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迎えにきたジープ p.038-039 光っているスパイの眼と耳

迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari's words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.
迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari’s words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.

小針証人が立上って証言をはじめる。

『……各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴェト側の情報部の部長がその収容所の政治部の部員に対しまして、お前に処に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。

……この男ならば絶対に信頼できると、ソ連側が認める場合にはスパイの命令を下します。

……そうしてスパイというのは、殆どスパイになっておる人は、非常に気持の小さい男で、ビクビク者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。

……こういう男を選んで、それに新聞社から行って連絡しまして、こういうことをやれ、その代り後のことは心配するな、後で問題が起った場合にはすぐ連絡する……』(参院速記録による)

委員会は深夜の十時まで続いた。

二 私こそスパイなのだ

私が小針氏の言葉で反射的に想い浮べたあるデータというのは、実にいまわしい私自身の想い出であったのである。

私は終戦時新京にいたのだが、公主嶺でソ連軍の捕虜になった。九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満州里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じながら街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わっていた。

イルクーツクの西、チェレムホーボという炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞いた。

恐怖のスパイ政治! ソ連大衆はこのことをただ教え込まれるように〝労働者と農民の祖国、温かい真の自由の与えられた搾取のない国〟と叫び〝人類の幸福と平和のシンボルの赤旗〟を振るのではあるが、しかし、言葉や動作ではなしに、〝狙われている〟恐怖を本能的に身体で知っている。彼らの身辺には、何時でも、何処でも、誰にでも、光っているスパイの眼と耳があることを知っている。

人が三人集れば、猜疑と警戒である。さしさわりの多い政治問題や、それにつながる話題は自然に避けられて、絶対無難なわい談に花が咲く。だが、そんな消極的、逃避的態度では自己保身はむずかしいのだ。

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

迎えにきたジープ p.040-041 同胞の血で血を洗う悲劇

迎えにきたジープ p.040-041 Hundreds of thousands of Japanese became Soviet military POWs. In chronic hunger, some have become Soviet spies in return for a piece of bread. They forged and informed the facts, and a tragedy occurred that forced many compatriots to die.
迎えにきたジープ p.040-041 Hundreds of thousands of Japanese became Soviet military POWs. In chronic hunger, some have become Soviet spies in return for a piece of bread. They forged and informed the facts, and a tragedy occurred that forced many compatriots to die.

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

 平常から要領のうまい最初の男を嫌っていた最後の人の良い男は、真剣な表情で前の二人に負けないだけの名文句を考えるが、とっさに思いついて『ヤポンスキー・ミカド・ターク!』(日本の天皇なんかこうだ!)と、首をくくる動作をする。

 これが美辞麗句をぬきにして、ソ連大衆が身体で感じているソ連の政治形態の、恐怖のスパイ政治という実態だった。

戦争から開放されて、自由と平和をとりもどしたはずの何十万人という日本人が、やがて、〝自由と平和の国〟ソ連の軍事俘虜となって、慢性飢餓と道義低下の環境の中で混乱しきっていた。その理由は、俘虜収容所の中まで及ぼされた、ソ連式スパイ政治形態から、同胞の血で血を洗う悲劇が、数限りなくくりひろげられたからだった。

一片のパン、一握りの煙草という、わずかな報償と交換に、無根の事実がねつ造され、そのために収容所から突然消えて行く者もあった。

収容所付の政治部将校(多くの場合、赤軍将校のカーキ色軍帽と違って、鮮やかなコバルトブルーの

制帽を冠ったNKの将校である)に、この御褒美を頂いて前職者(憲兵、警官、特務機関員など)や、反ソ反動分子、脱走計画者、戦犯該当者などの種々の事項を密告(該当事項の有無にかかわらず)した者がいたという事実は、全シベリヤ引揚者が、その思想的立場を超越して、ひとしく認めるところである。

だがこの密告者たちは、そのほとんどが、御褒美と交換の、その場限りの商取引にすぎなかった。これは昭和二十一年末までの現象であった。

二度目の冬があけて、昭和二十二年度に入ると、身体は気候風土にもなれて、犠牲も下り坂となり、また奴れい的労働にもなじんでくるし、収容所の設備、ソ連側の取扱もともに向上してきた。生活は身心ともにやや安定期に入ったのである。

ソ連側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。

その一つは、或る種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼び出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。

迎えにきたジープ p.042-043 潤沢にパンなどを入手

迎えにきたジープ p.042-043 Eventually, the day came when this question was solved as my own experience. I was called by a sentry on a snowstorm night.
迎えにきたジープ p.042-043 Eventually, the day came when this question was solved as my own experience. I was called by a sentry on a snowstorm night.

