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迎えにきたジープ p.086-087 地下中共大使館の財務官

迎えにきたジープ p.086-087 Bingsong Lin (林炳松, Lin-Heisho) is called the “Treasurer of the Underground CCP Embassy”. He plot to spread the ruble instead of the dollar.
迎えにきたジープ p.086-087 Bingsong Lin (林炳松, Lin-Heisho) is called the “Treasurer of the Underground CCP Embassy”. He plot to spread the ruble instead of the dollar.

日本の各界はこの問題をめぐって、さきにケンケンガクガクの是非論を闘わしたが、結局同

会議出席のため名和、帆足、平野、平岡、宮腰喜助の五氏と組合関係から吉田産別議長、柳本総評組織部長、和田金属委員長、太田国鉄書記長、入江合成化学書記長らが渡航申請を行ったのだった。

ヤミ・ルーブル紙幣の話が流れ出したのもこのころであった。

話は前後するが、さる二十九年十月十日と十七日とに、話題の二人の人物が相次いで帰国してきた。帰国してきたといっても、彼らは日本人ではなく中国人である。二人の中国人の帰国(?)が、果して日本にどんな波紋をひき起すのだろうか。

その一人、林炳松氏は台湾出身の国際新聞社長(大阪)松永洋行社長(東京)という実業人であるばかりでなく、元日中友好協会副会長、現同理事兼財務委員という肩書の人。もう一人はさる九月はじめ北京で開かれた中共の全国人民代表大会代表として、在日華僑の中からただ一人選ばれた東京華僑総会々長の康鳴球氏である。

中国人が日本に香港から帰国するという表現はいささかオカシイのであるが、それほどこの両氏は日本に根をおろした生活であり、それゆえにこそ問題なのである。康氏の場合はさておいて、ここでは財界と関係深い林氏についてみてみよう。

林氏は〝地下中共大使館の財務官〟といわれるだけあって、日中、日ソ貿易には重要な人物

である。そしてそれだけに、いろいろと神秘的な情報につつまれた怪人物である。某治安当局の得た情報に『ルーブル謀略の林炳松』というのがある。つまりルーブル紙幣を大量に日本国内に持ちこんで、ドルと喧嘩をさせようという経済謀略である。

これは大変な話である。日本国内のドルを吸いあげて、現在のドルなみにルーブル紙幣の価値を高めようというのだから、裏付けがなければならない。これが日中、日ソ貿易である。

このような時期にヤミルーブルの話が、ひそかに業者の間に流れはじめた。果して事実かどうか、また米貨圧迫と経済攪乱のためのデマか、当局ではついに確認し得なかったが、このルーブル騷動の中心人物が林氏だと伝えられている。

二十七年の正月ごろ、北海道へ密航してきた一機帆船(ソ連の潜艦から積みかえたのだともいう)が、三十五梱の荷物をあげた。これが全部ソ連のルーブル紙幣で、一九四七年幣制改革以後のものだという。

これを知った阪神方面の第三国人(これが林氏ではないかともいう)が、大思惑を決意して大量に買占めだしてから、急激に需要が増えてきてドル五ルーブル(レートではドル四ルーブル)という相場で、日本人ヤミ屋までルーブル買をはじめるという騒ぎになった。

日ソ貿易に熱心な一流商社でも懸命に買漁ったそうで、用途は思惑買のほか、天津、大連な どに送って、中共治下では安い貴金属、宝飾品を買集めるとか、樺太炭やパルプの取引で某社などは現地へ社員を密航させたりしているので、そのさいの工作用であるとか言われている。

迎えにきたジープ p.088-089 呉周白元鮮共委員がルーブル買

迎えにきたジープ p.088-089 AP reporter wrote, "The Soviet representative has a deposit account close to $ 500,000." However, even if the Japanese police do their best to investigate, the reality of the "Mamiana" money cannot be grasped.
迎えにきたジープ p.088-089 AP reporter wrote, “The Soviet representative has a deposit account close to $ 500,000.” However, even if the Japanese police do their best to investigate, the reality of the “Mamiana” money cannot be grasped.

日ソ貿易に熱心な一流商社でも懸命に買漁ったそうで、用途は思惑買のほか、天津、大連な

どに送って、中共治下では安い貴金属、宝飾品を買集めるとか、樺太炭やパルプの取引で某社などは現地へ社員を密航させたりしているので、そのさいの工作用であるとか言われている。

この話について代表部に極めて近い安宅産業の担当幹部社員は、『その話については他の会社については聞いている。しかしウチのような一流会社ではそんなことをする必要がない』と語って、噂を肯定しており、また戦時中に謀略用の外国ガン幣(ニセ札)製造をやった参謀本部の某元将校は、『あらゆる国のガン幣を作ったが、ルーブルだけはできなかった。ヤミルーブルが流れているというなら、それは本物に違いない』という。

当局ではこの情報によって第三国人関係を調べてゆくうち、新宿区角筈に住む呉周白、元鮮共中央委員が、ルーブル買をやっていることを掴んだ。直ちに、同人の身辺を内偵しはじめると、早くもこれを察知したのか呉は逃走してしまった。糸が切れてしまった訳で林氏がその中心人物であるとも確認できずに終った。当局で確認しきっていないというのはこのことだが、事実として相当確実視しており、このヤミルーブルの大口取引は関西が舞台になっていることは、やはり関西財界の日ソ貿易への異状な関心を物語る一つの材料である。

余談ではあるが、通貨の搜査は搜査技術の面からいっても極めてむずかしいのである。ルーブルは外国為替管理法の指定通貨ではないから、(ドルとポンドだけ指定されている)不正所持、

無申告などの犯罪にならないから尚更のことである。

例えば二十八年夏、北海道でおきた関三次郎スパイ事件というのがあった。彼の持っていた真新しい百円札は百番台ごとに続き番号だったので、直ちにこの搜査が行われた。その結果、これらの紙幣は二十五年ごろ東京で印刷され、日銀から三つの市中銀行に出たものと推定された。そのうちの一つに銀座に東京支店をもつ東海銀行があったので、係官たちはこおどりしてよろこんだ。さきのヤミルーブルで同銀行をクサイとにらんでいたところだったので、その裏付けの一つとなったというのだ。

また二十九年十月二十四日号の週刊朝日に寄稿された、AP記者のラストヴォロフ事件の記事中に『ソ連代表部は五十万ドル近い口座を持っている』とあるが、やはり当局が懸命に捜査をしてもこの狸穴の金の実態はつかめない。このドル預金はアメリカ・バンクにあるのだが、円に交換するときは正規の手続きで行われており、ドルで使用した場合もそうであるが、その支出額が極めて少ない。

