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迎えにきたジープ p.050-051 私のいう通りのことを紙に

迎えにきたジープ p.050-051 Major Petrov said, "Do you wish to serve the Union of Soviet Socialist Republics?"
迎えにきたジープ p.050-051 Major Petrov said, “Do you wish to serve the Union of Soviet Socialist Republics?”

ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう

と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。

少佐は半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシヤ語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳した。

『貴下はソヴェト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと、願いますか』

歯切れのよい日本語だが、私をにらむようにみつめている二人の表情と声とは、『ハイ』という以外の返事はは要求していなかった。短かく区切って、ゆっくり発音すると、非常に厳粛感のこもるロシヤ語で、平常ならば国名もエス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサユーズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと正式に呼んだ。その言葉の意味することを、本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

『ハ、ハイ』

『本当ですか』

『ハイ』

『約束できますか』

タッ、タッと息もつかせずにたたみ込んでくるのだ。もはや『ハイ』以外の答はない。

『ハイ』

私は興奮のあまり、続けざまに三回ばかりも首を振って答えた。

『誓えますか』

『ハイ』

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙もあたえずに、少佐は一牧の白紙をとりだした。

『宜しい。ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい』

——とうとう来る処まで来たんだ!

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

『日本語ですか、ロシヤ語ですか?』

『パ・ヤポンスキイ!』(日本語!)

ハネかえすようにいう少佐についで、能面のように表情一つ動かさない少尉がいった。

『漢字とカタカナで書きなさい』——静かに少尉の声が流れる。

『チ、カ、イ』(誓)

『………』

『次に住所を書いて、名前を入れなさい』

『………』

迎えにきたジープ p.052-053 私には終身暗い影がつきまとう

迎えにきたジープ p.052-053 "I pledge to do whatever is ordered for the Soviet Socialist Republic. I understand that if I break my vow, I will be punished by the law of the Soviet Socialist Republic."
迎えにきたジープ p.052-053 ”I pledge to do whatever is ordered for the Soviet Socialist Republic. I understand that if I break my vow, I will be punished by the law of the Soviet Socialist Republic.”

『今日の日付、一九四七年二月八日…』

『私ハソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス(ここにもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス。

モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス』

不思議にペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮が退いてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要がないことに気付いて、誓約書の文句も分らぬうちに、サインをさせられてしまったナ、などと考えたりした。

この誓約書を今まで数回にわたって作成した書類と一緒にピンで止め、大きな封筒に納めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

『プリカーズ!』(命令)

私は反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

『ペールヴォエ・ザダーニェ!(第一の課題)一ヶ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿を作れ!』

ペールウイ(第一の)というロシヤ語が耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

『ダー』(ハイ)

はじめてニヤリとした少佐が立上って手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立った。少尉がいった。

『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬよう』

ペールウイ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループがパンをバラまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフのもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と

私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。

迎えにきたジープ p.054-055 寝もやらず思い悩み続けた

迎えにきたジープ p.054-055 "Is it right that I wrote the pledge? Was it too weak to say yes?" After returning to my barrack, I rolled over on the bed and continued to worry about it without sleeping.
迎えにきたジープ p.054-055 ”Is it right that I wrote the pledge? Was it too weak to say yes?” After returning to my barrack, I rolled over on the bed and continued to worry about it without sleeping.

そして『忠誠なり』の判決を得れば、フタロイ・ザダーニェ(第二の課題)が与えられるだろう。続いてサートイ、チェテビョルテ、ピャートイ……(第三の、第四の、第五の……)と

私には終身暗い〝かげ〟がつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩をガッシとつかんでいる赤い手のことを思い悩むに違いない。そして『……モシ誓ヲ破ッタラ……』その時は当然〝死〟を意味するのだ。そして、『日本内地ニ帰ッテカラモ……』と明示されている。

ソ連人はNKの何者であるかをよく知っている。私にも、NKの、そしてソ連の恐しさは、充分すぎるほど分っているのだ。

——だが待て、それはそれで良い。しかし……一ヶ月の期限の名簿はすでに命令されている。これは同胞を売ることだ。私が報告で認められれば早く内地に帰れるかも知れない。

——次の課題を背負ってダモイ(帰国)か? 私の名は間違いなく復員名簿にのるだろうが、私のために、永久に名前ののらない人が出てくるのだ。

——誓約書を書いたことは正しいことだろうか? ハイと答えたことは、あまりにも弱すぎただろうか?

あのような場合、ハイと答えることの結果は、分りすぎるほど分っていたのである。それは『ソ連のために役立つ』という一語につきてしまう。

私が、吹雪の夜に、ニセの呼び出しで、司令部の奥まった一室に、扉に鍵をかけられ、二人

の憲兵と向き合っている。大きなスターリン像や、机上に威儀を正している二つの正帽、黙って置かれた拳銃——こんな書割りや小道具まで揃った、ドラマティックな演出効果は、それが意識的であろうとなかろうと、そんなことには関係はない。ただ、現実にその舞台に立った私の、〝生きて帰る〟という役柄から、『ハイ』という台詞は当然出てくるのだ。私は当然のことをしただけだ。

私はバラック(兵舍)に帰ってきてから、寝台の上でてんてんと寝返りを打っては、寝もやらず思い悩み続けた。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は止んだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

四 読売の幻兵団キャンペイン

しかし私に舞い込んできた幸運は、この政治部将校ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は次回のレポである三月八日を前にして、突然収容所から消えてしまったのである。ソ連将校の誰彼に訊ねてみたが、返事は異口同音の『ヤ・ニズナイユ』(知らない)であった。そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年 十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。

迎えにきたジープ p.056-057 〝暗さ〟におびえている人たち

迎えにきたジープ p.056-057 This organization was formed around 1947, with personnel selected at each camp in Siberia, each of which was forced to write down a pledge.
迎えにきたジープ p.056-057 This organization was formed around 1947, with personnel selected at each camp in Siberia, each of which was forced to write down a pledge.

そして私の場合はレポはそのまま切れて、その年の秋、二十二年

十月三十日、第一大拓丸で舞鶴に引揚げてきた。

翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の集団入党のための代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた。

だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキに佇んで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は船中から海に投じ、或者は復員列車から転落し、また或者は自宅で縊死をとげているのだ。

私はこの謎こそ例の誓約書だと信じて、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮び上ってきたのだった。現に内地に帰っているシベリヤ引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。

そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。

彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即ちソ連のもつ暗さである——と斗う覚悟を決め、それからそれへと引揚者をたずねて歩いた。その数は二百名を越えるであろうか。

このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると

一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。

二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。

三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。

四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。

五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。

などの状況が判断されるにいたった。

迎えにきたジープ p.058-059 「幻兵団」七万人をチェック

迎えにきたジープ p.058-059 The Colonel of MVD asked me (Major Masatsugu Shii). "What do you think of the postwar world situation? What do you think of the causes of the war?"
迎えにきたジープ p.058-059 The Colonel of MVD asked me (Major Masatsugu Shii). “What do you think of the postwar world situation? What do you think of the causes of the war?”

