迎えにきたジープ」カテゴリーアーカイブ

迎えにきたジープ p.190-191 志位氏はソ連研究家として一流

迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called "Red Army Labor Battalion" and engaged in base construction.
迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called “Red Army Labor Battalion” and engaged in base construction.

四 三橋と消えた八人

この辺で少し、ソ連の秘密機関を系統的にみてみよう。ソ連側の直接の指導には、内務省系のものと赤軍系のものとがあった。赤軍系というのは沿海州地区をはじめ、ウラジオ、ウォロシーロフ、イマン、チタ各地区に一ヶ大隊約五百名、四十ヶ大隊約八千名の日本人が、「赤軍労働大隊」と呼ばれて、直接赤軍の管理下におかれたところがあったのである。ここでは日本人捕虜も赤軍兵士と同様の条件で、基地建設などの土工作業を行っていた。

他の日本人捕虜収容所は、ナホトカで帰還の送出をする第二分所が外務省の管轄であるのを除いては、すべて内務省の監督下にあった。

内務省の管轄にある捕虜の〝再武装〟教育ということは、とりも直さずオルグ要員の政治教育とスパイ要員の技術教育の二種類があったということである。

これらの学校のうちで、明らかにされたその名前をあげるならば、モスクワ共産学校、ホルモリン青年学校、同政治学校、同民主主義学校、ハバロフスク政治学校、チタ政治学校などの「政治教育機関」と、モスクワ無線学校、同情報学校、ハバロフスク諜報学校、イルクーツク無線学校などの「技術教育機関」とがある。

モスクワ無線学校というのは、三橋正雄氏の入ったスパースク、議員団のたずねた将官収容

所のあるイワノーヴォ、またクラスナゴルスクなど、モスクワ近郊に散在している。

たびたび引用するが、志位氏はソ連研究家として一流の人物であるから、同氏の近著「ソ連人」に、現れている部分を抜いてみる。これは同氏がスパイ誓約を強制させられる当時の、取調べに関連して書かれたものである。

三回目の呼び出しの時、私は自分の調書を読むことができた。それは訊問官が上役らしい大佐に呼びつけられて、あわてて事務所を出て行ったとき、机の上に一件書類が残されていたからである。

これによって私たちをいままで逮捕し、取調べていた機関がすっかりわかった。まず終戦直後の奉天で猛威を揮ったのが、ザバイカル方面軍司令部配属の「スメルシ」であった。この「スメルシ」というのは、「スメルチ・シュピオーヌウ!」(スパイに死を!)の略語で、文字通りのいわば防諜機関である。

これが進駐とともにやってきて、私たちを自由から〝解放〟したのだ。調書は「スメルシ」からチタの「臨時NKVD(エヌカーベーデー)検察部」に廻され、さらに、モスクワの「MVD(エムベーデー)戦犯審査委員会」に達している。

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

迎えにきたジープ p.192-193 秘密警察セクリートの恐怖

迎えにきたジープ p.192-193 NKVD's secret action team, called "Secrete", is infiltrating every workplace and every level. No one knows the fear of Secret NK as much as the Soviet people.
迎えにきたジープ p.192-193 NKVD’s secret action team, called “Secrete”, is infiltrating every workplace and every level. No one knows the fear of Secret NK as much as the Soviet people.

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

同室の誰かがいったように、MVDもMGBもソ連国家の必要悪というよりも、ソ連国民の業である。なにしろこれらの秘密警察は、四世紀ほど昔のイワン雷帝の代にはじまって、帝政末期にはアフランカとして、泣く子も黙らせる力を示し、革命後はまずチェカー、ついでゲー・ペー・ウと名前はかわったものの、帝政以上の猛威を逞しくしたのだから。

もちろん、私がいままでエヌ・カー・ヴェー・デーと書いてきたものは、エム・ヴェー・デーのことである。

ソ連は軍人の国である。真横にピンと張った大きな肩章、襟や袖やズボンの縫目にまでも兵科別の細い色筋がついた派手な軍服、大きな正帽と長靴——民間人がボロ服をまとい、日用品に事欠きながら「働らかざるものは食うべからず」の鉄則に追いまくられて、パン稼ぎに狂奔するとき、軍人の妻は働らかざるものなのにパンの配給をうけ、美しい家庭着に白い手足をつつんでいる。もちろん軍人といっても将校だけのことである。

その将校の中でも巾の利くのがエヌ・カーである。エヌ・カー・ベー・デーというのは内務

人民委員部の略称で、前々称のチェ・カー、前称のゲー・ペー・ウーと同じである。国家保安労農警察、国境並に国内警備、消防、強制労働管理、戸籍、経理の七局に分れて、赤軍と同じような服装をした正規軍を、コバルト・ブルーの鮮やかな正帽の短かいつばの下に、鋭い眼をひそませた精悍な顔付の将校が指揮している。

彼らの青帽子は、赤軍将校のカーキ帽子とハッキリ区別されているが、セクリートと呼ぶ私服の秘密行動隊が、あらゆる職場やすべての階層に潜入している。〝壁に耳あり〟の諺と、その耳の恐さをソ連人ほどよく知っているものはあるまい。

彼らは自分の周囲の誰が、セクリートであるか分らないという恐怖に、いつもつきまとわれている。ただ、職場の友人が突然行方不明となったり、昨日の上役が今日は一労働者に転落したりする事実を、その理由をうなずけないままで既成事実として認識している。

『パチェムー?』(何故?)と問うことは許されない。ましてや姿を消した人の消息を追及するなどは常識の埒外である。

内務省は軍隊と警察に分れる。軍隊はさらに、国境警備隊と国内警備隊に分れている。この国境警備隊の司令部第四課が、通称NHO(イノオ)と呼ばれ対外諜報を担当しているのだ。作戦上の責任分担は、国境線から敵領十キロまでは国境警備隊で、それ以遠は赤軍の管轄である。

迎えにきたジープ p.194-195 スパイ要員として特殊教育

迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. "Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication."
迎えにきたジープ p.194-195 The Soviet captain said. “Communicate with the Soviet representative and the Soviet government. The equipment is a very small machine. There is no fear of being discovered. The wavelength, calling code and the time changes with each communication.”