ソ連側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。

その一つは、或る種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼び出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。

 その二は、人事係のカミシャ(検査)と称して、〝モスクワからきた〟といわれる将校が、ある種の日本人をよんで、直接、身上並に思想調査を行った。ある種というのは、殆どが大学高専卒の人間で、しかも原職が鉄道、通信関係や、商大、高商卒の英語関係者であった。

 その三は、もはや二冬を経過して、ソ連にもちこんだ私物は、被服、貴重品類ともに、略奪されるか、売尽くすかでスッカラカンになっていた。そんなわけで金(ルーブル紙幣)がないはずの人間が大金をもっている。或は潤沢にパン、煙草、菓子などを入手しているという不思議である。

 その四は、ある時期からその人間の性格が一変して、ふさぎこんでくること。しかも、それらの連中は、何かと尤もらしい理由のもとに、しばしば収容所司令部に呼び出された。そして、そののちにそのように変化するか、変った後において呼び出されるようになるか、そのどちらかである。

 ソ連のスパイ政治——収容所内の密告者——前職者、反ソ分子の摘発——シベリヤ民主運動における〝日本新聞〟の指導方針——民主グループ員の活動——思想係の政治部NK(エヌカー)将校——呼出しとそれにからまる四つの疑問——収容所内のスパイ——ソ連のスパイ政治。

 これらのことがいずれも相関連して、疑惑の影を深めていった。

 作業場ではソ連労働者が『ソ米戦争は始まるだろうか』『お前達の新聞には次の戦争のことを何とかいているか』としきりにたずねていた。「日本新聞」の反ソ(反米?)宣伝は泥臭いあくどさでしつように続けられている。アメリカ——日本——ソ連。そしてスパイ。私は心中ひそかにうなずいていたのだった。

 そして、やがてこの疑問が私自身の体験となって解かれる日がやってきた。私はある吹雪の夜に歩哨に呼び出されたのである。

三 吹雪の夜の秘密

『ミータ、ミータ』兵舎の入口で歩哨が声高に私を呼んでいる。それは昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめにもう零下五十二度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。北緯五十四度という、八月の末には早くも初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が雪の氷粒をサアーッサアーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に疲れ切った私は、二段寝台の板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしている処だった。

——来たな! やはり今夜もか?

今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、

直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

迎えにきたジープ p.044-045 日本新聞社への応募書類

迎えにきたジープ p.044-045 "Why do you want to work for the Nihon Shimbun?" "First of all, I want to research the Soviet Union. Secondly, I want to study Russian. "
迎えにきたジープ p.044-045 ”Why do you want to work for the Nihon Shimbun?” “First of all, I want to research the Soviet Union. Secondly, I want to study Russian.”

——来たな! やはり今夜もか?

今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、

直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

『ダ、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜だった。この日はペトロフ少佐の思想係着任によって、具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉がカンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの中佐が待っていた。

私はうながされてその中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記人していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。

私はスラスラと正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト気がついてみるとそれはこの春に提出した。ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集のさいの応募書類だ。

『何故日本新聞で働きたいのですか』

中佐の日本語は叮寧な言葉遣ひで、アクセントも正しい気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロシヤ語の勉強がしたいのです』

『宜しい、よく分りました』中佐は満足気にうなずいて、帰ってもよいといった。私が立上って扉のところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。

『パダジジー!(待て!)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭抗の作業について質問されたのだ。いいか、分ったな!』

見知らぬ中佐が説明するように語をつぎ、『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。

こんなふうに言含められたことは、はじめてであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞという予感がした。見知らぬ中佐のことを、歩哨は〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思った。

迎えにきたジープ p.046-047 そして三回目が今夜である

迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. "Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element." In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.
迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. “Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element.” In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.

それから一ヶ月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から「民主グループ」という積極的な動きに変りつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを、少佐自身の意見は全くはさまずに質問した。

結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。

これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、或る時には反動分子にもなれということ、即ち〝地下潜入〟であり〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ連側政治部の見方でもあったのだろう。

この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。

そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。

——何だろう、日本新聞行きかな?

忙しい身支度は私を興奮させた。

——まさか! 内地帰還ではあるまい!

フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮べていたのだった。ニセの呼び出し、地下潜行!

——何かがはじまるんだ!

吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走りぬけ、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。廊下を右に折れて突き当りの、一番奧まった部屋の前に立った歩哨は一瞬緊張した顔つきで服装を正してからコツコツとノックした。

『モージノ』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほどよくあたためられた部屋に入った私は、何か鋭い空気を感じて、サッと曇ってしまった眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されていた関係もあって、左手は真直ぐのびてズボンの縫目にふれていたし、勢よく引きつけられた靴の踵が、カッと鳴ったほど厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに は、みたことのない若いやせた少尉が一人。

迎えにきたジープ p.048-049 何か大変なことがはじまる!

迎えにきたジープ p.048-049 I heard the dull sound of "Clunk" and looked down at Petrov's desk. ——Gun! The muzzle of a Browning type pistol point at me.
迎えにきたジープ p.048-049 I heard the dull sound of “Clunk” and looked down at Petrov’s desk. ——Gun! The muzzle of a Browning type pistol point at me.

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに

は、みたことのない若いやせた少尉が一人。その前には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ピンと天井の張った厳めしいこの正帽は、NKだけがかぶれるものである。

密閉された部屋の空気はピーンと緊張していて、わざわざ机の上においてある帽子の、眼にしみるような鮮かな色までが、すでに生殺与奪の権を握られた一人の捕虜を威圧するには、充分すぎるほどの効果をあげていた。

『サジース』(坐れ)

少佐はかん骨の張った大きな顔を、わずかに動かして向い側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当っていた。私は扉の処に立ったまま落ちつこうとして、ゆっくりと室内を見廻した。八坪ほどの部屋である。

正面にはスターリンの大きな肖像が飾られ、少佐の背後には本箱、右隅には黒いテーブルがあり、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれた文字が印象的だった。

歩哨が敬礼をして出ていった。窓には深々とカーテンがたれている。

私が静かに席につくと少佐は立上って扉の方へ進んだ。扉をあけて外に人のいないのを確か

めてから、ふり向いた少佐は後手に扉をとじた。

『カチリッ』

という鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルッと震えた。

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞えない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの密室で、私は二人の秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ろうとしているのだ?

