シカゴ・マニラ・上海のギャングたち」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.180-181 第四章トビラ

読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち
読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

米占領軍の、日本政府に対するコントロールには、背広を着た二世やら、ニセの二世やらが登場してくる実態。さらには、日本政府に対する、GHQの〝朝令暮改〟が、実は、ウィロビー少将のGⅡ

(幕僚第二部=情報)と、マーカットのGS(民政局)との、根本的な対立にあることなどを、一番、敏感な司法記者クラブ、さらに、国会記者クラブなどで、肌に感じていた。

と同時に、〝消耗品〟の下級将校ではあったが、軍隊体験があったこと。シベリア捕虜に、知ソ派の陸大出の、佐官級将校がいたりした。また当時は、GHQのカゲの勢力であった、旧職業軍人たちの動向にも通じていた。つまり、当時の〈ニュースの中心〉に、私は位置していたのである。

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

読売梁山泊の記者たち p.182-183 まさに無法状態の中で資産を形成

読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。
読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」

日本の、朝鮮半島や台湾の併合は、それこそ、武力を背景にした強引なものだった。そうした植民地化は、当然の結果として、民族差別を生む。

だから、いまの中年以上の日本人、少なくとも、敗戦までに小学校教育を受けていた人たちには、抜き難いほどの、朝鮮民族や中国人に対しての蔑視感が残っている。

それは、戦時中の教育だけではなく、日本の敗戦によって独立を得た、朝鮮、台湾民族らの、それこそ〝一斉蜂起〟ともいうべき、強圧からの解放感の、然らしめるところもあった。

東京でも、新橋や新宿では、〝暴動〟に近い騒ぎが頻発していた。当時「第三国人」と呼ばれた彼らは、三無原則(無統制、無税金、無取締)によって、経済的優位を確保して、日本中を闊歩していた。

「第三国人」はさらに、「占領国人」や「占領軍」とも組んで、まさに無法状態の中で資産を形成していった。

当時の財テクは、彼らと組むのが一番の近道であった。例えば、国際興業・小佐野賢治は、経済違反で警視庁に逮捕され、送検された時、係の検事が、独学で中年過ぎに司法試験に合格した男と、知った。

検事では、絶対に出世しない立場である。小佐野は、彼を口説いて、「処分保留」の形で釈放させた。占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が、迫っていたのである。そして、検事を退官して弁護士にな

ったその男は同社の顧問弁護士に就任する。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。

さらに、箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。

同じように、占領軍の将校たち——金力の代わりに権力を持った男たちも、旧華族の女性たちに憧れた。だが、権力だけでは女は養えない。金の必要を感じた連中が、第三国人や、被占領国の日本人と組んで、〝悪事〟を働く。

それが、七年間もつづいた。

その結果、日本は、バクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となり果てていた。昭和二十七年四月二十八日、日本は独立国となり、占領は終わった。だが、第三国人や占領国人の「経済特権」には、さらに六カ月間の猶予期間が与えられ、半占領の状態が続いた。

「畜生メ、これじゃ、まるで租界だ!」

原四郎は、デスク会議で呟いた。

「租界」という言葉を、「新潮国語辞典」でひいてみると、こうある。

《居留地。特に中国で、第二次大戦前、条約により、外国人が土地を借り、永久的居住をなし得た地域。現在は消滅》

香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。

日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支

局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。

読売梁山泊の記者たち p.184-185 名誉毀損の告訴状が何十本と

読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。
読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。

香港でさえ、一九九七年には中国に返還される。「租界」とは、すでに死語なのである。
日本が、はじめて経験した〝植民地〟状況が、原四郎をして、こういわしめたのだ。初代マニラ支

局長、東亜部次長という経歴の彼には、米軍占領下の東京は、どう見ても〝トーキョー租界〟であった。

そして、十月二十八日の特権消滅の日に「東京租界」キャンペーンを打とう、というプランが生まれたのであった。

東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた、六カ月の猶予期間が終了する昭和二十七年十月二十八日以降の、三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。

通訳である牧野は、雰囲気を理解するために、オブザーバーとして出ていた。

私のレクチュアは、その時までに、私に蓄えられていた、占領国人たちの、アンダーグラウンドの実情についてであった。バクチ、麻薬、ヤミ、密輸、売春から、それらを資金源とする、諜報の世界について、部長やデスクからの質問が、矢継早に浴びせられた。

こうした会議が数回もたれて、さらに、部長とデスクとの打ち合わせもつづいた。大体の構成がまとまってきて、取材のGOサインが出された。

「イイカ、三田! 奴らから、名誉毀損の告訴状が、何十本と舞いこんできても、ビクともしない、堂々たる取材をやれ!」

原四郎は、それだけいうと、会議の席を立った。

新聞記事の場合、取材が正確で真実の証明ができれば、刑事は免責されるから、原四郎は、それを

「堂々たる取材」といったのだった。

取材記者にとって、こんな嬉しい言葉はない。ウダウダと細かい注意などせずに、一言だけ、「お前を信頼しているゾ」と、そういわれたのである。

九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館(現・日比谷パークビル)という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。取材費伝票を切って、小遣銭はタップリある。私は、そのビルのグリルやバー、レストランやパーラーで、のんびりと構えていた。

長身の私は、一見中国人風なので、取材を終えて富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、靴磨きの少年(いまの豊かな日本では、ホントに信じられないことだが、戦災孤児たちが進駐軍の靴を磨いていた)が、声をかけた。

毎日、米人や中国人の商社まわりをしているうちに、私も、バタ臭くなったのだろうか。ニヤリと笑って、私は、少年に十円札(米国とデザインされている、といわれた十円札があった)を、チップでやった。

〝外事特高のヤマチン〟こと山本鎮彦・公安三課長に、意見具申をしたことがある。

「ネ、課長。三課のデカたちの靴、なんとかしてやんなさいョ。背広もそうだけど、自警会の売店の月賦にでもして、新調させねば…尾行や張りこみで、ホテルのロビーにいたらデカのカンバン出しているようなモンだよ」