このようにして、緩慢ながら奇怪な一種の組織の輪廓が浮んできたのである。それによると

一、この組織は二十二年を中心として、シベリヤ各収容所において要員が選抜され、一人一人が誓約書を書かされて結成されたこと。

二、これらの組織の一員に加えられたものには、少くとも四階級ぐらいあること。

三、階級は信頼の度と使命の内容で分けられているらしいこと。

四、使命遂行の義務が、シベリヤ抑留間にあるものと、内地帰還後にあるものとの二種に分れ、両方兼ねているものもあると思われること。

五、こうした運命の人が、少くとも内地に数千名から万を数えるほどいるらしいこと。

などの状況が判断されるにいたった。

私はこれらのデータに基いて、二十五年一月十一日第一回分を発表、それから二月十四日までに八回にわたってこのソ連製スパイの事実を、あらゆる角度から曝いていった。この一連の記事のため、このスパイ群に〝幻兵団〟という呼び名がつけられた。

反響は大きかった。読者をはじめ警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも半信半疑であった。CICは確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴援護局の一部の人しか知らなかった。引揚者調査を担当した、NYKビルが、その業務を終ったときチェックされた「幻兵団」は七万人にも上っていたのである。

アカハタ紙は躍起になってこれをデマだといった。読売の八回に対して十回も否定記事を掲載し、左翼系のバクロ雑誌「真相」も『幻兵団製造物語』という全くのデマ記事をのせて反ばくした。その狼狽振りがオカシかった。だが、それから丸三年、二十七年暮の鹿地・三橋スパイ事件でこの幻兵団は立証されたのだった。

五 ソ連的〝間拔け〟

ラ事件の立役者の一人、志位元少佐はスパイ誓約の事実をこう述べている。

最後に四月の二十日過ぎてから私たちの分所に出入りしはじめたのが、モスクワのMVD(エムベデ)から来た大佐とその専属通訳の中尉であった。この大佐が大きな権力を持っていることは私たちにすぐわかった。

四月二十八日朝、大佐の呼び出しを受けて作業を休んだ私は、九時頃分所のオーペルのシュイシキン中尉の案内で本部に大佐を訪れた。大きな手を差し延べて挨拶をかわした後、大佐は上等な口付煙草(パピロース)「カズベック」を私にすすめながら、がっちりした体躯にも似合わない静かな声で口を開いた。

『ガスポジンS(Sさん)、今日はひとつゆっくりした気分で私とつき合ってください。私は、日本人のあなた方がどんな意見を持ち、どんな希望を抱いているかを知りたいのです。どうぞ率直に話してください……。そこでまずどうですか、ラーゲリの暮しは、なにか不満な点はありませんか?』

私は、ハハンかれは検閲官だな、それでこんなことをたずね、所長もかれを特別扱いにしたのだなと軽く考えた。

大佐は私の率直な返事に苦笑してしきりに紅茶を飲めと私にすすめながら、今度は話を飛躍させて世界情勢に移していった。

『あなたは戦後の世界情勢をどう考えられますか? また、それがどうなると思われますか?』

大佐はさらに 『それではあなたは戦争の原因をどう考えますか?』と、たずねた

迎えにきたジープ p.060-061 仕事は情報です。拒否すれば

迎えにきたジープ p.060-061 "You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?"
迎えにきたジープ p.060-061 ”You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?”

話は日本の天皇制に進んで峠に辿りついた感があった。私は、天皇制がロシヤのツァー制とは類似点はあるが本質的に異なること、ツァーはロシヤ人にとって圧制の張本人であり怨嗟の的であったが、天皇は日本人ことに私たち軍人にとっては慈愛の化身であること、共産主義者がその最高のモラルとしている「献身」ということが終戦時の天皇にはっきりした言動として示されたこと、などを説明して、以上の点から戦後ソ連が天皇を戦犯に擬したり「日本新聞」で天皇制だけでなく天皇個人をも非難するのは堪えがたい不満を覚えると答えた。

『それはあなた個人の意見ですか?』

『そうです。だが旧日本将校ならば恐らく同様だと思います』

『それでは将来もし日本で革命が起ったときにあなたはどうしますか?』

『私はもちろん日本人の最大多数の意志にしたがいます。しかし、天皇をどうこうということは日本では起らないと思いますし、万が一そんなことになったら私は断然天皇のため銃をとります』

通訳がこの「銃をとります」を現在形に訳したため、大佐は一寸眉をひそめたが、また仮定の形に改めたので納得したようであった。この日は、このほかに日本軍隊の生活や太平洋戦争などについて雑談をかわしてタ方私はバラックに帰った。この間、大佐はただ聞くばかりで自分の意見は全然はさまず、通訳の中尉も時々用語のメモを取るだけであった。

翌日、私は再び大佐に呼ばれた。今度は私の家庭の事情を細かくきいて、私の妻が終戦時北鮮に疎

開していたことを知ると、かれは私に呼びよせてやろうと、いいだした。

『いや結構です、もう日本に帰っているでしょうから……』

冗談じゃないと、私はあわてて断った。正午近くなって突然、大佐は、真面目な面持でこう切りだした。

『そこで、私はあなたにお願いがあるのだが……』

『どんなことでしょうか』

『あなたは日本にとってと同様にソ連にとっても有能なんです。それで将来帰国後ソ連に協力してもらえないでしょうか』

『……』

『仕事はもう多分あなたもおわかりのように情報です。強いてやれとはいいませんが、これを拒否すればあなたの前歴から見ていつ帰国できるかわからないし、帰国できないかもしれません』

『……』

『すぐにとはいいませんから、午後の三時にここに来て返事してください。よい返事をお待ちしています』

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚 われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。

迎えにきたジープ p.062-063 早く帰って妻や母に会いたい

迎えにきたジープ p.062-063 "I will cooperate." The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.
迎えにきたジープ p.062-063 ”I will cooperate.” The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚

われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。だがそのためにはソ連の「スパイ」にならなければならない。自分だけ先に帰ってしかも「スパイ」の誓約を果さないという手もあるが、それは、なにをされるかわからないし、また私の性分としてそんな卑怯な真似はできそうもない。といって帰りたくないのか、いや帰りたい。早く帰って妻や母に会いたいし、新しい生活を築きたい。それじゃ、あっさり帰ったらいいじゃないか。