呼び出されるごとに立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人人だけで、他の者は一部しか知り得ない組織になっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は静かに大股で歩いて再び自席についた。それからおもむろに机の引出しをあけて何かを取りだした。ジッと少佐の眼に視線を合せていた私は、『ゴトリ』という鈍い音をきいて、机の上に眼をうつした。

——拳銃!

ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。

迎えにきたジープ p.050-051 私のいう通りのことを紙に

迎えにきたジープ p.050-051 Major Petrov said, "Do you wish to serve the Union of Soviet Socialist Republics?"
迎えにきたジープ p.050-051 Major Petrov said, “Do you wish to serve the Union of Soviet Socialist Republics?”

ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう

と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。

少佐は半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシヤ語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳した。

『貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと、願いますか』

歯切れのよい日本語だが、私をにらむようにみつめている二人の表情と声とは、『ハイ』という以外の返事はは要求していなかった。短かく区切って、ゆっくり発音すると、非常に厳粛感のこもるロシヤ語で、平常ならば国名もエス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと正式に呼んだ。その言葉の意味することを、本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

『ハ、ハイ』

『本当ですか』

『ハイ』

『約束できますか』

タッ、タッと息もつかせずにたたみ込んでくるのだ。もはや『ハイ』以外の答はない。

『ハイ』

私は興奮のあまり、続けざまに三回ばかりも首を振って答えた。

『誓えますか』

『ハイ』

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙もあたえずに、少佐は一牧の白紙をとりだした。

『宜しい。ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい』

——とうとう来る処まで来たんだ!

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

『日本語ですか、ロシヤ語ですか?』

『パ・ヤポンスキイ!』(日本語!)

ハネかえすようにいう少佐についで、能面のように表情一つ動かさない少尉がいった。

『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。

『チ、カ、イ』(誓)

『………』

『次に住所を書いて、名前を入れなさい』

『………』

迎えにきたジープ p.052-053 私には終身暗い影がつきまとう

迎えにきたジープ p.052-053 "I pledge to do whatever is ordered for the Soviet Socialist Republic. I understand that if I break my vow, I will be punished by the law of the Soviet Socialist Republic."
迎えにきたジープ p.052-053 ”I pledge to do whatever is ordered for the Soviet Socialist Republic. I understand that if I break my vow, I will be punished by the law of the Soviet Socialist Republic.”

『今日の日付、一九四七年二月八日…』

『私ハソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス(ここにもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス。

モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス』

不思議にペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮が退いてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要がないことに気付いて、誓約書の文句も分らぬうちに、サインをさせられてしまったナ、などと考えたりした。

この誓約書を今まで数回にわたって作成した書類と一緒にピンで止め、大きな封筒に納めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

『プリカーズ!』(命令)

私は反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

『ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)一ヶ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿を作れ!』

ペールウイ(第一の)というロシヤ語が耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

『ダー』(ハイ)

はじめてニヤリとした少佐が立上って手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立った。少尉がいった。

『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬよう』

ペールウイ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループがパンをバラまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフのもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と

私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。

迎えにきたジープ p.054-055 寝もやらず思い悩み続けた

迎えにきたジープ p.054-055 "Is it right that I wrote the pledge? Was it too weak to say yes?" After returning to my barrack, I rolled over on the bed and continued to worry about it without sleeping.
迎えにきたジープ p.054-055 ”Is it right that I wrote the pledge? Was it too weak to say yes?” After returning to my barrack, I rolled over on the bed and continued to worry about it without sleeping.

そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と

私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩をガッシとつかんでいる赤い手のことを思い悩むに違いない。そして『……モシ誓ヲ破ッタラ……』その時は当然〝死〟を意味するのだ。そして、『日本内地ニ帰ッテカラモ……』と明示されている。

ソ連人はNKの何者であるかをよく知っている。私にも、NKの、そしてソ連の恐しさは、充分すぎるほど分っているのだ。

——だが待て、それはそれで良い。しかし……一ヶ月の期限の名簿はすでに命令されている。これは同胞を売ることだ。私が報告で認められれば早く内地に帰れるかも知れない。

——次の課題を背負ってダモイ(帰国)か? 私の名は間違いなく復員名簿にのるだろうが、私のために、永久に名前ののらない人が出てくるのだ。

——誓約書を書いたことは正しいことだろうか? ハイと答えたことは、あまりにも弱すぎただろうか?

