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読売梁山泊の記者たち p.296-297 半年ほどで控訴を取り下げてしまった

読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。
読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。

裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。

「一審は、有罪。懲役六カ月、猶予二年というところかな。二審でついてあげるから、一審は中村先生におまかせしなさい。拳銃不法所持の訴因について、争う余地があるから。でも、一審の裁判官は、冒険を試みはしないから、やはり有罪だよ」

私の、小笠原の指名手配犯人という認識は、横井英樹を射った拳銃の、不法所持犯人という認識であった。

ところが、小笠原が奈良旅館で語ったように、実際の射撃犯は千葉で、小笠原は誤手配であったことが、明らかになっていた。検察は、その時点で、小笠原の供述のなかに、むかし、拳銃の入ったボストンバッグを、東宝撮影所のロッカーに隠した、とあるのを取り上げて、私が小笠原を知る以前の、拳銃不法所持犯人と、訴因を変更していた。

——バカらしい。オレは、横井事件が発生してから、小笠原を紹介され、その時点で、横井を射った拳銃の不法所持犯人という認識はあった。それが、誤りだったとなれば、犯人という認識が崩れたのだから、無罪だ!

何年も前の、違う拳銃の不法所持犯人という認識など、まったく無かったのである。小野弁護士は、そのことを指して、「争う余地がある」と、いわれたのだった。

東京高裁で二審が始まった。小野主任弁護人で、審理が進んだ。当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。

小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧

問室に伺って、公判の打ち合わせがある。公判当日は、車で本郷の私邸にお迎えに行き、車でお送りする。次回の打ち合わせ、次回の準備と、私は、すっかりくたびれてしまい、控訴審が始まって、半年ほどで、控訴を取り下げてしまった。一審判決が確定した。懲役六月、執行猶予二年の刑であった。そして、猶予期間の二年間を、無事に、なにごともなく、満了したのだった——。

それと同時に、イヤ、それよりも早く、私は保釈出所すると同時に、文芸春秋本誌に、「我が名は悪徳記者・事件記者と犯罪の間」という、長文の原稿を書いていた。これは、その年、昭和三十三年十月号に掲載され、その年度の、文春読者賞にランクされるほどの評判で、これで、精神的な決着をつけ、控訴取下げ、判決確定、猶予期間満了で、物理的な決着をも、つけていたのだった。

いま「新聞記者のド根性」はいずこへ

この、私の安藤組事件の期間、原四郎は出版局長として、新聞から離れていた。だからこの〝事件〟に関しては、原のアクションはなかった。そして、この年の秋、新聞週間で講師になった原出版局長は、こういった。

「週刊誌ブームというのも、ラジオが思わぬ発達をとげたために、起こったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌など、つぶしてしまわねばならないと思う」

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版

局長の言葉である。

読売梁山泊の記者たち p.298-299 あれほどの優秀な記者があのようなばかげたことを

読売梁山泊の記者たち p.298-299 「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とするその講演の中に、次のようなクダリがある。
読売梁山泊の記者たち p.298-299 「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とするその講演の中に、次のようなクダリがある。

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版

局長の言葉である。

そしてまた、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へもどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。

「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」

私の名前が出て来るのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。

原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変わっているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。

また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。

「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。

彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと『あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。

帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」

尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。

私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺害未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果たして〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集

局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。

読売梁山泊の記者たち p.300-301 「新聞記者は疑うことではじまる」

読売梁山泊の記者たち p.300-301 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。
読売梁山泊の記者たち p.300-301 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。

本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集

局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。

《彼には、記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う》——原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。

これは、正しいことである。

私は刑事訴追を受け、有罪となったが、公判を通じて明らかになったことは、安藤組という暴力団とは、過去に全く関係がなかったこと、金銭その他の利をもって誘われたものでもなく、全く「五人の指名手配犯人逮捕の記事独占」のためであった、ということである。

そのため、社歴十五年の記者経歴を棒に振り、刑事訴追されて有罪となる——となると、やはり客観的には〝バカげて〟いるし、原因としては、〝記者としての基礎訓練不充分〟としか、判断しようもないのが事実であろう。

