現金か宝石、貴金属にして携行すれば、現在の税関検査ではなかなか発見しにくいので、真木さんの帰国のさいは令状をとって身体捜検でも行うという強い意向で、外国為替管理法、政治資金規整法違反として捜査するという方針までが樹てられた。

 ところが高良女史は少しもあわてず「高良資金」と称される〝大きな金額の小切手〟について、こう釈明した。

『それは私が海外旅行に使った費用の残り三百七十ポンド(邦価約三十七万円)で、香港の銀行に私名儀であずけておいたものなのです。小切手というのはトラベラーズ・チェックで発行人は私名儀です。真木が身体を悪くして生活費にも困っているというので、送ってやりました。しかしスターリング・ポンドなので、パリで現金化することはむづかしいのでアチコチ頼んで

歩いたのでしよう』

この答には一点非の打ち処がなかった。しかし、私の主観であるが、この答弁には何か〝準備された答弁〟という、後味の悪い印象が残るのを感じさせられたのだった。女史の答弁の裏付けをとるためには、香港とパリとで調べなければならない。

外国を、ことにヨーロッパからアジヤにかけて歩き廻るような旅行者にとって、たとえそれが四等貧乏国の日本人で、しかもうら若い女性であっても、三十七万円という金額は〝大きな額〟だろうか。しかも、『個人ではとても銀行で注意』するような高額なのであろうか。

在パリのSCI本部の日本派遣員の手紙は、しかもSCI本部職員の言として、その小切手が高額であることを伝えている。しかし高良女史は『僅か三十七万円』という。

果していずれが真実であろうか。私は当局を出し抜いて高良女史に当ってみて、黙って引退って諦めたように、その後の当局は全くこの問題に関して動いていない。当局も女史の三十七万説の前に、私同様黙って引退ってしまったのだろうか。

私の取材が香港、パリへ伸ばさざるを得ないのと同様に、当局の手も香港、パリへ伸びざるを得ない、ということは捜査の打ち切りを意味する。ここに四等国日本の悲哀があるのだ。

戦後の国際犯罪は思想的、政治的背景をおびて、その規模もいよいよ大きくなり、密航、密 貿、脱税、ヤミドル、賭博、麻薬、売春という〝七つの大罪〟が〝東京租界〟を形造った。

赤い広場ー霞ヶ関 p.144-145 村上道太郎はSCIで高良とみに結びついた

赤い広場ー霞ヶ関 p.144-145 Michitaro Murakami proactively promoted and educated communism while in Siberia like as a Soviet political officer.
赤い広場ー霞ヶ関 p.144-145 Michitaro Murakami proactively promoted and educated communism while in Siberia like as a Soviet political officer.

彼は女史関係の資料の整理をしているうちに、外電の伝えた「同行の秘書松山繁」なる人物が、いつの間にか

消えてしまったことに気付いたのである。出入国者の名簿を繰ったが該当者はない。彼が赤鉛筆でチェックした「松山繁」の外電記事は再び情報収集者(インタルゲーション)の許にもどされ、収集者は部下の捜査官(インベスチゲーション)に任務を与えた。適用法令は出入国管理令違反の不正出国である。

捜査官の活動は直ちに開始され、「松山繁」なる人物は村上道太郎氏であり、同氏は六月上旬北京で女史と別れ、帆足、宮腰氏らについて香港経由七月一日に帰国していることが判明した。アナリストは部下の報告書を前にして考え込んだ。その報告書にはこう述べられている。

村上氏は愛媛県越智郡桜井町の出身で昭和十八年九月中央大学卒、昭和十五年九月から同十九年五月まで住宅営団に勤務中応召、甲種幹部候補生となり、軍曹で終戦となった。

二十四年十二月復員後、二十六年四月から学徒援護会に勤務し、学生キャンプの事務主任となっていた。その間SCIのグリーン・クロス運動に関係、日本支部が本年二月十八日設立されると、書記長となって会長の高良女史に結びついた。

そして三月十九日「国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)内、国際建設奉仕団連絡調整委員会からの招待により、会議出席および委員会事業視察のため」と称してフランス、インド、パキスタンへの旅券申請を行い、高良女史の秘書として同二十一日空路出発した。

その後女史と同行入ソし、ジャーナリズムに注目されてから後は、外国通信記者をはじめ飯

塚読売、坂田共同両特派員らに対して、自ら村上なることを隠し常に「松山繁」と名乗り、通訳兼案内役として岡田嘉子との会見や、イルクーツク(村上氏の抑留地)ハバロフスク、北京と同行、六月上旬北京で女史と別れ帆足、宮腰両氏らについて香港経由七月一日帰国した。