読売梁山泊の記者たち p.186-187 夜のパイコワンは素敵だった

読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。
読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。

木幡計・一係長が、然るべく手配したのか、やがて外事警察のデカたちは、相当にスマートになってきた。外で逢ったら、三課のデカとは思えぬほどの若手がふえてきた。——こんなふうにして、〈東京租界〉の取材は進み出していた。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(のちのクラウン)事件は、あとで触れるが、のちのように洋風で、華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイトクラブだった。戦時中、「東洋平和の道」などの、日華合作映画の、主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、食器は小皿の一つにいたるまで、すべて香港から取りよせられる、という凝り様だった。

赤い中国繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の中国じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは、静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って、立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振る舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上がった中国顔で、早口の中国語で、怒鳴っているのかと、思えるほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことに、このマンダリンでみる彼女は素敵だった。私は、北京ダックと長

ネギと、甘酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた薄皮に包む料理を、彼女が手際よく、まとめてくれるのを見ていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドウィッチを、作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと二の腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ボーッと、二匹の魚のように、鈍く光っていた。

「美味しいでしょ?」

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ、十年ほど前ごろのように美しい。彼女も、映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が、彼女の映画をみたのも、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、下腹部にも脂肪がたまり、何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中高年以上の人には、昔懐かしい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい〝伝説〟がある。

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

読売梁山泊の記者たち p.188-189 「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?
読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。
ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

狂気のように、中尉を求めたパイコワンがたずねたずねて、上海の機関本部へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸(売国奴の意)として、中国を追われた彼女は、日本へ入国するために、米人と結婚し、中尉を求めてきたのだ、と。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた、日本へ移り住んだ、ともいう。

私に、その物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終わるのを待っていた。

「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

そう呟いたきり、否定も肯定も、しなかった。だが、何か隠し切れない感情が、動いているのを、私は見逃さなかった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心

のカゲがのぞいたのか?

中国に、中国人として生まれて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり日本の恋人の、面影を求めて、新しい植民都市・東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと、疑っている官憲が、その挙動を見つめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は、新聞記者という立場も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人を、見つめていたのだった。

このマンダリンの主役のもう一人は、ウエズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼は、その富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると、小心らしくあわてた。彼は保全経済会のヤミドルで捕まったり、そのあげくに、国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンジのヤミで、逮捕状が待っている。

「オウ、そんなことありません。それよりもワタクシ、まだ、ゲイシャ・ガールみたことないです。アナタたち、案内して下さい」

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に、堂々と事務所を構えている。

〝租界を彩る人たち〟は、無国籍の白人ばかりではない。それに協力する日本人たちもいるのである。

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ った。

読売梁山泊の記者たち p.190-191 人品いやしからぬ日本人の老紳士

読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念ながら御期待にそえませんナ」
読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念念ながら御期待にそえませんナ」

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ

った。

彼女の〝客〟のほとんどが、〝東京租界〟人であった。そして、私の有力な情報源であった。もちろん、彼女は、自分の担当事件の話を洩らすのではない。

すでに、司法記者クラブ一年の経験を持っていた私の質問は、弁護士法スレスレの角度から、彼女に向かって放たれていた。やはり租界の実情に通じているだけに、被占領国人としての義憤を感じていた彼女は、私に、多くのサゼッションを与えてくれた。もはや、女性弁護士と新聞記者の関係から、親しい友人であった。

…その彼女は、サヨナラも告げずに、私の前から姿を消した。弁護士会を退会して、彼女の依頼人だった、近く米国籍を取れる無国籍人と結婚し、海外へ旅立っていった。長身で美貌なだけに、打ちひしがれた日本人には、伴侶を見出せなかった、のかも知れない。

人品いやしからぬ、日本人の老紳士の訪問も受けた。アメリカのヤミ会社の顧問だ、というのだ。調査をやめてくれという。

「何分ともよろしく。これは、アノ……」

さし出したその封筒には、現金が入っている。相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。

「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残

念ながら御期待にそえませんナ」

皮肉な言葉と表情で、相手のろうばい振りを見つめてやるのだ。

日本の弁護士から電話がくる。何時にアメリカン・クラブで会いたいという。出かけてゆくと……。

「フーン。若いナ。君は去年あたりの卒業生かね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ」

社の幹部を、親し気にクン付けで呼ぶ種類の人たち。このような人には、こちらもインギンブレイで答える。誘惑と恫喝と取材の困難。

「お断わりしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を、獲得するということに御注意を願いたい」

彼は、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生まれ、妻はハルビン生まれ、息子は上海生まれという、家族の系譜が、彼を物語る。

「御参考までに、申し上げますが、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく」

彼は時計の密輸屋である。そして、彼もハルビン生まれで、妻は天津ときている。

私と牧野拓司とのコンビで、取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や

不法行為のメモが、つづられていた。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

読売梁山泊の記者たち p.192-193 独立間もない日本の首都に魔手を

読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。
読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。

私と牧野拓司とのコンビで、取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や

不法行為のメモが、つづられていた。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れていた。

国際ギャングによる日本のナワ張り争い

昭和二十七年六月十九日付読売朝刊は、匿名の外人記者のレポートを、トップで掲載した。おもしろいものなので、再録してみよう。

《銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ外人を主体としたクラブ組織というだけで、複雑な治外法権然とした実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。

この事件は、外人記者間でも注視を浴び、事件前早くも取材が続けられていたものだが、その一人(特に名を秘す)は、十八日、本社に、次のような、驚くべきリポートを寄せた。

これによると、同賭博場は、フィリピンから流れてきた、世界的博徒によって作られたことが、明らかになったが、このほか東京には、かつてのアメリカの有名なギャング、アル・カポネの残党と、上海から乗りこんだ中国きっての博徒が三巴の縄張り争いを続け、国際的なスケールで、独立間もない日本の首都に、魔手をのばしている、といわれる。