私自身の主張はさておき、だから、原のいうことが正しいというのだ。では一体、〝十分な基礎訓練〟とは、何を指していうのであろうか。

私たちの時代は、小山栄三の「新聞学」であったが、そのうん奥をきわめることなのだろうか。否である。新聞学の学究が、〝完成された記者〟でないことは、明らかである。

刑事は〝現場百遍〟という。犯罪の手がかりは、すべて現場にあるということだが、これも「読書百遍、意義おのずから通ず」からきたものだ。事件記者の完成は、デカになることではない。

「新聞記者は、疑うことではじまる」

この言葉は、読売の先輩「昭和史の天皇」をまとめていた辻本芳雄記者に、私が教えられた言葉である。批判の眼を持つことである。抵抗の精神である。

〝記者として十分な基礎訓練〟とは、私は、この批判の眼、抵抗の精神を、徹底的に、自分自身に叩きこむこと、だと思う。

まず第一に、自分自身を批判する、自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。

私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は、〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。

五人の犯人を生け捕り、毎日一人宛、捜査当局に逮捕させて、五日間の連続大スクープと、事件の解決功労者——この恍惚たる〝成果〟に陶酔しようとする、三田記者に対して、まず〝三田記者自身が抵抗〟せねばならなかったのである。原局長をはじめとする先輩諸氏の訓育も、この〝記者冥利に尽きる成果〟の前には、まず抵抗の精神が、空しくマヒしてしまった、つまりルールを忘れたのであった。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと

考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。

読売梁山泊の記者たち p.302-303 「原四郎の時代」は終わった

読売梁山泊の記者たち p.302-303 正力松太郎の企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させ、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、原四郎の社会部を主軸とした〝事件の読売〟という目玉が、ついに日本一の新聞という地位に就かしめた。
読売梁山泊の記者たち p.302-303 正力松太郎の企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させ、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、原四郎の社会部を主軸とした〝事件の読売〟という目玉が、ついに日本一の新聞という地位に就かしめた。

この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと

考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。

私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。

しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。

そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培われていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」といったのであろう。

部下に対する信頼も〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当たって、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。

しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。

そして、もうひとり——原の良き理解者であった務臺光雄がいる。

務臺が逝ったのが、平成三年四月三十日。その一月から六月までの、平均ABC調査部数は、読売をトップとして、九百七十六万五千部弱の数字をあげている。

実に、一千万部を目前にして、務臺は逝ったのであった。その胸中たるや、無念の一語に尽きるであろう。

正力松太郎の、当時としては、斬新極まりない企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させた。もちろん、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、それをバックアップしたからである。

加うるに、原四郎の紙面作り。社会部を主軸とした、〝事件の読売〟という目玉が、ついに、日本一の新聞という地位に就かしめたのだった。

昭和二十三年の発言ではあるが、「週刊誌などは、新聞が増ページしてツブせ!」という原の見通しは、〈新聞がしっかりしない〉こともあって、現実からは、乖離した結果となっている。

そして、務臺が苦労しつづけた宅配制度もまた、崩壊に瀕している。労働力が足りない——これは、合売制への転換を示唆している。

この秋、読売の築き上げた、一千万部近い部数は、どうなってゆくのであろうか。「原四郎の時代」は、確実に終わったのだ。

正力松太郎、務臺光雄、原四郎という、昭和の新聞史に、その名を刻する三人の、鎮魂の想いをこめて、この稿を終わる——。

読売梁山泊の記者たち p.304-305 私はまさに胸がついえたのだった

読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。
読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。

あとがき

平成三年四月三十日、読売の務臺光雄・名誉会長が亡くなられた——その通夜か、葬儀だったか、読売新聞の幹部が、祭壇右側にズラリと並んでいるのを見た時、私の胸はヒタとつぶれる想いであった。

正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。

だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。

昭和四十四年十月九日、正力松太郎社主が亡くなった。これは、年齢順で止むを得ないこと。昭和四年八月、務臺さんは、正力さんに請われて、読売に入社した。当時の部数は十七万部。いうなれば〝三流紙〟であった。