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。

迎えにきたジープ p.090-091 街に流れ出したソ連色

迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin's new year's message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama's Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.
迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin’s new year’s message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama’s Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。

失踪したラ氏は四、五万円の金を持っていたというので、この千円札の行方を追及した。新しい千円札なら入手経路が分るからだ。失踪の日東京温泉でミストルコに二千円のチップをやったときいて色めき立ったが、誰が千円札の番号記号を覚えているだろう。話は横道へそれたが、このような話のまつわりつく林炳松氏が帰国した。しかも当局では北京から帰ってきたと信じている。果して再び、日中、日ソ貿易商社たちをあわてさせるような噂をふりまくだろうか。

四 街に流れ出したソ連色

他の政治、文化工作も、この経済工作と並行して活溌に行われていた。

シュメリヨフ文化代表の活躍もすさまじかった。第一期の時代も三菱仲二十一号館の図書館では、自由にソ連図書の閲覧を許していたが、七月ごろからは学生と勤労者に重点を置いた宣伝活動が激しくなった。

文化部内で、隔日か週二、三回の割で映画会、文化会が、日ソ親善協会を通して行われた。早大講堂ではソ連文化展や民族舞踊会が催され、専大ではロシヤ語友の会が文化部のザカローバ女史出席のもとに開かれた。朝鮮人に対しても旧朝連系学生の手で、映画、舞踊会が催された。

二十七年初頭のスターリン首相の年頭メッセーヂ、大山郁夫氏へのスターリン平和賞、いずれもソ連の日本への友好を誇示したゼスチュアだ。ソ同盟共産党小史、ハバロフスク細菌戦犯裁判の全貌など、モスクワ外国語出版所の刊行になる日本文ソ連図書のほか、ロシヤ語パンフレットやグラフが安価に街に流れ出した。ヴォルガの舟唄などソ連製のレコードも、本場もののヴォッカ、食料、調味料までが、街のロシヤ料理店に並んでいる。

政治工作の担当者は明らかではない。別表の、代表部組織をみても分る通り、明らかに政府(赤軍を含む)系統のものと党関係の系統とに分けて考えられる組織だからだ。大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1952年1月
ソ連代表部機構

代表

陸軍武官府
海軍武官府
政治顧問室
経済顧問室

文化部
通商部
文官部
報道部
領事部
海軍部

連絡将校室
特別情報部
書記室

迎えにきたジープ p.092-093 日本経済界の地ならし工作

迎えにきたジープ p.092-093 The Kobe Soviet Committee, which was a substantive Kansai branch of the Soviet representative, took steps to capture the Kansai business world in Japan. According to the 1954 Kobe Police Survey, Chairman Poroshin and the members were Yushkov and others.
迎えにきたジープ p.092-093 The Kobe Soviet Committee, which was a substantive Kansai branch of the Soviet representative, took steps to capture the Kansai business world in Japan. According to the 1954 Kobe Police Survey, Chairman Poroshin and the members were Yushkov and others.

大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1 代表部では二十一年三月に鎌倉市材木座一二四高島直一郎氏所有の洋風平屋建一戸をアジェフ・ニコエフ名儀で買収、さらに二十三年に同町一二七八徳川義親氏邸を買収しようとして、総司令部に止められていたものを、二十一号館を返還した昨夏再び同家に働きかけ、日本人名儀で買取り同人を留守番として住まわせている。

2 この時期に通商代表部は多額の金を某銀行から引出している。

3 メーデー騒じょう事件で、俄然注目を集めた二名の怪外人(藤川アンナ女史でない)のうち一名は、青島より戦後入国した白系露人、他の一名はシベリヤで捕虜に日本語新聞を発行していたコバレンコ中佐で、タス通信記者を装って入国したとみられている。しかも両名は日共関係集会に常に姿をみせている。

4 図書、酒、食料品などの秘密移動市場が都内の空倉庫で開かれ、党員など関係者が只同様に買取って解散する。彼らはそれを高く転売して活動資金としている。

5 食料品、酒はソ連帰還者や第三国人の経営するレストラン、バー、ナイトクラブに送られる。白系露人の多く出入するクラブや喫茶店が増えてきている。渋谷のR、銀座のH、新橋のT、上野のLなど

6 国際ヤミ商人で有名な米人の経営するR店にはこの時期に代表部職員だった白系露人が入社している。

7 代表部の乗用車が都内および三鷹、立川、青梅などの近郊五コースを無停車で走り廻り、しかも一

定地点で必らず超短波無線連絡をとっている。

第一期工作の平静さに比べて、この第二期工作は、眼まぐるしいほどの事件が起きている。しかもその前期は隠密工作で、後期は前期の反動心理を利用した煽動工作である。第二期はこのモスクワ会議で終了し、その目的を達して成功したとソ連側ではいっている。

この間にソ連側が得た最大のものは、各種財界人の色分けが明らかとなり、日本の各個人、各商社の情報資料を入手して全く確認し得たことだ。これは次期(第三期)工作の重要な基礎資料であって、これをすべて握ったことはソ連側として最大の収獲であり、また同時に日本経済界の地ならし工作の成功といえる。

この方面の情報によるとソ連側が最も興味を持っているのは、さきにも述べたように関西財界である。関西財界を思うツボに引ずり込んだ功績は、神戸市生田区山手通二のコウべ・ソヴェト・コミッティだ。ここは元来、経済、文化関係のクラブで、委員長グロレフスキー(二十六年十一月死亡)委員ジム・グロレフスキー(代表部書記、父委員長の死後その跡を継いだ)同キシコフらが仕事を担当、実質的には代表部の関西支部となっている。

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ フ(無職)らが幹部になっている。

迎えにきたジープ p.094-095 高良女史・ナゾの秘書松山繁

迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.
迎えにきたジープ p.094-095 An easily deceived old lady, Tomi Kora, attended the Moscow Economic Conference. However, behind it was Shigeru Matsuyama, an agent.