私の考えが堂々廻りしているうちに、食堂の壁に取りつけられた手廻し時計はもう三時になってしまった。よし当ってみよう、道は開けるだろう、と私は協力の腹を決めて大佐の室をノックした。

『協力します』

『そうですか、それはよかった。改めて感謝します』

これで私の運命は半分ばかり開けそうになった。大佐はあからさまに喜びの色を顔にあらわして、明朝また来るように私に告げた。

次の日、私は大佐と中尉が準備した誓約書と声明書に署名し、帰国後の予定住所、連絡上の合言葉などを協定した。いずれもきわめて形式的なものであったが、ただこの日の通訳が例の語学生の一人であったため、かれが『学』のあるところを示そうとして、

憶良らはいまはまからむ子泣くらむ
そのかの母も吾をまつらむぞ

という万葉の古歌を合言葉に選んだのには、私も苦笑せざるを得なかった。

その日の午後は、大佐から私に今後とも「民主運動」に近づかないことなどの注意があった後、私は大佐の小宴に招かれた。

大佐にすすめられるままに強烈なヴォッカやコニャックをしたたか飲んで、酔歩蹣跚の態で私がバラックに戻ったら、仲間の中隊長が不審顔で私にたずねた。

『あやしいぞ、いいことしたな』

私は、これこそ緻密なようで尻尾の出るソ連式の「間抜け」だと苦笑しながら毛布を頭からかぶって寝てしまった。

六 細菌研究所を探れ!

また、CICが舞鶴で摘発した二人の幻兵団員が当局へ提出した答申書(原文のまま)をみてみよう。

▽斎藤氏の場合

一九四五年十月三十日、私の大隊はチェレムホーボ第31の2(マカリオ)収容所に到着、爾来独逸より輸送し来れる、人造石油装置部分品の卸下作業に従事中、当年は異状なし。

一九四六年一月初め頃、或る日ソ連軍一将校(少尉)私達の部屋に来り、エンヂニャーは居ないかと聞けり。部隊長(光延克郎中佐)は一人居る、それはこの斎藤である、と答えられたり。このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

迎えにきたジープ p.064-065 訊問事項次の如し。

迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.
迎えにきたジープ p.064-065 If I incur their displeasure, I cannot return to my homeland Japan for a lifetime. I was caught in deep loneliness and fear and answered everything as they liked.

このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

1、氏名 斎藤卓郎 年 月 日 生 三二歳

本籍 鹿児島県日置郡——

父母 健在 弟妹五名健在

父の職業 役場員 母 農業

2、出身学校 鹿児島県立中学校、第七高等学校、九大工学部

3、就職先 ——造船所

4、入隊の状況(略)、少尉任官は一九四三年十二月一日

5、部隊の任務(略)

6、航空発動機、軍艦、旋盤の断面略図、之はMVDは何れも知らざる為、極く簡単にスケッチにてごま化せり。

以上にて第一回目は終りたり。それから又暫くして一九四六年二月の半ば頃、又も上記MVDに例の彼の室に呼び出され、上記事項のスケッチ不十分なる点を更に書く様強要せられたり。

以後当地マカリオを出発に至る迄異状なし。

私は玆に於ては倉庫の建築作業に指揮官として(ソ連側監督より指名)従事せり。

一九四六年十一月十八日私達の大隊は帰還の為集結地マルタに向い出発せり。(約一〇〇〇名の中八五〇名)残り一五〇名は其の後の情報によればチェレムホーボ第31の1(炭坑作業)に移動せる模様なり。

一九四六年十一月十九日マルタ第三八二の2収容所に到着。当収容所の修理等雑作業に従事中異状なし

一九四七年二月の或る日(夕方)、MVDより呼び出され、訊問調査を受けたり。この時のMVDは大尉一、通訳(見習士官)一にして「マカリオ」に於ける調書を見つつ訊問せり。

二月末頃、部下一〇〇名を連れべリーの製材工場に出張、三月二十日頃二十三時過ぎ所長の命により歩哨来り、直ちに之と同行、翌四時三十分頃マルタに到着。

収容所門にて歩哨次の如く言えり『八時になったら所長の所へ行け』と。八時に所長の所へ行きし所、暫く待てとのことで待つこと約三十分ばかり、例のMVDの通訳来り私を彼等の例の場所に連行す。この日は上記大尉、通訳の外に中佐居り、主としてこの中佐が訊問せり。

訊問事項次の如し。

1 過日大尉が調べし調書により同様の事を調査せり。

2 作業の状況

『皆元気で百%以上毎日遂行しあるも食糧は二食分にて少く、段々弱りつつあり』と答えたり。

マカリオで二回、又此のマルタへ来て二回目。私は何が故に斯様に取調べを受けるのだろうと不思議でたまらなかった。〝エンジニャー〟なる為なのか? 若し彼等の気に触れる様なことがあったら一生涯なつかしの祖国日本へは帰れない。炭坑作業手として送られ、遂にシベリヤの土と化せねばならないか? と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

迎えにきたジープ p.066-067 私はソ連に味方するであろう

迎えにきたジープ p.066-067 Colonel arrogantly ordered me to sign the following: "When I return to Japan, I promise to provide information in the fields of politics, transportation, economics, mainly my specialized heavy industry."
迎えにきたジープ p.066-067 Colonel arrogantly ordered me to sign the following: “When I return to Japan, I promise to provide information in the fields of politics, transportation, economics, mainly my specialized heavy industry.”

と私は深コクなる寂莫感と恐怖心に包まれ、彼等に都合の良い様にすべてを答え

たり。

3 日本には壁新聞があるか。壁新聞をどう思うか?

日本には斯様なものはない。然し学校に於ても会社に於ても、之と同じ様な雑誌を発行して各人に配布している。

意見の発表として又宣伝用として、或は啓蒙の為、壁新聞は良いと思う。

4 日本は何故に敗北したか?

イ、日本の科学がおくれていた。

ロ、日本の社会機構が悪かった。

ハ、戦争の目的が間違っていた。

5 ソ連の参戦をどう思うか。

正しかった。戦争に苦しみある世界人民の解放戦であった。

6 ソ連の国家社会制度を如何に思うか?

良ろしい、ソ連は理想的国家である。

7 ウン、そうである。日本も将来斯様な国家にならねばいけない。然るに日本の資本家、財閥は米国の資本家財閥と手を握り、ソ連に対峙している。将来米ソ戦が起るかも知れないが、若しも米ソ戦が勃発したら、お前は何れに援助するか?

