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編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?!

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)
編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)

■□■新聞がそこまでやるかね?!■□■第38回■□■ 平成12年6月4日

自民党には、四月会と呼ばれるグループがある。そのリーダーのひとりが、新潟比例区(正確には北陸信越ブロック)の白川勝彦(当6)で、新潟県警の腐敗摘発のキッカケになった、交通違反モミ消しの標的にされた。というのも、四月会は反創価学会(同時に公明党批判)の集まりだから、白川が狙われたのだ。チックリ(密告)したのは創価学会だという“噂”が流れたほどだった。

白川と同様に、四月会で頭角をあらわしてきたのが平沢勝栄(当1)である。10チャンネルの「朝生」の常連にもなって、政教分離を唱えて注目されていた。警察官僚出身で、先輩の亀井静香の子分、亀井のパチンコのプリペイドカードの立案者ともいわれ、大先輩の後藤田正晴⇒先輩の亀井⇒平沢と、パチンコ業界献金の上納ルートだ、といわれていた。

サテ、毎日新聞は子会社で聖教新聞の印刷を請け負い、池田大作著作の特別広告をもらう、という関係だから、この四月会の記事は一行も書かないほど創価学会に気をつかっていた。

ところが、その既得権益に読売新聞が割り込んできたのである。学会にしてみれば、300万部新聞の毎日より、自称1000万部の読売のほうが、影響力があると考えた。読売に対抗できる朝日新聞には、学会がスリ寄るスキがない。そこで、読売に公明新聞だかの印刷を発注し、特別広告も出してきた。だが読売は、四月会の記事など、大きく書いたりする“作戦”で学会にブラフをかけたりしていたのだった。

お話は変わって、平沢と亀井の仲が、最近は良くなくなってきている…という話が、永田町で取り沙汰されていた。そんなことあるものか、と私はハナ先で笑っていたのだが、衆議院の解散、総選挙となった2日、なんと平沢が自民党の公認が取れず、無所属で出馬か、というニュースが流れてきた。亀井政調会長というバックを失った平沢は、野中という“公明党利用”の幹事長のもとでは公認が取れないのも当然と、不仲説にうなずけたのである。

6月3日付の読売朝刊。社会面のトップは、野中幹事長の前で平身低頭する平沢と、それを傍らで眺める森首相の写真だった。野中は「関係者にご迷惑をかけたことを、深くお詫び申し上げる、という詫び状が出されたので公認した」と、記者発表した。当選6回、73歳で幹事長なのだから、当選1回、53歳、無役の平沢が野中に礼を尽くすのは当然だ。しかし、この“平身低頭”の写真は、平沢にとって終生忘れ得ない屈辱の場面であろう。涙なくして正視でき得ない…。

いうなれば、自民党内の反学会派ツブシである。その片棒を読売新聞が担いでいるのである。創価学会に文句をいう奴は、こうなるのだゾ! と、池田大作が嘲っている——。

蛇足だが、同日付の産経と毎日にだけ、「読売社長が自宅で転んで骨折入院した」という小さな記事が出ていた。警察官僚の大々先輩の故正力松太郎(読売社主だった人)が、平沢をあわれんで、ナベツネに「ゴマスリはやめろ」と注意を与えたのかもしれない。 平成12年6月4日

編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために

編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために 平成12年(2000)6月7日 画像は三田和夫71歳(1993.03)
編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために 平成12年(2000)6月7日 画像は三田和夫71歳(1993.03)

■□■士はおのれを知る者のために■□■第39回■□■ 平成12年6月7日

もうすぐ、6月11日がくると、私は満79歳になる——考えてみると、長い人生を過ごしてきたことになる。3月、4月になると、兵隊の会や、シベリア会といった集まりがある。そういった会に出てみると、天皇陛下のために生命を捧げて神国日本を護ろうといったことも、つい先ごろのようでもあり、もうずいぶんと昔のことのようでもある。でも軍隊とは、シンニュウをつけて“運隊”だったから、生きのびて今日があるのだ。

「士はおのれを知る者のために死す」という。天皇の場合は、いまはやりのマインド・コントロールだったのだろうが、ある時、ひとりの政治関係の老人がこういった。「どうだ。小渕をどう思うね。彼を総理にするため、一肌脱がないか」と。私は答えた。「イヤです。人物が小さいから…」と。

あの時、ハイといえば、正論新聞の経営はラクになったろう。櫻井広済堂のボスに、「ウチで印刷してやろうじゃないか」と誘われたが、「結構です」といった。彼に借金ができて、親分ヅラされるのがイヤだったからだ。

政治家では、読売時代に農林省クラブで見ていて、河野一郎(洋平じゃない)なら、親分にしてもいい、と感じた。軍隊でいえば、中隊長の島崎正巳中尉か。新聞記者では読売の原社会部長。その延長線上の務台光雄社長。記者生活の中で知ったヤクザの親分衆にも、人間的に魅力のある人もいた。人の上に立つ人には、やはりそれだけの魅力があって、「あの人のためならば…」と、思えるのである。

府立五中のクラス会があって、安楽死が話題になった。と同時に、長寿と延命と介護の問題も…。ひとりがいった。年を老ってボケになるのも天の配剤だと。シモの始末など、ボケなら恥じないという意味だ。だが、自分自身の意思で、自分自身の行動ができなくなって、生き永らえることは、私にはできそうもない。その延命にどんな意味があるのか。

私が、正論新聞の刊行に努力するとき年齢を感じたことがない。だから、今後も原稿を書きつづけるのであろう。そして多くの友人知己の訃報を聞くたびに、おのれを知る者のために死すべき機会を失ったのを悔やみ、馬齢を重ねつづける…。 平成12年6月7日

編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら…

編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら… 平成12年(2000)6月18日 画像は三田和夫48歳(1970.06.08)
編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら… 平成12年(2000)6月18日 画像は三田和夫48歳(1970.06.08)

■□■皇太后さま、さようなら…■□■第40回■□■ 平成12年6月18日

報道機関の揃い踏みみたいに、皇太后さまの微笑みのおだやかさと、品の良さとが報じられていた。

だが、それもそうだが、エピソードを語るむかしの女官たちの姿を、テレビで見たときに私は愕然とした。いまの時代に、これだけの年齢(俗にいえば老婆のタグイ)で、これだけ美しく、これだけ上品な女性が、まだ生き残っていたのか、という驚きである。しかも和服姿である。

いま、巷にあふれている、40歳、50歳代のオバサンたち。そして、60歳、70歳代の老女たち——そのほとんどが醜いし、そして、所構わず、あたり構わず、奇声、嬌声を大きく高く発して、ひんしゅくを買っていることにさえ、気がつこうとしない。

さきごろ、特急列車に乗った。空いていたので、向かいの座席をクルリとまわして、靴を脱ぎ、足を伸ばして、眠ろうとした。昨夜が寝不足だったから、この2時間は貴重な睡眠時間だった。が、眠りはすぐ破られた。

私から4席ほど先の席で、3、4歳の男の子が、甲高い声で騒ぎ出したのだ。後ろ姿で30歳後半の母親は何も言わない。30分ほど我慢していたが、ついに立った。

「ここは公共の場ですよ。子供に静かにしているよう、しっかりシツケなさいよ」

「……」

女はふり向いただけで、わけの分からぬオリエンタル・スマイルを浮かべただけである。子供は騒ぎつづけている。

「このぐらいの年齢でキチンとシツケないと、あと10年もすると、アンタが殺される番ですよ」——女には意味が通じなかった…。

このタグイの母親たちと、それが少し年齢をとった女たちが、街にあふれている。そして老女たちは、自分の顔やズングリムックリのスタイルに、まったく似合わない色や形の服を着て、似合いもしない帽子をかぶって、群れをなして横行している。厚底靴やガングロ、ヤマンバの娘たちは、街のどこにでもいるわけでないから、彼女らの棲息地に入らなければ、不快感を覚えることもない。

が、このタグイの老女や人妻たちは、街のあらゆるところに押し出してくるから、マユをひそめざるを得ない。

テレビのタレントたちの下品さ——その顏も仕事も最低である。政治家たちの、土方(むかしの概念で)か暴力団のような顔立ちを見ると、吐き気がする。民主党の若い候補者たちの多くが、知的で意欲的な表情を見せているのに、自民党の古い議員たちの、なんと下品な奴が多いのか。

前述の列車に乗っている時、「毎日新聞電光ニュース」が流れた。「…天皇、皇后両陛下はいったん皇居に戻った」(6・16所見)とあった。記者もまた「戻った」と「戻られた」との、一字違いの言葉の使い方さえ分からない時代である。

保守党の扇千景党首は、演説で「アタシ」と「アタシども」という。あの年齢なら、当然「ワタクシ」であろうし、百歩ゆずっても「ワタシ」と「ワタシども」であろう。

ワイドショウに出てくる“皇室評論家”のおばさまを除いて、皇太后さまの想い出に登場された老女や、美智子さま、雅子さまのお姿を見ながら、自分の国・日本はいつのまにか、礼節も失い、精神的に荒れ果ててしまったことを、思い知らされた次第だ。

皇室という特殊な家族を温存する、憲法上の「天皇」の在り方は、やはりそれなりの意義がある。皇太后さまの微笑みとお心配りは、やはり、何十年、何百年と続いてきた“誇り高き家族”でなければ、自然に現れるものではないと私は思う。 平成12年6月18日

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな!