あのような場合、ハイと答えることの結果は、分りすぎるほど分っていたのである。それは『ソ連のために役立つ』という一語につきてしまう。

私が、吹雪の夜に、ニセの呼び出しで、司令部の奥まった一室に、扉に鍵をかけられ、二人

の憲兵と向き合っている。大きなスターリン像や、机上に威儀を正している二つの正帽、黙って置かれた拳銃——こんな書割りや小道具まで揃った、ドラマティックな演出効果は、それが意識的であろうとなかろうと、そんなことには関係はない。ただ、現実にその舞台に立った私の、〝生きて帰る〟という役柄から、『ハイ』という台詞は当然出てくるのだ。私は当然のことをしただけだ。

私はバラック(兵舍)に帰ってきてから、寝台の上でてんてんと寝返りを打っては、寝もやらず思い悩み続けた。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は止んだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

四 読売の幻兵団キャンペイン

しかし私に舞い込んできた幸運は、この政治部将校ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は次回のレポである三月八日を前にして、突然収容所から消えてしまったのである。ソ連将校の誰彼に訊ねてみたが、返事は異口同音の『ヤ・ニズナイユ』(知らない)であった。そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年 十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。

迎えにきたジープ p.056-057 〝暗さ〟におびえている人たち

迎えにきたジープ p.056-057 This organization was formed around 1947, with personnel selected at each camp in Siberia, each of which was forced to write down a pledge.
迎えにきたジープ p.056-057 This organization was formed around 1947, with personnel selected at each camp in Siberia, each of which was forced to write down a pledge.

そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年

十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。

翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の集団入党のための代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた。

だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキに佇んで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は船中から海に投じ、或者は復員列車から転落し、また或者は自宅で縊死をとげているのだ。

私はこの謎こそ例の誓約書だと信じて、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮び上ってきたのだった。現に内地に帰っているシベリヤ引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。

そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。

彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即ちソ連のもつ暗さである——と斗う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。

このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると

一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。

二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。

三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。

四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。

五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。

などの状況が判断されるにいたった。

迎えにきたジープ p.058-059 「幻兵団」七万人をチェック

迎えにきたジープ p.058-059 The Colonel of MVD asked me (Major Masatsugu Shii). "What do you think of the postwar world situation? What do you think of the causes of the war?"
迎えにきたジープ p.058-059 The Colonel of MVD asked me (Major Masatsugu Shii). “What do you think of the postwar world situation? What do you think of the causes of the war?”

このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると

一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。

二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。

三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。

四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。

五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。

などの状況が判断されるにいたった。

私はこれらのデータに基いて、二十五年一月十一日第一回分を発表、それから二月十四日までに八回にわたってこのソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から曝いていった。この一連の記事のため、このスパイ群に〝幻兵団〟という呼び名がつけられた。

反響は大きかった。読者をはじめ警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも半信半疑であった。CICは確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴援護局の一部の人しか知らなかった。引揚者調査を担当した、NYKビルが、その業務を終ったときチェックされた「幻兵団」は七万人にも上っていたのである。

アカハタ紙は躍起になってこれをデマだといった。読売の八回に対して十回も否定記事を掲載し、左翼系のバクロ雑誌「真相」も『幻兵団製造物語』という全くのデマ記事をのせて反ばくした。その狼狽振りがオカシかった。だが、それから丸三年、二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件でこの幻兵団は立証されたのだった。

五 ソ連的〝間拔け〟

ラ事件の立役者の一人、志位元少佐はスパイ誓約の事実をこう述べている。

最後に四月の二十日過ぎてから私たちの分所に出入りしはじめたのが、モスクワのMVD(エムベデ)から来た大佐とその専属通訳の中尉であった。この大佐が大きな権力を持っていることは私たちにすぐわかった。

四月二十八日朝、大佐の呼び出しを受けて作業を休んだ私は、九時頃分所のオーペルのシュイシキン中尉の案内で本部に大佐を訪れた。大きな手を差し延べて挨拶をかわした後、大佐は上等な口付煙草(パピロース)「カズベック」を私にすすめながら、がっちりした体躯にも似合わない静かな声で口を開いた。

『ガスポジンS(Sさん)、今日はひとつゆっくりした気分で私とつき合ってください。私は、日本人のあなた方がどんな意見を持ち、どんな希望を抱いているかを知りたいのです。どうぞ率直に話してください……。そこでまずどうですか、ラーゲリの暮しは、なにか不満な点はありませんか?』

私は、ハハンかれは検閲官だな、それでこんなことをたずね、所長もかれを特別扱いにしたのだなと軽く考えた。

大佐は私の率直な返事に苦笑してしきりに紅茶を飲めと私にすすめながら、今度は話を飛躍させて世界情勢に移していった。

『あなたは戦後の世界情勢をどう考えられますか? また、それがどうなると思われますか?』

大佐はさらに 『それではあなたは戦争の原因をどう考えますか?』と、たずねた

迎えにきたジープ p.060-061 仕事は情報です。拒否すれば

迎えにきたジープ p.060-061 "You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?"
迎えにきたジープ p.060-061 ”You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?”