国内警備隊が、コルホーズ、工場、鉄道、都市各警備隊をもっているのでも、ソ連が並々ならぬ軍事国家であり、圧政を敷いているということが分るだろう。

赤軍には軍諜報部があり、その参謀部第四課が対外諜報の担当で、第二課が四課の収集した情報を整理分析する。この他、外務省、貿易省、党機関がそれぞれに対外諜報機関を持っており、或る場合にはそれがダブって動いている。

スパイ要員として特殊教育をうけた人たち、これがいわゆる「幻兵団」である。その適例として三橋正雄氏の場合はどうだろうか。山本昇編「鹿地・三橋事件」第四部「三橋の告白」の項に、彼のスパースクでの教育内容が具体的に書かれているから摘記しよう。

(二十二年二月ごろ、マルシャンスク収容所で〝モスクワの調査団〟にスパイ誓約書を書かされたのち)二十二年の四月でした。誰、誰と、名前を呼び出されました。その中に私が入っておったわけです。やっぱり前に希望した各地の日本人技術者なんです。

当時大体モスクワへ行くという噂が飛んでいました。そこから、客車に乗って一行八人でモスクワまで二晩ぐらいかかった。そうして四月の七日頃でしたか夕方モスクワの駅に着いたんです。それからモスクワの収容所に入れられたわけです。

モスクワの収容所は、部隊番号がわかりませんね。そこは日本人が千五百名位いた。主に兵隊で、

将校はいくらもいなかった。皆工場の作業に行っておりました。工場を建設しているんですね。ジーメンス、それからツアイスなんかの設備を、どんどん運んでいるようでした。ドイツのいわゆる技師も家族をそっくりつれて来ているんです。なかなか優遇されているようでした。

そこの収容所に、六月二十四、五日頃、隊長格の男がやって来たんです。我々八名の人間を、順番にやっぱり調べたんです。最初はそういう身上調査、二日目にはいろいろ貿易などについての雑談をやった。隊長は、あなた日本へ帰ってから、私のほうと取引をやりませんかと言いましたが、私は又、貿易でもやらしてくれるのかと思ったんです。

その次の三回目に、いよいよあの話が始まったんですよ。『どんな仕事ですか』『いろいろソ連の代表部と、ソ連本国との通信をやってくれ。設備は非常に小型な機械ができておるし、それから絶対発見される心配はない。通信プログラムはうまくできておるから、やるたびに波長が変るし、呼出符号も変るし、時間も変る』と、そのときの経緯は大体公判廷ですっかり述べましたがね。誓約書を書いてくれと言うので、向うに言われる通りに書いて署名したんです。

それから、いわゆる七月の三日か四日、松林の家に移されました。ちょっとモスクワ駅から四十分ぐらいのところの小さな田舎町で、そこの松林の中の建物というのは、部屋が十幾つあった立派な建物ですが、木造で中がなかなか豪華なものでした。岩崎邸みたいな感じでした。松林の中にあるから、特殊な秘密目的の要員勤務のものを教育するところだったかも知れません。

迎えにきたジープ p.196-197 三橋氏のように偽装して帰国

迎えにきたジープ p.196-197 Eight people, who were sent to the Spassk camp, received private instruction on spy technology in a special operative's house. They disguised themselves as general repatriates and returned to Japan.
迎えにきたジープ p.196-197 Eight people, who were sent to the Spassk camp, received private instruction on spy technology in a special operative’s house. They disguised themselves as general repatriates and returned to Japan.

そこに四ヶ月いたわけですが、大体教育は三ヶ月で終ったんです。まあ通信機の隠し場所はどういうところがいいとか、例えば漬物の桶を二重底にして下に無線機を入れろ、炭俵の底に機械を入れて、上に炭を入れておけ、小さいものは壁をえぐって中に入れ、元通り蓋しておけ、天井裏なんかすぐ狙われるからまずい、などと言っておりました。

また庭の敷石を持上げて、その下に入れるようにとか、電文など書類は箱かなんかに入れて石垣なんかあったら、石を一つ抜けば入れられるように細工をしてかくせなど言われた。永久的に一年なり二年なり使わない場合は罐に湿気が入らないように密封して、エナメルでも塗って地下に埋めておけとも言われた。

それから尾行を発見する方法については、ときどき振返ってみずに、曲り角で来た方向をちょっと見るとか、電車の乗降のとき自分と一緒に乗った人間を覚えておいて、降りるときにその中の人間が一緒に降りたら注意しろ。次に尾行されたら、約束の場所には来ないのが鉄則だと教わった。

十月三十日の午後三時頃急行列車でモスクワ駅を、雪の降る中を出発しました。バイカル湖をちょっと通り過ぎたあたりでゲーペーウーみたいなものが入ってきました。付添の将校が証明書を出したけれどもやっぱりさすがに私には目をつけましたね。日本人というとおかしいとみられると思ったのでしょうか。私の名は朝鮮人の何とかいう名前になっていたらしいんです。

やっばりこうなったら、向うは同じソ連人の内部でも知らせないという態度をとっているんですね。

出発するときにリヤザノフが、朝鮮人ということになっているんだが、ということを言っておりました。それでハバロフスクへ着いたわけです。

ハバロフスクの隊長の家に、すぐ行ったんです。そこで、今まで着てきた私服を全部ぬいで、またそこの日本人の捕虜の服を着て、そっくり新京からシベリヤへ出発した当時の元に還って、十六地区の十八分所というのに入ったわけです。他の兵隊には病気で入院しておって、こっちへ送られたんだと言うことにして、体が悪いからとの口実で作業はしませんでした。

十一月の二十二日頃、ナホトカを出て十二月の三日に舞鶴へ着いたというわけです。

この一緒にスパースクに送られた八人というのは、高田少佐、土田、小林、近藤、野崎、平島各少尉、伊藤曹長、三橋一等兵の八名であるが、いずれも、特殊工作家屋の中で、スパイ技術の個人教授を受け、三橋氏のように偽装して帰国したのである。

そしてこれらの多くの人が、ラストヴォロフ事件で警視庁の取調べをうけ、参考人として供述調書をとられたのである。

その調べから、帰国後の最初のレポ状況をみよう。

▽三橋氏の場合

十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中

旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。

迎えにきたジープ p.198-199 ソ連の日本人抑留が不当

迎えにきたジープ p.198-199 The eight people who were supposed to have achieved "human transformation" through the "special technical education" by the Soviet Union easily confessed all.
迎えにきたジープ p.198-199 The eight people who were supposed to have achieved “human transformation” through the “special technical education” by the Soviet Union easily confessed all.