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋
編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋

■□■娘たちよ、すぐに男にやらせるな!■□■第41回■□■ 平成12年6月24日

6月22日、駐輪場で殺された女子高生の第一回公判が開かれた。被告は殺意の有無について「殺すつもりはなかった」といった。

いわゆるストーカーが事件化するのは、みな、女が交際を拒否した時点からである。交際を拒否——などと、キレイごとの表現をしたが、ズバリ書くならば、「もうおまえとはセックスしない」宣言なのである。男にとっていつでもどこでも、自分が欲する時にやれる女がいる、ということが重大なのである。

むかしは、遊郭(女郎屋・売春宿)があったから、男はいつでもヤルことができた。しかも、今のソープなどと比べられない安さだから、“泊まり”の豪遊(といっても、本部屋泊まり以外にも“まわし部屋”の安いのもあった)ではなくとも、チョンノマといわれる、超短時間の遊びも可能だったのだ。

つまり、安定的な性処理が失われたのでは男は頭にくる。復縁を迫って、つきまとうのは当然である。だから、オドシのつもりのナイフが、その場の勢いでグサリ、も無理からぬことである。殺意(殺してやろうという意志)の有無が問われるわけである。

若い娘たちは、あまりにも無造作に、すぐ男にヤラせる。あとさきを考えるチエもなく求められるままに、身体を開く。それが何回か継続したのちに、好悪や反省や、男の自己中心的行為への不快感などで、“絶交宣言”となり、トラブルになる。要は、男の性格を見極めないで、ヤラせるな! である。

だが、日本語というのは面白い。ヤラレル、ヤラセル、売ラレル、だまサレル、言い寄ラレル、抱かレル——すべて、男女間の行為は、女性の受身言葉で表現される。これは、男尊女卑思想の然らしめたところであろう。戦後半世紀も過ぎ、男女同権といわれながら、現実は、女性が受身なのである。

アメリカはどうか。NHKの深夜番組で、延々とつづけている「ビバリーヒルズ青春白書」を見ると、男女が画面に出てくると、すぐキスして、すぐセックスをする。若い娘のほとんどが、すぐヤラセルから、男は次から次へと移れるのである。だから、キレる事がない。だが、残念ながら、わが日本では、すぐヤラセル娘の絶対量が少ないから、男はキレるのである。

ロシアはどうか。1917年の革命は、帝政ロシアを打倒し、農奴と性を開放した。もともと娯楽のない農村では、性行為が娯楽のひとつであった。それが、開放されたのだから、男女は、同一労働、同一賃金に裏付けされて、男女ともに、ダワイ・イバーチィ(さあ、やろう)の一言で、受身の言葉はない。先日亡くなった竹下元首相の地元、島根県では、東京オリンピックでテレビが普及するまでは、“夜這い(よばい)”の習慣が現存した。あくまで、女性の受身形なのだ。

さて、こうして眺めてみると、日本の若い男たちはジコチュウで育ってきているから、“いつでもヤレルし、ヤラセル女”に絶交宣言されると、どうしてもキレて、ストーカーになってしまう。

だから、若い娘たちに忠告する。殺されたくなかったら、すぐにヤラセルな! ヤラセル時には“結婚”という社会的なワッパをはめてからヤラセロ! と。そうでなければ、キレない男だと見極めてからヤラセロ! 平成12年6月24日

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)
編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)

■□■野中のボキャブラリー■□■第42回■□■ 平成12年6月27日

総選挙が終わった——自公保が約40議席を減らしたことは、まだ物足りないが、マアマアとしようか。ただ、残念としかいえないのが、野中幹事長の命運をかけた「自民229」のラインを、わずかだが超えたことである。

野中はいった。「自民229を割ったら、幹事長として責任を取る。退路を断ったのだ」と。投票日の25日の新聞に出ている。さらに26日の朝刊。公明、保守に対する選挙協力が機能しなかったことで、また、いった。「万死に値する」と。

退路を断った。万死に値する。この2つの言葉の使い方は、まことにオカシイ。自民が229議席を取れなかったら、「退路を断って」幹事長としての責任を取る——幹事長として責任を取ることが、どうして退路を断つことになるのか。数日前の新聞に、幹事長をやめて、行革本部長をやりたいと、“放言”したことが報じられていた。229取れなかったら政治家をやめます、というのなら、退路を断つことにもなろうが、衆院議員のままで役職を変わることは、退路を断つにはならない。

この言葉、先の都知事選で、柿沢とかいうオポチュニストが、議員をやめる時に使った言葉だ。その柿沢は、チャッカリと今回出馬して、当選してしまった。呆れた奴であるし、それに投票した奴の顔が見てみたい。

もうひとつの「万死に値する」は、岩瀬達哉の力作「ドキュメント・竹下登 われ万死に値す(政治家・竹下登の『深き闇の世界』)」が、99年9月に発刊されたのだが、さきごろ、本人が亡くなったので、新聞報道でこの本が取り上げられ、題名が記載された。

つまり、野中のボキャブラリーは、新聞の見出しを失敬する程度で、彼の知性のほどが分かろうというもの。私が開票速報をハラハラしながら見つづけて、徹夜してしまったのは、自民が229を割った時の、野中の出処進退(出=官職につくこと。処=民間にいること。)を見たかったからである。

かつて、小沢一郎を悪魔とののしりながら自自公の時には「土下座して」と、豹変する野中の政治姿勢の、新しいサンプルが見られる期待があったのだ。言葉の貧しさといえば森首相もまた、野中に負けず劣らずである。さる6月12日、森は記者クラブの会見で、「(みなさんに)お訴えして…」といった。「訴える」という動詞の趣旨からして、「お」という美称や敬称がつけられる必然は、まったくないのである。

私の中学時代、「おニュー」という言葉があった。運動靴や服、シャツなどの新品を身につけると、英語のニューに、羨望や、揶揄をこめて、美称の「お」をつけて、「おニュー」といって、はやし立てたものである。英語のニューに、日本語の“お”をつけることは、デタラメもいいところで、軽蔑感を端的に表現したものである。なにしろ、旧制高校のダンディズム「弊衣破帽」が横行していた時代だから、新品を身につけることは、「おニュー」として、揶揄されるのである。

森の一連の失言はここにあげつらうこともなかろうが、自分の存念に理解を求めることを「訴える」のに、「お」をつければ、理解してもらうのにプラスだと考えたのか? リーダーの不可欠要件である「教養」が、まったく感じられないこの2人である。

今の自民党を牛耳っているのは、鈴木宗男党総務局長⇒野中幹事長⇒亀井政調会長のラインと、古賀国対委員長、村上参院議員会長、青木官房長官らのグループである。これらの連中の顔、面構えをトクとご覧あれ! 「教養」とは無縁の顔だ。

7月上旬には、新内閣がスタートする。その時にどんな人事になるか、見ものである! 平成12年6月27日

編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ!

編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ! 平成12年(2000)7月1日 画像は三田和夫67歳(卒業50年の旅1989.02.11)
編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ! 平成12年(2000)7月1日 画像は三田和夫67歳(卒業50年の旅1989.02.11)

■□■よど号田中のハレンチ!■□■第43回■□■ 平成12年7月1日

よど号事件の犯人のひとり、田中が日本に送還されてきた。顔を隠すでもなく堂々と(ある意味威張って)報道写真におさまり“殉教者“気取りである。私がその場にいたら、ツバを吐きかけてやりたいほどである。

我が国最初のハイジャック事件だった。金浦空港で乗客と引き換えに、当時の運輸政務次官・山村新次郎議員を人質とし、北朝鮮へと飛ばさせた。たしかに、129人の乗客乗員のすべてを殺傷することなく、ハイジャックの目的を達したのだった。が、この事件が引き金となって、次々とハイジャックを引き起こし、「超法規的措置」などという新語を生み、刑務所からの仲間の奪取や、何億円だったか忘れたが、巨額の税金を奪ったりといった、事件の幕開けとなった。

「オレは政治犯だ」「一切黙秘する」といった言動は、日本政府を否定し、革命の尖兵たらんとした赤軍派として、おのれの信念をまげず、さらに活動をつづけようという意思を示すものであろう。

もし、そうであろうならば、私としては、田中のこの“不遜”な態度も、よしとせざるを得ない。

だが、赤軍派を名乗るテロリストたちが、日本政府から奪った金で、銃器を買い、活動資金として、全世界でどのような「殺戮」を行ったか。ダッカ事件然り。何十人、何百人もの人々を殺したのである。

つまり、赤軍派の連中は、非合法生活者なのである。合法生活者(遵法市民というべきか)とは、まったく別の次元で生きており、生きてきたのである。

結婚し、子供を産みその子の成長を慈しみ、かつ期待する——これは、法律を遵守する、遵法市民の当然の権利である。田中にはその権利は主張できない。

北朝鮮に亡命した、よど号事件の犯人たちは日本女性と結婚(合法?)し、子供をもうけていた。小市民的幸福に浸っていたのだ。そして、その子供たちが大きくなってきて、これまでに「5歳から22歳の子供たち20人のうち、18人が日本国籍を取得」(東京新聞)したという。この記事の見出しには、「年内にも妻子の帰国を、支援団体『北朝鮮組の先鞭に』」とある。

東京新聞だけではない。各日刊紙の記事には、みな望郷の思いにかられている、と報道されている——だから、田中の顔にツバを吐きかけてやりたいのである。

妻子のしあわせを願う、小市民的希望があるならば、「よど号事件は若気のあやまちだった」と自己批判し、日本政府の捜査に協力し、すべてを自供すべきである。

妻子の幸せだけは、遵法市民の立場でなどと、甘ったれるナ! 首尾一貫しろ! 子供を産んだ時点で、赤軍派からの転向がはじまったのだゾ。もっと自分に厳しくしろ! 平成12年7月1日

編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ!