朝日、毎日という一流紙に拮抗すべく、正力と務臺は、手を握り合った。「おれといっしょにやろうじゃないか」と、正力にこういわれて、務臺は、その場で決意を固めたのである。(読売百年史)

つまり、正力さんの同志である、務臺さんが健在であったから、私は、「年齢順で止むを得ないこと」と、いう。

だが、昭和二十年代の、読売の興隆期に、名社会部長と謳われて、七年もその地位にあった、原四郎・元副社長が、平成元年二月十五日に亡くなり、いままた、務臺さんまでを失った時、亨さんが、

あのような姿でいることに、私は、まさに胸がついえたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.306-307 松本清張を著作権法違反で東京地検に告発

読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。
読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。

だが、昭和二十年代の、読売の興隆期に、名社会部長と謳われて、七年もその地位にあった、原四郎・元副社長が、平成元年二月十五日に亡くなり、いままた、務臺さんまでを失った時、亨さんが、

あのような姿でいることに、私は、まさに胸がついえたのだった。

務臺、原の両先輩の知遇を得て、「正論新聞」という小(こ)新聞を、読売退社後八年を経て創刊し、二十五年を閲した私の、渡辺・覇道社長への批判が、ほとばしり出たのだった。

原さんの没後、私は、「原四郎の時代」というタイトルで、正論新聞の第四面を埋めて四十二回の連載を書きつづけてきた。それは、今日の読売の隆昌を築き上げた、正力、務臺、原の三巨人に対する、鎮魂のことばであった。

およそ、八百枚もの原稿を、半分の四百枚に圧縮して、「鎮魂の詞」とせよ、といわれる、紀尾井書房、小林康男社長のご好意に、私はさらに甘えて、「序に代えて」という一章を加えさせて頂いた。

これは、「人物往来」誌(三年十二月号)に書いた、渡辺・覇道社長批判の一文なのだが、これまた、三十余枚の長文だったので、削りに削って、フンイキがややこわれてしまった。興味を持たれる向きは、原文にお目通し頂きたい。

それともう一点。「立松事件」の項で、河井信太郎検事と、その〝お庭番〟大竹宗美・文春嘱託記者、児玉誉士夫氏(いずれも故人)の三角関係について、私が知る限りの事実を書いた部分が、立松事件の流れに、直接、関係がないということから、割愛せざるを得なかったことを、読者にご報告しておかねばならない。というのは、松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、

私が告発している部分だから、である。

河井検事の〝お庭番〟の役を勤めていたのが大竹宗美記者で、彼は、同時に、松本清張の代作者でもあった。だから、河井検事を招いて、銀座の鶴の家で、松本に〝偏見にみちた検察〟論を語らせて、それを、裏付け取材することなく、文章化したのも、大竹であった。彼は、その席に立会した。

また、「昭和史発掘」に対して、各方面から〈盗作〉の非難が集中したが、その時、文春の出張校正で、勝手に加筆したり、削除していたのも大竹であったし、「深層海流」では、私の著書「東京秘密情報シリーズ」を、ひょうせつしたのも、大竹の仕業であった。

私は、松本を著作権法違反で、東京地検に告発した。文化庁の担当官などに、「盗作まちがいなし」という〝鑑定〟を受けてのことだったが、当時の東京地検次席検事であった河井は、自分の子分という、大熊昇検事(その直後病没)を担当として、「時効不起訴」の処分とした。起訴すれば、松本ばかりか、自分の〝側近〟の大竹をも、刑事被告人とせざるを得なくなる、からであった。そして、松本はただひたすら、逃げまくった——立松事件の仕掛人も河井。松本清張もまた同罪なのである。

さて、時代は大きく変わりつつあり、新聞もまた、変革を迫られつつある。専売店による宅配制度は崩れ始めて、すでに一部では、合売がすすんでいる。読売の一千万部近い日本一の部数は、専売店の宅配制のもとでのみ、可能だったのである。

さる十一月五日から、毎日新聞は題号までを変えた。それは、起死回生策なのであろうが、同時に、 時代の流れでもある。

読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき)