私はソ連に味方するであろう、と言わざるを得なかった。

これ等の事は総べて白紙に問、答とも私に筆記署名せしめたり。

尚、大尉は通訳を通じて露語にて書き、之にも私の署名強要せり。

8 私が『ソ連に味方するであろう』と答うるや、中佐は傲然と威猛高に次の事を署名せよと命じたり

イ、私の偽名を川とす。

ロ、私は日本へ帰ったら政治、交通、経済、主として私の専門たる重工業の分野に於て、情報を提供することを約束する。

一九四七年三月—日                署 名

茲で中佐は私に何か質問はないかと云へり。私は茫然として放心状態にあり、一刻も早く此のノロハシキ部屋を出たかったので別にないと答へたり。中佐は又次の如く私に筆記署名せしめ、暗記を強要せり(書面を見ずに五—六回も云はせたり)

9 あなたは何時企業をやるつもりですか?

私は金がある時に。

一九四七年三月—日                署 名

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

迎えにきたジープ p.068-069 早まった事をしてはいけない

迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.
迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

10 それから、日本に帰ったら、お前は何処に住むか、如何なる職業につくか、と強硬に訊間せり。私は次の如く答へたり。

現在日本は極度の就職難にあり、自分は日本に帰って就職出来るや否やは分らない、と。

然るに中佐はどうしても之に答へなければ、一向に私を解放しそうになかったので、入隊前の会社名と、住所を其の場のがれに告げたり。

会社名 某造船所

住 所 某市

以上にて筆記、署名は終り、次のごとき注意事項を考へつつ云へり。

イ、お前が今日玆に呼ばれたことを友達が聞いたら、自動車故障の為に之が修理に呼ばれて、今迄此の作業をやっていた。

ロ、決して他人に言ってはならない。

ハ、日本に帰って、人々からソ連の状況に就いて聞かれたら、私は森林で木材の伐採ばかりやっていたので、ソ連の状況については全然知らない。

ニ、共産主義に関する書物等は絶対手にしてはいけない。

ホ、ソ連大使館には絶対に行ってはいけない。

大体以上で、後は通訳がソ連新聞プラウダの日本欄(確か経済上の情報なりしと記憶す)を通訳して聞かせたり。そして私は遂にこのノロワシキ部屋より放り出された。

私は自分の署名した事の重大さに今更の如く驚き煩悶した。如何にするか? トボトボと出張先に向い、歩きながら考えた。

私には責任がある。部下を全部元気で内地に帰す迄は、如何なることがあっても早まった事をしてはいけない。又日本へ帰ったら直ちに届け出たら何とかなるであろうと。

それから出張先に帰って作業に従事中三月二十五日、又もマルタより歩哨来れり。又かと思っているとき『お前達は近く四月の初め日本へ帰る』早速マルタに帰り、出港の日を待つ間三月二十九日頃、事務所迄来い、との通知で行きし所部屋には例の通訳ありたり。そして愈々日本へお帰りになることになりましたね、お目出度う。一寸外へ出ましょうといって、彼は急いで外へ出た。私もその為に急いで帽子をかぶらずに外へ出た所を、彼の友人と称する奴に写真を写されてしまった。(服装は脱帽、将校服、坊主頭である)失敗った、と思ったが既に遅かった。通訳は左様ならと言い、握手を求めて去っていった。

一九四七年四月八日、私達はマルタを出発、四月十七日ナホトカに到着した。私の大隊は五月十二日の船で帰還した。私達旧将校は如何なる理由か残された。——私の大隊で一部の将校は帰還したが——。そして第六中隊という勤務中隊に編入され、毎日パン工場、軍酒保その他雑作業手として作業に従事した。その後日本新聞社高山氏から私達の残された理由について次のような話を聞いた。

迎えにきたジープ p.070-071 日本新聞社より反動と見なされ

迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.
迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.

当時(四月)ナホトカは内地帰還の同胞で入る幕舎もなく、屋外に数日も寝なければならない状況であった。これを整理する為には帰還部隊の中より人員を選り出し、出張作業に出すことになり、私達はその指揮官要員としてであった。そして一部の将校は指揮官となり出張作業に出て行き、私達は残された。そして一日千秋の思いで内地帰還の日を待った。私達は何かにつけて日本新聞社より反動と見なされた。そして私達は到底帰れそうにもなかった。

六月の中旬、私達はスーチャンの将校収容所に送られた。しかし如何なる理由なりしか同所では私達を受取ってくれなかった。それで又ナホトカに帰り今日に至ったのである。そして九月二十日突如内地帰還の命に接したわけである。ナホトカに於ても又帰還の船に於ても、私はかのノロワシキ悪夢の如き件につき幾度か煩悶した。道には二つしかなかった。自決するか、それとも上陸したら直ちに警察に届け出るか——かの命令を毛頭履行する意思のない私には——そして私はこの第二の手段をとり直ちに自首した次第である。

▽山根氏の場合

一九四五年十一月三日私の大隊はイルクーツク第32の12収容所に到着、山中の伐採作業を行い過度の労働と粗悪なる給養の下で全員の約三分の二が倒れた。その為全員は伐採作業に対しては極めて恐怖の念を持っていた。

一九四六年夏第10収容所である肉工場作業に転用されたので、やっとホッとし健康も逐次に回復した。

私は今迄大隊付であったが、一九四六年十一月五日大隊長を命ぜられた。そして十二月十日帰還の為、中間集結地であるマルタ収容所に集合した。

一九四七年一月二十六日深夜、地区司令官の呼出しであると称し、六一六号家屋に連行せられた。そこにはシュザイエル大尉と通訳二名がいて身上調査を受けた。そしてそれは今迄にない微に入り、細に入ったものであった。

氏名 山根乙彦 二九才

家庭の事情 父の職業 大学教授

父母の友人の氏名、住所

本人の友人の氏名、住所

軍歴 某旅団司令部 獣医大尉

以上の様な調査は更に四回にわたり夜十一時より午前二時頃迄行われた。

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。

2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

迎えにきたジープ p.072-073 次の情報を提供することを誓約

迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.
迎えにきたジープ p.072-073 By March 15, I was called twice and was forced to sign, but did not respond. However, seeing my subordinates fall down one after another due to extreme overwork, I finally signed the spy pledge on March 16th.