編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ! 平成12年(2000)7月4日 画像は三田和夫50歳(右から2人目お辞儀 1972.04.05)
編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ! 平成12年(2000)7月4日 画像は三田和夫50歳(右から2人目お辞儀 1972.04.05)

■□■さあ、次の選挙は近いぞ!■□■第44回■□■ 平成12年7月4日

7月4日、総選挙後の首相指名を行う国会が召集される。今期は2日間で、6日に終了して、8日の沖縄サミット、福岡蔵相会議へと、森第二次内閣は忙しい日程に追い込まれる。

と、その段取りだけは、順調に進んでいたのだが、6月30日、東京地検特捜部は、自民党・江藤亀井派のボス、中尾栄一元通産相を受託収賄容疑で逮捕した。

例の許永中。公判中に韓国の病院から逃走して、十何人もの人々を、逃走罪の共犯に巻き込んだ。許の人脈から、中尾のワイロ事件が浮かんできた。一説には、許が検察との取引で、中尾の件をバラしたともいわれた。

中尾は落選していたので、逮捕も簡単だったが、当選(当選証書を選管から受けた瞬間から、国会議員の身分となり、国会開会中は不逮捕特権がある)していても、30日は国会開会中ではないから、同様に簡単だ。それでも、6月25日の投票日、26日の開票日で、当落を確かめてからは、27、28、29と丸3日間しかない。

NHKテレビを見ていると、候補者のタスキをかけている中尾に、この許永中資金の質問を浴びせている。それに対し、「秘書を10人も使っていて、その秘書のやったことだ。週刊誌的な取材をするな。政治は堂々としてなければ」といった趣旨の返事をしている。政治家の誰でもが、逮捕される前は、“堂々”と否定するものだ。

さて、ここで疑問が湧いてきた——贈賄側の若築建設の当時の石橋浩会長は、贈賄の時効で不問とされたようだが、その義兄の「陳述書」が早くから中尾の収賄を指摘していたというのである。

この事件では、各紙を比べて見ていると、東京紙が一歩先んじているようだ。逮捕翌日7月1日の朝刊で、「自民幹部聴取も、地検検討」と、贈賄側から金を受け取った人物の動静を伝え、同夕刊では、「陳述書」を書いた。前述の疑問というのは他でもない、各紙とも「自民2代議士側に資金」〈7・1朝日朝刊〉などとしながら、2人の名前を明らかにしないことだ。

「派閥領袖クラスを含む2人」(7・1日朝日夕刊)が、翌2日朝刊になると「…2人に計一億数千万円…」というが、名前のヒントがないままだ。同産経夕刊も「陳述書」を書き、読売夕刊は「1人は建設相経験者」「…取材に対し『資金提供は全くない』と否定」。

2日朝刊。産経「超大物元議員にも現金、当時の秘書受領」、毎日「現職波及を注視」と、日曜日らしく閑散な紙面だった。が、この朝10時の“サンデープロジェクト”に、亀井静香政調会長が、田原総一朗司会のもとで渡り合った。またフジの“報道2001”には、管が出演。

さて、明けて3日の毎日朝刊は、竹下元首相の名を一面で、社会面で亘議員否定談話を報じた。各紙が亀井の否定談話をのせる。

3日の東京夕刊は「自民大物、参考人聴取を拒否」と1面の大見出し。亀井が今春、参考人の打診を地検から受けたが、総選挙前だからと、出頭を拒否したことを報じた。快哉!

こうして眺めてみると、各新聞とも、竹下と亀井の名前をはじめから知っているにもかかわらず、活字にするのに丸3日もかかるとは、一体どういうことなんだ? 中尾逮捕と同時に書くべきことを、捜査の進展で判ってきたようなポーズをとるところに、自民党に癒着している日刊大新聞の姿がある。

また亀井が、田原の司会の番組にだけ出て“弁明”するあたりに、これまた癒着の疑問を感じるのである。フジが午前七時半から、テレ朝は午前十時からで、事実、管は掛け持ちしているのだから、亀井だってできるハズである。弁明するなら、媒体は多い方がいいはずである。

もしも亀井が逮捕でもされたら、森内閣は空中分解で、またまた総選挙である。 平成12年7月4日

編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮

編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮 平成12年(2000)7月8日 画像は三田和夫67歳(右側 秋の爺童会1988.10.15)
編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮 平成12年(2000)7月8日 画像は三田和夫67歳(右側 秋の爺童会1988.10.15)

■□■ついにはじまった母子相戮■□■第45回■□■ 平成12年7月8日

最近、日刊紙上に「親身になって」というサラ金の広告が目立つ——岩波国語辞典によれば、(1)血縁が非常に近い人、(2)それに対するような心づかい、とある。まさに、文字通り、親(おや)の身になって、なのである。

では、親切(しんせつ)とは、親を斬ることなのか、といいたくなるような、近頃の世相である。家庭内暴力に悩んだ母親が、娘を殺して自分も投身自殺。娘に保険金をかけて、准看護婦の知識を生かして毒殺未遂(他に2人の子供も死んでいる)。

野球部の後輩をバットで殴り、自宅に戻って母を殴り殺す。迷惑がかかるから、殺した方がいい、と弁解する男の子。バスジャックの父母のように、殺されるおそれから逃げて、「説得の自信がない」だと弁解。バスに乗りこんで、刺されようとも、息子から刃物を取り上げるだけの、責任感のカケラもない両親。これに比べれば、娘を殺して自殺した母親は、まだマシである。他人に迷惑をかけないからである。

雪印もそごうも、警察も病院も、責任ある人たちが、4、5人、ガンと首を並べて記者会見で「ご迷惑をおかけして、深くお詫び申し上げます」という、テレビ画面が、今年になって大流行である。そして、誰も責任を取らない。そごうの経理担当副社長が自殺したなど、まさに“責任を取った”鑑であろう。

よど号事件の田中某、自分の子の友人の幼稚園児を殺した母親。オウムの下手人たちと、みんな“お詫びを申し上げます”である。詫びればいいってもんじゃあるまい!

さきに「皇太后さま、さようなら」の稿で、列車内で騒ぐ子供を制止もせずにいる母親に私はいってやった、と書いた。「しつけは4、5歳までが基本。あと10年もすれば、あんたが殺される番だよ」と。だが、その母親には、私のいった言葉が理解されなかったようだ、と。

人の児の親になるという、自覚と責任を考えてない若い夫婦が多い。デキチャッタ婚などと、不見識極まる流行語を生み出す時代を、もっと真剣に見つめねばならないのである。

かく申す私は、三男一女をもうけたが、途中、バットで殴られることも、刃物でズブリもなく、順調に馬齢を重ねている。その基本は、子供の人格を重んじ、誇りを教えた。それは4、5歳までのしつけである。子供に手を上げたことは、小学生の女児に1回だけで、他には一度もない。

塾も家庭教師もなく、学校の成績に干渉せず、進路についての相談にだけ助言する。常に、子供の人格を尊重し、自身の判断を優先させてきた。そして、他人や社会に迷惑をかけずに成人となったのである。

「親切」は、親の代わりに「深・心」の字が用いられ、漢語辞典に出ている。親の字はオヤではなく、親しいの意味だから、親を切るではない。一方、「親身」は漢語辞典にはなく、国語辞典にある。これは「親の身になって」と解すべきだろう。

この親と子と“相い殺戮する”時代は、植木等の「無責任時代」の唄につれて育った世代が、無責任に親になった結果の、当然の帰結である。 平成12年7月8日

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは!

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)
編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)

■□■犯人の方(かた)が…とは!■□■第46回■□■ 平成12年7月29日

先頃の、17歳少年のバスジャック事件の時である。最初に一時停車したパーキングエリアの売店のおばさんがいった。「犯人の方(かた)が何か要求されたんじゃないですか」と。そして、7月12日のNHK昼時に出てきた料理研究家なる、これもオバさんが、マナ板の上で暴れる魚をみていった。「生命力の強い方(かた)なんですね」と。

殺人容疑者に「方」という敬語を使うのはまだしも、魚に対して「方」というにいたっては、もう何をかいわんやである。

それもこれも、すべて、テレビの報道番組のせいである。美しく正しい日本語をひろめるべきテレビが、どうしてか、日本語を破壊しているのである。客観性を重視すべき報道で、テレビはこういう。「警察官のカタが駆けつけてきました」「駅員のカタたちが…」

いったい、テレビはどういうつもりで、この「カタ」をつけるのか。「警察官が駆けつけて」「駅員たちが」が正しい日本語である。と思っていたところへ、2人の人がそれぞれ一文を草していた。

週刊文春7月13日号「何様なのか、テレビ局(5)」野坂昭如

「ワイドショーのレポーターは…『ご冥福をお祈りしたいと思います』と、とってつけたようにいう。あの『思います』っていいかたはいったい何なのか。思っているだけじゃなくて、ちゃんと冥福を祈れ! ついでにいえば、『いやあ、あちらに行ってみたいと思います』『食べてみたいと思います』というテレビ特有の物言いも、とても耳障りです。何で『いってみましょう』『食べてみましょう』と、ストレートに言わないのか」

そして、もうひとつは7月27日付け東京紙ラテ版、廣淵升彦・湘南短大教授

〈文化を破壊するアナ〉「…最近アナウンサーたちの発音で気になることがある。『一トン』を『イチトン』といい、『八点目』を『ハチテンメ』というアナが多いことだ。…音便というのは文化の成熟度を示すものである。…世界共通語となった『レゾンデートル』を、一語一句区切って『レゾン・ド・エートル』などといえば、笑い者になるだろう」

実際、浅草のカンノンさまを、カンオンさまというバカがいるか!