読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき) 著者略歴 奥付
読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき) 著者略歴 奥付

さて、時代は大きく変わりつつあり、新聞もまた、変革を迫られつつある。専売店による宅配制度は崩れ始めて、すでに一部では、合売がすすんでいる。読売の一千万部近い日本一の部数は、専売店の宅配制のもとでのみ、可能だったのである。
さる十一月五日から、毎日新聞は題号までを変えた。それは、起死回生策なのであろうが、同時に、

時代の流れでもある。能力のある記者は、他社にトレードされるなど、終身雇用制も崩れ、署名記事の時代が訪れるであろう——そのとき、竹内四郎、原四郎という、二人の社会部長が育てた記者たちが、どんな仕事を、どんなふうに書いていったか、温故知新もまた、意味なしとはしない。

古い新聞記者像を知ることが、明日の記者の仕事に、プラスになることを信じて、書き殴った八百枚に手を入れた。脈絡が切れ、興味もまた、半減したおそれもあろうが、ご寛恕頂きたい。

一冊の単行本が、世に送り出されるまでには、多くの黒子たちの、目に見えない労苦と努力があればこそ、なのである。私も、その黒子代表として、版元の今井國藏編集長に、感謝の意を表したい。

ことに、この書は「正論新聞の二十五年を祝う会」(平成三年十一月二十六日)に、刊行を期したので、時間の制約もきつく、なおさらのことであった。

そして、巻頭の「献詞」の如く、著者の半世紀にも及ぶ、ペン一本の生活の、基本を与えて下さった先哲への、感謝に満ちた、この著のあとがきとする。

平成三年十一月吉日                       三田 和夫

著者略歴
大正10年岩手県に生まれる。昭和18年日大専門部芸術科卒業後、同年読売新聞社入社、社会部に配属。同年11月から22年11月まで兵役のため休職。復員後復職し33年に同社を退社。42年に「正論新聞」を創刊、今日に至る。著書「最後の事件記者」(実業之日本社)「黒幕・政商たち」(日本文華社)「正力松太郎の死のあとに来るもの」(創魂出版)など多数。

読売・梁山泊の記者たち<戦後・新聞風雲録>
1991年12月10日 第1刷印刷
定 価 1,500円(本体1,456円)
著 者 三田和夫
発行者 小林康男
発行所 紀尾井書房
東京都千代田区紀尾井町3-33 郵便番号102
電 話 東京(03)3261-2800
振 替 東京1-13842
印刷所 新日本印刷株式会社
製本所 東京美術紙工事業協同組合
落丁本・乱丁本は小社あてにお送りください。送料小社負担にてお取り替えいたします。
ISBN 4-7656-1061-6 C 0023 P 1500 E

読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで 注文カード 裏表紙 腰巻裏 表紙カバー 背

読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで
読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで
読売梁山泊の記者たち 見返し 注文カード ISBN4-7656-1061-6 C0023 P1500E 紀尾井書房 三田和夫著 読売・梁山泊の記者たち 戦後・新聞風雲録 定価 1,500円(本体1,456円)
読売梁山泊の記者たち 見返し 注文カード ISBN4-7656-1061-6 C0023 P1500E 紀尾井書房 三田和夫著 読売・梁山泊の記者たち 戦後・新聞風雲録 定価 1,500円(本体1,456円)
読売梁山泊の記者たち 裏表紙 腰巻裏 紀尾井書房 ISBN-7656-1061-6 C0023 P1500E 定価 1,500円(本体1,457円)
読売梁山泊の記者たち 裏表紙 腰巻裏 紀尾井書房 ISBN-7656-1061-6 C0023 P1500E 定価 1,500円(本体1,457円)
読売梁山泊の記者たち Cover 表紙・背・裏表紙
読売梁山泊の記者たち Cover 表紙・背・裏表紙
読売梁山泊の記者たち 本体表紙・裏表紙
読売梁山泊の記者たち 本体表紙・裏表紙

バレンタインの翌日が命日

四ツ谷の病院に入院していた三田和夫は、バレンタインに贈られた、新宿・小鍛冶のケーキに少しだけ口をつけ、翌日には、冥土へ旅立った。

2月15日は、三田和夫の命日。著書のアップロードもだいぶ進んだので、一杯やろうと思う。

黒幕・政商たち jacket flap カバーそで

黒幕・政商たち jacket flap カバーそで 惹句:暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!
黒幕・政商たち jacket flap カバーそで 惹句:暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!

暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!

マイ・ホームの夢を喰う、住宅公団汚職。大銀行を舞台の取り屋の暗躍。国民の血税を吸って太る企業。——これらのマスコミでは報道されない色と欲の裏街道で、陰の主役たちは、何をもくろみ、何をしているのだろうか? 高級官僚群と政、財界人たちとの驚くべきつながりを、事実に即して描く異色のリポートである。

本書に実名で登場する著名人は600余名にのぼるが、なかでも佐藤栄作、川島正次郎、田中角栄、中曽根康弘の各氏や、児玉誉士夫、稲川角二、植村甲午郎、足立正、藤井丙午、水野成夫など、日本を動かす実力者たちの素顔が巧まずして描き出される。

黒幕・政商たち p.004-005 preface まえがき

黒幕・政商たち p.004-005 preface まえがき
黒幕・政商たち p.004-005 preface まえがき

まえがき

昭和三十年の夏、当時、読売新聞社会部の外事・公安担当記者であった私は、戦後十年の裏面史として、貯めこんだ取材メモを材料に、「東京コンフィデンシャル・シリーズ」という、二冊の著書をまとめた。

四部作の予定が、二冊に終わったのだが『迎えにきたジープ』『赤い広場—霞ヶ関』という、既刊のその本のあとがきに、

「真実を伝えるということは難しい。…しかし、真実の追及という、この著での私の根本的な執筆態度は認めて頂きたい。
真実を伝えるということは、また同時に勇気がいることである。…私も本音を吐くならば、この著を公にすることはコワイのである。不安や恐怖を感ずるのである。だから、何も今更波風を立てなくとも、といった卑怯な妥協も頭に浮かんでくる。しかし、『真実を伝える』ということのため、私は勇気を奮って、関係者の名前を実名で登場させたのである」

と、書いた。

その当時から、また十余年——。

戦後史。この激動の二十年をまとめるべき時がきているようである。そして私は、読売を退社してフリーになるという、身辺上の変化はあったけれども、相変わらずペンを握って、〝現代史の目撃者〟たることをつづけてきた。

「報道・言論の自由」は、国民の「知る権利」の代理行使として、その「自由」の意義があるのである。

戦後二十年とはいえないが、ここ数年の間に現象化してきた、あの事件、この事件。それらの事件の本質を見極めるには、少なくとも、マッカーサーがコーン・パイプ片手に、厚木飛行場に降り立った時点からの、ひそやかな底流に、眼を注がねばならない。

私たちは、ともすれば、事件という現象の動きに、流れに、そして華やかさに、眼を奪われて、その本質を、見誤る恐れがある。この〝眼を奪う〟ものが、マスコミの伝える「虚像」である。虚像に狎れて、真実を見失うのである。しかし、しっかりと真実を踏まえて、虚像に酔おうというのならば、それもまた可なり、である。

戦後の一連の汚職事件、昭電、造船にはじまり、最近の日通にいたるまで、そしてまた佐藤三選のカゲの動きなど、やはり〝底流〟に眼をそそがねばならない。

黒幕・政商たち p.006-007 目次 第1章~第3章

黒幕・政商たち p.006-007 contents 目次1-2 国家機密を売る商人 米対外援助資金への疑惑 タバコそのボロイ儲け
黒幕・政商たち p.006-007 contents 目次1-2 国家機密を売る商人 米対外援助資金への疑惑 タバコそのボロイ儲け

目次

まえがき

第1章 国家機密を売る商人

ホテル・ニューオータニの男

調査会に一流財界人の顔ぶれ

疑惑を残して迷宮入り

支払い伝票のメモをめぐって

影の主役に新聞記者

安全保障調査会の伏兵

「三矢事件」が意味するもの

第2章 米対外援助資金への疑惑

戦果はベトコン一人

中古機械が新品に

たった36万ドル!