二十九年秋の神戸市警の調査によれば、このメムバーも変り、会長はポロシン(洋服地行商)委員としてフェチソフ(洋裁店主)、ベルモント(会社支配人)、ゴロアノフ(拳闘家)、ユシコ

フ(無職)らが幹部になっている。この中で注目されるのはユシコフであって、彼は銀座八丁目の千疋屋二階にあるナイトクラブ「ハト」の経営者であった。

クラブ「ハト」というのは代表部員たちの溜り場のような店で、客のほとんどが外人ばかりである。ラ氏の工作舞台であったろうことも当然考えられようが、何よりもユシコフはこの店で二人の白系露人をかくまい、またしばしば代表部へ出入していたのである。

この二人というのはさる二十六年七月二十九日、北海道宗谷村から漁船を利用して樺太へ密航しようとして逮捕され、二十七年七月末に札幌地裁で講和の大赦で免訴になった、ウラジミール・ボブロフとジョージ・テレンチーフの二人である。

そしてまたこのユシコフとボブロフの二人は、二十八年三月十六日、西銀座のナイトクラブ「マンダリン」で、〝モンテカルロの夜〟という偽装慈善パーティの国際バクチを開帳して検挙された主犯でもある。

講和発効となって日ソの関係はまた新しく展開した。当時の岡崎外相の国会での発言によれば、現在の日ソ関係は、『降伏関係ではなく、独立国としての日本とソ連との休戦関係』である。代表部としては前二期の工作の成果が実って、この時期に備えるのを待っていた。

第三期工作は成果の誕生とその育成が狙いだ。高良とみという、人間の善意しか理解できな

い(?)ような老婦人が、モスクワ会議へ代表となって飛入りしてきたのも幸先が良かった。チョロまかしやすいタイプの人である。まさに鴨が葱を背負ってきたという処であろう。

女史は、ハバロフスク郊外六十キロの日本人墓地に詣で、『緑の若草が萌え、やすらかな雰囲気を感じた』という。何故六十キロも離れた墓地ではなく、同地帰還者のいう同市周辺に無数にある墓地に詣でて、一掬の涙をそそがなかったのだろう。女史がどの程度シベリヤ捕虜問題に正確な知識をもち、どうしてその墓を日本人の墓と確認したのであろうか。平和で安らかな一刻であったろう。

さらにまた女史はシベリヤで将軍に会って、日本人戦犯への慰問袋、文通自由を確認したという。ああ、どうして女史は……と、女史の一挙手一投足に不安と危惧とを感じない者があるだろうか。

だが、この高良女史問題も二十七年八月九日付の読売紙に報ぜられた「ナゾの秘書、松山繁」の記事が述べているように(第二集〔赤い広場—霞ヶ関〕に詳述)それは決して偶然ではない。ソ連の対日工作はつねに一貫して流れているのである。

迎えにきたジープ p.096-097 勝者の敗者への復讐裁判

迎えにきたジープ p.096-097 The Soviet army conducted a war crimes trial in the Khabarovsk military court for the preparation and use of bacterial weapons, with twelve defendants, including General Otozo Yamada. After that, even the Emperor was nominated as a bacterial war criminal.
迎えにきたジープ p.096-097 The Soviet army conducted a war crimes trial in the Khabarovsk military court for the preparation and use of bacterial weapons, with twelve defendants, including General Otozo Yamada. After that, even the Emperor was nominated as a bacterial war criminal.

東京細菌戦始末記

一九五〇年十月、国連保健部長ブロック・チスホルム博士は、英国学識者の研究会の席上で『細菌兵器は攻撃目標になった大陸の人口の過半数を絶滅し得る。それゆえ戦争の道具としての原爆はすでに古くなってしまった』と、語っている。

戦後、ソ連軍はハバロフスクの軍事法廷で、関東軍司令官山田乙三大将以下衛生兵にいたるわずか十二名の者を被告として、細菌兵器の準備および使用の廉による戦犯裁判を行った。そして二十五年二月一日、さらに天皇までを細菌戦犯として指名した。

今、七十四才の老齢である山田大将以下は『自由ヲ剥奪シ二十五年間ヲ期限トシテ矯正労働収容所ニ収容スベシ』という判決を与えられ、それぞれ強制(矯正?)労働に服役してるという。

だが、果して細菌戦を準備していたのは、日本だけであったろうか? 軍事研究誌「大陸問題」(大陸問題研究所発行、二十七年第六号)は『米ソ両国の細菌戦準備について』で、ソ連の細

菌戦準備の状況を正確な資料にもとずいて暴き、ハバロフスク裁判が、勝者の敗者への復讐裁判であることを明らかにしている。

そして、いまや米ソ両国の謀略うずまく魔都と化した最近の東京では、誰も気付かぬうちに不思議な事件が次から次へと起きては消えていっている。

一 作られない捕虜名簿のナゾ

この物語は、極北の地シベリヤで永遠のナゾと消えた数十万同胞の、悲しい運命をたずねて、静かに一昔前にさかのぼる……

ゆるやかな大地のうねりが、果しなく続いて、丘、また丘。コルホーズらしい人家の影すら求められない、いわゆるシベリヤ大波状地帯は、すでに雪と氷の白一色におおわれている。樹氷となった白樺の疎林の低さも、またうそ寒い。昭和二十一年一月から二月にかけてのことだった。

ここ中部シベリヤの炭坑町チェレムホーボの郊外にある第一収容所は、ゼムリャンカ(半土窟建築の家)のバラックが十棟以上も並び、旧日本軍の捕虜を約四千名も収容した、同地方最大のものだった。

この辺一帯は豊富な炭田地帯で、地下五、六尺も掘ればもう泥炭層が現われ、さらにその下には油でギラギラ輝く黒ダイヤが眠っている。

迎えにきたジープ p.098-099 捕虜たちは働いていなかった

迎えにきたジープ p.098-099 At the POW camp...A corpse piled up like mountain. A frozen corpse. Tangling hands and feet, bumping noses and ears. Swipe up the fingers and ears scattered on the ground and put them in the sled.
迎えにきたジープ p.098-099 At the POW camp…A corpse piled up like mountain. A frozen corpse. Tangling hands and feet, bumping noses and ears. Swipe up the fingers and ears scattered on the ground and put them in the sled.