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。
2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。

1 お前は重労働五十年の刑に処せられる。

2 お前の大隊は直ちに伐採に出す、人事権は私が掌握している。

3 お前の大隊は一番遅れて内地に帰す。

しかし私は室を出た。二月十一日夜突然私の大隊は伐採作業の命を受けた。

三月十五日迄に前後二回呼出され、署名を強要されたが応じなかった。しかし極度の過労の為つぎつぎと部下は倒れて行くのを見て、私は遂に三月十六日署名した。

1 私の偽名を丸太波乗と云う。

2 『私はクレムペラーを持って来ることが出来ませんでした』と云って来る者(それは如何なる国の人であるか判らない)に次の情報を提供することを誓約する。

イ 内地に於ける細菌研究所の位置、内容、研究主任者氏名。

ロ 内地に於ける軍需工場の位置、内容、主任者氏名。

一九四七年三月十六日      署名

その後で中佐に、もし私が内地に帰還後情報を提供しなかったら如何になるかと問うた所『アナタの御想像にまかせます』と答えた。

注意事項として次の事項を云われた。

1 ソ連大使館に積極的に近づいてはならない。

2 舞鶴で米軍の調査を受けても、山の中で何も知らないと答えよ。

三月十七日私の大隊は伐採作業の中止を命ぜられた。

四月二日マルタ収容所で例の通訳と写真機(小型ライカ)を持った地方人に、写真撮影されようとしたが、目的を示さないので拒否した所、日本新聞にのせると称して半身脱帽(将校服、坊主頭姿)で三枚写された。

八月十五日ナホトカで突然例の通訳が来て『元気ですか、それでは願います』と云われた。

九月二十五日ナホトカ出港、二十七日舞鶴港に到着した。私の落着先は鳥取市内某方であるが、本年末又は明春には札幌市内某方(父の友人)に行く予定である。私の様に任務を命ぜられた者は、マルタ収容所だけでも二十名を下らない。

招かれざるハレモノの客

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

迎えにきたジープ p.074-075 今や「事実上のソ連代表部」

迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of "wolf in sheep's clothing". Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep's skin.
迎えにきたジープ p.074-075 Only the Soviet embassy, which was a neutral nation until the end of the war, was in a position of “wolf in sheep’s clothing”. Finally, the wolf showed its true nature by throwing away the sheep’s skin.

一 七変化の〝狸穴〟御殿

三十年一月二十五日、鳩山首相は元駐日ソ連代表部ドムニツキー首席の訪問を受けて、ソ連政府の日ソ国交調整に関する意志表示の文書を受取った。そして、それ以来日ソ国交調整の動きは二十九年末以来の潜在的動きとは打って変って、日々眼ま

ぐるしく進みつつある。

この事実は二十七年五月三十日に日本政府が代表部に対して行った、「講和発効後存在の法的根拠を失った」旨の正式通告を否定して、存在を認めるという事実上の承認にもひとしいことである。

この〝変転〟も、太平洋戦争以前に、さかのぼってみてみると、まさに七変化の〝狸〟である。まず戦前は正式な外交関係があり、大使館として認められていたことは、いうまでもあるまい。

だが、戦争ぼっ発と同時に、米英の連合国側大公使館は敵産として管理され、独伊は同盟国として、ゾルゲ事件が起きたほど寬大な自由を得ており、終戦直前まで中立国であったソ連大使館だけは、〝自由+監視〟という、まさに〝狼+羊の皮〟といった中途半端な立場におかれていた。そしてついに狼は羊の皮をカナぐりすてて本性を現わしたのであった。中立国の大使館は三転して敵産になると、アッという間もなく、対日理事会駐日ソ連代表部に変った。この期間がすぎたのが、二十七年四月二十八日の講和発効と同時の、対日理事会の消滅の時からである。

五度変って「元」ソ連代表部となった。これは日本政府がその存在を認めず、外交上の恩恵

によって、あえて退去強制をしないということからである。従って電話帳でも、「モ」の字の項に配列されたのである。

それが今や「事実上のソ連代表部」となった。やがて近い将来に、再び大使館にもどって、その七変化を終るに違いない。

また対日理事会時代の内容は、日本側にとって全く分らないのは止むを得ないのだが、最盛期には家族も含めて約五百人はいただろうといわれている。

その維持費はすべてPD(占領軍調達命令書)でまかなわれていたのであるから、つまり日本政府の負担だったわけである。これを二十五年度でみると、四千二万、六千七百六十円で、各国代表部中のナムバー・ワンであった。

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円

 合計     五一五三万・四七六二円

迎えにきたジープ p.076-077 〝自主外交〟の第一石

迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.
迎えにきたジープ p.076-077 On May 30, 1952, the Japanese government made a formal notification to the Soviet representative that the Soviet representative had lost the grounds for existence after the enforcement of The Treaty of San Francisco.

シカゴ・トリビューン紙のウォルター・シモンズ特派員の調べによると、次のような数字が出されている。(年度不明)

部員の洗濯代   五一〇万・〇円
自動車維持費   五三二万・〇円(四十台)
家具購入費   一七四六万・三〇〇〇円
新聞雑誌代    二二八万・六一八八円
印刷製本代    二二七万・四八〇〇円
事務需品代    四二五万・六〇〇〇円
フィルム代      一万・九五七二円
衣服仕立代    二五一万・五二〇〇円
家具修繕費    五一〇万・〇円
製パン費     七二〇万・〇円
 合計     五一五三万・四七六二円

また、同特派員の調べでは、当時二百三十四名の部員で、二百七十九台のダブル・ベッドと七百九脚の椅子と百四の長椅子とを占有していたという。(この経費の項は日本週報二十九年二月二十三日号より)

「元」代表部になってからの最初の帰国者はデレヴィヤンコ中将の跡をついで代表となったA・P・キスレンコ少将であった。二十七年六月二十七日夕六時、横浜を出帆した英船フェンニング号にのった彼は次のようなメッセージを残している。

『日本とソ連両国の友好がつづくことを祈っている。われわれ代表部では、現在日本の敗戦に深く同情している。一刻も早く日本が独立と復興の偉業を達成することを欲して止まない。』

夫人と首席秘書A・ヴォゾフィリン中尉を伴った少将は、名古屋で一時上陸を申請して拒否されたのち、香港、北京経由でモスクワへ帰っていった。

一方政府では七月二十六日を期限として、出入国管理令による在留資格取得の手続を求めていたところ、ソ連側は先手を打って二十二日に七十九名の部員名簿を提出した。

つづいて九月二十四日、横浜出帆の仏船ラ・マルセイエーズ号で、バルヂチェ大佐ら二十四名が帰国、六十六名となった。

三つの工作段階

二十七年五月三十日、政府はソ連代表部に対して、ソ連代表部は講和発効後存在の根拠を失った旨の、正式通告を行うと同時に、外務省からその通告内容の発表を行った。

これは同月六日の宮崎外務省情報文化局長の、初の外人記者会見における談話や、さらに同十五日の吉田首相の国会答弁など、一連の観測気球をあげたのち、スエーデン政府の斡旋拒否に逢って、止むなく取らざるを得なかった〝自主外交〟の第一石だった。

この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ った。

迎えにきたジープ p.078-079 工作は大体次の三期に分れる

迎えにきたジープ p.078-079 Looking at the Soviet conspiracy against Japan, it can be seen that a consistent policy is flowing. Since the end of the war, the Soviet was anticipating many years into the future, and Rastvorov was turning Hiroshi Shoji and Nobunori Higurashi into spies.
迎えにきたジープ p.078-079 Looking at the Soviet conspiracy against Japan, it can be seen that a consistent policy is flowing. Since the end of the war, the Soviet was anticipating many years into the future, and Rastvorov was turning Hiroshi Shoji and Nobunori Higurashi into spies.