▽三橋氏の場合

十月三十日、そこを出発したが、その前つぎのような指示をうけた。内地へ帰ったら、その月の中

旬のある日(たしか十六、七日と思う)に、上野公園交番裏の石碑にチョークで着の字を丸でかこんだのを記せ。

それから、三ヶ月後の同じ日午後四時に上野の池の端を歩け。(場所は公衆便所の位置まで示された詳しい地図で説明された)その際、新聞紙を手に持っていれば、ソ連代表部員がきて、

『池に魚がいますか?』

と聞くから、

『戦争前にはいたが、今はいません』

と答えて、その男の指示に従え、と云うのであった。

▽平島氏の場合

帰った月の最初の五の日、聖路加病院の正門から左の塀の角に〝○キ〟と書け。二日後に行って印が消えていたら連絡済であるから、次の五の日の夕方五時に、築地本願寺の入口で、新聞紙を捲いて右手に持って待て。同じ目印の男が次の合言葉で話しかけたら、その男の指示に従え。

『貴方は石鹸会社のA氏を知っているか』

『知っている』

『彼は今何をしているか』

『彼はもう止めた』

そして、次のレポの日時を指定され、歌舞伎座の横丁で、ジープにのったソ連人と連絡したのである。

こうして「特殊な技術教育」をうけて、「人間変革」をなしとげたはずの八人も、簡単にその一切を自供してしまった。

ソ連の日本人抑留が不当であり、シベリヤ民主運動が〝押つけられたもの〟であったからである。それは、酒や女や麻薬や賭博や金などのような、人間の第二義的弱点ではなく、人間性そのものへの挑戦である「帰国」という弱点の、利用の上に立った脅迫や、強制されたものであったからである。

五 スパイ人と日本人

鹿地・三橋事件は、読めば読むほど分らないといわれ、「ウソ放送局」や「片えくぼ」の好材料となった。だが、分らないことはない。話は簡単である。

まず私の許へ寄せられた二通の読者からの手紙をみてみよう。

十四日付記事面白く拝見した。特に対日スパイとしては大先輩の青山和夫を引張り出して暴露させたのは大成功だった。今度は鹿地に青山のことを書かせたら面白い泥試合がみられると思う。

しかし記事はもう少し前、例のスメドレー女史(註、ゾルゲ事件の立役者の一人)から金をもらって、香港へ飛んだあたりから始めてもらいたかった。ただし資料を集めるに苦労は必要で、内山完造

グループは口が堅いし、平沢さくら(註、鹿地氏の前夫人)では、彼と一緒になった当時、黄浦口に飛び込んで自殺しかけたオノロケ話位しかできまい。

迎えにきたジープ p.200-201 鹿地は日本人ではなくスパイ人

迎えにきたジープ p.200-201 Kaji has always been among the spies, so he considers himself not a spy. However, a person like him should not be treated as a Japanese. It is known worldwide that he is a spy, not a Japanese.
迎えにきたジープ p.200-201 Kaji has always been among the spies, so he considers himself not a spy. However, a person like him should not be treated as a Japanese. It is known worldwide that he is a spy, not a Japanese.

しかし記事はもう少し前、例のスメドレー女史(註、ゾルゲ事件の立役者の一人)から金をもらって、香港へ飛んだあたりから始めてもらいたかった。ただし資料を集めるに苦労は必要で、内山完造

グループは口が堅いし、平沢さくら(註、鹿地氏の前夫人)では、彼と一緒になった当時、黄浦口に飛び込んで自殺しかけたオノロケ話位しかできまい。

やはり当時の特務機関か、領事館警察の連中を探し出さなければなるまい。副産物として、当時一挙に陸、海、外務の一流を屠った新公園事件(註、重光外相が片足を失った事件)など明らかになると思う。

日本も再軍備するとなれば、諜報部隊がなくてはならないのは自明の理で、謀略といえば聞えが悪いが、謀略必ずしも破壊的なものではない。日本軍唯一の正統謀略将校松井太久郎中将は、中国の古都北京を、当時の敵将宗哲元との取引で戦火より救っているなど、謀略将校でなければやれない面がある。松井氏は大佐になって正服を着たが、私服時代の在露時代に捕まり死刑寸前ということになったが、日本で捕ったソ連スパイとの交換で危うく帰国できた話なぞ面白い。

とにかく、この鹿地事件は、鹿地自身がいつもスパイの中にいたため、自分をスパイでないと思っている所に、ピントが外れた話になってきている原因があるのであって、彼は日本人ではなくスパイ人であることは、世界的に知られているのであるから、恥をかかぬようにくれぐれもお願いする。

*  *  *

鹿地事件、興味深く拝見しました。小生は上海時代に同人の妻君池田幸子と同一の家に住んでいましたが、鹿地が重慶に行く時の主役は幸子で、幸子は国立山東大学で勉強し中国語も優秀で、上海での彼女の動静は微妙のものであった。

鹿地は中国語は大したことなく、蔭の力は幸子であって、幸子の身元を洗えば興味あると思う。

幸子とかって同棲していた佐々木四郎は、右翼岩田の子分で、佐々木が上海工部局(註、警察)を辞めた時の原因は幸子とのトラブルで、佐々木と幸子とを結婚させようと話をしたのは、国警本部のピストル訓練を担当しておった塚崎正敏であった。国警への紹介は元工部局警視総監渡部監弌であったときいている。

鹿地を日本の人間として考える時は、いささか愛国的な線から外れている。彼の如きは敬遠すべきもので日本人として扱うべきではあるまい。

このような手紙にみられる通り、事件そのものは極めて簡単な話である。

娼婦が客を相手取って強姦の告訴事件を起したと思えばよいのであって、反米感情という政治的な含みから、左派社会党の猪俣代議士がこれをジャーナリスティックに利用した著意と手腕は買うが、娼婦の抱え主ならば『告訴する』といきまく娼婦に対して『お前のもてなしが悪いからだ』とさとすのが良識というものであろう。