捕虜たちがスターリンの五カ年計画による採炭定量(ノルマ)を遂行するため、この炭坑で働らかされることは当然であったが、収容所は堅く門を閉ぢ、鉄条網の外周には絶えず動哨(コンボイ)が警戒し、望楼には全身を毛皮外套(シューバー)に包んだ歩哨(チサボイ)が佇立していて、何人も近寄れなかった。

捕虜たちは全く働らいていなかった。〝働らかざるものは食うべからず〟という、社会主義の原則は〝人類の平和と幸福のシンボル〟という赤旗をかざす、ソ連当局の寬大さによって、捕虜たちに適用されなかったのであろうか。はたまた、すでに零下五十二度という酷寒を寒暖計に記録し、さらに風速一米で一度下る体感温度が、捕虜たちに苛酷であるという思いやりのためなのだろうか。

ア、兵舍から人影が現れた。一人、二人……かたつむりのような緩慢さで、二十名の一隊が収容所の外へ出て付近の丘に登っていった。長い時間をかけて、のめるような歩みを続けたのち彼らは目的地に着いたらしい。

彼らはそこに崩れ坐った。警戒兵の抱えた自動小銃と、射ち殺さんばかりの怒声とで、彼らは携えてきた鉄棒を力なく堅い堅い氷と凍土に打ち突けはじめた。……墓穴を掘ろうというのである。

数日ののちに、また数名の一隊が現れた。この連中は大きなソリを引いていた。床板もない

掘立小屋の戸が開かれる。地べたに山とつまれた屍体は時々整理しなければならない。命令で肌着も下帯も剥ぎとられて、むきだしのまま、洗濯板のように突張った胸、えぐったように陥没した腹。おがらのような手足が、臨終の苦悩をそのまま虚空に描いて、カンカンに凍った屍体。

銃剣にせかされて下の方の奴を引張ると、ガラガラと音をたてて薪束のように崩れおちてくる。もつれあう手と足、ぶつかりあう鼻と耳。無表情に手当り次第にソリに積みあげる。その後で液体空気で凍らせた金魚を叩きつけたように、地面に散乱している指や耳のかけらをはき集めて、ソリの中にあけてやるのだ。

このように、僅かな人々が時たま出入りするほかは、四千名もいるというのに、収容所全体が死んだように静まり返っている。

だが、一歩兵舍の中に足を踏み入れてみよう。採光も換気も、暖房すら充分でない兵隊屋敷だ。捕虜たちは起ち上る空間すらなく、お蚕棚のように二段になって、身を横たえたままビッシリと詰めこまれていた。

中廊下に置かれた味噌の空樽からは、濁った小便と赤い下痢便があふれて流れ出し、建物中の不潔臭が、発熱患者の体臭にむされて、堪え難い悪臭となって立ちこめている。

迎えにきたジープ p.100-101 虱を絶やすため全身の剃毛

迎えにきたジープ p.100-101 It was quite natural that the POWs did not work. They can't work. The prisoners were groaning to death after being attacked by a plague called "typhus fever".
迎えにきたジープ p.100-101 It was quite natural that the POWs did not work. They can’t work. The prisoners were groaning to death after being attacked by a plague called “typhus fever”.

中廊下に置かれた味噌の空樽からは、濁った小便と赤い下痢便があふれて流れ出し、建物中の不潔臭が、発熱患者の体臭にむされて、堪え難い悪臭となって立ちこめている。

しかも、絶望的な叫びが響き、ボソボソと呟くうわ言と、鈍い動作で這いずり廻る気配とが一緒くたになって、騷然となっているではないか。

捕虜たちが働らかないのも、全く当然であった。働らけないのである。捕虜たちは、〝発疹チフス〟という疫病に襲われて、死の淵に呻吟しているのだった。

勝村良太は自分の順番が来るのを待ちながら、放心したように浴場(バーニャ)の脱衣場に立って、向う側の建物の窓を眺めていた。

収容所の一隅には、厳重に鉄条網で囲まれた二棟の立派な建物があって、司令部(シュタップ)と呼ばれていた。平常はあまり近付く機会もないその建物の窓に、さっきからしきりに白い影が動いている。

——ああ、白衣を着たロスだな。チフスに満足な防疫もしない癖に、何を研究しているのだ。

フト前の方で騒がしい声が起った。

『ナ、何故こんなことをするんじゃ。身体中の毛を剃ってしもうたら、遺族に何の遺品を届けるのじゃ。見い。わしはこのように部下の遺髪を持っとる。これがわしの務めだ』

一年志願上りの老中尉が、立会の日本軍医に懸命に喰ってかかっていた。

『エエ、止めい、止めろ。わしが大隊長殿にかけ合うて来る』

発病している。狂気のように荒れる老中尉に衛生兵が組みついた。顔面はすでに紅潮し、眼は赤く血走っている。高年者の特徴として、発病と同時に脳症を起したに違いない。

虱を絶やすため、一切の体毛を剃ろうというのに、遺髪がとれなくなるから止めろという話は全くナンセンスだった。発疹チフスの特性は、この脳背髄、神経系統の血行障害による悲惨な脳症状だ。

捕虜たちは自分で恥毛や脇毛に石鹸をこすりつけて、衛生兵の前に並ばねばならなかった。慢性飢餓による栄養不良と、厳寒のための不潔からチフスが蔓延しているというのに、全くのところ適切な防疫手段は何も講じられていなかった。予防接種は極く一部にしか行われず、治療薬品も殆ど渡らなかった。

不完全な蒸気消毒車が一台動員されただけである。重症者も軽症者も全裸にされて、衣服を蒸されたが、服がビショビショになったため、次々と肺炎を起して死んで行った。輸血は無検査で行われ、生命は取止めたが、身に覚えのない梅毒やマラリヤを背負わされた。あとはただ全身の剃毛だ。

『ヘン、今更毛なんぞ剃ったって追っつきゃしねえや。なぜロスは薬をくれねえんだ』

『畜生! どうせ死ぬものなら、一度でいいから腹一杯喰ってから死にてえもんだ』

迎えにきたジープ p.102-103 ねずみに高梁喰わせるのか

迎えにきたジープ p.102-103 The headquarters (ШТАБ) keeps a lot of mice! For what? He was given an important hint and suddenly noticed.
迎えにきたジープ p.102-103 The headquarters (ШТАБ) keeps a lot of mice! For what? He was given an important hint and suddenly noticed.

『ヘン、今更毛なんぞ剃ったって追っつきゃしねえや。なぜロスは薬をくれねえんだ』

『畜生! どうせ死ぬものなら、一度でいいから腹一杯喰ってから死にてえもんだ』

『おお、そういや、俺はこの前シュタップに使役に行って、旨いことしたぜ。ねずみに喰わせる高梁(コーリャン)運びよ』

『ナニ、ねずみに高梁喰わせるのか?』

自棄的な二人の駄弁に、旨いことをした男への羨望と、ねずみの高粱への哀惜が入り交った視線が集った。勝村も思わず聞耳を立てていた。

『ウン、何でもシュタップにはねずみが沢山飼ってあると、警戒兵の奴がいってたっけ。俺は高染を飯盒一杯くすねて、そのロスと山分けしたンだ。初年兵時代に馬糧の大豆はよく喰ったが、ねずみのピンハネは初めてだよ』

その男はその時の味の思い出をたのしむように、エへへへと笑った。話を聞いていた誰もがツバをのみこんだ。

——シュタップではねずみを飼っている! 何のために?