帰国後も自宅付近では「村上道太郎」が高良女史の秘書としてソ連中共旅行をしてきたということを隠し、また宮腰氏秘書中尾和夫氏などが、堂々公開の席に現われているにも拘わらず全然表面に立たず、ほとぼりの冷めたころになって、ようやく二、三の集会に「松山繁」として姿を現わしたが、七月下旬ごろから再び姿をかくし自宅でも旅行中というだけで行先がわからなかった。

引揚関係当局の談によれば、シベリヤ抑留間の村上氏は、イルクーツク収容所からライチハ地区に移り積極的な思想宣伝を行って、同地区政治学校講師兼文化部長となり、ロシヤ語にも長じていた。引揚げは二十四年後半の〝赤い復員〟華やかなころ、十二月二日舞鶴入港の信洋丸で中隊副長として上陸した。この引揚梯団は、ソ連に忠誠を誓った第一号として有名な大平元海軍少佐が梯団長で、副長というのはソ連の政治部将校にも比すべき、筋金入りの職名であったという。

また同じ収容所にいた元憲兵少尉大塚六三氏の談によれば、『村上道太郎氏とは昭和二十二年冬 シベリヤのライチハ地区収容所以来、引揚るまで一諸でしたが、彼は収容所の民主グループのアクチブとして活躍、われわれ捕虜の強制的共産化に急先鋒となっていた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.146-147 孔祥熙の直系、冀朝鼎から出た金か…

赤い広場ー霞ヶ関 p.146-147 Michitaro Murakami was a complete red who had been forced to communize prisoners in Siberian camps. Tomi Kora and Michitaro Murakami's travel expenses came from a funds of the Chinese Communist Party...
赤い広場ー霞ヶ関 p.146-147 Michitaro Murakami was a complete red who had been forced to communize prisoners in Siberian camps. Tomi Kora and Michitaro Murakami’s travel expenses came from a funds of the Chinese Communist Party…

また同じ収容所にいた元憲兵少尉大塚六三氏の談によれば、『村上道太郎氏とは昭和二十二年冬

シベリヤのライチハ地区収容所以来、引揚るまで一諸でしたが、彼は収容所の民主グループのアクチブとして活躍、われわれ捕虜の強制的共産化に急先鋒となっていた。私や猿渡少佐(福岡出身)田代中尉(栃木出身)増崎中尉(福岡出身)ら将校グループは、アンチデモクラート、反動分子として彼のために何回も吊し上げにかかり「反動には再び日本の土を踏ませるな」とまでいわれ、引揚船の中でも彼が「生活資金五百円よこせ運動」や「職よこせ運動」などで、ストを指導しており、彼は完全に赤い思想の持主です』という。

当局のアナリストは別のファイルを取出して、ある情報と並べてまた考えた。その情報はこう述べている。

中国財界の巨星として有名な孔祥熙系の商社に揚子公司(在米)というのがあり、同社は中共への戦略物資輸出のため現在閉鎖されているが、同社からアルバート・リーと称する中国系米人が日本へ派遣され、同人がモスクワ経済会議の日本代表出席工作をやり旅費その他一切の資金を中国研究所所長平野義太郎氏に提供した。

平野氏は周知の通りモスクワ会議のためのコペンハーゲン準備会で日本側委員に選ばれ、中日貿易促進会を舞台に同会議出席を熱心に運動した人である。この金が平野氏から帆足、宮腰両氏に渡され、両氏らは香港まで自費で行き香港からはその資金によって旅行した。

ところがその金は孔祥熙氏の直系で、同氏が中共への寝返り工作に起用したといわれる中共系の中国銀行総裁冀朝鼎氏から出たもので、高良女史は冀氏とアメリカのコロンビア大学で同窓であり、北京で同氏と親しく会見していることなどから、村上氏らの旅費もここから出ているものと推測されている。