膨大な金力を背景とする、これら企業家たちは、「犯罪の植民地」化のために、いかに東京を狙って

いるか、以下はその秘密情報…

こんどのマンダリンの秘密賭博クラブに対する、警視庁保安課の早急な解答がなければ東京はやがて、本拠を戦前の上海、戦後アメリカ治下のマニラ、アメリカの賭博連盟本部シカゴの三都市におく、国際賭博団の凶手におちてしまうだろう。

国際商社にとって、対日投資が有利だ、というニュースが伝わると、彼らはすぐやってきた。投資に有利なところは、賭博に好都合に違いないからだが、着くとさっそく、賭博場の設立許可をうるために、東京の官憲諸方面に、わたりをつけにかかった。

ある博徒が記者にいった。「どいつにも握らせてあるから、大丈夫さ。外務省に至るまでね」

これはあとになって、本当でないとわかったが、これら国際博徒たちが、いかにえげつない方法をとるかがわかる。読売新聞の記事で、クラブ・マンダリンが閉鎖された当夜、親分モーリス・リプトンは、閉鎖の理由を聞かれて、「なに、明日の晩には開いてみせるよ」と、答えた。これは彼個人の単なる誤解だが、日本の警察としても、「私有クラブ」を、妨害するわけにはいかない。

リプトンは、日本における拳闘、その他娯楽の世話役だが、テッド・ルーインと協同して、クラブ・マンダリンを賭博場として開設した。ルーインはフィリピン賭博界の重要人物で、六月はじめ、東京「私有クラブ」の特殊賭博機械を仕入れるため、サンフランシスコに赴いたところを、逮捕された。

リプトン、ルーインの博徒に対抗する勢力に、ジェィソン・リー(李)という、ニューヨーク生れ

の朝鮮人二世がいる。リーは「ワシントン秘密情報」で有名な、レイト、モーティマー共著の、「シカゴ秘密情報」にも登場している、シカゴの東洋人地区の賭博の総元締で、カポネ一味に一定の貢物を納め、賭博場開設の指令を仰いでは、各地に出張する男である。

読売梁山泊の記者たち p.194-195 ホテルの一室を借りて賭博場とする

読売梁山泊の記者たち p.194-195 中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。
読売梁山泊の記者たち p.194-195 中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。

リプトン、ルーインの博徒に対抗する勢力に、ジェィソン・リー(李)という、ニューヨーク生れ

の朝鮮人二世がいる。リーは「ワシントン秘密情報」で有名な、レイト、モーティマー共著の、「シカゴ秘密情報」にも登場している、シカゴの東洋人地区の賭博の総元締で、カポネ一味に一定の貢物を納め、賭博場開設の指令を仰いでは、各地に出張する男である。

東京では、外務省と目と鼻の先にある、某生命ビルを根拠とし、シカゴ連盟から、五、六千万ドルも貰っているといわれ、東京でも一番金回りのよい博徒だ。そして、現在はマンダリン・クラブと、公然と対抗すべく「中央クラブ」の二階を借りうけ、新しい秘密クラブの設立を目論んでいる。

ところが、東京の事情はちょっと面白く、ルーイン、リプトンとリーの二組に対して、もう一つ、中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。東京都内の大抵のクラブに顔を出しているが、築地のクラブ・リオ、並木通りのVFWクラブ、料理店ケーシー、著名中華料理店などが、ワンの非公式本部だ。

彼の東京における資本金は、二百万—六百万ドルというから、在京国際博徒の中では、一番の貧乏人だが、その組織は、マンダリン・クラブとは少しちがい、ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。客引き女たちは、金回りの良さそうな実業家などをつかまえては、ワンの「個人クラブ」に誘う。この組織は、同類中でも最も〝私的〟で、二カ月ねばってはみたが、記者にも、正体が摑めなかったほどだ。

ワンは、ホテルの一室を一週間借りて、ここを賭博場とすると、すぐまた他の場所に移り、一カ月

間は、元の場所にもどらない。つまり、〝移動式〟なのだ。

記者の調べたところだと、これら三つのグループは、東京という〝賭場〟の縄張りを争っているから、いずれは、流血ざたを呼ぶにちがいない。この場合、流される血は、バクチ打ちだけとは限らない。シカゴの例にみられるように、多くの無辜の人々が、まき添えをくうこともあり得る。

マンダリン・クラブが、はじめて蓋明けした時は、使用人の未経験のため、一夜にして二百五十万円を損したという。だが、最初の晩に儲けたお客たちも、続いてここに出入りするうち、たちまち、儲けた分を失ってしまった。

リーは、東洋人という理由で、シカゴ連盟の東京出張所長に選ばれた。太平洋戦争が終ると、マニラは、アジアにおける連盟の、活動の根拠地に選ばれた。戦争の不幸から逃れようとのぞんでいた無気力な、フィリピン人たちには、パチンコなどなかったので、賭博がすぐに、はやるようになった。今日マニラは、マニラ市民の投げやりな態度に乗じてやすやすと成功をおさめた、賭博師たちによって支配されているが、明日は、これが東京の運命ともなろう》

この寄稿をしてくれた外人記者が、だれであったか、記憶も記録も残っていないので、いまとなっては、分からない。

だが、私の取材は、この外人記者のレポートに刺激されて、三人の〝賭博王〟にインタビューすることであった。そして、三人それぞれに、印象深いのである。

読売梁山泊の記者たち p.196-197 テッド・ルーインと倭島英二

読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。
読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

だが、私の取材は、この外人記者のレポートに刺激されて、三人の〝賭博王〟にインタビューすることであった。そして、三人それぞれに、印象深いのである。

まず、テッド・ルーイン——日本が独立したことによって、出入国管理も、日本側に引き継がれた。連合軍総司令官(GHQ)が、入国拒否者(エクスクルージョン)とした人物のリストは、日本政府によって、同じように指定された。

テッド・ルーインの情報を求めているうちに、ある情報通が教えてくれた。マニラから入国してきた、ザビア・クガート楽団の写真のなかに、ルーインが写っている、というのだった。身分を調べてみると、楽団のマネージャー。