彼はある重大な示唆を与えられて、思わずハッとなった。その時卒然とした悪感が背筋を走った。顔が赤くなってゆくのが分る。頭がキンキンと痛み、そこへしゃがみこんでしまった。熱発である。チフスだ!

勝村良太はこの混成の収容所の中では、退院の途中終戦となり原隊から離れた歩兵上等兵と

称していたが、実はソ軍側から、お尋ね者のハルビン特務機関員で、歴とした陸軍少佐であった。ソ連の参戦前、おおよその状況の分っていた特機では、機関員の人事、命令などの書類を一切焼却して、それぞれに変装、変名していたのである。

ハルビン時代の彼は捕えたソ連側諜者の処置を甲、乙に分類する仕事もやった。

〝甲処置〟というのは逆用スパイとしての利用価値なしという決定だ。哀れにも甲処置の判を押された男は、自ら掘った墓穴の傍らに目隠しをして座らされる運命だ。

町中にまで銃声が響くのを避けて、銃殺という武士の情はかけてもらえない。棍棒で殴られて頭をザクロのように割られ、足で蹴りこまれて、その男は地球上から消え去ってしまう。

〝乙処置〟というのは保護院という監獄送りである。体力や能力が詳細に観察され、拷問や脅迫ののちに忠誠を誓わされて、逆用スパイとして再びソ連領に投入される。

ある場合には、その男が最初にソ連側で与えられた任務の情報まで準備し、彼がソ連領帰還後の信用まで考慮してやることもあるのだが、逆用スパイとして投入した者のうち、使命を果して帰ってくる者はごくまれだ。

諜者が帰還した場合には、その行動経過を厳重に調べるのが常識だから、日本側の諜者が逆用スパイになって帰ってきても、ほとんどが殺されてしまうように、乙処置で逆用スパイとな

った者も、たどる道は甲処置と同じ運命であろう。

迎えにきたジープ p.104-105 謀略とは奇異なものではない

迎えにきたジープ p.104-105 For bacterial warfare, typhus fever was not fully understood in terms of infection rate, morbidity rate, mortality rate, prognostic war potential, etc., because large-scale experiments were not possible.
迎えにきたジープ p.104-105 For bacterial warfare, typhus fever was not fully understood in terms of infection rate, morbidity rate, mortality rate, prognostic war potential, etc., because large-scale experiments were not possible.

諜者が帰還した場合には、その行動経過を厳重に調べるのが常識だから、日本側の諜者が逆用スパイになって帰ってきても、ほとんどが殺されてしまうように、乙処置で逆用スパイとな

った者も、たどる道は甲処置と同じ運命であろう。

保護院の観察の結果、体力、能力、精神状態などから、逆用スパイとしての利用はかえって危険であると判定された者には、さらに悲惨な将来が待っている。

ハルビン郊外の防疫給水部石井謀略部隊の実験材料だ。「実験用モルモット何匹」という請求伝票が、保護院に回ってくる。深夜、モルモットのように従順な乙処置の一群が、幌張りのトラックにのせられて、ハルビンの街を突ッ走るのだ。

日本陸軍の諸学校のうち、たった二つだけ地名を冠した学校があった。他はすべて歩兵学校などと、その内容を明らかにしていたが、諜報と謀略をやる東京の中野学校、毒ガスとガス壊疽など、細菌研究の千葉の習志野学校の二校だけがそれである。

勝村は中野出身だった。学生時代の戦史が想い出された。「十七世紀ナポレオンのロシヤ遠征敗退の主要な一因は、全軍に流行した発疹チフスの惨禍によるものである……」また細菌戦教程の一節「発疹チフスは寒帯病の一つにして、別名戦争チフスと呼ばれ、クリミヤ戦役その他の戦役に必らず現れる……」

また、「患血五CCを三百十人に接種したため、七—十五日間の潜伏期をもって、五十六%が発病、二十八%の死亡率を示したというトルコの狂医の実験結果があるも、戦陣の間に於て

は更に高率となり、敵戦力の低下に著効あり……」と。

臨床伝染病学としての発疹チフスは、殆ど完全に研究されていたが、軍陣医学、さらに細菌戦医学としては、大規模な実験が不可能なため、伝染率、発病率、死亡率、予後の戦力など充分には判っていなかったのである。

謀略とは決して奇異なものではないと教官が力説した。即ち最も自然な状態で、意図する結果を生じさせるのが謀略であるという。

『汽車だ! 汽車だ! 内地行きの汽車が出るぞォ!』

夢うつつの間に割れるような叫びが響いて勝村はフト眼を見開いた。周囲を見廻すと自分の身体は相変らず、あの悪臭満ちた二段の棚の間に横たわっている。身動きもできないほど詰めこまれていたのが幾分楽になっていた。

『この野郎、助かりやがったナ』

彼を覗きこんだ衛生下士官が叫んだ。

『見ろ! あらかたイかれて大分空いたろう』

少し前に息を引取った若い兵長の屍体が、全裸にされて解剖室に運ばれるところだった。ソ連軍医の実習材料として、捕虜の屍体は必らず解剖されるのだ。

迎えにきたジープ p.106-107 捕虜名簿すら作ろうとしない

迎えにきたジープ p.106-107 It is said that one soldier became ill during transportation. Infect several people on a prisoner-of-war train and send them to each camp. What a big experiment!
迎えにきたジープ p.106-107 It is said that one soldier became ill during transportation. Infect several people on a prisoner-of-war train and send them to each camp. What a big experiment!

少し前に息を引取った若い兵長の屍体が、全裸にされて解剖室に運ばれるところだった。ソ連軍医の実習材料として、捕虜の屍体は必らず解剖されるのだ。

その解剖は、耳から耳へと頭の頂きを通ってクルリとメスを入れる。頭皮が前後にツルリッと剥がれて首筋と顎の処にたまる。ムキ出された頭蓋骨を真横にノコギリでひいて、ポンと叩くと、ポカッと音がして頭の蓋が脱れる。そこから脳漿を取出す。

瘠せ衰えたうえ、恥毛まで剃られたその男の屍体は、何か焦点のない散慢な感じだった。

『オーイ、皆。早く来いよ。一風呂浴びて汽車に乗るんだ』

さっきから飯盒と水筒を抱えて、廊下中をワメキ散らしていた男が、小便溜の味噌樽に両足を突っ込んで、さも心地よげにピチャピチャと掻き廻しはじめている。

脳症の発作が起きたのだろう。四十才前後の補充兵風の男だったが、濃い眉と大きなカギ鼻が印象的に見えた。

——見たことのあるような男だ。

そんな感じがしたが、想い出せない。

『お前のように静かな患者ばかりだと、大分俺も助かるんだが……』

下士官はそういいながら、しきりに小便の行水をしている男に寄っていった。

勝村は意識を恢復してから、自分が脳症を起して、何か過去の秘密をしゃべりはしなかったかと恐れていたが、今の言葉に一まず安心した。と同時に発病の日の記憶を呼び戻していた。

——シュタップではねずみを飼っている。石井部隊でもそうだった。ペスト蚤の繁殖用にねずみを使っていた。

——シュタップが研究所だ。白衣の男たちが研究員に違いない!