アナリストは結論を下した。『松山繁こと村上道太郎に関して不正出国の犯罪容疑はない。しかし、これは外事警察としての重要な視察対象である』と。

私はこの動きを察知して村上氏と高良女史とを訪ねてみた。二十七年八月九日付読売の記事によってそれをみてみよう。

記者は幾多の疑問を投げたまま姿をくらました村上氏を追って約十日間、ようやく箱根芦の湖に近い小田原営林署の姥子建設事業所内に妻よし子さんとともにいた同氏を発見、六日午後訪れた。取次から来訪者ときいて驚いた声で『名刺をもらったか?』というのを聞き、居留守を使われてはと強引に居室の戸を叩いて面会を求めた。『何しに来たんです。どうしてわかりました』と詰問調に問いかけながら『新聞記者に会うのははじめてです』とつぶやく。和服の着流し、油気のない長髪、指先がかすかに震えながらも、話す口調などはやはりある種のタイプだ。妻女は原稿の清書をしている。以下一問一答。

赤い広場ー霞ヶ関 p.148-149 「あなたはこの記事を書く気か」

赤い広場ー霞ヶ関 p.148-149 A question and answer with Michitaro Murakami. “You were Communist active in Siberia. Why did you enter the Soviet Union as a secretary of Tomi Kora and used pseudonym?”
赤い広場ー霞ヶ関 p.148-149 A question and answer with Michitaro Murakami. “You were Communist active in Siberia. Why did you enter the Soviet Union as a secretary of Tomi Kora and used pseudonym?”

以下一問一答。

問——あなたは村上道太郎さんか。

答——そうだ。

問——高良女史のソ連旅行中同行した秘書松山繁なる人物はあなたか。

答——そうだ。学生時代から文学をやっていた私のペンネームが松山で、最初UPの記者が秘書松山と報道したので旅行中そのまま通した。旅券その他公文書は村上だから問題ではない。

問——松山というペンネームは作品で発表したことがあるか。

答——ない。

問——発表、使用したことのないペンネームをなぜUPの記者が知っていたか、あなたが名乗らぬかぎり解らないではないか。

答——(しばらく沈黙ののち声を高めて)一体あなたは記事を取りにきたのか。今まで秘書松山で一般に通用し、一般もそう思って何事もなくすんでいるから、問題はないはずだ。なぜ松山が村上であることをホジくろうとするのか。

問——なぜ所在を明らかにせずここにきたのか。

答——原稿を書くためだ。

問——意識的に村上を伏せ、松山と名乗ったのは何故か。

答——高良女史の立場やそのほかいろいろと影響するところが多かったからだ。いまや世界各地で起りつつある事件はすべて国際的つながりがあり、その視野で判断せねばならない。フランスのデュクロ、リッジウエイ両事件など、今度の旅行でみてきた評論的な旅行記五百枚を書くのもそのためだ。これも松山の名で発表する。そんな事を顧慮したからペンネームを使った。

問——シベリヤ時代アクチブだったあなたが、高良女史の秘書として入ソし、しかも偽名していた事は、いろいろな問題を考えさせるし、高良女史の言動の是非論ともからんで国民の一番知りたいことだ。

答——あなたはこの記事を書く気か。(声がやや大きくなる)私は高良氏の正式な秘書でないから高良氏のことはいえない。

問——なぜハバロフスクで遠い墓地に行ったか。市内にも無数にあるということだ。

答——市内や周辺の墓地は三—五人の小さなものなので、雪解けであるということで遠い処へ行った。

問——ソ連の一少将が戦犯への文通、送金自由といったからとて、具体化の見通しもなく

発表したのは?

赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 「彼と私は全く相容れない立場」

赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 In Siberia, Activist Michitaro Murakami ruled the Raichikhinsk camp after the exile of "the Emperor Raichikhinsk" Shizuo Nakanishi, and was called "the Emperor Murakami".
赤い広場ー霞ヶ関 p.150-151 In Siberia, Activist Michitaro Murakami ruled the Raichikhinsk camp after the exile of “the Emperor Raichikhinsk” Shizuo Nakanishi, and was called “the Emperor Murakami”.

問——ソ連の一少将が戦犯への文通、送金自由といったからとて、具体化の見通しもなく

発表したのは?

答——研究中だということだ。私なら発表はしない。高良氏のことにはもう答えない。

問——あなたは共産党員もしくは共産主義者か。

答——党籍は持っていない。(冷笑して)党員に向って党員かときいた時、党員ですと答えるバカはいない。

問——ロシヤ語を話し、アクチヴだったあなたが計画的に女史を入ソさせ、いいように女史を操っていたのではないか。

答——高良氏のことにはもう答えない。

問——抑留地イルクーツクでだれかに会ったか。シベリヤで日本人に会ったか。

答——(沈黙)

問——さっきその他いろいろな影響があるといった、いろいろな影響とは?