韓国肥料工場の怪

対韓協力8億ドルのリべート

第3章 〝タバコ〟そのボロイ儲け

〝中毒患者〟の実力者

フィリピンからの密使

公社幹部OBの会

〝専売一家〟の厚い壁

黒幕・政商たち p.008-009 目次 第3章~第5章

黒幕・政商たち p.008-009 contents 目次3-4 マイホームの夢を食う虫 怪談「流通機構社」のその後
黒幕・政商たち p.008-009 contents 目次3-4 マイホームの夢を食う虫 怪談「流通機構社」のその後

第3章 〝タバコ〟そのボロイ儲け

〝中毒患者〟の実力者

フィリピンからの密使

公社幹部OBの会

〝専売一家〟の厚い壁

〝怪人物〟コバケン

アメリカ葉権利と政治家の結びつき

東南ア外交の裏で

第4章 マイホームの夢を食う虫

住宅公団の抜け穴

佐藤さんはキレイ好き

幽霊会社に消える土地代金

光明池事件のウラのウラ

左翼の国会議員も登場

パクリ屋国会で活躍

広布産業事件のカラクリ

大映手形パクリ事件の主役は?

第5章 怪談「流通機構社」のその後

会長が大蔵大臣の会社

詐欺を働いても安全?

おそまつな〝ごあいさつ〟

潜入屋という新商売

新聞記者ともツー・カー

官房長官がアキレタ早わざ

大臣もひっかかった知能犯罪

黒幕・政商たち p.010-011 目次 第6章~第7章

黒幕・政商たち p.010-011 contents 目次5-6 九頭竜ダムの解けないナゾ 幻のサイエンス・ランド
黒幕・政商たち p.010-011 contents 目次5-6 九頭竜ダムの解けないナゾ 幻のサイエンス・ランド

第6章 九頭竜ダムの解けないナゾ

戦後最大の汚職の真相

三百億円に群がる黒いアリ

右翼の巨頭乗りだす

電発工作資金に一千万円

田中角栄先生の意外な一面

喰いちがう意見

不発に終った「池原ダム」汚職

第7章 幻のサイエンス・ランド

総会屋が演出する華麗な舞台

一流財界人百名を動員

経済誌社長の肩書

眠れる湘南の砂丘六万坪

怪文書と人身攻撃

高級官僚という〝難物〟

〝夢の興行〟解散へ

「市村学校」の後退

元子爵、二幕目で主演

水野サンケイの対抗意識

〝河野一郎のクシャミ〟

「政治的」は「法律的」に通ず

解散劇にみる損得勘定

黒幕・政商たち p.012-013 目次 第8章~第9章

黒幕・政商たち p.012-013 contents 目次7-8 秘密を売る男の死 夜の紳士録ハイライト
黒幕・政商たち p.012-013 contents 目次7-8 秘密を売る男の死 夜の紳士録ハイライト

第8章 秘密を売る男の死

麻薬メン〝愛欲行〟の謎

背後関係のからむ自殺説

〝サツの犬〟の寝返り

Gメンと警官の反目

権力の執行者に落し穴

女を抱いて収賄罪

二足のワラジ

白い粉に国家の政略?

阿片という武器

日本人、流通機構の中での役割り

A級幹部の背後に中共政府

第9章 夜の〝紳士録〟ハイライト

餌食にされた資生堂

盗まれた〝花椿〟の素顔

強喝——広告掲載——入金

東棉の〝痛いハラ〟

再び共産党代議士の登場

中央観光事件の波紋

数億の現ナマを呑む男

政治家と結んだ虚業家

デビ夫人が〝パパ〟と呼ぶ人

黒い霧周辺の人言行録

黒幕・政商たち p.014-015 目次 終章 第1章トビラ

黒幕・政商たち p.014-015 contents-chapter 1 目次9ー第1章トビラ 検事総長会食事件 国家機密を売る商人
黒幕・政商たち p.014-015 contents-chapter 1 目次9ー第1章トビラ 検事総長会食事件 国家機密を売る商人

終章 検事総長会食事件

真の支配者は誰か?