——連隊長の説明によれば、三大隊の兵隊が一人輸送間に発病したという。捕虜輸送列車で何人かに感染させて、各収容所に送りこむ。何という大規模な実験だ!

——まず戦争チフスをえらんだ。このチフスの発生なら極めて自然だ。最大の謀略は最も自然な現象として現われてくる。

——入ソ以来すでに半年近くなるのに、捕虜名簿すら作ろうとしない。今死んだものは永遠に員数外となる訳だ。

——屍体は皆解剖されている! 予防接種や治療は各種実験のため、一部特定の患者にしか行なわれなかったのじゃないか?

——解剖は明らかに系統解剖ではなく病理解剖だ。しかも脳背髄液まで採っている。

——我が関東軍特務機関は、戦前すでに、オムスク市の細菌試験所の、組織と業績とを握っていたではないか!

下りきらない熱に浮かされたような推理が、次々と勝村の疲れ切った頭を駈けめぐっていっ

た。

迎えにきたジープ p.108-109 キリコフ大尉が訊問

迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.
迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.

下りきらない熱に浮かされたような推理が、次々と勝村の疲れ切った頭を駈けめぐっていっ

た。

『ねずみ、ねずみだ!』

全く突然、勝村は大声で叫び出してしまった。あとは息が続かず低く口の中で呟いた。

『発疹チフスの次はペストに違いない……』

そのまま彼は再び昏睡してしまった。

チェレムホーボ収容所が発疹チフスの脅威にさらされていた、ちょうどそのころのこと。シベリヤ本線を東へ東へと、数千キロも離れたハバロフスクの街。内務省(エヌカー)ハバロフスク地方管理局という厳めしい建物の一室では、勤務員のキリコフ大尉が一人の日本人を訊問していた。

モスクワの東洋大学は日本語科出身の通訳官ゲリヤノフが、なめらかな日本語で通訳し、書記が記録する。もちろんキリコフ大尉も日本語は得意だったが、公式の場合だから宣誓署名した通訳官が立会うのだ。

日本人は元関東軍第七三一部隊教育部長、東軍医中佐だった。第七三一部隊というのは例の石井部隊である。

『部隊で行なわれていた実験について述べてもらいたい』

『一九四五年一月、私は安達駅の特設実験場に赴きました。ここで私は第二部長と本多研究員

の指導下に、ガス壞疽による感染実験が如何に行われていたかを見ました……』

そしてまた、それと同じころハルビンの旧陸軍第二病院の一室では、大谷小次郎元軍医少将の執刀のもとに、腺ペスト患者の生体解剖が行なわれていた。

大谷少将の背後には、青肩章の正服の上にペスト予防衣をつけた、秘密警察(エヌカーベーデー)の将校が二人立っている。それから数人のソ連人助手の中に女性が一人。

彼女は三十八度線以北の朝鮮を占領すると同時に、北鮮の首都となった平壌に秘密細菌試験所を開設した人だった。彼女はもとは裏海の中の一小島にあった、エフバトリヤ第二号実験所のメムバーだったが、クリミヤ半島のエフバトリヤ市に出張中、実験所の細菌学者たちが、自分たちの培養した腺ペストにかかって全滅し、一人厄逃れをしたという腺ペストの権威でもあった。

第二病院長だった大谷少将は、病院の研究室が石井部隊と関連を持っていたことから、このチェレグラワー女史の協力者となることを承知せざるを得なかった。実験台に上らされているのは日本人である。

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

迎えにきたジープ p.110-111 生き残りだけの捕虜名簿

迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.
迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

シベリヤにも遅い春がやってきた。四月ともなれば、丘から丘へと連なる大地のうねりにも青味がかかって、美しい林のはずれから、澄んだ小川のほとりまでも、茎の短いタンポポが、鮮やかな黄色の絨毯をひろげたように咲き乱れる。

だが、春を迎えた収容所の人員は、約三割も減って二千七、八百名しかいなかった。その行方はあの可愛らしいタンポポにでも、たずねるよりは仕方があるまい。そして、生き残った人たちに対してだけ、やっと捕虜名簿のカードが作られはじめていた。

二 マイヨール・キリコフの着任

それから四年が過ぎて、昭和二十五年の春、信濃、高砂、両引揚船が舞鶴に入港して、ソ連地区の引揚は打ち切られた。

都心には新しい高層ビルが、競争のようにどんどん建ち聳えている。そのどれもが自動車でいえばフォードのように明るいが、幾分安っぽい感じのものだ。大通りには欧洲車は影をひそめて、赤、青、黄と派手な米国製高級車が洪水のように流れている。

盛り場にはクラブとかキャバレーとかいう社交場が妍を竸い、ネオンが妖しくまたたいている。ショーウィンドウにはスマートな商品が豊富に飾られている。そしてその商品の殆どが、衣類も化粧品も菓子までが米国製だ。

舗道をぞろぞろ織りなすように行き交う人たちは誰もが美しく装っている。人妻か娘か判ら

ない婦人たちは、最新流行の服だ。そして職業の全く判らないような男たち。

日本の庶民生活とは何の関係もないこのような事柄が、戦後数年間のうち東京にみちあふれてきた。

だが、身近かな喫茶店やパチンコ屋でさえ、その資本主や経営者には、難しい漢字の三字名や、片仮名の外国人たちが並んでいる。外国人の賭博場ができ、月島の埋立地に上海や香港のような華僑の街をつくろうという計画までが樹てられる。

密輸と密入国。植民地気質の出稼ぎ外人たちは大きな悪事を働らいては飛行機で逃げ出す。大陸や外国から引揚げてきた鮮、華、露などの混血児。赤系に変った白系露人、無国籍のエミグラント、もはや東京は八百万都民と何のかかわりもなく、怪しげな国際都市として、その性格までも変貌していた。

高級住宅地である麻布の高台を滑るように走ってゆく外国製車が一台。ナムバープレートには「SPACJ—35」とあるから、ソ連代表部の車だ。見馴れない型だからモロトフに違いない。ZIM式六基筒九十五馬力。モロトフ工場製でソ連が誇る新車ジムだ。