話は日本の天皇制に進んで峠に辿りついた感があった。私は、天皇制がロシヤのツァー制とは類似点はあるが本質的に異なること、ツァーはロシヤ人にとって圧制の張本人であり怨嗟の的であったが、天皇は日本人ことに私たち軍人にとっては慈愛の化身であること、共産主義者がその最高のモラルとしている「献身」ということが終戦時の天皇にはっきりした言動として示されたこと、などを説明して、以上の点から戦後ソ連が天皇を戦犯に擬したり「日本新聞」で天皇制だけでなく天皇個人をも非難するのは堪えがたい不満を覚えると答えた。

『それはあなた個人の意見ですか?』

『そうです。だが旧日本将校ならば恐らく同様だと思います』

『それでは将来もし日本で革命が起ったときにあなたはどうしますか?』

『私はもちろん日本人の最大多数の意志にしたがいます。しかし、天皇をどうこうということは日本では起らないと思いますし、万が一そんなことになったら私は断然天皇のため銃をとります』

通訳がこの「銃をとります」を現在形に訳したため、大佐は一寸眉をひそめたが、また仮定の形に改めたので納得したようであった。この日は、このほかに日本軍隊の生活や太平洋戦争などについて雑談をかわしてタ方私はバラックに帰った。この間、大佐はただ聞くばかりで自分の意見は全然はさまず、通訳の中尉も時々用語のメモを取るだけであった。

翌日、私は再び大佐に呼ばれた。今度は私の家庭の事情を細かくきいて、私の妻が終戦時北鮮に疎

開していたことを知ると、かれは私に呼びよせてやろうと、いいだした。

『いや結構です、もう日本に帰っているでしょうから……』

冗談じゃないと、私はあわてて断った。正午近くなって突然、大佐は、真面目な面持でこう切りだした。

『そこで、私はあなたにお願いがあるのだが……』

『どんなことでしょうか』

『あなたは日本にとってと同様にソ連にとっても有能なんです。それで将来帰国後ソ連に協力してもらえないでしょうか』

『……』

『仕事はもう多分あなたもおわかりのように情報です。強いてやれとはいいませんが、これを拒否すればあなたの前歴から見ていつ帰国できるかわからないし、帰国できないかもしれません』

『……』

『すぐにとはいいませんから、午後の三時にここに来て返事してください。よい返事をお待ちしています』

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚 われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。

迎えにきたジープ p.062-063 早く帰って妻や母に会いたい

迎えにきたジープ p.062-063 "I will cooperate." The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.
迎えにきたジープ p.062-063 ”I will cooperate.” The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚

われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。だがそのためにはソ連の「スパイ」にならなければならない。自分だけ先に帰ってしかも「スパイ」の誓約を果さないという手もあるが、それは、なにをされるかわからないし、また私の性分としてそんな卑怯な真似はできそうもない。といって帰りたくないのか、いや帰りたい。早く帰って妻や母に会いたいし、新しい生活を築きたい。それじゃ、あっさり帰ったらいいじゃないか。

私の考えが堂々廻りしているうちに、食堂の壁に取りつけられた手廻し時計はもう三時になってしまった。よし当ってみよう、道は開けるだろう、と私は協力の腹を決めて大佐の室をノックした。

『協力します』

『そうですか、それはよかった。改めて感謝します』

これで私の運命は半分ばかり開けそうになった。大佐はあからさまに喜びの色を顔にあらわして、明朝また来るように私に告げた。

次の日、私は大佐と中尉が準備した誓約書と声明書に署名し、帰国後の予定住所、連絡上の合言葉などを協定した。いずれもきわめて形式的なものであったが、ただこの日の通訳が例の語学生の一人であったため、かれが『学』のあるところを示そうとして、

憶良らはいまはまからむ子泣くらむ
そのかの母も吾をまつらむぞ

という万葉の古歌を合言葉に選んだのには、私も苦笑せざるを得なかった。

その日の午後は、大佐から私に今後とも「民主運動」に近づかないことなどの注意があった後、私は大佐の小宴に招かれた。

大佐にすすめられるままに強烈なヴォッカやコニャックをしたたか飲んで、酔歩蹣跚の態で私がバラックに戻ったら、仲間の中隊長が不審顔で私にたずねた。

『あやしいぞ、いいことしたな』

私は、これこそ緻密なようで尻尾の出るソ連式の「間抜け」だと苦笑しながら毛布を頭からかぶって寝てしまった。

六 細菌研究所を探れ!

また、CICが舞鶴で摘発した二人の幻兵団員が当局へ提出した答申書(原文のまま)をみてみよう。

▽斎藤氏の場合

一九四五年十月三十日、私の大隊はチェレムホーボ第31の2(マカリオ)収容所に到着、爾来独逸より輸送し来れる、人造石油装置部分品の卸下作業に従事中、当年は異状なし。

一九四六年一月初め頃、或る日ソ連軍一将校(少尉)私達の部屋に来り、エンヂニャーは居ないかと聞けり。部隊長(光延克郎中佐)は一人居る、それはこの斎藤である、と答えられたり。このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

迎えにきたジープ p.064-065 訊問事項次の如し。

迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.
迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.

このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

1、氏名 斎藤卓郎 年 月 日 生 三二歳

本籍 鹿児島県日置郡——

父母 健在 弟妹五名健在

父の職業 役場員 母 農業

2、出身学校 鹿児島県立中学校、第七高等学校、九大工学部

3、就職先 ——造船所

4、入隊の状況(略)、少尉任官は一九四三年十二月一日

5、部隊の任務(略)

6、航空発動機、軍艦、旋盤の断面略図、之はMVDは何れも知らざる為、極く簡単にスケッチにてごま化せり。

以上にて第一回目は終りたり。それから又暫くして一九四六年二月の半ば頃、又も上記MVDに例の彼の室に呼び出され、上記事項のスケッチ不十分なる点を更に書く様強要せられたり。

以後当地マカリオを出発に至る迄異状なし。

私は玆に於ては倉庫の建築作業に指揮官として(ソ連側監督より指名)従事せり。

一九四六年十一月十八日私達の大隊は帰還の為集結地マルタに向い出発せり。(約一〇〇〇名の中八五〇名)残り一五〇名は其の後の情報によればチェレムホーボ第31の1(炭坑作業)に移動せる模様なり。

一九四六年十一月十九日マルタ第三八二の2収容所に到着。当収容所の修理等雑作業に従事中異状なし

一九四七年二月の或る日(夕方)、MVDより呼び出され、訊問調査を受けたり。この時のMVDは大尉一、通訳(見習士官)一にして「マカリオ」に於ける調書を見つつ訊問せり。

二月末頃、部下一〇〇名を連れべリーの製材工場に出張、三月二十日頃二十三時過ぎ所長の命により歩哨来り、直ちに之と同行、翌四時三十分頃マルタに到着。

収容所門にて歩哨次の如く言えり『八時になったら所長の所へ行け』と。八時に所長の所へ行きし所、暫く待てとのことで待つこと約三十分ばかり、例のMVDの通訳来り私を彼等の例の場所に連行す。この日は上記大尉、通訳の外に中佐居り、主としてこの中佐が訊問せり。

訊問事項次の如し。

1 過日大尉が調べし調書により同様の事を調査せり。

2 作業の状況

『皆元気で百%以上毎日遂行しあるも食糧は二食分にて少く、段々弱りつつあり』と答えたり。

マカリオで二回、又此のマルタへ来て二回目。私は何が故に斯様に取調べを受けるのだろうと不思議でたまらなかった。〝エンジニャー〟なる為なのか? 若し彼等の気に触れる様なことがあったら一生涯なつかしの祖国日本へは帰れない。炭坑作業手として送られ、遂にシベリヤの土と化せねばならないか? と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

迎えにきたジープ p.066-067 私はソ連に味方するであろう

迎えにきたジープ p.066-067 Colonel arrogantly ordered me to sign the following: "When I return to Japan, I promise to provide information in the fields of politics, transportation, economics, mainly my specialized heavy industry."
迎えにきたジープ p.066-067 Colonel arrogantly ordered me to sign the following: “When I return to Japan, I promise to provide information in the fields of politics, transportation, economics, mainly my specialized heavy industry.”

と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

3 日本には壁新聞があるか。壁新聞をどう思うか?

日本には斯様なものはない。然し学校に於ても会社に於ても、之と同じ様な雑誌を発行して各人に配布している。

意見の発表として又宣伝用として、或は啓蒙の為、壁新聞は良いと思う。

4 日本は何故に敗北したか?

イ、日本の科学がおくれていた。

ロ、日本の社会機構が悪かった。

ハ、戦争の目的が間違っていた。

5 ソ連の参戦をどう思うか。

正しかった。戦争に苦しみある世界人民の解放戦であった。

6 ソ連の国家社会制度を如何に思うか?

良ろしい、ソ連は理想的国家である。

7 ウン、そうである。日本も将来斯様な国家にならねばいけない。然るに日本の資本家、財閥は米国の資本家財閥と手を握り、ソ連に対峙している。将来米ソ戦が起るかも知れないが、若しも米ソ戦が勃発したら、お前は何れに援助するか?

私はソ連に味方するであろう、と言わざるを得なかった。

これ等の事は総べて白紙に問、答とも私に筆記署名せしめたり。

尚、大尉は通訳を通じて露語にて書き、之にも私の署名強要せり。

8 私が『ソ連に味方するであろう』と答うるや、中佐は傲然と威猛高に次の事を署名せよと命じたり

イ、私の偽名を川とす。

ロ、私は日本へ帰ったら政治、交通、経済、主として私の専門たる重工業の分野に於て、情報を提供することを約束する。

一九四七年三月—日                署 名

茲で中佐は私に何か質問はないかと云へり。私は茫然として放心状態にあり、一刻も早く此のノロハシキ部屋を出たかったので別にないと答へたり。中佐は又次の如く私に筆記署名せしめ、暗記を強要せり(書面を見ずに五—六回も云はせたり)

9 あなたは何時企業をやるつもりですか?