だが、三橋氏は違う。彼は実直なサラリーマンであり、従順な兵隊であったのである。技術者としての彼の人生観が、事件そのものを割り切って考えられたから、無事に生きていられる

のであって、割り切れなかった佐々木克己氏は死をえらんだではないか。

迎えにきたジープ p.202-203 日本人を他国の下働きにする

迎えにきたジープ p.202-203 Japanese men are used as tools in the US-Soviet spy battle! There is nothing unjust than such an insult to human being. It was these two countries that judged the war criminals against the defeated Japan in the name of human justice.
迎えにきたジープ p.202-203 Japanese men are used as tools in the US-Soviet spy battle! There is nothing unjust than such an insult to human being. It was these two countries that judged the war criminals against the defeated Japan in the name of human justice.

だが、三橋氏は違う。彼は実直なサラリーマンであり、従順な兵隊であったのである。技術者としての彼の人生観が、事件そのものを割り切って考えられたから、無事に生きていられる

のであって、割り切れなかった佐々木克己氏は死をえらんだではないか。

二十八年二月に出版された「アメリカの秘密機関」という、占領下の米国秘密機関の悪事と植民地日本の吉田政府の卑屈さを、相当詳細なデータで書いた、バクロ雑誌「真相」張りの本がある。出版社はいわゆる進歩的なところで、著者は山田泰二郎なる人である。その本のはしがきにこう書いてある。

金のためにスパイするような人間は、人間のうちで、一番節操のない卑劣な人間です。ところが脅迫や威圧で、スパイをするように仕向けるような秘密機関があるとしたら、それはまったく、天人共に許さない極悪非道なことといわねばなりません。……

日本人の運命を、他国の下働きにするばかりか、スパイ化するような動きに対しては、私たちは日本人としての誇りを守るために、勇気を出して、敢然と闘わなくてはならないと思います。

全く同感である。読み進んでいったところ、私の取材した記事が引用されている。

二十七年十二月三十日付読売紙は、「国際スパイ戦に消された十四名」という大きい見出しで、三橋のレポ佐々木克己元大佐の怪死究明に、同期生が運動を起したと書いている。これは勇気のある例である。(中略)もっとも読売紙はこれらの事件を、同紙の特ダネ記事〝幻兵団〟(ソ連で養成されたスパイ団)に結びつけているが、この幻兵団がキャノン機関の一つの虚構であることは、ほとんど

間違いないとされている。

これは一体どんなことなのだろうか。佐々木元大佐を殺させたのはキャノン機関であることは明らかだ。だが、同氏を最初に〝脅迫や威圧でスパイ化〟させたのはアメリカだろうか。ソ連だろうか。そして「消された十四名」の記事に現れた人たちも、最初に一撃をくれた下手人がソ連のNK(エヌカー)で、止めを刺したのはアメリカのNYKビルだといってはいけないだろうか。

米ソのスパイ泥合戦に、日本人が道具として使われている! これほど不当な人間に対する侮辱があるだろうか。敗戦日本に対して、人類の名において、戦争犯罪人を裁いたのは、この両国ではなかっただろうか。

この驚くべき事実は、ここに、はしなくもその泥合戦の舞台、鹿地・三橋事件でバクロされてしまったのである。

しかもこの問題を辿れば、NYKビルにファイルされた七万人の引揚者の将来に訪れるかも知れない運命を、既に現実に迎えて非業の最後を遂げた十数柱の墓標がある。

私はここに一国民の憤りをこめて、静かなる冥福を祈りつつ、この実相を紹介したい。

昭和二十二年九月の、或る夜の出来ごとだった。

その夜の宿直だった復員庶務課のN事務官は、MRRC(舞鶴引揚援護局)という腕章のまま

毛布を被って寝ていたが、『大変です、来て下さい』という声に揺り起された。

迎えにきたジープ p.204-205 悲しいスパイ道具の犠牲

迎えにきたジープ p.204-205 "Who killed him?" ... Kyutarou Chiba returned to Japan by Daitakumaru on October 9, 1949. In mid-January, he received a call from the NYK Building. After the interrogation, he hanged himself in his shed on January 24.
迎えにきたジープ p.204-205 ”Who killed him?” … Kyutarou Chiba returned to Japan by Daitakumaru on October 9, 1949. In mid-January, he received a call from the NYK Building. After the interrogation, he hanged himself in his shed on January 24.

その夜の宿直だった復員庶務課のN事務官は、MRRC(舞鶴引揚援護局)という腕章のまま

毛布を被って寝ていたが、『大変です、来て下さい』という声に揺り起された。

復員者の寝ている第三寮に行ってみると、入口には支給の真新しい軍服を着た引揚者が十名ばかりも、彼の来るのを待っていた。

『自殺です!』

プッツリとそう言ったきり、中隊長らしい男が彼を階下の物置部屋に案内した。

——ア、遂に第一号が出たか!

彼はそう思った。CICからの連絡で、復員者の挙動注意が宿直の申し送りにさえなっていたのだった。

上陸してから入浴、着換え、散髪まで済ませたその男は、梁に紐を吊して縊死していた。遣書はなかった。仲間の話によると、乗船した頃から何か悩みがあるらしく沈んでいたという。調べ室から帰ってきてからは、すっかり無口になり、考えこんでばかりいたとのことだった。

調べてみると、家族には『◯ヒカエル』という喜びの電報さえ打っていた。死体は検証が必要だったので、N事務官はすぐ事務室へ戻って、課長の家に電話をかけて知らせようとした。

——なぜ死んだのだろう?