この通告問題は当の外務省にとって頭痛の種だったのである。政府声明だけでは〝通告〟にはならぬ、誰か使者を立てねば……、だが果して会ってくれるかどうか、会ってくれても受取ってくれるかどうか、会わねばどうしよう、受取らねばこうしよう、と頭を悩ましていたのだ

った。

田村儀典課長とルーノフ参事官との会見は和やかな雰囲気で行われ、何の意志表示もなかったが、受取ってくれたことだけで、政府はホッとした形だった。

和やかな雰囲気と、意志表示をしなかったルーノフ参事官。ここにソ連代表部の実態が端的に示されている。ソ連政府は依然として日本を被占領国とみている。そして、向米一辺倒に奔る日本の現実に〝和やかな雰囲気〟という工作が、政治、経済、文化の各分野に〝沈黙〟のまま執拗に続けられている。

さきにものべたように、終戦後からのソ連の対日工作を眺めてみると、そこには全く一貫した政策の流れていることが分る。たとえばラ氏手記に出てくる終戦時の在モスクワ大使館員の買収の件である。ラストヴォロフ氏は「新日本会」を組織した五人の日本人を指摘している。

この五人というのは、ラ事件の容疑者として公務員法第百条違反(秘密を守る義務違反)に問われた、外務事務官庄司、日暮両氏を含んでいる。つまり終戦時からすでに何年もの後への手が打たれていた訳である。新聞記者オグラ氏も同断であるのは、もちろんのことである。

その工作は大体次の三期に分れる。

第一期 昭和二十年八月代表部設置から、同二十六年までの六年間。この間は基礎工作の段

階である。

第二期 昭和二十六年六月三十日代表部スポークスマンと共同通信藤田記者との会見より、同二十七年四月二十八日講和発効まで十カ月。この間は工作具体化の段階である。

第三期 講和発効から三十年一月までの二年九カ月。この間は仕上げの段階である。

このような三つの段階は、もちろん動きの上にはっきりと現れている。つまり施設からみれば、二十六年七月から八月にかけて、丸の内の三菱仲二十一号館の代表部、文化部、図書館、通商部が接収中の郵政省ビルに移り、八月二十三日に残りの宿舍も狸穴に移転、二十一号館を返還した。これが第一期の終了を示しており、さらに講和と同時に郵政省ビルも、十数戸の個人住宅も返還して、一切が狸穴の旧大使館に移った。

なかでも通商部は、二十七年三月二十七日麻布竜土町十一のUSハウス六九二号だったトリコフ大尉居住の家屋、戦前のソ連大使館商務館へ本腰を据えて落着いた。同時に五月一日から自動車のプレートを「SPACJ(対日理事会ソ連代表)—何番」から「USSR—何番」に全部取換えてしまった。これが第三期の始りだ。

第一期の基礎工作中には目立った動きはない。ただ各国共産党をして活溌に展開させた「平和擁護世界協議会」のストックホルム・アッピールによる戦争反対署名運動で、さらにベルリ

ン・アッピールの「五大国間に平和協定を結べ」というスローガンを国民に訴えていた。

迎えにきたジープ p.080-081 積極的に経済攻勢を開始

迎えにきたジープ p.080-081 The Soviet even obtained top secrets of Japanese government agencies from these spy people, including members of the Japanese Communist Party as well as members of pro-Soviet groups.
迎えにきたジープ p.080-081 The Soviet even obtained top secrets of Japanese government agencies from these spy people, including members of the Japanese Communist Party as well as members of pro-Soviet groups.

第一期の基礎工作中には目立った動きはない。ただ各国共産党をして活溌に展開させた「平和擁護世界協議会」のストックホルム・アッピールによる戦争反対署名運動で、さらにベルリ

ン・アッピールの「五大国間に平和協定を結べ」というスローガンを国民に訴えていた。

これらは所謂平和攻勢と呼ばれて、主役はあくまで合法政党の日本共産党であった。しかし、代表部では対日理事会でセンセイショナルな発言をして側面掩護することを怠らなかった。この間は日共党員のほかソ連帰還者生活擁護同盟、日ソ親善協会など数団体のメムバーを個人または団体として利用、基礎情報の収集に努めていた。

いわばスパイとなったこれらの人々の情報は日本の官庁機密まで入手しており、これに基いてデレヴィヤンコ中将が対日理事会でバクロ的発言さえ行った例もある。

やがて局面は大きく転換した。対日講和会議が問題となり、着々と進行しはじめていた。代表部は独自の立場から日本における米国市場へ対し、積極的に経済攻勢を開始したのだ。これは日本経済界に強力なソ連側の線を入れ、しかもこれが講和発効後にあらゆる点でソ連側に有利に展開せしめようとした。

まずその徴候が六月ごろから現れた。代表部の態度が極めて友好的になって、戦後最初の正式記者会見までが行われた。引揚問題で代表部への留守家族陳情がしきりに行われていた二十四年から二十五年はじめにかけて、代表部の鉄門に立つ自動小銃の歩哨は冷たい態度だった。明らかに顔に敵対感情が浮んでいた。

『ズドラースチェ・タワーリシチ・ソルダート!』(兵隊さん、今日は)と親しげに呼びかけても、彼は吐き出すように、『ヤー・ニハチュー・スカザール!』(話なんぞしたくない)とノーコメント一点張りだった。もちろん新聞記者も入れなかった。

それがガラリと変って、物好きなGIの求めに応じて、歩哨がニコニコとポーズまで作るという豹変ぶりだった。〝和やかな雰囲気〟がはっきりと現れてきた。

ドムニッツキー通商代表の動きが活溌になってきた。従来から代表部に出入していた商社(例えば藤倉系の藤興産業が大阪ビル内に出していた売店の関係で、繊維品を持って直接代表部へ部員や家族の御用伺いに出入し、たまには食堂で御相伴にあずかって親しく付合っていたように)や、関係のある貿易会社へ、ウマイ話がささやかれ始めたのだ。

樺太の粘結炭、パルプ、高い米国炭にあえぐ製鉄業界や、インチキ巻取紙詐欺にかかるほどの紙業界には大きな魅力だ。内外通商(銀座西二)安宅産業(日本橋通三)進展実業(八丁堀二)日ソ貿易などの各商社が乗気になったのは七月から八月にかけてのことだ。

バーター制でしかもバトル法が適用されているという困難な状況だったが、ソ連側の価格が米国品の半値以下というのだからたまらない。石炭でいえば米炭トン二十八弗乃至二十九弗に対し、ソ連炭は三分の一の十弗だ。

迎えにきたジープ p.082-083 日ソ貿易が有利だという印象

迎えにきたジープ p.082-083 On November 2, 1951, Trade Representative Domnitzky and Economic Advisor Mamin visited the Japanese Diet. They met with representatives from the Communist Party to the conservative parties and made the impression that the Soviet-Japanese trade was advantageous.
迎えにきたジープ p.082-083 On November 2, 1951, Trade Representative Domnitzky and Economic Advisor Mamin visited the Japanese Diet. They met with representatives from the Communist Party to the conservative parties and made the impression that the Soviet-Japanese trade was advantageous.