答——第一に学徒援護会に迷惑がかかる、私だって生活して行かなきゃならない……(再び声を荒らげて)記事にする気なのか。私はオフレコのつもりで話したのだ。もう話したくない。

約四十分、村上氏は外出の時間があると打切った。最後に声をひそめて、『今さらなにを調

べるんです。もしもこんなことをスッパ抜くと、貴方は、大衆の怒りを買いますよ、国際的にも……』と真剣な表情で、明らかに脅迫の言葉を記者に投げつけた。

高良とみ女史談『村上氏のことは学徒援護会で聞いて下さい。あの人は私の秘書ではありません。前身やらいろいろ隠していたことがあったので、グリーン・クロスの書記長はパリの会議が終るとすぐやめてもらいました。もう何の関係もない人です。入ソおよび在ソ間の私は私自身の意思で行動しました。村上氏に引回されたということはありません。ともかく彼と私は全く相容れない立場にあるのです』

私はここで非常に数多くの疑問を感じたのである。この疑問を当局のアナリストにただしてみた結果、当局でもまた、私と同じような判断を下しているのだった。

疑問の第一は、高良、村上両氏の結びつきである。シベリヤ、ライチハ収容所における村上氏は、〝ライチハ天皇〟こと中西静雄氏がボスとして追放されたのち、その実権を握り地区講師兼文化部長で〝村上天皇〟(シベリヤには何と〝天皇〟の多かったことか)と称されるにいたった。これは政治学校で教育され「人間変革」を完成したアクチィヴィストである。

その彼が復員後SCIの縁十字運動書記長として会長の高良女史と結んだのは、果して故意か偶然かということだ。ここに同氏の父君がやはり緑化運動関係者である、という条件を考えると偶然であるともいえるが、出てきた結果からみると、シベリヤ・オルグの予定されたコー

スでもあるようである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.152-153 疑問の第二は両氏の仲違いである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.152-153 What did Tomi Kora and Michitaro Murakami do in the Soviet Union? What happened?
赤い広場ー霞ヶ関 p.152-153 What did Tomi Kora and Michitaro Murakami do in the Soviet Union? What happened?

出てきた結果からみると、シベリヤ・オルグの予定されたコー

スでもあるようである。

疑問の第二は高良、村上両氏の帰国後の仲違いである。前記の記事でみる通り、高良女史にとっては村上氏は不愉快極まりない存在で『秘書でもないし、委員長はパリで止めてもらい、相容れない立場』と、正面からケンカを売っているが、村上氏は『高良女史のことは語りたくない』と、ケンカが消極的だ。ところが、村上氏の母堂の言によれば、女史への悪感情は相当なもので、『息子を利用するだけ利用したくせに……同じ婦人の立場であんな人が国会議員だなんて恥しいことです。利用できるものは徹底的に利用してあとは顧みない。息子の前途をメチャメチャにしたのはあの人です』と、手厳しい。

しかし、いずれもそのケンカの内情を語らず、ことに在ソ間のこと、ソ連で何をしてきたかということは、二人の間だけの秘密であるので、第三者にうかがい知れない事件があったことは確かである。またこのケンカが両者の表現そのままの通りの事実かどうか、つまり八百長のケンカではないかとも考えられる。

疑問の第三はモスクワ入りの決意の時期と動機である。日本出発時に村上氏はすでに予定していたかどうか、女史がどんな形でこの〝壮挙〟を考え決行したかである。女史の談にあるように『パリで止めてもらった』ならば、不愉快な感情の二人の外国旅行は不自然なことであ

る。

疑問の第四は旅費である。アルバート・リー氏供与説を女史にただしたところ、烈火の如く怒られて、『とんでもない。私の貯金を全部下ろし、それでも足りなくて婦人雑誌社などに寄稿の約朿をして稿料を前借し、村上さんの分まで出してあげたのです。全部私持ちです』という。しかし、この話は後に「高良資金」のことをただした時の、『旅費の残り三十七万円』というのと若干矛盾するようである。三十七万円も余るようならばハシタ銭の前借りの必要もなかろうし、息女の招待以外の外遊滞在費だけでも大変な額であろう。

疑問の第五は村上氏の対高良女史の消極的態度である。母堂があれほど口を極めて女史を攻撃するのに、本人はあまりにも消極的である。母堂の言葉は老婦人の感情的グチと片付けられないものを持っているのである。しかし本人は攻撃せずに語るのを避けている。