Nはフト電話機から手を放して、彼の自殺の原因を考えてみた。課長に報告する必要もあっ

たからだ。

『一体、誰が殺したのだろう?』

憐れな〝道具〟の第一号は、このようにして消えていった。

二十五年一月二十四日夜九時半ごろのこと、秋田県仙北郡金沢西根村の農業熊堂久之助さん方の小屋で、実弟千葉久太郎(35)さんが、首をくくって死んでいるのが発見された。久太郎さんは二十四年十月九日大拓丸で上陸したが、一月中旬、郵船ビルからの呼出しを受けて上京、二十日に帰郷した。

東京から帰ってきた久太郎さんは、まるで人間が変ったようにおびえ切っており、家につくなり『誰か訪ねて来なかったか』と、かみつくように家人にきいた。

地区署の結論は、郵船ビルの呼び出しから帰郷以来、急激に恐怖に襲われているので、「幻兵団」の強迫観念から縊死したものとなった。果して、誓約書の自供を強いた郵船ビルがおどしたものか、同所での自供を知ったソ連側の圧迫があったのか、その辺は不明だが、何れにしろ久太郎さんも悲しいスパイ道具の犠牲には違いなかった。

そしてまた、さらに悲惨を極めた第三の犠牲者がいる。それが前述した佐々木克己元大佐である。

迎えにきたジープ p.206-207 その命を自らの手で絶っている

迎えにきたジープ p.206-207 Even if I enumerate as I can think of it, more than 10 Soviet repatriates have abandoned their lives that should be happy! What the hell is going on!
迎えにきたジープ p.206-207 Even if I enumerate as I can think of it, more than 10 Soviet repatriates have abandoned their lives that should be happy! What the hell is going on!

二十五年四月六日、「徳田要請(徳田球一氏がスターリン首相に反動は帰さないで欲しいと要請したという問題)」の証人として、国会に喚問された菅季治通訳が、『人間バンザイ、真理バンザイ』を叫んで、三鷹駅付近で中央線電車に飛込自殺をとげたことがある。

なぜ菅通訳は自殺せねばならなかったのだろうか。菅氏は在ソ間の後半期は、極めて積極的な行動をとり、カラカンダ地区という特殊な地区の、政治講習会を主宰した日本側の最高責任者だった。そしてこの講習生は、教育の最後に一人ずつ「幻兵団」の命令を与えられ、彼はその場に通訳として立会っていた。

しかし帰途には、彼は日和見主義者として吊し上げを受けた。徳田問題が起きてからはその対策に腐心して、声明発表など作為的に行動し、遂に証言の信ぴょう性を疑われだしたのであった。菅氏もまた憐れな日本人の一人として死んでいったのであった。

そしてまた、「吉村隊」事件の証人渡辺広太郎元軍曹が、二十四年五月十日に縊死した。更に同年九月二十九日、栃木県芳賀郡の川又雄四郎さんが引揚列車から転落死し、十一月二十六日深更、宮崎県宮崎郡佐土原町の恒吉好文さんが舞鶴入港前夜に入水した。

年が変った二十五年には、関東軍暗号班員松浦九州男元少佐が自殺し、埼玉県所沢市の小暮喜三さんが飛込自殺し、また、元関東庁内務部長中野四郎さんが入水し、高知市の元満鉄錦州

鉄道局露語通訳甲藤忠臣さんが服毒している。

思いつくままに列挙しても、十指に余るソ連引揚者が、幸多かるべきその命を、自らの手で絶っているではないか!

これは一体どういうことなのか!

迎えにきたジープ p.208-209 鹿地・三橋スパイ事件日誌

迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952
迎えにきたジープ p.208-209 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary September 24th to December 29th, 1952

鹿地・三橋スパイ事件日誌

▽昭和二十七年

九月二十四日 米軍による鹿地氏不法監禁という、いわゆる鹿地事件英文怪文書が大阪国際新聞社に送られ、「鹿地事件」がジャーナリズムに取上げられた。

十一月九日 鹿地亘氏(48)=本名瀬口貢、東京都新宿区上落合一ノ三六〇=は、昨年十一月二十五日午後六時すぎ転地療養先の神奈川県藤沢市鵠沼で散歩に出たまま行方不明になっていたが、同氏夫人の池田幸子さん(42)が藤沢署に捜査願を提出した。

十二月六日 日中友好協会内山完造氏(68)と鹿地氏夫人池田幸子さんら近親者が『鹿地氏は米軍に

不法監禁されている。私は六月まで一緒にいた』という元駐留軍コック山田善二郎氏(24)を伴い、港区芝車町六二の左社代議士猪俣浩三氏を訪れ鹿地氏の救出措置を依頼した。

同七日 一年余にわたり失踪していた鹿地氏は同夜八時半ごろ突然新宿区上落合一ノ三六の自宅に帰ってきた。

同八日 猪俣浩三氏は衆院法務委員会で、鹿地氏からの「私は訴える」という声明書を発表した。

同九日 在日米軍スポークスマンは八日夜、鹿地氏が米軍に監禁された旨の日本の新聞報道について、『鹿地氏は二十六年末に尋問のため一時監禁されたが、その後釈放されている』と語った。

三橋正雄氏(39)=東京都北多摩郡保谷町下保谷二三八=が国警東京都本部に自首、当局では電波法違反で取調べを始めたところ『私は米軍の鹿地氏逮捕の真相を明らかにするために自首した』と、自供した。

同十日 鹿地氏は衆院法務委員会で証人に立ち、昭和十三年三月の漢口の国民政府軍事委員会顧問の反戦運動時代から咋年十一月米軍に拉致され、そして釈放されるまでの経緯を証言した。

同十一日 在日米大使館は鹿地氏失踪以来の沈黙を破って『鹿地氏の逮捕は外国スパイの容疑だった』と発表。また国会でも岡崎外相、齋藤国警長官らが衆院法務、参院外務各委員会などで『鹿地氏にはスパイの疑いがある』と言明した。

同十二日 電波管理局では三橋氏の自供により同夜十一時四十五分から三十分間にわたりソ連からの

無電連絡の呼出しのコールサインをキャッチした。その発信地はウラジオストックであることが確認された。

同十四日 国警都本部では三橋氏は昨年五月、某国人の紹介で鹿地氏と知り合い、鹿地氏が米軍に逮捕されるまで都内や江の島電鉄鵠沼駅付近などで、前後六回街頭連絡していたと自供したことを明らかにした。