私は、入国管理庁に行って、K事務官(現弁護士)に会った。然るべき紹介は得ていたので、K事務官は気軽に立ち上がって、ファイルのアルファベットを探してくれた。

「オカシイなあ、名前まちがっていない?」

と、彼は、テッド・ルーインのカードを取り出して、呟いた。そのカードには、赤スタンプの、EX CLUSIONが、押されていた。

「ドレドレ…」と、私も、のぞきこむ。しかし、日本入国の年月日が記入されていた。クガート楽団の入国日と一致した。

「ナゼ、入国できたのだろう…?」と、K事務官。「ありがとう、調べて見ますネ」と、挨拶もそこそこに、私は走っていた。

ルーインの代貸しのモー・リプトンが、マンダリン・クラブの段取りをつけ、その実況検分のため、ルーインは、どうしても、日本に入国する必要があった。

フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。

私は、社会党の猪俣浩三代議士に、この件を話して、法務委員会で追及してもらった。その質問通告があった法務委に、本省に戻ってアジア局長になっていた倭島は、政府委員として出席してきた。

記者席にいた私の姿が、その前を通りすぎようとした、彼の視野に入ったのだろう。アジア局長は、一瞬、歩を止めて、私に鋭い一べつをくれた。数日前、局長室で渡り合った若僧の記者が、社会党にタレこんだナ、と、腹立たしい思いだったのだろう。

猪俣委員の質問が始まった。要点を衝いた良い質問だ。ナゼ、エクスクルージョンとGHQでさえ指定した、バクチ打ちのボスが日本に入国できたのだ、と。答弁に立ったアジア局長は、委員長に秘密会を要求して、記者席の私たちは、室外に追い出されてしまい、真相はヤミの中に消えた。

用事を終えたルーインは、日本からサンフランシスコに向かい、そこで逮捕された。

マニラ系のルーインとリプトン、シカゴ系のリーと、取材は進んだけれども、外人記者のいう「上海の王」は、その影すら、アンテナにかかってこない。サイコロ模様のある、金の腕輪をした女の子たちの〝情報〟も、サッパリだった。

国際都市・上海の賭博王というのだから、それは、当然、古くからの秘密組織「青幇」(チンパン)の首領である、杜月笙(と・げつ・せい)の流れを汲む人物であろう、と推測していた。

読売梁山泊の記者たち p.198-199 ルーインの代貸のモーリス・リプトン

読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。
読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。

最近出版された、「中国諜報機関」(光文社)という本を見ても、愛人の江青を毛沢東に捧げた男・康生は、中国共産党の特務のボスであった。そして、杜月笙の友人の虞洽卿(ぐ・こう・けい)という、上海の最大財閥の当主が、康生の主人であった、と、書かれている。

辻本デスクは、「どうした、もうすぐ締め切りだぞ。上海の王をつかまえないと、三題噺にならんじゃないか。早くしろよ」と、矢の催促である。

「南船北馬」という言葉がある。新潮国語辞典によれば、「シナでは、旅行に南方は船、北方は馬を用いることが、多かったことによる」として、方々をたえず続けて旅行すること、とある。

このことは、南方では船、北方では馬を掌握すれば、〝利権〟になる、ということで、それを支配する組織ができることは、洋の東西を問わない。南船を握ったのが、上海の秘密組織「青幇」(チンパン)である。それは、海賊にも通じる。

これに対し、北馬を握ったのが、北京の秘密組織「紅幇」(ホンパン)であり、同様に馬賊にも通じる、というものだ。

戦後のトーキョーの暗黒街を、シカゴ系のアル・カポネ直系のジェイソン・リー、マニラ系のテッド・ルーイン、そして、〝上海のワン〟の三大勢力が、支配権を争奪しようとしている、というのだから、穏やかでない。

そして、リーとルーインの足取りはつかめたのだが、ワンだけは、手がかりがまるでないのである。

上海の賭博王、というのだから、これは、青幇系であるに違いない、と判断したのだが〝青幇東京

事務所〟などと、カンバンを掲げているところなど、ありはしないのだ。

マニラ系のテッド・ルーインには、とうとう、インタビューができなかった。モンテンルパの戦犯収容所の件で、外務省は、ルーインとヤミ取引した。ルーインの密入国(イヤ秘密入国というべきか)を、私の調査で暴かれて、衆院外務委で追及された外務当局は、ザビア・クガート楽団のマネージャーとして入国させていたルーインの、出国を促したらしい。

従って、ルーインには会えなかったが、ルーインの代貸のモーリス・リプトンには、インタビューできたのである。

私の助手は、社会部の牧野拓司記者(のち社会部長)。アメリカ留学から帰国したばかりで、事件モノの経験がないのだから、通訳の仕事が主だった。

芝のマソニック・ビルに宿泊していた彼に、電話でアポ(アポイントメント)を取り、約束の時間に、ビルのロビーで待っていた。

この、マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。陸軍の将校クラブであった、九段の「偕行社」に対するものだった。

そして、戦後、フリーメーソンの本拠地となっていたもの。「幻兵団」事件で、ソ連の情報機関を調べるうち、米国のそれにも興味を持ち、キャノン機関などを知った。この、キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。

読売梁山泊の記者たち p.200-201 〝暗黒街のボス〟などに会うのは生まれてはじめて

読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった
読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった

ところが、牧野君は〝暗黒街のボス〟などに会うのは、生まれてはじめてのこと。緊張そのものである。

と、そこに、まさに、音もなく、ヒラリという感じで、ひとりの男が現われた。いかにも悪役顔をした、モー・リプトンである。

それが、アメリカ・ギャングの所作(しょさ)なのだろうか。やや目深に冠ったソフトを、左手の拇指で、グイとアミダ冠りに持ち上げるのだ。牧野君は、すっかり威圧されてあわてて、挨拶をし、私を紹介した。