疑問の第六は、訪ソ後の女史の意気軒昂振りである。殊に中共引揚使節団のさいの態度などは確信にみちみちていた。

疑問の第七は、第八はと列挙してゆくならばまさに紙数は尽きない。ここでこれらの疑問に応える綜合的判断を下してみよう。

村上氏の緑十字運動参加は、父君の関係もあって自然に行われた。村上氏のシベリヤ・オル グとしての使命は、ソ連側の人選が高良女史を適任と認められてから与えられた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.154-155 中国系米人アルバート・リーとは

赤い広場ー霞ヶ関 p.154-155 Tomi Kora who entered the Soviet Union was given a mission by the Soviet authorities. And she noticed for the first time that she was being manipulated by secretary Michitaro Murakami.
赤い広場ー霞ヶ関 p.154-155 Tomi Kora who entered the Soviet Union was given a mission by the Soviet authorities. And she noticed for the first time that she was being manipulated by secretary Michitaro Murakami.

村上氏の緑十字運動参加は、父君の関係もあって自然に行われた。村上氏のシベリヤ・オル

グとしての使命は、ソ連側の人選が高良女史を適任と認められてから与えられた。女史は村上氏の演出する環境下に欣然として入ソした。

女史は入ソ後にある使命を与えられた。その与えられ方は幻兵団のスパイ誓約署名と同じく拒み得なかったであろう。そして比喩的な表現をすれば、女史は初めて自分は〝猿〟で、秘書という名の〝猿廻し〟がいることに気付いたであろう。女史はその環境下でこれを自分の政治的立場に転用することを図って成功した。しかし村上氏への憎悪は消えない、と同時に自己の秘密を握る同氏を恐れた。

村上氏は「人間変革」を完成した人物である。彼には強い圧力で口止めが行われた。母堂の母親としての吾が子への愛情は深く、若干部分の秘密が母堂へだけは洩れた——?

話は前へ戻ってアルバート・リー氏にもう一度御登場を願わねばならない。「高良女史とナゾの秘書」を書いて数ヶ月後。「東京租界」キャンペーン記事の第十回分「諜報機関」にこう書いてある。

上海の租界にはかって各国の諜報部員が姿を変えて忍び込んでいたことは、日本の陸海軍の例を見ても明らかである。東京が租界的様相を呈しているとすれば、同じことが当然あると思われる。

国警、旧特審局、警視庁がお互いに得た情報を交換して、東京を中心にした在日中共組織の実態を組立てた極秘文書がある。

その中に中共の在日組織は人民革命軍事委に直属するものと、華南軍政委に直属する二つの非公然組織があるとされ、後者の対日責任者は頼洸(在広東)で日本には林美定という人物が特派され、林は部下に姚美戈(京大卒)を持ち、姚はさらに閻西虹(法大卒)という男を使っており、この姚と閻とに資金を提供しているのが目黒区上目黒八の五七六に住む廖伯飛ともう一人中国系米人アルバート・リーだといわれる。以上は極秘の公文書だがこれを一応信頼出来るものとして調べあげ、東京の租界的様相の一典型として読者の判断の資料とした。

警備当局の連中がいま最大の関心を持って知りたがっていることはモスクワ経済会議に呼ばれた高良とみ、帆足計、宮腰喜助氏らに費用の一部を提供したのが、アルバート・リーではなかったかという漠然たる疑いである。

警備当局の言い分によると、話は少し大ゲサだが蒋介石と対立した浙江財閥の孔祥煕が中共ヘ寝返るため大番頭の冀朝鼎を中共政府に派し、自らはアメリカに逃げた。冀朝鼎は現在中共政府に用いられて北京中国銀行総裁となり、中共代表団が国連総会に呼ばれたときも随員の一人になった。一方孔祥熙はアメリカで揚子公司を創設したが、これは中共へ送り込む戦略物資 の買漁りをやったためアメリカ政府によって閉鎖させられた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.156-157 日本人実業家・鮎川が依頼した?

赤い広場ー霞ヶ関 p.156-157 I tried to hear the facts from Tomi Kora, Kei Hoashi, Kisuke Miyakoshi, and Albert Lee, but all denied. A senior Chinese embassy said, “If you ask him, no one will admit it.”
赤い広場ー霞ヶ関 p.156-157 I tried to hear the facts from Tomi Kora, Kei Hoashi, Kisuke Miyakoshi, and Albert Lee, but all denied. A senior Chinese embassy said, “If you ask him, no one will admit it.”