〝児玉アレルギー〟の震源地

サル芝居に踊る被告・森脇

〝イケショウ〟の挑戦状

「三和銀行へ行ってみろ!」

「鷲見メモ」の内容

検察内部の深刻な対立

逮捕されたかもしれない河井検事

崩れ落ちた〝最後のトリデ〟

あとがき

第1章 国家機密を売る商人

昭和四十三年。十月十五日付読売新聞朝刊=防衛庁は十四日午後、秘密保護と綱紀粛正に関する委員会(委員長・小幡事務次官)を開き、「秘密保全に関する訓令」および「防衛秘密の保護に関する訓令」の改定大綱をきめた。改定のねらいは、いままでの訓令に規定がなかった〝きびしい秘密漏えい防止策〟を盛りこむことにある。防衛庁は、来年四月実施を目標に、早急に条文化する方針である。

黒幕・政商たち p.016-017 「安全保障調査会」設立

黒幕・政商たち p.016-017 昭和四十年九月。ホテル・ニューオータニ内とした、この安全保障調査会の発起人には岩佐凱実、早川勝、土光敏夫、永野重雄、植村甲午郎、松野頼三、衛藤瀋吉、安西正夫、椎名悦三郎、広岡謙二の十一氏が並んでいる。
黒幕・政商たち p.016-017 昭和四十年九月。ホテル・ニューオータニ内とした、この安全保障調査会の発起人には岩佐凱実、早川勝、土光敏夫、永野重雄、植村甲午郎、松野頼三、衛藤瀋吉、安西正夫、椎名悦三郎、広岡謙二の十一氏が並んでいる。

ホテル・ニューオータニの男

調査会に一流財界人の顔ぶれ

さる四十年十月二十八日、ホテル・ニューオータニで、「安全保障調査会」の、設立披露パーティーが開かれていた。その席に参じたのは、防衛庁関係者をはじめとして、政、財、官界の有力者たちと、若干の新聞記者——そして、それらの顔触れに、ジッと視線をナメて行く、何人かの男たち。

いわゆる「治安当局」という、新聞術語に表現されるのは、情報調査機関であって、具体的にいうならば、警察の警備、公安、外事当局、公安調査庁、内閣調査室などであり、さらには、税関、厚生省麻薬取締官事務所、防衛庁調査隊なども含まれるであろう。

この「安全保障調査会」なる団体について、どうして、このように、〝出席の顔触れをジッとみつめる男〟が現れるのだろうか。

それには、まず、その設立趣意書をみなければならない。

「わが国の安全保障問題は、戦後二十年間を通じ、大きな政治問題でしたが、今後はますま

すその重要さを増す見通しです。(中略)わが国の安全保障が当面する問題は、いくつかあります。遠からず実現すると思われる中共の核装備に対処するため、わが国はいかなる対策をとるべきかという問題、また、日米両国間の最大の懸案となった沖繩の問題、そしてまた、一部に喧伝され、危機感が醸成されようとしている、五年後の日米安全保障条約再検討にともなう、政治的、社会的、思想的な混乱の可能性などであります。(中略)

われわれは、わが国の安全保障の問題を憂慮し、世界の実態を正しく把握しながら、国の安全確保の道を研究するため「安全保障調査会」を設立することになりました。その事業内容は別紙の通りですが、われわれは優れた研究スタッフと極めて豊富な情報調査網を背景としておりますので、必ず会員各位の御満足が行く活動ができるものと確信しております」(注。傍点筆者)

昭和四十年九月。ホテル・ニューオータニ内とした、この調査会の発起人には岩佐凱実、早川勝、土光敏夫、永野重雄、植村甲午郎、松野頼三、衛藤瀋吉、安西正夫、椎名悦三郎、広岡謙二の十一氏が並んでいる。

事業内容としては旬刊の「情報資料」、月刊の「特別資料」、「国防」、年刊の「国防白書」その他、講演会、座談会、米議会の外交委、軍事委の議事録の飜訳配布などで、会費は一口月五千円、年五万円となっている。