これらの元凶は、NHKである。NHKのアナ教育はどうなっているのか。税金で賄われているNHKが、日本文化の破壊の先頭に立っているのではないか。ともかく、つける必要のない「カタ」と「思います」を消すことから始めてもらいたい。冒頭の売店や料理研究家も、その年頃から見て、NHKを一番良くみていると思われる。

かく申す私は、昭和18年の夏、日大卒業を控えて、NHKのアナ試験を受け合格。同時に合格した読売をえらんだのである。理由は戦時中だから、ノドはひとつ、ウデは2本あるので、アナより記者をえらんだ。だから、ひとより発音にウルサイのである。

NHKテレビを見ていて感ずるのは、報道のアナやレポーター、記者たちは、自分の話した部分のビデオを見て、再点検しているのかどうか。都知事選で落ちて、パリの日本館だかの館長になった大物が、「お歴お歴」と話した。再放送でもそのまま。若いアナが、「遊興費」を「ユーコーヒ」と発音した。遊興もしたことがないのだから、ヤムなしか。

それにしても、NHKの海老沢会長なる男は、あまりにも画面に登場しすぎる。会長が部下に任せられないようでは、NHKの改革など、夢のまた夢。小淵さんが大相撲の総理杯に出てきたように、あの海坊主風の男も、脳コーソクに倒れるかもよ…。 平成12年7月29日

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな!

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)
編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)

■□■“ひとのせい”にするな!■□■第47回■□■ 平成12年8月5日

かねてからの文章でお判りのように、私は“適者生存説”を主張している。それは、79年に及ぶ私の人生、ことに丸2年の軍隊生活と、同じ丸2年のシベリア捕虜の体験を中心に据えた“私の哲学”である。

軍隊での生死の分かれ目には“運隊”と呼ばれるように、自分の努力だけでは如何ともし難い運命ともいうべきものが、大きく左右する。しかし、あくまで“適者生存”であることには変わりはない。

シベリア捕虜もまた、“運隊”と同じだけれども、酷寒や栄養失調、発疹チフス、事故といった客観状況の中で、今こうして生き残った人たちを見渡してみると、死ぬべき男が死に、生きるべき人が生きている。

先日来、新聞紙面やテレビ画面でしきりと“問題化”している、中三生の自宅での首吊り事件で、私は憤慨にたえない。ナゼかといえば、学校でイジメがあり、それを家庭に連絡しなかった「学校の責任」ばかりが、取り上げられているからである。

両親に祖父を含めた家族、家庭の責任はどこに行ってしまったのか。自分たちの無責任が、第一番に問題にされねばならないのに、彼らは、学校、学校と、“ひとのせい”にしようとする。こんな家庭だからこそ、この少年は、自宅で自殺したのである。

私も少年の頃、死を美化する文学作品などの影響から、自殺を考えたことが、何度もあった。早熟だったせいか、小学校高学年から、中学にかけて、そんなことを詩や散文に書き散らしている。だが、この少年と違うところは、「HELP(ヘルプ)」などというメモは書いていない。自分自身の勉強と努力とで、死の誘惑から脱出したのだった。

誤解を恐れずにいうならば、この両親や祖父は、この少年に金属バットで襲われなかったことが、不幸中の幸いであったというべきであろう。テレビ画面で見た、少年の立派な祭壇に、私は違和感を覚えた。

少年を袋叩きにした8人の同級生が、先生に連れられて、拝みにきた——母親はこの8人が、肘で先を譲りあう(?)動作や、ニヤついた顔などに、さらに怒りを訴えたりするが、それを、そのまま報ずるテレビカメラや、新聞記者たちの在り方は私はオカシイと思う。

最近の紙面や画面には、つねに“ひとのせい”が主張されている。マスコミは、もっと事の本質を見極めて、事件を取り上げるべきである。このマスコミのデスクたちも、すべて“ひとのせい”にする、無責任世代なのであろう。

テレビ朝日のダイオキシン騒動の公判もはじまったようである。久米宏たちは、これをもって“ひとのせい”にしないように。埼玉県のO157騒ぎも、保健所の無責任が原因と判明した。さて、埼玉県は、被害賠償に対してどう対処するか。100億円以上と伝えられる被害に、県民の税金を支出できるだろうか。“ひとのせい”にできないケースだけに、土屋知事がどうするか、みものである。

“自分のせい”で、昨年の玄倉川13人水死の事件があった。だから私は“適者生存説”をとるのである。思春期の少年の、心の動きを読み取る努力を怠った家族は、決して“悲劇の主人公”ではない。

音羽の幼稚園児殺害の母親の公判で、その夫はこう述べた。「声は聞いていたが、心の声を聞こうとしなかった、私の責任です」と。この夫は、残された子供とともに、これからイバラの人生を歩まねばならない。 平成12年8月5日

編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道

編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道 平成12年(2000)8月19日 画像は三田和夫77歳(右端・浴衣 戦友会・桐第二〇五大隊1999.03.06)
編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道 平成12年(2000)8月19日 画像は三田和夫77歳(右端・浴衣 戦友会・桐第二〇五大隊1999.03.06)

■□■不快感極まる靖国参拝報道■□■第48回■□■ 平成12年8月19日

8月の暑い夏——四季の移り変わりがハッキリしていた日本も、原爆以後の異常気象で、歳時記に書かれている季語も、だんだん現実感が薄れてきている。

そして、6日の広島、9日の長崎、15日の敗戦と、あの戦争の記念日がつづくのだが、それも、高校野球やお盆休みなどのかげに追いやられてしまっている。と同時に、新聞を広げて不快感に襲われるのが、閣僚たちの靖国参拝の“公私”の別議論である。

戦中派である私も、靖国神社の由来や、その広大な敷地取得の経過について、なんの知識もない。と同時に、それが当時の軍閥の仕業であろうことは理解できる。私の少年時代の記憶でも、あの大きな社殿は、すでにあったと思う。

当時は“生めよ、殖やせよ”時代で、多子家庭が表彰され、その子供たちが戦争に狩り出され、死ねば“軍国の母”を顕彰するために、靖国の御霊(みたま)を祭る場所が必要だったのである。それは、中国でも同じで、毛沢東は多産を奨励し、兵力の人的資源を確保した。宗教を否定していた当時、一般人の墓は認められず、葬式もできなかったが、各地にはそれぞれ、「烈士陵園」(一例を挙げれば、この上に「中国人民解放軍華北軍区」と記されている)という、戦死者の墓は綺麗に設けられていた。

もちろん、対日戦の戦死者ではなく、国共内戦の犠牲者の墓である。1979年初秋、私が日本共産党新宿支部のツアーに参加して、戦後はじめて訪中をし、現認してきた事実である。これは、毛沢東政権の、いうなれば“靖国神社”そのものではないか。

いつ頃のことだったか、中国政府は、戦犯が合祀されている靖国神社に、首相以下の政府首脳が参拝するのはオカシイ、と横槍をいれてきた。当時の自民党政府のボスたちは、対中ODAや有償無償の円借款などのリベートで私腹を肥やしていたものだから、一も二もなく震え上がった…。それ以来、延々とつづいている8月15日の“公私の別”靖国参拝論議である。

中国・南京にある“大虐殺記念館”の一角に、2人の少尉が百人斬り競争をしたという東京日々新聞(現・毎日紙)のデマ記事のコピーが展示されている。この2人は戦犯として刑死した。この2人も合祀されているのだろうか?

自分が将校になって、日本刀を体に吊ってみて判ったことがある。鍛えてない体ではあの重い刀でチャンバラなどできないのだ。ヤクザだって、もう日本刀は使わない。自由に振りまわせないからだ。それが、百人斬りだと? この記事が、軍に媚びたウソ記事だということは、すでに明らかになっている。

この記事が示すように、日本の新聞は、常に時流におもね、権力に媚びてきた。現在でも主流はそうである。国家や民族の百年を考えた報道は、皆無といっていい。

15日のテレビ・ニュースは、靖国の社頭に立ち、国会議員にマイクを出して、「公式ですか、私的ですか」と、バカ気た質問を繰り返すテレビ記者。その背後に、命令するバカデスクの顔が見える。この報道にいったい、どのような意味があるのか。

森首相もまた、事前に、公式参拝しないと宣伝する。かと思えば、石原都知事のように、公式参拝するゾと、予告編を出す男もいる。こんなバカ気た茶番劇は、もう止めにしたらどうか。マスコミが取り上げねば、自然に沈静化する話だ。マスコミはそこまで中国の顔色をうかがうのか? ナゼだ?