一方孔祥熙はアメリカで揚子公司を創設したが、これは中共へ送り込む戦略物資

の買漁りをやったためアメリカ政府によって閉鎖させられた。そして揚子公司の東京支店として、昭和二十三年にアルバート・リーが日本に派遣されたらしいというのである。

この話を想像したのは日本の警備当局ではなく、はっきりと、アメリカの連邦検察局(FBI)で、日本の当局はそれに基いて行動していると言ってもよさそうだ。

記者は高良とみ女史に会って単刀直入に、訪ソ資金はどこから出たのかと失礼な質問をしてみたが、『全貯金を払い下げて行ったんですよ。私は北京で中国銀行総裁の冀朝鼎には会いましたが、彼はコロンビヤ大学の同期生だったから、懐しくて会ったにすぎない。帆足、宮腰両氏のことは知らないがあの人たちは日本から香港までは少くとも自弁でしたでしょう』と語った。

また当時香港では帆足、宮腰両氏に中共系の大公報記者が単独会見したとき旅費を渡したともいわれていたが、これは両氏に聞いてみると、『とんでもないデマだ』と二人とも否定した。アルバート・リー氏は『それは馬鹿げた評判である。私はアメリカ人だし共産党に資金を出すはずがない。アメリカでは政治的討論は自由だが、日本には旅行者として来ているのだから、政治的な話はしたくない。また揚子公司というのは孔祥熈ではなく宋子文がやっていたと聞いている。彼は蒋介石と義理の兄弟である。その東京支店は富国ビル内の三一公司がそれだと人に聞いたことはある。高良とか帆足という人はひょっとしたら出入りの多い私の事務所に、訪ねて来たことがあるかも知れないが記憶はない。いず

れにしても私の知ったことではない』と語った。

 最後に中国大使館の某高官は、『君たちのもっている情報が正確かどうか立場上言えないが、アルバート・リーが中共治下になってからの天津に往復していたことは確かな情報を持っている』と語った。この高官はつけたし『こういう話は本人に聞いたって、その通りだという人はあるまい』とも言った。

 全くその通りだが、われわれとしては聞いてみる以外に方法はなく、うわさのあることは事実で、うわさをあえて取りあげたのは東京の租界的性格を浮びあがらせるためであった。

 この記事を読んだリー氏は、『アメリカ人として共産党といわれることは、国家への反逆を意味する重大問題だ』と、日本人弁護士を通じて記事の全面的取消を要求してきた。

 そのため私はリー氏側の反証資料も参考として、事実に反するかどうか、再調査したのであった。しかしこの話は私自身で確証を得たものでないことをお断りしておこう。

 鮎川(名は分らない)という日本人実業家が、三人をつれてある米国籍人(この人も名前は分らないが、少くともリー氏の友人であろう)の許にやってきた。そして三人の旅費保証人になってくれという。鮎川氏の息子たちの渡米旅費の保証人になっていたその米人は、気軽く引受けてサインをしてやった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.158-159 高良女史はソ連圏の在日出納責任者さ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.158-159 Albert Lee's lawyer threatened me, "If you don't revoke the article, you'll have $ 4 million in damages and $ 6 million in compensation, as well as a defamation case."
赤い広場ー霞ヶ関 p.158-159 Albert Lee’s lawyer threatened me, “If you don’t revoke the article, you’ll have $ 4 million in damages and $ 6 million in compensation, as well as a defamation case.”

ところがこの三人がソ連に入ったのだから大変である。AP通信の記者がその米人の許へきて、『旅費は貴方が出したそうだが本当か』という。これを聞いてビックリした米人は岡崎外相に会って、『米人が共産党の旅費を出したというのでは大変だ。是非私のサインのある証拠をなくしてくれ』と頼み込んだ。岡崎外相はOKとばかりに一件書類を取寄せて破り捨て公文書毀棄をやってのけたというのである。

 しかしこの話ではリー氏が無関係だという立証はされなかった。相手方の日本人弁護士は私に対して『取消さないなら、名誉棄損と同時に四百万ドルの損害賠償と、六百万ドルの慰謝料請求訴訟も起す』と脅かした。

 私は再調査の結果、原社会部長に『大丈夫です』と報告した。期限付の最後通告がきたが黙殺したところ、ついに訴訟は起されなかったので、私は事実だったと信じている。

 もう一つ記事の後日譚で村上氏のことがある。例の記事の取材の時、村上氏は最後に『もしもこんなことをスッパ抜くと貴方は大衆の怒りを買いますよ、国際的にも……』と私を脅かしたが、別の機会に母堂と令妹とに逢うことができた。