私は金がある時に。

一九四七年三月—日                署 名

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

迎えにきたジープ p.068-069 早まった事をしてはいけない

迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.
迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

10 それから、日本に帰ったら、お前は何処に住むか、如何なる職業につくか、と強硬に訊間せり。私は次の如く答へたり。

現在日本は極度の就職難にあり、自分は日本に帰って就職出来るや否やは分らない、と。

然るに中佐はどうしても之に答へなければ、一向に私を解放しそうになかったので、入隊前の会社名と、住所を其の場のがれに告げたり。

会社名 某造船所

住 所 某市

以上にて筆記、署名は終り、次のごとき注意事項を考へつつ云へり。

イ、お前が今日玆に呼ばれたことを友達が聞いたら、自動車故障の為に之が修理に呼ばれて、今迄此の作業をやっていた。

ロ、決して他人に言ってはならない。

ハ、日本に帰って、人々からソ連の状況に就いて聞かれたら、私は森林で木材の伐採ばかりやっていたので、ソ連の状況については全然知らない。

ニ、共産主義に関する書物等は絶対手にしてはいけない。

ホ、ソ連大使館には絶対に行ってはいけない。

大体以上で、後は通訳がソ連新聞プラウダの日本欄(確か経済上の情報なりしと記憶す)を通訳して聞かせたり。そして私は遂にこのノロワシキ部屋より放り出された。

私は自分の署名した事の重大さに今更の如く驚き煩悶した。如何にするか? トボトボと出張先に向い、歩きながら考えた。

私には責任がある。部下を全部元気で内地に帰す迄は、如何なることがあっても早まった事をしてはいけない。又日本へ帰ったら直ちに届け出たら何とかなるであろうと。

それから出張先に帰って作業に従事中三月二十五日、又もマルタより歩哨来れり。又かと思っているとき『お前達は近く四月の初め日本へ帰る』早速マルタに帰り、出港の日を待つ間三月二十九日頃、事務所迄来い、との通知で行きし所部屋には例の通訳ありたり。そして愈々日本へお帰りになることになりましたね、お目出度う。一寸外へ出ましょうといって、彼は急いで外へ出た。私もその為に急いで帽子をかぶらずに外へ出た所を、彼の友人と称する奴に写真を写されてしまった。(服装は脱帽、将校服、坊主頭である)失敗った、と思ったが既に遅かった。通訳は左様ならと言い、握手を求めて去っていった。

一九四七年四月八日、私達はマルタを出発、四月十七日ナホトカに到着した。私の大隊は五月十二日の船で帰還した。私達旧将校は如何なる理由か残された。——私の大隊で一部の将校は帰還したが——。そして第六中隊という勤務中隊に編入され、毎日パン工場、軍酒保その他雑作業手として作業に従事した。その後日本新聞社高山氏から私達の残された理由について次のような話を聞いた。

迎えにきたジープ p.070-071 日本新聞社より反動と見なされ

迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.
迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.

当時(四月)ナホトカは内地帰還の同胞で入る幕舎もなく、屋外に数日も寝なければならない状況であった。これを整理する為には帰還部隊の中より人員を選り出し、出張作業に出すことになり、私達はその指揮官要員としてであった。そして一部の将校は指揮官となり出張作業に出て行き、私達は残された。そして一日千秋の思いで内地帰還の日を待った。私達は何かにつけて日本新聞社より反動と見なされた。そして私達は到底帰れそうにもなかった。

六月の中旬、私達はスーチャンの将校収容所に送られた。しかし如何なる理由なりしか同所では私達を受取ってくれなかった。それで又ナホトカに帰り今日に至ったのである。そして九月二十日突如内地帰還の命に接したわけである。ナホトカに於ても又帰還の船に於ても、私はかのノロワシキ悪夢の如き件につき幾度か煩悶した。道には二つしかなかった。自決するか、それとも上陸したら直ちに警察に届け出るか——かの命令を毛頭履行する意思のない私には——そして私はこの第二の手段をとり直ちに自首した次第である。

▽山根氏の場合

一九四五年十一月三日私の大隊はイルクーツク第32の12収容所に到着、山中の伐採作業を行い過度の労働と粗悪なる給養の下で全員の約三分の二が倒れた。その為全員は伐採作業に対しては極めて恐怖の念を持っていた。

一九四六年夏第10収容所である肉工場作業に転用されたので、やっとホッとし健康も逐次に回復した。

私は今迄大隊付であったが、一九四六年十一月五日大隊長を命ぜられた。そして十二月十日帰還の為、中間集結地であるマルタ収容所に集合した。

一九四七年一月二十六日深夜、地区司令官の呼出しであると称し、六一六号家屋に連行せられた。そこにはシュザイエル大尉と通訳二名がいて身上調査を受けた。そしてそれは今迄にない微に入り、細に入ったものであった。

氏名 山根乙彦 二九才

家庭の事情 父の職業 大学教授

父母の友人の氏名、住所

本人の友人の氏名、住所

軍歴 某旅団司令部 獣医大尉

以上の様な調査は更に四回にわたり夜十一時より午前二時頃迄行われた。

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。

2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

迎えにきたジープ p.072-073 次の情報を提供することを誓約

迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.
迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。
2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