だが、この男も、通訳付きの会話には、馴れていないのである。私には、ほとんど目もくれずに、私の質問を通訳する牧野君に、喰ってかからんばかりに、しゃべりまくる。

モー・リプトンの、ヤクザ英語の通訳に苦労しながら、私の質問の返事をすると、矢継早に反問する私の質問、それをリプトンに通訳すると、早口の彼の反論——。

それはもう、見ていて、気の毒なくらいの牧野君の周章狼狽ぶりであった。もっとも、私は余裕夕ップリ。リプトンが反論のために差し出す証明書の日付けが、話と違っていることを確認したり、彼が、手に握って振りまわす書類の表題が、話と違うことを、彼の手を押さえてのぞきこむなど、インタビューは成功であった。

だからこそ、これらの連中から、告訴状の一本だって、出てこなかったのである。「東京租界」キャンペーンが、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったれ

ばこそ、である。

そして、可愛い子に旅、の古諺の示す通り、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して、身についたのであった、と、私はいいたい。マソニック・ビルを後にした彼は汗ビッショリの姿であった。

それに比べると、ジェイソン・リーのインタビューは、はるかに落ち着いたもの、であった。第一、日本のヤクザの親分クラスにも、リプトン風のガサツな武闘派は少ない。

リーは、物腰の穏やかな、初老の紳士であった。たしか、日比谷の富国生命ビルの喫茶店だかで、コーヒーをすすりながらの、インタビューであった。

私の質問は、さきの外人記者の記事がネタである。しかし、リーは、「私は実業家で、だから、カポネ関係の人たちを知っているし、友人もいる。だからといって、私が賭博師だ、とはいえない」と、言いぬける。

「じゃ、あなたは、日本になにしにきた?」

と、タタミこむと、彼はサラリといった。

「日本という、新しいマーケットで、新しい事業の、なにに可能性があるか、の調査だ」

「で、結果は?」

「私が事業家だ、ということを証明する、現在、進行している事業がある」

読売梁山泊の記者たち p.202-203 〝上海の王〟が安キャバレーをやるだろうか

読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。
読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

リーは、東京の郊外に、「モーテル」を建設中だ、と説明した。いまでこそ、モーテルなどというものは、国道沿いに乱立しているが、この時、日本の活字媒体に、はじめてモーテルが紹介された。

「…モーテルとはモーターホテルをしゃれた意味で、郊外にドライブしたまま、車もろともに泊まる旅館で、一階がガレージ、二階が寝室といった構造のもので、いわば、アメリカの温泉マークである…」

リーの話から、とうとう、シカゴ系の賭博王という記事は、書けなかった。リーが、東京に賭博場を開くのに、適当な場所はないかと、相談を持ちかけられた、といわれる日本人も、その証言を拒んだからである。

つまり、モー・リプトンより、リーのほうがはるかに、〝大物〟であったのである。そして記事には、リーが建設中のモーテルの写真を入れて、「伝聞」でしか書けなかった、オトナシイ記事になった。もちろん、建設現場の写真を入れたのだから、現場を調べたのだが、とうてい、賭博場に転用できる設計ではなかったのだ。

戦後史の闇に生きつづけた上海の王

さて、こうなると、いよいよ〝上海の王〟のインタビューである。辻本デスクには、ハッパをかけられるし、連載開始日は迫ってくるし、私もいささかあせり気味であった。

そのような時、頼りになるのは、サツまわりと呼ばれる、入社三~四年目。地方支局で一通りの〝記

者修行〟をさせられ、本社勤務に戻ってきた、若い諸君である。

新橋、銀座の一帯を担当する、愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、銀座を担当する築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。

すると、愛宕署まわりがいう。

「新橋の土橋のところに、黄色会館という、三階建てのビルがあり、一、二階が、ビッグパイプという、キャバレーなんです」

「ああ、大きなパイプのネオンをつけ、開店日に、三階の屋上から、十円札をバラまいたという、アレかい?」

「エェ、そうです。その、十円札のバラまきは『いずみ』(注=社会面左下隅のミニ・ニュース)に書きました」

「ウン、読んだよ。それで知ってるンだ」

「あすこの社長は、中国人で、確か、ワンといったと思います」

「へエ、じゃ、調べてみるか」

と、局面打開の途が、開けたようだった。しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。

——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!

読売梁山泊の記者たち p.204-205 「ウーン、オカシナ奴だな」

読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」
読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」

しかし、〝上海の王〟ともあろうものが、十円札をバラまくような、安キャバレーをやるだろうか。
——イヤイヤ、さきの匿名外人記者の記事にも、ワンは、ナイトクラブの日本娘を、客引きに使って

いる、とあったではないか!

私は、この〝情報〟に、最後の期待を托したようだった。

——ウン、そのキャバレーの女の中に、サイコロ模様の金の腕輪の女が、まぎれこんでいるかも知れない!

サツまわりから、「社長は、黄色合同株式会社の王長徳」と、電話がきた。

「…どうも、左翼系らしいですよ。自由法曹団の布施達治弁護士と親しく、宮腰喜助、帆足計両議員の中共訪問に、資金を出した男、といわれてますよ。…ア、そうそう、あの黄色会館は、違法建築だ、といわれています」

私は当惑してしまった。

中共に追われて、日本へやってきた〝上海の王〟と呼ばれる博徒が、〝左翼系らしい〟といわれるような、派手な動きをするのだろうか。その上、当局に注目されるような、違反建築をやらかす、とは!