 御両人の語る村上氏の像は、私に〝ナホトカ天皇〟津村謙二氏を想い出させた。村上氏はそ

の後、日ソ親善協会の役員をしていると聞いたが、私には村上氏がやがていつの日にか、『俺はヒューマニストだったンだ』と呟く日があるように思えてならない。だが、その村上氏にあのように強く、口をつぐませているものの正体は何だろうか。

 当局のあるアナリストはこう語っている。

 高良女史はソ連圏の在日出納責任者さ。女史が最適任と太鼓判を押されて、マークされたのだ。そしてモスクワ経済会議にひきつけられてマンマと乗ってきたわけだ。その時に〝莫大な金額〟を渡された。これが「高良資金」の実態で、女史はこれを香港の銀行にあずけている。ソ連圏の国際会議などに出かける者は香港までの七万円の旅費さえあれば、あとは香港で高良名儀のトラベラーズ・チェックを受取ってゆく仕掛さ。娘さんの小切手もその一部だろう。三十七万円だって? ゼロが三つ、四つ落ちているんぢゃないかな。可哀想なのが松山繁君さ。一般論として任務の終ったスパイはどうなるかと思う? 厳重な箝口令をしかれて、あとは飼い殺しさ。しかし、「高良資金」を日本に持ち込まないで、香港にプールしておくところがミソだよ。そこに香港の香港たるところがあるんだよ。ウソだと思ったら、香港の中國銀行ビル華潤公司の孫氏をたずねてみたまえ。まず二億だネ。

 この言葉をそのまま信ずるとしよう。そうするならば、われわれはシベリヤ・オルグの姿とつねに一貫して流れているソ連の対日政策の実態と、そしてソ連秘密機関の周到緻密にして、

完璧な諜報調略の手口とを学ぶことができよう。

赤い広場ー霞ヶ関 p.160-161 対ソ情勢の基礎判断とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.160-161 The Soviet Union, through the Communist Party of Japan, is inciting anti-Americanism against the US imperialism and the Yoshida reaction cabinet. It is also trying to contain the repatriate problems and territorial issues.
赤い広場ー霞ヶ関 p.160-161 The Soviet Union, through the Communist Party of Japan, is inciting anti-Americanism against the US imperialism and the Yoshida reaction cabinet. It is also trying to contain the repatriate problems and territorial issues.

四 〝猿〟と〝猿廻し〟と

二十七年三月七日、つまり日本独立の直前であり、高良女史がヘルシンキからモスクワ入りした四月五日のさらに直前に、この日付の東京新聞が「日本政府筋の見解」として、その対ソ情勢の基礎判断を大要次のように報じている。これはスターリン賞の大山氏夫妻やモスクワ会議の帆足氏らの旅券申請に関連してまとめられたものである。

一、第三次大戦の危機は確定的なものではない。ソ連の政策はあくまで米国との対決を避けながら局限戦争をタネに自由世界に経済的、心理的の混乱を起すことにある。

二、ソ連は目下米国との対決に勝つ自信をもっていない。現在のソ連の主目標は、大戦を避けつつ日独をソ連圏にひき込むことにある。だから日本に進攻した場合に、大戦が起る危険が明らかであれば、ソ連の対日直接侵略は起らない。ソ連は日本の共産化をあきらめてはいないから、日本の国内惑乱は今後強化される。

三、ソ連は平和条約を阻止できぬことを悟って民族主義的宣伝を強化した。それは、日本に米国が駐留を續ける関係上、日本人の反ソ分子でも同時に反米気分をもっているかぎりは、すべて利用できるという考え方である。特にその主力を追放解除の旧軍人、旧極右派、有力実業家においている。

四、このようなソ連の政策は昨春以来組織的に行われている。昨年八月の日共五一年テーゼが、敵は「米帝国主義及びそれと結びつく吉田反動内閣」と規定して、資本主義を敵とすることを一時やめ

ていること(いわゆる民族資本家を利用するねらい)、九月平和会議でソ連が修正案を提示して、日本側の制限付再軍備を承認するとともに、米軍駐留にあくまで反対したこと(これは日本人の壊夷思想に訴えたものでゾルゲ事件と同じく極右を利用するねらい)、十一月の革命記念日にソ連代表部が「保守反動」分子を招待し、また日ソ貿易を示唆したこと、本年元日のスターリン・メッセージが、「独立」を呼びかけたこと、有力実業家をモスクワ経済会議にひき込もうとしていることなど、一貫した反米闘争扇動の手段である。