靖国神社のあり方や由来などとは、まったくの別問題である。「父に逢いたくば靖国神社へ!」といった時代は、もう遠い過去である。マスコミはもっとしっかりしろ! 平成12年8月19日

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1)

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)
編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)

■□■戦争とはなんだ?(1)■□■第49回■□■ 平成12年8月26日

敗戦記念日の8月15日をはさんで、マスコミは、その紙面(放映)で、投書を加えて「これが戦争だ」と、しきりにアジテーションをあおっていた。虐殺という言葉も、しきりに登場していたが、その言葉の意味をも確かめず、用いられていた。

例えば、参戦各国ともに見られるのだが、捕虜を並べて機銃で撃ち殺す——これは虐殺なのか。戦闘中に、銃砲弾で殺される。これまた虐殺なのだろうか。米軍の日本本土爆撃で、非戦闘員の女、子供、老人が死ぬのだが、虐殺なのだろうか。原爆はどうか——。

私は、あの雨の神宮外苑の学徒出陣式の1カ月前、昭和18年11月1日に入隊した。9月卒業で10月1日に読売入社。正力松太郎の日の丸を頂いて千葉県佐倉に入隊。しかし学徒根こそぎ動員が12月1日に入隊してくるので、中国に送られ、河南省黄河のほとりに駐屯したのち、保定の予備士官学校へ。4月入隊。その前に、原隊は南方転進で大半は輸送船ごと海底に沈んだと聞く。幹部候補生だけ残されたので、助かった次第だ。19年12月、卒業して見習士官となり、黄河の畔に戻った。

20年2月、重機関銃3丁を率いて、黄河鉄橋防空隊の高射砲大隊に配属され、鉄橋爆撃の米空軍との戦いとなった。B24爆撃機が一車線の細い鉄橋を爆撃するが、なかなか命中しない。泥深い河に落ち、橋脚をゆるがす。と同時に、鉄橋上の我が陣地に掃射を加えてくる。瞬時に通りすぎる機影めがけて応射する。射たれて射ち返す。殺されて殺し返す。これが「戦闘」である。

約1時間、爆弾を使い果たしたB24編隊は奥地の老河口飛行場に去る。陣地の土のうには弾痕があるが、部下の点呼。死傷なし。その瞬間に、スポーツの試合が終わったあとのような、爽快感を覚える。1日1回、きょうの定期便は終わったのだ。翌日から2、3日はP51機が高々度から、鉄橋の被害を調べにくる。そしてまた空襲である。5月までの4カ月間にB24一機を落とした。

その間に、北支派遣軍は、米空軍の根拠地老河口作戦を展開。私が原隊復帰をしてみると、中隊長は先任小隊長を連れて、その作戦に出ていた。米軍の本土上陸に備えて、四日市付近に帰国するハズだったが、満ソ国境の部隊を帰し、私たちはその後釜で満ソ国境白城子に部隊移駐が命じられた。大隊の集結が、作戦部隊の撤収を待っていて遅れ、8月13日夜、新京(長春)に到着し、9日のソ軍侵攻で、師団主力と分かれ、首都防衛軍に編入され、8月15日を迎える。

「…8月15日未明、有力なるソ軍戦車集団が首都新京に侵攻…。一兵能く一輌を撃破…」と、手榴弾5、6個を縛り、それを抱いての突撃という命令が出たのが、14日の夜更け。タコ壺を掘り、身を潜めて夜明けを待ったがキャタピラの音がしない。この時はさすがに「オレの人生も終わりだナ」と感じていた。が、正午に重大放送があるという予告で、15日の朝が快晴の太陽を輝かせていた。(この時のことは稿を改めて書きたい)

8月16日夜、ソ軍の先遣隊が市内に入ってきた。治安維持のため、市内巡察に一個分隊を連れて歩いていた私は、前方からくる部隊がソ軍と気付いて、全身總毛だったのを覚えている。だが、双方ともにオッカナビックリで、広い道路の両側をスレ違った。もしも、どちらかが発砲していたら、新京の無血占領はなかっただろう。

そして、20日から、掠奪、暴行、強姦がはじまった。強姦のあとは、必ず被害者を殺すのである。口封じであろう。

私が見たもの、聞いたもの、経験したもののすべては、みな「戦争」の小さな小さな一断片にすぎないのである。他の人のそれも同じである。それが、「これこそ戦争だ」と、力(リキ)み返って登場してくる。(続く) 平成12年8月26日

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2)

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)
編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)

■□■戦争とはなんだ?(2)■□■第50回■□■ 平成12年9月2日

8月下旬になって、ソ軍の司令部も進駐してきたようで、新京は首都だということで、日本軍は南の公主嶺に撤退するということになった。と、在満の日本軍の将軍たち(少将、中将)は、ソ軍機で輸送されることになり、公主嶺の飛行場に集められた。

その時、私は将校伝令として、大隊長の命令で、飛行場にいた北支那派遣軍第十二軍第百十七師団長(私の部隊長である)の、鈴木啓久中将に会いに行った。何かを届けたのか、何を伝えに行ったのか、その部分の記憶がまるでない。

陸軍中将で、師団長の閣下の様子を見て、新品少尉の私は、愕然としたのだけは、鮮明に覚えている。つまり、ソ軍の捕虜となり、ソ軍機でどこかに連れていかれることへの恐怖にオロオロしている男をみたのである。

——これがオレたちの師団長なのか!

階級制の軍隊では、将軍などと接することは、下っ端の兵にはほとんどない。私自身も保定の士官学校に入った時と卒業した時の2回だけ、はるかかなたに学校長の少将を“望見”しただけ。鈴木師団長とは対で会い、会話を交わした、初の体験であった…。敗戦直後のことではあったが、日本陸軍の中央にいる将官の、あまりにも程度が低いのに驚き、その反動で、将校伝令の内容を忘れてしまったのだ、と思っている。

なぜこんなことを、事細かに書くのかというと、後日譚があるのだ。1、2年前のこと、「フォト・ジャーナリスト」という肩書きの人物が、東京新聞に記事を提供して、そこに鈴木啓久元中将が登場していたのだ。ソ連の収容所で調べを受けたのち、中国戦犯として満州の収容所に移され、何十年間かの後に、釈放、帰国し、その収容所(監獄)時代の自供調書の内容が記事になった。

私の同期生(予備士官)にも、シベリアから中国に引き渡され、昭和33年ごろ帰国した男がいる。バイカル湖畔の炭坑町チェレムホーボの収容所も一緒だったが、私が作業隊で出ていたのに、彼は大隊副官として作業割りやデスクワークをしていた。口下手で反応の遅い方だったが、それが災いして戦犯として中国渡しになった。

その戦犯の内容は、対共産八路軍の討伐作戦の時、壊れた家の材木で、暖を取った(彼の小隊員が)のが、放火、焼き尽くし作戦の責任者とされたらしい。そのような調書が取られる時、彼は口下手で反論もしなかったので、戦犯として12、3年も監獄暮らしをした。だが、帰国後に、彼の名誉回復があり、国慶節に招待されて、天安門上に立ったという。

そういう話を承知していたので、鈴木元中将が、監獄でどのような調書を取られたのか(しかも、公主嶺飛行場での狼狽ぶりに見られる小心者)、私には想像がつく。つまり、中国側のいいなりである。その内容たるや、従軍慰安婦の強制連行を命令したとか、中国人民に対する残虐行為を命令したなど、軍の実情を知るものにとっては、まさに噴飯モノなのだ。北支軍下の慰安婦は、すべて朝鮮人と日本人である(実体験から)。それがどうして“強制連行”か。第一、師団長が軍の慰安婦管理の命令を出す立場か。バカ気ている。記事提供者も新聞デスクも無知!

このフォト・ジャーナリストには、会合で出会ったので、それを指摘したら、不愉快気な表情で、なにもいわずいってしまった。私はこのような、ジャーナリストとしての訓練もなく、見識もなく、時流に乗るだけの連中の蠢動を厳しく阻止したい。

韓国人の元慰安婦が、自分の被害体験を訴えるが、それが事実かどうかの見極めもなく、媒体は大きく取り上げる。中国のどこで醜業を強いられたのか、地名と時期を明らかにすれば、まだ、その土地にいた日本軍の戦友会があるから、すぐ調べられる。

中国では、軍が朝鮮人と日本人以外の娼婦を認めなかった。それは、兵隊たちの部隊名や作戦名が、中国人に漏れないよう、中国語の話せない女たちを選んだ、防衛上の配慮だった。そして私の知る限り、彼女らは朝鮮人の売春業者に連れて来られ、管理されていた。軍は、衛生管理の面で関与していた。性病予防である。

さて、丸2年のシベリア捕虜から帰国して読売社会部記者に復職し、数カ月で戦後の日本にも馴れてきたころ、ナント、将官級の連中が、まだ生きていることを知って、ビックリしたものだった。大佐、中佐級の参謀たちとともに、ほとんどが自決したもの、と思いこんでいたからだった。

「戦争とはなんだ?」というテーマで、答えられるのは、司令官たちとその参謀たちだけである。いま、多くの体験談や目撃談が出ているが、それは、「戦闘」の名場面だけで、残虐も、勇壮も、「戦争」という大テーマのそれではない。陸軍士官学校、海軍兵学校出身の“職業軍人”たちは、いうなれば“軍事官僚”で、彼らが兵士たちの生命を左右し、国家を滅亡させたのである。

いま、警察官僚のキャリアたちの不祥事が続発しているが、私は、軍事官僚と彼らとをオーバーラップさせてみている。エリート意識のおごりである。日本国と日本国家の、50年前の敗戦の徹底追及がなかったため、ふたたび、同じ道を歩んでいる。国家は衰退から滅亡へと進んでいるようだ。

その第一の戦犯はマスコミである。その場その場の現象に飛びつくだけで、「社会の木鐸」という言葉は死語になってしまった。

その著書で、相手の名前を出して、中国人を袋詰めにして池に投げ込み殺した、といった男は、中国各地を講演して回り、名士気取りである。名前を出された男は、裁判に訴えて、現実には袋詰めできないと、勝訴したが、著者は平気の平左だ。鈴木元中将のウソを宣伝するヤカラも同じである。(続く) 平成12年9月2日

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3)

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)

■□■戦争とはなんだ?(3)■□■第51回■□■ 平成12年9月9日

8月19日、敗戦から4日目。私たち在新京(長春)の日本軍部隊は、首都防衛司令部の命令による行軍序列で、南方の公主嶺に向けて沈黙の行進をつづけていた。日ソ両軍の交渉で、首都新京に日本軍がいると、不測の事態の可能性があるというので、南の公主嶺市に撤退することになったのだ。ここは軍都ともいうべき街で、兵舎など軍部の施設が数多くあったからだ。