いまの土橋あたりは、もう埋め立てられて川はない。数寄屋橋と同じように、土橋も、地名だけで、橋はなくなっている。新橋から銀座、東京駅前には、ドブ川があって、これが埋め立てられ、高速道路と、銀座はコリドー街。もとの、読売本社前、いまのプランタンと、有楽町駅の間の、高速道路下の食堂街も、みな、ドブ川の埋め立て地だ。

その河川敷を、都に貸してほしい、材料置場にする、という陳情に、王長徳が現れたのは、昭和二十五年の三月、当時、改進党代議士だった、宮腰喜助が同道してきた。

だが、電話でアポを取り、黄色会館三階の社長室で、会った。恰幅の良い、中国顔の男だった。私は単刀直入に切りこんだ。

「私たちは、〝上海の王〟と呼ばれる、バクチ打ちの親分を探している。あなたも、ワンだが、〝上海の王〟というのは、あなたか」

「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」

「……」

さすがの私も、唖然として、次の質問が出なかった。リプトンは、ニセの書類を、次々に出しては、「貿易商」を装うことに失敗したし、リーは、これまた「事業家」としてはチャチなモーテルの建設で、シカゴのボスを否定した。

つまり、〝上海の王〟も、同じように、日本では法律で禁止されている、賭博場の経営を、当然、否定するであろう、とばかり、思いこんでいたからである。

それなのに、真ッ正面から、〝上海の王〟を名乗り、ある意味では、〝上海の王〟であることを、気取ってさえいるのである。このようなタイプの男は、「東京租界」の取材をはじめてから、はじめて出会ったからだ。

「ウーン、オカシナ奴だな。自分から名乗りをあげるなんて…。ホントに、認めたんだろうナ」

「まさか、私がウソの報告をしますか。牧野君も同席していたし…」

読売梁山泊の記者たち p.206-207 「東京租界」の第一回は王長徳

読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」
読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」

「で、金のサイコロ模様の腕輪は?」

「ウチで、外人記者のレポートで、その秘密を書いたので、止めてしまったと」

辻本デスクは、ふたたび、ウーンと唸って考えこんだ。

「どんな男だ? 日本における、過去の警察沙汰は、あるのか」

原四郎部長も、部長席から立ち上がって、私たちの話に加わった。

「ですが、私は、〝上海の王〟ではない、と思うのです。その最大の根拠は、都庁の外事課で調べた、彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国となっています。

つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をしていますし、中共に追われて日本にきたワケではないし、十一歳で、上海でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」

辻本デスクは、まだ、考えこんでいる。

「しかし、終戦時の混乱で、多数の外国人が密入国してますし、パスポートではなく、進駐軍の認めた証明書で、旅券代用になっているケースもあるんです。この、外国人登録証だけを、全面的には、信用できないのです」

「ウンウン。で、政治家との関わりは、事実あるんだな」

「どういう〝金〟なのか、ともかく、政治家や、自由法曹団の弁護士にも、献金しているようです」

「ヨシ、〝上海の王〟ではなくとも、話題性で取り上げよう。十一歳でビッグパイプという、アダ名を持つバクチ打ち、ということは世にもロマンチックな話…と、アホラシい記事にすれば、部長。案外、

オモロイかも…」

こんな経緯で、「東京租界」の第一回は、王長徳をオチョクッた記事でありながらも、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい縄張り争い銀座を舞台の第三国人」と、独立日本の現状報告として、シビアな記事にまとめられた。この王長徳なる人物、それ以来、それこそ山あり谷ありの、波瀾万丈の業績を積み重ねて、現在も、東京にいるのである。

のちに判明したことであるが、この読売記事を持ち歩いて、企業をオドシたりして、事件になり、服役したこともある。

私には、土橋のあたりを歩く時、あのドブ川とともに、黄色会館(のち、強制撤去)のあったあたりを、懐しく眺めたりする、想い出の取材であった。

さて、こうして、「東京租界」キャンペーンは、国際バクチと、シカゴ、マニラ、上海の三都市の代貸したちの暗闘、という、ドラマチックな展開でスタートした。

と同時に、その反響も大きかった。国内的な反響ばかりではなく、それは、独立国日本の、最初の〈占領政策批判〉であり、かつ、打ちひしがれていた、警察への〈叱咤激励〉であった。同時に、国民に対して、独立国の誇りと自信とを抱かせるものとなった。

読売梁山泊の記者たち p.208-209 警視庁当局の国際バクチの摘発

読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。
読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。

警視庁タイアップの華麗なスクープ

その、裏付けともいうべき、警視庁当局の自信に満ちた、国際バクチの摘発があったのは、翌昭和二十八年三月十七日の、クラブ・マンダリン事件であった。

その一階こそは、秦の始皇帝の後宮とは、かくやとも思わせる、豪華なレストランではあったが、二階は、モーリス・リプトンら、マニラグループの支配する、国際バチク場であったのである。

この摘発には、私は、警視庁防犯部の〝最大の協力者〟であった。私というよりは、読売新聞というべきであろう。私をキャップに社会部記者、警視庁クラブと本社遊軍との合作で、大摘発が成功した。スクープとは、当局から、特ダネのネタを頂くことではない。

「ア、三田さん? オタクでは、ジャパン・タイムズ、とっている? 社会部にはなくとも、外信部にあるでしょう?」

電話の主は、いきなり、こう切り出した。まだ、現職にあるといけないので、名前は伏せるが、英語に強いジャーナリスト。「東京租界」キャンペーンで知り合った日本人。彼は、その朝、ジャパン・タイムズをひろげていて、〝気になる〟広告を見つけた、というのである。

それは、銀座のチャリティ・パーティー。会場がマンダリン・クラブとあるのに、〝ひっかかった〟と、話す。

社会部記者の花形は、むかしは、警視庁クラブであった。各社とも、サツ廻りを卒業した、若手の俊秀を注ぎこむ。

コロシの一課(刑事部捜査第一課)担当は〝コロシの○×さん〟と呼ばれて、新人記者から、崇敬の視線を注がれるが、その日常生活は、一課刑事と親しくなるための、あまり、知的なものではない。

それを、横眼に見ながら、〝二課記者〟は呟く。「フン、コロシか。オレたちは、知能犯担当だもンな」

さらに、それを、鼻でセセラ笑うのが、公安記者である。「知能犯? どうせ、サギ師ダロ? 公安は、思想犯と外事なのさ。国際犯罪ッてのは、インターナショナルなンだ」

まさに、メクソ、ハナクソを嘲うの類だが、外事・公安担当だった私は、この電話を受けて、緊張した。広告の現物を見ると、もう、数日後に、そのチャリティ・パーティーは迫っていた。