同十五日 国警都本部は三橋氏が『アメリカにも通報していた』と自供したことから、二重スパイと認定した。

同二十三日 鹿地氏夫妻は衆院法務委員会で、三橋氏とのレポの模様や米軍により沖繩へ連行されたことなどを証言した。

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

迎えにきたジープ p.210-211 鹿地・三橋スパイ事件日誌つづき

迎えにきたジープ p.210-211 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary January 26th to March 14th, 1953
迎えにきたジープ p.210-211 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary January 26th to March 14th, 1953

同二十九日 東京地検は三橋氏を電波法第百十条第一号(免許をうけず無線局を開設する罰則)で起訴した。

▽昭和二十八年

一月二十六日 日本政府は米大使館から鹿地事件について『鹿地氏は本人の依頼により人権擁護の立場から米側が保護したものである』という覚書を受取った。また斎藤国警長官は、衆院法務委員会で、さきに米側が国警へ送った〝鹿地自供書〟を発表した。〝自供書〟は二通(縦書きと横書き)で、縦書きは二十六年十二月二十八日に提出され、ソ連人との関係から三橋氏とのレポに言及され、ソ連秘密情報部と協力、ソ連のスパイをしたことを認めている。横書きは二十七年十月十五日提出されたもので、縦書きのものと大同小異である。

二月七日 電波法違反で起訴されていた三橋氏の第一回公判が東京地裁竹内判事係で開かれた。冒頭陳述で近藤検事は、三橋氏が三人のソ連人と連絡

指示を受け、昭和二十四年一月に米軍に探知され、米軍機関の了解の下にソ連と連絡していたこと、また三橋と連絡した日本人は元陸軍大佐佐々木克己(当時すでに自殺)と鹿地亘であることを明らかにした。

同九日 衆院第一議員会館で「鹿地事件の真相発表会」が開かれ、鹿地氏を監禁したというキャノン中佐邸のコックをしていた山田善二郎氏が監禁の事実を認めると発言、鹿地氏から「なぜ自供書を書いたか」という手記が寄せられた。それによると『ソ連のスパイとして三橋とレポしたという自供書は強制されて書いたものである』ということであった。

同十日 国警都本部では三橋氏の電波法違反の共犯として鹿地氏を取調べるべく、その病状鑑定を行おうとしたが鹿地氏側より鑑定医が不適当として

拒否された。

同十一日 元ソ連代表部員十一名が近く帰国することが判明したが、その中の二名は三橋事件に関連があるのではないかと注目された。

同十二日 第二回公判。

同十三日 東京地裁では鹿地氏に対し、三橋公判の証人として十六日に出廷するよう召喚状を発した。

同十六日 第三回公判。鹿地氏は病気と称して出頭延期を申出た。

同十九日 第四回公判。三橋被告に指示を与えていた三ソ連人はクリスタレフ、リヤザノフ、ダヴィドフの三名であることが明らかにされた。

また東京地検では、さきに参考人として元ソ連代表部員リヤザノフ、ダヴィドフ両氏に召喚状を発していたが、その召喚状が外務省へ返送されていることが判明した。

同二十一日 第五回公判。

同二十三日 第六回公判。

同二十四日 衆院法務委は鹿地、三橋両氏を喚問、対決させることを決定した。

同二十六日 第七回公判。法務委では、さきに米側に対して再質問書を提出していたが、再び『鹿地氏を監禁したものではない』と回答があった旨発表した。

同二十八日 法務委では鹿地氏の病状悪化のため、三橋氏との対決をやめ、三月七日に三橋氏のみ喚問することを決定した。

三月四日 第八回公判。

同六日 第一回現場検証(ソ連人とのレポ関係)

同九日 第二回現場検証(三橋の住居関係)

同十日 第三回現場検証(鹿地関係)

同十四日 第九回公判。懲役六ヶ月の求刑。

迎えにきたジープ p.212-213 日誌つづき あとがき

迎えにきたジープ p.212-213 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary March 20th, 1953 to November 17th, 1954. Afterword (continued)
迎えにきたジープ p.212-213 Kaji / Mitsuhashi Spy Case Diary March 20th, 1953 to November 17th, 1954. Afterword (continued)

同二十日 第十回公判。懲役四ヶ月(未決八十日算入)の判決言渡しがあり、また三橋被告は保釈となって小菅を出所した。

四月二十八日 鹿地氏は「静養のため姿を消す」と失踪宣言を行った。

同二十九日 国警都本部では、鹿地氏の失踪を確認、電波法違反容疑の逮捕状を請求した。

五月八日 鹿地氏から猪俣氏宅へ、六日付中央局消印で、「三橋との対決に備えて静養する」旨の私信が届いた。

同九日 鹿地氏へ逮捕状が発せられた。

八月四日 法務委で両氏の対決が行われ、三橋氏は会っていると証言、鹿地氏は一面識もないといい張った。

同五日 法務委では「鹿地不法監禁事件」の新証人として板垣幸三氏を喚問した。

同七日 法務委では、「鹿地氏が不法監禁された疑いがあり、特に平和条約発効直後の日本政府に何ら監禁の通告がなかったことは遺憾である」との結論を出した。

九月九日 鹿地氏は電波法違反容疑で書類送検された。

十月十七日 東京高裁で三橋被告に控訴棄却の判決があり、被告は最高裁へ上告手続をとった。

十一月二十七日 東京地検では鹿地氏を電波法違反の共同正犯容疑で起訴した。

▽昭和二十九年

十一月十七日 三橋被告は九月十七日最高裁への上告を取下げ、十月八日から府中刑務所に服役中であったが、満期出所した。

あとがき

この数冊の「東京秘密情報シリーズ」は、私のライフ・ワークにもと願ってまとめあげたものである。それだけに、大袈裟にいうならば、私の十年余の記者生命をかけているつもりである。また、いろいろの意味の反響は、充分覚悟もし計算にも入れているつもりである。

私に、この著をまとめさせたものは、ただ一つ、「真実」をできるだけ多くの人に知ってもらわねばならない、という気持である。

「真実」を伝えるということは難かしい。私が長い間お世話になっている読売新聞の『われらは真実と公平と友愛を以て信条とする。それが平和と自由に達する道であるからだ』という信条は、実に立派な言葉である。これをみる時、私は顧みて恥しい思いのすることがある。しかし、この著での「真実の追及」という、私の根本的な執筆態度は認めて頂きたい。