内外通商の樺太炭二十万トン、安宅産業は同四十万トン輸入の接衡をはじめ、進展実業は乗用車とカメラ輸入を策した。

この乗用車はZIM式、モロトフ工場製、六基筒九十五馬力、時速最高百二十五粁、燃料は百粁につき約十七リットルという性能。写真機はキエフというソ連製コンタックスで、ツァイス・イコンの施設、技師工員をそのままウクライナのキエフに移し、そこで生産したコンタックスと寸分違わぬもの。しかも邦価約二万五千円で約四分の一の安値だ。

内外通商の石炭は(昭和二十七年一月ソ連側から正式に輸出認可があり、同年二月七日付で同社から通産省へその輸入申請が行われた)価格がソ連側のトン十二弗と日本側の八・五弗と若干開いていたので、早くもその打合せを話合うという進捗ぶりだった。

こんな友好的気分が幸いしたのか、或はマキ餌だったのか、ドムニッツキー通商代表はその間に同社と、片仮名、平仮名、漢字、鮮字、数字などの母型四万語一万六千弗の輸入契約を結んだ。

三 闇ルーブルを漁る大阪商社

 このような動きは、まだ業界の一部しか知らない蔭の動きだった。手蔓のない商社、ことに関西財界は代表部へコネクションをつけようとして焦っていた。それにこんな面白い話がある。

当局が懸命に探してる日共潜行幹部の一人野坂参三氏の秘書が、同様に地下潜行の身を大阪の某所にひそめていた。そのアジトへ某(特に秘す)貿易大会社の社員が突然たずねてきたのだ。警察さえ知らない彼の来阪の時期とアジトをどうして知ったか。一時は彼もサツの手先なのかとギョッとしたが、話を聞いてみると『日ソ親善何とかやらの会員となって、代表部に出入できるようになりたい。斡旋を頼む』という社命に窮しての懇願だったという。

ソ連代表部や日共の事情に明るい者ならば、日ソ親善協会に頼らなくても目的を達する途がいくらでもあること位判り切ったことだ。しかもそのため警察以上の努力と熱意で潜行の党員を追っかけるなど、この事実こそ、日ソ貿易に喰いつかねばという大阪商人の烈しい商魂を物語っている。

こうした秘やかな動きが、早耳で伝えられて、心理的にも経済界の興味の中心となった頃合を見て、突如二十六年十一月二日に、ドムニッツキー通商代表とマミン経済顧問の国会訪問が行われた。かつてない異例なことだった。

これを機会に代表部の経済工作は表面化した。財界を基盤とする政界への働きかけだ。院内で共産党から自由党までの各派代議士と会見して、日ソ貿易の呼びかけを相当具体的に行なった。この成果は日ソ貿易が有利だという印象を政界に吹き込んだことだった。

迎えにきたジープ p.084-085 モスクワ経済会議の招待状

迎えにきたジープ p.084-085 The climax of this series of maneuverings was the Japan-Soviet economic conference held at the Ginza Kojunsha from the afternoon of January 29,1952, just before the Red Army Memorial Day.
迎えにきたジープ p.084-085 The climax of this series of maneuverings was the Japan-Soviet economic conference held at the Ginza Kojunsha from the afternoon of January 29,1952, just before the Red Army Memorial Day.

続いて第二弾の国際経済会議への招請がもたらされた。十月二十八、九両日にわたってコペンハーゲンで開かれた発起人委員会に、日本側委員として中国研究所長平野義太郎氏の名が挙げられた。平野氏は直ちに日中貿易促進会を足がかりに、帆足計、大山郁夫両氏らと国際経済会議準備委員会を作って動きだした。

さらに十一月七日の革命記念日には、代表部でパーティが開かれ、首相はじめ政、官、財各界の有名人多数が招待状をうけた。石橋湛山、北村徳太郎氏ら個人の資格で招待されたものもあり、通産省官吏が多かった。前例のないパーティだった。

また、年が変った二十七年二月二十二日、赤軍三十四年記念日にも井口外務次官のほかに平野、帆足、大山氏ら国際経済会議関係者と、村田省蔵氏ら財界人多数を招いた。しかも正式の会の後に帆足氏がソ連人の前で、井口外務次官にモスクワ会議出席問題で喰ってかかるという一幕もあったほどだった。

だが、この一連の工作のヤマは赤軍記念日の直前、一月二十九日午後一時から銀座の交詢社で開かれた日ソ経済会議だった。

主催 内外情勢研究会(築地綿スフ織物ビル内)この席を準備したのは同会顧問風見章氏である。

司会 肌足計氏

通訳 岩田ミサゴ、南信四郎両氏

出席者 ドムニッツキー、アブラモフ、タス通信記者三氏、日本側からはモスクワ会議準備委員のほか、八幡製鉄、神戸製鋼、富士製鉄、同和鉱業、十条製紙、本州製紙、パルプ協会、新光レーヨン、大洋漁業、日本水産、永和商事、亀山興業、汽車製造、東京銀行など十四社代表。

会議の内容は主として日ソ貿易に関する問題で、ソ連側の資料提供と質疑応答が行われた。積極的だったのは製鉄業者と水産業者だった。経済問題が一段落すると最後は政治的集会に移り、年頭のスターリン・メッセーヂを繰り返し、さらにモスクワには共同通信特派員の設置が許可されていると強調、これによりソ連資料を集めるべきだといった。

財界はこの会議によって大きく動かされた。向米一辺倒だった財界人にも日ソ貿易への興味が湧き起ってきた。そこへモスクワ経済会議の招待状が石川一郎、北村徳太郎、大内兵衛、都留重人、稲葉秀三、名和統一、蜷川虎三、平野義太郎、帆足計、石橋湛山、平岡憲太郎の十一氏にもたらされた。

日本の各界はこの問題をめぐって、さきにケンケンガクガクの是非論を闘わしたが、結局同

会議出席のため名和、帆足、平野、平岡、宮腰喜助の五氏と組合関係から吉田産別議長、柳本総評組織部長、和田金属委員長、太田国鉄書記長、入江合成化学書記長らが渡航申請を行ったのだった。

迎えにきたジープ p.086-087 地下中共大使館の財務官

迎えにきたジープ p.086-087 Bingsong Lin (林炳松, Lin-Heisho) is called the “Treasurer of the Underground CCP Embassy”. He plot to spread the ruble instead of the dollar.
迎えにきたジープ p.086-087 Bingsong Lin (林炳松, Lin-Heisho) is called the “Treasurer of the Underground CCP Embassy”. He plot to spread the ruble instead of the dollar.