重機関銃、大隊砲などの重装備は、武装解除されたが、軽機関銃、小銃などは、自衛のためまだ持っていた。満人の暴徒や満州国軍の叛乱などが、まだ続いていた。祖国日本の敗戦というショックに、自分たちのこれからの運命を思えば、葬列のような静けさにみちていた。

と、行程の半ばぐらいの時だったろうか。前方で激しい銃声が響いてきた。何が起きたのか、隊列はピタリと止まった。やがて、逓伝で「先頭部隊が外蒙兵に襲撃され、交戦中!」と、報告が入ってきた。私たちはそれをまた、後続の部隊へと叫んで伝える。

私たちは、第二〇五大隊。第一中隊から第五中隊までの小銃隊、それに、重機関銃、大隊砲の二個中隊、約一千四、五百名の兵力が並んでいた。銃声はいよいよ激しい。

「中隊長殿!」と、第五中隊第二小隊長の私は、前方の中隊指揮班に駆けつけた。「友軍が襲撃されているのです。救援に出かけましょう!」説明し損ねたが、黄河の鉄橋防衛の時には、私は重機関銃隊にいたのだが、原隊復帰の時、将校の数が足りない第五中隊に転属していた。

群馬県安中市出身で、中年の島崎正己中尉は、血気にはやる私をジロリと見るや、一喝した。「バカモン! 戦争は終わったのだ! これ以上、私の部下を死なすことはできん!」

ちょうどその時、後方から逓伝が聞こえてきた。「最後尾の戦車隊を前進させる。各隊その位置を動くな!」という。島崎中隊長は「みろ、戦車隊が出てから状況判断する!」と、不満そうに立っていた私を諭した…。やがて、キャタピラの轟音も力強く、十数輌の戦車が前進してきた。駄散兵(ダサンペイ・小銃隊の兵隊のこと)の私たちには、戦車隊の勇姿が、なんとも頼もしかったことを今でもハッキリと覚えている。

2、3時間もその位置にいただろうか。銃声も止み、前方から「前進!」の逓伝がきて再び公主嶺へと行軍を開始した。先頭の部隊は、戦車隊ともども、外蒙兵に拉致され、後には、戦死体と所持品の略奪の様子が残されていた。…これが、のちに戦後の国会でも問題になった、「ウランバートル、暁に祈る」事件の発端であった。まさに中隊長の言葉通りに、“戦争が終わったあとの犬死”だったというべきであろう。

島崎中隊長については、私が、一喝されて素直に従ったワケがもうひとつある。前々章で私が黄河から原隊復帰したとき、中隊長と第一小隊長が作戦に出ていて不在だった、と書いた。その先任少尉の石川新太郎小隊長の話である。米空軍基地のある老河口攻略のため、途中にある南陽市攻撃に参加したのだが、国民党軍が米式装備で守る南陽に行く前に、作戦部隊は、共産八路軍に行く手を阻まれた。

第二〇五大隊からは、島崎第五中隊長、石川第一小隊長のほか、他の中隊から一個小隊宛集めた一個中隊が出ていたのだった。尖兵として前に出ていた石川小隊は、有力な八路軍に包囲されそうになり、全滅の危機だったという。島崎中隊長はその様子を見て取って「石川小隊は退がれ!」と命令した。石川小隊の占めていた位置は、大隊命令で重要な地点だったのだが、島崎中隊長の命令で退却して、全滅をまぬがれた。

その日の夕方、島崎中隊長は多くの兵隊たちのいる前で、大隊長に口汚く罵られたが、黙ったまま直立不動の姿勢で立っていたそうだ。一言も弁解しなかったという。陸軍刑法には抗命罪という罪がある。上級指揮官の命令に背いた時、適用される。島崎中隊長の態度は、自分ひとり罪をかぶっても、石川小隊50余名の生命を救おう、というものだ。

島崎隊の戦友会が毎年1回、群馬県の温泉で催される。島崎、石川両氏とも故人となったが、「あの時、退却命令がなかったら、この会の顔触れは変わっていたろうよ」と、石川少尉は、いつも私に語っていた。

公主嶺の道中での、私への一喝といい、島崎中尉は“ひとのいのち”をなによりも尊ぶ人だった。シベリアの捕虜時代にも、採炭量がノルマに達しないと、責任罰で何回か営倉に入れられた。1日に黒パン一切れと水だけで…。それでも「石炭掘りに行くよりはラクだったよ」と、笑ってみせていた。

企業でも団体でも、上司次第である。それが「経営者責任」でなければならない。ツブれた銀行の役員たちが、過大な退職金を抱え込んであとは知らんぷりである。そごうの水島広雄もそうであるし、三菱自動車の社長など、「辞める気はない」と豪語し、翌日には三菱各社に迫られて「辞める」とは!

ビルマのインパール作戦では、軍司令官の中将は、反対する参謀長の首をスゲ替え、数万の兵を飢え死にさせた。作戦が中止になっても、割腹自殺もしない男だ。

カーター大統領にクビを切られた、在韓国連軍参謀長を取材しに行ったことがある。主戦派だったからだ。ロスからデンバーに飛び、車を仕立てて、ロッキー山脈の中の隠居所を訪ねた。その時の実感は、アメリカの広い国土と人口の多さだった。在米の陸軍駐在武官は、アメリカの実力について、軍中央にキチンと報告を入れていたのだろうか。駐米武官も軍中央も、陸士、陸大の出身者だ。

敗戦も、彼らの指導のもとでは当然の帰結であった。そして彼らは何百万人もの同胞を殺して、責任を取らなかったのだ。 平成12年9月9日

編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4)

編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)

■□■戦争とはなんだ?(4)■□■第52回■□■ 平成12年9月17日

日曜日の産経新聞に、長い続きものが連載されている。「紙上追体験・あの戦争」で、9月10日に94回となった。それは、「日誌」と知名人の「日記から」と、「鎮魂」という全戦域の戦死者の情報。さらに本文である。

その8月13日~19日、20日~26日、27日~9月2日、3日~9日、10日~16日の5週分の「鎮魂」に興味を覚えた。8月15日分から連日、戦地ばかりか内地の各地方での自決者の階級、氏名が明記されているからだ。その合計108名(軍人のみ)を将軍(元帥、大、中、少将)13、佐官(大、中、少)15、尉官(大、中、少)19、下士官兵(准尉2、曹長5、軍曹9、伍長6、兵長7、上等兵14、一等兵3、二等兵1)47、軍属雇員7、海軍兵7、に分類して眺めてみた。

やはり、軍事官僚の責任の取り方と、下級幹部と兵とに対する“教育”の成果とが、私の推論のように出ているのだ。産経新聞の取材源や、このデータが自決者の全てなのかどうかは、わからない。あくまで、紙面の数字からである。

元帥は1名、9月12日、第一総軍司令官杉山元は司令部で拳銃。その知らせで夫人は短刀で自決した。大将2、中将9(含海1)、少将1(家族4名とも)。中将が多いのは戦地での最高責任者が多かったから。大将と少将が少なすぎる。

大佐8(内1は妻子3人とも)、中佐1、少佐6。中佐が少ないのは参謀ということで直接責任感が薄い。大佐、少佐はそれなりに各軍位の最高責任者である。大尉6、中尉8、少尉5の計19。下士官の47は「神国日本の王道楽土の建設」に狩り立てられて、「欣然死地に赴く」現実である。

このほか「鎮魂」には、樺太での看護婦、交換手らの集団自決。右翼三団体の35名(妻2殉死)が、宮城前、愛宕山、代々木錬兵場での自決。戦犯指名の元厚相、元文相、士官学校歴史教授ら3名も名前があげられている。

ここに引用した自決者の数字は、そのままでは多い少ないとはいえない。階級制度の軍隊では、上級者になるほど人数が少なくなるからである。だが、私が満2年のシベリア捕虜から帰ってきた時、将官、佐官の戦争指導者のほとんどが、自決したと思いこんでいたものだったが、その感覚からいえば、上級者の責任の取り方が納得できないのだ。そして産経紙のあげたこの数字に、改めてその感を深くしている。

私の学生時代、軍隊時代の、あの“熱病”のような“御稜威(みいつ)のもとに益良男(ますらを=剛勇の男)が”の軍国歌謡のアジテーションは、捕虜時代にすっかり冷め果て、ともかく生きて帰ることに変わった。そしてさらに、戦争の持つ残忍性、惨虐性は、全世界の参戦国の全てに共通し、殺人、掠奪、放火、強姦など、あらゆる罪悪が横行するものなのである。従って、私は戦争中の悪事は全てアイコにすべきだと思う。

そんなことをホジクリだしっこする愚よりも、戦争を起こさせない賢に力を注ぐべきだろう。中国の殷墟から出てきた捕虜の人骨に全て頭部がないのは、蘇生を恐れたからだといわれる。斬首の習慣はむかしから中国にあった。だから、在中国の日本兵の戦死体にも、首のないものや、男性器を切除したものがあった、と古い兵隊はいう。国民党軍にも共産八路軍にも、兵隊の出身地によっては、そういった古い習俗を守る連中もいたのであろう。

日本が、明治維新後、西欧に追いつき追い越そうという努力は、ハングリーだったからこそだ。日清、日露の両戦役に勝てたのは、日本軍が強かったからではなく、清国は、長年の腐敗で病んでいたし、ロシアは帝政末期で、同じく病んでいて、弱かったから勝てた。それにオゴった指導者たちは、ハングリーな国民のケツを叩いて、“ゼイタクは敵だ・欲しがりません、勝つまでは”とあおり、新聞はその尻馬に乗って、“報国報道”を叫んだ。