五、一方講和発効後日本側の出方如何では、ソ連は従米のソ連代表部の如き特権的な工作基地を失うことを心配している。しかも工作基地を残すために、日本政府と正式交渉を行えば、引揚、漁船捕獲問題などソ連に不利な問題が提起され、日本人の反ソ機運を強め反米機運を弱める。そこで政府を無視して直接裏口から日本国民に好意を示し、特に有力者に働きかけて政府をケンセイさせ、一方的に特権的工作基地を保持しようとするねらいである。

六、そこで日ソ関係が法的に明確化しない前にソ連向旅券を発給することは、日ソ関係は不安定のままでよいと日本政府が認めることを意味し、その結果は引揚問題、領土問題と解決を不可能にし、今後の日ソ関係を一方的にソ連の決定に委ねることになってしまう。

七、日本としては日本政府を無視するソ連の工作に敢然対処し、引揚、領土などの諸問題が解決しないかぎり、ソ連の平和攻勢は受付けないという態度にでることが必要だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 「日ソ親善協会」の正体とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 The Japan-Soviet Trade Promotion Association was established as an external organization of the Japan-Soviet Friendship Association. And there was a Siberian-Organizer Minoru Tanabe.
赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 The Japan-Soviet Trade Promotion Association was established as an external organization of the Japan-Soviet Friendship Association. And there was a Siberian-Organizer Minoru Tanabe.

こうした判断に立って政府筋では、日ソ関係があいまいのうち旅券問題を処理することは正常な日ソ関係をもたらす道ではなく、前述のような態度こそソ連の日本分解政策を阻止するとともに、シベリヤ同胞の帰還を促進する最短路であるとしているようである。

この第四項が、私の分類によると二十六年六月三十日から二十七年四月二十八日までの第二期工作具体化の段階である。と同時に第五項の工作基地としての、ソ連代表部確保の努力と退去への準備とが併行して行われた。

確保への努力とは実績的に居坐ることであり、退去への準備とは高毛礼氏らの〝地下代表部員〟への任務の移譲であった。実績的に居坐るということは直接日本国民へ好意を示し、特に政財界の有力者に働らきかけて政府を牽制しようということである。

そうして講和発効以後の第三期仕上げの段階に入っていった。この時から三十年一月二十五日、鳩山・ドムニッキー会談までの間に「日ソ交渉」という収獲への手が、抜かりなく打たれていった。

その一つの手が高良工作である。政府が旅券を発給せず、しかもソ連へ入国したものを旅券法違反で罰しようとしても、ともかく日ソの往来を事実として実績に加えてゆこうというのである。そしてこれは成功した。前記第六、第七項のウラをかかれたわけである。そのかげにあ

るシベリヤ・オルグ村上道太郎氏の功績を見逃すことはできない。

その第二の手は日ソ親善協会の組織の整備と強化である。まず二十七年夏に協会内の貿易対策部が独立して日ソ貿易促進会という、日ソ親善協会の外郭団体として発足した。これは通商代表部と商社とを斡旋する機関で商談はやらない。すなわち日ソ貿易の組織(オルグ)機関である。

そして、私はここにもシベリヤ・オルグの一人、田辺稔氏を見出すのである。同氏はマルシャンスクからハバロフスクを経て、二十三年六月栄豊丸で引揚げてきた元陸軍中尉である。在ソ間は主としてマルシャンスクにおり、内務労働部長などをつとめてきた。

組織の整備と強化は着々として行われた。千駄ヶ谷は原宿署を間にはさんで、日共本部と反対の地にある「日ソ親善協会」は、協会を中心に「ソ連研究者協会」「日ソ図書館」「日ソ学術文献交流センター」「日ソ学院」「日ソ通信社」「ソ連帰還者友の会」などといった、外郭もしくは内部機関が目白押しに並んでいるほどである。

この間、日本政府から否認されて、いわばママ子扱いをされている代表部は、退去するが如く、退去せざるが如くみせかけながら、遂次人員を縮少していった。その経過は前述の通りである。人員の縮減ということは、日本人で代行できる仕事はこれを移譲するということだ。文化活動はすべてが日ソ親善協会系各機関の担当となった。