私は左翼的な立場の人々からは〝反動記者〟と罵られつづけてきた。それは、私が「真実」に対して眼をつむり、彼らの御用記者となって、そのアジに乗らなかったからである。

良い例をあげよう。私が取材し執筆したいわゆる〝反動的〟な記事の多くは、いろいろな抗議や取消要求を受けた。私はその人たちに進んで会い、その言分を聞いた。再調査もした。そ

して、抗議を蹴り、取消を拒んだ。その結果、私は〝反動記者〟〝デマ記者〟〝職業的ウソつき〟と、彼らの陣営にある新聞雑誌によって、口を極めて攻撃された。また告訴さえも受けたのであった。

迎えにきたジープ p.214-215 雑誌「真相」のインチキ振り

迎えにきたジープ p.214-215 Afterword (continued) It takes courage to report the "truth."
迎えにきたジープ p.214-215 Afterword (continued) It takes courage to report the “truth.”

私は左翼的な立場の人々からは〝反動記者〟と罵られつづけてきた。それは、私が「真実」に対して眼をつむり、彼らの御用記者となって、そのアジに乗らなかったからである。

良い例をあげよう。私が取材し執筆したいわゆる〝反動的〟な記事の多くは、いろいろな抗議や取消要求を受けた。私はその人たちに進んで会い、その言分を聞いた。再調査もした。そ

して、抗議を蹴り、取消を拒んだ。その結果、私は〝反動記者〟〝デマ記者〟〝職業的ウソつき〟と、彼らの陣営にある新聞雑誌によって、口を極めて攻撃された。また告訴さえも受けたのであった。

だが一方、私は同様に多くの、いわゆる〝反米的〟もしくは〝反政府的〟な記事も、それが「真実」である限りは書いてきたのであった。すると彼らはこれを『…日付の読売によれば』というクレジットをつけたり、甚だしい時には自分達の取材によるかの如くクレジットもつけずに引用した。

「国際トバク団」がそうであり、菊池寛賞をもらった「東京租界」がそうであり、続き物の「生きかえる参謀本部」「朝目が覚めたらこうなっていた」などがそうである。

これは一体全体どうゆうことなのだろう。『われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然と戦う。それは民主主義の敵であるからだ』という読売信条に従って、四百万の読売読者が、いや日本国民のすべてが、自由に考え論ずることができるようにと、そのおりおりの「真実」を伝えたにすぎない私なのである。

もう一つ例をあげよう。私が「幻兵団」のキャンペインをつづけていたころ、雑誌「真相」(二十五年四月、第四十号)は、〝幻兵団製造物語〟と題して、これがデッチあげのインチキだ

と攻撃してきたのであった。その中に私個人の経歴がでているが、その方のインチキ振りが甚だしい。引用すると、

三田和夫は東北きっての大地主で、岩手銀行、九〇銀行の取締をやっていた三田義正の孫で、読売盛岡支局から戦時中北支に派遣され、鍋山貞親の子分格でとび廻っていた。その頃、粗製ラン造で有名なサクラ兵器製造をやっていた岡元義人と知合い、いまは女房同志まで行ききするほどの親密な仲となっている。岡元らの持ち出す人民裁判事件をはじめ、反ソ引揚デマ工作にはかならず一役買っている。

と、いうものである。個人の履歴はただ一つしかない。このデタラメにいたっては、もう何もいう必要はあるまい。「真実」ほど大きな説得力をもっているものはない、などと、今更めいた言葉はやめて『御都合主義は止めなさい』と、再び私に加えられるであろうバリザンボウへの挨拶を送っておこう。

「真実」を伝えるということは、また同時に勇気がいることである。それによって不利益を受ける人たちの反撃は、実際に恐いのである。私も本音を吐くならば、この著を公けにすることはコワイのである。不安や恐怖を感ずるのである。だから、何も今更波風を立てなくとも、といった卑怯な妥協も頭に浮んでくる。

私のたった一つの記憶、数年前に父親が実の娘を犯し、そのため彼女は死を選んだという事 件があった。

迎えにきたジープ p.216-217 日本の戦後十年史の一断面

迎えにきたジープ p.216-217 Afterword (continued) That feeling of anxiety, confusion, and fear, whether the jeep is American or Soviet, is not the feeling of an individual, but the feeling of Japan as a whole sandwiched between the US and the Soviet Union.
迎えにきたジープ p.216-217 Afterword (continued) That feeling of anxiety, confusion, and fear, whether the jeep is American or Soviet, is not the feeling of an individual, but the feeling of Japan as a whole sandwiched between the US and the Soviet Union.

私のたった一つの記憶、数年前に父親が実の娘を犯し、そのため彼女は死を選んだという事

件があった。取材に当った私は、これが「真実」だと知った。しかし、罪に戦く父親と、清い心と身体で死んでゆくと遺書を残した娘の気持とを汲んで、私は妥協したことがある。「真実」を伝えなかったのである。

戦後の十年。この十年間ほど、日本が激しく大きく揺れたことはないだろう。そして、私は、その十年間に新聞記者として育ち、いろいろのことを見聞きしては、丹念にメモと資料とを貯めこんできたのだった。その意味ではこの著は、日本の戦後十年史の一断面でもある。

そして、私にとって幸いだったのは、私は一貫して公安関係(左翼、右翼、外事)の取材を担当できたことであった。そしてまた、「真実を伝える」ということのため、私は勇気を奮って、関係者の名前を、実名で登場させたのである。御迷惑をおかけした向もあることと思うが、私の微衷を汲まれ、御寬恕あらんことをお願ひする次第である。

敗戦という始めての経験に引きつづき、外国軍隊の占領、自由世界との講和と、共産世界との休戦という、事実上の「半独立」をも味わうなど、国際的な訓練の全くなかった日本民族は、この十年間に、或は本土で占領軍に阿ユ迎合したり、反抗したり、或はまた外地で捕虜となったりして、投獄され、忠誠を誓ひ、混血児を生むなど、男も女も数限りない辛惨をなめてきたのであった。そして、日本民族は成長した。国際的鍛錬を受けたのである。