知人の書いた中国戦記に、こんなくだりがある——一個中隊が駐屯する田舎の県城。分遣隊が八路軍に囲まれ全滅した。ところが駐屯地では、中隊長以下の幹部が、娼家に入り浸って泥酔していた。分遣隊を救援するどころか、中隊長本部が襲われ、全員逃げた。

実情を調べにきた参謀は、中隊長を調べた後、黙って拳銃を机上に置いてきた。中隊長はそれで自決。遊んでいた幹部たちは、全て二等兵(最下位)に落とされ、各地の各部隊に分散、転属させられた、と。

なにやら、新潟県警を想起させるが、軍隊は士気盛んな時は、責任の所在も明らかであるが、敗戦ともなれば、みな無責任だ。それを示す産経紙の「鎮魂」である。

平成11年3月の数字で、旧軍人の恩給を調べてみた。その基本になるのは、仮定年額の俸給だ。兵を1とすれば、少尉は1.6倍、少佐は2.9倍、少将は4.3倍、大将は5.7倍になる。公務員と旧軍人の合計で1.2兆円。10年ほど前までは年間3万人減(死亡)だったが、最近は5万人ほど減るようだ。現存しているのは、少将2のみで、中将、大将の本人はゼロで、遺族83を数える。

普通恩給と傷病恩給との比率は、大佐37対3、中佐250対9、少佐1777対129、大尉8360対560(単位・人)。これでみても、上級者には戦傷者が少ない。だが、兵で見ると、24万対4万で6分の1が戦傷者である。もう10年もすると、旧軍人の恩給はゼロになるだろう。どうして、こんな旧軍人恩給を持ち出したかというと、国家に対して責任を取るべき軍事官僚が、責任に対してはシカトウで、恩給だけは国家からキッチリと取っていること。

1銭5厘のはがきで兵隊にとられた連中に対し、上級者はその何倍もの計算基礎が確立されている。昭和21年2月1日にGHQの指令で旧軍人恩給が廃止されたが、昭和27年4月28日平和条約が発効するや、翌28年8月1日に恩給法改正で復活してしまった。本来ならば、旧軍人全員に平等で支給すべきだと思う。私にはもちろん恩給はない。

——こうして、無責任体制が着々と戦後政治を支配していった。軍恩連という団体も、自民党一党独裁を支持してきたのである。

では、「あの戦争」とは、一体なんだったのか? 戦後55年も経て、そのことを考える人々も、どんどん減っている。大東亜戦争と呼ばれた「あの戦争」も、関ケ原の役と同じ扱いを受けつつあるようだ。 平成12年9月17日

編集長ひとり語り第53回 ズッコケ加藤の末路

編集長ひとり語り第53回 ズッコケ加藤の末路 平成12年(2000)11月25日 画像は三田和夫58歳(1979.11)
編集長ひとり語り第53回 ズッコケ加藤の末路 平成12年(2000)11月25日 画像は三田和夫58歳(1979.11)

■□■ズッコケ加藤の末路■□■第53回■□■ 平成12年11月25日

「おまえ、バカなんじゃないかって…私もエラそうなことは言えませんけど、ネ…」

これは、イイ年をして、涙拭き拭き語る三田佳子のダンナのセリフである。テレビでの、このコメントを聞きながら、私は、このセリフは本人自身へブツけるべき言葉だ、と感じていた。NHKのプロデューサー出身だとか、一体、この男は、ナニを、どんな形でプロデュースしていたのか? と、疑問を感じた。大女優にパラサイトしているだけの男、と哀れにさえ思えた。

余談だが、山田五十鈴の何番目かの夫の役者がいた。地方巡業に行くと、“ベルダン”と声がかかる。ベル(五十鈴)のダンナ、という意味である。彼は、このカケ声に反発して、短い結婚生活を終えた。自分から三行半(離縁状)を突きつけた。「俺は独立した役者なんだ!」と。

私は、加藤紘一に「お前バカなんじゃないのか?」と、ヨシダンが自分の次男に吐きつけた言葉を、そのまま、吐きつけたい。野党の不信任案上程の、さる20日の朝、自宅を出る加藤は、「100パーセントの勝利!」と、大言を報道陣に言い放った。

森を下ろして、自分が総理になる、とも、自分が総理になったらこうするといった、情熱も、理想も、未来をも、彼は語ったことはなかった。「離党はしない」「不信任案に同調する」といった言葉の端々から、「この男は何を考えているのか」といった疑問が浮かぶが、「100%の勝ち」ということがとにもかくにも、森政権の現状打破のキッカケになるだろうことは、期待できた。

「離党しないで、野党の不信任案に同調する」ということは、「自民党内で多数の支持を得て総理総裁の座に就く」とは、バカでなければ、考えられない。仮に、不信任案が可決されたとしても、野党が一体となって、加藤を総理に担ぐということは、バカでなければ、考えられないのである。

となると、加藤は、一体何を狙って11月始めからの行動を起こしたのか。加藤派45名、山崎派19名で、合計64名。両派から落ちこぼれが出なくとも、主流派に対しては少数派である。そして、実際に本会議に欠席した(加藤・山崎両氏と行動を共にした)のは、加藤派21名、山崎派17名の38名だった。加藤派では、半数以上の24名が森側についたのである。

加藤が、外部に向かって、名乗りをあげる前に、自派44名の意志の点検をしたのか。前会長で、現名誉会長の宮沢蔵相が、賛成してくれたのか。加藤派(宏池会)の創設者・池田勇人の娘ムコの池田行彦元外相はどうか?

自分の足許さえ見ることができないのでは「お前バカなんじゃないのか!」といわれて、当然である。当初から口にしていた、国民の総意によって…というクダリは、HP(ホームページ)に数十万のアクセスがあったから、ということらしい。失礼ながら、自民党支持者の大多数の人々は、加藤のHPなど見たりはしない。トンデモナイ錯覚である。

当然考えられるのは、全国遊説で、直接国民に語りかけ、その理想や新世紀への期待に熱弁を振るうべきであった。HPへのアクセスが数十万人あった、といっても、一億二千五百万人から見れば、ケシ粒ほどの数だ。

さらに、テレビが報じた、最後の“喜劇”は、「これから、同志の山崎くんと2人で、本会議場で賛成票を投じに行きます」という、恥の、バカの上塗り、サル芝居である。もう、まともな政治家の発言ではない。

日比谷高校(府立一中)、東大法学部と歩んだ官僚志望者の、哀れな哀れな、頭デッカチだけの末路であった。私はいう。「お前、ホントにホントにバカじゃないのか!」と。

蛇足ながら、一言付け加えておこう。

むかしの派閥会長は、自分が利権を握って金を集め、それを子分たちに分け与えて、派閥の団結を図ってきたのである。いま、そんなことができるのは、亀井静香ぐらい。他の会長たちを見渡すと、そんな才能のあるのはいない。が、依然として派閥が存在するのは人事への発言力を期待するからだ。

森内閣の予算審議をみると、ロクに答弁もできない(足取りさえもおぼつかない)老人大臣が、何人か見かけられる。それも、派閥に属している恩恵なのである。

分裂騒ぎになっている加藤派で、会長の欠席指示に従わなかったのは、宮沢を除いて、23名。そのほとんどが、すでに大臣を経験している。つまり、加藤を取り立てる意味がない人たちである。 平成12年11月25日

編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて

編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて 平成12年(2000)12月9日 画像は三田和夫60代くらいか
編集長ひとり語り第54回 反権力の一途に生きて 平成12年(2000)12月9日 画像は三田和夫60代くらいか

■□■反権力の一途に生きて■□■第54回■□■ 平成12年12月9日

むかし、徳田球一という共産党の大ボスがいた。「獄中18年」といわれ、日本の敗戦後に、マッカーサーによって合法化された、現在の日本共産党の初代書記長だった。が、昭和25年の朝鮮動乱後、日共幹部が追放され、中国に亡命して客死した。

そのわずかな合法時代。日比谷公会堂での演説を聞いて、“反動読売の反動記者”と左翼から呼ばれていた私が、取材で来たことも忘れ、興奮して、拳を握り、手を振りあげて叫んでいたことを覚えている——それほどのアジテーターだった。大衆を前にして、彼らをトリコにしてしまうカリスマ性だった。

ちなみに、同じアジテーターでも、小人数の聴衆を引きずりこむのが、元参謀の辻政信だった。動と静、対照的な2人のアジテーター。もちろん、新聞記者である私は、この2人のアジテーターに、自分が煽られていることを、客観的に見つめている、もうひとりの自分がいることも、忘れはしなかった。

なぜ、愛称・徳球の話を持ち出したか、といえば、さる12月2日、市谷の私学会館で、「石島泰弁護士を偲ぶ会」が日本国際法律家協会有志によって催されたからだ。そして、彼の弁護によって、無罪の判決を受けた元被告たちの、故人に対する感謝の言葉を聞いているうちに、石島の遺影にダブって、徳球サンの顔や姿が思い浮かんだのだった。

石島と私とは、小学校から府立五中卒業までの10年間ほど続いた級友だった。彼ともうひとり、同じ小学校、中学と歩んだ三ヶ月章とが、一高、東大というエリートコースを歩んだまでは知っていたが、五中の卒業級友会以後、この2人と会うことはなかった。

戦争、敗戦という混乱が、さらにその機会を与えてくれなかった。昭和18年、日大を出た私は、読売新聞に採用されたのち、出征、シベリア捕虜2年を経て、読売に復職。司法記者クラブに所属していた。その当時、「自由法曹団という左翼系に、石島というツワモノがいる」と、耳にはしていたが、石島泰とは結びつかなかった。何故かならば、一高、東大の秀才は、権力志向だから役人になるものだ、という先入観が私にあったからだ。