前に二人、後に二人と、いずれも座席の中央をあけて四人のソ連人が乗っている。車はグングンとスピードを出して虎の門から桜田門へと向った。警視庁のクスんだ建物を左にみて右へ

大廻り、祝田橋の信号にかかってギュッと停った。たちまち七、八台の車が後につかえる。

最後の事件記者 p.204-205 不良外人の三大基地をブラつく

最後の事件記者 p.204-205 夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。
最後の事件記者 p.204-205 夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。

その結果、日本はバクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となりはてていた。それは、読売がいみじくも名付けた、〝東京租界〟そのものであった。

九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。伝票を切って、小遣銭はタップリある。私はそのビルのグリルやバー、レストランやパーラーで、のんびりと構えていた。

長身の私は、一見中国人風なので、富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、クツみがきに呼びかけられるほどだった。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。こんな時に一番協力してくれたのは、ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟たちであった。

彼女たちは、やはり日本人である。決して外人たちのすべてを是認していたワケではない。あまり日本人と付合ったことのない彼女たちは、私の卒直な酔い方に興味を持って、夕方の銀座あ

たりで、クラブのはじまる十時ごろまで、よくデートしたものである。

女に不用心なのは、全世界どこの国でも共通らしい。男には必要以上に警戒心を払っていても、男たちは、悪事に限らず、女に対しては開放的であり、全くの無警戒であった。日本人は、男女一対でいると、すぐ情事としか考えない。だが、女こそニュース・ソースの大穴である。

もっとも、女からはニュースのすべてを取ることはできない。しかし、ヒントは必らず得られるのである。役所のタイピストに、コピーを一部余計にとれとか、捨てるタイプ原紙を持ち出してこい、と命じたら、たとえ自分の彼女であっても、事は露見のもとである。タイピストたちは、挙動が不審になり、手も足もふるえて、怪しまれるに違いない。

しかし、高級役人の秘書たちから、誰がたずねてきて、何時間位話しこんでいたとか、どんなメムバーの会議だとか、取材の最初のヒントは必らず得られる。

クラブ・マンダリンのパイコワン

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(今のクラウン)は、いまのように洋風で華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイト・クラブだった。戦時中、「東洋平

和への道」などの、日華合作映画の主演女優だったパイコワン(白光)の趣味が飾られ、小皿の一つにいたるまでの食器が、すべて香港から取りよせられるという凝り方だった。

最後の事件記者 p.206-207 昔懐しい中国人の映画女優

最後の事件記者 p.206-207 私は、このパイコワンと親しかった。昼間の彼女は、何かオカミさんじみて幻滅だった。だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。
最後の事件記者 p.206-207 私は、このパイコワンと親しかった。昼間の彼女は、何かオカミさんじみて幻滅だった。だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。

クラブ・マンダリンのパイコワン

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(今のクラウン)は、いまのように洋風で華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイト・クラブだった。戦時中、「東洋平

和への道」などの、日華合作映画の主演女優だったパイコワン(白光)の趣味が飾られ、小皿の一つにいたるまでの食器が、すべて香港から取りよせられるという凝り方だった。

赤い支那繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の支那じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上った支那顔で、早口の中国語で、怒鳴ってるのかと思うほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。私はさっきから、家鴨の肉と長ネギと、酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた皮につつんだ料理を、彼女が手際よくまとめてくれるのをみていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドウイッチを作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと、この腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ポーッと

二匹の魚のように鈍く光っていた。

『美味しいでしょ?』

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ十年ほど前ごろのように美しい。彼女も映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が彼女の映画をみたのは、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、今では下腹部にも脂肪がたまり、四肢は何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中年以上の人には、昔懐しい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい伝説がある。

上海のある妖楼で働らいていた、彼女の清純な美しさに魅せられた、特務機関の中佐がすっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだというのがその一つである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明け切れずに、姿をかくしてしまった。

最後の事件記者 p.208-209 パイコワンは殺されそうだと

最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。
最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

狂気のように中尉を求めたパイコワンが、たずねたずねて上海の機関へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸として追われた彼女は、日本へ入国するために米人と結婚し、中尉を求めて渡ってきたのだと。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた日本へ移り住んだともいう。

私にその物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終るのを待っていた。

『素敵なお話ね。ロマンチックだわ』

そう呟いたきり、否定も肯定もしなかった。だが、何か隠し切れない感情が動いているのを見逃すような私ではなかった。

美しき異邦人

——何だろう?

そう思った時、私はフト、彼女にせがまれて、警視庁の公安三課へ連れていったことを思い出した。

当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

『ヤイ、ここが東京だからカンべンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!』と。

リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐しくて眼を少し大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。

しかし、パイコワンは、殺されそうだと騒ぎ立てた。その話をききに、〝密輸会社〟といわれるCATの航空士と住んでいた、赤坂の自宅に彼女を訪れたのが、交際のはじまりであった。

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』 彼女はこんな風にいった。

最後の事件記者 p.210-211 警視庁の山本公安三課長に紹介

最後の事件記者 p.210-211 この中佐が、実は中共のスパイで、パイコワンがこの中佐としばしば会っている。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだ
最後の事件記者 p.210-211 この中佐が、実は中共のスパイで、パイコワンがこの中佐としばしば会っている。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだ

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』

彼女はこんな風にいった。彼女はこのクラブに、共同出資で投資して、千三百万円ばかりを出しているという。しかし、警視庁の手が入ったのでコワくなり、金をとりもどして手を引こうとしていた。

『もうイヤ。早くこの問題を片付けて、また映画をとりたいわ。香港の張善根さんなどからも、誘いがきているのだけど、クラブでお金を帰してくれないもの、私、食べて行けないわ』

そこで、彼女は形ばかりでも警視庁へ訴え出ようというのと、読売の租界記者と親しいことを宣伝して、クラブへの投資をとり返そうとしていたのだ。私は一日彼女を伴って警視庁の山本公安三課長に紹介した。

『課長さんのお部屋、ずいぶん立派ですのねえ』

などと、お世辞をいわれて、さすがは課長である。即座に言い返した。

『いやあ、どうも、私の課には、あなたのことを、良く知っているものがいますよ』

と、やはりお世辞のつもりでやったところ、パイコワンの眉がピクッと動いた。課長はすぐ言い直した。

『つまり、あなたのファンです。呼びましょうか』

ファンという言葉で、はじめて彼女は「どうぞ」と明るく笑った。その時の微妙な変化は、私の語る伝説を聞き終った時にも似て、何か考えさせられるものがあった。

当局には、パイコワンに関する、こんな情報が入っていたのである。例の何応欽将軍が日本へきた時、随員の一人に中佐がいた。この中佐が、実は中共のスパイで、国府側にもぐりこんでいたのだが、パイコワンがこの中佐としばしば会っているというのだ。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

『私、日本人で、一人だけ好きな方がいました』

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って心動いたのかしら、それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのかしら?