民族としての優秀性を信じ、民族としての誇りを取戻したわれわれは、平和を愛する国際人として、世界に対して、新しい眼を見開きつつあるのだ。しかし、その希望に燃えあがる瞳に、まださえぎられたままでいる、〝隠された世界〟がある。

諜報と謀略の世界である。われわれが、自由と平和とを、こよなく愛する国民として、国際人として、明るく生きてゆくためには、この〝隠された世界〟までを見通す、叡智と聰明さとを必要とする。

この「迎えにきたジープ」は、いわばこのシリーズものの序章である。門口に止ったあのジープ特有の力強い爆音! ジープが迎えにきたナッ? と感じた瞬間の、あの不安と混乱と恐怖の感情とは、そのジープがアメリカのものであるかソ連のであるかを問わず、一個人の感情ではなくて、米ソの間にはさまれた日本全体の感情である。

この第一集は、第二集「赤い広場—霞ヶ関」の前篇ともいうべきもので、主として過去の事件が多い。第二集がラストヴォロフ事件から、日ソ交渉にいたるまでの、内幕ものなので、それをうけた、この十年間の、米ソの相搏つ〝声なき斗い〟の歴史である。この経過が分らないと、日ソ交渉も、ラ事件も、正しく理解することはできない。

この一集では、私は何も結論を出していない。ただ、事実と疑問とを投げかけているだけで

ある。他の三分冊と併せて読んで頂けるならば、アメリカとソ連は東京で何をしていったか、何をしているか、また何をするだろうかが、分って頂けることと信じている。

迎えにきたジープ p.218-奥付 あとがき 著者略歴 奥付

迎えにきたジープ p.218-奥付 Afterword (rest), author affiliation, publication information
迎えにきたジープ p.218-奥付 Afterword (rest), author affiliation, publication information

この一集では、私は何も結論を出していない。ただ、事実と疑問とを投げかけているだけで

ある。他の三分冊と併せて読んで頂けるならば、アメリカとソ連は東京で何をしていったか、何をしているか、また何をするだろうかが、分って頂けることと信じている。

そして、この著によって、外国に対する新しい見方が生れることを願い、それが日本のために何らかの形で益するならば幸である。

終りに、私を新聞記者としてここまで育てて下さった竹内四郎報知新聞社長、原四郎読売新聞編集総務の両元社会部長、景山与志雄社会部長、何回かの続き物で直接指導を頂いた辻本芳雄先輩をはじめとする社会部の各次長、また私が警視庁クラブで公安担当に専念するという我儘を許して下さったキャップの福岡俍二先輩の諸氏、また多くの諸先輩、同僚諸兄に感謝し、併せて他の多くの御協力御後援を頂いた諸氏に、あつくお礼を申上げる次第である。

なお、お断りしておかねばならないのは、この著はあくまで私個人の責任において、私の記者生活メモを整理したものであって、読売新聞記者という責任で書いたものではないということである。従ってこの著によって起きてくる問題の一切は、読売新聞社には全く関係がなく、すべて著者個人の責任である。

昭和三十年五月     日ソ交渉全権団出発の日

三 田 和 夫

著者略歴
大正9年  盛岡市に生る
昭和18年 読売新聞入社・社會部記者となる
昭和22年 シベリヤより引揚・復職 法務府・国會・警視庁各記者クラブを経て、現在通産省・農林省記者クラブ詰

迎えにきたジープ
昭和30年7月15日 第一刷 発行 ¥130
著 者 三田和夫
発行者 野老山宏
印刷者 新倉誠一
発行所 東京都千代田区神田神保町3-13 20世紀社 TEL 33-4356
禁無断 転載・演劇 映画・放送

落丁・乱丁はお取替えします
製本 谷島製本

迎えにきたジープ 書籍広告-見返し

迎えにきたジープ 書籍広告-見返し ※鉛筆書きで「200」とあるので、おそらく古本屋で入手したものだろう。著者の手許に自著がまったくなくなり、人に頼んだか、自分で見つけたか、定価130円の本を200円で買ったと思われる。
迎えにきたジープ 書籍広告-見返し ※鉛筆書きで「200」とあるので、おそらく古本屋で入手したものだろう。著者の手許に自著がまったくなくなり、人に頼んだか、自分で見つけたか、定価130円の本を200円で買ったと思われる。

<世界的反響を呼んだ問題の書>

三田和夫著
——東京秘密情報シリーズ——

迎えにきたジープ
—奪われた平和—

赤い広場—霞ヶ関
—山本ワシントン調書—

<近刊>

偽りの赤十字
—何日君再来—

羽田25時
—賭博と女と麻薬と—

——新書判 各¥130——
品切の節は直接本社へ 〒20

※<近刊>として挙げられている『偽りの赤十字 —何日君再来—』と『羽田25時 —賭博と女と麻薬と—』の二冊は、結局、出版されることはなかった。

著者が四部作と表明しているので、未刊行の二冊についても、内容と構成はほぼ完成していたと思われる。とくに『羽田25時』は、既刊二冊の本文中に〝羽田25時参照〟と書かれてもいるので、すでに原稿も完成していた可能性が高い。

この「東京秘密情報シリーズ」は、著者の公安担当記者としての経験と情報とから編まれたものなので、未刊の二冊もそうした内容だったのだろう。

『偽りの赤十字』は、一九五〇年代の日本赤十字社に関わる内容で、サブタイトルが、さまざまに意味づけされた歴史的名曲「何日君再来(ホーリージュンザイライ)」なので、おそらく帰還者事業、とくに中国からの帰還者や、李徳全などにまつわる話だったことが想像される。

また、『羽田25時』は、サブタイトルが「賭博と女と麻薬と」とあるので、独立直後の日本で、わがもの顔で悪事を重ねた不良外人を取り上げた内容が想像される。おそらく、読売新聞で連載し、菊池寛賞を受賞した「東京租界」シリーズの拡大版のようなものだろう。

いずれにせよ、いまとなっては、この二冊が、なぜ発刊されなかったのか、なぜ刊行できなかったのか、理由はわからない。

著者も、その点については、その後に出版された5冊の著書においても、一切ふれていない。