女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。

街角で、「難民救済にカンパを」と、募金箱を突き出す連中。アレと同じように、目的不明のチャリティなのである。一日、二日と情報を集めてみて、名前の出ている、聖母病院も、関知していないことが、明らかになった。

「部長、東京租界の続きで、オモシロイのが手に入りました」

原部長も、あの、眼尻の下がった、可愛い笑顔で、ウン、ウンと私の報告を聞く。

読売梁山泊の記者たち p.210-211 秘密を厳守させるという〝部長命令〟

読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」
読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」

「…で、どうするつもりだ?」

「キャップ(警視庁詰め主任)には、もちろん、報告を入れましたが、警視庁クラブ中心で動くと、他社に気付かれる恐れが、あると思います。デスクを決めて頂いて、本社の遊軍記者中心でやりたい、と思います。…これが、英文紙に載った広告です」

私は、東京イブニング・ニュース紙と、ジャパン・タイムズ紙の広告を出した。

「モンテカルロの夜! 楽しいゲーム、期待にみちた、ゲームの数々! 楽しく遊んで、しかも、意義ある目的につくせよ!」

この広告の元(もと)原稿を、両紙の内部で調べてみると、「外人のみ」とあったのだが、両紙とも、広告部がハラを立てていた。

「独立国ニッポンに対して、〝外人のみ〟とはナンだ! 失敬な原稿だ。訂正させろ!」

そのクレームで、「外人歓迎」と、訂正したことを知って、私は、当時の綱井防犯部長の部屋に行っ た。

人柄のいい綱井防犯部長だったので、私はヒマな時など、遊びに訪ねては、ダベったりしていたものだ。

「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」

「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」

部長は、ニヤニヤと笑って、私の次の言葉を待っている。

「警視庁防犯部長として、まさに、〝大〟防犯部長として、歴史に残る仕事サ。それを、三田〝大〟記者が、まとめてきた。…だから絶対に、読売に独占させる、他社に洩れないよう、デカ(刑事)たちにも、秘密を厳守させるという〝部長命令〟を出してもらいたい」

「フーン。たいそうな前触れだナ」と、いいながらも、さすが、警察官である。柔和な眼の底が、キラリと光る。

「大部長と大記者の約束だよ。…イヤなら、オレ、帰るヨ」

「ヨシ、分かった。秘密の保持だナ。約束するよ」

現場の指揮を執る、隣室の上村保安課長が呼ばれた。廊下に出なくとも、部長室に入れるよう、内扉があった。

私は、いままで集めた資料と情報とを、部長と課長に示して、判断を求めた。バクチは保安課の所管であり、上村課長というのは、その道にかけては、大ベテラン。〝さすが〟という、情報を持っていた。

「宝石商を自称している、モーリス・リプトンが、さる十日に、再来日しているんです。そして、白光たちが、リプトンに投資を返してもらって、手を引いたあと、当局の監視が厳しく、この十七日限り、サロン・マンダリンは、閉鎖されることになっていたのです」

「ナルホド。その、最後の夜の十六日に、このパーティーをやる…」

読売梁山泊の記者たち p.212-213 協力して国際バクチを挙げようや

読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。
読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。

私は、英字新聞の広告の、パーティーの日取りのところを、指で示した。

「…リプトンの来日のことは知らなかった。やはり、サツはサツで、見るべきところを押さえているネ。しかし、英字新聞の広告、なンてのは、ブンヤでなきゃ、ネ。サツカンにはムリだよ」

「いやァ、さすがだ、と思いましたよ」

「ヨシ、それじゃ、これで、五分、五分。協力して、国際バクチを挙げようや。部長の前で、上村サン、秘密保持。現場には、読売の記者とカメラの立ち入りを認めてよ。でなければ、読売の独占スクープは崩れるよ…」

「分かった、分かった。じゃ、大記者サン、段取りは、保安課長と打ち合わせて、や」

「ウン。だけど、部長も課長も、夕方になったら、自室を使わないこと。遅くまで、灯がついていたら、スグ、各社にバレる…」

昭和二十八年三月十六日、午後一時ごろのことだった。パーティーは、その夜と、広告には、書かれてあった。

そこで、クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担した次第。しかし、クラブの入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、入り口の、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりして、内部への連絡を絶つなど、綿密な作戦計画を立てた。

私は、電通通りをブラブラしながら、目だけは、マンダリンの入り口に注いで、公衆電話で、上村

課長の直通に、人数を知らせる。

「課長。もう四、五十名は入ったよ。何時ごろの討ち入りだネ」

「そう、はやりなさんな。まだ九時じゃないか。水商売の営業時間の、十一時すぎでないと、やれないよ」

「そうか、じゃ、引きつづき、見張るよ」

「ウン、頼むよ」

そんなヤリトリがあって、私たちはイライラしたのだが、警視庁が手入れをした、と、いうことで、ニュースになるのだから、もう、ここまできたら、保安課長に、主導権を渡さざるを得ない。

ところが、のちに、大問題が起きる——それは、後述するとして、三月十七日付の朝刊の最終版の記事を紹介しよう。

(読売朝刊の記事)

この日、警視庁では、午後六時ごろ、クラブ・マンダリンで「慈善パーティー」を表看板に、賭博を開いていることを察知したが、慎重を期して、午後十一時以降の営業禁止時間に入るのを待ち、これを名目に踏みこむ作戦をとった。

午前零時、上村保安課長指揮の制私服警官三十五名が、「慈善パーティ」とはり紙をしたドアを排して、一せいに飛びこみ、ドア・ボーイが呆然としている間に二階へ。

読売梁山泊の記者たち p.214-215 バクチ場の手入れで場馴れ

読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」
読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」