日本の各界はこの問題をめぐって、さきにケンケンガクガクの是非論を闘わしたが、結局同

会議出席のため名和、帆足、平野、平岡、宮腰喜助の五氏と組合関係から吉田産別議長、柳本総評組織部長、和田金属委員長、太田国鉄書記長、入江合成化学書記長らが渡航申請を行ったのだった。

ヤミ・ルーブル紙幣の話が流れ出したのもこのころであった。

話は前後するが、さる二十九年十月十日と十七日とに、話題の二人の人物が相次いで帰国してきた。帰国してきたといっても、彼らは日本人ではなく中国人である。二人の中国人の帰国(?)が、果して日本にどんな波紋をひき起すのだろうか。

その一人、林炳松氏は台湾出身の国際新聞社長(大阪)松永洋行社長(東京)という実業人であるばかりでなく、元日中友好協会副会長、現同理事兼財務委員という肩書の人。もう一人はさる九月はじめ北京で開かれた中共の全国人民代表大会代表として、在日華僑の中からただ一人選ばれた東京華僑総会々長の康鳴球氏である。

中国人が日本に香港から帰国するという表現はいささかオカシイのであるが、それほどこの両氏は日本に根をおろした生活であり、それゆえにこそ問題なのである。康氏の場合はさておいて、ここでは財界と関係深い林氏についてみてみよう。

林氏は〝地下中共大使館の財務官〟といわれるだけあって、日中、日ソ貿易には重要な人物

である。そしてそれだけに、いろいろと神秘的な情報につつまれた怪人物である。某治安当局の得た情報に『ルーブル謀略の林炳松』というのがある。つまりルーブル紙幣を大量に日本国内に持ちこんで、ドルと喧嘩をさせようという経済謀略である。

これは大変な話である。日本国内のドルを吸いあげて、現在のドルなみにルーブル紙幣の価値を高めようというのだから、裏付けがなければならない。これが日中、日ソ貿易である。

このような時期にヤミルーブルの話が、ひそかに業者の間に流れはじめた。果して事実かどうか、また米貨圧迫と経済攪乱のためのデマか、当局ではついに確認し得なかったが、このルーブル騷動の中心人物が林氏だと伝えられている。

二十七年の正月ごろ、北海道へ密航してきた一機帆船(ソ連の潜艦から積みかえたのだともいう)が、三十五梱の荷物をあげた。これが全部ソ連のルーブル紙幣で、一九四七年幣制改革以後のものだという。

これを知った阪神方面の第三国人(これが林氏ではないかともいう)が、大思惑を決意して大量に買占めだしてから、急激に需要が増えてきてドル五ルーブル(レートではドル四ルーブル)という相場で、日本人ヤミ屋までルーブル買をはじめるという騒ぎになった。

日ソ貿易に熱心な一流商社でも懸命に買漁ったそうで、用途は思惑買のほか、天津、大連な どに送って、中共治下では安い貴金属、宝飾品を買集めるとか、樺太炭やパルプの取引で某社などは現地へ社員を密航させたりしているので、そのさいの工作用であるとか言われている。

迎えにきたジープ p.088-089 呉周白元鮮共委員がルーブル買

迎えにきたジープ p.088-089 AP reporter wrote, "The Soviet representative has a deposit account close to $ 500,000." However, even if the Japanese police do their best to investigate, the reality of the "Mamiana" money cannot be grasped.
迎えにきたジープ p.088-089 AP reporter wrote, “The Soviet representative has a deposit account close to $ 500,000.” However, even if the Japanese police do their best to investigate, the reality of the “Mamiana” money cannot be grasped.

日ソ貿易に熱心な一流商社でも懸命に買漁ったそうで、用途は思惑買のほか、天津、大連な

どに送って、中共治下では安い貴金属、宝飾品を買集めるとか、樺太炭やパルプの取引で某社などは現地へ社員を密航させたりしているので、そのさいの工作用であるとか言われている。

この話について代表部に極めて近い安宅産業の担当幹部社員は、『その話については他の会社については聞いている。しかしウチのような一流会社ではそんなことをする必要がない』と語って、噂を肯定しており、また戦時中に謀略用の外国ガン幣(ニセ札)製造をやった参謀本部の某元将校は、『あらゆる国のガン幣を作ったが、ルーブルだけはできなかった。ヤミルーブルが流れているというなら、それは本物に違いない』という。

当局ではこの情報によって第三国人関係を調べてゆくうち、新宿区角筈に住む呉周白、元鮮共中央委員が、ルーブル買をやっていることを掴んだ。直ちに、同人の身辺を内偵しはじめると、早くもこれを察知したのか呉は逃走してしまった。糸が切れてしまった訳で林氏がその中心人物であるとも確認できずに終った。当局で確認しきっていないというのはこのことだが、事実として相当確実視しており、このヤミルーブルの大口取引は関西が舞台になっていることは、やはり関西財界の日ソ貿易への異状な関心を物語る一つの材料である。

余談ではあるが、通貨の搜査は搜査技術の面からいっても極めてむずかしいのである。ルーブルは外国為替管理法の指定通貨ではないから、(ドルとポンドだけ指定されている)不正所持、

無申告などの犯罪にならないから尚更のことである。

例えば二十八年夏、北海道でおきた関三次郎スパイ事件というのがあった。彼の持っていた真新しい百円札は百番台ごとに続き番号だったので、直ちにこの搜査が行われた。その結果、これらの紙幣は二十五年ごろ東京で印刷され、日銀から三つの市中銀行に出たものと推定された。そのうちの一つに銀座に東京支店をもつ東海銀行があったので、係官たちはこおどりしてよろこんだ。さきのヤミルーブルで同銀行をクサイとにらんでいたところだったので、その裏付けの一つとなったというのだ。

また二十九年十月二十四日号の週刊朝日に寄稿された、AP記者のラストヴォロフ事件の記事中に『ソ連代表部は五十万ドル近い口座を持っている』とあるが、やはり当局が懸命に捜査をしてもこの狸穴の金の実態はつかめない。このドル預金はアメリカ・バンクにあるのだが、円に交換するときは正規の手続きで行われており、ドルで使用した場合もそうであるが、その支出額が極めて少ない。

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。