読売復職後、私が、最初に書いた署名原稿の「シベリア印象記」が、反ソ的だというので前述のようなレッテルを貼られていた。そして、メーデー事件の公判で、“共産党”のレッテルを貼られた被告のひとり(東大大学院学生)が、家庭教師の職を失い、生活に窮して、分離公判を申請した。その取材をした私が書いた記事には、「共産党はお断り」という大見出しがつけられた。

ところが、彼は東大内で吊るし上げられたので、「読売記事はデマだ」と弁明して、その取り消し要求のため、自由法曹団・石島弁護士とともに、社にやってきた。受付からの電話で、私は緊張した。アノ石島が現れた! というのだ。編集局の応接室のドアをあけて、その顔を見たトタン、私は叫んだ。「石島というのはお前か!」「三田というのでもしやと思ったが、やっぱりお前か!」と石島。劇的な再開シーンに、情けなさそうな表情の被告。

それからのち、石島の弁論を法廷で何度か聞いた——明快な論旨、タタミこむ声量と弁説。法廷には、緊張感がみなぎるのだった。それは、アジテーションではないが、十分な説得力で、裁判官も検事も、傍聴席をも巻き込んで、興奮させる。それこそ、徳球張りの演説だった。

自由法曹団気鋭の左翼弁護士と、反動読売新聞切っての反動記者という、対照的な二人の交際は、ともに事務所が銀座だったので、奇妙につづいていった。当時の共産党員にはヒューマニストが多く、石島もそのひとりだ。

一方、もうひとりの同窓・三ヶ月章はどうなったか。東大卒業後、大学に残り、講師、助教授、教授、名誉教授と進み、最後は、小渕内閣で法務大臣という、権力の途を歩んでいった。私が石島を尊敬するのは、一高、東大というキャリアから、望めば権力側での大成が期待されるのに、終始反権力の道を選んだからである。

石島の訃報は、一般紙にも出たのに、赤旗には載らなかった。私の憶測では、共産党を除名されたのではないかと思う。それは、「田中角栄の弁護を引き受けてもいい」という、刑訴法321条の問題。ロッキード事件で、有罪の決め手となったコーチャン調書の証拠能力への疑念問題で、左翼は猛然と石島批判を展開したからである。(この件は月刊文芸春秋10月号、蓋棺録に詳しい)スピーチを指名された私は、こう結んだ。「…二人の同窓生、三ヶ月は法相をやったので、死ねば勲一等でしょう。しかし、石島には、遺影だけでナニもありません。それが、私をして彼を尊敬せしむるのです」と。 平成12年12月9日

編集長ひとり語り第55回 ご無沙汰してました!

編集長ひとり語り第55回 ご無沙汰してました! 平成13年(2001)9月15日 画像は三田和夫38歳(中央鈴木英夫監督の右隣・向かって左側のメガネ・背広ネクタイ・ポケットチーフ/鈴木監督の左隣は三橋達也と司葉子 三田和夫原作の映画「鍵を握る男」スタッフ一同(公開時タイトルは「非情都市」1959.12.28)
編集長ひとり語り第55回 ご無沙汰してました! 平成13年(2001)9月15日 画像は三田和夫38歳(中央鈴木英夫監督の右隣・向かって左側のメガネ・背広ネクタイ・ポケットチーフ/鈴木監督の左隣は三橋達也と司葉子 三田和夫原作の映画「鍵を握る男」スタッフ一同(公開時タイトルは「非情都市」1959.12.28)

■□■ご無沙汰してました!■□■第55回■□■ 平成13年9月15日

「やあ、やあ!」肩と腰をかがめながら、顔の前に出した手刀を引っ込め、「どうも! どうも! どうも!」…何しろ半年以上も、原稿をサボったのだから、テレ隠しにはこのスタイルしかない。

だが、理由もあったのである。何しろ35年も続けた正論新聞の後半の15年ほどの事務所の撤収作戦があったのである。

そして2001年の2月にそれらが完了すると、なんとシャックリ病に襲われて、食欲がなくなり、見る見るやせこけて、戦後の平均体重67キロの私が、47キロに落ちてシワシワのジジイになり下がり、ついにはダウンして、入院、手術ということになってしまった。

丁度その頃、6月11日の誕生日がやってくるので、「80歳・禁煙」の挨拶状を用意した。気合を入れねばならないと、「正論アーカイヴス」の構想をまとめ、それも書いた。ところが、気合が入るどころか、いよいよダメになる。ベッドに横になりながら、私の80年の“自信に満ちた人生を回顧”してみたのだ。

少年時代はやや虚弱だったようだが、玉子をモリモリ食べて、小学校上級から中学にかけて、体格は頑健になり、スポーツ万能、柔道初段…軍隊もシベリアの捕虜も堂々突破して、病気知らず、寝込んだことなし。今のいままで「医者にみせる」という発想のなかった体力自慢がガラガラと崩れていって、前述の通り、入院、手術ということになったのであった。

1週間も点滴だけがつづき、8日目から重湯とダシ汁…そして、3分粥という初日が9月11日。あの恐るべき“戦争の日”であった。

56年前の人間同士の殺し合いの戦争が、20世紀の語り草となり、私も80歳でシベリアの慢性飢餓から、病院の3分粥という、“弱慢性飢餓”にショックを受けているところに、21世紀の“新しい戦争”をアピールするようなテレビ放映である。 平成13年9月15日

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと…

編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)
編集長ひとり語り第56回 アメリカ同時テロのこと… 平成13年(2001)9月29日 画像は三田和夫51歳(中央 1972.12.18)

■□■アメリカ同時テロのこと…■□■第56回■□■ 平成13年9月29日

あの“惨劇の日”から3日過ぎた14日。ワシントンに集まった20万人の人達が祈りの日を持った。それからもう2週間も経ち、全米各地でそれぞれに祈りの日が持たれた。だが、私には、14日のワシントンほど強烈な印象を与えられた情景はない。

というのは、14日のテレビには、「NO WAR」と大書されたビラが映し出されていたからである。そしてビラはこの1枚だけであった。カメラは横にパンしていたが、私の記憶が正しければ、この1枚だけで、それだけに強烈な印象を与えられたのだった。

私達の英語常識からいえば、NOは否定のNOであり、WARは名詞の戦争であり、それ以上でもそれ以下でもない。

なぜ、こんなことをまわりくどく書くのかといえば、それほど、このテロの後の祈りの場で、このビラの与える訴える力は、はかりしれないほどの、人々の心への影響が強大なものだったに違いないと思われるからである。

現在までの米側の反応を見れば、当然“いわゆる戦争”になることが予想される。それを人間の知恵が、どう避けて通れるのだろうか。14日の段階で、すでにそう予測されるから、あのビラが出たのだし、あれを掲げることを、カメラも、その他主催者も認めたのだろう。

しかし、報復が報復を呼ばない、どんな“妙手”があるのだろうか…。誰もが思いつかないのだから、この「NO WAR」が効いてくる…。

これがもし、日米があらゆる立場を交代して、日本での追悼集会の場であったらどうだったろうか。想像するだけでも不快感がコミあげてきて、寒気がするほどである。

「ノー・ウォー」このわずかツーシラブルの簡明で粗野な言葉が持つ、深い大きい意義について、次回は語ろう。 平成13年9月29日

編集長ひとり語り第57回 アメリカはいつキレるか?

編集長ひとり語り第57回 アメリカはいつキレるか? 平成13年(2001)10月4日 画像は三田和夫48歳(右側 1970.01.05)
編集長ひとり語り第57回 アメリカはいつキレるか? 平成13年(2001)10月4日 画像は三田和夫48歳(右側 1970.01.05)

■□■アメリカはいつキレるか?■□■第57回■□■ 平成13年10月4日

さて、ここまで語ってきた「NO WAR」について、もう私の本音を話さねばなるまい。

そうでないと、入院しただけで、三田もボケてきたと思われそうである。

私の戦争体験は、わずか2年間。シベリアの捕虜生活を加えても4年に過ぎない。他の多くの人達のケースに見るまでもなく、いうなれば、その世界では駆け出しのうちであろう。

だが、その後の新聞記者生活もプラスされて、私のうちなる部分では、大きな蓄積になったと感じている。そのあたりから、「NO WAR」に対しても、純粋な想いがある。

これがもし、日本語で「戦争はイヤだ」「戦争反対」などと書かれていたら、どうであろうか!? 私には、その札を持っている人も、みんなの顔が眼に浮かんでくる。つまり、「戦争」とは、もう何の関係もない、主義、主張や、自分の都合で、そう唱え、そう叫ぶ人達である。すべての人がそうだとはいわないが、多くの人達がそうである。長い長い新聞記者生活の中で、そう感じてきた。

今度の、まさに筆舌に尽くしがたい“21世紀の戦争”といわれる事件で、私達の世代がもう半世紀も以前に捨ててきた、自爆ハイジャックの「特攻」という言葉や、東條首相の「聖戦」という言葉まで、生々しく想い起こさせられてしまった。ブッシュ大統領がやろうとしている陣構えは、“20世紀の戦争”さながらではあるが、中身は少し違う。

古い言葉でいえば、権謀術数、心理戦であり、神経戦である。まさに狼少年とロシアンルーレットがミックスされた感じなのだ。それはNHKの報道に端的に見える。イスラマバードの現地特派員は、「日に日に緊迫の度を加えて…」とあおれば、ワシントン特派員は「イヤイヤ、まだまだ…」と、抑えるといった具合だ。

今日でも、その緊張が静かに続いて、「NO WAR」の静かなポスターそのままの状態であるのは、うれしいことだ。アメリカも、ベトナムや湾岸戦争で、大人になったものだ。 平成13年10月4日