(読売朝刊の記事)
この日、警視庁では、午後六時ごろ、クラブ・マンダリンで「慈善パーティー」を表看板に、賭博を開いていることを察知したが、慎重を期して、午後十一時以降の営業禁止時間に入るのを待ち、これを名目に踏みこむ作戦をとった。
午前零時、上村保安課長指揮の制私服警官三十五名が、「慈善パーティ」とはり紙をしたドアを排して、一せいに飛びこみ、ドア・ボーイが呆然としている間に二階へ。

とっつきの部屋にある、大きなダイス台を囲んでいた外人客が、あわてて台から飛び離れる。ビールを呑みながら、ふざけていた男女客の顔が、一瞬、蒼白となる間を縫って、警官は手ぎわよく、各グループのそばにつき現場の位置を保つよう、通訳を通じて、命令する。

ダイスの台の上には、いままで続けていたままに現金代わりのチップが散らばり、それを掻き集める熊手のような棒が投げ出されたまま。

厚いカーテンで囲まれた、奥の部屋には、係官も名前を知らない、二種類の賭博台が並び、その前に、動くに動けない客が、一瞬、しおれる。

証拠保全のためのカメラが、活躍をはじめ、パッ、パッとフラッシュがたかれるたびに、客は照れくさそうに顔をしかめ、係官の眼をかすめては、そっと、位置をかえようとするあわてかた。

外人客には、日本語のうまいものが多く、照れかくしに、係官相手に冗談をとばすものや、なかには、「学校へいくのだから、帰してくれ」と、ごねる若い客。

銀座の某キャバレーの名前をあげて、そこの女給と待ち合わせしているから、電話をかけさせてくれと、拝み倒すものなど、色とりどり。しかし、その間にやはり、一人が裏の窓から、屋根伝いに逃げたのが判り、係官をくやしがらせる。

現場写真をとり終わると、こんどは一人一人の、身分証明書の提示を求めて、名前を書きとり、簡単な調べののち、約一時間かかった手入れを終了。

警視庁から、応援にくり出した予備隊(当時は、機動隊をこう呼んだ)の警戒のうちに制服軍人を

MPに引き渡し、他の検挙者には一人に一人の警官をつけて、雪の中を大型トラックにのせて、警視庁へ——。

銀座から、有楽町の本社へもどって、締め切り時間に追われながら書いた私の原稿である。決して、名文ではないが、現場のフンイキは出ていよう。

電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は、課長から「午前0時突入」を知らされていた。

ホンの数分前、課長が、車を降り立つのを合図に、作戦通り、一人の私服が、ドア・ボーイに体当たりした。飛ばされ、尻餅をついたボーイは、ドアから、二、三メートルも離れて、ベルを押せなかった。倒れたボーイを別の私服が押える。

課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が、場内を見まわしながら、叫んだ。

「そのまま、そのまま!」

バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。

「そのまま、そのまま! 動くな!」

さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

読売梁山泊の記者たち p.216-217 上村保安課長は私の抗議を一蹴

読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」
読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「そのまま、そのまま!」
バクチ場の手入れで、場馴れしているのか、その声には不思議な魔力と、威圧感がこもっていたのを、今だに覚えている。場内は、その声のほうに、振り向きはしたが、だれも逃げ出そうとはしなかった。
「そのまま、そのまま! 動くな!」
さっきまで、映画のコマが止まったように、ピタッと動きが止まっていたのに、二度目の声で、我

に返ったように、人びとは、声にならない声をあげたけれども、足は釘付けされたように動かない。

俠客モノの映画などでは、手入れに敏速に反応して、灯を消したり、抵抗したりするのだが、それは、プロだからだろうか。

私の記者人生で、タッタ一度だけの、国際トバクの、現場の手入れは、従来のイメージとは、違っていた。

前出記事を、読み返すと、証拠保全のカメラは、なんか、ずっと遅いようだが、「そのまま」の声と同時に、フラッシュは、パッパッ光り出していたのだ。そして、客たちがほんとうに、我に返ったのは、私服につづいて、制服警官が入ってきて、その姿を見てからだった。その間、わずか、数分の出来事であった。

前出の記事の終わりの部分に、「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。本社で、原稿を書いている私は、警視庁クラブから、直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。

「なんだって、予備隊を動員したんだ。サイレンを鳴らして、本庁から出動したから、各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」

「エエ、現場で、上村とやり合ったのですが、庁内の第一予備隊を呼びやがった」

一足遅れて、マンダリンの二階に上がってきた課長は、四十人近い検挙者に、「これじゃ、手が足りない。予備隊を呼べ」と、係長に命令した。

そばにいた私が、抗議した。「予備隊を呼んだら、各社にバレる。約束が違う!」と。「この人数を見なさい。警官が足りない」と課長。「じゃ、庁内の第一は呼ぶな」「ほかでは、遠くて、時間がかかる。これだけの人数が騒ぎ出したら、一大事だ。ことに、外国軍人がいる!」

上村保安課長は、私の抗議を一蹴した。桜田門から銀座まで、サイレンを鳴らして、第一予備隊が、駈けつけてきた。

「でもキャップ。場内に入ったのは、ウチだけ。写真もウチだけ。仕方なかったンです。各社は、輪転機を止めても、見出し程度しか入れられませんよ」

「そうだナ。マ、よしとするか…」

原稿を出し終えてから、原四郎部長の家に電話で報告した。起きて待っていた部長は、

「十分だ、十分だ。朝刊見れば、ウチのスクープは歴然さ。ご苦労だった。いや、ご苦労」

いつも感ずることだったが、原四郎という部長は、実に、働き易い部長だった。「いいか、新聞記者というのは、結果論だ。書かなきゃダメだし、書いていれば、勝ちさ…」といっていた。

完璧な〝独占スクープ〟の狙いは、外れたけれども、この朝刊の紙面は、努力しただけのことはあった、のだった。

昭和二十七年秋の、「東京租界」の成功が、改めて、〝社会部の読売〟をアピールして、同年度を第一回とする、財団法人・日本文学振興会による、「菊池寛賞」の新聞部門を、原四郎が獲得したのであ

った。