1 お前は重労働五十年の刑に処せられる。

2 お前の大隊は直ちに伐採に出す、人事権は私が掌握している。

3 お前の大隊は一番遅れて内地に帰す。

しかし私は室を出た。二月十一日夜突然私の大隊は伐採作業の命を受けた。

三月十五日迄に前後二回呼出され、署名を強要されたが応じなかった。しかし極度の過労の為つぎつぎと部下は倒れて行くのを見て、私は遂に三月十六日署名した。

1 私の偽名を丸太波乗と云う。

2 『私はクレムペラーを持って来ることが出来ませんでした』と云って来る者(それは如何なる国の人であるか判らない)に次の情報を提供することを誓約する。

イ 内地に於ける細菌研究所の位置、内容、研究主任者氏名。

ロ 内地に於ける軍需工場の位置、内容、主任者氏名。

一九四七年三月十六日      署名

その後で中佐に、もし私が内地に帰還後情報を提供しなかったら如何になるかと問うた所『アナタの御想像にまかせます』と答えた。

注意事項として次の事項を云われた。

1 ソ連大使館に積極的に近づいてはならない。

2 舞鶴で米軍の調査を受けても、山の中で何も知らないと答えよ。

三月十七日私の大隊は伐採作業の中止を命ぜられた。

四月二日マルタ収容所で例の通訳と写真機(小型ライカ)を持った地方人に、写真撮影されようとしたが、目的を示さないので拒否した所、日本新聞にのせると称して半身脱帽(将校服、坊主頭姿)で三枚写された。

八月十五日ナホトカで突然例の通訳が来て『元気ですか、それでは願います』と云われた。

九月二十五日ナホトカ出港、二十七日舞鶴港に到着した。私の落着先は鳥取市内某方であるが、本年末又は明春には札幌市内某方(父の友人)に行く予定である。私の様に任務を命ぜられた者は、マルタ収容所だけでも二十名を下らない。

招かれざるハレモノの客

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

迎えにきたジープ p.074-075 今や「事実上のソ連代表部」

迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of "wolf in sheep's clothing". Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep's skin.
迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of “wolf in sheep’s clothing”. Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep’s skin.

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

この事実は二十七年五月三十日に日本政府が代表部に対して行った、「講和発効後存在の法的根拠を失った」旨の正式通告を否定して、存在を認めるという事実上の承認にもひとしいことである。

この〝変転〟も、太平洋戦争以前に、さかのぼってみてみると、まさに七変化の〝狸〟である。まず戦前は正式な外交関係があり、大使館として認められていたことは、いうまでもあるまい。

だが、戦争ぼっ発と同時に、米英の連合国側大公使館は敵産として管理され、独伊は同盟国として、ゾルゲ事件が起きたほど寬大な自由を得ており、終戦直前まで中立国であったソ連大使館だけは、〝自由+監視〟という、まさに〝狼+羊の皮〟といった中途半端な立場におかれていた。そしてついに狼は羊の皮をカナぐりすてて本性を現わしたのであった。中立国の大使館は三転して敵産になると、アッという間もなく、対日理事会駐日ソ連代表部に変った。この期間がすぎたのが、二十七年四月二十八日の講和発効と同時の、対日理事会の消滅の時からである。

五度変って「元」ソ連代表部となった。これは日本政府がその存在を認めず、外交上の恩恵

によって、あえて退去強制をしないということからである。従って電話帳でも、「モ」の字の項に配列されたのである。

それが今や「事実上のソ連代表部」となった。やがて近い将来に、再び大使館にもどって、その七変化を終るに違いない。

また対日理事会時代の内容は、日本側にとって全く分らないのは止むを得ないのだが、最盛期には家族も含めて約五百人はいただろうといわれている。

その維持費はすべてPD(占領軍調達命令書)でまかなわれていたのであるから、つまり日本政府の負担だったわけである。これを二十五年度でみると、四千二万、六千七百六十円で、各国代表部中のナムバー・ワンであった。

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円

 合計     五一五三万・四七六二円

迎えにきたジープ p.076-077 〝自主外交〟の第一石

迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.
迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円
 合計     五一五三万・四七六二円

また、同特派員の調べでは、当時二百三十四名の部員で、二百七十九台のダブル・ベッドと七百九脚の椅子と百四の長椅子とを占有していたという。(この経費の項は日本週報二十九年二月二十三日号より)

「元」代表部になってからの最初の帰国者はデレヴィヤンコ中将の跡をついで代表となったA・P・キスレンコ少将であった。二十七年六月二十七日夕六時、横浜を出帆した英船フェンニング号にのった彼は次のようなメッセージを残している。

『日本とソ連両国の友好がつづくことを祈っている。われわれ代表部では、現在日本の敗戦に深く同情している。一刻も早く日本が独立と復興の偉業を達成することを欲して止まない。』

夫人と首席秘書A・ヴォゾフィリン中尉を伴った少将は、名古屋で一時上陸を申請して拒否されたのち、香港、北京経由でモスクワへ帰っていった。

一方政府では七月二十六日を期限として、出入国管理令による在留資格取得の手続を求めていたところ、ソ連側は先手を打って二十二日に七十九名の部員名簿を提出した。

つづいて九月二十四日、横浜出帆の仏船ラ・マルセイエーズ号で、バルヂチェ大佐ら二十四名が帰国、六十六名となった。

三つの工作段階

二十七年五月三十日、政府はソ連代表部に対して、ソ連代表部は講和発効後存在の根拠を失った旨の、正式通告を行うと同時に、外務省からその通告内容の発表を行った。

これは同月六日の宮崎外務省情報文化局長の、初の外人記者会見における談話や、さらに同十五日の吉田首相の国会答弁など、一連の観測気球をあげたのち、スエーデン政府の斡旋拒否に逢って、止むなく取らざるを得なかった〝自主外交〟の第一石だった。

この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ った。