中国に、中国人として生れて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり、日本の恋人の面影を求めて、新らしい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が、その挙動をみつめている。

最後の事件記者 p.212-213 誘惑と恫喝と取材の困難

最後の事件記者 p.212-213 『フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ』
最後の事件記者 p.212-213 『フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ』

中国に、中国人として生れて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり、日本の恋人の面影を求めて、新らしい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が、その挙動をみつめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は新聞記者という職業意識も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人をみつめていたのだった。

不良外人

このマンダリンの主役のもう一人は、ウエズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼はその富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると小心らしくあわてた。彼は保全のヤミドルで捕ったり、そのあげくに国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンヂのヤミで逮捕状が待っている。

『オウ、そんなことありません。それよりも、ワタクシ、まだゲイシャ・ガールみたことないです。アナタタチ、案内して下さい』

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に堂々と事務所を構えている。

人品いやしからぬ、日本人の老紳士の訪問も受けた。アメリカのヤミ会社の顧問だというのだ。私たちの調査をやめてくれというのだ。彼はいう。

『何分ともよろしく、これは、アノ……』

ある時は金を包まれもした。相手の眼の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。

『ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたいとおっしゃるのですか。残念ながら、御期待にそえませんナ』

皮肉な言葉と表情で、相手のろうばい振りをみつめているのだ。

日本の弁護士から電話がくる。何時にアメリカン・クラブで会いたいという。出かけてゆくと……

『フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ』

社の幹部を、親し気にクン付けで呼ぶ種類の人たち。このような人には、こちらもインギンブレイで答える。

誘惑と恫喝と取材の困難。

『お断りしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を獲得するということに御注意願いたい』彼は現在、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生れ、妻はハル ピン生れ、息子は上海生れ、という、家族の系譜が、彼を物語る。

最後の事件記者 p.214-215 ルーインが堂々と歩いている!

最後の事件記者 p.214-215 大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。
最後の事件記者 p.214-215 大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。

誘惑と恫喝と取材の困難。

『お断りしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を獲得するということに御注意願いたい』彼は現在、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生れ、妻はハル

ピン生れ、息子は上海生れ、という、家族の系譜が、彼を物語る。

『御参考までに申上げますと、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく』彼は時計の密輸屋である。そして、彼はハルピン生れで、妻は天津ときている。

二人の取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や不法行為のメモがつづられていった。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れていた。

国際博徒の大親分

全世界を三つのシマに分けて、てい立する国際博徒の親分。シカゴ系のジェイソン・リーは、鮮系二世の老紳士だが、アル・カポネのお墨付をもつ代貸しだ。上海系の王(ワン)親分は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかぶっていた、リチャード・ワンという男で、青幇(チンパン)の大

親分杜月笙と組んでいて、銀座のVFWクラブにひそんでいる。マニラ系は、比島政界の黒幕テッド・ルーイン。その片腕ともいうべきモーリス・リプトンは元水交社のマソニック・ビルに陣取っていたのである。

リーやリプトンのインタヴューをつづけてゆくうちに、大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。ルーインはGHQ時代から「入国拒否者」となっており、独立と同時にそのメモランダムは外務省に引きつがれ、独立した日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。それなのに、ルーインが東京の街を、堂々と歩いているとは!

私は法務省入管局を訪れた。当時の所管は外務省の外局で、保管もほとんど外務省系の連中だった。ここが肝心要のところだ。私はアチコチで駄弁りながら、チャンスの到来を待っていた。

外国人登録カードの係官が、席を立つのを待っていたのである。そして、待つほどに、そのチャンスはやってきた。私は顔見知りの係官に、フト思いついた様子で、ルーインのことをたずねたものである。

彼は気軽に立って、担当の係官を紹介しようとしたが、その係官がいない。詳しい事情を知ら

ない彼は、氏名カードを繰ってくれたけれども、そのイニシアルの項には、ルーインのカードがない。

最後の事件記者 p.216-217 ルーインのヤミ入国という特ダネ

最後の事件記者 p.216-217 キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。
最後の事件記者 p.216-217 キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。

彼は気軽に立って、担当の係官を紹介しようとしたが、その係官がいない。詳しい事情を知ら

ない彼は、氏名カードを繰ってくれたけれども、そのイニシアルの項には、ルーインのカードがない。

『おかしいナ。拒否者かナ』

彼はつぶやいて、拒否者のカードを探してみた。あった! 抜き出された一枚のカード。そこには、赤字でエクスクルージョン(入国拒否)とあったが、ルーインの入国年月日が、ハッキリと記入されていた。

十日間も東京へ滞在しているのだった。彼は担当官でないから、何の疑念もなく、また問題になるとも知らずに、私の差し出す手にカードを渡してしまう。こんな時こそ、さり気ない動作が必要である。私はチラとみて、赤字と入国の日付を覚えこむと、興味のなさそうな表情で、すぐにカードを返した。心理作戦のポイントである。ある場合には、露骨に職業意識を丸出しにし、ある時には、ハナもひっかけない無関心さ。このどちらが通用する相手かを、判断するのである。

入国拒否者の入国ヤミ取引

まず第一に、警視庁の綱井防犯部長に当って確認した。バクチは彼の所管である。彼はおだやかに答えた。

『うん。入国拒否者のルーインが、君のいう通り入国していたのは事実だ。しかし、これには、日比賠償やモンテンルパの戦犯関係など、〝政治的〟配慮がある。君が取材してきた手腕には敬意を払うが、記事に書く時には、充分に、〝国際的〟な配慮を持ってもらいたいと思うネ』

私を良く知っていた防犯部長は、おろかなことはいわずに、卒直に事実を認め、忠告してくれたのである。

私はそれから、外務省に倭島アジア局長を訪ねた。局長は驚き、あわてて私に頼みこんできた。

『キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。……キミ、書いたら国際的な問題になるンだ。モンテンルパなんだ』

私は原部長と相談して、書く時期をみることになった。外務省のヤミ取引、というか、倭島局長のマニラ在外事務所長時代のヤミ取引で、ルーインのヤミ入国という特ダネは、まだしばらく

秘められることになった。